2020/01/08

ミノア文明・フォウルノウ・コルフィ遺跡 Fournou Korifi


フォウルノウ・コルフィの丘に残る居住地遺構

位置
クレタ島・東部南岸/アギオス・ニコラオス~南南西23km・イエラペトラ~西方12km
GPS
フォウルノウ・コルフィ遺跡: 35°00’24.50”N 25°36’33.50”E/標高60m


フォウルノウ・コルフィ居住地の位置は?

フォウルノウ・コルフィ遺跡 Fournou Korifi は、ミルトス・ピルゴス遺跡~東方1.7km付近、イエラペトラ Ierapetora へ向かう方角の標高55m~65mの小高い丘にある。居住地遺跡の東側には崖に近似する急な斜面、反対に居住地の西方は平原状の荒れ地と農耕地が広がっている。

クレタ島・東部・ミノア文明・遺跡 地図 Map of Minoan Sites, East Crete/©legend ej
クレタ島・東部・ミノア文明・遺跡 地図
作図:legend ej

ミノア文明・ミルトス・ピルゴス遺跡~フォウルノウ・コルフィ遺跡 地図 Map between Myrtos-Pirgos to Fournuo Korifi/©legend ej
ミルトス・ピルゴス遺跡~フォウルノウ・コルフィ遺跡 周辺 地図
クレタ島・東部南海岸/作図:legend ej

遺跡の南側直下にイエラペトラ~クレタ島中央北部を結ぶ南岸道路が走り、道路の下方は遥かエジプトへと続く紺碧のリビア海が広がる。
道路脇には居住地遺跡の存在を示すギリシア当局の赤茶色標識【Minoan Settlement⇒】があるが、道路からの登坂口付近は結構な急斜面である。少し遠回りとなるが、遺跡直下~東方250m、野菜栽培ハウスの脇から遺跡の尾根へ登る農作業用の道路があり、距離はややあるがなだらかな傾斜で標高55mの遺跡の北端区画へ到達できる。

ノア文明・フォウルノウ・コルフィ遺跡/Google Earth
フォウルノウ・コルフィ遺跡・居住地(赤線囲い)
クレタ島・東部南海岸
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入

ミノア文明・フォウルノウ・コルフィ遺跡・北東通路 Mioan Settlement, Fournou Korifi/©legend ej
フォウルノウ・コルフィ遺跡・北東通路
北尾根からアクセスする居住地の北東端
穀類の脱穀用か磨り減った石製品が残る
クレタ島・東部南海岸/1996年


居住地の発掘

1960年代初め、すでにイギリス人フード MSF. Hood やカドガン教授 G. Cadgan などにより考古学的な重要性が指摘されていたが、フォウルノウ・コルフィの丘での実際の発掘ミッションは、1967年~1970年、ピーター・オーレン P. Warren の考古学チームにより徹底して実施された。

ミノア文明・フォウルノウ・コルフィ遺跡/発掘レポート
フォウルノウ・コルフィ遺跡・居住地プラン図
クレタ島・東部南海岸
参考情報:発掘レポート⇒テキスト挿入

この地の最初の居住は初期ミノア文明EMII期、紀元前2600年頃に遡る。ここでは拡大された家族である氏族が居住して、初期の最小時で30人以上、繁栄時では最大100人~120人が居住する共同体を形成していた、と推測されている。
フォウルノウ・コリフィ居住地は、西方1.7kmのミルトス・ピルゴス Myrtos-Pirgos での居住(紀元前2400年頃)が始まってから200年後、初期ミノア文明EMIII期、紀元前2200年期に起った火災により、400年間続いた居住は果かなくも崩壊の運命を辿り、その後、再び居住されることはなかった。

居住地サイトの遺構

現在、フォウルノウ・コリフィ遺跡の範囲を示すギリシア当局の囲いは南北約70m、東西約40mだが、表層で確認できる住居遺構は南北約60m、東西30mあまりの範囲に広がっている。

ミノア文明・フォウルノウ・コルフィ遺跡 Minoan Settlement, Fournou Korifi/©legend ej
フォウルノウ・コルフィ遺跡・崩壊した家屋の遺構
西側の緩斜面エリア~中央尾根区画を見る
クレタ島・東部南海岸/1996年

訪ねた1996年には、遺構は全体的にはかなり破壊が進んでいたが、大小90~100前後の部屋群がわずかな通路でお互いに接合し合い、複合的な建造物の形容を残していた。ただ、紀元前2200年頃に居住地が崩壊した後の年月の経過、そして50年以上前の発掘された後に乾燥と風雨にさらされた結果なのか、全体の遺構はかなり複雑で混乱した状態であるのは間違いない。

アウトラインで言えば、居住地サイトは南北に延びる穏やかな尾根の西側斜面に展開、居住地の遺構自体も南北に細長い。サイトの北西部に西入口、そして南区画には海へ連絡していた急階段状の南入口の通路が確認できる。

ミノア文明・フォウルノウ・コルフィ遺跡 Minoan Fournou Korifi/©legend ej/©legend ej
フォウルノウ・コルフィ遺跡・南入口
急階段状の狭い通路と家屋群
クレタ島・東部南海岸/1996年

大小・変形の住居用の家屋だけでなく、氏族全体を賄っていたのか食事をつくるキッチン区画が中央部に二か所、神殿風の造りの部屋、オリーブ油の搾り室、陶器の焼き窯・キルン跡などが確認されている。

多くの家屋の壁面コア部分には割石ではなく、丸く平たい玉石を積み上げ、隙間に泥粘土を詰めた構造である。概して言えば、建物の造りからしてフォウルノウ・コルフィでは、計画的に家屋が建てられてのではなく、人口の増加で居住地が繁栄するのに合わせて、徐々に付け増し的に増築して来た観がある。

また、クレタ島の内陸部に残されている地方邸宅サイトではあまり見ることのない、壁面コア部だけでなく穀物の脱穀などにも多用されている角が丸い平らな石灰岩の玉石は、山や渓谷からの採取ではなく、海岸から運び上げたと推測できる。そのほか、周辺から採取できる石材、やや赤みがある砂岩や石灰岩も多くの家屋の建築材料として使われている。

ミノア文明・フォウルノウ・コルフィ遺跡・オリーブ油搾り部屋 Olive Pressing Room, Minoan Settlement, Fournou Korifi/©legend ej
フォウルノウ・コルフィ遺跡・オリーブ油搾り部屋周辺
クレタ島・東部南海岸/1996年

ミノア文明・フォウルノウ・コルフィ遺跡・北東区画 Minoan Settlement, Fournou Korifi/©legend ej
フォウルノウ・コルフィ遺跡・北東区画
穀類の脱穀用か磨り減った石製品が残る
クレタ島・東部南海岸/1996年

ミノア文明・フォウルノウ・コルフィ遺跡・南東区画 Minoan Settlement, Fournou Korifi/©legend ej
フォウルノウ・コルフィ遺跡・南東区画
クレタ島・東部南海岸/1996年

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フォウルノウ・コルフィ居住地からの出土品

西方1.7km、同じく岩丘に残されたミルトス・ピルゴス居住地より先行した、フォウルノウ・コリフィの居住地からは、穀物の脱穀や木の実などを潰す日常生活の石器類を初め、青銅製の各種道具類、石製の印章、そして流行のヴァシリキ様式の水差しなど700点を数える陶器類が出土している。

ミノア文明・フォウルノウ・コルフィ遺跡・水差し Minoan Vasiliki Style Jug, Fournou Korifi/©legend e
フォウルノウ・コルフィ遺跡出土・ヴァシリキ様式の水差し
初期ミノア文明EMIIB期/アギオス・ニコラオス考古学博物館
クレタ島・東部南海岸/1996年

ミノア文明・フォウルノウ・コルフィ遺跡・水差し Minoan Vasiliki Style Jug, Fournou Korifi/©legend ej
フォウルノウ・コルフィ遺跡出土・ヴァシリキ様式の水差し
初期ミノア文明EMIIB期/アギオス・ニコラオス考古学博物館
左=登録番号P443/高さ約21cm/右=登録番号P459/高さ約24cm
クレタ島・東部南海岸/描画:legend ej

陶器に関しては、東西1.2mx南北2.3mの長方形の狭い部屋から、厚さ3cm~4cm、直径18cm~24cmほどのテラコッタ製の円盤が少なくとも8枚見つかっている。上面が平らで下面の中心部が少し出っ張っていることから、円盤を手で回転させて「ろくろ」と同じ機能を持たせ、陶器造りに使ったものと判断できる。

ミノア文明・フォウルノウ・コルフィ遺跡・テラコッタ製円盤 Disk for making pottery, Minoan Fournou Korifi/©legend ej
フォウルノウ・コルフィ遺跡出土・テラコッタ製の円盤
陶器造りの「ろくろ」と同じ機能の「手回し円盤」
クレタ島・東部南海岸/描画:legend ej

分析では、フォウルノウ・コルフィの丘に住んだ人々は陶器製作のほか、機織りで布地を作り、ヤギの飼育、そしてミルトス・ピルゴスと同様に緩斜面を利用してブドウ栽培&ワイン造り、オリーブ油搾り部屋の存在からオリーブ栽培も行っていた、と判断されている。

先史・古代文明 機織りの仕組み・縦糸重り Prehistoric and Historic Loom System/©legend ej
先史~古代文明・機織りの仕組み&縦糸重り
マーリア遺跡・市街地出土・テラコッタ製「縦糸重り」
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


クレタ島・ワイン用ブドウ栽培
クレタ島・ワイン用ブドウ栽培

クレタ島・オリーブ栽培
クレタ島・オリーブ栽培

ミノア文明・ミルトス・ピルゴス遺跡 Minoan Settlement, Myrtos-Pirgos/©legend ej
ミルトス・ピルゴス遺跡・邸宅遺構/眼下はリビア海
遠方1.7kmの海岸の丘=フォウルノウ・コルフィ遺跡
クレタ島・東部南海岸/1982年



聖なる儀式リュトン杯《ミルトスの女神》

フォウルノウ・コリフィの居住地からの最も重要な出土品は、アギオス・ニコラオス考古学博物館 Agios Nikolaos Archaeological Museum で展示公開されている《ミルトスの女神 Goddess of Myrtos》と呼ばれるテラッコッタ製リュトン容器である。
丁度日本のお湯を沸かす「ヤカン」に似た釣鐘型の容器で、水またはワインなどを注ぐ聖なるリュトン容器であった。4,200年以上前、初期ミノア文明の人々が畏敬した宗教的な意味を呈している。

これは南北に細長い部屋が連結する居住地の南西区画の最も西側、宗教的な意味をもつ「聖所」のような部屋の一画から出土した。南北4m、東西2.5mほどの空所の東壁面に「祭壇」があり、そのすぐ南脇でこのリュトン容器は発見された。
この部屋には約20個を数える陶器類が残され、すぐ北側の東西に細長い部屋でもさらに多くの大小サイズの陶器類が見つかったとされる。

ミノア文明・フォウルノウ・コルフィ遺跡・《ミルトスの女神》Minoan Myrtos' Goddess/©legend ej
フォウルノウ・コルフィ遺跡出土・《ミルトスの女神》
アギオス・ニコラオス考古学博物館/高さ約21cm
クレタ島・東部南海岸/描画:legend ej

素焼きテラコッタ製リュトン容器の全体高さは約21cm、容器の腹部径は約15.5cm、全体はベージュ色、ヤカンのツマミに相当する部分は上方へ極端に長く伸び、触ればポキンと折れそうな細い女神の首と顔となっている。
女神の左腕が広い注ぎ口の容器を支え、さらに長くカーブして伸びる細い右腕も注ぎ口に届いている。わずかな盛り上がりの女神のバスト乳房があり、逆三角形を描く女性陰部と右脇の下付近~抱えた容器の注ぎ口の下部(腹部)には、魚を焼く金網に似た淡い朱色の格子状紋様が確認できる。

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ミノア文明の女神のリュトン杯

女性の姿をモチーフにして、陰部を網目紋様で表現するリュトン容器の例では、北海岸のマーリア遺跡 Malia の共同墓地から出土した神酒・ワインを注ぐ祭祀用のリュトン容器が知られている。そのほか、マーリア遺跡からは《マーリアの女神》と呼ばれる祭祀リュトン杯も見つかっている。

ミノア文明・マーリア遺跡・祭祀リュトン杯 Minoan Ritual Rhyton, Malia/©legend ej
マーリア遺跡・共同墓地出土・祭祀用リュトン容器
初期~中期ミノア文明・紀元前2200年~前2000年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号8660/高さ250mm
クレタ島・中央北部/1994年

ミノア文明・マーリア遺跡・リュトン杯《マーリアの女神》Minoan Goddess of Malia/©legend ej
マーリア遺跡・共同墓地出土・祭祀用リュトン容器《マーリアの女神》
初期~中期ミノア文明・紀元前2200年~前2000年
イラクリオン考古学博物館・登録番号8665/高さ164mm
クレタ島・中央北部/1994年


また、女神リュトン杯ではモクロス遺跡からのテラコッタ製《モクロスの女神 Goddess of Mochlos》、あるいはメッサラ平野のコウマサ遺跡の円形墳墓から出土した蛇を肩に巻き付けたテラコッタ製リュトン容器《コウマサの蛇の女神 Goddess with Snake of Koumasa》がある。

そのほほか、この種のリュトン容器はアルカネス遺跡などを含め、信仰心がより強かった初期ミノア文明~中期ミノア文明の時代に遡る幾らかの居住地の墳墓遺跡からの出土例が多い。

ミノア文明・モクロス遺跡・《モクロスの女神》Minoan Goddess of Mochlos/©legend ej
モクロス遺跡出土・リュトン容器《モクロスの女神》
イラクリオン考古学博物館・登録番号5499/高さ約20cm
クレタ島・東部北海岸/描画:legend ej

ミノア文明・コウマサ遺跡・リュトン杯《蛇の女神》Minoan Goddess with Snake, Koumasa/©legend ej
コウマサ遺跡・円形墳墓出土・《コウマサの蛇の女神》
イラクリオン考古学博物館・登録番号4137
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej


関連だが、女神が左腰で支える広い注ぎ口の容器だが、形容はやや異なるが、色彩と線紋様のデザインでは、メッサラ平野・フェストス宮殿遺跡の近くから出土した、非常に優美なアギオス・オヌフリオス様式陶器 Agios Onouphrios Style に近似するような気がする。
アギオス・オヌフリオス様式陶器が流行したのは、初期ミノア文明EMI期・紀元前2700年~前2600年頃であった。この陶器の特徴は美しい曲線の器形、安定した広い注ぎ口、超極細~細線を酸化条件下で焼成して朱色に発色させたシンプルなデザインながら、ミノア陶器の歴史の中でひと際光り輝く美しい陶器の一つである。

ミノア文明・アギオス・オヌフリオス様式陶器 Minoan Agios Onouphrios Style Jug, Phaestos Palace/©legend ej
アギオス・オヌフリオス様式・優美な器形の水差し
イラクリオン考古学博物館・登録番号5/高さ215mm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej


フォウルノウ・コルフィでは祭壇とリュトン容器の部屋の東側に接続した南北に長い部屋からは、陶器類のほかに成人とされる人骨・頭蓋骨が発見された。
見つかったのはたった一人の遺体だけであり、この区画が納骨堂であった証拠としては難がある。この人骨の存在の最も考えられる可能性は、居住地が最終火災となった際、家屋が崩壊して、偶然にこの部屋に居て逃げ遅れた人であったかもしれない。

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