2022/04/03

線文字A・線文字B・絵文字・フェストス円盤 Linear-A Linear-B Hieroglyph Phaestos Disk


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ミノア文明・線文字A Minoan Linear-A

線文字Aの使われた時代

線文字Aスクリプト Linear-A は、紀元前1900年頃から始まるクレタ島中期ミノア文明MMIB期の「旧宮殿時代」から、「新宮殿時代」の最終期である 後期ミノア文明LMIB期の紀元前1450年頃まで使われていた、象形文字を発展させたミノア文明の文字である。

ミノア文明&ミケーネ文明 編年表/©legend ej
クレタ島ミノア文明&ギリシア本土ミケーネ文明 編年表
・ミノア文明・「旧宮殿時代」: 紀元前1900年~前1625年
・ミノア文明・「新宮殿時代」: 紀元前1625年~前1375年
ミケーネ文明(時代):  後期ヘラディック文明 LH期
作図:legend ej

クレタ島ミノア文明の「宮殿時代」
ミノア文明では「旧宮殿時代」~「新宮殿時代」を「宮殿時代」と呼ぶ。それは王が宮殿を建て統治した時期、クレタ島5,000年の歴史の中で最も繁栄して華やいだ約500年間を言う。

旧宮殿時代:中期ミノア文明MMIB期~中期ミノア文明MMII期
紀元前1900年~前1625年頃
新宮殿時代:中期ミノア文明MMIII期~後期ミノア文明LMIIIA1期
紀元前1625年~前1375年頃(クノッソス宮殿 崩壊)

線文字Aが使われ始めた時期は?
イラクリオン考古学博物館 線文字スクリプト研究者 Georgia Fouda によれば、ミノア文明では、 紀元前16世紀の初め、「新宮殿時代」の初期、中期ミノア文明MMIII期頃までには、クレタ島のすべてのミノア居住地で線文字Aが使われていた、とされる。
この意味は、山間部の小さな集落や人口の少ない居住地を除き、クノッソス宮殿と主要宮殿や地方の邸宅を含む特定の場所では、すでに紀元前17世紀より前の「旧宮殿時代」から線文字Aの「記述」が普及していたことを連想させる。



線文字Aスクリプトの出土は何処で?

線文字Aスクリプトは、クレタ島ミノア文明センターのクノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace だけでなく、マーリア宮殿遺跡 Malia Palace や南海岸のミルトス・ピルゴス邸宅遺跡 Myrtos-Pyrgos、最東部のザクロス宮殿遺跡 Zakros Palace やアノ・ザクロス邸宅遺跡 Ano Zakros などから、わずかな点数だが出土している。
そのサンプルとしては、先端が鋭利な器具で文字を刻んだ粘土板を初め、文字が描かれた陶器、あるいは数点だが石製容器にも刻まれた形で出土している。

クレタ島ミノア文明・宮殿群 地図 Map of Minoan Palaces in Crete/©legend ej
クレタ島・ミノア文明・宮殿遺跡 地図
作図:legend ej

クレタ島・中央北部・ミノア文明・遺跡 地図 Map of Minoan Sites, North-Central Crete/©legend ej
クレタ島・中央北部・ミノア文明・遺跡 地図
作図:legend ej

クレタ島・東部・ミノア文明・遺跡 地図 Map of Minoan Sites, East Crete/©legend ej
クレタ島・東部・ミノア文明・遺跡 地図
作図:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東方の丘から展望
遺跡規模=東西180m 南北180m
右方(北)=イラクリオン方面
クレタ島・中央北部/1982年


ミノア文明・マーリア宮殿遺跡 Minoan Pillar Room, Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡・西翼部・支柱礼拝室
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年


ミノア文明・ミルトス・ピルゴス遺跡 Minoan Settlement, Myrtos-Pirgos/©legend ej
ミルトス・ピルゴス遺跡・邸宅遺構/眼下はリビア海
遠方1.7kmの海岸の丘=フォウルノウ・コルフィ遺跡
クレタ島・東部南海岸/1982年




未解読の線文字A

比較的出土サンプルが多い線文字が刻まれた粘土板に限れば、記述時には柔らかな粘土の平たい塊にもかかわらず、幸運にも今日まで残存していた理由は、粘土板を保管していた宮殿の記録保管室、邸宅や聖所などが崩壊する時、火災の高熱で粘土板が陶器のように焼かれ、硬く変質したことで分解や腐食せずに、結果として3,000年以上もの間残されてきた。

ミノア文明のクレタ島では、線文字Aスクリプトが刻まれた粘土板や陶器の出土数は多くはなく、出土サンプルが少ないが故にミノア人の文字に関する研究の進展も遅れ、現在でも線文字Aは「未解読文字」として扱われている。

ミノア文明・カメシオン遺跡・ピトス容器・線文字A Minoan Linear A from Chamesion Settlement/©legend ej
カメシオン(カマイジー)遺跡・ピトス容器の線文字Aスクリプト
参考情報:Xanthoudides 発掘レポート(1906年)
クレタ島・東部/描画:legend ej


ミノア文明・線文字A粘土板 Minoan Linear A from Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡出土・線文字A粘土板
紀元前1700年頃・ミノア文明の文字
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・線文字A粘土板 Minoan Linear A tablet, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡・記録保管室出土・線文字A粘土板
新宮殿時代の後半・紀元前1500年~前1450年
左=イラクリオン考古学博物館・登録番号7/高さ約100mm
右=イラクリオン考古学博物館・登録番号8 (Not to Scale)
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej



線文字Aスクリプトの石製容器

アルカネス遺跡のツルーロス邸宅遺構 Troullos から出土したスプーン型と同じタイプの石製容器(長さ103mm)が、クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画の邸宅からも出土している。
そのほか、アルカネス近郊の聖地ユクタス山の山頂聖所からは、線文字Aスクリプトがわずか「3文字」だけ刻まれた大理石製の同種の容器が、さらにクノッソス宮殿遺跡・東翼部の一階レベルの、エヴァンズの言う「機織り重りの階下」からは、奉納用とされるテラコッタ製の同種の容器が見つかっている。

ミノア文明・アルカネス遺跡・石製容器・線文字A Minoan Linear A, Archanes/©legend ej
アルカネス遺跡出土・白大理石製スプーン型容器・線文字Aスクリプト
イラクリオン考古学博物館・登録番号1545/長さ90mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

なお、アルカネス・ツルーロス地区の邸宅遺構は、ギリシア人の考古学者マリナトス教授 S.N. Marinatos とオランダ考古学チームが調査を実施したスポットである。同じアルカネス市街地の中心部に残る「準宮殿」の遺構に連動する、ミノア文明の上質な建物群と判断されている。



線文字Aスクリプトの金製リング&銀製ヘアピン

かつてミノア時代、クノッソス宮殿の周辺には住民四万人という「クノッソスの街 コノソ ko-no-so」が形成されていた。当然、現在は開発が進み、クノッソス宮殿遺跡の周辺にはミノア人の「市街地」の痕跡はほとんど無いに等しい。
1900年~1904年に実施されたサー・アーサー・エヴァンズによるクノッソス宮殿遺跡の発掘ミッションに続き、宮殿周辺の発掘が広範囲に実施された。
結果、ミノア住民の住んだ家屋遺構も含まれるが、価値ある発掘の多くは中期ミノア文明~最高の繁栄期であった後期ミノア文明の初めの「新宮殿時代」、そしてクノッソス新宮殿の崩壊後に埋葬された「占領ミケーネ人」を連想させる「墓地&墳墓群」からである。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡&周辺 地図 Map of Prehistoric Sites around Knossos Palace/©legend ej
イラクリオン~クノッソス宮殿遺跡 先史文明遺跡 広域地図
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

特に周辺の墳墓群からのミノア文明の宝飾品、陶器や石製印章や象牙製品、さらに「占領ミケーネ人」を象徴する青銅製の宝飾剣や武器類などの出土は、後期ミノア文明と人々の生活と文化を解明する上で極めて重要な意味、「文明の遺産」をもたらした。

例えば、1926年、エヴァンズのクノッソス宮殿遺跡の周辺地区の発掘では、宮殿遺構~東方750m付近、カイラトス川の東側にあった マヴロ・スペリオ Mavro Spelio の墳墓群の、四室で構成された連結横穴墓・9号墓から、ミノア人の文字・線文字Aスクリプトが刻まれた金製リング銀製ヘアピンが出土した。

ミノア文明・クノッソス地区・マヴロ・スペリオ遺跡・連結横穴墓プラン図/(C)legend ej
クノッソス地区・マヴロ・スペリオ遺跡・連結横穴墓
9号墓・アウトライン(プラン図&Y-Yセクション図)
参考情報:Sir Edger John Forsdyke(1926年)
作図:legend ej

連結横穴墓・9号墓内のE墓から出土した金製リングはシールリングタイプ、外径8.5~9.5mm、少しオーバル的な印面に1周半ほどの渦巻線がインタリオ(凹)で彫られ、線に沿って線文字Aスクリプトが渦の中へ回転するように合計19文字印字されている。
リング(輪部分)の内径が13mm、一般論として日常的に指に装着するには内径が「細過ぎる」と考えられ、さらにリングをはめていたと仮想できる指の骨が確認されていない、そしてリングがネックレースの金製ビーズと一緒に出土した点などから、多くの研究者は指にはめたものではなく、ペンダントとして保有されていた可能性などを推測している。

ミノア文明・クノッソス地区・横穴墓・金製リング(線文字A) Linear A on Gold Seal-ring, near Knossos Palace/©legend ej
クノッソス地区・マヴロ・スペリオ遺跡出土・金製リング
印面=渦巻き線&線文字Aスクリプト(凹刻印)
イラクリオン考古学博物館・登録番号530
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

一方、同じ横穴墓からの銀製ヘアピンでは、合計37文字~40文字ほどの線文字Aスクリプトの印字が確認できる。ただ、金製リングと銀製ピンの線文字Aスクリプト体系は微妙に異なると判断されている。
また、リングとピンの被葬者は同じ横穴墓に埋葬されていたが別人とされ、家族・親族関係が推測されている。ただ、知識階級など高位な身分を連想する線文字Aの刻みだが、貴金属の銀のヘアピンであることから、直感的にはこの被葬者は尊貴な女性であった可能性を否定できない。
ミノア人の文字である線文字Aは、未だに完全解読されていない文字体系である。

ミノア文明・クノッソス地区・横穴墓・銀製ピン(線文字A) Minoan Linear A on Silver Pin, near Knossos Palace/©legend ej
クノッソス地区・マヴロ・スペリオ遺跡出土・銀製ピン
ピン表面=線文字Aスクリプト(凹刻印)
イラクリオン考古学博物館・登録番号504/ピン長さ150mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej



ミノア文明・最も古い絵文字/象形文字 Minoan Pictgraph / Hieroglyph

線文字Aより古い文字/アルカネス・文字体系 Archanes Formula

アルカネス遺跡・フォウルニ共同墓地 Fourni、トロス式墳墓Bに連結された「建物6」と呼ばれる埋葬建物からもたらされた、絵文字の刻まれた動物の脚骨製の印章がある。
印章の外観は19mmx13mmx長さ57mmほどの細長い長方体の棒状、四面プリズム型に分類され、そして長方体の上部が「摘み」のやや細い円筒状となっている。素材は動物の脚骨を削り成形したもの、風化が進んでいる。
印章の製作は「旧宮殿時代」より前、初期ミノア文明EMIII期・紀元前2100年~中期ミノア文明MMIA期・紀元前1900年頃に遡ると判断されている。

彫刻が残る印面では、長方体の四側面が各三つの表現スペースに分けられ、それぞれ絵文字の具象が合計12面、さらに両端部・二面にもそれぞれ具象が表現され、印章全体の彫刻スペースは合計14面となり、珍しい多面表現タイプの印章である。
14面のスペースに表現されている具象は、線文字Aのような「確たる文字」ではなく、動物や植物の葉、両刃斧・アンフォラ型容器、「S字・Y字形」・リボン風の抽象的な紋様など、視覚的にほぼ断定できる絵文字 Pictgraph/Hieroglyph と言える。

ミノア文明・アルカネス遺跡・共同墓地・「アルカネス絵文字」印章 Minoan Archanes Script Bone Seal, Archanes/©legend ej
アルカネス遺跡・共同墓地出土・脚骨製の印章
彫刻モチーフ全14面=動物・植物・両刃斧・抽象文様
初期ミノア文明EMIII期~中期ミノア文明MMIA期
サイズ=19mmx13mmx長さ57mm・四面プリズム型
イラクリオン考古学博物館・登録番号2260
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

先史時代の印章研究が最も盛んなドイツ・ハイデルベルグ大学・研究プロジェクト CMS(Das Corpus der minoischen und mykenischen Siegel. Heidelberg U.)では、14面のうち最も刻みが鮮明である三面モチーフ(上描画)は、左面=ウマ(馬)、中面=シカ(鹿)、右面=ヒツジ(羊)、そして幾らかの小具象と断定している。
先史文明の印章&文字の研究者は、特に絵文字の印章出土例が顕著なアルカネス遺跡からの印章スクリプト Archanes Script を中心に表現モチーフを整理、《アルカネス・文字体系 Archanes Formula》として分類・解析を行っている。ただ、この絵文字を線文字Aに含めた見解を提唱する研究者も居る。
既にほぼ解読・判明している絵文字では、人体の部位や動物の具象が最も多く、家屋の部分(ドアー・窓)、野菜を含めた植物の葉、海洋生物なども頻繁に登場している。また、単純な太線や三角形やカーブ紋様なども印面のスペースを埋めるためか、かなり表現されている。

多くの研究者の見解では、この《アルカネス・文字体系》で表現された絵文字/象形文字は、「線文字Aよりやや早い時期にクレタ島で使われ始めた」と考えている。この論説に従えば、《アルカネス・文字体系》の絵文字は、「ヨーロッパ最初の文明」であるミノア文明で「最も早く使われ始めた文字」、「ヨーロッパで最初の文字」と言うことができる。


《アルカネス・文字体系》に含まれる絵文字を刻んだ印章の出土例は、クレタ島のミノア文明遺跡からは大量とは言えないものの、推定類似も含め結構な個数が見つかっている。
特徴的な《アルカネス・文字体系》の、アルカネス遺跡以外の目だった出土例を挙げれば、北海岸のマーリア遺跡出土・四面プリズム型の石製印章、そしてクノッソス宮殿遺跡からは飴色の滑石・ステアタイト製の凸円盤型の印章が見つかっている。
二点いずれのモチーフがすべて共通とは言えないが、多くの絵文字が《アルカネス・文字体系》の絵文字に合致、または近似している。

クノッソス宮殿遺跡からの印章は、初期ミノア文明の末期・EMIII期・紀元前2100年~「旧宮殿時代」の初め頃・中期ミノア文明MMIA期・紀元前1900年頃に属するとされ、一方、マーリア遺跡の四面プリズム型の印章はクノッソス印章より少し遅れた、「旧宮殿時代」~「新宮殿時代」の初め頃に遡ると判断されている。

印面が円形二面のクノッソス印章では、両刃斧と魚と人の脚部、もう一方の印面では立ち樹や植物とアンフォラ型容器などが確認できる。一方、マーリア印章の絵文字では、視覚的には雄牛角や家のドアーか窓、道具のブレード(握り斧)、人の脚部や眼球、植物の葉やリボン紋様などと判断できる。
クノッソス印章と比較するなら、長方形と円形という印面形状の異なりもあるが、マーリア印章の絵文字は数世紀の時間経過の中でかなり洗練され、個人的には横長さ16mmという狭いスペースに表現された、美的な微細アート作品と言える上質なデザイン性さえも感じる。

これらの絵文字が印章の所有者の名前に関連するのか、あるいは流行物や単純な嗜好なのかは分からないが、少なくとも今から3,600年~4,100年前、石製印章を加工したミノア工房職人の技法と美的センスを称賛したい。

ミノア文明・マーリア遺跡&クノッソス宮殿遺跡・石製印章・絵文字 Minoan Hieroglyph Stone Seal, Malia and Knossos Palace/©legend ej
ミノア文明・《アルカネス・文字体系》の石製の印章
左印章=マーリア遺跡出土・プリズム型(四面)
・紀元前1900年~前1600年/横長さ16mm
・イラクリオン考古学博物館・登録番号2184
右印章=クノッソス宮殿遺跡出土・円盤型(二面)
・紀元前2100年~前1900年/滑石製・直径13mm
・Ashumolean Museum (UK)登録番号AN1938-929
※Sir Arthur John Evans 寄贈(1938年)
クレタ島・北海岸&中央北部/描画:legend ej

マーリア遺跡の宮殿区域からの出土では、滑石・ステアタイト製の摘みが加工されたスタンプ型の印章がある。刻まれたモチーフは《アルカネス・文字体系》の絵文字の範疇と考えらえる、少なくとも7器を数えるミノア様式の水差しとアンフォラ容器、そして「鳥」の可能性がある不明な具象とジグザグ紋様などである。
印面は縦幅17mm・横幅28mmの長方形、摘みを含めた高さ18mm、印章の製作は「旧宮殿時代」の中期ミノア文明MMII期・紀元前1800年~前1600年頃とされる。

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡・石製印章・絵文字 Minoan Hieroglyph Stone Seal, Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡出土・《アルカネス・文字体系》の石製の印章
滑石・ステアタイト製・穴&摘み付きスタンプ型
旧宮殿時代・紀元前1800年~前1600年
水入れ&アンフォラ容器/縦幅17mm・横幅28mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号1399
参考情報:CMS, Heidelberg U. (DE)
クレタ島・中央北海岸/描画:legend ej


そのほかでは、最東部のパライカストロ遺跡からも《アルカネス・文字体系》の印章が見つかっている。角部がやや丸みを帯び、印章の表面全体は摩耗と傷も多い四面プリズム型、印面が横&縦幅4.5mm・長さ17mmのかなり小型サイズである。
素材は宝石の緑色系ジャスパー(緑碧玉)、刻まれた絵文字のモチーフは人の腕や眼、皮などを切るブレード(握り斧)、おそらく植物や渦巻き線の表現である。このパライカストロ印章はマーリア印章とほぼ同じ時期、中期ミノア文明MMII期頃の製作とされる。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・石製印章・絵文字 Minoan Hieroglyph Stone Seal, Plaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・《アルカネス・文字体系》の石製の印章
グリーンジャスパー製・プリズム型(四面)
中期ミノア文明MMII期・紀元前1800年~前1600年
人の腕・眼・握り斧など/横&縦幅4.5mm・長さ17mm
Ashmolean Museum (UK) 登録番号 AN1898-1908.AE1774
クレタ島・最東部/描画:legend ej

南西部・メッサラ平野のコウマサ遺跡の円形墳墓Aから出土した滑石・ステアタイト製のビーズ形式、三面プリズム型の印章がある。
長さ17mm、三面の印面には人が歩む姿、雄牛頭をアレンジした形容、さらに渦巻き線と植物の葉の形容などが刻まれている。この印章のモチーフも《アルカネス文字体系》に含まれると判断できる。

ミノア文明・コウマサ遺跡・三面プリズム型の石製印章 Minoan Stone Seal, Koumasa/©legend ej
コウマサ遺跡・円形墳墓A出土・石製の印章
滑石製・三面プリズム型・《アルカネス文字体系》
印面=歩む人・雄牛頭・渦巻き線/長さ17mm
中期ミノア文明MMI期~MMII期・紀元前1800年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号528
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej


ミケーネ文明・線文字B Mycenaean Linear-B

ミケーネ人の文字

87種の絵文字&記号で構成された線文字Bスクリプト Linear-B は、ギリシア本土ミケーネ文明で使われた文字である。線文字Bスクリプトが表記されたサンプルは圧倒的に粘土板として出土している。
線文字B粘土板はペロポネソス・メッセニア地方のネストル宮殿遺跡 Nestor Palace を初め、ミケーネ文明のセンターであったアルゴス地方のミケーネ宮殿遺跡 Mycenae Palace、あるいは中部地方のテーベ遺跡 Thebes など、ギリシア本土のミケーネ文明の主要宮殿が存在した場所から特にまとまって出土している。

なお、ミケーネ人の本拠地は、供給地エジプトから膨大な量の金を輸入、「黄金のミケーネ」と呼ばれたミケーネ宮殿である。
1876年、「宝探しの考古学者」とも言われたドイツ人実業家シュリーマン J.H. Schliemann による、ミケーネ宮殿内部・円形墳墓Aの発掘で出土した《アガメムノンの金製マスク》の例を見るように、ミケーネ文明では「金 Gold」は統治者の象徴でもあった。

GPS
ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A: 37°43′49.50″N 22°45′23″E/標高240m

ミケーネ文明・ペロポネソス地方・宮殿遺跡 地図/©legend ej
ペロポネソス地方・ミケーネ文明・宮殿遺跡 地図
作図:legend ej

ミケーネ文明・ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A・《アガメムノンの金製マスク》Agamemnon's Gold Mask, Grave Circle A, Mycenae Palace/©legend ej
ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A出土・《アガメムノンの金製マスク》
後期ヘラディックLHI期・紀元前1550年~前1500年
アテネ国立考古学博物館・登録番号624/高さ315mm
ペロポネソス・アルゴス地方/1987年

ミケーネ文明・アルゴス地方・遺跡 地図/©legend ej
ペロポネソス・アルゴス地方・ミケーネ文明・遺跡 地図
作図:legend ej

線文字B粘土板のほとんどは、最終的に各宮殿や邸宅が地震や火災などで焼け落ちた紀元前1300年~前1200年頃に属する、現代で言えば公的な「記録簿・データ」のような記述内容である。それはミケーネ文明の宮殿や邸宅の統治の実態、そして経済や財務管理に関する紛れもない記録でもある。

ミケーネ文明・線文字B粘土板 Linear B from Mycenae Palace/©legend ej
世界遺産/ミケーネ遺跡出土・線文字B粘土板
アテネ国立考古学博物館・登録番号12587
ペロポネソス・アルゴス地方
描画:legend ej

ミケーネ文明・ミケーネ宮殿遺跡・ライオン門 Lion Gage of Mycenae Palace/©legend ej
世界遺産/ミケーネ宮殿遺跡・「ライオン門」と分厚い城壁
ペロポネソス・アルゴス地方/1982年

ミケーネ文明・ネストル宮殿遺跡・メガロン形式 Throne Room of Megaron Complex, Nestor's Palace/©legend ej
ネストル宮殿遺跡・「メガロン形式」の王の居室
王の居室の奥部~前の間~控えの間(右上)を見る
「聖なる炉」の側面に「サメの背びれ紋様」が残る
ペロポネソス・メッセニア地方/1982年

クレタ島・クノッソス宮殿で使われた線文字B

線文字Bスクリプトは、ギリシア本土ミケーネ人の文字でありながら、紀元前1450年以降、フェストス宮殿 Phaestos Palace やマーリア宮殿、ザクロス宮殿と各地の高貴な邸宅が崩壊して、ミノア文明が最終期を迎えたクレタ島でも使われ始めた文字である。
ただしクレタ島では、線文字Bスクリプトの粘土板は、紀元前1375年頃に崩壊したクノッソス宮殿遺跡以外からの出土例はない。

クノッソス宮殿はサー・アーサー・エヴァンズが発掘ミッションを行ったミノア文明の最大規模の遺跡で、宮殿崩壊時の火災の高熱で焼かれた状態の微細片を含め、合計約3,000点の線文字B粘土板が出土した。

GPS
クノッソス宮殿遺跡: 35°17′53″N 25°09′47″E/標高95m

エヴァンズのクノッソス宮殿遺跡の発掘では、特に宮殿が直轄管理した西翼部・貯蔵庫群貯蔵庫群の長い通廊の周辺から大量の線文字B粘土板が見つかっている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・線文字B粘土板 Linear B from Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡出土・線文字B粘土板
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/1994年

クノッソス宮殿遺跡の西翼部・貯蔵庫・第3号室とその周辺からは、小麦と並びミノア文明の重要な穀物であったエジプト豆の種子、さらにエジプト豆の保管に関する、いわゆる「穀物倉庫の粘土板」と呼ばれる線文字B粘土板が出土している。「穀物倉庫」は三角屋根の家屋の形容の絵記号として粘土板に刻まれている。

出土した粘土板(KN416)をイラスト描画したが、穀物倉庫の右側に縦線9本と2本の「単位数量」の刻みが確認できる。線文字Bの数値では、「〇=100単位」・「横線=10単位」・「縦線=1単位」となる。
なお、粘土板KN416の表意訳は、「AGREUS(人名?)はフェストス宮殿の倉庫に篩った(ふるい分け)香辛料・9単位、エジプト豆・2単位を保有する/Richard Vallane Janke(2016)」とされる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・西翼部・線文字B粘土板「穀物倉庫」 Linear B from Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・「穀物倉庫」の線文字B粘土板
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

また、小麦と同等に最重要な農産物の一つ、貯蔵庫のピトス容器に収蔵するオリーブ油の情報を記述した線文字B粘土板も見つかっている。
粘土板KN355の表意訳は、「QOTIYA(人名?)はZOA(地名?)にオリーブ油・30単位を保有する(or 破断片=さらに増単位?)/Rita Roberts(2017)」とされる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・西翼部・線文字B粘土板「穀物倉庫」 Linear B from Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・「オリーブ油」の線文字B粘土板
イラクリオン考古学博物館・登録番号KN355
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

貯蔵庫・第8号室で見つかった大量の線文字B粘土板は、いわゆる「(ちょうな・手斧)の粘土板」のグループと呼ばれ、木材の切削や石材を削ぐための青銅製の道具の一つ、鐇(ちょうな・手斧)の「保管個数目録」とされた。
エヴァンズの発掘時の粘土板は、120年前のモノクローム写真を見る限り、石膏石が溶けて冷却・固化した状態の中に混じった感じで出土している。粘土板では、横台形の鐇の絵記号の右側に「在庫数量」の刻み、「30基」・「217基」が確認できる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・西翼部・線文字B粘土板「穀物倉庫」 Linear B from Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・貯蔵庫出土・「鐇(手斧)」の線文字B粘土板
粘土板の周りは溶解・固化した石膏石/イラクリオン考古学博物館
写真情報:発掘者サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
「The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.IV(1935)」
Digital Library, Heidelberg U.
粘土板・描画:legend ej

クノッソス宮殿遺跡の発掘&出土した線文字B粘土板の情報は;
関連Blog情報: ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace V 貯蔵庫

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫 火炎跡 Burn Trace West Storeroom, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・貯蔵庫・第4号室
火炎で焼けた角柱・壁面/地中には収納ピット群
床面にはオリーブ油用ピトス容器&アンフォラ型容器
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王座の間 Throne Room, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・王座の間
火炎で焼けた石製王座&石膏石ベンチ&床面
西~北壁面(西側)フレスコ画=1913年復元
北壁面(東側)フレスコ画=1930年復元
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年


クノッソス宮殿遺跡からの粘土板には農産物に関する記述も多いが、特徴的なのは二輪戦車や軍馬など、誰もが即判断できる好戦的な絵柄の刻みが確認できる点である。文明の性格上からも、これらは戦いでエーゲ海域を支配して来たミケーネ人による記録と判断できる。
このことからクレタ島の線文字Bスクリプトに関しては、状況証拠面から明らかに紀元前1450年頃、ギリシア本土からクレタ島へ侵攻してきたミケーネ人がもたらした文字と言える。

最も良く知られた線文字B粘土板・「二輪戦車」(イラクリオン考古学博物館・登録番号1609/KNSC230)の表意訳では、「鎧をまとった湾岸労働者(人名)は、二頭立て二輪戦車を操縦する/Richard Vallane Janke(2016)」とされる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・西翼部・線文字B粘土板「穀物倉庫」 Linear B from Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・「二輪戦車」の線文字B粘土板
紀元前1450年以降・クレタ島「占領ミケーネ人」の文字
イラクリオン考古学博物館・登録番号1609/長さ約100mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


出土例が少なく未解読のミノア文明の線文字Aとは異なり、ミケーネ文明で使われた線文字B粘土板は、各地から大量に発見されている。
しかし、その解読には時間がかかり、1950年代になり、ようやくイギリスの建築家マイケル・ヴェントリス M. Ventris と言語学者ジョン・チャドウィック J. Chadwick の地道な努力により完全に解読された。これによりミケーネ文明とクレタ島のクノッソス宮殿のミノア・ミケーネ混合文明の多くの部分が解明され、広く理解されることになった。

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線文字スクリプト粘土板は 先史時代の「CD-ROM」

線文字を刻んだ粘土板は、粘土を手ごろな広さに延ばし、ペンのような先端が鋭利な器具を使って、今日の納税にあたる物納品の集計、財産目録や配給実績などを絵文字と記号である象形文字、線文字A/線文字Bで記述したものである。
それはミノア文明とミケーネ文明の政府管轄の記録、現代風に言えば、重要な公的情報や集計データを記録した「CD-ROM」に相当するだろう。

特に出土サンプルが多いミケーネ文明の線文字Bの粘土板は、ギリシア本土の主要な宮殿と邸宅遺跡、そしてクレタ島のクノッソス宮殿遺跡からの出土となる。
クノッソス宮殿遺跡からの線文字B粘土板の出土は、紀元前1450年頃、「侵攻ミケーネ人」がミノア文明のクレタ島を襲撃、複数のミノア宮殿や邸宅が次々に破壊され、最後に残った文明センターのクノッソス宮殿が火災で崩壊する紀元前1375年頃まで、ミノア人に取って代わった「占領ミケーネ人」が、ギリシア本土で使っていた文字をそのままクノッソス宮殿でも使用していたことを裏付けている。


線文字Bはミケーネ文明の早い段階から主な宮殿の公用文字として使用されていた可能性がある。粘土板の材料は何処でも手軽に採取できる自然界の軟質粘土であり、その性質上、野外に放置すれば1週間~数か月間で完全に土と化してしまう。

ミケーネ時代に作成された「生」の粘土板の現物が、3,000年以上経過した現代にまで、変質もせずにそのままの形容で残されることは物理的に不可能であり、現状、ミケーネ文明で線文字Bが使われ始めた時期を断定するのは容易なことではない。

ミケーネ文明・ネストル宮殿遺跡・線文字B粘土板 Linear B from Nestor's Palace/©legend ej
ネストル宮殿遺跡出土・線文字B粘土板
ホーラ考古学博物館
ペロポネソス・メッセニア地方/1982年

材質が乾燥と雨水に弱い柔らかな粘土にもかかわらず、今日まで重要な考古学的な証拠として残存していた理由は、粘土板を管理していた宮殿や邸宅が崩壊する時、火災の高熱で焼かれ、たまたま陶器のように硬く変質した偶然の結果である。
粘土板の表面が硬化したことで、その後、腐食せずに3,000年以上もの間残されてきたことは、考古学研究に於ける奇跡の幸運でもある。

このような理由をして、ミケーネ文明関連の遺跡から出土した線文字B粘土板のほとんどが、主な宮殿や邸宅が火災で崩壊した時、「生」の粘土の平たい塊から「準陶器」へ変質したものであると言える。
ただし、出土サンプルが多いとは言え、比較的早い段階で使用された粘土板は見つかっておらず、ほとんどの粘土板の作成、要するに火災で焼成された時期は、紀元前1300年以降、最も遅くともミケーネ文明が事実上消滅する紀元前1200年頃までとなっている。


線文字B粘土板の新発見/メッセニア地方イクライナ・ツラガネス遺跡

2011年4月、アメリカ・ナショナル・ジオグラフィック協会 National Geographic から興味深い考古学情報が発表された。
ペロポネソス・メッセニア地方のイクライナ・ツラガネス遺跡 Iklaina-Traganes の発掘レポートでは、ギリシア本土のミケーネ文明の線文字Bに関して、過去の考え方への修正の必要性を提唱している。

ミケーネ文明・ペロポネソス・メッセニア地方 遺跡 地図/©legend ej
ペロポネソス・メッセニア地方・ミケーネ文明・遺跡 地図
作図:legend ej

イクライナ・ツラガネス遺跡のピンポイント位置は、ミケーネ様式の「最古のトロス式墳墓」が発見されたメッセニア地方ピーロス地区のコリィファシオン村 Korifasion ~東南東2.5km、ネストル宮殿遺跡~南南東3.7km、港町ピーロス Pylos ~北方9.5kmのオリーブ耕作地である。

GPS
イクライナ・ツラガネス遺跡: 36°59′48″N 21°42′40″E/標高165m

ミケーネ文明・イクライナ・ツラガネス遺跡/Google Earth
イクライナ・ツラガネス遺跡
ペロポネソス・メッセニア地方
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入

半世紀以上前の1954年、ギリシア考古学者マリナトス教授 S.N. Marinatos は、イクライナ村の西方1km付近、地元で「ツラガネス Traganes」と呼ばれる耕作地で実施した発掘調査で、フレスコ画の断片やミケーネ文明の後半期、紀元前1400年~前1100年頃に属する舗装された床面の建物跡や長方形の建物遺構などを発見した。

その後、当地では長らく発掘ミッションがなかったが、1998年~2006年、ナショナル・ジオグラフィック協会の後援、ギリシア考古学協会とミズーリ大学セントルイス校のミカエル・コスモポロス教授 M. Cosmopoulos などが中心となって、イクライナ・ツラガネス遺跡での本格的な再調査が実施された。

発掘ミッションでの特筆すべき発見として、紀元前1450年~前1350年頃に属する線文字Bスクリプトで刻まれた粘土板の出土があった。
粘土板は横40mm、縦25mmの小さな断片だが、表裏面に線文字Bスクリプトが刻まれ、分析では主要宮殿遺跡と同様に資産リストの一部とされている。

ミケーネ文明・線文字B粘土板/©National Geographic
イクライナ・ツラガネス遺跡出土・線文字B粘土板
ペロポネソス・メッセニア地方/横40mm 縦25mm
写真情報:National Geographic

通常、ギリシア本土のミケーネ文明で使われた線文字B粘土板は、アルゴス地方ミケーネ宮殿やメッセニア地方ネストル宮殿など、大規模な宮殿が管理した資産や納税の記録簿のような物であり、今日までの発掘では、上述の通り、「侵攻ミケーネ人」に占領されたクレタ島クノッソス宮殿は別として、本土ミケーネ文明の主要な宮殿と邸宅遺跡などからの出土である。

イクライナ・ツラガネス居住地が、想像の拡大だが、ホメロスの長編叙事詩《イリアス》で記述されたネストル将軍の統治都市の一つ、「アイピィ Aipy」であったとしても、今までの発掘リサーチでは大規模な宮殿遺構が確認されていない。
この言わば庶民が住む「集落的居住地」と言える場所からの線文字B粘土板の出土は「極めて驚きの発見」と言え、注目に値するだろう。

今回発表された発掘情報では、イクライナ・ツラガネス遺跡から出土した粘土板の年代は、過去に発見された本土のミケーネ宮殿遺跡のそれより1世紀以上も早い時期とされる。となると、ミケーネ文明では予想を遥かに超えた文明の初期の段階、紀元前1550年頃から線文字Bが使われていた可能性もある。
あるいは宮殿以外の比較的大きなミケーネ都市、もしかしたらイクライナ・ツラガネスのような小規模な集落的な居住地も含め、ピーロス地方のほかの例では、イクライナ・ツラガネス遺跡~南東5km、私は二度訪ねているが、トロス式墳墓4基が見つかったコウコウナーラ居住地 Koukounara などでも、線文字Bが記録用文字として一般化され使用されていた、と考えて良いのであろうか?

いずれにしても、手に収まるような小さな断片だが、このイクライナ・ツラガネス遺跡からの線文字B粘土板の発見は、今後、ギリシア本土ミケーネ文明の行政管理面の研究や編年、あるいはミケーネ人の文字の読み書きの「普及率」などの考察に大きな影響と新たな課題を与えるかもしれない。

ミケーネ文明・コウコウナーラ遺跡・トロス式墳墓 Mycenaean Tholos Tomb, Koukounara/©legend ej
コウコウナーラ遺跡・トロス式墳墓・4号墓(仮番号)
トロス内部~入口(リンテル石は無し)
ペロポネソス・メッセニア地方/1982年


クレタ島・フェストス宮殿遺跡の《円盤》

未解読スクリプト・《フェストスの円盤》とは?

イタリア考古学チームは、1908年、クレタ島・南西部のメッサラ平野の岩尾根に残されたミノア文明のフェストス(ファイストス)宮殿遺跡 Phaestos/Phaistos Palace から、未解読スクリプトで刻まれた円形の粘土板、いわゆる《フェストスの円盤 Phaestos Disk》を発見した。

メッサラ平野のフェストス宮殿遺跡で過ごした時間
発掘時の状態を保つフェストス宮殿遺跡は、クレタ島で最も広い耕地・メッサラ平野の中、西方から平野へ突き出るような標高差50mの尾根の先端に残されている。
過去に私はフェストス宮殿遺跡を四回訪ねている。いずれも雨が降らないエーゲ海の陽光が最も輝く真夏の時期、メッサラ平野から吹き上がる乾燥した風が吹くフェストス宮殿遺跡で過ごした時間は意義深く、個人的にはそう何回も経験できない充実した時間を過ごした、大げさに言うなら「人生の場所」の一つでもある。

GPS
フェストス宮殿遺跡: 35°03′05″N 24°48′51″E/標高85m

直径約16cm(最小幅15.8cm~最大幅16.5cm)、今からおおよそ3,650年以上前に遡るとされる、この円盤の両面に刻まれた「人の顔」や「歩く人」、「魚」や「花」などのような絵文字に似た不思議なスクリプトは、同時代にクレタ島ミノア人が使っていた線文字Aでもなく、ギリシア本土ミケーネ人が用いていた線文字Bからも縁遠い記号?である。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・「フェストスの円盤」Phaestos' Disk/©legend ej
フェストス宮殿遺跡出土・《フェストスの円盤》
未解読絵記号?/紀元前1700年~前1600年
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・メッサラ平野/1982年

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・「フェストスの円盤」
フェストス宮殿遺跡出土・《フェストスの円盤》
上写真・刻印⇒位置&記号サイズ⇒テキスト転写
描画:legend ej

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡/Google Earth
フェストス宮殿遺跡
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Great Staircase, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・大階段周辺
クレタ島・メッサラ平野
1982年/描画:legend ej

100年以上前、イタリア考古学チームはミノア文明の線文字A粘土板と一緒に、この円盤を宮殿遺構・北東端の「旧宮殿時代」の工房内で発見したとされる。
先史時代の粘土版では、平板や棒状に成形した粘土の塊に鋭利な器具を使って線文字を刻み、乾燥後、ある種の「記録簿」として保管室に収納していた。それが偶然の火災により、粘土版が陶器のように硬く焼かれたために、今日まで形容と線文字A&線文字Bの刻みが消滅せずに残されてきた。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・北東部・旧宮殿建物遺構
左上~中央上:泥レンガ箱型列内から「円盤」が出土
クレタ島・メッサラ平野/1982年

しかし、フェストス宮殿遺跡から出土した円盤は、円形の粘土板を成型した後、色々な絵文字の押し型(スタンプ)で円盤表面に刻印した後、陶器を焼くのと同じように焼成して完成されているように見える。要するに偶然に発生した火災の結果で残された線文字の粘土板とは異なり、人が円盤を作ることを「意図」して焼成したものと言える。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・《フェストスの円盤》 Minoan Phaestos' Disk,  Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡出土・《フェストスの円盤》(拡大)
人の顔・歩く人・魚・鳥・花・輿(こし)などの絵記号
クレタ島・メッサラ平野/1982年

象牙や木製なのか材料は不明だが、先ず合計45種の小さな押し型を製作して、粘土の円盤の両面241か所に刻印してあることから、事前の準備も相当な手間が必要であったはずである。
この円盤1枚だけを作るために、わざわざ45種の微細な押し型を作ったのではなく、宮殿の工房職人は押し型を活用して、現代の活版印刷と同様に円盤の「大量生産」を意図していた可能性も否定できない。ただ、今日まで同種の円盤はクレタ島のミノア文明遺跡からはまったく発見されていない。



円盤の用途は? 疑問符?の残る出土品

円盤の使い方だが、クレタ・ミノアの王侯貴族の上品な「遊び」、例えば現代風に言えば、サイコロを振って出た目と円盤の絵柄を合わせるとかに使った、あるいは祭司・神官が祈祷に用いたとか、色々な研究説が提唱されている。が未だに本来の目的と使用方法は解明されていない。
また、最近では、円盤の絵文字の表記にあまりに「精巧」に作られた押し型が使われていること、その上で円盤の焼成方法(焼き固め)も近代的である、とする幾らかの「円盤偽物説」まで提唱されている。

確かに、同時に出土した線文字A粘土板より、この円盤は遥かに高度で斬新な作品と言って良いレベルの完成度である。また、押し型の数の多さから「大量生産」が仮想ではなく真実であったとするなら、何故か?ほかの遺跡からの発見がないのであろうか? という何か納得できない奇妙な疑問の偶然性を感じてしまう。
同時に出土した線文字A粘土板と比べる時、線文字Aは不可解な刻み記号である一方、円盤の絵記号は刻み記号から派生したとは到底思えないほど、現代人でも連想できるほどの立派な具象絵と言える。

同じ時代、同じ工房から見つかった二つの文字と絵記号の視覚的な「差異」が、工房職人の師匠と弟子の表現力の差なのか、このような大きな落差が「旧宮殿時代」の狭い工房内で極普通に同居することがあったのであろうか?
まさか100年前のイタリア考古学チームの誰かが、ランチタイムを利用してコツコツと「冗談」で製作した押し型を使って、「世紀の大発見」の立役者になろうと円盤を密かに製作して隠匿して置いたとは想定し難いが。
「旧宮殿時代」の末期、中期ミノア文明MMIIB期、紀元前1700年~前1600年頃に遡る作品とされる《フェストスの円盤》に関して、果たしてどの説が絵文字の解読を成し遂げ、エーゲ海先史文明の研究者達を納得させることができるのか?


「新メッサラ考古学博物館」開館
ゴルティス遺跡~西南西1km、フェストス宮殿遺跡~東北東11km、幹線道路N97号脇、2020年、「新メッサラ考古学博物館 New Archaeological Museum of Messara」が開館した。

GPS 新メッサラ考古学博物館: 35°03′36″N 24°56′16″E/標高160m

先史時代の「筆記用紙」・パピルス

ミノア文明やミケーネ文明では、粘土板の記録だけでなく、エジプトや中東諸国の先史文明と同様に、間違いなくパピルス Papyrus に書かれた記録もあったはずである。
ミノア中央政府であったクノッソス宮殿内では、粘土板と線文字Aを使って国家行政上の重要な情報やデータを管理する記録保管庫さえも整えられていた。ただ元々植物の乾燥繊維であるパピルスでの記録は、数千年の年月と共に腐食・分解されて土へ帰ってしまったはずだが。

パピルスは池の畔や湿地に生える背の高い草である。断面が三角形をしたその茎の隋部分の縦状繊維を薄く剥ぎ取り、縦横を交互に重ね合わせて薄布地に挟み、数日間の腐食と圧縮を行い、乾燥させた後、生地の表面を丁寧に平滑に削って完成させる。
パピルスは植物繊維を細かく分解して水で溶かして薄いシートとして作る本格的な紙ではないが、布地のような筆記の素材であり、特にエジプト文明の時代から地中海域のほとんどの文明では、絵や文字を書く羊革紙の代用として盛んに使われてきた。

先史文明の「紙」・パピルス/©legend ej
先史文明の「紙」・湿地帯に生育するパピルス群生&加工後
南アフリカ・サバンナ地帯/2011年

先史時代、間違いなくパピルスはエーゲ海クレタ島でも生育していた。ミノア文明の多くの遺跡から出土する、特に大型陶器類の絵柄モチーフとして、パピルスはツタの連鎖文様などと同じく植物性デザイン陶器の表現に頻繁に登場する。
クレタ島で無数に生育していた身近な植物であったパピルスの加工方法は、先進のエジプト文明などから伝わり、ミノア文明でもパピルスの「紙」が作られ、公的書類などに使用されていたはずである。

本・ゲーム&映画・ファッション・PC・カメラ・食品&飲料・アウトドアー・薬品・・・


なお、パピルスの絵柄陶器では、製作の技術面も含め、ウェストを絞り、美しいヒップラインを強調した女性の「マーメイド・ローブ」のようなビューティ・シルエットのミノア文明の宮殿様式陶器 Palace Style は、エーゲ海やエジプト、中東パレスチナを含めた3,500年前の先史時代の東地中海域で最も美しい陶器の一つであった、と私は確信する。
そのほかでは、最東部のパライカストロ遺跡からはパピルスの絵柄の水入れも出土している。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・宮殿様式陶器 Palace Style Amphora, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・邸宅遺構出土・宮殿様式アンフォラ型容器
美しいシルエットラインと抽象化されたパピルスの絵柄デザイン
イラクリオン考古学博物館・登録番号8832・高さ700mm
クレタ島・中央北部/1994年

ミノア文明・パライカストロ遺跡・パピルス絵柄水入れ Minoan Floral Style Jar, Papyrus Design, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・植物性デザイン様式水入れ
パピルスの絵柄/後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号3382/高さ245mm


また、ミノア文明のフレスコ画では、エーゲ海サントリーニ島(テラ島)のアクロティーリ遺跡で見つかった《パピルスのフレスコ画》が知られている。

アクロティーリ遺跡・「パピルスのフレスコ画」 Papyrus Fresco, Akrotiri, Santorini/©legend ej
アクロティーリ遺跡・《パピルスのフレスコ画》
サントリーニ島・テラ考古学博物館
紀元前1650年頃の作品/描画:legend ej


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