2020/05/01

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IX 雄牛跳び


ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 関連ポストは「12部構成」となっています。
1. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace I 概要
2. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace II 西中庭~南翼部
3. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace III 中央中庭・王座の間
4. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IV 聖域・宝庫
5. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace V 貯蔵庫
6. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VI 女神パリジェンヌ
7. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VII 王の居室・聖所
8. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VIII 王妃の間
9. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IX 雄牛跳び(当ポスト)
10. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace X 北~東翼部
11. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 周辺の先史遺跡
12. ミノア文明・クノッソス宮殿 崩壊の原因は?

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クノッソス宮殿・東翼部の複雑構造

位置 クレタ島・中央北部/イラクリオン Heraklion/Iraklion~南南東5km
GPS クノッソス宮殿遺跡・中央中庭: 35°17′53″N 25°09′47″E/標高95m

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡/Google Earth
クノッソス宮殿遺跡
クレタ島・中央北部
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入


中央中庭に面する宮殿・「西翼部」&「東翼部」

中期ミノア文明の末期~後期ミノア文明の半ば、最も繁栄した「新宮殿時代」のミノア宮殿では、中央中庭の周りに王家のプライベート生活区画は当然のこと、政治・行政・宗教・文化に関連する重要な建物区画が配置された。

すべての宮殿に共通するが、特に中央中庭 Central Court の西側となる西翼部 West Wing には、王国の政治・財務・宗教関連の区画が配置された。そして王家のプライベート生活区画はクノッソス宮殿とザクロス宮殿では東翼部 East Wing に、フェストス宮殿とマーリア宮殿では北翼部 North Wing に配置された。
また、幾分の異なりはあるが、ミノア宮殿では南翼部 South Wing と北翼部に工房や貯蔵庫など宮殿関係者の実務面の区画が付属された。


ミノア文明の宮殿遺跡(4か所)

・中央北部・ミノア文明センター・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace
・南西部・メッサラ平野・フェストス宮殿遺跡 Phaestos/Phaistos Palace
・北海岸・マーリア宮殿遺跡 Malia Palace
・最東部・ザクロス宮殿遺跡 Zakros Palace

クレタ島ミノア文明・宮殿群 地図 Map of Minoan Palaces in Crete/©legend ej
クレタ島・ミノア文明・宮殿遺跡 地図
作図:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・推測模型/©legend ej
クノッソス宮殿・推測模型(木製)
部屋数1,000室/東翼部~中央中庭~西翼部
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/1996年


東翼部の地表面レベル

中央中庭の東側は、東入口やカイラトス川 Kairatos の河畔へ向かって地盤がガクーンと一段と低くなることから、東翼部・王家のプライベート生活区画の一階床面レベルは、中央中庭レベルより二階分に相当する低い位置となる。
言い換えるならば、中央中庭の地表面は、王家のプライベート生活区画の北側の建物の三階にあった東大広間 East Great Hall の床面レベルにほぼ同等している。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・主要部セクション視野 Section View of Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・復元セクション視野・アウトライン
南方から「西中庭~西翼部~中央中庭~東翼部」を見る
東翼部・王家の生活区画=中央中庭レベル~二階分低い
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「王家の生活区画」Plan of Minoan Royal Apartments, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部
「王家の生活区画」一階・アウトラインプラン図
・左上=列柱の間(or 柱廊の間)
・右上=王の居室コンプレックス
・左下=王妃の間コンプレックス
クレタ島・中央北部/作図:legend ej


象牙製《雄牛跳びをする人》

象牙製《雄牛跳びをする人》は何処で見つかったか?

エヴァンズの発掘作業では、クノッソス宮殿遺跡・東翼部、美しい吹抜け構造の列柱の間の南側、王妃の間付属の王妃のバスルームの北側に配置された、上階へ連絡する折返し階段付近から、やや腐食が進んでいたが象牙製の彫刻品が出土した。これが後に象牙製《雄牛跳びをする人 Bull-leaper/Bull-leaping》と呼ばれるアクティブな男性像である。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「王家の生活区画」南西セクション・プラン図 Plan of Southwest section, Royal Apartment, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部
「王家の生活区画」一階・南西セクション・アウトラインプラン図
・列柱の間~両刃斧の間~宝庫~王妃の間コンプレックス
・排水路システム&「デーモン印章の区画」&竪坑堆積層
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

折返し階段は木製であったとされ、これをエヴァンズは「業務用階段 Service Staircase」と呼び、《雄牛跳びをする人》のほか、ミノア文明を代表する象牙製品、さらに陶器や青銅製品、18点を数える粘土印影などが出土した。
特に少なくとも五点を数えるライオン頭の人間似の「怪獣 or 精霊」の粘土印影の出土から、エヴァンズはこの階段周辺を「デーモン印章の区画 Daemon Seal Area」と呼んだ(詳細 後述)。

雄牛跳び=「牛飛び or 牛跳び」とも呼ばれている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・象牙製《雄牛跳び》Ivory Bull-leaping, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・象牙彫刻品
《雄牛跳びをする人》・左手先~足先=245mm
中期ミノア文明MMIIB期・紀元前1700年~前1600年
イラクリオン考古学博物館・登録番号3
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

象牙製《雄牛跳びをする人》は、クノッソス宮殿遺跡で見つかったほかの多くの出土品より幾分古い時代に属する作品の一つ、中期ミノア文明MMIIB期・紀元前1700年~前1600年、「旧宮殿時代」の後期に遡ると推定されている。
故に西翼部・聖域・神殿宝庫から出土した「旧宮殿時代」の末期~「新宮殿時代」の初期に遡るファイアンス製《蛇の女神像 Snake Goddess》の製作より、この象牙像の方が少し早い時期に作られたことになる。

ミノア文明&ミケーネ文明 編年表/©legend ej
クレタ島ミノア文明&ギリシア本土ミケーネ文明 編年表
・ミノア文明・「旧宮殿時代」: 紀元前1900年~前1625年
・ミノア文明・「新宮殿時代」: 紀元前1625年~前1375年
ミケーネ文明(時代):  後期ヘラディック文明 LH期
作図:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・《蛇の女神像》Minoan Snake Goddess, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡出土・ファイアンス陶器《蛇の女神像》
中期ミノア文明MMIIB期~MMIIIA期・紀元前1625年頃
NTS(Not to Scale)・イラクリオン考古学博物館
・左像(母女神?)=登録番号63・高さ342mm
・右像(娘女神?)=登録番号65・高さ295mm
クレタ島・中央北部/1994年

デリケートに彫刻されたこの象牙像は、クノッソス宮殿の広間を飾ったフレスコ画と同じモチーフ、ミノア人が好んだ雄牛跳び(牛飛び or 牛跳びとも言う)の競技、またはある種のイベント演技を精巧に表現した見事な作品である。
キプロス島からの銅インゴットと並び、象牙はエジプトから輸入される貴重な工芸材料であることから、この像は極めて重要な意味を含むミノア文明を代表する価値、クノッソス宮殿の宝飾品の一つであったことだろう。

残念ながら《雄牛跳び》の男性の右手~前腕~肘上にかけての部分は失われている。しかし、男子体操競技・跳馬の伸身の「E難度ひねり技」の動作のように、今正に雄牛の背を飛び越えるかのような身体の機敏な動きと前を見据えた頭の向きなどが極めてリアルに表現されている。
バランスのとれたスリムな体格、ミノアの若者を表現した像は、「左手先~足先=245mm」である。

なお、象牙材料は中東地域&エジプトから輸入され、そのほとんどは最東部のザクロス宮殿で陸揚げされたと考えられる。ザクロス宮殿遺跡・西翼部の発掘では、先端部が火炎で焼けているが、輸入された象牙原木が見つかっている。

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・輸入された象牙原木 Imported Ivory, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・西翼部出土・輸入象牙原木
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・最東部/描画:legend ej

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フレスコ画《雄牛跳び》

フレスコ画《雄牛跳び》は何処から出土したのか?

雄牛跳び(牛飛び or 牛跳び)」とは、現代で言えば、全員集合のお祭り的な大きなイベント開催の時に行われた、おそらくスペインの闘牛に似た見世物やスポーツ、あるいは幾分神聖な儀式の一つであった、と考えられる。
この予想を前提とするならば、雄牛跳びは勇気あるミノアの若者達が暴れる雄牛の角に捕まったり、背にまたがったり、動き回る牛の背上で逆立ちしたりするなど、非常にアクティブな行為であったであろう。

ミノア文明の特徴的とも言える雄牛跳びでは、象牙製のほかにクノッソス宮殿遺跡・東翼部からは、保存状態の良好なフレスコ画《雄牛跳び》が出土している。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画《雄牛跳び》 Fresco Bull-leaping, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・フレスコ画
《雄牛跳び》の詳細描写/高さ約78cm
後期ミノア文明LMI期・紀元前1500年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号T-15
クレタ島・中央北部/1994年

現代的にはやや危険過ぎるような行為、クレタ島内で発見されている多くの石製印章や容器の絵柄、彫刻品などの表現を除き、雄牛の背上を跳ぶという同様な内容を描いたほかのフレスコ画や陶器の詳細絵柄のサンプルが乏しいことから、ミノア時代に牛跳びが「どのような状況」で行われていたのかなど、未だに不明な点が多い。

高さ約78cm、残存するフレスコ画《雄牛跳び》は、宮殿・南翼部に複製された高さ2m強のいわゆる《グリフィンを牽く祭祀王(ユリの王子)》と呼ばれるフレスコ画に比べると、決して大型の壁画ではない。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「祭司王」のフレスコ画 Fresco Priest King, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・南翼部・《祭司王のフレスコ画》
後期ミノア文明LMI期・紀元前1500年頃
イラクリオン考古学博物館/高さ約210cm
クレタ島・中央北部/1994年

フレスコ画《雄牛跳び》の断片が見つかったピンポイント場所は、中央中庭の東側、両刃斧の間(王の居室)や吹抜け構造の柱廊の間などが配置された王家のプライベート生活区画の直ぐ北側、東翼部一階の東貯蔵庫群 East Store Rooms/Magazines の区画であった。

エヴァンズの発掘では、この東貯蔵庫群の遺構から機織り(はたおり)に使う重りが出土したことから、この区画を機織り重りの階下 Loom Weight Basement と名称した。


ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・東貯蔵庫群 East Storerooms, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東貯蔵庫群の周辺・重要出土品&スポット
・フレスコ画《雄牛跳び》/ファイアンス製品《タウン・モザイク》
・石製導水路システム/「王家のゲーム盤」/地中の「給水パイプ」
・メダリオンピトス貯蔵庫(復元建物)/フレスコ画《青の婦人達》
クレタ島・中央北部/1994年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・北翼部~東翼部 プラン図 North-East Wings Plan, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・北翼部~北東翼部~東翼部
一階レベル・アウトラインプラン図
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

発掘者エヴァンズは、フレスコ画《雄牛跳び》が出土した「機織り重りの階下」の上階には、中央中庭の地面レベルよりほんの少し高い東翼部三階のフロアーとなるが、高雅にして神聖なる部屋となる東大広間 Great East Hall が配置されていた、と想定している。
東翼部で最大級の広さと壮麗さを誇る大広間の機能は、同じ三階の東隣りに配置された、宮殿の最も重要で荘厳な区画の一つであった大女神の聖所 Great Goddess Sanctuary との連動であったとされる。


東翼部・東大広間&大女神の聖所

フレスコ画で装飾されていた東大広間&大女神の聖所

エヴァンズの想定では、中央中庭から東大広間へ上る12段の階段の途中には三本の円柱が、さらに大広間の入口にも三本の大型角柱が立ち、広間内部の中心部に空間を作るように8本の円柱が並び、大広間の天井を支えていた。この円柱群の周りが事実上の大広間となり、その広さは東西約18.5m・南北約15mである。
大広間の中心で円柱に囲まれた東西約7m・南北約6.5mの空間は、一階の「機織り重りの階下」の区画である、雨水を集める石製の集水溜&導水路システムの存在と、大広間の南北壁面にドアー口以外に窓がない点からして、構造的には天空に開口された採光吹抜け構造であった可能性が極めて高い。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・東大広間・プラン図 Plan of Great East Hall, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・東大広間
三階レベル・アウトラインプラン図
参考情報:サー・アーサー・エヴァンズ・発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.III(1930年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)
クレタ島・中央北部/作図:legend ej


エヴァンズの発掘では、三階に配置された東大広間の階下区画、実際の発掘のピンポイント場所は一階の「機織り重りの階下」の区画からは、フレスコ画《雄牛跳び》以外にも無数のフレスコ画の断片が見つかっている。
一階の貯蔵庫群の内部などが美しいフレスコ画で装飾されていたとは考えられず、これらフレスコ画の断片は、間違いなく上階(三階)に存在した大広間、あるいは二階の豪華な広間のフロアーから、紀元前1375年頃、クノッソス宮殿が大火災を起こし最終崩壊した時に崩落した、と考えるのが正しい判断であろう。

多くの研究者は、宮殿・東翼部三階に配置されたエヴァンズの言う、東大広間と大女神の聖所の壁面には、フレスコ画《雄牛跳び》を初め、特に激しい動作を伴ったアクション系のフレスコ画に限れば、まるで1990年代まで全盛であった旧アニメ用のセル画(セルロイド画像)と同様に、一連のスローモーション画像を一枚ずつ表現するかの如く、連続的に描かれていたと推測している。

出土したフレスコ画の断片の多くは、競技やスポーツに関連する絵柄と判断され、メッサラ平野のアギア・トリアダ遺跡 Agia Triada からの滑石・ステアタイト製の《ボクサー・リュトン杯 Boxer Rhyton》に共通する、ボクシングやレスリングと断定できる絵柄もあった。
なお、アギア・トリアダ遺跡の《ボクサーのリュトン杯》は、ハンドルを除き高さ465mm、円錐型容器の外表面には、上下四つに段区分されたスペースにレスリング&ボクシング、雄牛跳びのシーンが浮彫りで彫刻されている。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・「ボクサー・リュトン杯」Boxer Rhyton, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡出土・石製の儀式杯
《ボクサーのリュトン杯》/高さ465mm
・一段目=レスリング試合
・二段目=雄牛飛びの刻み
・三段目=ボクシング試合
・四段目=ボクシング試合
イラクリオン考古学博物館・登録番号498
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej


また、エーゲ海のサントリーニ島のアクロティーリ遺跡・B地区・「家屋1」からは、《ボクシングをする少年達》のフレスコ画が見つかっている。二人とも腰ベルト以外は裸姿、当時の風習から頭部の一部は「剃り上げ」、長い髪が延びる。
二人とも背丈が実際より少し大きく描かれ(約155cm)、右少年は右手にグローブをはめ、左少年も右手にグローブをはめているが、上流階級の証しであるネックレース、アームレット、アンクレットを付けている。互いにグローブの右手が攻撃、素手の左手は防御だったかもしれない。

アクロティーリ遺跡・ボクシングの少年フレスコ画 Minoan Fresco, Boxing Young-boys, Akrotiri/©legend ej
アクロティーリ遺跡・《ボクシングをする少年達》のフレスコ画
片手グローブ・腰バンドの二人の裸少年
B地区・「家屋1」・南壁面の描画
アテネ国立考古学博物館・登録番号BE1974-26β
エーゲ海・サントリーニ島/描画:legend ej

さらに、「機織り重りの階下」の区画から出土したフレスコ画の断片では、エジプトや中東文明の影響を受けた想像上の動物である浮彫フレスコ画《グリフィン Griffin》、そしてエーゲ海と同じ青色の背景の中にミノアの美しい女性達を描いた、あまりに有名なフレスコ画《青の婦人達 Ladies in Blue》も含まれていた。
なお、グリフィンや女性達など非スポーツ的な描画であるこれらのフレスコ画の破断片は、あくまでも可能性だが、上階(三階)の東大広間ではなく、東隣の大女神の聖所から、あるいは二階に存在した豪華な広間からの崩落かもしれない。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・浮彫フレスコ画《つながれたグリフィン》Tethered Griffin, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・浮彫フレスコ画
支柱につながれた《神殿のグリフィン》
イラクリオン考古学博物館/描画:legend ej


ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画《青の婦人達》 Minoan Fresco, Ladies in Blue, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・フレスコ画
エーゲ海の Kyanos Blue 背景色・《青の婦人達》
紀元前1650年~前1550年頃
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/1994年


エヴァンズは東大広間の北壁面の真下にあたる一階の「機織り重りの階下」の区画から、木工で使う複数の青銅製の固定具を発見している。
出土した金具のサイズと想定できる機能から、東大広間の東側、大女神の聖所と想定されるフレスコ画装飾の荘厳な広間の最奥部には、顔の長さ40cm、全身高さ3m、木製の《聖なる女神》の大型像が安置されていた、とエヴァンズは考えた。
このエヴァンズの想定を元に研究者は、南北幅は同じだが東西幅が東大広間の半分程度であったと推定できるこの格式の広間を「大女神の聖所」と呼ぶ。

消石灰・漆喰&フレスコ画の技法
地中海の諸島や沿岸~内陸部まで何処にでも無尽蔵に存在する石灰岩を砕き、加塩で焼成した物質が白色の生石灰。生石灰を加水処理すると白色微粉末の消石灰となる。
水酸化カルシウムが主成分の消石灰を水で溶き、壁面や天井や床面に塗った状態を漆喰と呼ぶ。完全に水溶せず強いアルカリ性を呈する漆喰は調湿・消臭・防水・不燃性に富み殺菌作用もある。また、消石灰にやや多めの水を加えたのが石灰水である。

フレスコ画の語源はイタリア語、壁面や天井や床面を造成した後、基本的に白色漆喰で表面を施工、漆喰が乾燥しない間に石灰水と顔料で描画する技法をフレスコ画と呼ぶ。
顔料が遅乾性の漆喰の石灰層へ染み込み、ゆっくりと乾燥する時、石灰質が透明で強固なコーティング質を作り、最終的に描画の表面を保護する。


本・ゲーム&映画・ファッション・PC・カメラ・食品&飲料・アウトドアー・薬品・・・


ミノア時代の「雄牛跳び」とは?

「雄牛跳び」はスポーツ? 見世物・イベント行事・奉納儀式だったのか?

伝統ある「スペインの闘牛」との比較である程度、単純連想することはできるが、やはり今日の常識から言えば、フレスコ画《雄牛跳び》は少し誇大な描写とも考えられなくもない。
ミノア文明の時代、本当に暴れ狂う雄牛の背上で逆立ちして、尖った角を体操競技の平行棒代わりに掴むという「E難度」と言うより、非常に危険なパフォーマンスが日常的に行われていたのであろうか?

ただ現代人に疑問符?が付けられたとしても、クノッソス宮殿遺跡のフレスコ画《雄牛跳び》では、間違いなく三人のミノアの若者達が暴れ狂う雄牛を相手にした、かなり危険に見える行為か、儀式などのシーンを大胆に表現している美術的・文化的な意味は大きいと言える。
雄牛跳びはエジプトや中東地域の美術モチーフとしても頻繁に登場しているように、先史の時代に東地中海域の人々が好んだ非常に重要な伝統的なイベント、または日本の神楽に似た神への奉納儀式であったのかもしれない。


「雄牛跳び」は誰が行ったのか?

フレスコ画《雄牛跳び》に描かれている三人の人物に関して、ロングヘアなどを判断材料として推定しているのか、ミノアの「男性一人と女性二人」という幾らかの研究者の説もある。
しかし、私は発掘されている複数のフレスコ画から判断するならば、女神を含めてミノア時代の女性は極めて静的で優雅、優しさを強調して描写されているように判断できることから、ミノアの女性が大怪我も有り得るかなり危険な雄牛跳びに主役参加していたとは、どうしても想像できないのである。

フレスコ画《雄牛跳び》の左右の白人らしき人物は、確かに胸に女性的な特徴があるように見えるが、腰が強調的に絞られて描写されているために、相対的に胸が大きく見えると判断できる。さらに詳細にチェックすると間違いなく男性の顔の表情が見て取れ、私には鍛えられた若い二人の男性の筋肉描写と思える。

さらに若い二人が腰にまとっているは、クノッソス宮殿遺跡~西方13kmのティリッソス遺跡 Tylissos から出土した青銅製の《敬礼する青年像》、あるいは最東部のパライカストロ遺跡 Palaikastro 近郊の山頂聖所から出土したテラコッタ製の《ミノア兵士の像》などに共通する、日本古来の「ふんどし」のような男性用の衣装と判断できる。

ミノア文明・ティリッソス遺跡・青銅製青年像 Minoan Bronze Figurine/©legend ej
ティリッソス遺跡出土・青銅製像
《敬礼の青年像》/高さ152mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号1831
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・パライカストロ遺跡&ピスコケファロ遺跡・テラコッタ製塑像 Minoan Terracotta Figurine/©legend ej
左=パライカストロ遺跡出土・テラコッタ塑像
《ミノア兵士像》/高さ175mm
中期ミノア文明MMIB期・紀元前1900年~前1800年
イラクリオン考古学博物館・登録番号405
右=ピスコケファロ遺跡出土・テラコッタ塑像
《ミノア女性像》/高さ264mm
中期ミノア文明MMIIB期・紀元前1700~1650年
イラクリオン考古学博物館・登録番号9832
クレタ島・東部~最東部/描画:legend ej

そして、クレタ島東部地区の白い港町リゾート・シティア Sitia ~南方3km、ピスコケファロ村 Piskokefalo の丘上聖所から出土したテラコッタ製の《ミノア女性像》のように、ミノア時代の普通の女性が好んで着用していたのは、釣り鐘型のロングスカートである。

優しさとエレガントな雰囲気を大切にしていた豊かなバストのミノア女性が、勢いビキニ水着に近い男性用の「ふんどし」にも似た布切れをまとい、クノッソス宮殿の中央中庭やカイラトス河畔の広場に集まった大勢の人々の面前で、大胆不敵に危険なイベント参加をしたであろうか? あくまでもイベントや儀式では、ミノアの女性達は観客席を埋める役目であったはずである、と私は想像するのだが・・・

故に私は、フレスコ画《雄牛跳び》の人物は、ミノアの「男性二人」、そして交流が深かったエジプト方面からアフリカの猛獣などを引き連れてやって来た「黒人男性」と判断したい。
彼らは訓練を重ねた曲芸サーカス団のメンバーのような存在で、お祭りや儀式祭典などに合わせて、定期的に各地の宮殿地区を巡回した命知らずの見世物の芸人であったのではないだろうか。これはあくまでも多くの研究者の判断と大きく異なる私の独断的な推論なのだが・・・

あるいは雄牛の背上で逆立ちをしている真ん中の人物は黒人ではなく、緊張の「雄牛跳びの勇者」を強調するために、クノッソス宮殿の北入口の浮彫フレスコ画《赤い雄牛》のように、ミノアの絵師があえてパワーを象徴する赤銅色で人物を色付けしたとも推測できる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・北入口・浮彫フレスコ画「赤い雄牛」 Red Bull Fresco, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・北翼部出土・浮彫フレスコ画
後ろを振り返り突進する《赤い雄牛》
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


果たして雄牛跳びはミノア文明の人々にとってどのような意味を成していたのであろうか? あるいはこのフレスコ画が、事実として東大広間や大女神の聖所の壁面を鮮やかに飾っていたのであろうか?
「真実」はエーゲ海・先史文明の島クレタの真夏、まどろみの午後、オリーブ耕作地を吹き抜ける3,500年前と同じ乾いた微風に聞いてみれば、「正しい答」を教えてくれるかもしれない・・・


工芸・美術の「雄牛跳び」

王座の間付属・内部聖所からの出土品・水晶薄板絵《雄牛跳び》

クノッソス宮殿遺跡・西翼部・王座の間に付属する内部聖所から、「ミノア文明の最高傑作品」の一つと言える素晴らしい出土品があった。
水晶(クリスタル)の六角柱原石から剥離成形したガラス状の水晶薄板に描画された「赤い雄牛」の部分である。
わずかに淡い黄色系の水晶薄板の裏側に顔料で描かれた雄牛は、エーゲ海の色、エヴァンズが言うギリシア語「キアノス色 Kyanos Blue 」を背景として、上半身がやや上向き姿勢で走行しているように見える。

残存の水晶薄板は縦55mm・最大横幅35mmの変形長方形、雄牛の胴部~後脚部分は欠損しているが、エヴァンズと協力者の考古学美術家エミール・ジリエロンは、この描画は雄牛の単純な走行姿勢を描いたものではなく、オリジナル絵はミノアの青年による「雄牛跳び」の迫力シーンであった、と想定している。雄牛の後頭部の上方にわずかだが、「青年の髪」の先端と「ロープ」の一部と思われる絵の具が残留している感じがある。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王座の間(内部聖所)・水晶薄板絵「雄牛跳び」Minoan Drawing Bull-leaping on Crystal-plaque, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・王座の間(内部聖所)出土・水晶薄板絵
赤色雄牛の頭部~胴部/「雄牛跳び」のシーンの一部?
新宮殿時代・紀元前1600年~前1450年
水晶薄板残存=縦55mm・最大横幅35mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号37
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王座の間(内部聖所)・水晶薄板絵「雄牛跳び」Minoan Drawing Bull-leaping on Crystal-plaque, Knossos Palace/Sir Arthur Evans and E. Gillieron
クノッソス宮殿遺跡・王座の間(内部聖所)出土・水晶薄板絵 想像画
赤色雄牛&ミノア青年の「雄牛跳び」のシーン(想像)
描画情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.III(1930年)
描画作者:考古学美術家 Émile Gilliéron


参考情報だが、最東部のパライカストロ遺跡からは黒緑色系の石材、滑石・ステアタイト or 蛇紋岩を使った石製のリュトン杯の断片が見つかっている。
横幅6cmほど、決して大きな出土品ではないが、雄牛と同じように太く力強い前脚を延ばした野生のイノシシが、波打つような大地を疾走する半身が浮き彫り表現されている。頸部には点描の装飾が認められるが、残念ながらイノシシの頭部のほとんどと胴体~後脚部分は欠損している。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・石製リュトン杯・イノシシ浮き彫り Minoan Stone Rhyton, Dashing Wild Boar, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・石製のリュトン杯
浮彫表現=大地を疾走する野生のイノシシ
イラクリオン考古学博物館・登録番号993/横幅約6cm
クレタ島・最東部/描画:legend ej



ギリシア本土ミケーネ文明のフレスコ画《雄牛跳び》

特に陶器や金属器など工芸品のデザイン分野でクレタ島ミノア文明の影響を顕著に受けていた、ミケーネ文明のセンター・ミケーネ宮殿遺跡~南南東15km、世界遺産ティリンス宮殿遺跡の「メガロン形式」の王の居室から出土した、紀元前1400年~前1300年頃の作と思えるフレスコ画《雄牛跳び》がある。
残存は30cm弱の大きさ、フレスコ画の全体がかなり色彩劣化しているが、雄牛はベージュ色の地に赤茶線紋様で描かれ、暴れ狂う雄牛の角、または頭部にしがみ付いた若者が、まるで「スパイダーマン」のように、雄牛の背中から空中に身体を浮かしている、かなりアクティブなシーンを表現している。

これは間違いなくミケーネ文明が本家本元のクレタ島ミノア文明で人気の高かった雄牛跳びに影響を受けたと判断できる。ただ、ティリンス宮殿のフレスコ画は、クノッソス宮殿のフレスコ画《雄牛跳び》より300年ほど遅い時代の作品であり、ミノア文明の描画技法からかなり変化しているように感じる。

フレスコ画を描いたミケーネ絵師のセンスが理由なのか、比較するなら、精密描写のミノアのフレスコ画技法より少々粗雑な描写力、迫力感もやや低いと判断できる。時代の流れの中で数世紀前の全盛を誇ったミノアのフレスコ画を懐古的に単純に「真似た描写」だったとも思える。

ミケーネ文明・ティリンス宮殿遺跡・フレスコ画《雄牛跳び》Fresco Bull-leaping, Tiryns Palace/©legend ej
ティリンス宮殿遺跡・王の居室出土・フレスコ画《雄牛跳び》
アテネ国立考古学博物館・登録番号1595/高さ290mm
ペロポネソス・アルゴス地方/描画=legend ej

GPS 世界遺産/ティリンス宮殿遺跡: 37°35’56”N 22°48’01”E/標高25m


儀式リュトン杯の「雄牛跳び」

南西部のメッサラ平野のコウマサ遺跡 Koumasa の、「旧宮殿時代」の初期に相当する中期ミノアMMI期に遡る共同墳墓からは、テラコッタ製の《雄牛跳びor 雄牛乗り?》のリュトン杯が出土している。
決して大型品ではないが、三人のミノア男性が雄牛の頭部にしがみ付いている状態を表現、一人は雄牛の顔面にピタッとしがみ付き、残る二人は各々左右の角に後ろからしがみ付いている。
雄牛のサイズに比べ、ミノア男性達はあまりに小さく、やや滑稽なシーンとも言えるが、儀式・祭祀用のリュトン杯に表現するほど、雄牛が庶民の身近な存在であったことを示している。

ミノア文明・コウマサ遺跡・「雄牛跳び」のリュトン杯 Minoan Bull-leaping Rhyton, Koumasa/©legend ej
コウマサ遺跡出土・テラコッタ製リュトン杯
《雄牛跳び or 雄牛乗り?》/長さ208mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号4676
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

ミノア文明・コウマサ遺跡・「雄牛跳び」のリュトン杯 Minoan Bull-leaping Rhyton, Koumasa/©legend ej
コウマサ遺跡出土・テラコッタ製リュトン杯(拡大)
《雄牛跳び or 雄牛乗り?》/長さ208mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号4676
クレタ島・メッサラ平野/1982年

GPS コウマサ遺跡: 34°59’00”N 25°00’47”E/標高360m



印章の「雄牛跳び」

ミノア文明では「ライオン狩り」のシーン、神聖な聖所や女神、小動物や花などと並び、野生ヤギや雄牛も極一般的なモチーフとして好まれた結果、雄牛と雄牛跳びの情景を刻んだ印章が、島内の多くのミノア文明遺跡から出土している。

 エヴァンズの発掘レポート(v. III/1930年)で記述してあるが、(ピンポイント場所=不明)アルカネス近郊の横穴墓の発掘では、ミノア文明の工芸モチーフの代表格である「雄牛跳び」を刻んだ金製リングが見つかっている。
かつて自身が館長を務めたエヴァンズが、オクスフォード大学 Ashmolean 博物館へ寄贈したとされる、横幅34mm・縦幅22mmのオーバル形、やや凸状の印面にインタリオ(凹)で刻まれた、極めて動的で迫力ある雄牛跳びのシーンでは、短めの巻き毛の青年が走る雄牛の背上で逆立ちする姿を捉えている。弓なりで腰巻姿の青年の両足は雄牛の尾を越えて風圧で雄牛の後方へ延び、右腕は雄牛の浮き出た肋骨(あばらぼね)付近、左腕は背骨に置かれている。

ミノア文明・アルカネス遺跡・金製リング「雄牛跳び」 Minoan Gold Ring of Bull-leaping. Archanes/©legend ej
アルカネス近郊・横穴墓出土・金製リング・《雄牛跳び》
後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1375年
Ashmolean Museum, U. Oxford (UK)
登録番号AN1896-1908-AE2237/横幅34mm
※Sir Arthur John Evans 寄贈
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


イラクリオン~西南西17km、ティリッソス遺跡 Tylissos~西方5km、1930年、ギリシア人の考古学者マリナトス教授 S.N. Marinatos による、山間盆地に残されたスクラヴォカンボス邸宅遺跡 Sklavokambos の発掘ミッションでは、金製印章で押された複数の《雄牛跳び》や《二輪走行車》の粘土印影 Clay Seal Impression が見つかった。

ミノア文明・スクラヴォカンボス遺跡&アギア・トリアダ遺跡・「雄牛跳び」の印影 Minoan Bull-leaping, Clay Seal Impression, Sklavokambos and Agia Triada/©legend ej
複数のミノア文明遺跡出土・《雄牛跳び》の共通粘土印影
印影=雄牛の後方に雄牛跳びのミノア青年
・中央北部・スクラヴォカンボス遺跡
・メッサラ平野・アギア・トリアダ遺跡
・東部・大規模町遺構のグルーニア遺跡
・最東部・エーゲ海岸ザクロス宮殿遺跡
印章=後期ミノア文明LMIB期・紀元前1450年頃
イラクリオン考古学博物館/横約31mm
参考情報:CMS, Heidelberg U. (DE)
描画:legend ej

ミノア文明・スクラヴォカンボス遺跡&アギア・トリアダ遺跡・「雄牛跳び」の印影 Minoan Bull-leaping, Clay Seal Impression, Sklavokambos and Agia Triada/©legend ej
複数のミノア文明遺跡出土・《雄牛跳び》の共通粘土印影
印影=雄牛の後頭部付近に雄牛跳びのミノア青年
・中央北部・スクラヴォカンボス遺跡
・メッサラ平野・アギア・トリアダ遺跡
・東部・大規模町遺構のグルーニア遺跡
印章=後期ミノア文明LMIB期・紀元前1450年頃
イラクリオン考古学博物館/横約31mm
参考情報:CMS, Heidelberg U. (DE)
描画:legend ej

なお、地方道(Heraklion=リゾート村 Anogia)の脇、標高400mの盆地でのオリーブとワイン用ブドウの栽培と管理を行っていたスクラヴォカンボスの邸宅は、クレタ島のほかの宮殿や地方邸宅と同様に、後期ミノア文明LMIB期、紀元前1450年頃、ギリシア本土からの「侵攻ミケーネ人」により破壊された。

ミノア文明・スクラヴォカンボス遺跡 Minoan House of Sklavokambos/©legend ej
スクラヴォカンボス遺跡・柱礎三基の中庭
地方道(イラクリオン=高原村アノージャ Anogia)の脇
クレタ島・中央北部/1994年

GPS スクラヴォカンボス邸宅遺跡: 35°17’43”N 24°57’29”E/標高420m


特に注目すべき点は、スクラヴォカンボス遺跡以外の最東部のザクロス宮殿遺跡、メッサラ平野のアギア・トリアダ遺跡、東部地区のグルーニア遺跡、一部の印影はクノッソス宮殿遺跡などクレタ島内6か所から、スクラヴォカンボスと同じ複数の印章で押されたと確定できる粘土印影が、発掘により次々に見つかっている事例である。

雄牛跳びのほか、共通の印影では御者の操る二輪走行車の印影がある。研究者は金製印章で押されたものと判断、これとまったく同じ印影がミノア文明の複数の遺跡からも出土している。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・二輪走行車の粘土印影 Minoan Chariot Seal Impression on Clay, Agia Triada/©legend ej
複数のミノア文明遺跡出土・《二輪走行車》の共通粘土印影
印影=御者はほとんど欠損・二頭立て馬&二輪走行車
・中央北部・スクラヴォカンボス遺跡
・メッサラ平野・アギア・トリアダ遺跡
・サントリーニ島・アクロティーリ遺跡
印章=後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年頃
イラクリオン考古学博物館/横約30mm
参考情報:CMS, Heidelberg U. (DE)
描画:legend ej

この意味はほとんど間違いなく文明センターのクノッソス宮殿から派遣された、複数の監査官のような権限を持った立場の特定人物が、常に《雄牛跳び》を刻んだ金製印章を携え、各地の宮殿や重要な邸宅を巡回して回り、農産物の収穫量や納税処理など国家財政や生産経済に関わる何らかの重要な監査業務を行っていた、と容易に推量できる。
この想定が事実であったなら、農産物などの生産と管理を担当していた各地の宮殿と邸宅が崩壊する紀元前1450年頃より遥か以前から、クレタ・ミノア文明ではすでに特定印章で監査を行う、王国レベルの「行政・財務の管理システム」が確立されていた、と判断できる。

参考だが、「二輪走行車」の鮮明な表現では、ギリシア本土ミケーネ宮殿遺跡~北西20km、古代クラシック文明遺跡が点在するネメア~西北西7km、人口350人の小村アイドニア Aidonia で確認されたミケーネ文明の共同墓地から出土した金製リングがある。
1970年代の初め、アイドニア村で偶然に見つかったミケーネ文明の横穴墓から盗掘された宝飾品の一つだが、横33.4mmの楕円形(オーバル形状)の印面には、二頭の馬が引く二輪走行車が刻まれている。
御者のミケーネ男性は左手で手綱、右手で鞭(むち)を振っている。馬の脚の運び方からは、常歩(なみあし)か側対歩で進んでいるように見える。《アイドニアの財宝 Aidonia Treasure》の一つ、この金製リングの製作はミケーネ文明の初めとなる後期ヘラディック文明LHI期~LHII期・紀元前1500年頃とされる。

ミケーネ文明・アイドニア遺跡・《Aidonia Treasure》金製リング「二輪走行車」 Mycenaean Gold Ring, Chariot, Aidonia Treasure/©legend ej
ミケーネ文明・アイドニア遺跡出土・金製リング
《アイドニアの財宝》・二頭立て二輪走行車
後期ヘラディック文明LHI期~LHII期・紀元前1500年頃
ネメア考古学博物館・登録番号1005/横33.4mm
ペロポネソス・コリンティア地方
描画:legend ej

《アイドニアの宝物 Aidonia Tresure》
1971年、アイドニア村の住民がロバと共に「穴」に転落したことから、村~東方450m付近、穏やかな丘陵地の斜面に無数の墳墓が確認され、金製の宝飾品などが見つかった。以降、地元民による組織的な盗掘が行われ、目立った宝飾品だけで350点を超えた、とされている。
その後、1978年になり公的な発掘ミッションが実施されたが、地元で「豚の(飼育)洞窟」と呼ばれる、軟質岩盤を掘削した横穴墓を中心に竪穴墓など合計20基のミケーネ文明の墳墓が確認された。ただ、数基を除き墳墓のほとんどは既に盗掘され、内部は考古学的な情報が得られないほど荒れた状態であったとされる。

ミケーネ文明・アイドニア遺跡/Google Earth
ミケーネ文明・アイドニア遺跡・共同墓地
ペロポネソス・コリンティア地方
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入

盗掘されていたとは言え、墳墓内部のピット墓は盗掘者達が見落としたことから、横穴墓・7号墓の床面下から四個の金リングを初め、ミケーネ文明の繁栄を連想できる豪華な宝飾品や陶器などの副葬品が出土した。また、村からはミケーネ文明の居住地も確認されている。

20年後、1993年、ニューヨークでミケーネ文明の宝飾品のオークションが開催される直前、350点に及ぶ出品がアイドニアの共同墓地からの宝飾品に極めて近似すると判断され、調査のためオークションは延期となり、ギリシア政府と主催者側との交渉が始まる。
そうして、1996年、出品の宝飾品は「盗掘品」と判断され、ギリシア政府へ返還、盗掘の二個の金製リングを含め《アイドニアの財宝 Aidonia Treasure》として、現在、ネメア考古学博物館 Nemea Archaeological Museum で展示公開が行われている。

アイドニア共同墓地からは、盗掘品二個を含め金製リングは合計6個が見つかっている。二輪走行車(登録番号1005)のリングと各々片手に花を持つ二人の女神(登録番号1006)を刻んだリングは盗掘⇒返還品である。
1978年の公的発掘ミッションで見つかった四個の金製リングでは、二人の女神と花と聖所(登録番号550)、三人の女神と二か所の聖所(登録番号548)、三人の女神と聖所と聖なる樹木(登録番号549)、ロゼッタ形容の金製リング(登録番号551)である。

ミケーネ文明・アイドニア遺跡・金製リング Mycenaean Gold Ring, Aidonia Treasure/©legend ej
ミケーネ文明・アイドニア遺跡出土・金製リング
《アイドニアの財宝》・マウント外周・アーム外周=宝石象嵌
印面=楕円形・雄牛角オブジェ・女神・パピルス・ユリの花
後期ヘラディック文明LHII期~LHIIIA期・紀元前1400年頃
ネメア考古学博物館・登録番号550/横20.3mm
ペロポネソス・コリンティア地方/描画:legend ej

ミケーネ文明・アイドニア遺跡・金製リング・黄金の造粒技術 Mycenaean Gold Ring with Gold Granulation, Aidonia Treasure/©legend ej
ミケーネ文明・アイドニア遺跡出土・金製リング
《アイドニアの財宝》・「黄金の造粒技術」
花を持つ三人の女性・神殿・聖なる樹木
後期ヘラディック文明LHI期~LHII期・紀元前1500年頃
ネメア考古学博物館・登録番号549/横25mm
ペロポネソス・コリンティア地方/描画:legend ej

GPS アイドニア遺跡: 37°50′25″N 22°34′59″E/標高355m

スクラヴォカンボス遺跡からはクラック割れはあったが、後期ミノア文明LMIB期、紀元前1500年~前1450年頃のミノア陶器のモチーフの一つ、和色で言えば辛子色を基調とする「抽象&幾何学様式 Abstract & Geometric Style」の絵柄、保存状態が良好な水差しが出土した。
ふっくらとした丸みの美しい器形、ブリッジ型注ぎ口付きの水差しには、やや太い三本のジグザグ線が横に走り、線に沿って小点紋様が連鎖、アクセントとして星印(アスタリスク)、さらに頸部には小さなロゼッタ紋様が表現されている。

ミノア文明・スクラヴォカンボス遺跡・ジグザグ線の水差し Minoan Jug, Gigzag-line, Skloavokambos/©legend ej
スクラヴォカンボス遺跡・抽象&幾何学様式の水差し
ジグザグ線・小点・アスタリスク・ロゼッタ紋様
紀元前1500年~前1450年頃/高さ285mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号8939
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

器形は異なるが、この水差しの紋様とほとんど同じジグザク線と小点紋様、さらに頸部のロゼッタ紋様を絵柄にした、同じ後期ミノア文明LMIB期に遡るやや細長いオーバル型(ラグビーボール風)のリュトン杯が、東部地方のグルーニア遺跡から出土している(イラクリオン考古学博物館・登録番号1861・高さ220mm)。


東地中海域で好まれた「雄牛跳び」

遠く中東地域では、紀元前17世紀に遡るシリア北部アララック遺跡 Alalakh から出土した円筒形(シリンダ型)の石製印章には、クノッソス宮殿遺跡のフレスコ画《雄牛跳び》に描かれたのとまったく同じ雄牛跳びのシーンが刻まれている。
ただ、表現スペースが狭いことから、この印章にはフレスコ画の左右の二人の白人は刻まれていないが、一頭の雄牛の背上で背を反らせて二人が逆立ちするシーンで、一人の頭部は雄牛の頭部へ、もう一人の頭は雄牛の尻の方へ向いている。

さらに、同じアララック遺跡で見つかった紀元前16世紀~前11世紀に属する写実的な絵柄のクラテール型容器の外面には、暴れ狂う雄牛から後方へ振り落とされた男性が描かれている。
これはミノア文明と言うより、この時期にギリシア本土で繁栄の頂点にあったミケーネ文明の、特にティリンス宮殿の陶器工房が中心となり、後期ヘラディックLHIIIA期・紀元前1400年頃から、ミノア文明のモチーフを模倣&発展させた、ピクトリアル様式陶器(Mycenaean Pictorial Style 写実的な絵柄デザイン)をシリア・アララックの人々が輸入したものと判断できる。

なお、アルゴス地方のティリンス宮殿やプロシムナ・ベルバチ居住地で焼かれ、馬が引く二輪走行車や武装兵士の絵柄などを写実的に描写したミケーネ様式のピクトリアル様式陶器は、東地中海全域へ輸出されたことから、発掘では銅の産地・キプロス島の遺跡からもかなりの点数が見つかっている。

そのほかでは、ミノア文明と同じ時代のエジプトやトルコ・ヒッタイト文明など、中東地域の多くの遺跡スポットから、フレスコ画や印章、象牙製品などに雄牛跳びのシーンを表現した作品が多数出土している。
陶器の編年や石製印章の表現モチーフと並び、雄牛跳びは東地中海域の先史文明の研究テーマとしては非常に奥が深く、魅力的なアカデミック・ターゲットの一つとなっている。


ミノア文明の「雄牛」の崇拝と「パワーの象徴」

ミノア文明の「雄牛」の崇拝

ミノア文明では宮殿の玄関や屋根、クノッソス宮殿・西翼部の三分割聖所を代表とする聖所の外面飾りなどに雄牛の角を形容したU型オブジェが、また宗教的な儀式・祭祀には雄牛の頭型リュトン杯が使われた。
さらに庶民の家庭の棚にはテラコッタ製の雄牛の頭型装飾品が、そして無数に作られた石製や金製の印章の彫刻デザインにも雄牛や雄牛跳びのシーンが表現されたように、ミノア王国の人々にとり、雄牛は身近な存在でありながら、神聖なる「パワーの象徴」でもあった。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「聖域」Sanctuary, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿・西翼部・三分割聖所(再現予想図)
プレ・ヘレニズム様式の円柱&雄牛角U型オブジェ
原画情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.II(1928年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)
描画&色彩:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・U型オブジェ/©legend e
クノッソス宮殿遺跡・南翼部・雄牛角U型オブジェ
クレタ島・中央北部/1982年


聖なる雄牛頭型リュトン杯

クノッソス宮殿遺跡・中央中庭~北西350m、小宮殿 Small Palace と呼ばれる大型遺構からは、高さ(角部除く)206mm、蛇紋岩、またはセラミック絶縁材ステアタイトに加工できる滑石(タルク)製の雄牛頭型リュトン杯が見つかっている。

ミノア文明・クノッソス小宮殿遺跡・雄牛頭型リュトン杯 Bull-head Rhyton, Knossos Little Palace/©legend ej
クノッソス地区・小宮殿遺跡出土・雄牛頭型リュトン杯
新宮殿時代・紀元前1500年~前1450年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号1368
クレタ島・中央北部/1982年

クノッソス地区・小宮殿遺跡からの出土品・アラバストロン型容器
現在のクノッソス地区の北側、ミノア文明の「小宮殿」と呼ばれる大型建物の遺構から、「新宮殿時代」の最盛期に製作された、海洋性デザインのタコの絵柄のアラバストロン型容器が出土している。安定感のあるアラバストロン型容器に本物のタコが張り付いているような非常にリアリスティックな表現である。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・小宮殿遺構・アラバストロン容器 Minoan Alabastron, Octopus, Knossos-Little Palace/©legend ej
クノッソス地区・小宮殿遺跡出土・アラバストロン型容器
海洋性デザイン=タコの絵柄/高さ180mm
後期ミノア文明LMIB・紀元前1500年~前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号2690
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

東部北海岸のエーゲ海の小島・モクロス遺跡・共同墓地 Mochlos を初め、グルーニア遺跡 Grournia やパライカストロ遺跡 Plaikastro など町遺跡からも、かなりの点数のテラコッタ製の雄牛頭型リュトン杯が出土している。

ミノア文明・モクロス遺跡 Mochlos Island/©legend ej
モクロス島/東西290m・頂点標高45m
共同墳墓=礼拝堂の左側・海岸~中斜面
ミノア時代=本島と陸続きの「小さな半島」
クレタ島・東部北海岸/1982年

ミノア文明・モクロス遺跡・「雄牛頭型」のリュトン杯 Bull-head Rhyton, Mochlos/©legend ej
モクロス遺跡・共同墓地出土・雄牛頭型リュトン杯
イラクリオン考古学博物館・登録番号6851
クレタ島・東部北海岸/描画:legend ej

ミノア文明・グルーニア遺跡 Minoan Town, Gournia/©legend ej
グルーニア遺跡・市街地・玉石舗装の通り
クレタ島・東部/1982年

ミノア文明・パライカストロ遺跡・雄牛頭型リュトン杯 Minoan Bull-head Rhyton, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・テラコッタ製の雄牛頭型リュトン杯
イラクリオン考古学博物館・登録番号4582
クレタ島・最東部/描画:legend ej

GPS モクロス遺跡・共同墓地: 35°11’12”N 25°54’23”E/標高5m~25m
GPS グルーニア遺跡: 35°06′34″N 25°47′34″E/標高40m
GPS パライカストロ遺跡: 35°11′42″N 26°16′32″E/標高10m~15m


聖なる雄牛の全身型リュトン杯

ミノア文明の雄牛の崇拝では、東部地方・北海岸のモクロス遺跡~西方4km、エーゲ海の沖合の島・プッシーラ居住地遺跡からは雄牛の全身型リュトン杯が見つかっている。
角部は欠損していたが、静止姿勢の威風堂々たる雄牛の肩~胴部全体が、魚の「うろこ」のような連鎖紋様で装飾された、祭祀要素の強いリュトン塑像である。

ミノア文明・モクロス遺跡&プッシーラ遺跡 Minoan Mochlos and Psiera Islands/Google Earth
エーゲ海・プッシーラ遺跡~モクロス遺跡 地図
クレタ島・東部北海岸
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入

ミノア文明・プッシーラ遺跡・雄牛型リュトン杯 Minoan Bull-shaped Rhyton, Psiera/©legend ej
プッシーラ遺跡出土・雄牛の全身型リュトン杯
雄牛の胴体=「うろこ」の紋様/角部欠損
紀元前1500年頃/長さ260mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号5413
クレタ島・東部/描画:legend ej

日本の「闘牛」
日本では愛媛県宇和島市や岩手県平庭高原、新潟県や島根県壱岐、さらに鹿児島県徳之島や沖縄などで開催されている、無形文化財指定の伝統ある牛の相撲・「闘牛 Bull-Sumo」がある。
エーゲ海・プッシーラ居住地遺跡からの雄牛リュトン杯の全身うろこ紋様は、宇和島闘牛の「勝利牛」の豪華な化粧回し&内掛けに共通した観がある。

愛媛県宇和島市・「闘牛」・勝利牛/宇和島観光闘牛協会
愛媛県宇和島市・「闘牛」
平成30年秋場所・横綱勝利牛《仁王》
写真情報:「宇和島観光闘牛協会」Web-site

雄牛の全身型リュトン杯では、フェストス宮殿遺跡から赤色斑点の「子牛」を形容した感じのテラコッタ製の雄牛リュトン杯が見つかっている。製作は後期ミノア文明LMIIIB期・紀元前1200年頃となる。「文明の最後」の時期になっても雄牛は人々の崇拝対象であったと考えられる。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・テラコッタ製・雄牛リュトン杯 Minoan Terracotta Bull Rhyton, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡出土・テラコッタ製の雄牛リュトン杯
視覚的には「子牛」に見える雄牛の像
後期ミノア文明LMIIIB期・紀元前1200年頃
イラクリオン考古学博物館/高さ35cm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej


ギリシア本土・「雄牛」の金製カップ

ミノア文明の雄牛のモチーフ表現では、ギリシア本土ミケーネ文明へも影響が及んでいる。ギリシア人考古学者 Ch. Tsuntas は、1889年、ギリシア本土ペロポネソス・ラコニア地方、スパルタ近郊のヴァフィオ村 Vaphio で発掘ミッションを実施した。

ミケーネ様式のトロス式墳墓 Mycenaean Tholos Tomb の発掘では、明らかにミノア文明の影響を受けた、あえて言えばクノッソス宮殿の金属工房で製作されたと確定できる、ミノア文明の象徴的なモチーフ・雄牛を表現した見事な金製カップが見つかった。

ミケーネ文明・ヴァフィオ遺跡・トロス式墳墓 Mycenaean Tholos Tomb, Vaphio/©legend ej
ヴァフィオ遺跡・ミケーネ様式トロス式墳墓
ミケーネ文明・後期ヘラディックLHIIA期
崩壊トロス部=直径10m(1982年)
ペロポネソス・ラコニア地方/描画:legend ej

トロス式墳墓の中心部の地中埋葬ピットから、対として二個見つかった金製カップの独特なハンドル形式とカップ形容は、その後、研究者から陶器や金属容器の器形モデル・「ヴァフィオ型カップ Vaphio Style Cup」と呼ばれ、広く考古学世界へ知られるようになる。

一つ目の金製カップの側面には暴れ狂う雄牛とロープで獲り抑えようとする、間違いなくミノアの若者を「動的」に、もう一つのカップには網で捕獲された雄牛の「静的」なシーンを精巧な打出し加工で表現している。

ミケーネ文明・ヴァフィオ遺跡・金製カップ Gold Vaphio Cup/©legend ej
ヴァフィオ遺跡出土・金製カップ
動的=激しく暴れ狂う雄牛/口縁径108mm
アテネ国立考古学博物館・登録番号1758
ペロポネソス・ラコニア地方/1982年

ミケーネ文明・ヴァフィオ遺跡・金製カップ Gold Vaphio Cup/©legend ej
ヴァフィオ遺跡出土・金製カップ
静的=網で捕えられた雄牛/口縁径108mm
アテネ国立考古学博物館・登録番号1759
ペロポネソス・ラコニア地方/1982年

二つの金製カップの製作は、ミノア文明が大繁栄した「新宮殿時代」の半ば、後期ミノア文明LMIB期、ギリシア本土ではミケーネ文明の初期、後期ヘラディックLHIIA期に相当する時期、紀元前1500年頃である。

金製カップの発見場所は、確かにクレタ島から近距離のギリシア本土ペロポネソス半島であるが、ミノア文明からの輸入の可能性はほとんど100%と言えるくらい強調できる。
カップのデザインとその表現内容からして、明らかにミノア文明の最盛期、「花ほとばしる新宮殿時代」の最高レベルの工芸作品であることを否定する理由が、私には見つからない。

GPS ヴァフィオ遺跡: 37°01’13”N 22°28’04”E/標高195m
GPS メネライオン遺跡: 37°03’58”N 22°27’15”E/標高280m

クレタ島クノッソス宮殿から献上された金製カップや青銅製の装飾短剣を副葬品として、直径約10mのトロス式墳墓に埋葬された偉大なる被葬者は、ほとんど間違いなく、ヴァフィオ遺跡~北方5km、スパルタ市内~南東2km、標高280mの丘に建つメネライオン宮殿に住んだ、ある時代の王と王妃、あるいは王子と妃であったであろう。

神話の英雄、伝説のスパルタ王メネラオスとその妻・絶世の美女ヘレンも、豊穣のラコニア平原を治めたメネライオンの宮殿に居住していたとされる。そして、王メネラオスと妻ヘレンの二人は、先史のエーゲ海を揺るがす「トロイ戦争 Trojan War トロイア戦争」の”主演者”でもある。

エーゲ海域・主要遺跡 地図 Map of Major Archaeological Sites, Aegean Sea/©legend ej
エーゲ海域・主要遺跡 地図
作図:legend ej

ヴァフィオ遺跡・トロス式墳墓の「被葬者」は誰なのか?
内径10m、ミケーネ様式の大型トロス式墳墓に埋葬された二人の被葬者は、ほとんど間違いなく、ヴァフィオ遺跡~北方5km、スパルタ市街地~南東2km、エウロタス川 Eurotas の東側、標高280mの丘に建つスパルタ王国・メネライオン宮殿 Sparta-Menelaion Palace に住んだ、ある時代の王と王妃、あるいは王子と妃であったであろう。

何故ならば、ミノア文明・クノッソス宮殿から献上された二個の見事な金製カップを初め、青銅製の装飾短剣、さらに流れるような帯スペースに微細な紋様をびっしりと描写した、非常に美しい宮殿様式の大型アンフォラ型容器など、出土した目を見張る後期ヘラディックLHIIA期、紀元前1500年前後の副葬品からも被葬者の尊貴が容易に連想できる。
ミケーネ時代、その存在を誇示しパワーを限りなく発揮した、メネライオン宮殿のスパルタ王国は東地中海域にその名が知られていた。

メネライオン宮殿&神域の発掘ミッションは、1833年の考古学者 Lidwign Ross に始まり、その後、1889年に、さらに20世紀になり1909年~約50年間、イギリス考古学チーム(アテネ)により実施されて来た。
訪ねた1982年では、スパルタ市内にわずかに残された古代ギリシア・スパルタ遺跡と同様に、ミケーネ文明~幾何学紋様時代まで居住されたメネライオン宮殿&神域サイトは、全体的には崩壊遺構がほとんど、クノッソス宮殿遺跡のような明瞭な遺構が予想外に少ない遺跡、と感じた。

「トロイ戦争」とは
「トロイ戦争」とは、3,200年の昔、紀元前13世紀~前12世紀、現在のトルコ西海岸地方で繁栄した都市国家イリオス(トロイ遺跡)を治める老齢となった有能な王プリアモスの時代、イリオスとエーゲ海を隔てた宿命のライバルであったミケーネ・ギリシア(アカイア)連合軍との戦いを言う。
長編叙事詩《イリアス Iliad》によれば、ギリシア・スパルタでは、神話の英雄であり伝説のスパルタ王メネラオスの妻に、少女の頃からギリシア中の若者に求婚され続けたという「絶世の美女ヘレン/ギリシア語=ヘレネー」が居た。
ヘレンの父は全能の神ゼウス、母は美しいレダ(レーダー)という言わば名門家系の娘である。そのヘレンの美貌はエーゲ海の歴史を揺るがす「国際紛争」を巻き起こす。それが世に言う「トロイ戦争」である。

・・・イリオス王国トロイの王プリアモスの息子、イケメンのハンサム王子パリス(幼少時=アレキサンドロス)は、和平を図る外交使節としてスパルタへ派遣され、人妻ヘレンと会い一目惚れして「禁断の恋」への扉を開けてしまう。
そうして彼女の美しさに魅了され、ウキウキ・メロメロとなった王子パリスは、有ろうことか美しき人妻を誘惑、ヘレンの一人娘ヘルミオーネをスパルタに残したまま、金銀財宝を積み込んだ舟でヘレンを本国イリオスへ連れ去ってしまう。

世界遺産/トロイ遺跡・西入口傾斜路 Troy, Turkey/©legend ej
世界遺産/トロイ遺跡・西入口傾斜路&スカイアイ門
シュリーマン発掘のイリオス王国の遺構
トロイの木馬は西入口~城内へ運び込まれた
トルコ・西沿岸地方/2004年

偶然にも母アエロペの父・クレタ王カトレウス(王メネラオスの祖父)の葬儀でたまたま不在中に起こった「妻を奪われる」という侮辱的なこのスキャンダルが、エーゲ海に大波乱の歴史を刻むことになる。
当然の事、王メネラオスは激怒、「美人妻ヘレンの奪回」を大義名分に掲げ、兄であるミケーネ宮殿の王アガメムノンを総司令官としたミケーネ・ギリシア連合軍は、王国イリオスへの攻撃を仕掛け、激烈な「トロイ戦争」へ突入して行く。

戦いは一進一退で10年の長きに及び、最終的には王メネラオスの兄のミケーネ王アガメムノンを初め、ペロポネソス地方ピーロス・ネストル宮殿の古老ネストル将軍を含むミケーネ・ギリシア軍は、総勢10万名の士官兵士、1,200艘に迫る舟を動員、イリオス王国へ総攻撃をかけた。
先ず老齢なイリオス王プリアモスに代わり、指揮を執る強き息子ヘクトールがギリシアの武将パトロクロスを討つ。盟友パトロクロスを失ったことを知り、50艘を率いたギリシアの若き勇者アキレウスが怒り心頭、その復讐としてヘクトールを殺し遺骸を戦車で引きずり回す。
続いてネストル将軍の息子アンティロコスが、イリオス軍に加勢したエチオピア王メムノーンに殺害され、怒りのアキレウスがメムノーンも討つ。
しかし、人妻ヘレンを誘拐したイケメン王子パリスは、兄ヘクトールを殺され激憤、パリスの放った矢が勇者アキレスの弱点である「アキレス腱」を射抜き、アキレスは合えなく命を落とす。

一方、戦局は大きく動き、オデュッセウスの発案と言われる巨大なスカイアイ門から運び込む、複数の兵士を忍ばせた有名な《トロイの木馬》の策略により、とうとうギリシア軍は繁栄のプリアモス王の都市国家イリオスを陥落させてしまう。「木馬」に隠れて功績を挙げた戦士の中に遠くクレタ島から遠征してきたミノア王イドメネウスもいた・・・

《イリアス》は神話と史実の国際政治とが複雑に融合した壮大な叙事詩である。当時アナトリア西海岸の古ギリシア語で「イリオス」と呼ばれ、エーゲ海域に勢力を誇っていたトロイは、この戦いで負け、繁栄の街には激しい大火災が起こり、凄惨な殺戮が行われた。
それ以降、王国・「イリオス」の名はギリシア世界の神話から消え去り、「トロイ戦争」は歴史と人々の記憶からも徐々に遠ざかって行くのである。

GPS 世界遺産/トロイ遺跡: 39°57′26″N 26°14′19″E/標高35m


「業務用階段」付近・「デーモン印章の区画」

「デーモン印章の区画」の構造
 
吹抜け構造の列柱の間の南側、王妃の間付属の王妃のバスルームの北側、かつて上階へ連絡する木製の折返し階段が存在した。列柱の間側が西方へ上る階段で、中間踊り場で左ターンして東方(上階・二階)へ上がる構造であった。当然、構造的に階段の下部には三角形のスペースが存在した。
エヴァンズが「業務用階段 Service Staircase」と呼んだ階段周辺からは、象牙製品を初めクノッソス宮殿の宝物品にも相当する貴重な出土品がもたらされた。特に少なくとも五点を数えるライオン頭の人間似の「怪獣 or 精霊」の粘土印影の出土から、エヴァンズはこの階段周辺を「デーモン印章の区画 Daemon Seal Area」と名称した。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「王家の生活区画」南西セクション・プラン図 Plan of Southwest section, Royal Apartment, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部
「王家の生活区画」一階・南西セクション・アウトラインプラン図
・列柱の間~両刃斧の間~宝庫~王妃の間コンプレックス
・排水路システム&「デーモン印章の区画」&竪坑堆積層
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

「デーモン印章の区画」からの出土品・複数の粘土印影

区画の名称となった木製の業務用階段付近では、厚さ70cmの崩壊堆積層の中から、象牙製《雄牛跳びをする人》など色々な物品が出土したとされ、エヴァンズは階段の下部スペースを利用して、宝物品や貴重品を収める木製の収納棚複数の木箱が置かれていた、と想定している。

この区画からは18点を数える粘土印影が見つかり、そのうち直径18mmの軟質石材の円形印章で押されたと推定できる、同じ粘土印影が少なくとも五点見つかっている。ワニの背中を覆う背鱗板のような怪獣とライオン頭で人間似の怪獣、そして人の脚部が二本、というややグロテスクな「怪獣 or 精霊」の印影である。

限られたスポットから同じ粘土印影が複数出土したという意味は、クノッソス宮殿が最終崩壊する以前に、このグロテスク印章を持つ特定の担当者が、宝物品や貴重品を収納した複数の箱などを封印したことを暗示させる。
そうならば、後期ミノア文明LMIIIA1期・紀元前1375年頃、宮殿崩壊の直前~数か月程度前、同じ石製印章を使い、収納箱は次々に粘土封印されたものと判断できるであろう。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・粘土印影「デーモン印章」 Minoan Daemon-Clay Seal Impression, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・粘土印影
「デーモン印影」=二頭の怪獣・精霊&人の脚部二本
後期ミノア文明LMIIIA1期・紀元前1375年頃
印章=軟質石材(ステアタイト?)円形・直径18mm
後期ミノア文明LMII期・紀元前1400年頃
Ashmolean Museum (UK) 登録番号AN1938-1046
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

同じ場所から出土した別な粘土印影では、厳めしい顔付きの二頭のライオンが台座に前脚を置き、身体は向い合ってはいるが、顔は各々後方を向く姿が刻まれている。
印面の中央上部にロゼッタ紋様が表現されているので、やや高い格式の印章で押されたと推測できる。粘土印影であり、「デーモン印影」と同様に何か大切な物品を収納した木箱の封印の証と考えられる。印影はクノッソス宮殿の最終崩壊時・紀元前1375年頃であるが、印章の製作は後期ミノア文明LMII期・紀元前1400年頃とされる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・粘土印影「向い合うライオン」 Minoan Lion-Clay Seal Impression, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・粘土印影
印影=台座に前脚・後方を見る二頭のライオン
後期ミノア文明LMIIIA1期・紀元前1375年頃
印章=後期ミノア文明LMII期・紀元前1400年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号1346/直径18.5mm
参考情報:CMS, Heidelberg U. (DE)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

さらに直径15mmの円形の石製印章で押されたと推測できる粘土印影では、台に座った姿勢の女神 or ミノア女性が、欠損しているので明瞭ではないが、「S字カーブ」のハンドル付きアンフォラ型容器を抱える仕草なのか、そして右側には植物か小さな木を刻んだ表現である。
この印影に関してエヴァンズは、台に座った女神はやや小型の水入れを持ち、中央のハンドル付きアンフォラ型容器へ「何か」を注いているシーンであり、しかも印影が不完全としながらも、女神と植物の間の狭いスペース、アンフォラ型容器の下方には小さな「聖なる両刃斧」が刻まれていた、と推測している。
1901年のエヴァンズの発掘作業で見つかったこの粘土印影は、「怪獣・精霊」や「二頭ライオン」の印章を持つ担当者とは異なる別の係りの人が、業務階段付近で何か木箱などの封印を行った、と考えて良いだろう。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・粘土印影「女神・アンフォラ容器」 Minoan Goddess-Clay Seal Impression, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・粘土印影
印影=台に座る女神・アンフォラ型容器・植物
後期ミノア文明LMIIIA1期・紀元前1375年頃
印章=軟質石材(滑石?)横15mm・縦15mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号661
参考情報:CMS, Heidelberg U. (DE)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


「デーモン印章の区画」からの出土品・象牙製《スフィンクス像》

《雄牛跳びをする人》が見つかったのと同じ業務用階段の堆積層からは、象牙製《スフィンクス像》の部位も見つかっている。スフィンクスの頭部の羽根飾りと思われる部位は右回転で大きく渦巻き、翼部・羽根の付け根付近にはやはり渦巻き線の連鎖刻みが確認できる。
シリアなど中東地域から輸入された象牙材は、金・銀・銅、水晶・ラピスラズリなどと並び貴重な宝飾素材であり、クノッソス宮殿の工房で加工された《雄牛跳びをする人》と共にこの《スフィンクス像》も、王の居室コンプレックスに隣接するスポットから出土している点からしても、宮殿の宝物品に相当する重要な品物であったことを疑う余地はない。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・象牙製「スフィンクス」 Minoan Ivory Sphinx, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・象牙製《スフィンクス像》
座るスフィンクスの頭部羽根飾り&翼部分
イラクリオン考古学博物館・登録番号17
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


「デーモン印章の区画」からの出土品・色々な宝飾品&装飾部材

木製の業務用階段の周辺、「デーモン印章の区画」からの特徴あるほかの出土品では、タコの絵柄の鐙型注ぎ口付き容器を初め、青銅の薄板を折り曲げた「ライオン」のイメージの装飾用の部材、日本の「まが玉」に似た形状の焼けた木製加工品、一部に金表装が残る青銅製のミニ両刃斧なども出土している。
これらは通常の貯蔵庫などで保管する物品ではなく、宮殿崩壊時に上階から崩落した可能性も否定できないが、いずれも宝飾品や装飾箱の部材と考えられ、加工前の部品のような感じがする。


東翼部一階・貯蔵庫(or 宝庫)

貯蔵庫(or 宝庫)の位置&出土品

石膏石舗装の「直角曲がりの通路」が、円柱の林立する列柱の間~水洗トイレがある王妃の化粧室を結んでいる。業務用階段の南側、通路に入口を設けた小部屋が東翼部一階の貯蔵庫(or 宝庫)となる。
入口の直ぐ目の前が、多数の宝物品が出土した「デーモン印章の区画」という位置関係からして、この小部屋は単純な貯蔵庫ではなく、間違いなく「宝庫」に準ずる貴重品を収納した重要な部屋であった。しかも、この部屋の上階部分は東翼部二階の「宝庫」であり、エヴァンズの発掘では上階から崩落した可能性の宝飾品を含め、極めて上質な物品が見つかっている。

主要な出土品では、全体の1/6ほどの破断片だが、推定外径95mmの水晶(クリスタル)製のボウル容器と、全体の1/4程の出土だが水晶製の容器の蓋がある。水晶製ボウルの肉厚では、容器側面で5.5mm、底面で6.5mmに加工されていた。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・水晶製のボウル Minoan Crystal Bowl, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・水晶製のボウル
推定外観=外径95mm・側面厚さ5.5mm・底面厚さ6.5mm
参考情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.III(1930年)
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

さらに貯蔵庫(or 宝庫)からは、貝が開いた「8の字形」が二か所、そして三つの「聖なる結び目 Sacral Knot」が刻まれた、横20mm・縦11mmの楕円形(オーバル形)の金製?印章で押された、やや祭祀的な粘土印影も複数出土している。
そのほか、ロゼッタ紋様を刻んだ上品な石製印章で押されたと推測できる、デザイン性が素晴らしい粘土印影も見つかっている。

何れもこの部屋が重要な物品を木箱などへ収納、管理担当者が自分の印章で粘土封印、保管を主たる役目とする「宝庫」であった事実を連想させるに十分な出土品である。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・粘土印影「聖なる結び目」Minoan Sacral-knot Clay Seal Impression, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・粘土印影
印影=開いた貝の「8の字形」&「聖なる結び目」
後期ミノア文明LMIIIA1期・紀元前1375年頃
印章=楕円形・金製リング? 横20mm・縦11mm
後期ミノア文明LMI期・紀元前1500年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号664
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・東宝庫・粘土印影「ロゼッタ」 Minoan Rosette Seal Impression, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・粘土印影
印影=三か所のロゼッタ紋様&雲?
後期ミノア文明LMIIIA1期・紀元前1375年頃
印章=石製・円形・直径12mm
中期ミノア文明MMIII期~後期LMI期・紀元前1550年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号342
参考情報:CMS, Heidelberg U. (DE)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

私が初めてクノッソス宮殿遺跡を訪ねた1982年では、丁度、東隣の王妃のバスルームと同じ広さの東翼部一階の貯蔵庫(or 宝庫)は立入自由で公開されていたが、石膏石舗装の何もない地下の隠し部屋のような、しかも照明設備もない暗い部屋であった。ミノア時代、外からの光が期待できないこの部屋内では、間違いなくオリーブ油のランプが使われていたはずである。

ミノア文明・ザフェール・パポウラ遺跡・青銅製のランプ Minoan Bronze Lamp, Zafer Papoura/©legend ej
ザフェール・パポウラ遺跡出土・青銅製のランプ
ユニークな形容/チェーン=「炎芯」の重り?
口縁部=直径19cm・魚のうろこ紋様の刻印
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


東翼部一階・「王家の生活区画」・南西セクション(堆積層)

二階にも水洗トイレ&バスルームが「存在」したか?

「王家の生活区画」の南西セクション、王妃の間からバスルームの南側の舗装通路を西方へ向かうと、行く手を塞ぐような分厚い壁面となる。壁面部を右折すると水洗トイレのある王妃の化粧室である。化粧室の石膏石ベンチの南壁面の内部は、存在したと想定できる上階(二階)の水洗トイレとバスルームからの排水を流す竪坑となっていた。

中央中庭側が「竪坑A」、王妃の間側が「竪坑B」と呼ばれ、エヴァンズの発掘ではこの二つの排水竪坑の堆積層から宝飾品に相当する重要な出土品がもたらされた。
排水竪坑に宝飾品が置かれていたとは考えられず、紀元前1375年頃、クノッソス宮殿が大火災により最終崩壊する時、上階の上質な部屋に置かれていた宝飾品の一部が瓦礫と共に二つの竪坑内へ崩落したものと断定された。

さらに列柱の間の採光吹抜けと水洗トイレからの排水路と、竪坑A&Bからの排水路の合流ポイントの少し南側、排水路システムが東方へ向きを変更するスポット、エヴァンズのいう「排水路堆積層C」付近からもかなりの出土品が見つかっている。堆積層Cポイントの北側に配置された舗装通路の上階は、東翼部二階の「宝庫」であった。

エヴァンズの想定では、二階の床面レベルから王妃の間の舗装通路などの一階床面までは約3.7mの高さがあり、一方、竪坑Aと竪坑Bは二階レベルから約4mの高さ(深さ)、排水路が東方へ少しずつ傾斜していることから、堆積層Cポイントの底面レベルは二階レベルから約5m低かった、と計測された。

堆積層からの出土品・石製スフィンクス像

竪坑堆積層Aと堆積層B、そして堆積層Cからの最も重要な出土品では、黒色系の滑石・ステアタイト製のスフィンクスの頭部(髪)の装飾品であろう。高さ約230mm、顔を囲むような形容の髪型である。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・石製スフィンクス像(髪部分)Minoan Stone Sphinx's head, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・石製スフィンクス像
滑石・ステアタイト製スフィンクスの髪部分
イラクリオン考古学博物館/高さ約230mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


堆積層からの出土品・「文字刻み」の骨製の小片

南西セクション・堆積層からは動物の骨製の小片が多数見つかっている。エヴァンズは「魚形」としているが、もしかしたら木の葉からヒントを得て薄い骨を縦約40mm・横約19mmの「葉の形」に削り、各々に「文字」&「数値」を刻んだような感じがする。
エヴァンズの解析では、「文字」は合計25種あり、全体的には単純な刻みのようだが、幾らかは現代のギリシア語の「アルファベッド」に近似するものもあり、一方、「数値」では「1」~「2」・・・「10」などを判別できる。

エヴァンズの想定では、堆積層の上階(二階)には、中央中庭側から王家の家族用の二つのベッドルーム、または子供用の部屋が南向きで東西に並んで配置されていた。
出土した骨製の小片が、私の仮定だが、アルファベッド&発音と文字の並び替えで単語を作り、数値を練習するための子供用の「教育玩具」であったなら、幼い時期の王子や王女の教育は、宮殿の教育担当者の指導の下、上階の子供部屋で行われていた可能性がある。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・骨製の小片・文字&数値 Minoan small Bone Piece with letter and number, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・骨製の小片
形状=「木の葉」縦約40mm・横約19mm
表意=アルファベッド文字?&数値?
・右上=「数値 1~2~3・・・10」
・右下=解析された25種の「文字」
参考情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.III(1930年)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 関連ポストは「12部構成」となっています。
1. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace I 概要
2. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace II 西中庭~南翼部
3. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace III 中央中庭・王座の間
4. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IV 聖域・宝庫
5. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace V 貯蔵庫
6. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VI 女神パリジェンヌ
7. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VII 王の居室・聖所
8. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VIII 王妃の間
9. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IX 雄牛跳び(当ポスト)
10. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace X 北~東翼部
11. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 周辺の先史遺跡
12. ミノア文明・クノッソス宮殿 崩壊の原因は?

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