2020/10/11

ミノア文明・ゾウ遺跡 Zou


山間部の急斜面に残るミノア地方邸宅・ゾウ遺跡

位置 クレタ島・東部/シティア~南方5.5km
GPS ゾウ遺跡: 35°09′33″N 26°06′18.50″E/標高155m


ゾウ邸宅遺跡の位置

シティアからの地方道(Sitia=Ierapetra)のマナレス邸宅遺跡 Manaares~南南西1.5km、オリーブ栽培のピスコケファロ村 Piskokefalo がある。
村から東方の山間部へ延びる地方道(Piskokefalo=Karydi)で350m先のストミス川Stomis を渡り右折(南方)、蛇行と大きなUターンを経由して徐々に東方の山間部へ入る。
標高180m付近の民家20軒の小村ゾウZou へ至る手前400m付近、地方道の右脇(西側)の丘陵斜面でミノア文明のゾウ邸宅遺構が見つかった。邸宅サイトはピスコケファロ村~南東約2.5km付近(道路3.5km)である。

クレタ島・東部・ミノア文明・遺跡 地図 Map of Minoan Sites, East Crete/©legend ej
クレタ島・東部・ミノア文明・遺跡 地図
作図:legend ej

ミノア文明・シティア周辺 遺跡 地図 Map around Sitia, Crete/©legend ej
ミノア文明・シティア周辺・遺跡 地図
クレタ島・東部/作図:legend ej


邸宅遺構の発掘

ゾウのミノア地方邸宅の遺構は、1955年~56年、近郊のマナレス邸宅遺跡を発掘した、アテネ大学のプラトン教授 Nikolaos Platon の発掘ミッションで明らかになった遺跡である。
邸宅の起源はクノッソスの「新宮殿時代」の初め、中期ミノア文明MMIIIB期・紀元前1600年頃とされ、その崩壊はギリシア本土からの「侵攻ミケーネ人」の攻撃でミノア諸宮殿・地方邸宅・居住地などが次々に破壊されたのと同じ時期、紀元前1450年頃である。

プラトン教授の発掘では、複数の工房や貯蔵庫を含む邸宅の建物のほか、陶器製作の窯・キルン跡などが確認されている。また、プラトン教授は邸宅サイトの近くから、1954年、幾何学文様時代の陶器が出土した小さな横穴墓も発掘している。


ミノア文明&ミケーネ文明 編年表/©legend ej
クレタ島ミノア文明&ギリシア本土ミケーネ文明 編年表
・ミノア文明・「旧宮殿時代」: 紀元前1900年~前1625年
・ミノア文明・「新宮殿時代」: 紀元前1625年~前1375年
ミケーネ文明(時代):  後期ヘラディック文明 LH期
作図:legend ej

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邸宅遺構

邸宅サイト全体は標高145mの地方道の脇に展開しているが、道路から標高差5mの切り通しの上部であり、雑草や低木に阻まれ道路から直接遺構を見ることができない。
地方道の西脇の斜め細道を30mほど登るとサイトが視界に入る。邸宅は岩盤露出のかなり急斜面に配置された、おおよそ30室を数える部屋群で構成されていた。なお、下記プラン図は、私が現地で簡易的に作成したアウトライン図であり、精密度を保障している図面ではない。

ミノア文明・ゾウ遺跡・邸宅遺構プラン図/©legend ej
ゾウ遺跡・邸宅遺構 アウトラインプラン図
クレタ島・東部/作図:legend ej

道路に近い標高150m付近の北東~東区画では、壁や床面などが比較的良好な状態で残されている。大型切石の壁面から邸宅の一部は「二階建て」であった可能性が高い。
一方、標高160m付近の急斜面の西区画では、岩盤の露出が顕著となり、壁面基礎の痕跡も不明瞭となっている。地形的な条件を優先した場合、急斜面となるより西側の区画に「上階」が存在した想定には難がある。

ミノア文明・ゾウ遺跡・北東区画 Minoan house of Zou/©legend ej
ゾウ遺跡・邸宅遺構・北東区画
大型切石の分厚い壁面は「上階」の存在を連想する
クレタ島・東部/1996年

ミノア文明・ゾウ遺跡・ベンチの部屋 Minoan House of Zou/©legend ej
ゾウ遺跡・邸宅遺構・ベンチの部屋
石製ベンチと敷居が残る部屋
クレタ島・東部/1996年

邸宅は立地条件が悪いことからか、アルカネス近郊 Archanes のヴァシィペトロン邸宅遺跡 Vathypetron やイラクリオン~南南西11kmのティリッソス邸宅遺跡 Tylissos などに比べると、同じ地方邸宅だが、個人的には若干「見劣り」を否定できないと感じる。

ミノア文明・ヴァシイペトロン遺跡 Minoan House, Vathypetron/©legend ej
ヴァシイペトロン遺跡・結晶片岩の舗装広間
クレタ島・中央北部/1982年


ミノア文明・ティリッソス遺跡 Minoan House A, Tylissos/©legend ej
ティリッソス遺跡・「邸宅A」
円柱礎の主部屋~角柱の支柱礼拝室
クレタ島・中央北部/1982年

敷地の半分以上を占める斜面を活用して、大型切石積みの分厚い壁面、精巧な造りの敷居、石製ベンチのある部屋、深い地下室的な倉庫群など、地形的な条件から幾分ランダムなサイズの部屋群が配置されている。
なお、ミノア文明では、石製ベンチは比較的上質な室内造作の一つであった。また、東区画のやや広めのスペース(中庭?)には、屋根からの雨水を集めたのか、「導水路」と思われる石製の遺構が残されている。

ミノア文明・ゾウ遺跡・ベンチの部屋 Minoan House of Zou/©legend ej
ゾウ遺跡・邸宅遺構・石製ベンチの部屋
ベンチの向こう側=広めのスペース(中庭 or 部屋?)
右遠方=道路の東側・標高が低くなるオリーブ耕作地
クレタ島・東部/1996年

ミノア文明・ゾウ遺跡・ベンチの部屋 Minoan House of Zou/©legend ej
ゾウ遺跡・邸宅遺構・南区画~ベンチの部屋
石製ベンチと敷居の間=西区画へ上る石段が残る
クレタ島・東部/1996年

ミノア文明・ゾウ遺跡・貯蔵庫 Minoan House of Zou/©legend ej
ゾウ遺跡・邸宅遺構・東区画
半地下室的な貯蔵庫?
クレタ島・東部/1996年

サイト内には少なくとも三か所~四か所に標高差の少ない石段があり、また、道路に近い東区画では石製支柱の広間?も確認できる。
現在、一本角柱は東壁面沿いに残されているが、間違いなくオリジナルな位置は広間?の真ん中に立ち、「上階」に存在した部屋の床面を支えていたはずで、邸宅崩壊時に斜面上方からの崩落瓦礫で広間のより東側へ押され移動した、と考えられる。

ミノア文明・ゾウ遺跡・支柱の部屋 Minoan House of Zou/©legend ej
ゾウ遺跡・邸宅遺構・東区画
一本角柱が残る広間?
クレタ島・東部/1996年

また、訪ねた1996年では、道路から上る見学入口付近の壁面下部(地面レベル)には、土砂に埋もれた状態で残されている大型ピトス容器を確認できた。
このピトス容器はかつておそらく壁に沿って貯蔵庫の内側、あるいは窓か壁の凹みのような場所に置かれていた可能性がある。そうして、邸宅崩壊の際に斜面上方からの建物瓦礫に埋もれ、結果的に建物外壁の中に押し込まれ壁と一体化されてしまったのかもしれない。
プラトン教授の発掘ミッションでチェックできずに、その後40年が経過して、その間に徐々に土砂が風化して削られ、訪ねた1996年にようやく「露出」した、と推測できる。容器はあまり厚肉タイプではないので、予想では高さ50cm前後の汎用の貯蔵用ピトス容器と考えられる。


ゾウ邸宅の役割

遺構の崩壊が進んでいることから判断は難しいが、ゾウ邸宅は斜面を利用した比較的簡素な構造だが、築後150年間も居住された建物、部屋数では推定30室前後、大型の切り石材を使った相当大きな複合的な建物であったような印象である。

近郊のマナレス邸宅と同様に、ゾウ邸宅もおそらく周辺の丘陵地帯で栽培されたオリーブなどの農産物の収穫、日用的な陶器の製作、そして地区の行政管理などを担っていたであろう。
今日でも周辺の丘陵地帯は、岩盤露出のエリアを除き、ほとんどオリーブ耕作地となっている。

クレタ島・オリーブ栽培
クレタ島・オリーブ栽培

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近郊のミノア文明の遺跡

ピスコケファロ地区では、市街の南西の丘陵地区&ストミス川の左岸地区から、中期ミノア文明~幾何学文様時代に遡る複数の墳墓・洞窟埋葬・丘上聖所などが確認されている。
発掘は主に三人の著名な考古学者が担当した。1894年にはクノッソス宮殿遺跡の発掘者となるイギリスのサー・アーサー・エヴァンズ Sir Arthur Evans、1931年にはギリシア人考古学者マリナトス教授 S.N. Marinatos、さらに1952年にはアテネ大学のプラトン教授が発掘ミッションを実施した。

これらの結果、中期ミノア文明MMII期~III期・紀元前1800年~前1600年頃の丘上聖所からは、パライカストロ遺跡近郊 Palaikastro のペツォファ Petsofa の山頂聖所からの塑像と同じタイプ、奉納された大量のテラコッタ製の男性&女性像、カブト虫形容の塑像などが出土した。

ミノア文明・パライカストロ遺跡&ピスコケファロ遺跡・テラコッタ製塑像 Minoan Terracotta Figurine/©legend ej
左=パライカストロ遺跡出土・テラコッタ製《ミノア兵士像》
中期ミノア文明MMIB期・紀元前1900年~前1800年
イラクリオン考古学博物館・登録番号405/高さ175mm
右=ピスコケファロ遺跡出土・テラコッタ製《ミノア女性像》
中期ミノア文明MMIIB期・紀元前1700~1650年
イラクリオン考古学博物館・登録番号9832/高さ264mm
クレタ島・東部~最東部/描画:legend ej

さらにピスコケファロ地区の南西、地元で言う「Barati」の後期ミノア文明~幾何学文様時代に使われた崩壊の洞窟埋葬墓からは、テラコッタ製の魚像やラルナックス陶棺が見つかっている。そして、市街の南東区となるストミス河畔の墳墓からは、後期ミノア文明LMIII期・紀元前1300年頃のラルナックス陶棺などが発見された。

また、ゾウ遺跡~北方3.5km、ピスコケファロ村~北北東1.5kmにはプラトン教授が発掘したマナレス邸宅遺跡 Manares がある。
さらにストミス川より西側の丘陵を越えた地区となるが、ゾウ遺跡~西方3kmのオリーブ耕作地には、保存状態の良好なミケーネ様式のトロス式墳墓とミノア文明の邸宅遺構が見つかったアクラディア遺跡 Achladia がある。

ミノア文明・マナレス遺跡・西の石段 Minoan House of Manares/©legend ej
マナレス遺跡・西区画・石段
クレタ島・東部/1996年

ミノア文明・アクラディア遺跡・トロス式墳墓 Mycenaean Tholos Tomb, Achladia/©legend ej
アクラディア遺跡・ミケーネ様式のトロス式墳墓
保存状態の良い墳墓への通路ドロモス~入口
クレタ島・東部/1996年


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