2020/03/09

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaestos Palace II


ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaestos Palace は「二部構成」となっています。
1. ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaestos Palace I 概略・西中庭・西~北翼部・王家の生活区画
2. ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaesto Palace II(当ポスト)

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位置
クレタ島・南西部・メッサラ平野/イラクリオン~南西45km・レセィムノン~南東45km
※レセィムノン Rethymnon: 別名 レシムノ
GPS
フェストス宮殿遺跡: 35°03′05″N 24°48′51″E/標高85m

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・大階段周辺 Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・西中庭~大階段~西翼部
クレタ島・メッサラ平野/1982年

クレタ島ミノア文明の宮殿遺跡(4か所)

・中央北部・ミノア文明センター・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace
・南西部・メッサラ平野・フェストス宮殿遺跡 Phaestos/Phaistos Palace
・北海岸・マーリア宮殿遺跡 Malia Palace
・最東部・ザクロス宮殿遺跡 Zakros Palace

クレタ島ミノア文明・宮殿群 地図 Map of Minoan Palaces in Crete/©legend ej
クレタ島・ミノア文明・宮殿遺跡 地図
作図:legend ej

クレタ島南西部・メッサラ平野・ミノア文明・遺跡 地図 Map of Minoan Archaeological Sites at Messara/©legend ej
クレタ島南西部・メッサラ平野・ミノア文明・遺跡 地図
作図:legend ej

ミノア文明&ミケーネ文明 編年表/©legend ej
クレタ島ミノア文明&ギリシア本土ミケーネ文明 編年表
・ミノア文明・「旧宮殿時代」: 紀元前1900年~前1625年
・ミノア文明・「新宮殿時代」: 紀元前1625年~前1375年
ミケーネ文明(時代):  後期ヘラディック文明 LH期
作図:legend ej

現在、フェストス宮殿遺跡でツーリストが見ることのできる遺構の大部分は、比較的保存状態が良い新宮殿の崩壊時の基礎部分である。一方、「旧宮殿時代」の遺構は破壊レベルが激しく、一部の区画にはプラスチック屋根で保護カバーされ、立ち入りが制限されている箇所もある。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡/Google Earth
フェストス宮殿遺跡
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入


中央中庭/東翼部~北東翼部

中央中庭

石灰岩の石板で全面舗装されたフェストス宮殿の中央中庭 Central Court は、おおよそ52mx22mの長方形である。ただし、中庭の南東端は部分崩落が起こっている。この部分は高さ50mの崖上、下方はメッサラ平野へ続くミノア時代の庶民が住んだ「市街」が広がっていた。

ミノア宮殿・中央中庭のサイズ比較:(m単位)
・文明センター・クノッソス宮殿: 50mx25m
・メッサラ平野・フェストス宮殿: 52mx22m
・北海岸・マーリア宮殿: 48mx22m
・最東部・ザクロス宮殿: 30mx12m

ミノア文明・宮殿&中央中庭サイズ/©legend ej
ミノア文明・宮殿区域&中央中庭 サイズ比較
作図:legend ej


ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・メッサラ平野/©legend ej
クレタ島・フェストス宮殿遺跡から南方方向・メッサラ平野/1982年

宮殿遺跡の尾根の麓一帯はミノア時代の市街が広がっていた。宮殿の尾根からは発掘された幾らかのミノア市街地の遺構が見える
かつて中央中庭の西と東側は、柱が連続するアーケード形式の回廊のような造りであったされ、現在でもかなりの数の柱礎が残されている。中央中庭を東西で挟むような配置のアーケード列柱群は、石製柱と木製柱が立つ混合様式であったとされる。また、この列柱様式の造りでは北海岸のマーリア宮殿遺跡でも中央中庭の東側で見ることができる。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・中央中庭(東側)列柱様式の造り・柱礎列
左方=王家の生活区画(保護屋根)/右方=旧宮殿時代の東翼部
クレタ島・メッサラ平野/1982年

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡 Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡・中央中庭~東側・列柱様式の造り~東翼部・倉庫建物
クレタ島・中央北部/1982年

中央中庭の西側の柱礎部分が、未舗装の浅い正方形ピットのような構造になっているが、研究者はこの柱礎ピット穴は「旧宮殿時代」からのものと推測している。残されている柱礎が大型であることから、歴史の中で崩壊してしまった南側を除き、間違いなく中央中庭に面する建物は二階建てであった。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・中央中庭(西側)
列柱の柱礎ピット穴/右側=「聖域」
クレタ島・メッサラ平野/1982年

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・プラン図 Plan of West-North-East Wings, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡/西翼部~北翼部~東翼部 アウトラインプラン図
クレタ島・メッサラ平野/作図:legend ej


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東翼部~北東翼部

中央中庭の東側、「旧宮殿時代」からの東翼部の遺構はあまり残っていない。ただ、岩盤を利用して複数の部屋を区切る角柱礎やベランダ形式の円柱礎の存在などから判断するなら、この区画にも中央中庭を囲む二階建ての壮麗な部屋や広間が連なっていたはずである。
一部の研究者は、この区画は「プリンス(王子)の部屋 Prince's Room」であった、と提唱している。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・東翼部
旧宮殿時代の円柱礎の部屋~中央中庭~西翼部・聖域を見る
クレタ島・メッサラ平野/1982年

中央中庭の北東側が北東翼部、宮殿付属の工房群 Craft Rooms が整然と配置されている。フェストス宮殿遺跡からは、自然主義的なモチーフを描いた色鮮やかなカマレス様式陶器を初め、ミノア文明を代表する見事な工芸作品が多数出土していることから、北東翼部の工房部門がその製作を担当していたことに疑いの余地はない。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・北東翼部・工房群~中央中庭(明るい部分)
クレタ島・メッサラ平野/1982年


エーゲ海先史 ミノア文明ミケーネ文明
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出土品/カマレス様式陶器

中期ミノア文明MMIB期~中期MMIIB期、紀元前1900年~前1625年頃、ミノア文明の「旧宮殿時代」、クレタ島での陶器生産は急激に発展・活況となった。
特に絵柄に渦巻き線や波線など幾何学紋様、魚や動物、さらにロゼッタ紋様や花や植物のアレンジ紋様など大胆で華やかなデザイン、見た目に優しいモチーフを表現した「カマレス様式陶器 Kamares Style Ware」は、ミノア文明の最も卓越した陶器様式の一つを確立した。

クレタ島でカマレス様式陶器が最も流行したのは、中期ミノア文明MMIIB期、紀元前1700年~前1625年、「旧宮殿時代」の後半期であった。
現代のスープカップに使えそうな大胆で斬新な絵柄デザイン、クノッソス宮殿遺跡出土のカマレス様式・薄肉エッグシェルカップに例を見るように、小型陶器の出土点数も無数にある。ミノア文明では、これらがすでに3,700年前から造られていた事実に驚きを禁じ得ない。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・カマレス様式カップ Kamares Style Cup, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡出土・カマレス様式・薄肉エッグシェルカップ
旧宮殿時代・中期ミノア文明MMIIB期・紀元前1700年~前1625年
イラクリオン考古学博物館・登録番号2690・高さ75mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

しかし、フェストス宮殿遺跡から出土したカマレス様式陶器に優美な大型作品が目立って多い理由は、ミノア文明を代表する大規模な焼き窯(陶器製作工房)が、フェストス宮殿の内部とメッサラ平野の統治区域内に存在し、多くの優秀な工房職人が腕を競って居たからに他ならない。
結果、カマレス様式陶器に関しては、クレタ島の全域に伝播されたこの様式陶器の流行が最初に、そして顕著に現れたメッサラ平野のフェストス宮殿からの出土例が多い。

カマレス洞窟
大胆な絵柄、鮮やかな色彩に特徴があるカマレス様式陶器とは、この様式陶器が最初に発見された聖なるイダ山系(イディ山/クレタ島最高峰・標高2,456m Mt.Ida/Psiloritis)の南東山麓にあるカマレス洞窟 Kamares Cave からその名称を由来している。
カマレス洞窟の位置は、フェストス宮殿遺跡~北方12kmの標高600mのカマレス村からトレッキングルートを北方へ3時間登った、ほとんど植生のない標高1,700m付近の荒涼の岩石斜面である。車で行ける人気のある標高1,350mのニダ高原 Nidas Plateau ~南南西3.5kmである。
南北40m以上の開口幅、西方へ大きく開口したカマレス洞窟は、先史時代からの崇拝の場所、19世紀の終わり頃に村人により発見され、その後、1913年、イギリス考古学チームが洞窟内部の本格的な調査を実施した。

GPS
カマレス洞窟: 35°10′39″N 24°49′39.50″E/標高1,700m
ニダ高原:   35°12′27″N 24°50′25″E/標高1,350m


フェストス宮殿の北東翼部・工房群の中間の第55室からは、多彩色の台座と白色の大きな花弁の立体的な装飾が施された見事なカマレス様式のクラテール型容器が出土した。
同様に工房群からは、色鮮やかな絵柄デザイン、短めの脚をもつ大型ボウル型容器円筒型大皿、美形の大型水差しなど、ミノア文明を代表する極めて優美な陶器類や美しい宝飾品が数多く見つかっている。
これらの陶器の製作は、「旧宮殿時代」の後半期、中期ミノア文明MMIIB期、紀元前1700年~前1625年である。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・カマレス様式陶器 Kamares Ware, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡出土・カマレス様式・クラテール型容器
旧宮殿時代・紀元前1700年~前1625年
イラクリオン考古学博物館・登録番号10578/高さ455mm
クレタ島・メッサラ平野/1982年

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・カマレス様式陶器 Kamares Ware, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡出土・カマレス様式・クラテール型容器(花装飾)
旧宮殿時代・中期ミノア文明MMIIB期・紀元前1700年~前1625年
イラクリオン考古学博物館・登録番号10578
クレタ島・メッサラ平野/1996年

装飾が施された大型クラテール型容器は、宮殿主催の「公式晩餐会」などで使われ、容器には参列者の飲むミノア・ワインが満たされ、一方、大型ボウル型容器や円筒型大皿には、表面をパリパリに焼いたローズマリー風味の美味な「子羊の丸焼き」などが宴の席でサーブされた、と想像できる。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・カマレス様式陶器 Kamares Ware, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡出土・カマレス様式・ボウル型容器
旧宮殿時代・中期ミノア文明MMIIB期・紀元前1700年~前1625年
イラクリオン考古学博物館・登録番号10580/直径540mm
クレタ島・メッサラ平野/1996年

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・カマレス様式陶器 Kamares Ware, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡出土・カマレス様式・円筒型大皿
旧宮殿時代・中期ミノア文明MMIIB期・紀元前1700年~前1625年
イラクリオン考古学博物館・登録番号18442
クレタ島・メッサラ平野/1982年

カマレス様式の大胆な魚の絵柄の「逆さ梨型」のピトス容器、そして口縁部に注ぎ口を付けた連鎖する渦巻き線紋様大型ピトス容器は、何れも宮殿・東翼部のほとんど崩壊状態であった「旧宮殿時代」の円柱礎が残る東翼部・「王子の部屋(第64室)」から出土した。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・カマレス様式陶器 Kamares Ware, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡出土・カマレス様式ピトス容器
旧宮殿時代・紀元前1700年~前1625年/高さ495mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号10679
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・カマレス様式陶器 Kamares Ware, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡出土・カマレス様式ピトス容器
旧宮殿時代・紀元前1700年~前1625年/高さ690mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号10678
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

また、カマレス様式陶器の植物性デザインでは、人気のサフランの花をアレンジしたブリッジ型注ぎ口付き水入れがある。
サフランの花の対(二個)を上下対称として、流行の水飴が回転しながら湾曲して垂れるような絵柄と大胆な渦巻線の組み合わせである。「旧宮殿時代」の後半期、中期ミノア文明MMIIB期の典型的なカマレス様式陶器のモチーフを表現している。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・カマレス様式陶器・サフラン絵柄 Saffran Design, Kamares Style Jar, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡出土・カマレス様式・サフラン絵柄水入れ
旧宮殿時代・紀元前1700年~前1625年
イラクリオン考古学博物館/高さ約430mm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

サフランの絵柄デザインとは異なるが、色彩豊かなブリッジ型注ぎ口付き水入れも出土している。形容は普通の水入れ容器、全体は暗色の地、頸部と下部にカマレス様式陶器の特徴的な色彩の一つ、赤紅色の太い帯線が周回、腹部には赤紅色と白線の縦方向へ延びるジグザグ線、スペースはヤツデの花弁に似た放射する丸玉状の8個の白色つぼみが埋めている。
決して華やかな絵柄ではないが、それでいて強い印象感を覚えるモチーフ表現である。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・カマレス様式陶器 Minoan Bridge-spouted Jar, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡出土・カマレス様式・ブリッジ型注ぎ口付き水入れ
太い赤紅色の帯線・赤紅色と白線のジグザグ線・ヤツデ花弁紋様
イラクリオン考古学博物館・登録番号4390/高さ160mm
クレタ島・メッサラ平野/1994年

出土品/海洋性デザイン&植物性デザイン様式陶器

カマレス様式陶器ではないが、そのほか宮殿遺構からの目立った陶器では、スポンジ状の海綿や海草が揺らぐ海中を大胆に泳ぐアオイガイ(タコ属)の絵柄、海洋性デザイン様式 Marine Design Style の儀式用リュトン杯がある。
魚やタコやアオイガイなど海洋生物をモチーフにした絵柄は、カマレス様式の「旧宮殿時代」が終わり、次の「新宮殿時代」が始まる紀元前1625年以降に一気に発展する、中期ミノア文明の末期~後期ミノア文明の代表的な陶器デザインの一つであった。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・カマレス様式陶器 Kamares Ware, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡出土・海洋性デザイン・リュトン杯・「アオイガイの絵柄」
新宮殿時代・後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号5832/高さ260mm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

海洋性デザイン・アオイガイ絵柄の優美な水入れ
最東部のザクロス宮殿遺跡・西翼部からは、宮殿の広間などで飾るに相応しい非常に美しい器形、海洋性デザイン様式の水入れが出土した。
適度に開いた平らな口縁部、鐙型ハンドル、長い頸部と「逆さ梨型」の美しい肩部~腹部には、カンマ紋様と海洋生物・アオイガイが微細紋様の波間を浮遊する姿が描写されている。「花ほとばしる新宮殿時代」の最盛期、ミノア文明の最高傑作の陶器の一つである。
また、この水入れの「姉妹品」とも言える同型品がエジプト文明の遺跡から出土(ミノア文明⇒中東地域経由⇒エジプト)、さらに絵柄デザインに微差があるが、近似品は最東部・パライカストロ遺跡からも出土(イラクリオン考古学博物館・登録番号5172・高さ245mm)している。

そのほか、同じくパライカストロ遺跡からは宮殿発祥の優美な涙滴型(卵型)のリュトン杯が出土した。絵柄はホラガイのほか、アオイガイが波間に浮遊するシーンが描写されている。

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・海洋性デザイン水入れ Minoan Marine Style Jar, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・西翼部出土・美しい器形の水入れ
海洋性デザイン様式・アオイガイの絵柄
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号14098
クレタ島・最東部/描画:legend ej

ミノア文明・パライカストロ遺跡・海洋性デザイン様式・リュトン杯 Minoan Marine Style Rhyton/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・海洋性デザイン様式・陶器リュトン杯
頸部=小ハンドル・宮殿発祥の優美な涙滴型(卵型)
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
絵柄=ホラガイ・岩礁・海草・浮遊するアオイガイ
イラクリオン考古学博物館・登録番号3396/高さ285mm
クレタ島・最東部/描画:legend ej




海洋性デザイン様式と並んで「新宮殿時代」の最盛期、後期ミノア文明LMIB期、紀元前1500年~前1450年に流行が顕著となる植物性デザイン様式陶器 Floral Design Style がある。
この様式の絵柄のモチーフはパピルス・オリーブ・ツタ・サフラン、そしてヨシ(旧アシ)などが採用され、スペースにはロゼッタや渦巻線などが追加的に描画された。
植物性デザイン様式陶器の最も美しい陶器の一つ、フェストス宮殿遺跡から出土したヨシの絵柄の水差しがある。明るい地に暗色のヨシの群生だけを描いた、一見では単純なモチーフだが極めて精緻な表現は、フェストス宮殿付属の陶工職人の超越的な「技」を代弁している。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・植物性デザイン様式陶器・ヨシの絵柄水差し Reeds Painter Jug, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡出土・植物性デザイン様式水差し
「ヨシの絵柄」の精緻な表現/高さ290mm
新宮殿時代・紀元前1500年~前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号3962
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

出土品・ステムカップ

フェストス宮殿遺跡から出土したステムカップの絵柄が、アギア・トリアダ遺跡から出土した水差しの絵柄とまったく同じであり、もしかすると双方共にフェストス宮殿の陶器工房の同じ職人によりほぼ同時に焼かれた可能性がある。
製作は同じ「新宮殿時代」の最盛期、紀元前1500年~前1450年、器形は異なるが共通した絵柄である両刃斧と「聖なる結び目」を描いている点、双方の陶器は室内装飾の相当ハイレベルの用途として製作されたと推測する。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・ステムカップ Stemed Cup, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡出土・ステムカップ
抽象&幾何学様式/ハンドル除く高さ145mm
ロゼッタ・カンマ紋様・両刃斧・「聖なる結び目」
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号8407
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・水差し Minoan Jug, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡出土・水差し
ロゼッタ・カンマ紋様・両刃斧・「聖なる結び目」
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号3936
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej


出土品/石製容器

西翼部・聖域からは「旧宮殿時代」に遡る作品だが、ミノア文明の聖なる具象で頻繁に登場するハトを刻んだ、緑泥岩 or 石灰岩製の奉納容器も見つかっている。上から見ると四弁の「十字形」の口縁部、容器の両側面にはおのおの二羽のハトが対として細線で刻まれている。
ハトは仮想の動物グリフィンや蛇、さらにメスライオンなどと並び、ミノア文明では女神と一緒に石製や金製印章などにも表現されることが多く、また小型塑像の聖なるモチーフとしても人気の具象であった。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・石製容器 Stone Vessel of Dove, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・聖域出土・石製の容器
「旧宮殿時代」の奉納用・「ハトの絵柄」
イラクリオン考古学博物館・登録番号1514/高さ80mm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej


北東翼部の「青銅溶解炉」

ミノア時代、キプロス島から輸入される銅インゴットは、クレタ島最東部・ザクロス宮殿で陸揚げされ、錫との合金である青銅へ精錬、国内輸送に適した形状のインゴット加工が行われた。
フェストス宮殿の北東翼部・工房群の東側にはちょっとした中庭風のスペースがあり、その中心に半円形の遺構がある。もしかすると、これはザクロス宮殿から搬送された青銅インゴットの「再溶解炉」ではないかと思う。
とすれば、工房の裏口から通用できるこの中庭風の広いスペースは、腕の立つ工房職人達が製作した色々な作品の乾燥や一時的な野外保管などで使われたのかもしれない。

ミノア文明・銅インゴット&石製計量おもり Copper Ingot, Stone Weight/©legend ej
輸入銅インゴット&クノッソス宮殿・西翼部出土・赤色石膏石製の計量おもり
左=銅産地・キプロス文明 ⇒ 輸入された銅インゴットの標準形容 ※サイズ・重量=多種
右=石製計量おもり/イラクリオン考古学博物館・登録番号26/高さ425mm・重量29kg
描画:legend ej



宮殿・北東端の遺構/出土した「フェストスの円盤」の謎?

フェストス宮殿遺跡の「王家のプライベート生活区」の東側には、中期ミノア文明MMII期の「旧宮殿時代」、あるいは次の中期ミノア文明MMIII期の「新宮殿時代」の初期に遡る、比較的古い建物群の遺構が連なっている。
その一つの部屋で確認された泥レンガ枠の箱型列から、1908年、イタリア考古学チームによって、「旧宮殿時代」の終わり頃、紀元前1700年~前1600年に属する未解読文字の《フェストスの円盤 Phaestos Disk》が発見された。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・北東部・旧宮殿建物遺構
左上~中央上:泥レンガ箱型列内から「円盤」が出土
クレタ島・メッサラ平野/1982年

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・「フェストスの円盤」Phaestos' Disk/©legend ej
フェストス宮殿遺跡出土・《フェストスの円盤》
未解読絵記号?/紀元前1700年~前1600年
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・メッサラ平野/1982年

直径15.8cm~16.5cm、今からおよそ3,650年以上前に製作されたとされる円盤の両面には、「人の顔」や「歩く人」、「魚」や「花」など、絵文字に似た不思議なスクリプトが刻まれている。同じ区画から1,000点以上の石製印章や線文字A粘土板も見つかっている。
円盤の絵文字 or 絵記号は同時代にクレタ島ミノア人が使っていた線文字Aでもなく、ギリシア本土ミケーネ人が用いていた線文字Bからも縁遠い記号である。しかし、同じ場所で同じ時代に属する線文字A粘土板と円盤が同時に発掘されたにも関わらず、円盤の文字は何故?見た目にも線文字Aと「大きな違い」があるのであろうか?



南西翼部・「聖域」

フェストス宮殿の中央中庭に面する南西翼部は非常に複雑な構成で、その用途と機能に関しては、研究者でさえも確実に判断するのが難しい、と言われている。
ただ、各部屋の造りなどから想定できることは、神殿宝庫や支柱礼拝室などが集結しているクノッソス宮殿・西翼部1階、あるいはマーリア宮殿の支柱礼拝室周辺と同様に、間違いなく、フェストス宮殿のこの区画も宝庫や宗教関連など、聖なる目的に使用された聖域 Sanctuary であった。


ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・聖域 Sanctuary, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・南西翼部・聖域
聖域・北東端~ベンチ部屋(北)~通路~「聖なる浴場」を見る
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・メッサラ平野/1982年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「聖域」Sanctuary, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿・西翼部・「三分割聖所」(再現予想図)
「プレ・ヘレニズム様式」の円柱&「雄牛角型オブジェ」
原画情報:サー・アーサー・エヴァンズ・発掘レポート
「The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.II(1928)」
聖所=推定横幅5.2m/描画&色彩:legend ej


ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・聖域 プラン図/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・西翼部・聖域 アウトラインプラン図
クレタ島・メッサラ平野/作図:legend ej

フェストス宮殿の聖域区画では、中央中庭に面する聖域の北東端とそのすぐ南側には、石膏石製ベンチを設けた小部屋が連続して配置されている。北側のベンチ部屋には凹み付きの低いテーブルが置かれ、北と西壁面に「L型ベンチ」のある南側の部屋の間口は広く中間に円柱礎がある。
二つのベンチ部屋ともに同じような構造であったが、それぞれ用途は異なり、北側の部屋はドアーが閉じられる仕様でやや「密室的な用途」であったかもしれない。

ベンチの小部屋の南側には聖域区画で最も広く複雑な造りの部屋があり、内部に長方形の石碑が残されていたとされ、研究者は支柱を配置した「聖所」であった可能性を想定している。
ベンチの二部屋と南側に隣接する聖所は、いずれも中央中庭からアクセスできる配置、クノッソス宮殿の聖域と同様に、これらの部屋は互いに何らかの密な関係があったと考えられる。石膏石ベンチは祈祷を願う高貴な人が順番を待つ間に座るとか、あるいは中央中庭で行われる神聖な儀式に最も重要な関係を有する神官などが座るためだったかも知れない。

石膏石ベンチの二つの部屋と特殊な造りの聖所の西側には、聖域を左右(東西)に区分するように南北に走る狭い通路がある。通路の西側の中間付近と南寄りに二か所、クノッソス宮殿遺跡やザクロス宮殿遺跡などにも残されている儀式・祭祀的な行為が執り行われた「聖なる浴場」が配置されている。
一つの「聖なる浴場」からは、紀元前1450年頃の新宮殿の崩壊時、大火災で焼けたと推測される石膏石円柱と背の高い石製ランプが発見されている。

ミノア文明の「聖なる浴場」
床面から深さにして1mほど、決して広くはない半地下式の「聖なる浴場」。明かり取りの窓を設けず、間違いなく、石製ランプに照らされた暗く神秘なるこの場所では、王や神官など宮殿の限られた高位の人により、聖なる水を使い、手足のみならず身体の清めを含め、祈祷のようなある種の神聖な儀式、非常に重要な宗教的な行為が行われたはずである。
例えば、宮殿全体で行われる聖なるイベント前の、主催者たる王や神官などの「清め」の場所に使われた可能性が高い、と想定できる。

考古学情報の乏しい一般の観光ツーリストのほとんどが、この施設は水が湧き出る普通の「井戸」と勘違いしている。が、実はこの窓のない空間、それほどの深さもない特殊な構造にこそ大きな意味があり、聖なる水を使って儀式が執り行われる極めて宗教色の強い施設であった。
そのため、発掘により確認されたクノッソス宮殿を初めミノア文明の諸宮殿のほか、イラクリオンの西方のティリッソス遺跡 Tylissos/Tilisos など豪奢な造りの地方邸宅などに限定されて造られた「聖なる浴場」では、石製ランプが同時に見つかっている。
単純な飲料水の井戸ならば、王の居室や聖域に付属させる必要はなく、石製ランプも不要な宮殿外部の明るい場所、例えば泉水が期待できる糸杉の大木の根本に掘っても良いはずである。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・聖所・「聖なる浴場」Ritual Bath, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・宮殿聖所・「聖なる浴場」の石段&内部
側面=石膏石の表装施工・底部=石膏石の舗装仕様
クレタ島・中央北部/1994年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・聖所・「聖なる浴場」Ritual Bath, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・宮殿聖所・「聖なる浴場」
クレタ島・中央北部/1982年


ミノア文明・マーリア宮殿遺跡・「聖なる浴場」 Ritual Bath, Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡・西翼部・「聖なる浴場」
クレタ島・中央北部/1982年/描画:legend ej


ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡 Ritual Bath, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・西翼部・「聖なる浴場」
クレタ島・最東部/1982年


ミノア文明・パライカストロ遺跡・石製ランプ Minoan Stone Lamp/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・石製ランプ
イラクリオン考古学博物館
・左=登録番号616・高さ460mm
・右=登録番号133・高さ110mm
クレタ島・最東部/描画:legend ej


また、西中庭側から出入りができる聖域の北西端には、壁面に「両刃斧/ラブリュス」の記号が刻まれた同じタイプの小部屋が二部屋配置されている。二つの部屋は儀式などの準備室とされ、その東側におのおの付属する二つの部屋が倉庫であった。
これらの四部屋からは儀式・祭祀に関係する装飾品や用具、花瓶や色々な形式のカップや容器、女性のテラコッタ塑像、陶器の奉納テーブルや石製奉納台・「ケルノス Kernos」などが出土している。

聖域の北東端・準備室&倉庫からの出土では、腹部中央に中心円を置き、そこから白色の渦巻線と「アワビ貝?」の紋様が四方へ放射する、カマレス様式の後半期の典型的な絵柄パターンの水差しがある。
白色・黒色系・赤茶色など使っている色彩数は少ないが、渦巻線と旋回・放射する曲線を複雑に絡ませた洗練のモチーフ表現である。この種のやや幾何学紋様に近似する絵柄パターンの陶器の出土例は多く、一部では中心円から太陽の光線が放射するような単純にして「モダーンな雰囲気」の容器もある。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・カマレス様式陶器・水差し Kamares Style Jug, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・西翼部出土・カマレス様式・水差し
旧宮殿時代・紀元前1700年~前1625年
イラクリオン考古学博物館・登録番号10073/高さ267mm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

さらに聖域の準備室&倉庫からは、腹部に赤色のリングを描き、外周から放射的に白色の花弁または太陽の光線が膨らみを持って延びる絵柄のボウル型容器(or カップ?)も出土している。同一モチーフが放射的に連鎖する表現は、カマレス様式陶器の典型例の一つではあるが、動的にしてかなり大胆で力強い絵柄である。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・聖域・カマレス様式陶器 Kamares Style Bowl, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・聖域出土・カマレス様式・ボウル型容器(or カップ)
旧宮殿時代・紀元前1700年~前1625年
イラクリオン考古学博物館・登録番号10039/高さ16cm
クレタ島・メッサラ平野/1994年

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・石製奉納台ケルノス Minoan Stone Kernos, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・聖域出土・石製奉納台(ケルノス)
横350mm・幅250mm・厚さ70mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号2569
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

陶器の奉納テーブルでは上面内側に花柄文様が施されている。また儀式に用いたのか、小さなハンドル(取っ手)付きの浅いボウル型の容器では、黒字の背景内面の真ん中にミノア文明の特徴的な厚ぼったいスカートを履いた女神、その脇では二人の女性祭司が両手を動かして踊っているような情景、女神の足元にはユリのような花が輪、ややイラスト風の装飾が表現されている。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・奉納テーブル Offering Table, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・聖域出土・奉納テーブル
イラクリオン考古学博物館・登録番号10576
クレタ島・メッサラ平野/1994年

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・ボウル型容器/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・聖域出土・ボウル型容器
左=出土容器/右=復元予想容器
イラクリオン考古学博物館・登録番号10585
クレタ島・メッサラ平野/1994年

なお、部屋の壁面に刻まれた両刃斧の記号は、ある特定の人だけが立ち入ることのできる極めて重要な場所、多くは国家レベルと宗教的な関連施設を示している。

「両刃斧/ラブリュス lábrys」の記号
ミノア文明では政治と宗教は強く結び付き、多神教の思想からして、例えば聖なる動物とされた力のある雄牛やその角を初め、蛇やメスライオン、仮想上の動物《グリフィン》など複数の崇拝対象があった。
ミノア時代の人々にとり、あらゆる宗教的な崇拝シンボルの中で、殊更に両刃斧の記号が「最も神聖」とされた。部屋の壁面や支柱側面にやや斜めに刻まれ、その配置も決して規則正しいと言えないが、両刃斧の記号は極めて重要な神聖な標識であり、神と王からの最も高次な宗教的な警告でもあった。
通常、両刃斧の記号が表示された場所は、特別な身分の人、例えば王や王族、あるいは祭司・神官など、限定された人だけが近づくことを許された非常に特殊な場所、「聖なる場所」を意味していた。
また、石製金型を使ってある程度の数が量産された金製の小型両刃斧は、宮殿の宝飾品として大切にされ、時には信仰の山頂聖所や洞窟聖所へ奉納された。
あるいは超大型の青銅製の装飾用の両刃斧は、長さ2mを超す長い支持棒に取り付けられ、穴加工の石製角錐台(保持台)に差し込まれ、宮殿の統治者の居室を初め、地方の邸宅の宝庫や貯蔵庫など、大切な資産や宝飾品を保管する部屋や施設内に立てていた。

ミノア文明・両刃斧/©legend ej
ミノア文明・崇拝シンボルの「両刃斧」
左=黄金の両刃斧の宝飾品/イラクリオン考古学博物館
中=両刃斧の刻み記号  右=青銅製両刃斧&石製角錐台
描画:legend ej

フェストス宮殿遺跡からは、赤色斑点の「子牛」を形容した感じのテラコッタ製の雄牛リュトン杯が見つかっている。製作は後期ミノア文明LMIIIB期・紀元前1200年頃となる。「文明の最後」の時期になっても雄牛は人々の崇拝対象であったと考えられる。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・テラコッタ製・雄牛リュトン杯 Minoan Terracotta Bull Rhyton, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡出土・テラコッタ製の雄牛リュトン杯
視覚的には「子牛」に見える雄牛の像
後期ミノア文明LMIIIB期・紀元前1200年頃
イラクリオン考古学博物館/高さ35cm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej


フェストス宮殿遺跡 周辺の遺跡群

フェストス宮殿・「王家の墓地」

フェストス宮殿の「王家の墓地」は、宮殿遺跡~北西800m(道路1700m)、尾根の北側、ゲラポタモス川の南河畔、複数の円形墳墓が確認されている。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡&周辺 地図 Minoan Site, Map around Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡 周辺・ミノア文明遺跡 地図
クレタ島・メッサラ平野/作図:legend ej

ミノア文明・フェストス宮殿・王家の墓地/Google Earth
フェストス宮殿・王家の墓地/宮殿遺跡~北西800m付近
クレタ島・メッサラ平野
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入


アギオス・オヌフリオス遺跡・円形墳墓

フェストス宮殿遺跡~北北西1km付近、幹線道路N97号の脇に建つ聖オヌフリオス礼拝堂の直ぐ近く、北西40mほど、オリーブ耕作地の中にメッサラ様式の円形墳墓を残すアギオス・オヌフリオス遺跡 Agios Onouphrios がある。
この円形墳墓は、過去に部分的に盗掘された痕跡があったが、19世紀の終わり頃の発掘調査では、石製容器を初め宝飾品・青銅製短剣・石製印章、さらにエーゲ海・キクラデス様式の塑像などが見つかっている。
この円形墳墓の被葬者は、疑うことなく南方450mの「王家の円形墳墓群」と同様に、南方の尾根に建てられたフェストス宮殿に居住した「王」を含めた王族・貴族階級の人達であった。

メッサラ平野・アギオス・オヌフリオス礼拝堂 Chapel Agios Onouphrios, near Phaestos Palace/©legend ej
幹線道路N97号脇に建つ聖オヌフリオス礼拝堂
左遠方1kmの尾根の向こう側=フェストス宮殿遺跡
クレタ島・メッサラ平野/1996年

ミノア文明・アギオス・オヌフリオス遺跡・円形墳墓 Minoan Messara Circular Tomb, Agios Onouphrios/©legend ej
アギオス・オヌフリオス遺跡・メッサラ様式の円形墳墓
墳墓=聖オヌフリオス礼拝堂~北西40m
クレタ島・メッサラ平野/1996年

出土品に優美な器形と赤茶色の微細線で装飾された、後にアギオス・オヌフリオス様式陶器 Agios Onouphrios Style として知られる、非常に優美な水差しがある。
この陶器様式は初期ミノア文明EMI期、紀元前2700年~前2600年に流行する、北海岸マーリア宮殿遺跡の近くのピルゴス洞窟から名を取ったピルゴス様式 Pyrgos Style と並び、ミノアの初期陶器の一つである
アギオス・オヌフリオス様式は比較的短命に終わってしまうが、この後にメッサラ平野のコウマサ遺跡から名を取ったコウマサ様式 Koumasa Style、東部地方発祥のヴァシリキ様式 Vasiliki Style、さらに多色絵柄のカマレス様式 Kamares Style へと続く、ミノア文明の陶器の歴史を刻む重要な様式でもあった。

ミノア文明・アギオス・オヌフリオス様式陶器 Minoan Agios Onouphrios Style Jug, Phaestos Palace/©legend ej
アギオス・オヌフリオス様式・優美な器形の水差し
初期ミノア文明EMI期・紀元前2700年~前2600年
イラクリオン考古学博物館・登録番号5/高さ215mm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

ミノア文明・ヴァシリキ遺跡・ヴァシリキ様式水差し Minoan Vasiliki Style Jug, Vasiliki/©legend ej
ヴァシリキ遺跡出土・ヴァシリキ様式の水差し
特徴的な斑紋・鳥のくちばしに似た口頸部
イラクリオン考古学博物館・登録番号5319/高さ335mm
クレタ島・東部/描画:legend ej


フェストス宮殿遺跡・カリヴィア共同墓地

フェストス宮殿遺跡~東北東1.3km付近、民家10軒の小さなカリヴィア地区 Kalivia のわずかに南西側、1920年代にギリシア人考古学者マリナトス教授が発掘したフェストス宮殿の共同墓地遺跡がある。
確認された後期ミノア文明の10基以上の横穴墓からは、フェストス宮殿に関係する貴族階級と断定できる、高位な身分の人達の副葬宝飾品が出土している。
また、カリヴィア地区にはパナギア(聖母マリア)修道院 Panagia Kalivia Monastery がある。

GPS フェストス宮殿遺跡・カリヴィア共同墓地: 35°03′14″N 24°49′42″E/標高60m

横穴墓群の発掘では、「新宮殿時代」が終わった直後、後期ミノア文明LMIIIA2期・紀元前1375年~前1300年に属する形容の美しいアラバストロン型容器が出土した。
容器の絵柄は水鳥がパピルスの花をつついているシーンである。同時に出土したほぼ同型のアラバストロン型容器(イラクリオン考古学博物館・登録番号1587・高さ285mm)では、水鳥が大きな魚を捕えた絵柄である。

この種の描写は、紀元前1450年頃、ギリシア本土ミケーネ人によるクレタ島侵攻の後、「占領ミケーネ人」によるクノッソス宮殿統治時から流行が始まる水鳥・魚・水草など、エジプト・ナイル川流域の生物・植物・風景をリアリステックに描写する、ナイル自然様式 Nile-landscape Style の範疇に入る。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・カリヴィア共同墓地・アラバストロン型容器 Minoan Alabastron Vase, Phaestos-Kalivia/©legend ej
フェストス宮殿・カリヴィア共同墓地出土・アラバストロン型容器
パピルスの花・水鳥=ナイル自然様式のモチーフ
後期ミノア文明LMIIIA2期・紀元前1375年~前1300年
イラクリオン考古学博物館・登録番号1588/高さ230mm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

カリヴィア共同墓地から出土したアラバストロン型容器と絵柄デザインが異なるが、同じ時代に製作されたアラバストロン型容器が、フェストス宮殿遺跡~南西2.6km、カミラーリ遺跡・円形墳墓Aから出土している。
保存状態が良好なカミラーリ遺跡の容器では、口縁部と頸部は暗色色彩、肩部付近にはジグザグ線と押し潰したような横長楕円形の紋様が描かれている。さらに腹部全体には傾斜の枠線が引かれ縦菱形のスペースを作り、合計150個ほど、ローマ字の「A」の横線がカーブしたような幾何学紋様で埋め尽くされている。
フェストス宮殿の宮殿システムが崩壊した後期ミノア文明LMIB期・紀元前1450年より後世、円形墳墓Aが宮殿関係者の埋葬から庶民の墳墓へと転換した、後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年に属すると考えられる。

ミノア文明・カミラーリ遺跡・アラバストロン型容器 Minoan Alabastron Vase, Kamilari/©legend ej
カミラーリ遺跡・円形墳墓A出土・アラバストロン型容器
後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej


また、ナイル自然様式の出土例では、クノッソス宮殿遺跡~北方1km、ザフェール・パポウラ遺跡からの水鳥と小魚を描いた宮殿様式の水差しがある。この水差しはカリヴィアやカミラーリ容器よりわずかに早い紀元前1450年~前1400年に属する。

ミノア文明・ザフェール・パポウラ遺跡・宮殿様式水差し Palace Style Jug, Zafer Papoura/©legend ej
ザフェール・パポウラ墳墓出土・宮殿様式の水差し
鳥&小魚の絵柄=ナイル自然様式のモチーフ
後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1400年
イラクリオン考古学博物館・登録番号10017
クレタ島・中央北部/1982年


カリヴィア共同墓地の後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年に遡るとされる、横穴墓・1号墓からの円形のメノウ製の印章では、頭の向きは正反対だが、互いに上下対面する配置の雄牛二頭が刻まれている。印面の一部は欠損しているが、結構、動的な感じの二頭の雄牛が、互いに頭部を突き合わせているイメージで表現したのかもしれない。
雄牛の印章表現はミノア文明では極一般的であるが、直径22mmのレンズ型のほぼ円形、硬質石材の印面に隙間なく彫刻した丁寧な加工技術からして、このメノウ製の印章の所有者(被葬者)はフェストス宮殿に関係する高位な男性であったと推測できる。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・カリヴィア共同墓地・メノウ製の印章 Minoan Stone Seal, Phaestos-Kalivia/©legend ej
フェストス宮殿・カリヴィア共同墓地出土・メノウ製の印章
印面=部分欠損・円形・ 雄牛二頭・直径22mm
後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年
イラクリオン考古学博物館・登録番号170
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年に遡るとされる、横穴墓・2号墓からの楕円形(オーバル形状)の金製リングでは、左側に聖所を思わせる支柱が立ち、裸体の女神と厚ぼったいミノア風のスカート姿の女神が、何か話し合っているシーンが刻まれている。
中央上部の斜め線が「天」を意味するならば、明らかに「神出(かみいずる)エピファニー表現 Epiphany Scene」と言うことができる。故に間違いなく、この金製リングの所有者(被葬者)は、フェストス宮殿に関係する尊貴な女性であったことを連想させる。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・カリヴィア共同墓地・金製リング Minoan Gold Ring, Phaestos-Kalivia/©legend ej
フェストス宮殿・カリヴィア共同墓地出土・金製リング
印面=「エピファニー表現」=女神二人の会話・聖所
後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年
イラクリオン考古学博物館・登録番号44/横17mm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年に遡るとされる、横穴墓・7号墓からはカーネリアン製の印章が出土した。横18mm・縦14mmの硬質素材、フラット系円筒型(クッション形状)の印面には、牛飼いであろう筋肉質で髭(ひげ)顔の男性が左膝を地面に付けて、飼育している雄牛の角に手をやり、「コミュニケーション」をとっている姿が刻まれている。
表現モチーフが決して気取らないミノア人の日常生活の極普通の優しい情景であり、この赤色宝石の長方形印章の所有者(被葬者)の人柄が連想できる遺品と言える。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・カリヴィア共同墓地・カーネリアン製の印章 Minoan Carnelian Seal, Phaestos-Kalivia/©legend ej
フェストス宮殿・カリヴィア共同墓地出土・カーネリアン製の印章
印面=クッション形状・牛飼い男性と雄牛
後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年
イラクリオン考古学博物館・登録番号169/横18mm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年に遡るとされる横穴墓・10号墓からの金製リングでは、不純物含有だったのか印面の半分が腐食剥離で欠損している。
楕円形(オーバル形状)の印面にはミノア文明の高貴な装飾モチーフの一つ、開いた貝の形容・「8の字形」の各々「片方」が横並びで三個、連鎖する渦巻き線などが刻まれている。製作時には間違いなく「8の字形」は正しく三個刻まれていたはずである。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・カリヴィア共同墓地・金製リング Minoan Gold Ring, Phaestos-Kalivia/©legend ej
フェストス宮殿・カリヴィア共同墓地出土・金製リング
印面=半分腐食剥離・連鎖の「8の字形」&渦巻き線
後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年
イラクリオン考古学博物館・登録番号48/横24mm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年に属する、横穴墓・11号墓からのやや楕円形の金製リングでは、左側の聖所の聖なる樹木に触れる女神、中央下には聖なる石(ビトラス Baetylus)にすがり何かを歎願する男性、右側の聖なる場所から神の使いのハトが男性へ「願いのもの」を運んで来る。
横穴墓・2号墓からの金製リングと同様に、これは聖なるシーン・「エピファニー表現」の範疇に含まれるであろう。この金製リングの所有者(被葬者)は、フェストス宮殿に関係する相当に高位の人物であったことを連想させる。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・カリヴィア共同墓地・金製リング Minoan Gold Ring, Phaestos-Kalivia/©legend ej
フェストス宮殿・カリヴィア共同墓地出土・金製リング
印面=やや楕円形・「エピファニー表現」
聖所&聖木と女神・聖なる石と嘆願の男性・聖なる鳥
後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年
イラクリオン考古学博物館・登録番号45/横16.5mm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

聖なる石にすがる男性、そして聖なる樹木とハトを表現した金製リングでは、クノッソス宮殿遺跡~北方1kmのザフェール・パポウラ遺跡~北東400m付近、カイラトス川右岸のセロポウロ遺跡 Sellopoulo・4号墓からの金製リングでも見ることができる。
ラグビーボールのような細長い楕円形(オーバル形状)の印面では、左側の花咲く岩山に聖なる樹木が生え、下方の聖なる石に膝を付き何かを崇拝する男性が居る。彼の願いを叶えるため、天の彼方からハトが「願いのもの」を口にくわえ運んで来る。
これは聖なる樹木と鳥をして聖なるシーン、研究者の言う「神出(かみいずる)」の「エピファニー表現」の一つとされている。

ミノア文明・セロポウロ遺跡・金製リング Minoan Gold Ring, Sellopoulo near Knossos/©legend ej
セロポウロ墳墓遺跡出土・金製リング
印面=楕円形・横20mm・「エピファニー表現」
表意=聖なる樹木&聖石・崇拝男性・ハト
イラクリオン考古学博物館・登録番号1034
クレタ島・中央北部/legend ej

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アギア・トリアダ遺跡

フェストス宮殿遺跡~北西2km(道路3.5km)には、「準宮殿」の遺構と二基の円形墳墓、ミノア人の市街地が残るアギア・トリアダ遺跡 Agia Triada がある。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡 Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡
左側=市街地区域/右側=「準宮殿」の区域
クレタ島・メッサラ平野/1982年


ギリシア語 Αγία Agia/Άγιος Agios
Agia/Agios は、日本語で「聖なる・聖人」、英語で「Saint」を意味する。ギリシアは歴史あるキリスト教・正教会(オーソドックス教会・東方教会)の国、「聖なる・聖人」の名を付けた地名・都市名・教会&礼拝堂などは天文学的な数で存在する。
例: Agios Nikolaos アギオス・ニコラオス、Agia Triada アギア・トリアダ遺跡、Agios Ioannis アギオス・イオアニス、Agios Andreas アギオス・アンドレアス など・・・


カミラーリ遺跡・円形墳墓

フェストス宮殿遺跡~南西2.6km、メッサラ平野のカミラーリ村のオリーブ耕作地の中、標高の低い岩盤丘からメッサラ様式の円形墳墓が発掘されている。

ミノア文明・カミラーリ遺跡・円形墳墓 Messara Style Circlar Tomb, Kamilari/©legend ej
ミノア文明・カミラーリ遺跡・メッサラ様式円形墳墓
クレタ島・メッサラ平野/1994年


「新メッサラ考古学博物館」開館
ゴルティス遺跡~西南西1km、フェストス宮殿遺跡~東北東11km、幹線道路N97号脇、2020年、「新メッサラ考古学博物館 New Archaeological Museum of Messara」が開館した。

GPS 新メッサラ考古学博物館: 35°03′36″N 24°56′16″E/標高160m


メッサラ様式の「円形墳墓」とミケーネ様式の「トロス式墳墓」
初期ミノア文明の末期EMIII期・紀元前2200年~中期ミノア文明MMI期・紀元前1800年頃の、主にクレタ島南西部で流行した埋葬形式が、メッサラ様式の円形墳墓 Messara Style Circular Tomb である。

現在までのメッサラ平野周辺の発掘調査では、合計75墳墓を数えるメッサラ様式の円形墳墓が確認されている。
その主な発掘場所では、先ずゴルティス(ゴルティン)遺跡の北方のカラティアーナ遺跡周辺、フェストス宮殿遺跡アギア・トリアダ遺跡周辺、プラタノス遺跡周辺、コウマサ遺跡周辺、さらにリビア海岸のレンダス Lendas ~海岸沿いに西方のカロイ・リメネス Kaloi Limenes~聖ファランゴ渓谷 Agio Farango ~ Odigitrias修道院周辺などに点在する。
ただ確認された円形墳墓の数で言えば、コウマサ遺跡周辺と聖ファランゴ渓谷 Agio Farango とその周辺に集中している。

メッサラ様式の円形墳墓の構造形式が、後にギリシア本土で流行するミケーネ様式のトロス式墳墓 Mycenaean Tholos Tomb へ発展したと考えられている。
ミケーネ様式のトロス式墳墓では、流行初期にはクレタ島に距離的に近いペロポネソス・メッセニア地方で小型サイズの墳墓が造られた。その後、ミケーネ文明の発展と同期するように、ミケーネ文明の前半、後期ヘラディックLHI期・紀元前15世紀頃には、ミケーネ宮殿周辺などアルゴス地方や中部ギリシア地方の文明センターでも大型サイズのトロス式墳墓が造営されるようになった。

ミノア文明・円形墳墓&ミケーネ文明・トロス式墳墓 Minoan Circular Tomb and Mycenaean Tholos Tomb/©legend ej
ミノア文明・円形墳墓&ミケーネ文明・トロス式墳墓
・ミノア・メッサラ様式の円形墳墓(地上式)
・ミケーネ様式のトロス式墳墓(半地下式)
・ミケーネ様式のトロス式墳墓(地下式)
作図:legend ej

埋葬の使用期間が数世紀~1,000年単位の長期となった大型のメッサラ様式の円形墳墓では、当初、フェストス宮殿の王族や貴族階級の人々の埋葬に使われた。その後、紀元前1450年頃、ギリシア本土からクレタ島へ攻撃を仕掛けた「侵攻ミケーネ人」によりミノア宮殿システムが破壊された後には、カミラーリ遺跡・円形墳墓Aが典型例であるように、円形墳墓は庶民の埋葬にも使われて来た。
一方、ミケーネ文明では、特に大型のトロス式墳墓においては、ほとんどすべての墳墓が地域を統治した王族や貴族など、高位な身分階級の人達の埋葬に限定的に使われてきた。

構造仕様は言及せずに単純に「トロス内径」だけを比較した場合、時代的に早いメッサラ様式の円形墳墓より、ミケーネ様式のトロス式墳墓の方が遥かに大型サイズであることが分かる。代表的な墳墓とトロス内径を挙げるなら;

メッサラ様式の円形墳墓
プラタノス遺跡・円形墳墓A:トロス内径13m(クレタ島最大級)
プラタノス遺跡・円形墳墓B:トロス内径10m
カミラーリ遺跡・円形墳墓A:トロス内径7.6m
コウマサ遺跡・円形墳墓B:トロス内径9.5m

ミケーネ様式のトロス式墳墓
ミケーネ遺跡・「アトレウスの宝庫」:トロス内径15m(ギリシア本土最大級)
オルコメノス遺跡・「ミニュアースの宝庫」:トロス内径14m
カコヴァトス遺跡・トロス式墳墓A:トロス内径14m
ペリステリア遺跡・トロス式墳墓2号墓:トロス内径12m
ヴァフィオ遺跡・トロス式墳墓:トロス内径10m

ミケーネ文明・ミケーネ遺跡・「アトレウスの宝庫」Atreus Tholos Tomb, Mycenae Palace/©legend ej
世界遺産/ミケーネ遺跡・「アトレウスの宝庫」
ミケーネ様式のトロス式墳墓最大級/トロス内径=15m
ペロポネソス・アルゴス地方/1982年

ミケーネ文明・オルコメノス遺跡・トロス式墳墓 Mycenaean Tholos Tomb, Orchomenos/©legend ej
オルコメノス遺跡・「ミニュアースの宝庫」
内径=14mのトロス内部~入口
ボイオティア地方/1982年


ミケーネ文明・ペリステリア遺跡・トロス式墳墓2号墓 Mycenaean Tholos Tomb, Myron-Peristeria/©legend ej
ペリステリア遺跡・ミケーネ様式のトロス式墳墓・2号墓
ランダム石材の構造/トロス内径=12m
ペロポネソス・メッセニア地方/1987年


ミケーネ文明・ヴァフィオ遺跡・トロス式墳墓 Mycenaean Tholos Tomb, Vaphio/©legend ej
ヴァフィオ遺跡・ミケーネ様式のトロス式墳墓(1982年)
スパルタ・メネライオス王家の墳墓/トロス内径=10m
ペロポネソス・ラコニア地方/描画:legend ej

なお、スパルタ近郊・ヴァフィオ遺跡の「メネラオス王家」のトロス式墳墓からは、クノッソス宮殿・金属工房で製作され、王家へ贈呈されたと推測できるミノア様式の見事な金製カップが出土している。

ミケーネ文明・ヴァフィオ遺跡・金製カップ Gold Vaphio Cup/©legend ej
スパルタ近郊ヴァフィオ遺跡出土・金製カップ(動的シーン)
アテネ国立考古学博物館・登録番号1758/口縁径108mm
ペロポネソス・ラコニア地方/1982年


ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaestos Palace は「二部構成」となっています。
1. ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaestos Palace I 概略・西中庭・西~北翼部・王家の生活区画
2. ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaesto Palace II(当ポスト)

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