2020/01/17

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡 Malia Palace


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マーリア宮殿遺跡の概要

位置
クレタ島・中央北部/イラクリオン~東方35km・アギオス・ニコラオス~北西25km
GPS
マーリア宮殿遺跡: 35°17’35” N 25°29’35” E/標高15m


発掘ミッション

ミノア文明のマーリア宮殿遺跡 Malia Palace は、クレタ島北海岸のリゾート町マーリア市街地~東北東約3km、イラクリオン~アギオス・ニコラオスを結ぶ幹線道路~北方400m付近、海岸から最短で550m内陸の平坦な地形の場所である。

クレタ島のミノア文明関連の良く知られた大規模な遺跡では、世界共通の事と言えるが、担当した発掘チームや主要な発掘者の「国」がより注目視され、結果として「その国」からのツーリストが当該遺跡を訪れる傾向がある。
ミノア文明の最大遺跡であるクノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace の発掘者は、イギリス人考古学者サー・アーサー・エヴァンズ Sir Arthur Evans であり、イギリスからの中高年ツーリストが多く、グルーニア町遺跡 Gournia はアメリカ考古学チームが担当したことで、アメリカのツアーツーリストが必ず立ち寄るスポットになっている。

1915年、考古学者ジョセフ・ハジタギス J. Hazzidakis により、マーリア宮殿の建物遺構の一部が発見され、その後、本格的な発掘調査が開始された。1922年、在アテネ・フランス考古学チームが発掘ミッションを引き継ぎ、以降、継続的にマーリア広域遺跡の発掘を担当して来た。このため、この宮殿遺跡はフランスからのサマーツーリストが多いことでも知られている。


マーリアの「新宮殿」の造営と宮殿システムの終焉

クレタ島で三番目の規模を誇るマーリア宮殿は、ミノア文明センターのクノッソス宮殿とクレタ島南西部・メッサラ平野のフェストス宮殿(ファイストス Phaestos/Phaistos Palace)と同じく、それまで約300年間使われてきた旧宮殿が地震で破壊されたため、紀元前1625年頃、その敷地の上に新宮殿が造営されたと考えられている。
現在、マーリア宮殿遺跡で見ることのできる遺構は、この新宮殿に属する建物遺構の基礎部分である。

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡 Minoan Pillar Room, Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡・西翼部・支柱礼拝室
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

紀元前17世紀の後半の新宮殿の造営後、クレタ島ミノア文明は大繁栄の時期、「新宮殿時代 New Palace Era」を迎える。その後、約2世紀の間、繁栄を享受したミノア文明は、後発のギリシア本土ミケーネ人の「クレタ島侵攻」を経て、一気に衰退への道を歩むことになる。

マーリア宮殿の破壊と宮殿システムの終焉は、クノッソス宮殿を除き、フェストス宮殿と最東部のザクロス宮殿 Zakros Palace、さらに各地の無数の邸宅と繁栄の町が連鎖的に破壊され文化が衰退した「新宮殿時代」の終焉時期、後期ミノア文明IB期が終わる紀元前1450年頃である。


ミノア文明&ミケーネ文明 編年表/©legend ej
クレタ島ミノア文明&ギリシア本土ミケーネ文明 編年表
・ミノア文明・「旧宮殿時代」: 紀元前1900年~前1625年
・ミノア文明・「新宮殿時代」: 紀元前1625年~前1375年
ミケーネ文明(時代):  後期ヘラディック文明 LH期
作図:legend ej


クレタ島ミノア文明の宮殿遺跡(4か所)

・中央北部・ミノア文明センター・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace
・南西部・メッサラ平野・フェストス宮殿遺跡 Phaestos/Phaistos Palace
・北海岸・マーリア宮殿遺跡 Malia Palace
・最東部・ザクロス宮殿遺跡 Zakros Palace

クレタ島ミノア文明・宮殿群 地図 Map of Minoan Palaces in Crete/©legend ej
クレタ島・ミノア文明・宮殿遺跡 地図
作図:legend ej

クレタ島・中央北部・ミノア文明・遺跡 地図 Map of Minoan Sites, North-Central Crete/©legend ej
クレタ島・中央北部・ミノア文明・遺跡 地図
作図:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・北入口 North Gate, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・北翼部・北支柱広間~北入口
・北入口の建物=エヴァンズのコンクリート復元
・手前・大型角柱群=発掘時の状態の北支柱広間
クレタ島・中央北部/1982年


ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・大階段周辺
クレタ島・メッサラ平野/1982年


ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡 Minoan Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・北翼部~西翼部~中央中庭
クレタ島・最東部/1996年


マーリア宮殿遺跡では、ミノア宮殿の標準スタイルと言える広い中央中庭を囲み、統治者である王の居室や儀式・宗教関連の施設は、主に中央中庭の北東側と西側に集中している。
エーゲ海岸まで最短550mの距離、平坦な土地に造営されたマーリア宮殿の各翼部の部屋の配置や機能面では、クノッソス宮殿などと共通する比較的高いレベルの設計性が観て取れる。
ただ、マーリア宮殿周辺は後世に入れ替わり立ち代わり、時代の中で色々な人々に居住されて来たこともあり、ほかの三か所の宮殿遺跡に比べ、マーリアの宮殿遺構からの出土品はそれほど多くはない。


マーリア宮殿区域

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡//Google Earth
マーリア宮殿遺跡・宮殿区域
クレタ島・中央北部
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入


西中庭&円形ピット群(穀物貯蔵庫)

マーリア宮殿区域では東西南北、合計4か所に宮殿への通路に等しいレベルの単純な入口があった。ただし、クノッソス宮殿を初めほかのミノア文明の諸宮殿と同様に、王の住む宮殿でありながら、マーリア宮殿も石組みの高い城壁や堅固な入城門は存在しない。マーリア宮殿の北側は庶民の住む「アゴラ・市街」が広がっている理由から、宮殿へのメイン入口は北入口だったかもしれない。

なお、現代の遺構見学のツーリストは、チケットセンターに近接する宮殿の西中庭 West Court から遺跡区域へ進むことになる。ミノア宮殿の特徴の一つである宮殿の西側に設けられた広いスペースである西中庭は、石板を使ったデコボコな舗装が施され、盛り上がりの石板歩道が中庭を南北に横切っている。

西中庭の南東端、宮殿区域の南西翼部となるが、片側4か所で並列の配置、合計8か所の大型円形ピットが並んでいる。内4か所のピットには、おそらく天井を支えたであろう中心支柱跡が残っている。その規模と形式から、これらのピット群が小麦・トウモロコシ・豆類などの「穀物貯蔵庫」であった可能性を強く示している。

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡 Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡・円形ピット群
新宮殿時代の穀物貯蔵庫群
クレタ島・中央北部/1982年

円形ピットの貯蔵庫では、クレタ島南西部・メッサラ平野・フェストス宮殿の新宮殿遺構の西側に広がる「旧宮殿時代」の大型貯蔵庫施設が該当する。
一方、宮殿の西中庭と円形ピットでは、文明センターであったクノッソス宮殿遺跡の西中庭には、ギリシア語・「丸みを帯びた凹み」を意味する深井戸に似た「コウロウラス Koulouras」と呼ばれる三か所の深い円形ピットが残されている。ただし、コウロウラスはクノッソスで旧宮殿が造営された紀元前1900年頃に整備された古い施設の一つで、穀物貯蔵庫ではない。

ミノア文明・フェストス宮殿 Old Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・円形ピット群
旧宮殿時代の穀物貯蔵庫群
クレタ島・メッサラ平野/1994年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・西中庭・コウロウラスピット Koulouras-pit, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西中庭・コウロウラス
底部=紀元前2000年頃の家屋遺構が残る
クレタ島・中央北部/1994年

また、水溜め用の大型ピット施設では、イラクリオン~西南西11km、ティリッソス遺跡 Tylissos、そして東部南海岸のミルトス・ピルゴス遺跡 Myrtos-Pirgos の居住地遺構に見ることができる。

ミノア文明・ティリッソス遺跡・水溜ピット Water-pit, Tylissos/©legend ej
ティリッソス遺跡・邸宅C・水溜ピット
クレタ島・中央北部/1994年

GPS
ティリッソス遺跡: 35°17′55″N 25°01′13″E/標高190m

ミノア文明・ミルトス・ピルゴス遺跡・水溜ピット Minoan Cistern, Myrtos-Pirgos/©legend ej
ミルトス・ピルゴス遺跡・大型の水溜ピット
内径=約6m/石積み&石膏プラスター施工
クレタ島・東部南海岸/1996年

GPS
ミルトス・ピルゴス遺跡: 35°00′25″N 25°35′27″E/標高75m



西翼部/支柱礼拝室

8か所の円形ピット群の北側の区画は、マーリア宮殿の西正面部ファサードであると同時に、中央中庭の西側に配置された非常に重要な意味を成す区画、複雑な構成の西翼部を形成している。西翼部の配置と機能面の構成はクノッソス宮殿のそれとほとんど同じで、マーリア宮殿でも最も重要な区画であった。

西正面部のほぼ真ん中付近、建物と隣の建物の隙間のような宮殿の西入口 West Gate がある。ギリシア本土の好戦的なミケーネ文明の宮殿と異なり、「敵」からの攻撃を想定していない平和主義のミノア文明の諸宮殿には、高い城壁も堅固な城門なく、東西南北にあった宮殿区域への入口は、いずれも「単純な通路」のような簡単な仕様であった。

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡・西翼部・プラン図 Plan of West Wing, Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡・西翼部(主要区画)アウトラインプラン図
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

中央中庭の西側の丁度真ん中正面、宮殿・西翼部の広い区画を占める支柱礼拝室 Pillar Crypt は、 紀元前19世紀~前17世紀後半の「旧宮殿時代」には大広間であったが、 紀元前1625年頃に再建された新宮殿では壁で分離された独立の区画になった、と研究者は想定している。

マーリア宮殿の支柱礼拝室内には、ミノア時代の重要な意味を持つ聖なる「両刃斧/ラブリュス」の記号を刻んだ大型の角柱2本が残されている。この意味はマーリア宮殿の支柱礼拝室は、クノッソス宮殿・西翼部のそれと同様に、宗教的な儀式などが執り行われた極めて重要な部屋であったことを意味している。

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡・支柱礼拝室・「両刃斧」記号 Doube Axe, Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡・西翼部・支柱礼拝室
角柱側面=聖なる両刃斧の刻み
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・支柱礼拝室 Pillar Crypt, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・東支柱礼拝室
支柱側面=聖なる両刃斧の刻み
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年


ミノア文明では、部屋の壁面や支柱側面などに刻まれた両刃斧の記号は、ある特定の人だけが立ち入ることのできる極めて重要な場所、多くは国家レベルと宗教的な関連施設を示している。

「両刃斧/ラブリュス lábrys」の記号
ミノア文明では政治と宗教は強く結び付き、多神教の思想からして、例えば聖なる動物とされた力のある雄牛やその角を初め、蛇やメスライオン、仮想上の動物《グリフィン》など複数の崇拝対象があった。
ミノア時代の人々にとり、あらゆる宗教的な崇拝シンボルの中で、殊更に両刃斧の記号が「最も神聖」とされた。部屋の壁面や支柱側面にやや斜めに刻まれ、その配置も決して規則正しいと言えないが、両刃斧の記号は極めて重要な神聖な標識であり、神と王からの最も高次な宗教的な警告でもあった。
通常、両刃斧の記号が表示された場所は、特別な身分の人、例えば王や王族、あるいは祭司・神官など、限定された人だけが近づくことを許された非常に特殊な場所、「聖なる場所」を意味していた。
また、石製金型を使ってある程度の数が量産された金製の小型両刃斧は、宮殿の宝飾品として大切にされ、時には信仰の山頂聖所や洞窟聖所へ奉納された。
あるいは超大型の青銅製の装飾用の両刃斧は、長さ2mを超す長い支持棒に取り付けられ、穴加工の石製角錐台(保持台)に差し込まれ、宮殿の統治者の居室を初め、地方の邸宅の宝庫や貯蔵庫など、大切な資産や宝飾品を保管する部屋や施設内に立てていた。

ミノア文明・両刃斧/©legend ej
ミノア文明・崇拝シンボルの「両刃斧」
左=黄金の両刃斧の宝飾品/イラクリオン考古学博物館
中=両刃斧の刻み記号  右=青銅製両刃斧&石製角錐台
描画:legend ej

支柱礼拝室の中央中庭側の入口を含めた合同間口は長さ約17m、しかし室内奥側の壁面に比べ間口壁面の厚さが極めて薄いことが分かる。
入口を除く薄い壁面だけで上階広間を支えるには難が予想され、もしかしたら中央中庭を臨むこの壁面の上階は、クノッソス宮殿・聖域の「三分割聖所」に似た、やや重量のない「装飾的な施設」だったこともあり得る。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「聖域」Sanctuary, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿・西翼部・「三分割聖所」(再現予想図)
「プレ・ヘレニズム様式」の円柱&「雄牛角型オブジェ」
原画情報:サー・アーサー・エヴァンズ・発掘レポート
「The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.II(1928)」
聖所=推定横幅5.2m/描画&色彩:legend ej


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西翼部/貯蔵庫群

マーリア宮殿の西翼部は、ミノア文明センターであった最大規模のクノッソス宮殿のそれとほとんど同様な配置となり、宮殿直轄の貯蔵庫群 Store Rooms が連結されている。
22室を数えるクノッソス宮殿の貯蔵庫群より部屋数は少ないが、マーリア宮殿の貯蔵庫群は南北に走る幅3.5mの貯蔵庫通路の西側脇に10室以上、破壊と用途不明瞭な部屋を含め最大15室を数える整然とした配置である。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫群 Storerooms, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・貯蔵庫群
第3号室~6号室付近/狭い幅・奥行きの長い構造
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

その半数の貯蔵庫群は、支柱礼拝室からのみ連絡できるような奥まった特殊な「行き止まり造り」である。限られた人と特別なルートで接近できる、この貯蔵庫群の配置パターンとアクセス方法はクノッソス宮殿などとまったく同じである。
ただし、小麦などを保管するためスペースの最大活用として、貯蔵庫内の床面に深さ1m以上の地中収納ピット穴を設けていたクノッソス宮殿とは異なり、マーリア宮殿の貯蔵庫群では地中ピット穴は存在せず、フェストス宮殿と同様にその床面は単純な平坦仕様である。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫 火炎跡 Burn Trace West Storeroom, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・貯蔵庫・第4号室
(現在 立入禁止区域)
火炎で焼けた角柱・壁面/地中には収納ピット群
床面にはオリーブ油用ピトス容器&アンフォラ型容器
クレタ島・中央北部/1982年


ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・貯蔵庫 West Storeroom, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・西翼部・貯蔵庫&ピトス容器
床面は石膏石舗装・地中の収納ピットなし
クレタ島・メッサラ平野/1994年


西翼部/大階段・「ロッジア」

文明センターのクノッソス宮殿の中央大階段はそれなりの傾斜があるが、マーリア宮殿の支柱礼拝室の北側には、メッサラ平野のフェストス宮殿と同じような規模のなだらかな傾斜を描く大階段 Great Staircase が残っている。この建築から、マーリア宮殿の西翼部には少なくとも二階以上の上階が存在したことが想定できる。

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡・大階段~ロッジア Great Staircase, Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡・西翼部・大階段~ロッジア
左=支柱礼拝室/中央=大階段/右=ロッジア
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・中央大階段 Central Staircase, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・中央大階段
中央中庭~西翼部二階~三階へ上がる宮殿最大級の階段
クレタ島・中央北部/1994年

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・大階段
大階段の上部=「三部屋続き」の大広間コンプレックス
大階段の下部の凹部=旧宮殿時代に遡る建物の遺構
クレタ島・メッサラ平野/1982年


大階段の直ぐ北側、中央中庭から四段のステップで上がると、円柱礎が残るほぼ正方形のテラース状の「ロッジア Loggia」と呼ばれる広間となる。おそらく、小高い舞台のようなこのテラース広間では、何か宗教的な重要イベントのパフォーマンスが行われ、それを観衆は中央中庭から眺めたのかもしれない。


西翼部/宮殿の宝庫・室内聖所

「ロッジア」の西側の数段ステップで下がる位置(旧宮殿の床面レベル)で連結された小部屋が、マーリア宮殿の宝庫 Treasure Room であった。
マーリア宮殿では、紀元前1450年頃の新宮殿の崩壊の後、世紀単位で後世の人々が断続的に居住したことで、重要な区画でありながらもほかのミノア諸宮殿に比べ、西翼部遺構からの出土品が少ないのもこの宮殿遺跡の特徴でもある。

わずかな出土品例では、宮殿・西翼部の宝庫から、腐食が進んだ3本の青銅製長剣の出土があった。そのうち、ミノア青年の「アクロバット姿」を打ち出し加工した長剣の柄頭、金製薄板の表装部分が見つかった。
直径=約70mm、円形の狭いスペースにミノア青年の「超弓なり姿」を表現した見事なもので、長剣の製作時期は「新宮殿時代」の最盛期、後期ミノア文明LMIA期・紀元前1550年~前1500年とされる。
長剣の柄自体(内部)はおそらく木製で腐食してしまったが、ミノア文明を象徴するような具象表現の金製柄を付けた剣は、間違いなく戦闘用ではなく儀式用の装飾剣であった。

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡・金製の長剣柄頭・「アクロバット」 Acrobat of Gold Sword Hilt, Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡・宝庫出土・青銅製長剣(部分)
金製の柄頭=青年の「アクロバット姿」打ち出し加工
後期ミノア文明LMIA期・紀元前1550年~前1500年
イラクリオン考古学博物館・登録番号636/外径約70mm
クレタ島・中央北部/1994年

そのほかでは、宝庫とその通路から「新宮殿時代」の初め、中期ミノア文明MMIIIA期・紀元前1650年~前1600年に遡る儀式用の装飾斧か、または権威者の象徴たる王笏(装飾杖 おうしゃく)の頭部と思われるヒョウ(豹)を形容した暗色片岩の彫刻品(装飾杖頭)など、幾らかの特徴的な宝飾品類が見つかっている。
さらにこの宝庫周辺のから線文字A粘土板、花弁幅約15mm、高さ約80mmの金製花付き細ピンも発見された。

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡・石製ヒョウの装飾品 Stone Leopard, Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡出土・ヒョウ形容の彫刻品
中期ミノア文明MMIIIA期・紀元前1650年~前1600年
イラクリオン考古学博物館・登録番号2109・長さ150mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・線文字A粘土板 Linear A from Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡出土・線文字A粘土板
紀元前1700年頃・ミノア文明の文字
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


ミノア文明・マーリア宮殿遺跡・宝飾品/©legend ej
マーリア宮殿遺跡出土・金製の宝飾品
イラクリオン考古学博物館
・左=金製ピン・登録番号561・高さ約80mm
・右=金製印章・登録番号630・高さ約13mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

参考だが、海岸沿いの共同墓地から出土した金製印章では、印影は単純な幾何学紋様だが、つまみ部分の表現は女性が幼児を抱きかかえているようなイメージである。


「ロッジア」と聖所よりさらに西側には狭い部屋が密集的に配置されている。聖所の直ぐ西隣に石膏石ベンチを備えた同じような形容の二つの小部屋が南北に配置されている。
この二つの部屋はフェストス宮殿の「聖域」と同じような機能を果たしていた室内聖所 Inner Sanctuary であった、と幾らかの研究者は想定している。ただ、フランス考古学チームの発掘レポートでは、宝庫に関連する象牙加工の「工房」であった可能性をほのめかしている。

また、正確な出土ピンポイントは不明だが、フランス・チームは西翼部・宝庫、または聖所付近から蛇紋岩製のほら貝形容のリュトン杯を見つけている。リュトン杯は色彩が濃緑青色の暗色系で一見目立たないが、表面には浅い刻みの二重の帯状線が螺旋を描き、帯スペースには同じく二重の半円形がほぼ定間隔で刻まれている。
最も広いスペースである貝の最大膨らみ部には、台座に乗った二頭のライオン頭の「精霊」が向かい合い、右精霊がミノア容器から神酒を注ぎ、それを左精霊が手の平で受けて飲む、いわゆる「盃を交わす」シーンが表現されている。ややコミカルな描写だが、これは極めて神聖なシーンである。

研究者は、ほら貝を形取ったリュトン杯は東地中海域の伝統的な石製品の一つであるが、ライオン頭の精霊や神酒を交わす行為などはエジプトの精神文化であり、リュトン杯が製作された「新宮殿時代」の前半、中期ミノア文明MMIII期~後期ミノア文明LMI期・紀元前1600年~前1500年頃、クレタ島ミノア文明とエジプト文明がかなり深化した関係にあった、と判断している。

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡・石製リュトン杯 Minoan Stone Rhyton Vase with Lion-head Demons, Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡出土・ホラガイ形容の石製のリュトン杯
黄色線枠内=二頭のライオン頭の精霊が「盃を交わす」
新宮殿時代の前半・紀元前1600年~前1500年/長さ27cm
アギオス・ニコラオス考古学博物館・登録番号AE11246
クレタ島・中央北部/1996年/描画&色彩:legend ej

西翼部/ミノア文明で最も早く使われた「絵文字」と印章

出土のピンポイントは不明だが、おそらく西翼部・室内聖所~宝庫区画と考えられるが、フランス考古学チームは「旧宮殿時代」に遡る石製の印章類を発見している。
見つかった印章に刻まれた具象は、ミノア文明の文字・線文字Aスクリプトとは異なる絵文字・象形文字の範疇、特にこの種の印章類の出土が顕著なアルカネス遺跡 Archanes の名を取って、研究者から《アルカネス・文字体系 Archanes Formula》と呼んでいる。

多くの研究者の見解では、この《アルカネス・文字体系》で表現された絵文字/象形文字は、「線文字Aよりやや早い時期にクレタ島で使われ始めた」と考えている。この論説に従えば、《アルカネス・文字体系》の絵文字は、「ヨーロッパ最初の文明」であるミノア文明で「最も早く使われ始めた文字」、「ヨーロッパで最初の文字」と言うことができる。


宮殿区画から出土した特徴的な《アルカネス・文字体系》の絵文字を刻んだ四面プリズム型の石製印章は、「旧宮殿時代」~「新宮殿時代」の初め頃に遡ると判断されている。
宮殿区域からの印章に刻まれた絵文字では、視覚的には雄牛角や家のドアーか窓、道具のブレード(握り斧)、人の脚部や眼球、植物の葉やリボン紋様などと判断できる。

比較するため、クノッソス宮殿遺跡からの滑石・ステアタイト製の印章を挙げるが、円形印面が表裏二面、両刃斧と魚と人の脚部、もう一方の印面では立ち樹や植物とアンフォラ型容器などが確認できる。製作は初期ミノア文明の末期・EMIII期・紀元前2100年~「旧宮殿時代」の初め頃・中期ミノア文明MMIA期・紀元前1900年頃に属するとされる

ミノア文明・マーリア遺跡&クノッソス宮殿遺跡・石製印章・絵文字 Minoan Hieroglyph Stone Seal, Malia and Knossos Palace/©legend ej
ミノア文明・《アルカネス・文字体系》の石製の印章
左印章=マーリア遺跡出土・プリズム型(四面)
・紀元前1900年~前1600年/横長さ16mm
・イラクリオン考古学博物館・登録番号2184
右印章=クノッソス宮殿遺跡出土・円盤型(二面)
・紀元前2100年~前1900年/滑石製・直径13mm
・Ashumolean Museum (UK)登録番号AN1938-929
※Sir Arthur Evans 寄贈(1938年)
クレタ島・北海岸&中央北部/描画:legend ej

さらにおそらく四面プリズム型と同じ宮殿区域のスポットからの出土と推測できるが、摘みと糸通し穴が加工された滑石・ステアタイト製のスタンプ型の印章がある。
刻まれたモチーフは《アルカネス・文字体系》の絵文字の範疇と考えられる、少なくとも7器を数えるミノア様式の水差しとアンフォラ容器、そして「鳥」の可能性がある不明な具象とジグザグ紋様などである。
印面は縦17mm・横28mmの長方形、摘みを含めた高さ18mm、印章の製作は四面プリズム型とほぼ同じ頃、「旧宮殿時代」の後半期である中期ミノア文明MMII期・紀元前1800年~前1600年頃とされる。

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡・石製印章・絵文字 Minoan Hieroglyph Stone Seal, Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡出土・《アルカネス・文字体系》の石製の印章
滑石・ステアタイト製・穴&摘み付きスタンプ型
旧宮殿時代・紀元前1800年~前1600年
水入れ&アンフォラ容器/縦幅17mm・横幅28mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号1399
参考情報:CMS, Heidelberg U. (DE)
クレタ島・中央北海岸/描画:legend ej



北西翼部・王家の生活区画 &「聖なる浴場」

マーリア宮殿の北西翼部は宮殿区域で最も崩壊が激しい区画であり、その詳細な部屋の配置と構造などの判断は難しい。ただ、残された列柱礎や舗装されたベランダ風の部屋などの存在を考えれば、間違いなく、この北西翼部が王と家族用プライベート生活区 Royal Apartments であったことを否定し疑う理由はないだろう。

王家の生活区の一画に宗教色の強い「聖なる浴場」が残されている。これは三か所が確認されているクノッソス宮殿遺跡、さらに二か所が見つかったザクロス宮殿遺跡などと共通する、ミノア文明の儀式・祭祀用の極めて重要な宗教施設である。
マーリア宮殿遺跡の「聖なる浴場」へは、王家の生活区画からのみアクセスができる特殊な配置である。その壁面はクノッソス宮殿遺跡と同様に石膏石板で表装され、段差のない五段の階段はザクロス宮殿遺跡と同じ右回りで「浴場」へ降りる構造である。概して上質な建材の少ないマーリア宮殿に於いて、石膏石板仕様の「聖なる浴場」の重要性が観て取れる。

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡・「聖なる浴場」 Ritual Bath, Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡・西翼部・「聖なる浴場」
クレタ島・中央北部/1982年/描画:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・聖所・「聖なる浴場」Ritual Bath, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・宮殿聖所・「聖なる浴場」の石段&内部
側面=石膏石の表装施工・底部=石膏石の舗装仕様
クレタ島・中央北部/1994年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・聖所・「聖なる浴場」Ritual Bath, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・宮殿聖所・「聖なる浴場」
クレタ島・中央北部/1982年


ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡 Ritual Bath, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・西翼部・「聖なる浴場」
クレタ島・最東部/1982年


ミノア文明の「聖なる浴場」
床面から深さにして1mほど、決して広くはない半地下式の「聖なる浴場」。明かり取りの窓を設けず、間違いなく、石製ランプに照らされた暗く神秘なるこの場所では、王や神官など宮殿の限られた高位の人により、聖なる水を使い、手足のみならず身体の清めを含め、祈祷のようなある種の神聖な儀式、非常に重要な宗教的な行為が行われたはずである。
例えば、宮殿全体で行われる聖なるイベント前の、主催者たる王や神官などの「清め」の場所に使われた可能性が高い、と想定できる。

考古学情報の乏しい一般の観光ツーリストのほとんどが、この施設は水が湧き出る普通の「井戸」と勘違いしている。が、実はこの窓のない空間、それほどの深さもない特殊な構造にこそ大きな意味があり、聖なる水を使って儀式が執り行われる極めて宗教色の強い施設であった。
そのため、発掘により確認されたクノッソス宮殿を初めミノア文明の諸宮殿のほか、イラクリオンの西方のティリッソス遺跡 Tylissos/Tilisos など豪奢な造りの地方邸宅などに限定されて造られた「聖なる浴場」では、石製ランプが同時に見つかっている。
単純な飲料水の井戸ならば、王の居室や聖域に付属させる必要はなく、石製ランプも不要な宮殿外部の明るい場所、例えば泉水が期待できる糸杉の大木の根本に掘っても良いはずである。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・石製ランプ Minoan Stone Lamp/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・石製ランプ
イラクリオン考古学博物館
・左=登録番号616・高さ460mm
・右=登録番号133・高さ110mm
クレタ島・最東部/描画:legend ej

中央中庭

マーリア宮殿の中央中庭 Central Court は、約50mx25mのクノッソス宮殿の中庭より少し狭く、約48mx22mのサイズである。フェストス宮殿と同様にマーリア宮殿でも、中央中庭に面する北側~東側は石製と木製が混在する列柱様式の造りであった。

ミノア宮殿・中央中庭のサイズ比較:(m単位)
・文明センター・クノッソス宮殿: 50mx25m
・メッサラ平野・フェストス宮殿: 52mx22m
・北海岸・マーリア宮殿: 48mx22m
・最東部・ザクロス宮殿: 30mx12m

ミノア文明・宮殿&中央中庭サイズ/©legend ej
ミノア文明・宮殿区域&中央中庭 サイズ比較
作図:legend ej


ミノア文明・マーリア宮殿遺跡 Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡・中央中庭~東側・列柱様式の造り~東翼部・倉庫建物
※現在 右側倉庫はモダンな保護屋根カバー施設となった
クレタ島・中央北部/1982年

なお、東翼部・保管庫・倉庫の遺構は、1980年代には復元した「ミノア時代の建物」のような石組みの内部が薄暗いやや粗末な建物であったが、現在、建物は撤去され、モダンな「保護屋根カバー」となり遺構を外部から見学できる。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・中央中庭(東側)列柱様式の造り・柱礎列
左方=王家の生活区画(保護屋根)/右方=旧宮殿時代の東翼部
クレタ島・メッサラ平野/1982年

中庭の丁度中央付近には、石板で囲まれたピットが掘られ、内部から4個の祭壇基部の石材ブロックが発見された。研究者はこの祭壇基部と宮殿・西翼部の支柱礼拝室とに「何らかの関連性」があった、と提唱している。
なお、このタイプの地中ブロックは、クノッソス宮殿などほかのミノア諸宮殿の中央中庭では確認されていない。

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡・中央中庭・祭壇基盤ブロック Alter-block, Central Court, Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡・中央中庭・祭壇基盤ブロック
クレタ島・中央北部/1982年


北翼部~東翼部~南翼部

中央中庭の北側を占める北翼部~東側の東翼部は、宮殿の食堂や食器保管室などの施設とされ、内部が良好な状態の貯蔵庫群や列柱の大広間、大型角柱の柱礎の残る吹抜け構造の部屋などが連なっている。

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡 Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡・北翼部~中央中庭~西翼部
左遠方=祭壇ブロック(屋根)/手前=北翼部「食堂」の角柱礎群
右遠方=大階段/最右遠方=ロッジア(ステージ・テラース広間)
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡・南入口~中央中庭 South Gate, Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡・南入口~中央中庭(1980年代)
左側=西翼部・支柱礼拝室&大階段
中央=中央中庭・祭壇(保護屋根)
右側=石組み建物(東翼部・倉庫)
※現在 右側倉庫はモダンな保護屋根カバー施設となった
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

中央中庭の南西端がマーリア宮殿の南入口となるが、そのすぐ近くに「ケルノス Kernos」と呼ばれる直径88cm、灰色~薄青縞層の珪質・石英混じりプラテンカルク系大理石 Plattenkalk Marble の円形物がある。
ケルノスは上面中央に直径約15cmの大きな穴、そして外縁周には1か所の中穴と33か所の小穴が連鎖加工された石製重量物で、ミノア文明の時代にはマーリア宮殿の神官や訪れる人々が、供物や収穫した新しい種などを穴に供えた「奉納台」と考えられる。年代的には「新宮殿時代」の初め、中期ミノア文明MMIII期・紀元前1650年~前1550年に遡る。
この種の奉納台や近似品は、サイズと円形や長方形など形容の異なりがあるが、マーリア宮殿遺跡のみならず、フェストス宮殿遺跡を初め東部のグルーニア遺跡、カヴォウシ遺跡など、ミノア文明の複数の遺跡からも出土例がある。

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡・大理石奉納台ケルノス Minoan Marble Kernos, Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡・南西翼部・石製奉納台「ケルノス」
中期ミノア文明MMIII期・紀元前1650年~前1550年
珪質・石英混じりプラテンカルク系大理石・直径88cm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・西中庭・石段の円周的な小穴刻み
クレタ島・メッサラ平野/1982年

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・石製奉納台ケルノス Minoan Stone Kernos, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・聖域出土・石製奉納台(ケルノス)
横350mm・幅250mm・厚さ70mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号2569
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej


南入口の東側区画が宮殿の南翼部となり、ベンチのある部屋など比較的狭い部屋が混在、幾らかの儀式・祭祀に関わる物品が出土している。


宮殿遺構の印象

最終崩壊で焼け焦げた壁面

現存するマーリア宮殿の基礎部分と壁面は、地元産の濃灰色の石灰岩や赤色砂岩などが多く使用され、 焼け焦げた壁面のその色彩は赤茶の錆色、紀元前1450年頃の最終崩壊の大火災で激しく焼けただれたことを今に伝えている。

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡 Wall of Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡・建物外壁
最終崩壊で焼け焦げた壁面
クレタ島・中央北部/1982年・1994年


フレスコ画のない宮殿

残されている部屋区画の配置などには高いレベルの計画性が認められるが、概してフレスコ画の出土もなく、石膏石など高級感をかもす石材の使用が比較的少ない点から想像すると、華麗な「フレスコ画の宮殿」と比喩される中央政府のクノッソス宮殿に比べ、マーリア宮殿は豪華壮麗というより「実用優先の宮殿」であった、と考えるべきであろうか?
また、微細片も含め合計3,000点の線文字B粘土板が出土した文明センター・クノッソス宮殿と異なり、マーリア宮殿からの粘土板を使った行政管理の記録は極端に少なく無いに等しい。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画《青の婦人達》 Fresco Ladies in Blue, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・フレスコ画《青の婦人達》
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/1994年

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マーリア市街区域

発掘の結果から、広く平坦な海岸地帯のマーリア宮殿とその周辺は、早くも新石器文化から居住が始まったとされるが、明確な古い痕跡はほとんど残されていない。
はっきりと確認されているのは、「旧宮殿時代」が始まる紀元前1900年頃、中期ミノア文明MMI期から、その後、紀元前1625年頃からの「新宮殿時代」を経て、紀元前1450年頃のミノアの宮殿システムが崩壊する後期ミノア文明LMIIIA1期までの遺構である。
ただ、新宮殿の崩壊後も色々な時代を通して、部分的に居住と再使用が行われたことが分かっている。


庶民の生活区域・市街

宮殿区域の北側~北西側一帯には、石板舗装の広い道路や大型の建物・家屋など庶民の生活区域・市街 Minoan Town が造られ、また宮殿から半径500m以内には、5か所以上の大型の邸宅や住宅などの遺構、王家に関わる墳墓遺跡なども発見されている。

フランス考古学チームの発掘の結果、庶民の生活区域はかなり広範囲に展開されていることが分かった。宮殿区域の直ぐ北西側には「アゴラ Agora」と呼ばれる市街を初め、その西側が「Pi区域」、「ΔA区域」~「Mu区域」、そして北西部が「Nu区域」となり、市街の発掘は現在も継続されている。
「アゴラ」の一部や「Mu区域」などは保護屋根でカバーされ、内部公開されている。なお、フランス考古学チームは伝統的に発掘区域をギリシア語(アルファ・ベータ・ガンマ・・・)の名称を付けている。

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡/Google Earth
マーリア広域遺跡・宮殿区域&街区域
クレタ島・中央北部
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入

ミノア文明・マーリア遺跡・市街の舗装通り Minoan Town of Malia Palace/©legend ej
マーリア遺跡・宮殿区域の北側・舗装通り~アゴラ区域
盛り上がりの石板歩道が点在する市街地を結んでいる。
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・マーリア遺跡・市街Δ区域 Minoan Town Δ, Malia Palace/©legend ej
マーリア遺跡・市街Δ区域・市民の「集会所」か?
床面が半地下に位置/階段・石膏表装壁・角柱の構成
クレタ島・中央北部/1982年

また、ミノア文明では通りの中心部(センターライン)を路面より10cm前後、盛り上がりの石板で舗装する伝統的な習慣があった。
この歩道施工ではクノッソス宮殿やフェストス宮殿、マーリア宮殿などの西中庭の歩道を初め、グルーニアやパライカストロなどの大規模なミノア市街の大通り、さらにはミルトス・ピルゴスなど小規模な居住地でさえも見ることができる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・西中庭 West Court, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西中庭
旧宮殿時代に造られた全面石板舗装の西中庭
盛り上がり歩道がローヤルロード&劇場区域へ延びる
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・西中庭 West Court, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・西中庭~西翼部・正面ファサード部
舗装面=西中庭/石板歩道~左折~中央中庭へ至る
女性の位置=旧宮殿・西翼部ファサード部
左壁面=新宮殿・西翼部ファサード部
クレタ島・メッサラ平野/1982年

ミノア文明・ミルトス・ピルゴス遺跡 Minoan Paved Street, Myrtos-Pirgos/©legend ej
ミルトス・ピルゴス遺跡・石板舗装の周回道路
・歩道の左側=居住地の家屋跡
・歩道の先=埋葬建物&納骨室
クレタ島・東部南海岸/1996年



最大規模の庶民の住んだ市街・「Mu区域」

庶民の市街の内、最も発掘エリアが広い「Mu区域」では、840平方メートルを占める「建物A」や540平方メートルの「建物B」を初め、やや小規模な集合住宅、別々のセクションからの複数の工房など、約150を数える大小さまざまな建物と部屋の遺構が確認されている。
広い敷地を占める「建物A&B」はそれぞれ一つの建造物ではなく、無数の家屋が密に連なる「集合住宅」と言える。重要な用途に使われた一部の建物は石積みの構造だが、「Mu区域」のほとんどの家屋は泥レンガを積み上げた構造であった。
その居住は「旧宮殿時代」の初めから、旧宮殿が地震により破壊されたと同じ時期、中期ミノア文明MMIIB期、紀元前1625年頃まで続けられたとされる。


市街・「Mu区域」からの出土品

「Mu区域」からの出土品では、金製のハンドル(柄)の青銅製短剣を初め、多くの陶器類、テラコッタ製の女神の頭部像や石製像、そしてわずかだがミノア文明の文字・線文字A粘土板の断片も見つかっている。

ミノア文明・マーリア遺跡・「Mu区域」・青銅製短剣の金製ハンドル Gold-hilt of Bronze Dagger, Malia/©legend ej
マーリア遺跡・Mu区域出土・青銅製短剣
ハンドル(柄)=金製シートの打抜き加工
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/1994年

興味深いことは、「Mu区域」の約150のほとんどの建物と家屋からおのおの1個~複数、約170個のランプが発見されている。ランプの90%は粘土を焼いた陶器製、一部が石製ランプであった。「旧宮殿時代」以降、マーリアの庶民の暮らすほぼ全家庭では、浅い小型カップ型や高い脚付きのランプ、石製の大型ランプを備え、夜間、オリーブ油を灯す室内照明が標準であったと言える。

マーリア遺跡・陶器製ランプ例/©legend ej
マーリア広域遺跡出土・陶器製ランプ使用例
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

また、「Mu区域」からは、高度な焼成技術が求められるキャラメル色の不思議な光沢、ファイアンス陶器・「スフィンクス像」が見つかっている。人の顔とライオンの身体という聖なる具象のスフィンクス像の存在は、「旧宮殿時代」のミノア文明がエジプト文明の影響を受けていたことを暗示している。

ミノア文明・マーリア遺跡・スフィンクス像 Sphinx, Malia/©legend ej
マーリア遺跡・Mu区域出土・ファイアンス陶器「スフィンクス像」
イラクリオン考古学博物館・登録番号19818/高さ約80mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

「Mu区域」では、建物Aと建物Bの周辺にそれぞれ付属するように工房があり、双方で5か所が確認されている。やや小さな南の工房では精錬を含めた金属加工を、敷地面積が広い北側の複数の工房では金属加工や陶器製作、印章加工などが行われていたとされる。工房は比較的狭く、階下が職人の家族の住まい、ほとんどが上階が作業場となっていた。

工房群からは材料も含め石製印章が約150個が見つかっている。さらに工房と庶民の家屋からは数百点の陶器類が出土している。カマレス様式を含む陶器類はいずれも旧宮殿が破壊された中期ミノア文明MMIIB期、紀元前17世紀の後半期に遡り、市街の破壊層と一緒に見つかっている。

また、ミノア人の衣服の生地生産では、「Mu区域」から機織りに使うテラコッタ製縦糸重りが数百個も出土している。重りの形状はピラミッド状の円錐形、ソロバン玉のような双円錐型、単純な球形など、サイズも様々だが単純な球形塊りでは高さ55mm~75mm前後、糸を通す小穴がある。

先史・古代文明 機織りの仕組み・縦糸重り Prehistoric and Historic Loom System/©legend ej
先史~古代文明・機織りの仕組み&縦糸重り
マーリア遺跡・市街地出土・テラコッタ製「縦糸重り」
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


金属加工では、特に庶民が使う青銅製の道具の加工が盛んで、青銅製両刃斧を成形する上下2個に分割された石製モールド(型)の出土もある。モールドの外周にやや深い「V刻み」が付けられているが、半割の上下の型が開かないように、強く締め付けるための留め具や銅の針金を固定した箇所と考えられる。

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡・両刃斧成形用石製モールド/©legend ej
マーリア遺跡・工房出土・青銅製両刃斧を造る石製成型モールド
上下・二つ割の型/横幅=約160mm・両刃斧横幅=約145mm
中期ミノア文明MMII期・紀元前1700年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号2187
描画:legend ej

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡・巨大ピトス容器 Giant Pithos, Malia Minoan Town/©legend ej
マーリア遺跡・宮殿北入口付近・野外にある大型ピトス容器
紀元前16世紀前半・中期ミノア文明MMIII期・高さ約2m
器体装飾は水平面三分割=「波状曲線・植物葉・渦巻線紋様」
クレタ島・中央北部/1982年


市街・「Nu区域」

1988年~1993年の発掘ミッションで明らかになったエリアだが、現状発掘が終了してる広域遺跡の最も北西部となる「Nu区域」は、クノッソス宮殿の崩壊の後、後期ミノア文明LMIIIA2期~IIIB期、紀元前1375年~前1250年頃に属するミノア文明では比較的新しい時代の大規模な市街と言える。
「Nu区域」の中央北部にある中庭を中心として、その西~南~東側へ庶民の家屋が集合的に連続的につながり、市街を形成している。

中庭の南東隅から出土した家屋の壁面の復元予想では、2.6m四方の建物の屋根は切妻型で2本の煙突、四方の壁面にはおのおの窓がある。この建物の東側の家屋は、おそらく後期ミノア文明の地震で被害を受けたと推測でき、内部からは避難できず崩壊した壁面に埋もれた人骨が見つかった、と発掘レポートで発表されている。

さらに、区域の北西部では、わずかな断片だがミノア人が愛した植物性モチーフのパピルスと帯線のフレスコ画の断片が出土した。マーリアでは宮殿遺構や市街区域からも、フレスコ画の出土例が極めて少ないことが分かっているが、この庶民の市街区域からのフレスコ画の出土は興味深いと言える。


クリィソラッコス・共同墓地遺跡

宮殿区域~北方550m(市街区域~400m)離れたポイント、海岸から150m付近では「クリィソラッコス Chrysolakkos」と呼ばれる大規模な共同墓地遺跡が見つかっている。

GPS
クリィソラッコス共同墓地遺跡: 35°17’53.50” N 25°29’37” E/標高10m

ミノア文明・マーリア宮殿&市街地 地図/©legend ej
マーリア宮殿遺跡&周辺 地図
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

マーリア宮殿の王家の埋葬場所であり、列柱形式を含め無数の建物が連結されたクリィソラッコス共同墓地からは、かつてアテネの沖のサロニコス湾・アエギナ島のミケーネ文明遺跡から発見され、大英博物館が所蔵する有名な「アエギナの財宝 Aegina Treasure」に関連するとも言われた、金製《ミツバチ・ペンダント Bee-Pendant》が出土している。
1921年の発掘調査で見つかったこの金製ペンダントが作られた時期は、「旧宮殿時代」の半ば、中期ミノア文明MMIIA期・紀元前1800年~前1700年頃とされている。

二匹のミツバチが向かい合う形容の金製ペンダントでは、羽根を初め腹部や眼の周囲、そして集めた花粉玉などは精巧な金の微細粒、無数のビーズ(小球)装飾が施されている。この繊細・精緻な宝飾技法は、中東パレスチナ方面から伝播された黄金の造粒技術 Gold Granulation と呼ばれている。


ミノア文明・マーリア遺跡・金製「ミツバチ・ペンダント」Gold Bee-Pendant, Malia, Crete/©legend ej
マーリア遺跡・共同墓地出土・金製《ミツバチ・ペンダント》
「黄金の造粒技術 Gold Granulation」の最高作品
イラクリオン考古学博物館・登録番号559/高さ46mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

マーリア遺跡では、後世に再居住が断続的に行われた宮殿区域からの出土品は予想外に少ないが、クリィソラッコスの共同墓地遺跡からはかなりの点数の副葬品が出土している。
ワインなどの神酒を注ぐための特殊なリュトン容器も見つかっている。何れも「旧宮殿時代」よりわずかに前、初期ミノア文明の最終EMIII期~中期ミノア文明の初めMMI期、紀元前2200年~前2000年頃に遡る儀式・祭祀で使われた容器である。

高さ250mmの水差し型のリュトン杯の腹部には、陰部が網目紋様の女性(or 女神)の座り姿が刻まれている。他方の《マーリアの女神》と呼ばれる高さ164mmの小型リュトン杯は上半身の塑像、暗色の肌で明色の衣装柄、突き出た乳房には神酒の注ぎ穴がある。

ミノア文明・マーリア遺跡・祭祀リュトン杯 Minoan Ritual Rhyton, Malia/©legend ej
マーリア遺跡・共同墓地出土・祭祀用リュトン容器
初期~中期ミノア文明・紀元前2200年~前2000年
イラクリオン考古学博物館・登録番号8660/高さ250mm
クレタ島・中央北部/1994年

ミノア文明・マーリア遺跡・リュトン杯《マーリアの女神》Minoan Goddess of Malia/©legend ej
マーリア遺跡・共同墓地出土・祭祀用リュトン容器《マーリアの女神》
初期~中期ミノア文明・紀元前2200年~前2000年
イラクリオン考古学博物館・登録番号8665/高さ164mm
クレタ島・中央北部/1994年

女神姿のモチーフ、陰部を網目紋様に表現したこの種の儀式リュトン容器の例では、クレタ島南海岸のフォウルノウ・コルフィ遺跡から出土したテラコッタ製《ミルトスの女神 Goddess of Myrtos》が知られている。

ミノア文明・フォウルノウ・コルフィ遺跡・《ミルトスの女神》Minoan Myrtos' Goddess/©legend ej
フォウルノウ・コルフィ遺跡出土・《ミルトスの女神》
アギオス・ニコラオス考古学博物館/高さ約21cm
クレタ島・東部南海岸/描画:legend ej

GPS
フォウルノウ・コルフィ遺跡: 35°00’24.50”N 25°36’33.50”E/標高60m


また、女神リュトン容器ではモクロス遺跡からのテラコッタ製《モクロスの女神 Goddess of Mochlos》、あるいはメッサラ平野のコウマサ遺跡の円形墳墓から出土した蛇を肩に巻き付けたテラコッタ製リュトン容器《コウマサの蛇の女神 Goddess with Snake of Koumasa》がある。
そのほほか、この種のリュトン容器はアルカネス遺跡などを含め、信仰心がより強かった初期ミノア文明~中期ミノア文明の時代に遡る幾らかの居住地の墳墓遺跡からの出土例が多い。

ミノア文明・モクロス遺跡・《モクロスの女神》Minoan Goddess of Mochlos/©legend ej
モクロス遺跡出土・リュトン容器《モクロスの女神》
イラクリオン考古学博物館・登録番号5499/高さ約20cm
クレタ島・東部北海岸/描画:legend ej

ミノア文明・コウマサ遺跡・リュトン杯《蛇の女神》Minoan Goddess with Snake, Koumasa/©legend ej
コウマサ遺跡・円形墳墓出土・《コウマサの蛇の女神》
イラクリオン考古学博物館・登録番号4137
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

GPS
モクロス遺跡・共同墓地: 35°11’12”N 25°54’23”E/標高5m~25m
コウマサ遺跡: 34°59′00″N 25°00′47″E/標高360m


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