2020/10/14

ミノア文明・アクラディア遺跡 Achladia


アクラディア邸宅遺構&トロス式墳墓

位置 クレタ島東部/シティア~南南西5km(邸宅)&6km(トロス式墳墓)
GPS アクラディア遺跡・邸宅遺構: 35°10′09″N 26°04′18.50″E/標高225m
   アクラディア遺跡・トロス式墳墓: 35°09′40″N 26°04′22.50″E/標高260m
   ※トロス式墳墓=邸宅遺構~南方900m


アクラディア邸宅遺跡

クレタ島東部の白い街シティア~南西6.5km、標高200m~250mの丘陵地帯に小村アクラディア Achladia がある。村は人口300人に満たないオリーブ栽培の地区である。

クレタ島・東部・ミノア文明・遺跡 地図 Map of Minoan Sites, East Crete/©legend ej
クレタ島・東部・ミノア文明・遺跡 地図
作図:legend ej

ミノア文明・シティア周辺 遺跡 地図 Map around Sitia, Crete/©legend ej
ミノア文明・シティア周辺・遺跡 地図
クレタ島・東部/作図:legend ej


邸宅遺構の位置と発掘

1950年代、アテネ大学プラトン教授 Nikolaos Platon によるアクラディア地区での発掘ミッションでは、村~東北東1.6km付近、ミノア文明の地方邸宅の建物跡が確認されている。
邸宅は中期ミノア文明MMIIIA期・紀元前1600年~後期ミノア文明LMIA期・紀元前1500年頃までに建てられ、その終焉はミノア諸宮殿・地方邸宅・繁栄の居住地が、「侵攻ミケーネ人」のクレタ島攻撃で破壊されるのと同じ時期、紀元前1450年頃、このアクラディア邸宅も破壊された。

ミノア文明&ミケーネ文明 編年表/©legend ej
クレタ島ミノア文明&ギリシア本土ミケーネ文明 編年表
・ミノア文明・「旧宮殿時代」: 紀元前1900年~前1625年
・ミノア文明・「新宮殿時代」: 紀元前1625年~前1375年
ミケーネ文明(時代):  後期ヘラディック文明 LH期
作図:legend ej


邸宅の構造

邸宅遺構の敷地は縦長の長方形、東西14m、南北21mほどの広さ、ほぼ平坦な場所という立地条件から、見た目の建物は「一塊」で構成されている観がある。
建物内部には、玄関間を含め合計12室を数える広間&部屋が配置されていた。そのほか、邸宅内部から直接アクセスできないが、倉庫や貯蔵庫などに使われたのか、邸宅区画の南側(外側)には付属的な複数の小部屋が連結されている。
ただ、邸宅全体はかなり破壊が進み、基礎部さえも明確でない箇所が多く、明確な部屋の配置を初めドアー口や窓の存在の有無などは推測域の範疇となる。

ミノア文明・アクラディア遺跡・邸宅遺構/Google Earth
アクラディア遺跡・邸宅遺構
クレタ島・東部
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入

ミノア文明・アクラディア遺跡・邸宅遺構 プラン図/©legend ej
アクラディア遺跡・邸宅遺構・アウトラインプラン図
クレタ島・東部/作図:legend ej

邸宅の東~南側の壁部は石灰岩の大型の石材が使われ、主入口は東側の真ん中付近、玄関間は平板舗装されていた。
舗装された玄関間の北側には、「祭壇 or 角柱?」の跡なのか、大きな石材の基礎部が残る広い部屋が配置されている。一方、玄関間の南側には三本円柱礎が残る広い部屋となる。

主入口~玄関間を東西方向に通過する基準線を引いた場合、この邸宅は広間や部屋を南北に対照的に配置した構造のように思える。北側の祭壇 or 角柱?の部屋が応接の「客間 or 儀式の部屋」、そして南側の円柱礎の部屋が邸宅の「主部屋」であったかもしれない。
その場合では、標高200m以上の台地に建つ邸宅からして、東壁面の窓のほか、現在ほとんど崩壊している祭壇 or 角柱?の部屋の北壁面には、シティア方面への展望を確保するための大きな窓が存在した可能性もある。

ミノア文明・アクラディア遺跡・邸宅遺構 Minoan House of Achladia/©legend ej
アクラディア遺跡・邸宅遺構・東区画
大型石材の主入口~円柱礎の部屋を見る
クレタ島・東部/1996年

ミノア文明・アクラディア遺跡・邸宅遺構 Minoan House of Achladia/©legend ej
アクラディア遺跡・邸宅遺構・南西区画~北東区画を見る
最も奥部=広い部屋&祭壇?/その右側・舗装=主入口
右方=円柱の部屋/左の連続部屋=貯蔵庫&食器保管室
左遠方=白い街シティア市街地~蒼いエーゲ海が見える
クレタ島・東部/1996年

三本円柱礎の部屋の西側は、おそらく採光用の吹抜け構造の部屋であったと推測でき、その南側の壁面にはほとんど崩壊状態だが石製ベンチの痕跡が確認できる。
円柱礎の部屋が邸宅の「主部屋」であった場合、東壁面の大きな窓と採光吹抜け部から明るい光で満たされ、時には円柱の影がキレイなコントラストを床面に描いたかもしれない。

ミノア文明・アクラディア遺跡・邸宅遺構 Minoan House of Achladia/©legend ej
アクラディア遺跡・邸宅遺構・南区画
手前=東区画・調理用品&食器保管室
中央=採光吹抜け部&石製ベンチ痕跡
左上=三本円柱礎が残る広い部屋
クレタ島・東部/1996年

玄関間の北側の祭壇 or 祭壇?の広い部屋、三本円柱礎の広い部屋、そして採光吹抜けの部屋からは、複数の大型ピトス容器を初めほかの容器類、石製品や調理用品などが出土した。

また、邸宅の西側区画では、広さはランダムだが合計五部屋が南北に連なって配置されている。特に北西側の二つの部屋は貯蔵庫、そして南西側の二つの部屋は調理用品や食器類の保管室、またはキッチンであった可能性が指摘されている。

ミノア文明・アクラディア遺跡・邸宅遺構 Minoan House of Achladia/©legend ej
アクラディア遺跡・邸宅遺構・南西貯蔵庫
クレタ島・東部/1996年


邸宅遺構の印象

研究者に「平屋造り」であったと断定されているように、アクラディア邸宅はイラクリオン~西南西11kmのティリッソス邸宅 Tylissos や、アルカネス近郊のワイン醸造のヴァシイペトロン邸宅 Vathypetron などと比較するなら、部屋数も少なく、内部の造作も高貴な造りではない。この視点から言えば、アクラディア邸宅は田舎の村長(むらおさ)が居住した普通レベルの建物であったかもしれない。

ミノア文明・ヴァシイペトロン遺跡 Minoan House, Vathypetron/©legend ej
ヴァシイペトロン遺跡・結晶片岩の舗装広間
南北通路が主部屋へ延びる/左方は貯蔵庫
邸宅サイトの周辺にはブドウ畑が広がる
クレタ島・中央北部/1982年


邸宅遺構からは、規模が小さい上に破壊が進んでいることも影響しているのか、発掘では普通の生活用品だけが見つかり、宝飾品や上質な装飾用のアンフォラ型容器、優美な石製リュトン杯などの出土品はなく、祭祀関連の物品もわずか一点だけが見つかった、とされている。
訪ねた1996年、邸宅サイトはわずかに残された石灰岩の大型切石積みの基礎部が印象的であったが、遺構全体はかなり破壊が進み、不明瞭な状態と感じた。

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アクラディア遺跡・トロス式墳墓

ミケーネ様式のトロス式墳墓の発掘

1939年、プラトン教授が実施したアクラディア村の発掘ミッションでは、村~南南東1.8km、アクラディア邸宅遺構~南方900m付近、地元で「Platyskinos」と呼ばれるオリーブ耕作地から、ギリシア本土ミケーネ様式のトロス式墳墓が確認された。
小型サイズであるが、天井崩落していないトロス式墳墓は、保存状態が極めて良好であり、内部からピトス埋葬棺3器が見つかった。

その後、1950年になり、プラトン教授は再びトロス式墳墓の再調査を行い、通路ドロモスのクリーニング、そして墳墓~南西30m付近からミノア時代の家屋跡を発掘している。

ミノア文明・アクラディア遺跡・トロス式墳墓 /Google Earth
アクラディア遺跡・トロス式墳墓
クレタ島・東部
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入

ミノア文明・アクラディア遺跡・トロス式墳墓 Mycenaean Tholos Tomb, Achladia/©legend ej
アクラディア遺跡・ミケーネ様式のトロス式墳墓
保存状態の良い墳墓への通路ドロモス~入口
後期ミノア文明LMIII期・紀元前1300年頃
クレタ島・東部/1996年


トロス式墳墓の位置と構造

訪ねた1996年の時点では、後期ミノア文明LMIII期・紀元前1300年頃に遡るトロス式墳墓の内部は、3,300年以上の年月の経過にもかかわらず、墳墓全体は大型の割石のランダム石積みだが、非常にキレイな状態であった。
周囲は全域がオリーブ耕作地、トロス式墳墓の位置は標高260m付近、東側には南から北方へ張り出した標高280m~300mの起伏のない岩台地が広がり、墳墓はその緩やかな北西斜面に構築されている。

簡易測定では、両側が割石組みの通路ドロモスは約10mの長さ、入口は横幅80cm、奥行き2.2m、高さ1.55mである。
予想を遥かに超えた大型割石を多用した、ランダムな石組みのトロス部は内径約4m、トロス天井高さ4m強である。さらにトロス部の正面奥には、やや狭い横幅80cm、奥行き4m、高さ1.2mの埋葬副室が付属されている。

ミノア文明・アクラディア遺跡・トロス式墳墓 Mycenaean Tholos Tomb, Achladia/©legend ej
アクラディア遺跡・トロス式墳墓・入口
クレタ島・東部/1996年

トロス部全体が土で覆われた「地下式」だが、トロス式墳墓としては小型サイズ、長い通路ドロモス~トロス部~副室まで一直線となる上級な設計&構造である。
また、トロス部中心~入口への方位は、簡易測定=N23°、北北東のシティアの方角へ開口している。

ミノア文明・アクラディア遺跡・トロス式墳墓 Mycenaean Tholos Tomb, Achladia/©legend ej
アクラディア遺跡・トロス式墳墓・トロス内部~入口
ランダムな割石積みだが非常に堅固な施工
クレタ島・東部/1996年

ミノア文明・アクラディア遺跡・トロス式墳墓 Mycenaean Tholos Tomb, Achladia/©legend ej
アクラディア遺跡・トロス式墳墓
最も奥部の埋葬副室~トロス内部~入口を見る
狭いながらも大型割石の堅固な構造の副室内部
クレタ島・東部/1996年


トロス式墳墓の「被葬者」は誰か?

ギリシア本土ミケーネ様式のトロス式墳墓であり、墳墓が造られた紀元前1300年頃は、既に本流のミノア文明の崩壊~衰退時に相当することから、この墳墓の被葬者は間違いなく、クレタ島へ侵攻した後にアクラディアに居住した「占領ミケーネ人」の、比較的高貴な身分の人達が埋葬された、と断定して良いだろう。

メッサラ様式の「円形墳墓」とミケーネ様式の「トロス式墳墓」
初期ミノア文明の末期EMIII期・紀元前2200年~中期ミノア文明MMI期・紀元前1800年頃の、主にクレタ島南西部で流行した埋葬形式が、メッサラ様式の円形墳墓 Messara Style Circular Tomb である。

現在までのメッサラ平野周辺の発掘調査では、合計75墳墓を数えるメッサラ様式の円形墳墓が確認されている。
その主な発掘場所では、先ずゴルティス(ゴルティン)遺跡の北方のカラティアーナ遺跡周辺、フェストス宮殿遺跡アギア・トリアダ遺跡周辺、プラタノス遺跡周辺、コウマサ遺跡周辺、さらにリビア海岸のレンダス Lendas ~海岸沿いに西方のカロイ・リメネス Kaloi Limenes~聖ファランゴ渓谷 Agio Farango ~ Odigitrias修道院周辺などに点在する。
ただ確認された円形墳墓の数で言えば、コウマサ遺跡周辺と聖ファランゴ渓谷 Agio Farango とその周辺に集中している。

メッサラ様式の円形墳墓の構造形式が、後にギリシア本土で流行するミケーネ様式のトロス式墳墓 Mycenaean Tholos Tomb へ発展したと考えられている。
ミケーネ様式のトロス式墳墓では、流行初期にはクレタ島に距離的に近いペロポネソス・メッセニア地方で小型サイズの墳墓が造られた。その後、ミケーネ文明の発展と同期するように、ミケーネ文明の前半、後期ヘラディックLHI期・紀元前15世紀頃には、ミケーネ宮殿周辺などアルゴス地方や中部ギリシア地方の文明センターでも大型サイズのトロス式墳墓が造営されるようになった。

ミノア文明・円形墳墓&ミケーネ文明・トロス式墳墓 Minoan Circular Tomb and Mycenaean Tholos Tomb/©legend ej
ミノア文明・円形墳墓&ミケーネ文明・トロス式墳墓
・ミノア・メッサラ様式の円形墳墓(地上式)
・ミケーネ様式のトロス式墳墓(半地下式)
・ミケーネ様式のトロス式墳墓(地下式)
作図:legend ej

埋葬の使用期間が数世紀~1,000年単位の長期となった大型のメッサラ様式の円形墳墓では、当初、フェストス宮殿の王族や貴族階級の人々の埋葬に使われた。その後、紀元前1450年頃、ギリシア本土からクレタ島へ攻撃を仕掛けた「侵攻ミケーネ人」によりミノア宮殿システムが破壊された後には、カミラーリ遺跡・円形墳墓Aが典型例であるように、円形墳墓は庶民の埋葬にも使われて来た。
一方、ミケーネ文明では、特に大型のトロス式墳墓においては、ほとんどすべての墳墓が地域を統治した王族や貴族など、高位な身分階級の人達の埋葬に限定的に使われてきた。

構造仕様は言及せずに単純に「トロス内径」だけを比較した場合、時代的に早いメッサラ様式の円形墳墓より、ミケーネ様式のトロス式墳墓の方が遥かに大型サイズであることが分かる。代表的な墳墓とトロス内径を挙げるなら;

メッサラ様式の円形墳墓
プラタノス遺跡・円形墳墓A:トロス内径13m(クレタ島最大級)
プラタノス遺跡・円形墳墓B:トロス内径10m
カミラーリ遺跡・円形墳墓A:トロス内径7.6m(上述写真)
コウマサ遺跡・円形墳墓B:トロス内径9.5m(上述写真)

ミケーネ様式のトロス式墳墓
ミケーネ遺跡・「アトレウスの宝庫」:トロス内径15m(ギリシア本土最大級)
オルコメノス遺跡・「ミニュアースの宝庫」:トロス内径14m
カコヴァトス遺跡・トロス式墳墓A:トロス内径14m
ペリステリア遺跡・トロス式墳墓2号墓:トロス内径12m
ヴァフィオ遺跡・トロス式墳墓:トロス内径10m

ミケーネ文明・ミケーネ遺跡・「アトレウスの宝庫」Atreus Tholos Tomb, Mycenae Palace/©legend ej
世界遺産/ミケーネ遺跡・「アトレウスの宝庫」
ミケーネ様式のトロス式墳墓最大級/トロス内径=15m
ペロポネソス・アルゴス地方/1982年

ミケーネ文明・オルコメノス遺跡・トロス式墳墓 Mycenaean Tholos Tomb, Orchomenos/©legend ej
オルコメノス遺跡・「ミニュアースの宝庫」
内径=14mのトロス内部~入口
ボイオティア地方/1982年


ミケーネ文明・ペリステリア遺跡・トロス式墳墓2号墓 Mycenaean Tholos Tomb, Myron-Peristeria/©legend ej
ペリステリア遺跡・ミケーネ様式のトロス式墳墓・2号墓
ランダム石材の構造/トロス内径=12m
ペロポネソス・メッセニア地方/1987年


ミケーネ文明・ヴァフィオ遺跡・トロス式墳墓 Mycenaean Tholos Tomb, Vaphio/©legend ej
ヴァフィオ遺跡・ミケーネ様式のトロス式墳墓(1982年)
スパルタ・メネライオス王家の墳墓/トロス内径=10m
ペロポネソス・ラコニア地方/描画:legend ej

なお、スパルタ近郊・ヴァフィオ遺跡の「メネラオス王家」のトロス式墳墓からは、クノッソス宮殿・金属工房で製作され、王家へ贈呈されたと推測できるミノア様式の見事な金製カップが出土している。

ミケーネ文明・ヴァフィオ遺跡・金製カップ Gold Vaphio Cup/©legend ej
スパルタ近郊ヴァフィオ遺跡出土・金製カップ(動的シーン)
アテネ国立考古学博物館・登録番号1758/口縁径108mm
ペロポネソス・ラコニア地方/1982年


エーゲ海先史 ミノア文明ミケーネ文明
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クレタ島/ミノア文明の崩壊~衰退とミケーネ文明の影響

「新宮殿時代」の後半期、後期ミノア文明LMIB期・紀元前1450年頃、ギリシア本土ミケーネ人のクレタ島侵攻を受け、ミノア文明は徹底的に破壊された。その約75年後、紀元前1375年頃、最後に残された文明センターのクノッソス宮殿も大火災で崩壊、本流のミノア文明は一気に衰退~消滅への歩行を速める。


結果、クレタ島の文化はミノア文明の名残を生かしながらも、取って代わった新しい主人公・「占領ミケーネ人」の持ち込んだミケーネ文明が混じり合った、「ミノア&ミケーネ融合文化」へと変容して行く。その最大の特徴が埋葬墳墓の一つ、ミケーネ様式のトロス式墳墓である。

さらに時代と文化を如実に反映する陶器やフレスコ画のモチーフで言えば、平和を尊び自然主義に傾倒したミノア人の好んだ植物や海洋生物、美しい女性達を描く穏やかな絵柄から、紀元前1450年以降、兵士のヘルメット紋様など「好戦的なミケーネ人」を象徴するまったく異質な美術様式へ転換して行く。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・海洋性デザイン・タコの絵柄水入れ Minoan Marine Style Octopus Jar, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡・西翼部出土・鐙型注ぎ口水入れ
ミノア自然主義の象徴・海洋性デザイン・タコの絵柄
イラクリオン考古学博物館・登録番号3383/高さ280mm
クレタ島・最東部/描画:legend ej

ミノア文明・プッシーラ遺跡・フレスコ画《ミノアの女神 or 王女》Fresco Minoan Goddess/Princess, Pseira, Crete/©legend ej
プッシーラ遺跡・浮彫フレスコ画《ミノアの女神 or 王女》
優雅で平和なミノア文明を象徴する美しいフレスコ画
紀元前1500年~前1450年/イラクリオン考古学博物館
クレタ島・東部/描画:legend ej


ミノア文明・クノッソス・カタンバ遺跡・宮殿様式水差し Minoan Palace Style Jug, Knossos-Katsamba/©legend ej
イラクリオン近郊・カタンバ遺跡出土・宮殿様式のアンフォラ型容器
「好戦的なミケーネ人」を象徴するヘルメットの絵柄/高さ474mm
新宮殿時代の後半期・紀元前1450年~前1400年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号10058
クレタ島・中央北部/1994年


ギリシア本土からクレタ島への攻撃を仕掛けた「侵攻ミケーネ人」、紀元前1450年~わずかな期間でメッサラ平野のフェストス宮殿・北海岸のマーリア宮殿・最東部のザクロス宮殿を初め、地方邸宅やグルーニアやパライカストロなど無数に点在した大小の居住地を破壊した。
そうして、唯一残されたクノッソス宮殿に於ける「占領ミケーネ人」の統治期間は、宮殿が大火災で崩壊する紀元前1375年までのわずか75年間ほどであった。

この結果、クレタ島で発見される「占領ミケーネ人」が埋葬された、ミケーネ様式のトロス式墳墓の数はそう多くはない。アクラディア遺跡のほか、アルカネス遺跡 Archanes の共同墓地で見つかった、「被葬者=アルカネスの王女」とされる「半地下式」のトロス式墳墓Aが、天井崩落していない墳墓として知られている。

ミノア文明・アルカネス遺跡・トロス式墳墓 Mycenaean Tholos Tomb, Archanes/©legend ej
アルカネス遺跡・ミケーネ様式のトロス式墳墓A
「被葬者=アルカネスの王女」の墳墓
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

なお、トロス式墳墓の発祥地となるギリシア本土では、アクラディアのトロス式墳墓と同じ形態の「地下式」の例では、ペロポネソス・アルゴス地方の世界遺産ミケーネ宮殿遺跡 Mycenae Palace &ティリンス宮殿遺跡 Tiryns Palace とその周辺に数多く点在している。


アクラディア近郊のミノア文明の遺跡

プラトン教授は1952年&1959年、アクラディア近郊で調査を行い、村~西南西4km、民家10軒のリザ地区 Riza から、中期ミノア文明MMIIIB期・紀元前1550年頃に崩壊した、小規模な居住地&家屋跡を発見している。
ピンポイントは不明だが、さらにプラトン教授はアクラディア地区内から、幾何学文様時代~ギリシア文明~ローマ時代の居住地、岩盤掘削の複数の竪穴墓、後期ミノア文明LMIII期の陶器の焼き窯・キルンなども確認している。

アクラディア地区の西方エリアでは、邸宅サイト~西方5km、1903年、クレタ島イラクリオン生まれの考古学者 Stephanos Xanthoudides が発掘した、楕円形の居住地・カメシオン遺跡 Chamesion/Chamezi がある。
また、邸宅サイト~東北東2kmのピスコケファロ村 Piskokefalo では複数の埋葬墳墓・丘上聖所が確認されている。さらにトロス式墳墓~東方3kmの丘陵斜面には、プラトン教授のミッションで発掘されたゾウ邸宅遺跡 Zou がある。

ミノア文明・カメシオン遺跡 Minoan Settlement, Chamesion/Chamezi/©legend ej
カメシオン遺跡・中心~南西区画
ランダム配置された変形の貯蔵庫&ピトス容器
クレタ島・東部/1982年

ミノア文明・ゾウ遺跡・北東区画 Minoan house of Zou/©legend ej
ゾウ遺跡・邸宅遺構・北東区画
大型切石の分厚い壁面は「上階」の存在を連想する
クレタ島・東部/1996年


さらにアクラディア地区から標高300m以上の山地を越えた少し内陸では、トロス式墳墓~南方4km付近にプライソス居住地 Praisos/Praesus がある。
プライソスでは1880年代~1950年代まで断続的な発掘ミッションが実施され、新石器文化~ミノア文明~クラシック文明~8世紀頃まで、長期に渡って居住されたことが判明している。プライソス遺跡の範囲は東西約2km、三か所の丘を中心に色々な時代の遺構が点在するが、ミノア文明の居住地と邸宅遺構も確認されている。

プライソス遺跡からは、金の線状細工で母材に固定された渦巻線と「S字カーブ」の細線に沿って、全面が約430粒の黄金の微細粒・ビーズで装飾された、「新宮殿時代」の後、紀元前14世紀の見事な金製リングがもたらされた。

ミノア文明・プライソス遺跡・金製リング Minoan Gold Ring, Praisos/©legend ej
プライソス遺跡・墳墓出土・金製リング
イラクリオン考古学博物館・登録番号765
クレタ島・東部/描画:legend ej

GPS プライソス遺跡・ミノア様式邸宅: 34°07’30”N 26°04’27”E/標高240m
   ※遺構: 東西約2kmの範囲 三か所の丘を中心に点在する


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