2020/09/05

ミノア文明・ミルトス・ピルゴス遺跡 Myrtos-Pirgos


クレタ島・東部南海岸のミルトス村 Myrtos

位置クレタ島・東部南海岸
イエラペトラ~西方14km・フォウルノウ・コルフィ遺跡~西方1.7km
GPS ミルトス・ピルゴス遺跡: 35°00′25″N 25°35′27″E/標高75m


クレタ島・東部地方の南海岸、リビア海に面するイエラペトラ Ierapetra~西方14km、ビニールハウス栽培と夏のペンションで名の知れた、民家50軒ほどの小村ミルトス Myrtos がある。
イエラペトラ方面から延びる南岸道路(Gra Lygias=Gdochia)は、村の西側で海までせり出した険しい山地に阻まれ、これ以上海岸沿いに進めず、道路は村から北方へ直角に向きを変えて突然と険しい山岳地帯へ入る。
そうして、急勾配のヘアピンカーブが何十回も連続する最高標高735mの山岳道路となり、アルカロコリオン Alkalochorion~クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace を経由、島都イラクリオンへ向かう。

クレタ島・東部・ミノア文明・遺跡 地図 Map of Minoan Sites, East Crete/©legend ej
クレタ島・東部・ミノア文明・遺跡 地図
作図:legend ej


ミノア文明のミルトス・ピルゴス遺跡の発掘

ミルトス村の直ぐ東側には、険しい山岳地帯の標高1,100m付近を源流とするミルトス渓流が流れ、橋を渡った道路の北側に、地元で「ピルゴス Pirgos」と呼ばれる標高75mの丘がある。
小高い岩丘の頂点付近で発見されたミルトス・ピルゴス居住地遺跡 Myrtos-Pirgos では、ミノア文明の早い時期から長期に渡って居住された遺構が確認された。

ミノア文明・ミルトス・ピルゴス遺跡 Minoan Settlement Hill, Myrtos-Pirgos/©legend ej
ミルトス・ピルゴス遺跡・居住地の丘
標高75mの岩丘/麓にはわずかにオリーブ耕作地が広がる
クレタ島・東部南海岸/1982年

ピルゴス遺跡は、1970年~1973年、イギリス人の考古学者カドガン教授 G. Cadoganのチームが発掘したミノア文明の遺跡である。現在、見ることのできるサイトは、ミノア文明の邸宅区画とその周辺に点在する水溜め施設など、居住地の遺構である。
ただ、サイト自体は東部北海岸のグルーニア遺跡 Gournia や最東部の海岸・パライカストロ遺跡 Plaikastro などのような大規模なミノア人の住んだ町遺跡ではなく、「小規模な居住地」と言って良いだろう。

ミノア文明・ミルトス・ピルゴス遺跡/Google Earth
ミルトス・ピルゴス遺跡の周辺
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入

ミノア文明・グルーニア遺跡 Minoan Settlement, Gournia/©legend ej
グルーニア遺跡・丘の頂上付近・「小宮殿」&列柱
左遠方=紺藍のエーゲ海・ミラベロ湾
クレタ島・東部/1982年


ミノア文明・パライカストロ遺跡・「建物5」 Minoan House, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡・「建物5」
クレタ島・最東部/1996年

なお、発掘者のカドガン教授はエーゲ海・青銅器文明の著名な研究者の一人で、キプロス島の世界遺産/キロキティア遺跡 Khirokitia から近い青銅器文化のマローニ・ヴォルネス遺跡 Maroni-Vournes なども発掘している。

キプロス島・新石器文化~青銅器文明・遺跡 地図/©legend ej
キプロス島・新石器文化~青銅器文明 遺跡 地図
作図:legend ej


ミノア時代・ピルゴスの居住~崩壊&放棄

ピルゴスの岩丘での最初の居住は、初期ミノア文明EMII期・紀元前2400年頃に始まり、「侵攻ミケーネ人」による主要宮殿や邸宅とミノア人の町が破壊される、後期ミノア文明LMIB期・紀元前1450年頃まで約1,000年間、連続して居住されたミノア文明の「長い歴史」を秘めた希な場所であった。

ミノア文明&ミケーネ文明 編年表/©legend ej
クレタ島ミノア文明&ギリシア本土ミケーネ文明 編年表
・ミノア文明・「旧宮殿時代」: 紀元前1900年~前1625年
・ミノア文明・「新宮殿時代」: 紀元前1625年~前1375年
ミケーネ文明(時代):  後期ヘラディック文明 LH期
作図:legend ej

ピルゴス居住地~東方1.7km、同じく初期ミノア文明EMII期、紀元前2600年頃に居住が始まるフォウルノウ・コリフィ居住地 Fournou Korifi がある。フォウルノウの岩丘では拡大された家族である氏族が居住して、初期の最小時で30人以上、繁栄時では最大100人~120人が居住する共同体を形成していた、と推測されている。
その後、ピルゴスでの居住と繁栄が始まってから200年余り経過した初期ミノア文明EMIII期・紀元前2200年頃、フォウルノウ・コリフィ居住地では発生した火災により、400年間続いた居住は果かなくも崩壊の運命を辿り、その後、再び居住されることはなく岩丘の居住地は完全に放棄された。

ミノア文明・ミルトス・ピルゴス遺跡~フォウルノウ・コルフィ遺跡 地図 Map between Minoan Myrtos-Pirgos and Fournuo Korifi/©legend ej
ミルトス・ピルゴス遺跡~フォウルノウ・コルフィ遺跡 周辺 地図
クレタ島・東部南海岸/作図:legend ej

ミノア文明・フォウルノウ・コルフィ遺跡 Minoan Settlement, Fournou Korifi/©legend ej
フォウルノウ・コルフィ遺跡・南入口
急階段状の狭い通路と家屋群
クレタ島・東部南海岸/1996年

ミノア文明の研究者の間では、小規模ながらもほぼ同時期に同じエリアで繁栄した、フォウルノウ・コルフィとミルトス・ピルゴスの二つの居住地を合わせ、ミルトス村の名を取って集約的に「ミルトス遺跡」と呼称する場合がある。
この集約名称の典型例が、フォウルノウ・コルフィ遺跡からもたらされた、紀元前2200年頃のテラッコッタ製のリュトン容器である。これは日本のお湯を沸かす「ヤカン」に似た釣鐘型の容器、水またはワインなどを注ぐ聖なるリュトン容器であった。
今日、東部地方の人気あるリゾート、アギオス・ニコラオスの考古学博物館で展示公開されているリュトン杯は、フォウルノウ・コルフィ遺跡からの出土品であるが、《ミルトスの女神 Goddess of Myrtos》と呼ばれている。

ミノア文明・フォウルノウ・コルフィ遺跡・《ミルトスの女神》Minoan Myrtos' Goddess/©legend ej
フォウルノウ・コルフィ遺跡出土・《ミルトスの女神》
アギオス・ニコラオス考古学博物館/高さ約21cm
クレタ島・東部南海岸/描画:legend ej



ピルゴスの邸宅遺構

ピルゴス居住地の丘で中心となる邸宅区画は、紀元前1600年~前1500年頃に建てられた集合的な建物で、ほかのミノアの地方邸宅と同様に、紀元前1450年頃、「侵攻ミケーネ人」によるクレタ島への攻撃を受け、火災により1,000年も続いた居住地の幕が閉じられた後、完全に放棄された。

ノア文明・ミルトス・ピルゴス遺跡/Google Earth
ミルトス・ピルゴス遺跡・居住地遺構
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入

ピルゴス渓流の橋の東側に立ててある、ギリシア当局の赤茶色標識【Minoan Settlement⇒】に従って、標高75mの岩丘を登る。
ピルゴスの邸宅区画は、岩丘の頂上よりわずかに南寄り、発掘された30mx25m規模、岩丘の上という限られた条件もあるが、ミノアの邸宅としては決して広いとは言えない敷地である。ただ、遮るものはない標高75m、真下にリビア海を望める絶好の場所に建てられた、領主邸宅に相応しい十分な建築構造が残されている。

ミノア文明・ミルトス・ピルゴス遺跡・邸宅区画 Minoan Villa, Myrtos-Pirgos/©legend ej
ミルトス・ピルゴス遺跡・邸宅区画
舗装中庭~邸宅区画一階レベル~岩丘の頂上付近
丘上・左端=後世の「見張塔」の崩壊遺構
クレタ島・東部南海岸/1996年


邸宅区画の建築仕様

邸宅区画の南側は、リビア海へ落ち込む斜度50度の崖状の急斜面が迫っている。崖上のわずかな空間を活用した、淡紫~青色系の石灰岩の敷石舗装が施された小さな中庭風のスペースが造成され、中庭の南西端には小型の水溜ピットが残されている。

ミノア文明・ミルトス・ピルゴス遺跡・プラン図 Minoan Settlement Plan, Myrtos-Pirgos/©legend ej
ミルトス・ピルゴス遺跡・居住地・アウトラインプラン図
クレタ島・東部南海岸/作図:legend ej

ミノア文明・ミルトス・ピルゴス遺跡・小型水溜ピット Myrtos-Pirgos/©legend e
ミルトス・ピルゴス遺跡・邸宅区画・舗装中庭&小型水溜ピット
遠方1.7km=フォウルノウ・コルフィ遺跡
クレタ島・東部南海岸/1996年

邸宅区画の東側には、下方にも存在したであろうピルゴスの「下の集落」から登って来る、割石と玉石を敷いた長く急な石段が残り、石段の北側は精巧な切石積み施工、擁壁の役目も果たす邸宅の正面部となっている。
正面部の切石積みは、建築以来3,500年以上の年月の経過があっても、良質な石材を使っていたためか劣化が目立たず、この邸宅区画で最も良好に原形を留めているスポットである。

ミノア文明・ミルトス・ピルゴス遺跡・邸宅 Minoan House Facade, Myrtos-Pirgos/©legend ej
ミルトス・ピルゴス遺跡・邸宅区画・正面部
良質石材の切石積み施工=上階フロアーの存在を連想させる
クレタ島・東部南海岸/1982年

ミノア文明・ミルトス・ピルゴス遺跡・石段 Stone Steps, Myrtos-Pirgos/©legend ej
ミルトス・ピルゴス遺跡・正面部脇の長い石段
丘上の邸宅&居住地と「下の集落」を連絡している
クレタ島・東部南海岸/1996年

ミノア文明・ミルトス・ピルゴス遺跡・石段 Stone Steps, Myrtos-Pirgos/©legend ej
ミルトス・ピルゴス遺跡・割石&玉石を敷いた石段
クレタ島・東部南海岸/1982年

カドガン教授チームの発掘では、何れも微細な破片状態であったが、この石段付近から大理石に似た石材を加工した彩色装飾の儀式リュトン杯を初め、キクラデス様式の水差しなどが発見されている。
出土品が元々石段に置かれていた理由はなく、それらの破断の状況からして、邸宅の正面部には間違いなく上階(二階)が存在して、紀元前1450年頃、「侵攻ミケーネ人」により居住地と邸宅が破壊された時、これらの品々が上階の部屋から崩落した、と推測されている。

円柱と角柱の柱礎を残すベランダ風の玄関から邸宅内部へ入る。発掘時には丘の頂上(北方)へ向かう狭い通路の奥には、聖所風の構造の部屋があり、西壁面に石膏石ベンチが残されていた。
発掘では、今でも火炎で焼けた石膏石の壁面が確認できるこの狭い部屋の周辺から、ミノア文明の線文字A粘土板、印章で粘土に押印した複数の印影、美しいピンク色のホラ貝形容のファイアンス製リュトン杯、管状テーブルなどが見つかっている。

ミノア文明・ミルトス・ピルゴス遺跡・邸宅玄関 Minoan House Entrance, Myrtos-Pirgos/©legend ej
ミルトス・ピルゴス遺跡・邸宅区画・玄関ベランダ
「円柱・角柱・円柱」の配置施工/左奥=石製ベンチの部屋&食器室?
クレタ島・東部南海岸/1996年

発掘作業で確認された邸宅区画の一階レベルでは、現在、見ることのできる部屋数15室を数える程度である。しかし、邸宅に上階(二階)があったことを否定する理由はなく、現在では痕跡がないが、邸宅区画は岩盤が露出している丘の頂上付近まで拡張されていたと思う。
だとしたら、邸宅は一階レベル、そして岩盤を基礎部に利用した構造の「中二階」のフロアーがあり、さらに推測される上階(二階)を加えたなら、邸宅全体では最大30室前後であった、と推計できる。

現在、見ることができる邸宅区画はすべて一階レベルの基盤と壁面である。特に玄関ベランダから北側への通路とその奥の石製ベンチの部屋~東側の部屋~最も奥部(北側)の食器室?(or 準備室)などは、岩盤を掘削して部屋のスペースを確保した後、壁面の施工を行った、と判断できる。

ミノア文明・ミルトス・ピルゴス遺跡・食器室? Minoan House, Tablewareroom, Myrtos-Pirgos/©legend ej
ミルトス・ピルゴス遺跡・邸宅区画・一階最北部
石製ベンチの部屋~最奥部の部屋(食器室 or 準備室)
クレタ島・東部南海岸/1996年

石製ベンチの部屋の手前に東側へ上る階段の痕跡が確認できることから、間違いなく、この邸宅の主部屋や賓客を迎える上質な広間などは、この階段を上がった上階(二階)に配置されていたであろう。
従って、玄関ベランダを除き、現在、遺構となっている一階レベルの部屋は、言わばランプ照明に頼る「地下室」のような役目であったかもしれない。

マーリア遺跡・陶器製ランプ例/©legend ej
マーリア広域遺跡出土・陶器製ランプ使用例
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

「下の集落」からの長い石段の北側、邸宅区画の北区画には貯蔵庫と推測できる広い二部屋があり、邸宅の主要区画との間に頂上へ通じるやや上りの通路が配置されている。もしかしたら、この通路はトンネル状の施工で、貯蔵庫群の二階フロアーは玄関ベランダのある邸宅の主要区画の二階と連結されていたのかもしれない。
貯蔵庫群の壁面の厚さからの判断では、上階には比較的「大きな部屋」が配置されていたことは間違いない。想定できるその建築は、玄関ベランダと貯蔵庫群の二階の全面、またはどちらかの二階部分には、眼下に海を望めるバルコニー形式の広間があった、と推測できる。

そうならば、水溜ピットのある中庭スペースの東側に配置された聖所?と、その東側で石段より南側の部屋群は、崩れ易い崖上という場所柄、そして北側のバルコニーからの海への展望を妨げない意味からして「一階造り」であった、と考えるのが妥当な推測となる。
なお、現在、石段の南側の崖上に配置されていた聖所?より東側の複数の部屋は、ほとんど崩落してしまったことから、基礎部も不明瞭な状態となっている。

ミノア文明・ミルトス・ピルゴス遺跡 Minoan Settlement, Myrtos-Pirgos/©legend ej
ミルトス・ピルゴス遺跡・邸宅区画・玄関ベランダ
円柱&角柱礎=玄関/右側=舗装中庭~聖所?~崩壊部屋群
リビア海&遠方1.7km海岸の丘=フォウルノウ・コルフィ遺跡
クレタ島・東部南海岸/1982年

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線文字A粘土板の出土の意味

玄関ベランダから入った邸宅区画の一階レベルから出土した、ワインの「数量(単位)」を記録したミノア文明の文字、線文字Aの粘土板の存在から、ピルゴス邸宅ではワイン醸造を初め、居住地周辺で収穫されるオリーブや豆類など農産物の管理が、主業務であったことは間違いない。


クレタ島・ワイン用ブドウ栽培
クレタ島・ワイン用ブドウ栽培

クレタ島・オリーブ栽培
クレタ島・オリーブ栽培


思うに、険しい山地が迫るピルゴス居住地周辺で農耕地に適用できそうな場所の広さから、フェストス宮殿が管理した南西部メッサラ平野のような農産物の大量収穫は、ピルゴス邸宅の統治範囲では期待できなかったかもしれない。
反面、海に面する地理的な利点を考えた場合、ピルゴス邸宅はリビア海沿岸の国内交易では、重要な中継地の役目は果たしていた、と判断できる。

ミノア文明では宮殿などで限定して使われ、主に王国の財務・行政面の管理記録であった線文字A粘土板の出土は、ピルトス邸宅には線文字Aを認識できる高度な知識を持った、高位身分の領主が継承して住んでいたことを意味している。
研究者は、「ワインの生産量」を記録した線文字A粘土板の出土は、ミノア中央政府・クノッソス宮殿への「報告義務」を連想でき、王国の直轄管理が及んでいたと判断している。
そうならば、中央政府から直線で50km、標高800m近い険しい山道を馬で越えても二日間、鈍足のロバでは三日間が必要な厳しい条件の位置、遠く離れた南岸の小規模な居住地でありながらも、ピルゴスの邸宅はミノア王国の政治・経済の範疇では「上位ランク」に位置する、極めて重要な地方邸宅の一つであった、と考えても良いだろう。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王座の間 Throne Room, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・王座の間
火炎で焼けた石製王座&石膏石ベンチ&床面
西~北壁面(西側)フレスコ画=1913年復元
北壁面(東側)フレスコ画=1930年復元
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年


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ピルゴスの居住地の遺構

石板舗装の周回道路

岩丘の頂上から少し下がった西~北~東側の斜面では、邸宅区画と丘を取り巻くように、幾らかの家屋遺構を結び楕円を描く居住地の周回道路が確認されている。邸宅区画・正面部脇の長い石段とは別に、周回道路の一部であったと考えられる、岩丘の西側にも10段にも満たないが「西の石段」が残されている。
現在、居住地の家屋群はほとんど崩壊状態であるが、周回道路は途中で途切れながらも、岩丘の西方から西の石段を登り切ると邸宅区画・玄関ベランダ&舗装中庭へ至り、そして正面部脇の長い石段を結んでいた、と推測できる。

ミノア文明・ミルトス・ピルゴス遺跡・周回道路の石段 Minoan Steps, Myrtos-Pirgos/©legend ej
ミルトス・ピルゴス遺跡・周回道路の一部「西の石段」
石段を登ると邸宅区画・玄関ベランダ&舗装中庭へ至る
クレタ島・東部南海岸/1996年

発掘では、周回道路の最も西側となる区域から、石板で舗装された上質な施工箇所が見つかったことから、この周回道路は中央部分を盛り上げた、ミノア宮殿の西中庭などでも見られる石板歩道と同じタイプであったと思われる。
周回道路では、ロバなどが歩き易いためか、石板舗装の両脇を無舗装の施工としていることから、ほかにも存在した単純な狭い通路とは別格の、間違いなくピルゴス居住地の「主要道路」であった、と考えて良いだろう。

ミノア文明・ミルトス・ピルゴス遺跡 Minoan Paved Street, Myrtos-Pirgos/©legend ej
ミルトス・ピルゴス遺跡・石板舗装の周回道路
・歩道の左側=居住地の家屋跡
・歩道の先=埋葬建物&納骨室
クレタ島・東部南海岸/1996年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・西中庭 West Court, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西中庭
旧宮殿時代に造られた全面石板舗装の西中庭
盛り上がり歩道がローヤルロード&劇場区域へ延びる
クレタ島・中央北部/1982年


石板舗装の道路脇に幾らかの建造物の遺構が残されている。出土のピンポイント位置は不明だが、発掘時に高速回転が可能な陶器造りの「ろくろ」も見つかっている。この意味は当然のこと、確認されていないが、ピルゴス居住地には陶器を焼いた窯・キルンが存在したはずである。


共同体用の埋葬施設&納骨室

西の石段より少し南西寄り、石板舗装の周回道路が終わる丘の最も西側から、中期ミノア文明MMIIA期・紀元前1800年頃、ミノア文明の「旧宮殿時代」に遡る、二階建ての共同体用の埋葬施設の遺構が確認されている。
埋葬施設の床面は石板歩道レベルより約2m低く、数段の石段を下る「半地下」の構造となっていた。この建物の南東脇には、埋葬施設内が新しい遺体で満杯になった場合、比較的古い遺骨を集めて移して安置するための、納骨室のような円形のスペースが付属されていた。

ミノア文明・ミルトス・ピルゴス遺跡・埋葬施設 Minoan Burial Facility, Myrtos-Pirgos/©legend ej
ミルトス・ピルゴス遺跡・埋葬施設&納骨室
・石段を使う「半地下レベル」
・中心=方形テーブル状の遺構
・右手前の円形の空間=納骨室
クレタ島・東部南海岸/1996年

発掘時にこのスポットでは合計65人分の遺骨が見つかり、うち9体分は女性であったとされる。小規模な居住地とは言え、ピルゴスは邸宅の存在とミノア時代、1,000年間も継続的に居住された歴史ある場所であり、埋葬施設から見つかった遺骨の量がやや少ない感じもする。
ただ、未だ発掘されていないが、古い時代の埋葬はこの施設とは別の場所、例えば周辺山野の単純なピット埋葬などであったか、あるいは新しい埋葬がある程度増えた時、安置のスペースの関係から狭い納骨室の古い遺骨は、何らかの宗教的な考えに則り順次に「処分」されたのかもしれない。


大型の水溜ピット

邸宅区画の南側の中庭スペースでは、ほぼ土で埋まっているが、直径3mほどの小型の水溜ピットと思われる遺構が残されている。
一方、丘の北斜面の居住地の周回道路の脇では、大型サイズの水溜め施設が見つかっている。深さのある水溜ピットは内径6mほど、整然と石積みされ、漏水を防ぐために石積み隙間に石膏プラスターが詰められていた。
この水溜ピットは、ミノア文明の「旧宮殿時代」の後半期に相当する、中期ミノア文明MMIIB期・紀元前1700年~「新宮殿時代」の初めの後期ミノア文明MMIIIA期・紀元前1600年頃に造られた施設と断定されている。

ミノア文明・ミルトス・ピルゴス遺跡・水溜ピット Minoan Cistern, Myrtos-Pirgos/©legend ej
ミルトス・ピルゴス遺跡・大型の水溜ピット
内径=約6m/石積み&石膏プラスター施工
クレタ島・東部南海岸/1996年

アフリカ大陸に対面する降雨の少ないクレタ島南岸の小高い岩丘、井戸の痕跡が確認されていないことから、ピルゴスでは飲料水の確保は常に居住する人々の死活問題、最重要な課題であったであろう。イラクリオン~南南西11km、ティリッソス邸宅 Tylisos の水溜めの施設と同様に、ピルゴス居住地の水溜ピットもその重要な役割を果たしていたと考えられる。

ミノア文明・ティリッソス遺跡・水溜ピット Minoa Cistern, Tylissos/©legend ej
ティリッソス遺跡・邸宅C・水溜ピット
クレタ島・中央北部/1994年

GPS ティリッソス遺跡: 35°17′55″N 25°01′13″E/標高190m

仮想の話だが、標高75m、ピルゴスの岩丘に建てられた邸宅のみならず、少し標高が低くなる居住地の人々が使う大量の飲料水の確保では、丘の直ぐ西下を流れる、直線距離で約200mのピルゴス渓流の新鮮な水を一旦水溜ピットへ運び上げて溜め置きして、それを日々使うというやり方であった可能性が高い。

乾燥のクレタ島では、降る雨を待っていたのでは、何時になってもこの大容量の水溜ピットを満たすことはできなかったはずで、水を入れた重いアンフォラ型容器を住民が背負い、あるいはロバの背に乗せて、川から標高差60mの水溜ピットまで登るのである。
水溜ピットのサイズからして、1週間~10日間に一回ほどの頻度であったであろう、居住者総出で行う川からの「水の運搬作業」は、結構人手の要るたいへんな重労働であったと想像する。


ミノア宮殿の石積みピット

参考だが、ミノア文明では色々な目的で大型の石積みピットが、各地の宮殿や地方邸宅でも施設された。例えば、南西部・メッサラ平野のフェストス宮殿や北海岸のマーリア宮殿では、石積みピットは小麦や豆類など乾燥穀物の貯蔵庫として活用された。

ミノア文明・フェストス宮殿 Old Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・円形ピット群
旧宮殿時代の穀物貯蔵庫群
クレタ島・メッサラ平野/1994年

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡 Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡・円形ピット群
新宮殿時代の穀物貯蔵庫群
クレタ島・中央北部/1982年

さらに文明センターのクノッソス宮殿遺跡・西中庭には、「旧宮殿時代」に造られた深いピット施設が三基残されている。これは穀物倉庫ではなく、詳細な用途は不明だが、紀元前1625年頃、地震で破壊された旧宮殿の跡地を利用して、部屋数1,000室の新宮殿を造営する時、イベントなどで使った不要物の捨て場として使われた。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・西中庭・コウロウラスピット Koulouras-pit, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西中庭・コウロウラス
旧宮殿時代・紀元前1700年頃
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・西中庭・コウロウラスピット Koulouras-pit, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西中庭・コウロウラス
底部=紀元前2000年頃の家屋遺構が残る
クレタ島・中央北部/1994年

そのほか、最東部のザクロス宮殿遺跡・王の居室コンプレックスの東側には、宮殿区域で最大面積、東西11.5m・南北13m、方形の広い部屋(or スペース)があり、その中心には水溜めの「プール」のような遺構がある。
直径約5m、上端が床面と同じレベル、円形の深い石組みに精巧に加工された大型切石が使われた水溜ピット(プール)、間違いなくかつては石膏プラスターの表装が施されていた。この「プール」を備えた部屋全体が、吹抜け構造のオープンエアーの形式であった可能性もある。

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・水溜プール Water Pool?, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・東翼部・水溜プール?
クレタ島・最東部/1996年



ピルゴス居住地は何処まで広がっていたのか?

居住地の周回道路から離れ、邸宅区画から長い石段を東方へ下ると平坦で広いスペースとなる。
推測の域だが、この広い場所は石混じりの土壌であり、すべてが農耕地として活用されたとは考えられず、邸宅を中心に繁栄した丘斜面の居住地とは別の、小規模な「下の集落」と言えるピルゴスの庶民の家屋が並んでいた、と仮想できる。
「下の集落」の住民が岩丘へ上り下りすることから、割石と大サイズの玉石を丁寧に並べて施工した、長期間メンテナンス不要の頑丈な石段が必要であったのであり、それが今日まで残されてきた。

「ピルゴス」の名称の由来
「ピルゴス Pyrgos」とは、ギリシアで「塔」を意味する単語である。正確な時代は不明だが、後世になって、おそらくビザンチィン時代か、中世の時代か? この岩丘の頂上に「見張り塔」が設置されたことから、地元で「塔のある丘ピルゴスの丘」と呼ばれるようになったとされる。
岩丘の頂上には、初めて訪ねた1982年、二度目の1996年に訪ねた時にも、邸宅区画の西端の石製ベンチの部屋から少し西方の位置、屋根は崩落していたが、見張り塔の方形の石積み壁面が残されていた。

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