2020/08/23

ミノア文明・コウマサ遺跡 Koumasa


ミノア文明・コウマサ遺跡・墳墓群


位置 クレタ島・メッサラ平野
フェストス宮殿遺跡~東南東20km・古代ゴルティス遺跡(ゴルティン Gortyn)~南東11km
GPS
コウマサ遺跡: 34°59′00″N 25°00′47″E/標高360m


コウマサ遺跡 Koumasa の墳墓群は、遠方にクレタ島最高峰2,456m、聖なるイダ山 Mt Idae を望む広いメッサラ平野の南側に残されている。サイトはコウマサ村~北東約800mのほぼ平原、標高360m地点である。イダ山系にはミノア時代からの崇拝洞窟、カマレス洞窟 Kamares Cave がある。
一方、サイトの南背後は、ギリシア神話・美女エウロパと結婚、全知全能の神ゼウスとエウロパとの息子ミノース(後のミノア王)など三兄弟の義父となった、王アステリオスから名を取ったアステロウシア山系(Asterousian Mts. 最高峰1,231m Kofina 山)の岩山群が迫る。

クレタ島南西部・メッサラ平野・ミノア文明・遺跡 地図 Map of Minoan Archaeological Sites at Messara/©legend ej
クレタ島南西部・メッサラ平野・ミノア文明・遺跡 地図
作図:legend ej

ミノア文明・コウマサ遺跡/Google Earth
コウマサ遺跡&周辺
クレタ島・メッサラ平野
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入

カマレス洞窟
大胆な絵柄、鮮やかな色彩に特徴があるカマレス様式陶器とは、この様式陶器が最初に発見された聖なるイダ山系(イディ山/クレタ島最高峰・標高2,456m Mt.Ida/Psiloritis)の南東山麓にあるカマレス洞窟 Kamares Cave からその名称を由来している。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・カマレス様式陶器・サフラン絵柄 Saffran Design, Kamares Style Jar, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡出土・カマレス様式・サフラン絵柄水入れ
旧宮殿時代・紀元前1700年~前1625年
イラクリオン考古学博物館/高さ約430mm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

カマレス洞窟の位置は、フェストス宮殿遺跡~北方12kmの標高600mのカマレス村からトレッキングルートを北方へ3時間登った、ほとんど植生のない標高1,700m付近の荒涼の岩石斜面である。車で行ける人気のある標高1,350mのニダ高原 Nidas Plateau ~南南西3.5kmである。
南北40m以上の開口幅、西方へ大きく開口したカマレス洞窟は、先史時代からの崇拝の場所、19世紀の終わり頃に村人により発見され、その後、1913年、イギリス考古学チームが洞窟内部の本格的な調査を実施した。

GPS
カマレス洞窟: 35°10′39″N 24°49′39.50″E/標高1,700m
ニダ高原:   35°12′27″N 24°50′25″E/標高1,350m

コウマサ遺跡の発掘

コウマサ遺跡の発掘ミッションは、1904年~1906年、Dr. S. Xanthoudides により実施された。
その結果、丘陵の麓に広がる標高360mのほぼ平原から、合計では共同体用のメッサラ様式の円形墳墓3基(墳墓A・墳墓B・墳墓E)と方形墳墓1基(墳墓Γ)が確認された。

ミノア文明・コウマサ遺跡・円形墳墓 Messara Style Circular Tombs, Koumasa/(C)legend ej
コウマサ遺跡・墳墓群
左側=円形墳墓B/中央=円形墳墓E
遠方=クレタ島最高峰 標高2,456m 聖なるイダ山系
クレタ島・メッサラ平野/1994年

ミノア文明・コウマサ遺跡・プラン図 Koumasa Site Plan/©legend ej
コウマサ遺跡・墳墓群・アウトラインプラン図
クレタ島・メッサラ平野/作図:legend ej

ミノア文明&ミケーネ文明 編年表/©legend ej
クレタ島ミノア文明&ギリシア本土ミケーネ文明 編年表
・ミノア文明・「旧宮殿時代」: 紀元前1900年~前1625年
・ミノア文明・「新宮殿時代」: 紀元前1625年~前1375年
ミケーネ文明(時代):  後期ヘラディック文明 LH期
作図:legend ej

これらの内、円形墳墓A・円形墳墓Bと方形墳墓Γでは、初期ミノア文明EMII期・紀元前2600年頃から埋葬が始まり、円形墳墓Eは「旧宮殿時代」に相当する、中期ミノア文明MMIIA期・紀元前1800年頃に使われた、と断定されている。クレタ島・ミノア文明の範疇では、かなり古いタイプの埋葬墳墓群と言える。

最も大きな円形墳墓Bは内径9.5m、墳墓Eが内径9.3m、この2基はメッサラ様式の円形墳墓の範疇では「やや大型サイズ」の墳墓となる。さらに小型の円形墳墓Aは内径4.1m、墳墓Aの北側に接続するような位置にある方形墳墓Γ(C)は幅約4mであった。

各円形墳墓の入口は、メッサラ様式の円形墳墓の「標準」と言える東側に設けられ、墳墓Aと墳墓Eには入口&前室、さらに墳墓Eでは納骨室が付属されていた。さらに墳墓Bにも入口&前室が存在した可能性がある。
3つの円形墳墓の壁面の残存高さは低いが、壁面の厚さはそれぞれ内径に準じて1.3m~2mである。また、訪ねた1994年の時点では、小型の円形墳墓Aでは入口上部にリンテル石がそのまま残されていた。

メッサラ様式の「円形墳墓」とミケーネ様式の「トロス式墳墓」
初期ミノア文明の末期EMIII期・紀元前2200年~中期ミノア文明MMI期・紀元前1800年頃の、主にクレタ島南西部で流行した埋葬形式が、メッサラ様式の円形墳墓 Messara Style Circular Tomb である。

現在までのメッサラ平野周辺の発掘調査では、合計75墳墓を数えるメッサラ様式の円形墳墓が確認されている。
その主な発掘場所では、先ずゴルティス(ゴルティン)遺跡の北方のカラティアーナ遺跡周辺、フェストス宮殿遺跡アギア・トリアダ遺跡周辺、プラタノス遺跡周辺、コウマサ遺跡周辺、さらにリビア海岸のレンダス Lendas ~海岸沿いに西方のカロイ・リメネス Kaloi Limenes~聖ファランゴ渓谷 Agio Farango ~ Odigitrias修道院周辺などに点在する。
ただ確認された円形墳墓の数で言えば、コウマサ遺跡周辺と聖ファランゴ渓谷 Agio Farango とその周辺に集中している。

メッサラ様式の円形墳墓の構造形式が、後にギリシア本土で流行するミケーネ様式のトロス式墳墓 Mycenaean Tholos Tomb へ発展したと考えられている。
ミケーネ様式のトロス式墳墓では、流行初期にはクレタ島に距離的に近いペロポネソス・メッセニア地方で小型サイズの墳墓が造られた。その後、ミケーネ文明の発展と同期するように、ミケーネ文明の前半、後期ヘラディックLHI期・紀元前15世紀頃には、ミケーネ宮殿周辺などアルゴス地方や中部ギリシア地方の文明センターでも大型サイズのトロス式墳墓が造営されるようになった。

ミノア文明・円形墳墓&ミケーネ文明・トロス式墳墓 Minoan Circular Tomb and Mycenaean Tholos Tomb/©legend ej
ミノア文明・円形墳墓&ミケーネ文明・トロス式墳墓
・ミノア・メッサラ様式の円形墳墓(地上式)
・ミケーネ様式のトロス式墳墓(半地下式)
・ミケーネ様式のトロス式墳墓(地下式)
作図:legend ej

埋葬の使用期間が数世紀~1,000年単位の長期となった大型のメッサラ様式の円形墳墓では、当初、フェストス宮殿の王族や貴族階級の人々の埋葬に使われた。その後、紀元前1450年頃、ギリシア本土からクレタ島へ攻撃を仕掛けた「侵攻ミケーネ人」によりミノア宮殿システムが破壊された後には、カミラーリ遺跡・円形墳墓Aが典型例であるように、円形墳墓は庶民の埋葬にも使われて来た。
一方、ミケーネ文明では、特に大型のトロス式墳墓においては、ほとんどすべての墳墓が地域を統治した王族や貴族など、高位な身分階級の人達の埋葬に限定的に使われてきた。

構造仕様は言及せずに単純に「トロス内径」だけを比較した場合、時代的に早いメッサラ様式の円形墳墓より、ミケーネ様式のトロス式墳墓の方が遥かに大型サイズであることが分かる。代表的な墳墓とトロス内径を挙げるなら;

メッサラ様式の円形墳墓
プラタノス遺跡・円形墳墓A:トロス内径13m(クレタ島最大級)
プラタノス遺跡・円形墳墓B:トロス内径10m
カミラーリ遺跡・円形墳墓A:トロス内径7.6m
コウマサ遺跡・円形墳墓B:トロス内径9.5m

ミケーネ様式のトロス式墳墓
ミケーネ遺跡・「アトレウスの宝庫」:トロス内径15m(ギリシア本土最大級)
オルコメノス遺跡・「ミニュアースの宝庫」:トロス内径14m
カコヴァトス遺跡・トロス式墳墓A:トロス内径14m
ペリステリア遺跡・トロス式墳墓2号墓:トロス内径12m
ヴァフィオ遺跡・トロス式墳墓:トロス内径10m

ミケーネ文明・ミケーネ遺跡・「アトレウスの宝庫」Atreus Tholos Tomb, Mycenae Palace/©legend ej
世界遺産/ミケーネ遺跡・「アトレウスの宝庫」
ミケーネ様式のトロス式墳墓最大級/トロス内径=15m
ペロポネソス・アルゴス地方/1982年

ミケーネ文明・オルコメノス遺跡・トロス式墳墓 Mycenaean Tholos Tomb, Orchomenos/©legend ej
オルコメノス遺跡・「ミニュアースの宝庫」
内径=14mのトロス内部~入口
ボイオティア地方/1982年


ミケーネ文明・ペリステリア遺跡・トロス式墳墓2号墓 Mycenaean Tholos Tomb, Myron-Peristeria/©legend ej
ペリステリア遺跡・ミケーネ様式のトロス式墳墓・2号墓
ランダム石材の構造/トロス内径=12m
ペロポネソス・メッセニア地方/1987年


ミケーネ文明・ヴァフィオ遺跡・トロス式墳墓 Mycenaean Tholos Tomb, Vaphio/©legend ej
ヴァフィオ遺跡・ミケーネ様式のトロス式墳墓(1982年)
スパルタ・メネライオス王家の墳墓/トロス内径=10m
ペロポネソス・ラコニア地方/描画:legend ej

なお、スパルタ近郊・ヴァフィオ遺跡の「メネラオス王家」のトロス式墳墓からは、クノッソス宮殿・金属工房で製作され、王家へ贈呈されたと推測できるミノア様式の見事な金製カップが出土している。

ミケーネ文明・ヴァフィオ遺跡・金製カップ Gold Vaphio Cup/©legend ej
スパルタ近郊ヴァフィオ遺跡出土・金製カップ(動的シーン)
アテネ国立考古学博物館・登録番号1758/口縁径108mm
ペロポネソス・ラコニア地方/1982年


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コウマサの「居住地」? コラキエス尾根の家屋群

コウマサの円形墳墓の周辺には石混じりだが、オリーブを初め野菜栽培の豊かな農耕地が広がっている。墳墓群~東方150m付近には、農耕地から標高差30m~40mほど高い、北東~南西方向へ向かって「コラキエス Korakies」と呼ばれる岩の尾根が張り出し、その南側には枯れた谷川の小さな渓谷がある。

訪ねた1994年の夏、数時間の地表面チェックを行ったが、墳墓群~コラキエス尾根の麓、さらに尾根の東側の台地状の斜面にも陶器の破片がかなり散乱していた。1994年の時点では、コラキエス尾根にはわずかに家屋の痕跡が確認できた。
その後、コラキエス尾根台地の発掘調査が進み、コウマサの「居住地」と断定できる建物跡が確認されている。建物群からは中期ミノア文明~後期ミノア文明の石製品や陶器などが見つかっている。

クレタ島・メッサラ平野・小さな礼拝堂 Small Chapel, Messara/(C)legend ej
クレタ島・メッサラ平野に佇む小さな礼拝堂
蒼過ぎる空と真っ白な壁面と朱色の屋根のコントラストが美しい
遠方=クレタ島最高峰 標高2,456m 聖なるイダ山系
Vagionia村~南南西2km/1994年

「新メッサラ考古学博物館」開館
ゴルティス遺跡~西南西1km、フェストス宮殿遺跡~東北東11km、幹線道路N97号脇、2020年、「新メッサラ考古学博物館 New Archaeological Museum of Messara」が開館した。

GPS 新メッサラ考古学博物館: 35°03′36″N 24°56′16″E/標高160m

クレタ島・メッサラ平野・ミノア文明・プラタノス遺跡 周辺地図 Map of Minoan Archaeological Site at Messara/©legend ej
プラタノス村周辺・ミノア文明・遺跡 地図
クレタ島・メッサラ平野/作図:legend ej

コウマサ遺跡・墳墓群からの出土品

コウマサ遺跡の円形墳墓群は、何れも過去に盗掘されていたことから、大量の金銀財宝などの出土はない。盗掘の結果なのか、墳墓群の内部は混乱状態であったが100人単位、相当数の埋葬骨が見つかったとされ、小型の墳墓Aから銀製短剣が出土している。
また、墳墓Bを中心に20本あまりの青銅製&銅製の短剣類、さらに水入れ容器など陶器類、テラコッタ製のリュトン杯、キクラデス諸島から輸入された石製像、ヘアピンやペンダント、石製印章や多数の黒曜石の細石刃などが見つかった。これらの出土品からは、コウマサの上位身分の被葬者が含まれていたことを連想させる。

ミノア文明・プラタノス遺跡&コウマサ遺跡・銅製短剣 Minoan Copper Dagger, Platanos and Koumasa/©legend ej
プラタノス遺跡&コウマサ遺跡出土・銅製短剣
初期ミノア文明EMIII期・紀元前2200年頃
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej



出土品・「ヒキガエル」の金製の宝飾品

円形墳墓群から出土した特徴的な出土品では、イボ状の粒を付けた生き生きとしたヒキガエルを形容した金製の宝飾品がある。これは東方パレスチナ方面から伝播したとされる、高度な黄金の造粒技術 Gold Granulation のブツブツ状の装飾が加工されている。

ミノア文明・「黄金の造粒技術」Minoan Gold Granulation/©legend ej
ミノア文明・「黄金の造粒技術」・宝飾品
左:カラティアーナ遺跡出土・金製渦巻紋様・長さ10mm
イラクリオン考古学博物館/登録番号391
中:コウマサ遺跡出土・金製「ヒキガエル」形容・長さ11mm
イラクリオン考古学博物館/登録番号386
右:クレタ島出土・金製「雄牛頭部」形容・高さ34mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号553
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej


ミノア文明・黄金の「造粒技術」

金の微細粒・小球ビーズを作る工程・「造粒技術」では、先ず可能な限り薄い金シートを作り、狭幅にカット、それを微細な方形にカットする。その微細片を互いに接触させずに加熱・融解して微細ビーズを作り、サイズ区分けをする。切断した金シート幅と方形の大きさが金の微細粒、ビーズの大きさを左右する。
別な方法では、金の細線を細かにカットしてペレットを作り、同様に加熱・融解でビーズを作る方法、さらに目の粗い現代の「ヤスリ」や「おろし金」のような器具で柔らかな金インゴットを削り、砂粒状のランダムな削り片を同様に加熱・融解、大小の微妙なサイズ違いのビーズを作ることもあった。
薄い金シートからカットされた薄片や微細ペレットを加熱・融解して造粒する工程で、木の炭を付加することで出来た金の微細粒・ビーズの表面には、炭素や酸化物の薄い皮膜が形成される。

実際の微細粒の溶着工程では、母材となる金製宝飾品の表面に金の微細粒・ビーズを連続的に並べ加熱する時、金と酸化物の液相線温度(固相から液相へ変化する時に平衡を保つ温度)に達した時、溶融が起こり、金の微細粒・ビーズと母材や隣接する微細粒の表面が、わずかに溶融して接合が起こる。

工房職人に高度な集中力が求められるこの精緻な宝飾加工は、極めてデリケートな作業であった。熱伝導率が高い金や銀は加熱温度に敏感な材料であり、加熱不足なら接合へ至らず、反面、わずかでも過剰加熱なら微細粒・ビーズのみならず、母材の宝飾品自体も変形や溶解を起こし、細工が「失敗」してしまう恐れがあった。

最も良く知られたミノア文明・黄金の微細粒の宝飾品では、マーリア宮殿遺跡からもたらされた《金製ミツバチ・ペンダント》がある。

ミノア文明・マーリア遺跡・金製「ミツバチ・ペンダント」Gold Bee-Pendant, Malia, Crete/©legend ej
マーリア遺跡・共同墓地出土・金製《ミツバチ・ペンダント》
イラクリオン考古学博物館・登録番号559/高さ46mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej



「線状細工/細線加工」の技法

上描画(左)・カラティアーナ遺跡からの金製の宝飾品は、中心に約2.5mmの通し穴があり、両端の摩耗・変形の突起痕からおそらくペンダント、またはネックレースのビーズの一つとして使われていたと考えられる。
母材の表面を装飾する渦巻線は、細い金線を造粒技術と同じ技法で付着させたもので、この技法を「線状細工 Filigree/細線加工」と呼ぶ。
造粒の技法とはやや異なり、線状細工では母材と用いる細線全体の接触面が広がることから、完成後に簡単に剥離する心配は少ないが、細線を母材表面に平均的に付着させる難しさがある。

GPS
カラティアーナ遺跡: 35°06′10″N 24°55′52″E/標高450m



テラコッタ製「雄牛跳び(乗り)」のリュトン杯

「旧宮殿時代」に遡る円形墳墓Eからは、テラコッタ製の「雄牛跳び」のリュトン杯が出土している。決して大型のテラコッタ塑像ではないが、三人のミノア男性が雄牛の頭部にしがみ付いている状態を表現、一人は雄牛の顔面にピタッとしがみ付き、残る二人は各々左右の角に後ろからしがみ付いている。
雄牛のサイズに比べ、ミノア男性達はあまりに小さく、やや滑稽なシーンとも言えるが、儀式・祭祀用のリュトン杯に表現するほど、パワーの象徴と崇められた雄牛が庶民の身近な存在であったことを示している。

ミノア文明・コウマサ遺跡・「雄牛跳び」のリュトン杯 Minoan Bull-leaping Rhyton, Koumasa/©legend ej
コウマサ遺跡出土・テラコッタ製《雄牛跳び》リュトン杯
イラクリオン考古学博物館・登録番号4676/長さ208mm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

ミノア文明・コウマサ遺跡・「雄牛跳び」のリュトン杯 Minoan Bull-leaping Rhyton, Koumasa/©legend ej
コウマサ遺跡出土・テラコッタ製《雄牛跳び》リュトン杯
イラクリオン考古学博物館・登録番号4676/長さ208mm
クレタ島・メッサラ平野/1982年

「雄牛跳び」はミノア文明を代表する工芸モチーフの一つであった。クノッソス宮殿遺跡・東翼部からは、上階の大広間から崩落した見事なフレスコ画《雄牛跳び》が見つかっている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画《雄牛跳び》 Fresco Bull-leaping, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・フレスコ画《雄牛跳び》
イラクリオン考古学博物館・登録番号T-15/高さ約78cm
クレタ島・中央北部/1994年


エヴァンズの発掘レポート(1930年)によれば、(ピンポイント場所=不明)アルカネス近郊の横穴墓の発掘では、ミノア文明の工芸モチーフの代表格である「雄牛跳び」を刻んだ金製リングが見つかっている。
かつて自身が館長を務めたエヴァンズが、オクスフォード大学 Ashmolean 博物館へ寄贈したとされる、横幅34mmの楕円形(オーバル形状)、やや凸状の印面にインタリオ(凹彫り)で刻まれた、極めて動的で迫力ある雄牛跳びのシーンでは、短めの巻き毛の青年が走る雄牛の背上で逆立ちする姿を捉えている。
弓なりで腰巻姿の青年の両足は雄牛の尾を越えて風圧で雄牛の後方へ延び、右腕は雄牛の浮き出た肋骨(あばらぼね)付近、左腕は背骨に置かれている。また、二重紋様の地面か草原か、走行する雄牛の前方に刻まれた縦長の「物体」は、エヴァンズの言う「聖なる結び目 Sacral Knot」とする研究者も居る。

ミノア文明・アルカネス遺跡・金製リング「雄牛跳び」 Minoan Gold Ring of Bull-leaping. Archanes/©legend ej
アルカネス近郊・横穴墓出土・金製リング・《雄牛跳び》
後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1375年
Ashmolean Museum, U. Oxford (UK)
登録番号AN1896-1908-AE2237/横幅34mm
※Sir Arthur John Evans 寄贈
クレタ島・中央北部/描画:legend ej



出土品・テラコッタ製リュトン杯・「コウマサの蛇の女神」

そのほか、墳墓群からの出土品では、高さ約28cm、肩部が張った逆台形的な形容で女神を表現した、細い円筒形の注ぎ口の付いたリュトン容器がある。
リュトン杯は初期ミノア文明EMII期、紀元前2400年頃の作品、神酒ワインなどを注ぐ儀式・祭祀などで使われた、初期ミノア文明の人々の信仰に深く関わる神的要素の強い容器である。
このリュトン容器の上部は女神の顔の形容、容器の腹部に小さな乳房が付けられ、注ぎ口から肩~首筋~腹部にかけて巻き付く蛇の紋様で装飾されていることから、研究者から「コウマサの蛇の女神 Snake Goddess of Koumasa」と呼ばれている。

ミノア文明・コウマサ遺跡・リュトン杯《蛇の女神》Minoan Goddess with Snake, Koumasa/©legend ej
コウマサ遺跡・円形墳墓出土・《コウマサの蛇の女神》
イラクリオン考古学博物館・登録番号4137
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

同じようなテラコッタ製の聖なるリュトン容器では、クレタ島・東部南海岸のフォウルノウ・コリフィ遺跡 Fournou Korifi から《ミルトスの女神 Goddess of Myrtos》と呼ばれる儀式用リュトン杯が出土している。製作は初期ミノア文明EMIII期、紀元前2200年期とされる。
また、北海岸のマーリア宮殿遺跡・共同墓地 Malia から《マーリアの女神 Goddess of Malia》が、あるいは東部北海岸のモクロス遺跡・共同墓地 Mochlosからは、《モクロスの女神 Goddess of Mochlos》と呼ばれるリュトン杯の出土例がある。何れのリュトン容器も時期的には初期ミノア文明~中期ミノア文明に属する。

ミノア文明・フォウルノウ・コルフィ遺跡 Minoan Fournou Korifi/©legend ej
フォウルノウ・コルフィ遺跡・南入口
急階段状の狭い通路と家屋群
クレタ島・東部南海岸/1996年

ミノア文明・フォウルノウ・コルフィ遺跡・《ミルトスの女神》Minoan Myrtos' Goddess/©legend ej
フォウルノウ・コルフィ遺跡出土・《ミルトスの女神》
アギオス・ニコラオス考古学博物館/高さ約21cm
クレタ島・東部南海岸/描画:legend ej

ミノア文明・マーリア遺跡・リュトン杯《マーリアの女神》Minoan Goddess of Malia/©legend ej
マーリア遺跡・共同墓地出土・祭祀用リュトン容器《マーリアの女神》
初期~中期ミノア文明・紀元前2200年~前2000年
イラクリオン考古学博物館・登録番号8665/高さ164mm
クレタ島・中央北部/1994年

エーゲ海・モクロス島 Mochlos Island/©legend ej
エーゲ海・モクロス島
ミノア時代=本島と陸続きの「小さな半島」であった
クレタ島・東部北海岸/1982年

ミノア文明・モクロス遺跡・《モクロスの女神》Minoan Goddess of Mochlos/©legend ej
モクロス遺跡出土・リュトン容器《モクロスの女神》
イラクリオン考古学博物館・登録番号5499/高さ約20cm
クレタ島・東部北海岸/描画:legend ej

GPS
フォウルノウ・コルフィ遺跡: 35°00’24.50”N 25°36’33.50”E/標高60m
マーリア宮殿遺跡: 35°17′35″N 25°29′35″E/標高15m
モクロス遺跡・共同墓地: 35°11’12”N 25°54’23”E/標高5m~25m


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出土品・「コウマサ様式陶器」

初期ミノア文明の陶器の歴史を刻む、黒色光沢のややザラザラ表面のピルゴス様式陶器 Pyrgos Style の後、陶器の発達・変化が著しいメッサラ平野では、フェストス宮殿周辺を中心にベージュ色の地に赤茶色の線を描く美しい器形の陶器、アギオス・オヌフリオス様式陶器 Agios Onouphrios Style が現れる。
この陶器が初めて確認された場所がフェストス宮殿遺跡~北北西1km、幹線道路N97号の脇に建つ聖オヌフリオス礼拝堂の直ぐ近く(北西40m)、オリーブ耕作地の中にメッサラ様式の円形墳墓を残すアギオス・オヌフリオス遺跡であったことから、様式名称された。

ミノア文明・アギオス・オヌフリオス様式陶器 Minoan Agios Onouphrios Style Jug, Phaestos Palace/©legend ej
アギオス・オヌフリオス様式・優美な器形の水差し
初期ミノア文明EMI期・紀元前2700年~前2600年
イラクリオン考古学博物館・登録番号5/高さ215mm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

明るい地に赤茶線を描くアギオス・オヌフリオス様式の後、クレタ島・南西地方で新たに登場するのがアギオス・オヌフリオス様式の逆の装飾デザイン、赤地に淡黄色の細線やジグザグ線で装飾されたレベナ様式陶器(Lebena Style 南西海岸 Lentas)、そして単純な微細線と光沢が特徴の刻紋様式 Incised/Scored Style が生まれた。
その後、メッサラ平野の陶器は、アギオス・オヌフリオス様式を模倣・継承したと思える、コウマサ居住地で発展したコウマサ様式陶器 Koumasa Style が主流となり、当地では明るい素地に微細な赤茶線をびっしりと描くだけではなく、強調的に黒線表現も採用された。

ミノア文明・コウマサ遺跡・コウマサ様式水差し Minoan Koumasa Style Jug, Crete/©legend ej
コウマサ遺跡出土・コウマサ様式の水差し
初期ミノア文明EMIIA期・紀元前2600年~前2400年
イラクリオン考古学博物館・登録番号4107/高さ約10cm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

その後、中期ミノア文明のコウマサ居住地を含むメッサラ平野では、陶器の表面装飾が絵柄だけでなく、ブツブツ・突起をつけたバーボタイン様式陶器 Barbotine Style が流行する。
個人的には、野生動物のワニやヒキガエルを連想させるようなやや違和感を覚える特異な装飾だが、アギオス・オヌフリオス様式陶器などのように非常に「短命」ではなく、結構長い間、人々に好まれた陶器であった。

ミノア文明・バーボタイン様式陶器・水差し Minoan Jag, Barbotine Style Ware, Messara Plain/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡出土・バーボタイン様式の水差し
器体=「ブツブツ装飾」/高さ155mm
中期ミノア文明MMII期・紀元前1800年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号5775
クレタ島・メッサラ平野/1982年


出土品・ユニークな水差し

コウマサ遺跡からのユニークな出土品では、器体自体が鳥形容の水差しがある。製作は初期ミノア文明EMII期、紀元前2600年頃とされ、比較的早い時期に属する。
全体的には無地のように見えるが、鳥の尾部分に線紋様、腹部に「カンマ(,)」の紋様がわずかに残っているので、頭部やハンドルなども何らかの色彩装飾が施されていたであろう。
コウマサ陶工のユーモア的センスなのか、少々お道化た感じがしないでもないが、鳥などを形容したこの種の陶器はほかのメッサラ平野の遺跡からも出土していることから、この時期のクレタ島南西地方では流行していたのかもしれない。

コウマサ遺跡・鳥形容の水差し Bird-shape Jug, Koumasa/©legend ej
コウマサ遺跡出土・鳥形容の水差し
イラクリオン考古学博物館・登録番号4122
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

そのほか、動物の形容ではないが、「人」が口縁部~肩部~ハンドルに抱き付くような「装飾」の珍しい水差しが見つかっている。製作時期は鳥形容の水差しより遅く、初期ミノア文明EMIII期~中期ミノア文明MMI期・紀元前2200年~前1800年頃とされる。
一見では初期~中期ミノア文明の典型的な器形、上向きペリカン風の「口ばし型注ぎ口」の素焼き水差しのように見え、装飾の絵柄が描かれてあったのかは不明だが、この陶器もコウマサ居住地の陶工達が伝統的に継承して来たユーモア的センスの作品なのであろうか。

ミノア文明・コウマサ遺跡・ユニークな水差し Early Minoan Jug, Koumasa/©legend ej
コウマサ遺跡出土・ユニークな水差し
人が口縁部に両手・肩部~ハンドルに足を置き抱き付く姿
イラクリオン考古学博物館・登録番号4116/高さ125mm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

なお、人の姿が陶器の「装飾」として製作された例では、コウマサ遺跡~北東22km、アギア・トリアダ遺跡近郊、カミラーリ遺跡・円形墳墓Aから出土した容器がある、ただ、こちらはコウマサ遺跡の水差しより時期的にずーと遅い、後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年頃の作品である。

ミノア文明・カミラーリ遺跡・ユニークな容器 Unique Ware, Kamilari/(C)legend ej
カミラーリ遺跡・円形墳墓A出土・ユニークな陶器
人が容器の側面に張り付いて 中を覗いている姿
後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej


出土品・石製の印章

コウマサ遺跡では円形墳墓Aと墳墓Bを中心に、一部が円形墳墓Eと方形墳墓Γから、被葬者が身に着けていた約50点の印章が出土している。
印章の素材の大半は軟質の滑石・ステアタイトが用いられ、そのほか緑泥岩、アメジスト(紫水晶)、さらに輸入されたカバの牙材、イノシシの牙材を初め動物の脚骨などである。また、印章のモチーフとして、直線や曲線や〇などの組み合わせの幾何学紋様がほとんどで、そのほかでは格子柄や木の葉紋様なども含まれる。

それらのうち、最も目を引くのは滑石・ステアタイト製のビーズ形式、三面プリズム型の印章である。長さ17mm、三面の印面には人が歩む姿、雄牛頭をアレンジした形容、さらに渦巻き線と植物の葉の形容などが刻まれている。これらはミノア文明の最も古い絵文字である《アルカネス文字体系 Archanes Formula》の可能性がある。

ミノア文明・コウマサ遺跡・三面プリズム型の石製印章 Minoan Stone Seal, Koumasa/©legend ej
コウマサ遺跡・円形墳墓A出土・石製の印章
三面プリズム型・《アルカネス文字体系》?
印面=歩む人・雄牛頭・渦巻き線/長さ17mm
中期ミノア文明MMI期~MMII期・紀元前1800年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号528
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej



ミノア文明・ヴァシリカ・アノージャ遺跡

位置 クレタ島・メッサラ平野
コウマサ遺跡~北西5km・古代ゴルティス遺跡(ゴルティン Gortyn)~南南東6.5km

クレタ島・メッサラ平野・ミノア文明・プラタノス遺跡 周辺地図 Map of Minoan Archaeological Site at Messara/©legend ej
プラタノス村周辺・ミノア文明・遺跡 地図
クレタ島・メッサラ平野/作図:legend ej

コウマサ遺跡から山裾に沿って、メッサラ平野の南際の農道をフェストス宮殿遺跡の方角(北西)へ進むと、標高215mの小村ヴァシリカ・アノージャ Vasilika Anogia となる。
村の南西側にはアステロウシア山系の標高300m~400m級の岩山群が迫り、一方、村の北~東側には主にオリーブ耕作地が続く典型的なメッサラ平野の豊かな風景が展開されている。


後期ミノア文明・横穴墓の発掘

1890年代、北イタリア生まれの著名な考古学者パオロ・オルシ Paolo Orsi が発掘ミッションを実施、村から複数の横穴墓 Chamber Tomb を発掘した。
出土品の内、後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年のテラコッタ製のラルナックス陶棺 Larnax Sarcophagus は、現在、イラクリオン考古学博物館の主要展示品の一つになっている。
水鳥・魚・植物など穏やかな絵柄で装飾された陶棺は、紀元前1375年頃にクノッソス宮殿が崩壊、ミノア文明の宮殿システムが終焉した後の比較的高位な身分の人達の埋葬に使われた。

ミノア文明・ヴァシリカ・アノージャ遺跡 Minoan Larnax Sarcophagus, Vasilika Anogia, Messara/©legend ej
ヴァシリカ・アノージャ遺跡出土・ラルナックス陶棺
水鳥・魚・花咲く植物の絵柄/尖った屋根型のカバー
後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年
イラクリオン考古学博物館・登録番号1612/横幅123cm・高さ97cm
クレタ島・メッサラ平野/1982年


ミノア文明・ヴォロス遺跡

位置 クレタ島・メッサラ平野
コウマサ遺跡~北方13km・古代ゴルティス遺跡(ゴルティン Gortyn)~東北東10km

メッサラ様式の円形墳墓の発掘

ギリシア人考古学者マリナトス教授 S.N. Marinatos は、1931年、ゴルティス遺跡~東北東10km、コウマサ遺跡~北方13km付近、民家はなく地元でヴォロス Voros と呼ばれるスポットから、崩壊した二基のメッサラ様式の円形墳墓を発見する。年代は中期ミノア文明MMI期・紀元前2000年~前1800年に属するとされた。

カミラーリ遺跡・円形墳墓Aと同様に、埋葬時に故人を偲びワインを飲んだ後、収めたのであろうおびただしい程の数の小カップ類が出土、さらに銀製のイヤリング、複数のピトス陶棺と特徴的なラルナックス陶棺から人骨も見つかっている。
その内、一基のラルナックス陶棺は絵柄デザインが無い珍しいタイプだが、蓋カバーと陶棺本体に合計16か所のハンドル(取っ手)と吊り突起が付けられていた。ハンドルや突起部は葬儀の時、おそらく重量のある陶棺を墳墓まで運ぶ時、ロープ掛けで使ったものであろう。

ミノア文明・Voros遺跡・ラルナックス陶棺 Messara Style Larnax Sarcophagus, Voros/©legend ej
ヴォロス遺跡・円形墳墓出土・ラルナックス陶棺
絵柄は無く 蓋カバーと陶棺本体に無数のハンドルと突起部
中期ミノア文明MMI期・紀元前2000年~前1800年
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・メッサラ平野/1994年


ミノア文明・アペソカリ遺跡

位置 クレタ島・メッサラ平野
コウマサ遺跡~西北西6.5km・古代ゴルティス遺跡(ゴルティン Gortyn)~南方6.5km
GPS
アペソカリ遺跡: 35°00′16″N 24°56′56″E/標高210m


メッサラ様式の円形墳墓の発掘

コウマサ遺跡から山裾に沿って、メッサラ平野の南際の農道をフェストス宮殿遺跡の方角(北西)へ進み、ヴァシリカ・アノージャ村を経由、さらに1.5kmほどで標高150mの小村アペソカリ Apesokari となる。
ヴァシリカ・アノージャ村と同様に、アペソカリ村の直ぐ南側にはアステロウシア山系の岩山群が迫り、一方、村の北側には広大なメッサラ平野が展開している。

ミノア文明・ヴァシリカ・アノージャ遺跡 Minoan Larnax Sarcophagus, Vasilika Anogia, Messara/©legend ej
アペソカリ遺跡・円形墳墓の岩尾根
手前=オリーブ耕作地が広がる乾燥したメッサラ平野
背景=樹木のないアステロウシア山系の険しい岩山群
クレタ島・メッサラ平野/1994年

第二次世界大戦の最中、1940年代、ドイツ考古学チームが村~南西900m付近、岩と灌木の尾根から埋葬室と前室などを付属したメッサラ様式の円形墳墓Aを発見した。
円形墳墓Aは歴史の中で盗掘されていたが、内径4.85mのトロス内部と付属建物内部から、初期ミノア文明EMIII期・紀元前2100年~中期ミノア文明MMI期・紀元前1800年の石製容器と陶器などが見つかっている。

トロス部の南半分、及び付属建物の北側~入口となる東側~南側の外面には、経過の中で追加施工したのか擁壁のような補強壁面が確認され、何れもかなり分厚い構造となっていた。また、墳墓の直ぐ北東側には埋葬儀式が行われたのか、舗装スペースも確認されている。

ミノア文明・アペソカリ遺跡/Google Earth
アペソカリ遺跡・円形墳墓2基
クレタ島・メッサラ平野
Google Earth⇒テキスト挿入

ミノア文明・アペソカリ遺跡・円形墳墓Aプラン図 Minoan Messara Style Circular Tomb A, Apesokari/©legend ej
アペソカリ遺跡・円形墳墓A・アウトラインプラン図
石灰岩質の尾根/紀元前2100年~前1800年
クレタ島・メッサラ平野/作図:legend ej

円形墳墓Aの出土品では、ワイン造りのブドウ搾りプレス容器の粘土製の模型が含まれていた。側面に注ぎ口付き、底が平らな容器模型は口縁部が直径約14cm、高さ4cmほどの小さな作品だが、この容器が単純な日常生活用ではなく、現実にブドウ搾りプレス容器の模型なら、この所有者(被葬者)は中期ミノア時代のワイン醸造に関係する人であったと連想できる。

ミノア文明・アペソカリ遺跡・トロス式墳墓出土・ワインプレス模型/©legend ej
ミノア文明・ワインプレス 例/副葬品の模型&実用型
・左=アペソカリ遺跡・トロス式墳墓A出土・副葬品の模型
・右=東部・グルーニア遺跡出土・実用型テラコッタ製品
NTS(Not to Scale)/描画:legend ej

その後、1963年、アテネ大学の Costis Davaras 教授により発掘ミッションが実施され、円形墳墓A~東方200m付近から埋葬室と前室などを付属した円形墳墓Bが発見された。
やはり墳墓Bも盗掘されていたが、出土した石製品と陶器からの解析では、墳墓は中期ミノア文明MMIA期・紀元前2000年頃に建造され、MMIB期・紀元前1800年頃まで使われたとされる。発掘ではそのほか青銅製とステアタイト製(タルク・滑石)の複数の両刃斧も見つかっている。

出土した複数の印章のうち、横21.5mm、レンズ形状の断面、アーモンド型のアメジスト製の印章では、後方を振り向く姿勢のライオンが刻まれている。ビーズ形式の技巧面の上質性から、おそらくアペソカリでは比較的新しい「最終埋葬」の被葬者が身に付けていた印章と思われる。

ミノア文明・アペソカリ遺跡・アメジスト製の印章 Minoan Amethyst Seal, Lion, Apesokari/©legend ej
アペソカリ遺跡・円形墳墓出土・アメジスト製の印章
印面=アーモンド型・後方を振り向くライオン
中期ミノア文明MMIB期・紀元前1800年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号3285/横21.5mm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

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