2019/12/21

ミノア文明・クノッソス宮殿の崩壊の原因は?


ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 関連ポストは「12部構成」となっています。
1. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace I 概要
2. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace II 西中庭~南翼部
3. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace III 中央中庭・王座の間
4. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IV 聖域・宝庫
5. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace V 貯蔵庫
6. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VI 女神パリジェンヌ
7. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VII 王の居室・聖所
8. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VIII 王妃の間
9. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IX 雄牛跳び
10. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace X 北~東翼部
11. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 周辺の先史遺跡
12. ミノア文明・クノッソス宮殿 崩壊の原因は?(当ポスト)

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クノッソス宮殿の崩壊の「原因説」の一つ/テラ島の大爆発と大津波

位置
クノッソス宮殿遺跡: クレタ島・イラクリオン~南南東5km
サントリーニ島(テラ島): エーゲ海/クレタ島~北方120km


エーゲ海・テラ島の大爆発

幾らかの説では、クレタ島ミノア文明のクノッソス宮殿 Knossos Palace の最終崩壊の原因は、「アトランティス物語」のエーゲ海テラ島 Thera、現在のサントリーニ島 Santorini の大爆発による地震や大津波などの結果とされている。
先史の「物語」としてはたいへんと興味深いが、サイエンスである考古学の冷静な見識では、この大爆発によるクノッソス宮殿の終焉は「時間的には起り得ない」と言えるだろう。
何故ならば、テラ島の中心部にそそり立っていた活火山が、地球的な規模の大爆発を起こしたのは紀元前1500年前後(放射性炭素年代測定法: 紀元前1620年~前1520年)であり、それはクノッソス宮殿が崩壊した時期、紀元前1375年頃より、100年~200年以上も前に起こった火山活動であった。

エーゲ海域・主要遺跡 地図 Map of Major Archaeological Sites, Aegean Sea/©legend ej
エーゲ海域・主要遺跡 地図
作図:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・北入口 North Gate, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・北翼部・北支柱広間~北入口
・北入口の建物=エヴァンズのコンクリート復元
・手前・大型角柱群=発掘時の状態の北支柱広間
クレタ島・中央北部/1982年

GPS クノッソス宮殿遺跡: 35°17′53″N 25°09′47″E/標高95m



ミノア文明&ミケーネ文明 編年表/©legend ej
クレタ島ミノア文明&ギリシア本土ミケーネ文明 編年表
・ミノア文明・「旧宮殿時代」: 紀元前1900年~前1625年
・ミノア文明・「新宮殿時代」: 紀元前1625年~前1375年
ミケーネ文明(時代):  後期ヘラディック文明 LH期
作図:legend ej

大爆発前/テラ島の「最後の文化」は?

テラ島の爆発による大津波が、たとえどのような高さで押し寄せても、クレタ島北海岸から最短距離で5kmも内陸、標高90m~100mの丘状の場所に建つクノッソス宮殿までは、「海の神ポセイドン」の後押しがあって、どう考えても物理的・地形的にも到達できなかったはずである。

また、火山爆発の現地テラ島、現在のサントリーニ島の最も新しい地層からの発掘調査では、フレスコ画を除き、年代推測の大きな手助けとなる紀元前1550年~前1500年に属する陶器類など、限定された物だけが発見されている。そして発見された陶器類は火山噴火の直前の陶器であり、それはテラ島の「最後の文化」を意味している。

ギリシア先史文明の陶器類の研究
現在のエーゲ海・先史文明の研究に於ける陶器の造られた年代を推定する「陶器編年」の分野では、「製作年±30年」程度まで精緻に確定できるまで研究が進んでいる。
何故ならば、陶器類は人が造る芸術品であり、先史文明の陶器類の形容や絵柄とその表現は、一部では大流行の陶器の長期間の製作があるにしても、多くは一人の陶工の生涯作業寿命(約30年)で微妙に変化するとされ、陶器類のデザインとモチーフの詳細な系統区分がほぼ解明されている。
結果、研究の歴史の中ですで正確な「年&時代」が確定されているエジプトや中東の先史・古代文明との関連から、ミノア文明・ミケーネ文明のある一つの陶器が造られた「年&時代」が関連付けられれば、次々にほかの陶器類も系統的に製作時期がほぼ確定できる。
腐食や変形に耐えられる金属・石製品とは異なり、陶器類は極簡単に破損するという宿命をもつデリケートな物品である。そうだからこそ陶器類の形容と絵柄モチーフは、時代と変化を微妙に代弁する先史・古代文明の証拠品であり、考古学研究で非常に重要な要素となっている。

キクラデス文化・サントリーニ島・アクロティーリ遺跡/©legend ej
アクロティーリ遺跡・北方~市街地Δ地区
エーゲ海・サントリーニ島/1982年

キクラデス文化・サントリーニ島・アクロティーリ遺跡・Δ地区/©legend ej
アクロティーリ遺跡・市街地Δ地区・「家屋5」の石段
エーゲ海・サントリーニ島/1982年

発掘調査により明らかになったことだが、不思議なことに火山灰と軽石に埋もれたサントリーニ島のアクロティーリ遺跡 Akrotiri からは、島がほぼ完全に吹き飛んだ大爆発があったにもかかわらず、1999年に発見されたねじれ角を持つ金製の野生ヤギ像(建物床下に隠されていた)を除き、貴重な宝飾品を初め居住者の遺体さえも発見されていない。
残されていたのは、繁栄した街の建物群、高度な排水システム、石板で舗装された通り、部屋内部のフレスコ画、ピトス型容器など洗練された大量の陶器類、そして合計950個を数える機織り重りだけであった。

GPS サントリーニ島・アクロティーリ遺跡: 36°21′06″N 25°24′12″E/標高30m

エーゲ海・アクロティーリ遺跡・金製のヤギ&陶器類/©legend ej
アクロティーリ遺跡・唯一の出土宝飾品&遺構
金製のねじれ角の野生ヤギ像/テラ考古学博物館
Β地区・「粉ひき広場」~「家屋5」の陶器類/1982年
エーゲ海・サントリーニ島/描画:legend ej

アクロティーリ遺跡・フレスコ画「ミノア女性」Fresco Minoan Woman, Akrotiri, Santorini/©legend ej
アクロティーリ遺跡・フレスコ画《ミノアの女性》
重ね縫いの斬新デザインのスカート姿の女性
市街地・「ミノア女性の家」・北壁面の描画
紀元前1650年頃の作品/テラ考古学博物館
エーゲ海・サントリーニ島/描画:legend ej

何とも魅力的なフレスコ画《ミノアの女性》が残されていたのは、南北に細長く延びたアクロティーリ遺跡のやや北側に位置する建物、「ミノアの女性の家」の壁面からである。

また、同じ建物の別の部屋では、壁面一杯に描かれた咲き誇る《パピルスのフレスコ画》も確認されている。シンプルな描画ながら、全体の落ち着いた色彩に絵師の高い美意識が見え隠れしている。パピルスはユリ・ツタ・サフランなどと並び、ミノア文明の陶器やフレスコ画などに描かれた植物性デザインの最もポピュラーなモチーフであった。

アクロティーリ遺跡・「パピルスのフレスコ画」 Papyrus Fresco, Akrotiri, Santorini/©legend ej
アクロティーリ遺跡・《パピルスのフレスコ画》
市街地・「ミノアの女性の家」
紀元前1650年頃/テラ考古学博物館
エーゲ海・サントリーニ島/描画:legend ej

さらに《ユリのフレスコ画》が発見されたのは、アクロティーリ遺跡のほぼ中心部、「Δコンプレックス」と呼ばれる地区の「家屋2」からである。この建物の玄関前には中型のアンフォラ型容器が残され、内部の三面の壁面には春を呼ぶ明るい風景、空にツバメが飛び、岩場に咲く色鮮やかな《ユリのフレスコ画》が描かれていた。

アクロティーリ遺跡・Δ地区・Akrotiri/©legend ej
アクロティーリ遺跡・市街地Δ地区・「家屋2」の遺構
《ユリのフレスコ画》の建物&アンフォラ型容器
エーゲ海・サントリーニ島/1982年

アクロティーリ遺跡・ユリのフレスコ画 Lily Fresco, Akrotiri, Santorini/©legend ej
アクロティーリ遺跡・《ユリのフレスコ画》(部分)
ユリの花の間に春を呼ぶツバメが飛ぶ/市街地Δ地区・「家屋2」
紀元前1600年頃/アテネ国立考古学博物館・登録番号BE1974-29
エーゲ海・サントリーニ島/描画:legend ej

アクロティーリ遺跡の南西端は「Xeste 3」と呼ばれる建物群である。二階部分の「部屋9」の壁面にはミノア文明の典型的なモチーフの一つ、ロゼッタ紋様のフレスコ画が描かれていた。やや太い白色の布帯を等間隔で絞り、広げた◇型の空間に各四個のロゼッタ紋様を描いた非常に優美な感じのフレスコ画である。

アクロティーリ遺跡・ロゼッタ紋様フレスコ画 Minoan Rosette Fresco, Akrotiri/©legend ej
アクロティーリ遺跡・ロゼッタ紋様のフレスコ画
市街地・「Xeste 3」建物群・「部屋9」の壁面
テラ考古学博物館
エーゲ海・サントリーニ島/描画:legend ej

なお、ロゼッタ紋様と渦巻き線の連鎖する美しい天井浮彫フレスコ画の断片が、クノッソス宮殿遺跡・北翼部の神殿遺構から見つかっている。ロゼッタ紋様は非常に高貴な工芸モチーフであり、宮殿内の装飾壁画のみならず、石製の印章などにも数多く登場してくる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・レリーフフレスコ画・渦巻き&ロゼッタ紋様 Minoan Relief-Fresco of Spiral and Rosette, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・北翼部出土・浮彫フレスコ画
連鎖の白色渦巻き線・ロゼッタ・花弁の紋様
参考情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.III(1930年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)
クレタ島・中央北部/描画&色彩:legend ej


アクロティーリ遺跡・B地区・「家屋1」の南壁面に描かれていたのは、《ボクシングをする少年達》のフレスコ画であった。二人とも腰ベルト以外は裸姿、当時の風習から頭部の一部は「剃り上げ」、長い髪が延びる。
二人とも背丈が実際より少し大きく描かれ(約155cm)、右少年は右手にグローブをはめ、左少年も右手にグローブをはめているが、上流階級の証であるネックレース、アームレット、アンクレットを付けている。互いにグローブの右手が攻撃、素手の左手は防御だったかもしれない。
ボクシングのフレスコ画が残されていたこの部屋からは、同じ職人の作品とされるアンテロープ類の《ガゼルの群れ》の大型フレスコ画も描かれていた。

アクロティーリ遺跡・ボクシングの少年フレスコ画 Minoan Fresco, Boxing Young-boys, Akrotiri/©legend ej
アクロティーリ遺跡・住宅室内のフレスコ画
・片手グローブ《ボクシングをする少年達》
・市街地B地区・「家屋1」・南壁面の描画
アテネ国立考古学博物館・登録番号BE1974-26β
エーゲ海・サントリーニ島/描画:legend ej

消石灰・漆喰&フレスコ画の技法
地中海の諸島や沿岸~内陸部まで何処にでも無尽蔵に存在する「石灰岩」を砕き、加塩で焼成した物質が白色の「生石灰」。生石灰を加水処理すると白色微粉末の「消石灰」となる。
水酸化カルシウムが主成分の消石灰を水で溶き、壁面や天井や床面に塗った状態を「漆喰」と呼ぶ。完全に水溶せず強いアルカリ性を呈する漆喰は調湿・消臭・防水・不燃性に富み殺菌作用もある。また、消石灰にやや多めの水を加えたのが「石灰水」である。

フレスコ画の語源はイタリア語、壁面や天井や床面を造成した後、基本的に白色漆喰で表面を施工、漆喰が乾燥しない間に石灰水と顔料で描画する技法を「フレスコ画」と呼ぶ。
顔料が遅乾性の漆喰の石灰層へ染み込み、ゆっくりと乾燥する時、石灰質が透明で強固なコーティング質を作り、最終的に描画の表面を保護する。

機織り重りの出土
950個以上、アクロティーリ遺跡から出土した機織り重りの数が余りに多いことから、エーゲ海文明・考古学者 Rachel Dewan の研究(2015/U.Toronto)によれば、アクロティーリ居住地はエーゲ海域の最大級の織物産地であったとされる。
住民が完全避難する紀元前1450年頃の火山爆発が起こるまで、テラ島で織られた生地はフレスコ画のように島内での消費だけでなく、遠くエジプトや中東地域向けの重要な輸出品であった、と想定している。
クレタ島のクノッソス宮殿やマーリア宮殿などでも機織り重りが出土しているが、機織り作業はミノアの女性達の重要な手仕事であった。

先史~古代文明 機織りの仕組み Minoan Weaving System/©legend ej
先史~古代文明・機織りの仕組み
描画:legend ej





大爆発前 住民は「何処」へ避難したのか?

火山の大爆発の後に人の遺体も貴重品もなく、移動が難しい家屋のみが残されていた事実は、南北17km、東西15kmほど、オーバル型のテラ島の中心部にそびえていた火山、おそらくは標高1,721mの北海道・利尻島の利尻岳に似て、海岸から急斜面を造る標高の高い火山が、ある日、突然に大爆発を起こしたのではなく、異変の始まり~最後の大爆発まで、例えば1か月~半年間とかの猶予期間があったのではないか?

かなり前から始まった火山性の強い地震や不気味な地鳴りなどから、「火の神」の住む火山の爆発を恐れたテラ島の住民達は、その限られた猶予期間の中で、全員が宝飾品を携えて舟を漕ぎ、ほかの島へ避難してしまったのではないか?
北方へ18kmのイオス島 Ios とか、北西のシキノス島 Sikinos へは30km、あるいは東方22kmのアナフィ島 Anafi など、決してテラ島から遠くに離れた島々ではなく、古代の舟でも十分安全に避難できる距離、水平線にかすかに見える島々である。

そうして、無人となったテラ島の中央部にそびえ立つ火山は、現在見るような高さ200m~250mの断崖、リング状の大カルデラを形成するほどの最終的な大爆発となり、最大60mの厚さで火山灰を降灰、島は完全に変容してしまったのであろう。

エーゲ海・サントリーニ島周辺/Google Earth
エーゲ海・サントリーニ島周辺 地図
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入

エーゲ海・サントリーニ島の断崖/©legend ej
サントリーニ島・3,500年前の大噴火跡
・噴火湾~200mの断崖・カルデラ内側
・5☆Hotel Volcano Viewなどホテル群
エーゲ海/1996年

サントリーニ島のブドウ&ワイン
現在のサントリーニ島はエーゲ海有数のリゾートアイランド、地中海巡りの超大型クルーズ船が必ず寄港する人気のスポットである。島の経済のメインは観光業であるが、わずかだが農業生産と漁業も行われている。
ミノア文明の時代から行われていたとされるワイン生産も知られており、現在でも火山灰地質を利用して主に白ワインとロゼワインの生産が行われている。サントリーニ島のブドウ耕作地では、常に強風が吹き付けることから、ブドウの木は地面に這うような低木である。

サントリーニ島・1990年代・フィラのホテル/©legend ej
サントリーニ島・フィラ地区・プチホテル&レストラン
・断崖に密集する街並み/右端=聖Minas聖正教会
・上建物=4☆Hotel Atlantis/左下=Franco's Bar
エーゲ海/1996年

サントリーニ島・夏の夕陽/©legend ej
サントリーニ島・夏の日没
真っ赤な夕陽ではなく 霞の中に薄色で消えて行く感じ
西端イア地区 Oia・聖Sostis聖正教会
エーゲ海/1982年

サントリーニ島・ブドウ栽培/©legend ej
サントリーニ島・伝統のブドウ栽培
Pyrgos Kallistis 地区(標高300m)
・遠方・白い街=北北西4km・フィラ
・アクロティーリ遺跡~北東5km付近
エーゲ海/1982年

大爆発はクレタ島のミノア文明へ影響を与えたのか?

ザクロス宮殿遺跡の「軽石」

クレタ島の最東端のザクロス宮殿遺跡 Zakros Palace に隣接するミノア市街地遺跡で発見された大量の軽石が、テラ島の大爆発で発生した大津波で流されて来たとしても、軽石が発見された場所は海岸からわずか200mの近距離、しかも標高5m~20mほどの低地であった。
軽石がテラ島からの大津波で陸地の奥まで運ばれたなら、ザクロス宮殿遺跡以外でも発見されるはずであるが、大爆発の当時存在したクレタ島のほかのミノア文明の遺跡からの軽石は、現在までのところ見つかっていない。

ミノア文明・ザクロス遺跡  Minoan Town, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス遺跡・東市街地
保護屋根=青銅の「流路システム」の遺構
クレタ島・最東部/1982年

GPS ザクロス宮殿遺跡: 35°05′53″N 26°15′40″E/標高5m

テラ島の火山爆発と地震による大津波が発生した事実は間違いないだろう。しかし、おそらく津波は数m前後、最大でも10mの高さ、発生したとしてもその被害はテラ島から南方へ120km離れた、クレタ島の北海岸沿いの集落や標高の低い農耕地をわずかにのみ込んだ程度であった、と推測できる。


海岸近くの大規模なミノアの町遺跡・パライカストロ

ザクロス宮殿遺跡から直線で北方へ11km(道路27km)、やはりクレタ島の最東部で繁栄したミノア文明のパライカストロ遺跡 Palaikastro(パレカストロ Palekastro)がある。
現在のパライカストロ村~東方へ約2km、広大なオリーブ耕作地に囲まれたこの大規模なミノア市街地遺跡の最南東区画・「Block X」は、エーゲ海・キオナ浜 Xiona Beach~最短距離240m、さらに現在までに発掘が完了している市街地の最北部・「建物4~建物1」付近では海から最短250m、何れも標高10mの平地である。

クレタ島・東部・ミノア文明・遺跡 地図 Map of Minoan Sites, East Crete/©legend ej
クレタ島・東部・ミノア文明・遺跡 地図
作図:legend ej

クレタ島・東部・ミノア文明・遺跡 地図 Map of Minoan Sites, East Crete/©legend ej
クレタ島・最東部・ミノア文明・遺跡 地図
作図:legend ej

ミノア文明・パライカストロ遺跡・M区域 Area M, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡・最北区域・「建物1」
・大型切石を使った外壁と正面入口付近
・「海への通り」=エーゲ海まで250m
クレタ島・最東部/1996年

GPS パライカストロ遺跡: 35°11′42″N 26°16′32″E/標高10m


また、先史~古代にはエーゲ海へ突き出た半島であったが、現在、小島であるモクロス遺跡 Mochlos に例を見るように、ミノア文明の時代以降、東地中海域の岩盤プレート・テクトニクス理論のデータによれば、過去3,500年間で2m~2.5mほど沈下したとされるクレタ島の東部地域では、今でもわずかだが地盤沈下が進行している。
この地盤変化を最大限に考慮したとしても、3,450年以上前のミノア時代のパライカストロの町は、海面レベルからせいぜい15m前後の高さ、海岸に近い低い標高であったことは間違いない。

東地中海域・岩盤プレート・テクトニクス/©legend e
東地中海域・岩盤プレート・テクトニクス理論
エーゲ海プレート=周囲3岩盤プレートに挟まれ圧縮される状態
プレートの境界面=地震多発/クレタ島東部=わずかに沈下現象
作図:legend ej

ミノア文明・モクロス遺跡 Mochlos Island/©legend ej
モクロス遺跡・全景
地盤沈下現象=先史「半島」⇒現在「小島」
クレタ島・東部北海岸/1982年

ミノア文明・モクロス遺跡/Mochlos Archaeological Project (American School Athens)
モクロス遺跡・共同墓地
写真情報:The American School of Classical Studies in Athens
責任者:Dr. Jeffrey Soles/U. North Caroline
発掘プロジェクト:1989年~
 クレタ島・東部北海岸

GPS モクロス遺跡・共同墓地: 35°11’12”N 25°54’23”E/標高5m~25m

1902年から始まったパライカストロ町遺跡の発掘ミッションは、イギリス考古学チーム(アテネ)が担当して来た。発掘レポートでは、パライカストロの町の最終的な崩壊は、テラ島の火山爆発があった紀元前1500年頃ではなく、それより50年ほど後の紀元前1450年頃となっている。その後、パライカストロでは部分的な再居住が行われた。
パライカストロの町がほぼ完全に破壊された時期、紀元前1450年頃、クノッソス宮殿を除き、クレタ島のミノア文明の諸宮殿や地方邸宅、繁栄の町が、クレタ島へ侵攻してきたギリシア本土・ミケーネ人により相次いで破壊されている。

パライカストロ遺跡の発掘では、市街の高貴な造りの邸宅も集合的に連結し合う無数の庶民の住宅も、複雑に交わる通りや路地さえも、大津波などで破壊され流された状態を表現する言葉・「壊滅的な状態」ではなく、住宅の壁面や舗装道路、陶器の焼き釜や無数の陶器類などもほとんど無傷に近い、通常の文明遺構として発掘されている。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・「建物5」 Minoan House, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡・「最北区域・建物5」
クレタ島・最東部/1996年


パライカストの町はザクロス宮殿と同じクレタ島の最東部に位置している。しかもザクロス宮殿より北方、距離的にテラ島により近く、海面とほぼ同じレベルに広がっていたことから、もし火山の大噴火に伴う高さ30m以上の巨大津波が押し寄せたならば、繁栄した町は跡形もなく破壊され、すべてが流されてしまったはずであるが、発掘された遺跡からはその津波の被害の証拠や痕跡などは確認されていない。

「火山爆発&地震=大津波」の連想思考は、大地震と大津波の経験国である日本的な即断発想だが、考古学的な検証からの推論では、紀元前1500年頃のテラ島の大爆発は、それほど大きな津波を発生させなかった可能性の方が正しい答えではないか?

有り得ないが、もしも強引に古代ギリシアの哲学者プラトンの唱えた「アトランティス物語」を信じる人々の言う、高さ30mを超える大津波が発生したとしても、現在見ることのできるサントリーニ島の「コの字形」の西方へ海が開いた島地形からすれば、津波の主流波はテラ島からギリシア本土ペロポネソス半島など、真西の方角へより進んだと考えられる。
クノッソス宮殿などクレタ島ミノア文明の主要宮殿や町遺跡は、テラ島から真南~南南東の方角に位置している。想定する巨大津波がテラ島から西方へ進んだのならば、クレタ島の中央~北海岸は津波による壊滅的な被害を受けた地域とは言えないだろう。

ミノア文明の主要宮殿と邸宅&繁栄の町の崩壊

宮殿・邸宅・町の崩壊

エーゲ海・テラ島の火山爆発に伴う大地震によって、クレタ島の複数の宮殿クラスの建物に致命的な被害があった、とする説もある。ただ、 紀元前1500年頃、これらのミノアの諸宮殿がまったくの同時期に、一斉に崩壊したとする考古学的な発掘の証拠もない。

ただし、クレタ島では紀元前17世紀の中期、地震が発生してミノアの古い宮殿や邸宅などが大きな被害を受けたのは間違いない。しかし、繁栄していたミノア文明では、その直後の紀元前1625年頃、新たな宮殿の建設ラッシュの時期となり、文明はさらに大繁栄の時代を迎える。

ミノア文明・500年続いた「宮殿時代」
クノッソスと南西部メッサラ平野のフェストス、そして北海岸のマーリアに限定されるが、「旧宮殿」と呼ばれた初期の宮殿建物は、考古学編年から言えば、中期ミノア時代の初期にあたる紀元前1900年頃に造営された。これが「旧宮殿時代」のスタートである。
しかし300年の経過を待たずに三か所の旧宮殿は地震と火災で焼け落ち、「旧宮殿時代」は終わり、中期ミノア時代の終期にあたる紀元前1625年頃、旧宮殿のあった三か所ではさらに大規模な「新宮殿」が造営され、同時にクレタ島東端のザクロスにも「新宮殿」が建てられた。これが「新宮殿時代」のスタートである。
そうして、 紀元前1450年頃、クノッソス宮殿を除き、ミノアの三か所の新宮殿は相次いで破壊され、さらに紀元前1375年頃にはクノッソス宮殿も再び発生した大火災により完全に崩壊、「新宮殿時代」が終焉する。

ミノア文明が最も繁栄した文明の中期~最終期にあたるクノッソスなどの旧宮殿と新宮殿の存在と統治と文化をして、研究者は「宮殿時代」と呼んでいる。おおよそ500年間続いたこの「宮殿時代」こそが、紀元前3000年頃から始まり現在に至るクレタ島5,000年の歴史の中で、最も繁栄して輝いた時代であった。
現在、ツーリストが見ることのできる、特にクノッソス宮殿の遺構の大部分は、この火災で崩壊した新宮殿の基礎部である。最終項で後述するが、このため訪れたツーリストは、多くの区画で3,400年ほど前の大火災で黒焦げに焼けたクノッソスの新宮殿の遺構を目にすることになる。

旧宮殿時代:中期ミノア文明MMIB期~中期ミノア文明MMII期
紀元前1900年~前1625年頃
新宮殿時代:中期ミノア文明MMIII期~後期ミノア文明LMIIIA1期
紀元前1625年~前1375年頃

・旧宮殿の造営: 紀元前1900年頃/クノッソスなど「旧宮殿時代」の始まり
・旧宮殿の破壊: 紀元前17世紀後半/地震&火災/「旧宮殿時代」の終焉
・新宮殿の造営: 紀元前1625年頃/クノッソスなど「新宮殿時代」の始まり・大繁栄の文明
・三か所新宮殿の崩壊: 紀元前1450年頃/「侵攻ミケーネ人」の攻撃か?
・「占領ミケーネ人」の統治: 紀元前1450年以降/ミケーネ文明の影響・ミノア文明の変容
・クノッソス新宮殿の崩壊:  紀元前1375年頃/「新宮殿時代」の終焉&ミノア文明の衰退

ミノア文明のセンターであったクノッソス宮殿を除く、フェストス(ファイストス)宮殿 Phaestos/Phaistos Palaace やマーリア宮殿 Malia Palace、ザクロス宮殿 Zakros Palace の3か所の主要宮殿、そして多くの高貴な邸宅、さらに繁栄していたミノア人の町などは、そのほとんどが火災で焼け落ちている。
その時期は、紀元前1500年頃のテラ島の火山爆発の時期より、50年前後遅れた紀元前1450年頃、そして重要なことはそれらがまったくの同時ではなく、若干のタイムラグをもって次々に破壊されたことである。

これらのミノア主要宮殿などの破壊と崩壊の原因は、単純に考えられる火山灰の降灰により主力の農業への打撃、大地震やその結果の大津波などの一過性の自然災害に起因するのではなく、1年~数年程度の時間差をもった、かなりの確率で連続的な「人による破壊行為」であった、と考える方がより妥当であろう。

クレタ島ミノア文明・宮殿群 地図 Map of Minoan Palaces in Crete/©legend ej
クレタ島・ミノア文明・宮殿遺跡 地図
作図:legend ej

クレタ島・中央北部・ミノア文明・遺跡 地図 Map of Minoan Sites, North-Central Crete/©legend ej
クレタ島・中央北部・ミノア文明・遺跡 地図
作図:legend ej

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・大階段周辺
クレタ島・メッサラ平野/1982年


ミノア文明・マーリア宮殿遺跡 Minoan Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡・西翼部・支柱礼拝室
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年


ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡 Minoan Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・北翼部~西翼部~中央中庭
クレタ島・最東部/1996年



火山灰の降灰と農業&産業への打撃

テラ島の大爆発の火山灰がエーゲ海全域に降りそそぎ、以降10年~20年間の長い期間、クレタ島での農作物の収穫ができなくなり、その結果人々は島を去り、文明が衰退していった、とする納得し易い一般論的な説もある。
しかし、エーゲ海の広範囲の海底調査を行ったアメリカ研究チームの調査レポートでは、爆発時の風向きは冬の時期の北西からの風、海底に積もった火山灰はテラ島の南方に位置するクレタ島ではなく、テラ島~南東の方角、ドデカネス諸島に属する細長いカルパトス島 Karpathos とカソス島 Kasos 方面に降り注いだとされる。しかもほとんどの火山灰は、島々が無いエーゲ海域に拡散されたことが判明している。

また、大爆発の時、風は南西から北東へ吹いていたとする別のレポートでは、テラ島からの火山灰の大部分は、エーゲ海・パトモス島 Patmos やサモス島 Samos を初め、トルコの南西地域に降り注いだとされる。

テラ島の大爆発が地球規模の、それほどの大爆発が冬の時期に発生したとするなら、クレタ島のみならず、北西のヨーロッパ・アルプスから吹き降ろす風に乗って、カルパトス島の北東に位置するロードス島 Rhodes を初め、さらに東地中海のキプロス島 Cyprus、あるいは中東諸国やエジプトなどの地域が、より火山灰の飛来被害を受けたはずである。
しかし、ドデカネス諸島や中東地域の発掘調査では、テラ島からの大量の火山灰などの存在を最もらしく証明している考古学的なレポートはない。

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ミノア主要宮殿の破壊と崩壊/ミケーネ人のクレタ島侵攻

ギリシア本土のミケーネ文明は、1世紀ほど先行していたクレタ島ミノア文明の影響を受けながら、紀元前1500年より以前から、特にペロポネソス地方を中心に興隆してきた。
ミケーネ人は早い時期からエーゲ海キクラデス諸島へ進出しており、強い戦力を持つこの好戦的なミケーネ人が、紀元前1450年頃、クレタ島のほとんどの宮殿と邸宅などの主要センターを波状的な攻撃で破壊したとしても不思議ではない。

1876年、「宝探しの考古学者」と言われたドイツ人実業家シュリーマン J.H. Schliemann による、宮殿内部・円形墳墓Aの発掘で明らかになったようにミケーネ人の本拠地は、供給地エジプトから膨大な量の金を輸入、「黄金のミケーネ Myceanae Rich in Gold」と呼ばれたペロポネソス・アルゴス地方のミケーネ宮殿 Mycenae Palace とティリンス宮殿 Tiryns Palace である。

ミケーネ文明・ペロポネソス地方・宮殿遺跡 地図/©legend ej
ペロポネソス地方・ミケーネ文明・宮殿遺跡 地図
作図:legend ej

ミケーネ文明・ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A・《アガメムノンの金製マスク》Agamemnon's Gold Mask, Grave Circle A, Mycenae Palace/©legend ej
ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A出土・《アガメムノンの金製マスク》
後期ヘラディックLHI期・紀元前1550年~前1500年
アテネ国立考古学博物館・登録番号624/高さ315mm
ペロポネソス・アルゴス地方/1987年

世界遺産/ミケーネ文明・ミケーネ宮殿遺跡・ライオン門 Lion Gate, Mycenae Palace/©legend ej
世界遺産/ミケーネ宮殿遺跡・「ライオン門」&分厚い城壁
門上部リンテル石の上に向かい合う二頭のライオン像
ペロポネソス・アルゴス地方/1982年

世界遺産/ミケーネ文明・ティリンス宮殿遺跡 Mycenaean Gate, Tiryns Palace/©legend ej
世界遺産/ティリンス宮殿遺跡・入城門
巨大な石材構造・ミケーネ様式の城門&城壁
ペロポネソス・アルゴス地方/1982年

GPS 世界遺産/ミケーネ宮殿遺跡: 37°43′49.5″N 22°45′23″E/標高240m
GPS 世界遺産/ティリンス宮殿遺跡: 37°35′56″N 22°48′02″E/標高25m

「蛇の女神」と「黄金の両刃斧」を崇め、雄牛にパワーの源泉を求め、想像上の動物・「グリフィン」に神秘性と畏敬の念を抱いたクレタ島・ミノアの人々。
卓越した海洋性デザインに象徴される絵柄の陶器など、自然を尊び平和主義のミノア文明の、クノッソス宮殿を含めすべての宮殿には、王の住む宮殿でありながら城門もなく、敵からの防御を目的とする高く堅固な城壁もなかった。

戦いが当たり前の東地中海域の先史の時代、「城門&城壁のない宮殿」の存在は、ミノア文明の「七不思議」と言っても良いほどの、「宮殿時代」の約500年間を中心として、美しい女性達や鮮やかな草花など優美なフレスコ画でも証明される、徹底した平和主義を貫き通して文明の繁栄を極めたクレタ・ミノア人の偉大さかもしれない。

ミノア文明・「蛇の女神」 Snake Goddess, Knossos Palace/©legend ej
ミノアの人々が崇拝した《蛇の女神》
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・ファイアンス陶器(上半身)
原画情報:発掘者サー・アーサー・エヴァンズ・発掘レポート
「The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.I(1921)」
クレタ島・中央北部/模写:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画《青の婦人達》 Fresco Ladies in Blue, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・フレスコ画《青の婦人達》
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/1994年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画の邸宅・《青い鳥》 Fresco Blue Bird, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・「フレスコ画の邸宅」出土
フレスコ画《青い鳥》/高さ約60cm
イラクリオン考古学博物館/紀元前1550年~前1500年
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


ミノア文明・海洋性デザイン陶器・タコの絵柄 Minoan Marine Style, Octopus design, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・西翼部出土・アンフォラ型容器
海洋性デザイン・タコの絵柄デザイン
イラクリオン考古学博物館・登録番号13985
クレタ島・最東部/1994年


また、フランス考古学チームは北海岸のマーリア宮殿遺跡の西翼部・宝庫、または聖所付近から蛇紋岩製のほら貝形容のリュトン杯を見つけている。
貝の最大膨らみ部には、台座に乗った二頭のライオン頭の「精霊」が向かい合い、右精霊がミノア容器から神酒を注ぎ、それを左精霊が手の平で受けて飲む、いわゆる「盃を交わす」シーンが表現されている。エジプトからの影響が認められる極めて神聖なシーンでありながら、敢えてややコミカルな描写、これは裏を返せばミノア人の上質で高い精神文化を証明しているだろう。

ノア文明・マーリア宮殿遺跡・石製リュトン杯 Minoan Stone Rhyton Vase with Lion-head Demons, Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡出土・ホラガイ形容の石製のリュトン杯
黄色線枠内=二頭のライオン頭の精霊が「盃を交わす」
新宮殿時代の前半・紀元前1600年~前1500年/長さ27cm
アギオス・ニコラオス考古学博物館・登録番号AE11246
クレタ島・中央北部/1996年/描画&色彩:legend ej


そして、エジプトや中東諸国との海外交易を得意とするミノア文明では、交易舟は多数所有していたはずだが、ミケーネ人のように強力な海軍力は備えていなかった。
「戦いこそ全て」の好戦的なミケーネ人からすれば、武力を持たず繁栄の極致にあった「楽園」のクレタ島ミノア文明への攻撃と破壊行為は、反撃を想定する必要のない極めて容易なことであった、と想定できる。

ミケーネ文明・「ミケーネ兵士」の絵柄陶器 Mycenaean Ware, Soldiers Design, Mycenae Palace/©legend ej
ミケーネ宮殿遺跡出土・大型クラテール型容器
戦闘用衣装と武器を携えた好戦的な「ミケーネ兵士」の絵柄
アテネ国立考古学博物館/高さ430mm
ペロポネソス・アルゴス地方/1987年

侵攻ミケーネ人」による攻撃により、紀元前1450年頃、南西部メッサラ平野のフェストス(ファイストス)宮殿、北海岸のマーリア宮殿、そして最東部のザクロス宮殿の三か所のミノア宮殿は破壊された。
「侵攻ミケーネ人」の攻撃は大規模な宮殿のみならず、イラクリオン~西南西11kmのティリッソスや東部シティア近郊のゾウなどの高貴な地方邸宅を初め、準宮殿の建つアギア・トリアダや東部の海岸近くのグルーニアなど平和であった繁栄のミノア人の町、さらには北海岸のプッシーラ島など小規模な居住地まで、クレタ島の隅々まで徹底的に破壊が及んだ。

プッシーラ島の居住地で見つかった美しいフレスコ画は、水源も草木も少ない岩の島でありながらも、居住地が如何に平和で安穏な時代であったかを証明している。その「侵攻ミケーネ人」のクレタ島への激しい攻撃&破壊は、おそらく数年の間、長くとも5年以内と考えられる。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡 Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡
左側=市街地区域/右側=「準宮殿」の区域
居住地は紀元前1450年頃に破壊された
クレタ島・メッサラ平野/1982年


ミノア文明・ティリッソス遺跡 Minoan House A, Tylissos/©legend ej
ティリッソス遺跡・「邸宅A」
円柱礎の主部屋~角柱の支柱礼拝室
高貴な造りの邸宅は紀元前1450年頃に破壊された
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・ゾウ遺跡・北東区画 Minoan house of Zou/©legend ej
ゾウ遺跡・邸宅遺構・北東区画
大型切石の分厚い壁面は「上階」の存在を連想する
典型的な地方邸宅は紀元前1450年頃に破壊された
クレタ島・東部/1996年


ミノア文明・グルーニア遺跡 Minoan Settlement, Gournia/©legend ej
グルーニア遺跡・丘の頂上付近・「小宮殿」&列柱
左遠方=紺藍のエーゲ海・ミラベロ湾
繁栄のミノア人の町は紀元前1450年頃に破壊された
クレタ島・東部/1982年


ミノア文明・プッシーラ遺跡・フレスコ画《ミノアの女神 or 王女》Fresco Minoan Goddess/Princess, Pseira, Crete/©legend ej
プッシーラ遺跡・浮彫フレスコ画《ミノアの女神 or 王女》
紀元前1500年~前1450年/イラクリオン考古学博物館
「侵攻ミケーネ人」が居住地を破壊する直前時期の壁画
クレタ島・東部/描画:legend ej

しかし、ミノア中央政府のクノッソス宮殿だけは、その後の「占領ミケーネ人」によるクレタ島統治の本拠地として必要であり、ほかの3か所の主要宮殿とは異なり、紀元前1450年頃のステージでは部分的な破壊はあったにせよ、クノッソス宮殿の完全破壊はなかった、と考えられる。

その後、紀元前1375年頃に発生した大火災により、クノッソス宮殿は最終的に崩壊する。主要宮殿と邸宅と町が破壊された後、75年ほどの期間、新しい統治者となった「占領ミケーネ人」が、クレタ島で唯一残されたクノッソス宮殿から、島全体の支配権を行使し続けた、と推量することができる。

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紀元前1450年以降/ミノア文明の政治的な変化

ミノア人の文字・線文字A/ミケーネ人の文字・線文字B

「侵攻ミケーネ人」によるクレタ島襲撃と占領を裏付けるのは、120年前に行われたイギリスの考古学者サー・アーサー・エヴァンズ Sir Arthur Evans のクノッソス宮殿遺跡の発掘ミッションにより、ギリシア本土ミケーネ文明で使われた線文字Bスクリプトで刻まれた大量の粘土板が発見されたことに拠る。
この線文字B粘土板が作成された時期については、発見された粘土板の焦げ跡からして、紀元前1375年頃のクノッソス宮殿崩壊時の大火災による高熱の結果と見るべきである。

クレタ島のミノア文明では、クノッソス宮殿は全面破壊を免れたが、メッサラ平野のフェストス(ファイストス)宮殿や北海岸のマーリア宮殿、東端のザクロス宮殿の3か所の主要宮殿、多くの邸宅やミノアの町が相次いで破壊される紀元前1450年頃まで、現在でも未解読である線文字Aスクリプトの「ミノア文字」が使われていた。

ミノア文明・線文字A粘土板 Minoan Linear A from Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡出土・線文字A粘土板
紀元前1700年頃・ミノア文明の文字
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・線文字A粘土板 Minoan Linear A tablet, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡・記録保管室出土・線文字A粘土板
新宮殿時代の後半・紀元前1500年~前1450年
左=イラクリオン考古学博物館・登録番号7/高さ約100mm
右=イラクリオン考古学博物館・登録番号8 (Not to Scale)
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

線文字Aが使われ始めた時期は?
イラクリオン考古学博物館 線文字スクリプト研究者 Georgia Fouda によれば、ミノア文明では、 紀元前16世紀の初め、「新宮殿時代」の初期、中期ミノア文明MMIII期頃までには、クレタ島のすべてのミノア居住地で線文字Aが使われていた、とされる。
この意味は、山間部の小さな集落や人口の少ない居住地を除き、クノッソス宮殿と主要宮殿や地方の邸宅を含む特定の場所では、すでに紀元前17世紀より前の「旧宮殿時代」から線文字Aの「記述」が普及していたことを連想させる。

にもかかわらず、主要宮殿と邸宅などが破壊された紀元前1450年以降、クノッソス宮殿が完全崩壊する紀元前1375年頃までの約75年間、クノッソス宮殿の統治者はミノアの線文字Aではなく、ギリシア本土ミケーネ文明の線文字B粘土板を用いて、国家レベルの色々な記録作業を行っていた、と判断できる。


線文字Bスクリプトの粘土板は、クレタ島ではクノッソス宮殿遺跡以外からの出土例はない。このことは紀元前1450年~前1375年頃まで、文字として線文字Bはクノッソス宮殿以外では使われていなかった。
そして、それは当然の事、すでに紀元前1375年頃には、ほかの主要宮殿や邸宅などが破壊され、それらミノア文明の地方の統治センターは焼け落ちて、「存在」していなかったことを意味している。

考古学者エヴァンズの発掘ミッションでは、クノッソス宮殿遺跡から出土した線文字Bスクリプトの粘土板は、微細片も含め合計3,000点とされる。そのほとんどは西翼部の一階、宮殿の直轄管理の貯蔵庫群と聖域区画からである。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫群 Storerooms, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・貯蔵庫群
第3号室~6号室付近/狭い幅・奥行きの長い構造
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫群の長い通廊 Long Corridor of West Storerooms, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・貯蔵庫群の長い通廊
貯蔵庫・第4号室入口~北方向(第16号室)を見る
・通廊の脇壁=複数の大型のピトス容器が残る
・床面中央=地中収納ピット(保護板カバー)
・貯蔵庫・第7号室入口=両刃斧の石製角錐台
・復元天井(暗所)=貯蔵庫・第8号~12号室
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1994年


先端が鋭利な器具を使い、柔らかな粘土板に刻まれた絵文字や記号などのほとんどは、毎年集計されたのであろう宮殿管理の国家的な財政データ、あるいは納税に関係する農産物の収穫、牧畜や工芸品の物納状況、さらには国家公務員や貴族階級への備品や食料などの配給実績データなどである。

これらがクノッソス宮殿の記録保管室や貯蔵庫群内などに収められていた時、歴史に刻む大火災が発生したことにより、粘土板は高温で焼けて、陶器と同じように雨水や時効劣化に対抗できる硬質へと変化したことで、3,000年以上も変質することなく残されて来た。

非常に稀な例となるが、研究者から「(ちょうな・手斧)の粘土板グループ」として知られているが、宮殿・西翼部の貯蔵庫・第8号室内からは、保管されていたのが石膏石の容器か、または石膏石板の棚上だったのか、高熱で溶解した石膏石が陶器化した複数の粘土板を包むようにして冷却・固化した状態での出土例もある。横長の台形に刻まれた「鐇(手斧)」の保管個数を記録した帳簿的な粘土板群である。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・線文字B粘土板・「手斧の粘土板」Linear B from Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・貯蔵庫出土・「鐇(手斧)」の線文字B粘土板
粘土板の周りは溶解・固化した石膏石/イラクリオン考古学博物館
写真情報:発掘者サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
「The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.IV(1935)」
Digital Library, Heidelberg U.
粘土板・描画:legend ej

発掘された線文字B粘土板の製作時期は、間違いなく紀元前1375年頃、より厳密に言及するならば、クノッソス宮殿の大火災の当日を含め数日前、少々時間的な余裕を持ってしても大火災が発生する過去1年以内に製作された、と断定して良いだろう。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・線文字B粘土板・「手斧の粘土板」Linear B from Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡出土・線文字B粘土板
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/1994年

クノッソス宮殿遺跡から発掘された保存状態の良い線文字B粘土板は、イラクリオン考古学博物館で見ることができる。
それらは小麦やオリーブなど宮殿管理の一般的な物品も多いが、誰が見ても一目で理解できる二輪戦車や軍馬など、好戦的な絵柄の刻みもかなりの点数が確認できる。
文明の性格上から推論するならば、これらの粘土板は軍事力を最優先させ、戦いでエーゲ海域の支配権を手中に収めた、ギリシア本土から侵攻して来たミケーネ人による線文字Bスクリプトの記録簿、現代風に言えば、先史時代の「CD-ROM」と言えるだろう。

クノッソス宮殿遺跡・西翼部の聖域区画から出土した、最も良く知られた線文字B粘土板・「二輪戦車」(イラクリオン考古学博物館・登録番号1609/KNSC230)の表意訳では、「鎧をまとった湾岸労働者(人名)は、二頭立て二輪戦車を操縦する/Richard Vallane Janke(2016)」とされる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・線文字B粘土板・「手斧の粘土板」Linear B from Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・「二輪戦車」の線文字B粘土板
紀元前1450年以降・クレタ島「占領ミケーネ人」の文字
イラクリオン考古学博物館・登録番号1609/長さ約100mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej



紀元前1450年以降/ミノア文明の変容

石製加工技術の終焉&陶器形式の急激な変化

ギリシア本土から侵攻して来たミケーネ人による攻撃か? ミノア文明の3か所の主要宮殿であったフェストス(ファイストス)宮殿とマーリア宮殿、ザクロス宮殿、さらにエーゲ海岸のニロウ・カーニや南岸のミルトス・ピルゴスなど各地の豪華な邸宅などが、相次いで崩壊した紀元前1450年以降、クレタ島生産の石製品の生産停止、そして文化を顕著に反映する陶器の器形絵柄モチーフに極端な変化が現れて来る。

ミノア文明・ニロウ・カーニ遺跡 Ninoan House, Nirou Khani/©legend ej
ニロウ・カーニ遺跡・主玄関~舗装広間
二本円柱~主玄関~舗装広間/右奥=中央通路/右側=エーゲ海方向
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


紀元前1450年頃を境として、先ずミノア文明お得意の無尽蔵の岩石を加工する石製容器の生産が突然と消滅する。「新宮殿時代」の東地中海域でもっと美しい形容とデザインを誇ったミノア石工達の伝統の技、現代でも通用するほどの見事な石製品の加工技術が途絶えてしまった。

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・山頂聖所リュトン杯 Peak Sanctuary Rhyton, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・西翼部出土・石製リュトン杯
緑泥石製・「山頂聖所リュトン杯」/腹部直径140mm
・荘厳な山頂聖所&雄牛角型オブジェに止まる鳥・飛ぶ鳥
・野生ヤギの群れ(聖所で休む・岩場を飛ぶ・岩場を登る)
イラクリオン考古学博物館・登録番号2764
クレタ島・最東部/描画:legend ej

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・石製リュトン杯 Minoan Stone Rython, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・西翼部出土・石製リュトン杯
スパルタ玄武岩製リュトン杯/高さ460mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号2712
クレタ島・最東部/描画:legend ej


ミノア陶器の絵柄デザインでは、これまで魚や貝や海草などを描く海洋性デザイン、草花など植物性の対象物をモチーフにした自然主義が主体であった。

ミノア文明・ニロウ・カーニ遺跡 ・円筒型容器・海洋性デザイン Minoan Marine Style Vase, Nirou Khani/©legend e
ニロウ・カーニ遺跡出土・円筒型容器
海洋性デザイン・ホラガイ&海草の絵柄
イラクリオン考古学博物館・登録番号7572/高さ180mm
描画:legend ej


ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・小宮殿遺構・アラバストロン容器 Minoan Alabastron, Octopus, Knossos-Little Palace/©legend ej
クノッソス地区・小宮殿遺跡出土・アラバストロン型容器
海洋性デザイン=タコの絵柄/高さ180mm
後期ミノア文明LMIB・紀元前1500年~前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号2690
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・パライカストロ遺跡・海洋性デザイン・タコの絵柄水入れ Minoan Marine Style Octopus Jar, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡・「Block B」出土・鐙型注ぎ口付き水入れ
レンズ・フレスコ型/海洋性デザイン・タコの絵柄
後期ミノア文明LMIN期・紀元前1500年~前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号3383/高さ280mm
クレタ島・最東部/描画:legend ej

ミノア文明・海洋性デザイン様式・リュトン杯 Minoan Marine Style Rhyton/©legend ej
ミノア文明・海洋性デザイン様式・陶器リュトン杯
頸部=小ハンドル・宮殿発祥の優美な涙滴型(卵型)
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
=パライカストロ遺跡出土・リュトン杯/高さ285mm
絵柄=ホラガイ・岩礁・海草・アオイガイ
イラクリオン考古学博物館・登録番号3396
=ザクロス宮殿遺跡出土・リュトン杯/高さ330mm
絵柄=ウニ・海草・ホラガイ
イラクリオン考古学博物館・登録番号2085
=プッシーラ遺跡出土・リュトン杯/高さ270mm
絵柄=海草&波間に泳ぐイルカの群れ
イラクリオン考古学博物館・登録番号4508
クレタ島・東部~最東部/描画:legend ej

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・植物性デザイン様式陶器・ヨシの絵柄水差し Reeds Painter Jug, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡出土・植物性デザイン様式水差し
「ヨシの絵柄」の精緻な表現/高さ290mm
新宮殿時代・紀元前1500年~前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号3962
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej


しかし、自然主義のモチーフが最大特徴であったミノア陶器の絵柄が、クレタ島への侵攻後に「占領ミケーネ人」が開発した宮殿様式陶器や、すでにギリシア本土で流行していた脚ステムの長いキリックス杯の応用であるエフィレアン様式容器などの抽象化された絵柄デザインへ、さらに好戦的なミケーネ人を象徴する兵士姿武具戦闘シーンの絵柄へと急速に変化して行く。

ミノア文明・クノッソス遺跡・宮殿様式陶器・植物性デザイン Palace Style, Floral Design, Knossos Area/©legend ej
イソパタ遺跡・「王家の墳墓」出土・アンフォラ型容器
宮殿様式・美しい器形・パピルスの抽象化絵柄
新宮殿時代・紀元前1450年~前1400年
イラクリオン考古学博物館・登録番号3882/高さ635mm
クレタ島・中央北部/1982年


陶器類の形容やデザインの劇的な変化は、この時期、紀元前1450年以降、すでにクレタ島では王の住む宮殿でありながら城壁を設けず、自然と平和を愛した純粋な「クレタ・ミノア人」の存在は消滅して、陶器の形容とモチーフに象徴される好戦的な「ミケーネ人の社会」が成立していたことを意味しているだろう。

それを裏付ける典型例では、クノッソス宮殿遺跡の少し北方、イラクリオンの東郊外のカタンバ墳墓遺跡からは、肩部に三か所のハンドル付き、腹部には合計4個、イノシシ牙で強固された兵士の戦闘用ヘルメットを横にした大胆な絵柄の宮殿様式のアンフォラ型容器も出土している。
装飾容器の絵柄モチーフからして、戦いとは無縁の平和主義を貫いた本来のミノア文明ではなく、明らかに好戦的な「占領ミケーネ人」が好んだモチーフであることから、墳墓の被葬者は間違いなく「占領ミケーネ人」であろう。
容器の製作時期は、クノッソス宮殿が「侵攻ミケーネ人」の攻撃を受けた後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1400年頃とされる。

ミノア文明・クノッソス・カタンバ遺跡・宮殿様式水差し Minoan Palace Style Jug, Knossos-Katsamba/©legend ej
イラクリオン近郊・カタンバ遺跡出土・宮殿様式のアンフォラ型容器
新宮殿時代の後半期・紀元前1450年~前1400年
イラクリオン考古学博物館・登録番号10058/高さ474mm
クレタ島・中央北部/1994年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・エフィレアン様式ゴブレット杯 Ephyrean Goblet, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿地区・邸宅遺構出土
エフィレアン様式ゴブレット杯/高さ約170mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号21154
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


ミケーネ文明・キリックス杯 Mycenaean Kylix/©legend ej
ミケーネ文明・マルコポウロ遺跡出土・キリックス杯
高い脚・抽象デザイン・巻貝の絵柄
アテネ国立考古学博物館・登録番号3740
ギリシア本土アッテカ地方/描画:legend ej

ミノア文明・抽象デザイン陶器/©legend ej
クレタ島出土・アンフォラ型容器
ミノア文明末期・抽象デザイン・タコの絵柄
イラクリオン考古学博物館
クレタ島/描画:legend ej


クノッソス宮殿周辺・「占領ミケーネ人」の埋葬

クノッソス宮殿遺跡~北方1km付近、カイラトス川方向へわずかに傾斜するエリア、ザフェール・パポウラ墓地遺跡 Zafer Papoura では、南北約200mx東西約140mの区域から、竪穴墓・横穴墓・ピット墓、合計100基を数える無数の墳墓が確認された。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡&周辺 地図 Map of Prehistoric Sites around Knossos Palace/©legend ej
イラクリオン~クノッソス宮殿遺跡 先史文明遺跡 広域地図
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

その内、「首領の墳墓 Chieftain's Grave」と呼ばれる竪穴墓(第36号墓)では、墳墓は縦方向に二層の構造、先ず地表から深さ約3mの竪穴には複数の平石板が幅1m超x2m超の広さで敷かれ、その上にホタテ貝紋様の青銅製水入れ容器、象牙ハンドル付きの青銅製の鏡と両ハンドル付きの容器、さらに青銅製のフライパン風の器具、そしてやや長めの青銅製の槍先が二本並べてあった。

平石板は事実上の埋葬室のカバーの役目を果たし、石板からさらに1m深く掘削された幅約75cmx約2mの広さの埋葬室に一人の遺体が安置されていた。遺体の頸骨周りにはアオイガイ形容の金製ネックレースが、左腕付近からはメノウ、平行縞模様のオニキス・メノウ、カーネリアン(赤玉髄)の宝石ビーズが見つかった。
遺体の右側には、研究者の分類・区分では、「Cross Sword」の別名で知られている「D-type 装飾剣」と呼ばれるやや短めの剣(長さ610mm)が一本、そして別名「Horned Sword」と呼ばれる象牙の柄頭の「C-type 装飾剣」が一本(長さ945mm)、副葬されていたとされる。

研究者による分類・区分/ミノア文明&ミケーネ文明の装飾剣
ギリシア本土ミケーネ文明でも相当数出土している「Cross Sword/D-type 装飾剣」の最大の特徴は、ショルダー(刃区)が凸状で丸みを帯び、タング(中子)は鍔状(フランジ風)、そして盛り上がりのリブが明瞭な薄いブレード(剣身)である。
一方、強化したリブが目立ちながらもブレードは薄く、ショルダーが角のように尖り、その先端がグリップハンドル(柄)側へ突き出て、剣を握る手を保護するような形容の特徴的な剣は、「Horned Sword/C-type 装飾剣」と呼ばれている。

「首領の墳墓」から出土した象牙の柄頭の「C-type 装飾剣」、柄頭含め長さ955mmの長剣では、柄頭の象牙は青銅製のリベットで固定、木製とされるグリップハンドルは三か所の金製リベットで、ショルダー部が二か所のやはり金製リベットで固定されていた。
グリップハンドルの側面(青銅部分)には二列の連鎖渦巻き線紋様が刻印、さらにそれは延長されてショルダー部クロスガード(鍔)の側面にも二列連鎖の渦巻き線紋様が刻印されている。また、ブレード(剣身)の中央線は盛り上がりの強化リブ仕様、やはり二列連鎖の渦巻き線紋様が刻印されている。

ミノア文明・ザフェール・パポウラ遺跡出土・青銅製・装飾長剣 Minoan Bronze Long Sword,  Zafer Papoura, Knossos/©legend ej
ザフェール・パポウラ遺跡出土・青銅製の装飾長剣
竪穴墓・「首領の墳墓」・金製リベット固定装飾剣
・グリップ側面=連鎖する渦巻き線紋様
・クロスカード側面=連鎖渦巻き線紋様
・ブレード中央リブ=連鎖渦巻き線紋様
・柄頭=象牙製・青銅リベット固定
イラクリオン考古学博物館/長さ955mm(柄頭含む)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・ザフェール・パポウラ遺跡出土・青銅製短剣・金装飾 Minoan Bronze Sword, Gold Plate of Lion and Goat, Zafer Papoura, Knossos/©legend ej
ザフェール・パポウラ遺跡出土・青銅製の中型剣
竪穴墓・「首領の墳墓」・金表装の装飾剣/長さ610mm
・グリップ・打出加工=ヤギを襲うライオン
・グリップ側面=連鎖する渦巻き線紋様
・クロスカード側面=連鎖渦巻き線紋様
・ブレード中央リブ=連鎖渦巻き線紋様
・柄頭=オニキス・メノウ製・直径44mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号1098
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

平行縞模様のオニキス・メノウの柄頭の「D-type装飾剣」、長さ610mmの中型剣では、グリップハンドルに三か所(大)、ショルダー部に二か所(小)、合計五か所のリベット留めがある。
ハンドルの柄頭側には逃げ惑う野生ヤギの腰~後脚を襲うライオンが、さらにショルダーにはライオンと野生ヤギが互いにけん制し振り返って見つめ合うシーンが打ち出し表現されている。

グリップハンドルの側面(青銅部分)には、上述の長剣と同様に、二列の連鎖渦巻き線紋様が刻印、さらにそれは延長されてショルダー部クロスガード(鍔)の側面にも二列連鎖の渦巻き線紋様が刻印されている。また、ブレード(剣身)の中央線は盛り上がりの強化リブ仕様、やはり二列連鎖の渦巻き線紋様が刻印されている。

二本の剣は後期ミノア文明LMII期、紀元前1450年~前1350年頃に属するとされ、「侵攻ミケーネ人」によるミノア諸宮殿や地方邸宅の破壊の後の埋葬と推測される。剣の所有者(被葬者)は、槍先や装飾剣が副葬されていたことから、極めて高位の立場にあった「占領ミケーネ人」の男性であろう。
また、ザフェール・パポウラの墳墓サイトの中央よりやや南東寄り、通路ドロモスを備えた第14号墓・「三脚炉床の墳墓 Tomb of Tripod Hearth」と呼ばれる墳墓からは、色々な青銅製の日用品が出土している。
エヴァンズの発掘レポート(1928年)で発表されたイラスト画では、円形の石膏製の三脚炉床を除き、すべて青銅製であるが、大鍋~中型の浅鍋を初め水入れ&水差し、皿やカップやスープラドル(お玉杓子)など14点が含まれる。

ミノア文明・クノッソス宮殿近郊・ザフェール・パポウラ墳墓遺跡・青銅製品/Sir Arthur John Evans (1928)
クノッソス宮殿近郊・ザフェール・パポウラ墳墓出土・青銅製品
「三脚炉床の墳墓」出土品/手前=石膏製の三脚炉床
画像情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
「The PALACE of MINOS at KNOSSOS vII(1928)」
クレタ島・中央北部

「三脚炉床の墳墓」は、ザフェール・パポウラ共同墓地サイトで確認された100基の墳墓の中で最大サイズ、幅1.6mの通路ドロモスは約15mの長さ、入口は底部幅72cm・上部幅51cm・高さ190cm・奥行き120cm、方形の埋葬室は横幅3.7mx奥行き2.8mとされた。
発掘では、埋葬室の左半分に三脚炉床のほか、合計14個を数える青銅製の日用品が集中的置かれ、右奥には掘削された横幅40cmx縦幅1mx深さ45cmほどの埋葬ピットがあり、土に覆われていない一人の遺体が在った。
埋葬ピットの手前のスペースには、象牙製の奉納箱の痕跡、青銅製の「C-type 装飾短剣」と腐食した短剣、青銅製の槍先と鏡などが置かれていたとされる。装飾短剣などの出土から被葬者は高位の「占領ミケーネ人」と考えられる。


さらに、クノッソス宮殿遺跡からイラクリオン方面へ向かうと、北西2.3km付近の住宅地にアギオス・イオアニス教会堂 Agios Ioannis がある。この地区からも複数の墳墓が確認されている。
特に目立った出土品では、金製宝飾品の出土例が少ないクレタ島にあって、非常に珍しい渦巻き紋様を打ち出し加工した深さの浅い金製のカップが見つかっている。
渦巻き紋様はカップの側面を連鎖するように加工され、ハンドルはギリシア本土ミケーネ文明で流行したリングハンドルが付けられている。この特徴的なハンドル形式からの判断では、被葬者が本土ミケーネ文明の地から持ち込んだ金製カップではないか、と推測できる。
そうならば、墳墓の被葬者は紀元前1450年頃にクレタ島を攻撃して居住を始めた「占領ミケーネ人」であったであろう。

ミノア文明・クノッソス地区・アギオス・イオアニス遺跡 Mycenaean Gold Cup, Knossos-Agios Ioannis/©legend ej
クノッソス宮殿近郊・アギオス・イオアニス遺跡出土・金製カップ
ミケーネ様式リングハンドル&渦巻き紋様の打ち出し加工
イラクリオン考古学博物館・登録番号758/高さ37mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

また、アギオス・オヌフリオス遺跡の同じ墳墓からは、青銅製の薄板でできた円錐形容の兵士用ヘルメットも出土した。腐食が進行しているが、頭頂部に羽根飾りを付ける突起があり、長めの頬当てがリベットで固定されている。
このタイプの青銅製ヘルメットでは、ギリシア本土ミケーネ宮殿遺跡から出土した大型のクラテール型容器(上述)に描かれた、好戦的なミケーネ兵士が被るヘルメットに近似している。

ミノア文明・アギオス・イオアニス遺跡・青銅製ヘルメット Bronze Helmet, Knossos-Agios Ioanis/©legend ej
アギオス・イオアニス遺跡出土・青銅製ヘルメット
青銅薄板の円錐形容・頭頂部に突起・長い頬当て
「兵士の墳墓」/紀元前1450年~前1400年
イラクリオン考古学博物館/高さ386mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミケーネ文明・「ミケーネ兵士」の絵柄陶器 Mycenaean Ware, Soldiers Design, Mycenae Palace/©legend ej
ミケーネ宮殿遺跡出土・クラテール型容器(部分)
戦闘用衣装・武器携行の好戦的な「ミケーネ兵士」の絵柄
アテネ国立考古学博物館/登録番号1426/容器高さ430mm
ペロポネソス・アルゴス地方/1987年



メッサラ平野・カミラーリ円形墳墓の埋葬の変化

南西部のフェストス宮殿遺跡~南南西2.6km、アギア・トリアダ準宮殿遺跡~南南西1.6km付近、オリーブ耕作地の中に中期ミノア文明の時代から長期に渡って埋葬に使われて来たカミラーリ遺跡 Kamilari の円形墳墓Aがある。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡&周辺 地図 Minoan Site, Map around Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡 周辺・ミノア文明遺跡 地図
クレタ島・メッサラ平野/作図:legend ej

GPS カミラーリ遺跡・円形墳墓A: 35°02′43″N 24°47′13″E/標高60m

ミノア文明・カミラーリ遺跡・円形墳墓 Messara Style Circlar Tomb, Kamilari/©legend ej
ミノア文明・カミラーリ遺跡・メッサラ様式円形墳墓
クレタ島・メッサラ平野/1994年

このメッサラ様式の円形墳墓では、「旧宮殿時代」の初期・中期ミノア文明MMIB期・紀元前1900年頃に建造され、その後、「新宮殿時代」の最盛期・後期ミノア文明LMI期・紀元前1500年頃まで約400年間、フェストス宮殿とアギア・トリアダ準宮殿に関係する王族や貴族階級など、比較的高貴な身分の人達の埋葬に使われて来た。
しかし、後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年以降、「占領ミケーネ人」の統治の時代では文明センター・クノッソス宮殿以外、フェストス宮殿を含めほかの三か所のミノア宮殿が破壊され、ミノア宮殿システムは崩壊、宮殿居住の統治者の存在が消滅したことから、出土品から円形墳墓Aは周辺のカミラーリやアギオス・イオアニスなどの居住地の庶民の埋葬墳墓へと変容した、と推定されている。

ミノア文明・カミラーリ遺跡・円形墳墓A・塑像 Minoan Cult Figure, Kamilari/©legend ej
カミラーリ遺跡出土・祭祀的シーンのテラコッタ塑像
庶民の埋葬・副葬品/故人(四人)への供物
後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年
イラクリオン考古学博物館・登録番号10574
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej



紀元前1375年頃/クノッソス宮殿の大火災と崩壊/ミノア文明の終焉

紀元前1375年頃、最終的にクノッソス宮殿の放棄も含め予想もできない何らかの重大な理由からか、または宮殿付属のキッチン担当者の単純な火の不始末とか、「奴隷」クラスになってしまったかつての主体者ミノア人による「占領ミケーネ人」に対する最後の反乱か、あるいは祈祷中の神官が誤って倒した石製ランプが出火原因となったか・・・
何れかの原因でクノッソス宮殿は大火災を起こし完全に焼失、ここに正統なミノア文明は急ぎ足で終焉へ向かう。

今から約120年前に行われた考古学者エヴァンズによる4年間のクノッソス宮殿遺跡の発掘ミッションでは、崩れた建物の隙間などから人々の遺体がまったく発見されていない。
この事実から推測できることは、クノッソス宮殿の崩壊は、間違いなく、建物倒壊で生き埋めの確率が高い突発的で一過性の地震ではなく、宮殿スタッフなどが安全に外部へ逃げることが可能な昼間に発生した何らかの火災が原因であり、延焼した火炎で宮殿全体が燃え尽き、結果、ミノア文明の衰退へ至った、と言えるだろう。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・推測模型/©legend ej
クノッソス宮殿・推測模型(木製)
部屋数1,000室/東翼部~中央中庭~西翼部
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/1996年


現在のクノッソス宮殿遺跡の遺構を見る時、多くの区画では壁面や石柱の南側がより焼け焦げの度合いが強い傾向にある。この意味は南方のアフリカ・サハラ砂漠方面から吹き付けた春の乾いた強風・「シロッコ」に煽られた結果と考えられる。

地中海の強風・メルテミ Meltmi とシロッコ Scirocco
メルテミ」は5月~9月頃、バルカン半島~ヨーロッパに乾燥した高気圧、トルコ方面に低気圧が配置された気象条件で発生する異常気象の一つ。晴天にもかかわらず、特にギリシア本土では北からの強風となり、より南方のクレタ島やエーゲ海の島々では北西からの風速15m~20mの乾いた強風となる。
先史時代では、小舟が海上交易に使われたことから、海洋民族・ミノア人にとって時折発生するメルテミの強風は、海難事故を引きお起こす最大の自然の驚異でもあった。

一方、早春~初夏の頃、地中海ではアフリカ・サハラ砂漠から乾燥した強風が吹き付けることがある。時には砂嵐を伴うこの強風をイタリアでは「シロッコ」と呼ぶ。

宮殿建物の多くの部分に石材を使用したとは言え、天井や室内の装飾などは木材が使われていたであろう。消火の手を尽くせぬまま、部屋数1,000室を誇ったクノッソスの大宮殿はおそらくは1週間、あるいは10日間以上も炎上し続けたに違いない。
その火柱は発掘者エヴァンズが復元・複製した宮殿石柱の朱色の塗装色よりも明るく、フレスコ画《女神パリジェンヌ》の情熱的なルージュと同じくらい、クレタの夜空を真っ赤に染め上げたはずである。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王の居室 外部 King's Room Complex, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・王の居室コンプレックス外部
木枠=前の間/円柱内側=控えの間(1980年代)
(現在 円柱&角柱より内側=立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画《女神パリジェンヌ Fresco Parisienne》 Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画《女神パリジェンヌ》
イラクリオン考古学博物館・登録番号11/高さ250mm
クレタ島・中央北部/1994年


クノッソス宮殿の西翼部1階に配置された貯蔵庫群のオリーブ油の大量貯蔵が裏目に出て、宮殿が最終崩壊する時、油が火力を一層増幅させたと考えられる。
特に22室を数える宮殿直轄の貯蔵庫の内部区画を初め、その外壁を成す西中庭に面する西正面部、西翼部・聖域の支柱礼拝室、さらには王座の間の王が座る石製王座さえも、大火災の後3,400年の年月の経過があっても、今でも激しいオリーブ油の火炎で極端に焼け焦げた真っ黒な痕跡を確認できる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫 火炎跡 Burn Trace West Storeroom, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・貯蔵庫・第4号室
火炎で焼けた角柱・壁面/地中には収納ピット群
床面にはオリーブ油用ピトス容器&アンフォラ型容器
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・支柱礼拝室 Pillar Crypt, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・東支柱礼拝室
角柱側面=聖なる両刃斧の刻み・黒焦げの火炎跡
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年


後期ミノア文明LMIIIA1期・紀元前1375年以降、クノッソス宮殿・西翼部の威厳ある王座の間の石製王座に「新たな王」が座ることはなく、ミノア文明は歴史の中で忘れ去られて行く。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王座の間 Throne Room, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・王座の間
火炎で焼けた石製王座&石膏石ベンチ&床面
西~北壁面(西側)フレスコ画=1913年復元
北壁面(東側)フレスコ画=1930年復元
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年


ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 関連ポストは「12部構成」となっています。
1. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace I 概要
2. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace II 西中庭~南翼部
3. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace III 中央中庭・王座の間
4. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IV 聖域・宝庫
5. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace V 貯蔵庫
6. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VI 女神パリジェンヌ
7. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VII 王の居室・聖所
8. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VIII 王妃の間
9. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IX 雄牛跳び
10. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace X 北~東翼部
11. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 周辺の先史遺跡
12. ミノア文明・クノッソス宮殿 崩壊の原因は?(当ポスト)

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