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アルカネスの町
アルカネスの位置
クノッソス宮殿遺跡~南方7km、人口約5,000人、現在のアルカネス Archanes の市街は、かつてミノア文明の重要な居住地、交通の要衝であった先史アルカネスと同じ位置に広がっている。アルカネスはクレタ島で最も古い街の一つ、市街は4,000年以上の歴史を刻んでいる。
クノッソス宮殿遺跡~南方7km、人口約5,000人、現在のアルカネス Archanes の市街は、かつてミノア文明の重要な居住地、交通の要衝であった先史アルカネスと同じ位置に広がっている。アルカネスはクレタ島で最も古い街の一つ、市街は4,000年以上の歴史を刻んでいる。
位置 クレタ島・クノッソス宮殿遺跡~南方7km
4,000年の歴史あるアルカネス市街
中央・朱色屋根の建物=町役場
丘陵地=オリーブ&ブドウ栽培
クレタ島・中央北部/1994年
中央・朱色屋根の建物=町役場
丘陵地=オリーブ&ブドウ栽培
クレタ島・中央北部/1994年
クレタ島・中央北部・ミノア文明・遺跡 地図
作図:legend ej
作図:legend ej
クノッソス宮殿遺跡~アルカネス遺跡周辺 地図
クレタ島・中央北部/作図:legend ej
クレタ島・中央北部/作図:legend ej
現在のアルカネスはミノア時代からの伝統を引き継いだ農産物、オリーブ栽培を初めブドウ栽培&ワイン醸造、ピスタチオナッツの生産地としても知られている。
アルカネスの市街地~南南西3km、ミノア文明・ヴァシイペトロン遺跡 Vathypetron には、ミノア・ワインの醸造に使われたブドウ搾りプレス装置が残されている。また、アルカネス市街~少し東方のペーザ地区 Peza では、丘陵地を活かしたブドウ耕作地が広がり、現代のクレタ・ワインの醸造所が13か所稼働している。
アルカネスの市街地~南南西3km、ミノア文明・ヴァシイペトロン遺跡 Vathypetron には、ミノア・ワインの醸造に使われたブドウ搾りプレス装置が残されている。また、アルカネス市街~少し東方のペーザ地区 Peza では、丘陵地を活かしたブドウ耕作地が広がり、現代のクレタ・ワインの醸造所が13か所稼働している。
クレタ島・オリーブ栽培
クレタ島・ピスタチオナッツ栽培
クレタ島・ワイン用ブドウ栽培
ヴァシイペトロン遺跡出土・ワイン用ブドウ搾りプレス装置
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
クレタ島・中央北部/1982年
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
クレタ島・中央北部/1982年
GPS ヴァシイペトロン遺跡: 35°12′35″N 25°09′03″E/標高510m
クレタ島ミノア文明&ギリシア本土ミケーネ文明 編年表
・ミノア文明・「旧宮殿時代」: 紀元前1900年~前1625年
・ミノア文明・「新宮殿時代」: 紀元前1625年~前1375年
・ミケーネ文明(時代): 後期ヘラディック文明 LH期
作図:legend ej
・ミノア文明・「旧宮殿時代」: 紀元前1900年~前1625年
・ミノア文明・「新宮殿時代」: 紀元前1625年~前1375年
・ミケーネ文明(時代): 後期ヘラディック文明 LH期
作図:legend ej
アルカネス遺跡・市街地の発掘
ミノア文明・「準宮殿」の遺構
1922年、クノッソス宮殿遺跡の発掘者サー・アーサー・エヴァンズ Sir Arthur John Evans は、アルカネスの重要性を提唱、市街地のほぼ中心地区 Tourkoyeitonia で建物遺構と円形の水溜施設を確認した。
住宅が建て込んだ市街地に残る南北60m・東西45mの限定発掘エリアで確認されたこの建物遺構は、1964年、考古学者 Yannis Sakellarakis の再調査でミノア文明の「準宮殿」に相当する大規模な建物遺構であることが判明した。間違いなく、先史ミノア時代のアルカネスは、この準宮殿を中心にして現在の市街地に相当する範囲に居住地が広がっていたと推測できる。
その後、1966年~1972年、準宮殿の遺構では Yannis Sakellarakis と彼の妻 Efi Sakellarakis &ギリシア考古学チームにより、本格的な発掘ミッションが実施された。壁面は切石積み、床面が石膏表装やタイル施工、あるいは青色大理石の仕様の広間を初め、彫刻が施された四基の祭壇、プラットフォーム状の遺構、長い排水路システムなどが確認されている。
また、エヴァンズが発掘した水溜施設は、底部に小石が敷かれ、壁面が石灰岩仕様の大型円形の水利施設であった。これは「旧宮殿時代」の中期ミノア文明MMIB期・紀元前1900年~MMIIIA期・紀元前1600年の間に建造され、「新宮殿時代」の後期ミノア文明LMI期・紀元前1500年頃に放棄されたが、その後、修復が行われ色々な用途で活用された、と判断されている。
1922年、クノッソス宮殿遺跡の発掘者サー・アーサー・エヴァンズ Sir Arthur John Evans は、アルカネスの重要性を提唱、市街地のほぼ中心地区 Tourkoyeitonia で建物遺構と円形の水溜施設を確認した。
住宅が建て込んだ市街地に残る南北60m・東西45mの限定発掘エリアで確認されたこの建物遺構は、1964年、考古学者 Yannis Sakellarakis の再調査でミノア文明の「準宮殿」に相当する大規模な建物遺構であることが判明した。間違いなく、先史ミノア時代のアルカネスは、この準宮殿を中心にして現在の市街地に相当する範囲に居住地が広がっていたと推測できる。
その後、1966年~1972年、準宮殿の遺構では Yannis Sakellarakis と彼の妻 Efi Sakellarakis &ギリシア考古学チームにより、本格的な発掘ミッションが実施された。壁面は切石積み、床面が石膏表装やタイル施工、あるいは青色大理石の仕様の広間を初め、彫刻が施された四基の祭壇、プラットフォーム状の遺構、長い排水路システムなどが確認されている。
また、エヴァンズが発掘した水溜施設は、底部に小石が敷かれ、壁面が石灰岩仕様の大型円形の水利施設であった。これは「旧宮殿時代」の中期ミノア文明MMIB期・紀元前1900年~MMIIIA期・紀元前1600年の間に建造され、「新宮殿時代」の後期ミノア文明LMI期・紀元前1500年頃に放棄されたが、その後、修復が行われ色々な用途で活用された、と判断されている。
アルカネス市街地・ミノア文明遺跡群
クレタ島・中央北部
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入
クレタ島・中央北部
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入
準宮殿の遺構からの出土品では、多くの陶器を初め、複数の石製ランプ、大型アンフォラ型容器、さらに青銅製の調理用品やピンセットなど日用品も見つかっている。
なお、準宮殿の遺構はアルカネス市街地のど真ん中、崩壊の危険性や整備の遅れなどが理由と思うが、現在、サイト全体が「非公開」の遺跡となっている。
なお、準宮殿の遺構はアルカネス市街地のど真ん中、崩壊の危険性や整備の遅れなどが理由と思うが、現在、サイト全体が「非公開」の遺跡となっている。
GPS アルカネス遺跡・準宮殿遺構: 35°14′11″N 25°09′35.50″E/標高385m
町役場~南方250m付近 市街地区
町役場~南方250m付近 市街地区
「Archive 区域」
1972年には、準宮殿遺構~南西方向の「Archive」と呼ばれる「新宮殿時代」の前半、中期ミノア文明MMIII期・紀元前1600年~後期ミノア文明LMIA期・紀元前1500年頃の遺構の発掘を行った Miss Angeheliki Lembesi は、建築学的に極め貴重なミノア文明のテラコッタ製の「家の模型」を発見した。
現在は遺構はほとんど確認できないが、この発掘区域からは複数の線文字Aスクリプトの刻み、未加工の水晶・黒曜石・滑石(ステアタイト)など石材が出土したことから、この場所は「工房」か貴重品の「貯蔵庫」であった可能性がある。
家の模型はおそらく祭祀的な用途として作られたと考えられるが、ミノア時代の比較的上質な建物と部屋の内部が再現されている。模型なので建物内部の詳細は分からないが、外壁では厚さのある切石材が多用され、一部では梁材に木材だけでなく石材も使われている。一階の部屋の窓はやや小さいが、隣の部屋は採光用の天空に開放された中庭がある。
円柱と角柱が取り囲む主部屋は二階にあり、同じフロアーにはバルコニーが二か所設けられ、一方のバルコニーは手すりのみの無装飾タイプ、反対側は椅子なのか「階段」のような仕様で高い壁面を持つバルコニーである。この建築はクノッソス宮殿などで多々見ることのできるミノア宮殿様式の仕様に近似する立派な構造である。
1972年には、準宮殿遺構~南西方向の「Archive」と呼ばれる「新宮殿時代」の前半、中期ミノア文明MMIII期・紀元前1600年~後期ミノア文明LMIA期・紀元前1500年頃の遺構の発掘を行った Miss Angeheliki Lembesi は、建築学的に極め貴重なミノア文明のテラコッタ製の「家の模型」を発見した。
現在は遺構はほとんど確認できないが、この発掘区域からは複数の線文字Aスクリプトの刻み、未加工の水晶・黒曜石・滑石(ステアタイト)など石材が出土したことから、この場所は「工房」か貴重品の「貯蔵庫」であった可能性がある。
家の模型はおそらく祭祀的な用途として作られたと考えられるが、ミノア時代の比較的上質な建物と部屋の内部が再現されている。模型なので建物内部の詳細は分からないが、外壁では厚さのある切石材が多用され、一部では梁材に木材だけでなく石材も使われている。一階の部屋の窓はやや小さいが、隣の部屋は採光用の天空に開放された中庭がある。
円柱と角柱が取り囲む主部屋は二階にあり、同じフロアーにはバルコニーが二か所設けられ、一方のバルコニーは手すりのみの無装飾タイプ、反対側は椅子なのか「階段」のような仕様で高い壁面を持つバルコニーである。この建築はクノッソス宮殿などで多々見ることのできるミノア宮殿様式の仕様に近似する立派な構造である。
アルカネス遺跡出土・テラコッタ製の建物模型
中期ミノア文明MMIIIB期・紀元前1600年頃
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/1994年
中期ミノア文明MMIIIB期・紀元前1600年頃
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/1994年
「舗装(劇場)区域」
準宮殿遺構~南南東約130m、現在のアルカネスの人々の信仰の中心、聖ニコラオス教会堂 Agios Nikolaos が建っている。教会堂の南脇の発掘では、舗装された遺構が見つかり、二か所の階段状の祭壇が確認された。
準宮殿遺構~南南東約130m、現在のアルカネスの人々の信仰の中心、聖ニコラオス教会堂 Agios Nikolaos が建っている。教会堂の南脇の発掘では、舗装された遺構が見つかり、二か所の階段状の祭壇が確認された。
GPS アルカネス遺跡・舗装(劇場)区域: 35°14′06.80″N 25°09′36.70″E/標高395m
「Troullos 地区」の邸宅遺構
準宮殿の遺構~南東260m付近、市街地のやや南東寄り、地元で「ツルーロス Troullos」と呼ばれる地区では、1956年、ギリシア人考古学者マリナトス教授 S.N. Marinatos とオランダ考古学チームによる発掘ミッションが実施され、(現在は荒地のようになっている)長い壁面と邸宅クラスの建物遺構が確認されている。
特に重要な出土品では、線文字Aスクリプトが刻まれた白大理石製のスプーン型容器が見つかっている。線文字Aはミノア文明の文字であり、クレタ島内の遺跡からの出土例も少なく、現在、未解読の先史文字となっている。
準宮殿の遺構~南東260m付近、市街地のやや南東寄り、地元で「ツルーロス Troullos」と呼ばれる地区では、1956年、ギリシア人考古学者マリナトス教授 S.N. Marinatos とオランダ考古学チームによる発掘ミッションが実施され、(現在は荒地のようになっている)長い壁面と邸宅クラスの建物遺構が確認されている。
特に重要な出土品では、線文字Aスクリプトが刻まれた白大理石製のスプーン型容器が見つかっている。線文字Aはミノア文明の文字であり、クレタ島内の遺跡からの出土例も少なく、現在、未解読の先史文字となっている。
アルカネス遺跡出土・白大理石製のスプーン型容器
口縁部=線文字Aスクリプトの刻み/長さ90mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号1545
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
口縁部=線文字Aスクリプトの刻み/長さ90mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号1545
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
なお、ツルーロス邸宅遺構からと同じタイプの石製容器(長さ103mm)が、クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画の邸宅からも出土している。そのほか、アルカネス市街の西側の岩尾根・ミノア文明の聖地であったユクタス山頂聖所からは、線文字Aスクリプトがわずか「3文字」だけ刻まれた大理石製の同種の容器が、さらにクノッソス宮殿遺跡・東翼部の一階レベルの、エヴァンズの言う「機織り重りの階下」からは、奉納用とされるテラコッタ製の同種のスプーン型容器が見つかっている。
GPS アルカネス遺跡・Troulos邸宅遺構: 35°14′05″N 25°09′43.50″E/標高415m
カイラトス川の源流域・クノッソス宮殿の「水源地」
アルカネスはクノッソス宮殿遺跡の東脇をエーゲ海へ下るカイラトス川 Kairatos の源流・水源地であり、先史ミノア時代以降~古代ローマ時代~中世ヴェネツィア時代を含め、クノッソスの街 ko-no-so とイラクリオン市街地への飲料水の供給に重要な役目を果たしていた。
また、クノッソス宮殿遺跡周辺の水利関連では、宮殿・王家の墳墓 Temple Tomb~南方1km付近、地方道路(Knossos~メッサラ平野Karakas)が急カーブするポイントの南側、カイラトス渓谷に架かる聖イリーニ水道橋 Agia Irini Aqueduct が残されている。
長さ約100m、現在見ることのできるクレタ島最大級の水道橋だが、橋自体は1830年~40年のエジプト統治時代に建造された石造の大型建造物である。なお、水道橋の上流200m、カイラトス渓谷右岸の崖部には小さな聖イリーニ教会堂が建っている。
アルカネスはクノッソス宮殿遺跡の東脇をエーゲ海へ下るカイラトス川 Kairatos の源流・水源地であり、先史ミノア時代以降~古代ローマ時代~中世ヴェネツィア時代を含め、クノッソスの街 ko-no-so とイラクリオン市街地への飲料水の供給に重要な役目を果たしていた。
また、クノッソス宮殿遺跡周辺の水利関連では、宮殿・王家の墳墓 Temple Tomb~南方1km付近、地方道路(Knossos~メッサラ平野Karakas)が急カーブするポイントの南側、カイラトス渓谷に架かる聖イリーニ水道橋 Agia Irini Aqueduct が残されている。
長さ約100m、現在見ることのできるクレタ島最大級の水道橋だが、橋自体は1830年~40年のエジプト統治時代に建造された石造の大型建造物である。なお、水道橋の上流200m、カイラトス渓谷右岸の崖部には小さな聖イリーニ教会堂が建っている。
クノッソス宮殿遺跡近郊・聖イリーニ水道橋
19世紀・エジプト統治時代の建造・島内最大級
クレタ島・中央北部
19世紀・エジプト統治時代の建造・島内最大級
クレタ島・中央北部
ミノア文明では、最大センターであったクノッソス宮殿と街 ko-no-so の飲料水を含めた給水面では、カイラトス川とその支流、宮殿区域の南側を流れるヴィリチアス川が重要な供給源であった。源流地アルカネスとカイラトス川上流域では、カリダキ Karydaki やシラモス Sylamos など複数の水源が整備された。
古代ローマ時代になると、イラクリオンでの水不足を解消するため、アルカネス~北東3.5km付近、尾根を越えたファンダーナ水源 Fundana からの水をカイラトス川水系へ導水するために、スカラーニ村 Skalani の南側では東西1,150mの長い地下トンネル(現存遺構)を掘削、水は聖イリーニ水道橋の東方支流で合流させる大工事が行われた。
中世ヴェネツィア時代では、現存する聖イリーニ水道橋付近に石造水道橋が建造された。その後、19世紀のエジプト統治時代に現在残る水道橋の建造とイラクリオンへ連絡する大規模な水路が整備された。
聖イリーニ水道橋とほぼ同じ規模、クノッソス宮殿遺跡~南西1km、ジプサデスの丘の西側、ヴィリチアス川に架かる長さ100mのモロシーニ水道橋 Moroshini Aqueduct も残されている。
古代ローマ時代になると、イラクリオンでの水不足を解消するため、アルカネス~北東3.5km付近、尾根を越えたファンダーナ水源 Fundana からの水をカイラトス川水系へ導水するために、スカラーニ村 Skalani の南側では東西1,150mの長い地下トンネル(現存遺構)を掘削、水は聖イリーニ水道橋の東方支流で合流させる大工事が行われた。
中世ヴェネツィア時代では、現存する聖イリーニ水道橋付近に石造水道橋が建造された。その後、19世紀のエジプト統治時代に現在残る水道橋の建造とイラクリオンへ連絡する大規模な水路が整備された。
聖イリーニ水道橋とほぼ同じ規模、クノッソス宮殿遺跡~南西1km、ジプサデスの丘の西側、ヴィリチアス川に架かる長さ100mのモロシーニ水道橋 Moroshini Aqueduct も残されている。
GPS 聖イリーニ水道橋: 35°17′04″N 25°09′56″E/標高130m
GPS モロシーニ水道橋: 35°17′29.50″N 25°09′19″E/標高130m
GPS モロシーニ水道橋: 35°17′29.50″N 25°09′19″E/標高130m
エーゲ海先史 ミノア文明・ミケーネ文明
Amazon印刷書籍 ペーパーバック・B5版/大久保栄次 著
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アルカネス・フォウルニの尾根・共同墓地遺跡
フォウルニ共同墓地遺跡の発掘
アルカネスの高貴な造りの準宮殿の遺構の発掘を担当した考古学者 Yannis Sakellarakis &彼の妻 Efi Sakellarakis とギリシア考古学チームは、1964年~1972年、その後断続的に1990年代まで、市街地の北方のフォウルニの尾根 Fourni で体系的な長期の発掘ミッションを実施した。
市街地・準宮殿の遺構ポイント(標高385m)の北方700m付近から始まるフォウルニの尾根は、北東へ約3km延びる細長い地形、岩盤むき出しを含め松林と灌木が生育する標高350m~最標高450m、クレタの典型的な乾いた尾根丘陵である。
発掘の結果、フォウルニの尾根(丘)の文明サイトは、初期ミノア文明EMII期・紀元前2400年頃~後期ミノア文明LMIII期・紀元前1350年頃まで1,000年以上、継続的に埋葬が行われたミノア文明の大規模な共同墓地であったことが判明した。
フォウルニの共同墓地では、ミノア文明の重要な居住地・アルカネスを統治したクノッソス宮殿に系統する王族クラスの尊貴な人達が埋葬されたトロス式墳墓 Tholos Tomb を中心に、その周囲には付属コンプレックスの複雑な埋葬建物が建て増し配置されていた。
アルカネスの高貴な造りの準宮殿の遺構の発掘を担当した考古学者 Yannis Sakellarakis &彼の妻 Efi Sakellarakis とギリシア考古学チームは、1964年~1972年、その後断続的に1990年代まで、市街地の北方のフォウルニの尾根 Fourni で体系的な長期の発掘ミッションを実施した。
市街地・準宮殿の遺構ポイント(標高385m)の北方700m付近から始まるフォウルニの尾根は、北東へ約3km延びる細長い地形、岩盤むき出しを含め松林と灌木が生育する標高350m~最標高450m、クレタの典型的な乾いた尾根丘陵である。
発掘の結果、フォウルニの尾根(丘)の文明サイトは、初期ミノア文明EMII期・紀元前2400年頃~後期ミノア文明LMIII期・紀元前1350年頃まで1,000年以上、継続的に埋葬が行われたミノア文明の大規模な共同墓地であったことが判明した。
フォウルニの共同墓地では、ミノア文明の重要な居住地・アルカネスを統治したクノッソス宮殿に系統する王族クラスの尊貴な人達が埋葬されたトロス式墳墓 Tholos Tomb を中心に、その周囲には付属コンプレックスの複雑な埋葬建物が建て増し配置されていた。
アルカネス遺跡・フォウルニ共同墓地
規模=尾根の東斜面・南北150m・東西50m
クレタ島・中央北部/標高430m
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入
規模=尾根の東斜面・南北150m・東西50m
クレタ島・中央北部/標高430m
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入
GPS アルカネス遺跡・フォウルニ共同墓地: 35°14′42″N 25°09′32″E/標高430m
トロス式墳墓A
共同墓地はフォウルニの尾根の最も南西端、標高430m付近、東斜面にできた平地を活用した南北150m・東西50mの細長いスペースに展開されている。
発掘チームは墓地サイトの最北区域で確認された、露出した石積みの「塚」か「小屋」のようなスポットから発掘をスタートした。これがフォウルニ発掘ミッションで最初に確認されたトロス式墳墓Aである。
共同墓地はフォウルニの尾根の最も南西端、標高430m付近、東斜面にできた平地を活用した南北150m・東西50mの細長いスペースに展開されている。
発掘チームは墓地サイトの最北区域で確認された、露出した石積みの「塚」か「小屋」のようなスポットから発掘をスタートした。これがフォウルニ発掘ミッションで最初に確認されたトロス式墳墓Aである。
アルカネス遺跡・フォウルニ共同墓地・トロス式墳墓A
被葬者=「アルカネスの王女」の墳墓
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
被葬者=「アルカネスの王女」の墳墓
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
造営時は間違いなく土に覆われた「塚」であったが、石組みされた露出の盛り上がり部分は、トロス式墳墓の天井部分である。墳墓形式ではトロス式墳墓Aは、リンテル石付近が地上レベル、トロス部床面や副室などが地中レベルとなる、ギリシア本土ミケーネ文明の「半地下式」のトロス式墳墓に共通する建築要素が確認された。
このトロス式墳墓・「半地下式」では、ネストル宮殿遺跡・「王家のトロス式墳墓」・Ⅳ号墓、あるいはミイロン・ペリステリア遺跡・トロス式墳墓・1号墓など、特にクレタ島から比較的近距離のペロポネソス・メッセニア地方で多く見ることができる。
このトロス式墳墓・「半地下式」では、ネストル宮殿遺跡・「王家のトロス式墳墓」・Ⅳ号墓、あるいはミイロン・ペリステリア遺跡・トロス式墳墓・1号墓など、特にクレタ島から比較的近距離のペロポネソス・メッセニア地方で多く見ることができる。
ペリステリア遺跡・トロス式墳墓・1号墓
半地下式・トロス天井=復元
ペロポネソス・メッセニア地方/1987年
半地下式・トロス天井=復元
ペロポネソス・メッセニア地方/1987年
関連Blog情報: ミケーネ文明・ミィロン・ペリステリア遺跡 Peristeria
ミノア文明・円形墳墓&ミケーネ文明・トロス式墳墓の形式分類
トロス式墳墓を構造面から形式分類した場合、このBlogページでは、墳墓の床面が地表レベルにあり、石積みの天井も含め墳墓自体が遠方からも目視できる状態、クレタ島・南西部で流行したメッサラ様式の円形墳墓を「地上式」と呼ぶ。
ミノア文明・メッサラ様式の円形墳墓
地上式墳墓・アウトラインセクション図
クレタ島・メッサラ様式/作図:legend ej
墳墓の床面がほぼ地表レベルだが、石積みの天井は「塚」のような盛り上がり状態、墳墓の下部石積み部分が地中にある、主にギリシア本土メッセニア地方で流行したトロス墳墓を「半地下式」とした。
ミケーネ文明・トロス式墳墓
半地下式墳墓・アウトラインセクション図
ペロポネソス・メッセニア地方/作図:legend ej
アルゴス地方・ミケーネ地区で流行の最後を継承した、トロス式墳墓全体を完全に土で覆うタイプを「地下式」と分類した。
ミケーネ文明・トロス式墳墓
地上式墳墓・アウトラインセクション図
ペロポネソス・アルゴス地方/作図:legend ej
トロス部内径を基準にした墳墓サイズ区分
トロス部内径から墳墓サイズを区分する場合、内径5m以下=「小型」、5m~10m=「中型」、10m以上=「大型」とした。あくまでもBlog管理者の「分類&サイズ区分」である。
ミノア文明・カミラーリ遺跡・メッサラ様式円形墳墓(地上式)
クレタ島・メッサラ平野/1994年
関連Blog情報: ミノア文明・カミラーリ遺跡 Kamilari
ネストル宮殿遺跡・トロス式墳墓・Ⅳ号墓(半地下式)
ペロポネソス・メッセニア地方
描画:legend ej
世界遺産/ミケーネ遺跡・「アトレウスの宝庫」(地下式)
ペロポネソス・アルゴス地方/1982年
また、本土ペロポネソス・アルザス地方に点在するミケーネ様式の「地下式」のトロス式墳墓と同じ形式墳墓では、東部シティア近郊のアクラディア遺跡のトロス式墳墓が、唯一クレタ島内で確認された墳墓である。
アクラディア遺跡・トロス式墳墓
最も奥部の埋葬副室~トロス内部~入口を見る
狭いながらも大型割石の堅固な構造の副室内部
クレタ島・東部/1996年
ミケーネ様式のトロス式墳墓の中で「最も美しい埋葬副室」が残るのは、中部ギリシア・ボイオティア地方のオルコメノス遺跡・トロス式墳墓であろう。トロス部は天井崩落だが、私の経験論ではこれ以上の豪華な装飾が施された副室を見たことがない。
「ミニュアースの宝庫」と呼ばれている内径14mの大型サイズのトロス式墳墓、その副室の天井部には緑色がかった暗いベージュ色の大型硬質片岩が使われ、全面をロゼッタ紋様や連鎖する渦巻き線、パピルスの葉の細かなデザインをモチーフにした見事な浮彫レリーフ装飾で埋め尽くされている。
オルコメノス遺跡・トロス式墳墓
トロス部~副室入口
ボイオティア地方/1982年
オルコメノス遺跡・トロス式墳墓
副室天井の装飾/連鎖ロゼッタ・渦巻き線・パピルス紋様
ボイオティア地方/1982年
GPS オルコメノス遺跡・トロス式墳墓: 38°29′35.50″N 22°58′29″E/標高110m
本・ゲーム&映画・ファッション・PC・カメラ・食品&飲料・アウトドアー・薬品・・・
フォウルニ共同墓地・トロス式墳墓Aでは、ミケーネ文明のトロス式墳墓と同様に軟質岩盤を掘削した、東方~墳墓(西方)へ向かう整然とした長さ18mの通路ドロモスを備え、側面からの圧力で少し歪んだことから入口幅は狭いが、上部のリンテル石はしっかりと残存している。石積みはランダムなサイズの石灰岩などが使われている。
アルカネス遺跡・フォウルニ共同墓地・トロス式墳墓A
丁寧に掘削された通路ドロモス~入口を見る
クレタ島・中央北部/1994年
丁寧に掘削された通路ドロモス~入口を見る
クレタ島・中央北部/1994年
トロス部内径4.5m、「小型サイズ」であるトロス式墳墓Aのトロス内部は過去に盗掘されていたが、馬の骨格と雄牛の頭蓋骨が確認された。
発掘では南側面に2m弱四方の副室が確認され、テラコッタ製のラルナックス陶棺一基が見つかった。陶棺には屈葬姿勢の一人の遺体が安置され、胸の位置付近から祭祀的なシーンを刻んだ美しい金製リングを初め、金製やガラスペーストのネックレース、青銅製と象牙製の容器など多くの宝飾品も副葬されていた。
メッサラ平野のアギア・トリアダ遺跡・円形墳墓からの石灰岩製の石棺フレスコ画の描画シーンと同じ、トロス部からの雄牛の生贄奉納の痕跡からして、このトロス式墳墓Aの被葬者は王族の最高レベルの人物、豪華な副葬宝飾品からして間違いなく「若い女性」と判断され、研究者はアルカネスの準宮殿に居住した「王家の王女」であったと推測している。
発掘では南側面に2m弱四方の副室が確認され、テラコッタ製のラルナックス陶棺一基が見つかった。陶棺には屈葬姿勢の一人の遺体が安置され、胸の位置付近から祭祀的なシーンを刻んだ美しい金製リングを初め、金製やガラスペーストのネックレース、青銅製と象牙製の容器など多くの宝飾品も副葬されていた。
メッサラ平野のアギア・トリアダ遺跡・円形墳墓からの石灰岩製の石棺フレスコ画の描画シーンと同じ、トロス部からの雄牛の生贄奉納の痕跡からして、このトロス式墳墓Aの被葬者は王族の最高レベルの人物、豪華な副葬宝飾品からして間違いなく「若い女性」と判断され、研究者はアルカネスの準宮殿に居住した「王家の王女」であったと推測している。
アギア・トリアダ遺跡・円形墳墓B出土・石灰岩製の大型石棺
フレスコ画装飾(拡大)/女神(高位女性)・生贄の雄牛
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・メッサラ平野/1996年
フレスコ画装飾(拡大)/女神(高位女性)・生贄の雄牛
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・メッサラ平野/1996年
関連Blog情報: ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡 Agia Triada
アルカネス遺跡・トロス式墳墓A出土・金製リング
「アルカネスの王女」の墳墓/女神・三分割聖所&樹木
紀元前1600年~前1500年/横幅26mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号989
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
「アルカネスの王女」の墳墓/女神・三分割聖所&樹木
紀元前1600年~前1500年/横幅26mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号989
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
見つかった金製リングは横幅26mm、楕円形(オーバル形状)、リングの印面の中央には厚ぼったい特徴的なミノア風スカートの女神の立ち姿、その右側には三分割聖所と思われる神殿風の建物とカーブして延びる聖なる樹木が生え、その枝を折ろうとしているのか、または枝にぶら下がっているのか、活動的なミノアの若い男性が刻まれている。
一方、印面の左側には、聖なる岩(ビトラス Baetylus)かあるいは埋葬用の大型ピトス容器を抱えるような仕草で、両膝を地面に付けたやや落胆したようなミノアの男性が居る。そして女神と膝付け男性の間の空間には二頭(匹)のチョウ(蝶)、さらにチョウの上部には植物の死と再生(死生観)に関わるエジプト・オシリス柱と思われる微細刻みが確認できる。
聖なる樹木と三分割聖所のみならず、右側の男性が「活動(生)」、左側の男性が「悲しみ(死)」を表現、それを見守る中央の女神の存在を考える時、この金製リングからはエジプト文明の影響も含めミノア文明の「死生観」が連想できる。
なお、金製リングの左側で聖なる石(or 埋葬ピトス容器)を抱き抱えるような仕草の男性が表現されているが、クノッソス宮殿遺跡~北方1kmのザフェール・パポウラ遺跡~北東400m付近、カイラトス川右岸のセロポウロ墓地遺跡 Sellopoulo・4号墓から出土した金製リングにも聖なる石と男性が刻まれている。
ただ、アルカネスの金製リングでは男性の周りにチョウが舞っているが、「神出(かみいずる)のエピファニー表現 Epiphany Scene」のセポウロのリングでは、神の使いのハトが「願いもの」を運んで来る。
一方、印面の左側には、聖なる岩(ビトラス Baetylus)かあるいは埋葬用の大型ピトス容器を抱えるような仕草で、両膝を地面に付けたやや落胆したようなミノアの男性が居る。そして女神と膝付け男性の間の空間には二頭(匹)のチョウ(蝶)、さらにチョウの上部には植物の死と再生(死生観)に関わるエジプト・オシリス柱と思われる微細刻みが確認できる。
聖なる樹木と三分割聖所のみならず、右側の男性が「活動(生)」、左側の男性が「悲しみ(死)」を表現、それを見守る中央の女神の存在を考える時、この金製リングからはエジプト文明の影響も含めミノア文明の「死生観」が連想できる。
なお、金製リングの左側で聖なる石(or 埋葬ピトス容器)を抱き抱えるような仕草の男性が表現されているが、クノッソス宮殿遺跡~北方1kmのザフェール・パポウラ遺跡~北東400m付近、カイラトス川右岸のセロポウロ墓地遺跡 Sellopoulo・4号墓から出土した金製リングにも聖なる石と男性が刻まれている。
ただ、アルカネスの金製リングでは男性の周りにチョウが舞っているが、「神出(かみいずる)のエピファニー表現 Epiphany Scene」のセポウロのリングでは、神の使いのハトが「願いもの」を運んで来る。
セロポウロ墳墓遺跡出土・金製リング
印面=楕円形・横20mm・「エピファニー表現」
表意=聖なる樹木&聖石・崇拝男性・ハト
イラクリオン考古学博物館・登録番号1034
クレタ島・中央北部/legend ej
印面=楕円形・横20mm・「エピファニー表現」
表意=聖なる樹木&聖石・崇拝男性・ハト
イラクリオン考古学博物館・登録番号1034
クレタ島・中央北部/legend ej
一方、アルカネスの金製リングの右側で聖所の聖なる樹木に手を触れて神の恩恵を受けようとするシーンと近似する表現が、イラクリオン市街地のポロス遺跡 Poros から出土した金製リングにも刻まれている。ポロスはクノッソス宮殿の「港」であった。
この金製リングは《聖なる会話》のリングとも呼ばれ、ラグビーボールのような横長の楕円形(オーバル形状)の印面には、座り姿勢の女神を守るように二羽の聖なるハトが飛び、中央部分には右手を前方へ伸ばす台座の男性の神が、女神に「何か」を語っている。そして、右側にはミノアの若い男性が神からの恩恵を得るため神殿(聖所)の聖なる樹木に触れようとしている。
この金製リングは《聖なる会話》のリングとも呼ばれ、ラグビーボールのような横長の楕円形(オーバル形状)の印面には、座り姿勢の女神を守るように二羽の聖なるハトが飛び、中央部分には右手を前方へ伸ばす台座の男性の神が、女神に「何か」を語っている。そして、右側にはミノアの若い男性が神からの恩恵を得るため神殿(聖所)の聖なる樹木に触れようとしている。
クノッソス宮殿港・ポロス遺跡出土・金製の印章リング
印章=楕円形(オーバル形状)・使い熟したためやや表面摩耗
印面=《聖なる会話》=女神・男性の神・鳥・神殿&聖なる樹木
後期ミノア文明LMIA期・紀元前1550年~LMIB期・紀元前1450年
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
印章=楕円形(オーバル形状)・使い熟したためやや表面摩耗
印面=《聖なる会話》=女神・男性の神・鳥・神殿&聖なる樹木
後期ミノア文明LMIA期・紀元前1550年~LMIB期・紀元前1450年
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
聖なる石と聖所の聖なる樹木の表現では、メッサラ平野のフェストス宮殿遺跡・カリヴィア共同墓地 Kalivia の後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年に属する、横穴墓・11号墓から出土した金製リングにも近似の刻みを見ることができる。
楕円形の印面では、左側の聖所の聖なる樹木に触れる女神、中央下には聖なる石にすがり何かを歎願する男性、右側の聖なる場所から神の使いのハトが男性へ「願いのもの」を運んで来る。
これは聖なるシーン・「エピファニー表現」の範疇に含まれることから、この金製リングの所有者(被葬者)は、フェストス宮殿に関係する相当に高位の人物であったことを連想させる。
楕円形の印面では、左側の聖所の聖なる樹木に触れる女神、中央下には聖なる石にすがり何かを歎願する男性、右側の聖なる場所から神の使いのハトが男性へ「願いのもの」を運んで来る。
これは聖なるシーン・「エピファニー表現」の範疇に含まれることから、この金製リングの所有者(被葬者)は、フェストス宮殿に関係する相当に高位の人物であったことを連想させる。
フェストス宮殿・カリヴィア共同墓地出土・金製リング
印面=やや楕円形・「エピファニー表現」
聖所&聖木と女神・聖なる石と嘆願の男性・聖なる鳥
後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年
イラクリオン考古学博物館・登録番号45/横16.5mm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej
印面=やや楕円形・「エピファニー表現」
聖所&聖木と女神・聖なる石と嘆願の男性・聖なる鳥
後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年
イラクリオン考古学博物館・登録番号45/横16.5mm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej
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トロス式墳墓B
「アルカネスの王女の墳墓」であるトロス式墳墓A~南方70m付近、トロス式墳墓Bと複雑な構造の付属施設の集合体、埋葬コンプレックスがある。フォウルニの共同墓地では、トロス式墳墓B&付属建物群とその南側のトロス式墳墓Γ(C)&付属建物群を合わせた複雑なコンプレックス構造体が、サイトで最も密集的な遺構区域と言える。
トロス内径3.8m、「小型サイズ」に分類できるトロス式墳墓Bとそれを囲むコンプレックス遺構は、東西16m・南北17mほどの方形の区域、10~12の部屋が連結する付属埋葬施設で構成されている。非常に狭い感じの入口&長さ4m弱の通路ドロモスは、トロス部から見て南東側に位置している。
ミケーネ文明のトロス式墳墓に共通する通路ドロモスを備えているとは言え、構造的にはトロス式墳墓Bは、トロス床面が地上レベルの南西部のカミラーリ遺跡やプラタノス遺跡などと同じ、入口周辺(標準=東方側)に付属埋葬施設を備えたメッサラ様式の円形墳墓に近似している。
「アルカネスの王女の墳墓」であるトロス式墳墓A~南方70m付近、トロス式墳墓Bと複雑な構造の付属施設の集合体、埋葬コンプレックスがある。フォウルニの共同墓地では、トロス式墳墓B&付属建物群とその南側のトロス式墳墓Γ(C)&付属建物群を合わせた複雑なコンプレックス構造体が、サイトで最も密集的な遺構区域と言える。
トロス内径3.8m、「小型サイズ」に分類できるトロス式墳墓Bとそれを囲むコンプレックス遺構は、東西16m・南北17mほどの方形の区域、10~12の部屋が連結する付属埋葬施設で構成されている。非常に狭い感じの入口&長さ4m弱の通路ドロモスは、トロス部から見て南東側に位置している。
ミケーネ文明のトロス式墳墓に共通する通路ドロモスを備えているとは言え、構造的にはトロス式墳墓Bは、トロス床面が地上レベルの南西部のカミラーリ遺跡やプラタノス遺跡などと同じ、入口周辺(標準=東方側)に付属埋葬施設を備えたメッサラ様式の円形墳墓に近似している。
アルカネス遺跡・フォウルニ共同墓地・トロス式墳墓B
トロス内部から入口(南東)を見る
クレタ島・中央北部/1994年
トロス内部から入口(南東)を見る
クレタ島・中央北部/1994年
プラタノス遺跡・メッサラ様式の円形墳墓A
墳墓Aの向こう側(西側)=円形墳墓B
クレタ島・メッサラ平野/1982年
墳墓Aの向こう側(西側)=円形墳墓B
クレタ島・メッサラ平野/1982年
プラタノス遺跡・墳墓遺構 アウトラインプラン図
左=円形墳墓B/中間=舗装中庭/右=円形墳墓A
トロス部入口の東側=付属建物(埋葬施設)
クレタ島・メッサラ平野/作図:legend ej
左=円形墳墓B/中間=舗装中庭/右=円形墳墓A
トロス部入口の東側=付属建物(埋葬施設)
クレタ島・メッサラ平野/作図:legend ej
トロス式墳墓Bでは、トロス内部はベンチ状の盛り上がり円周床面となり、北東側と北西側には副室の埋葬施設(部屋)への通路口が設けられている。トロス部から周囲の埋葬コンプレックスへの連絡の容易性からか、複数の副室的な部屋を配置した複雑な構造に特徴がある。
アルカネス遺跡・フォウルニ共同墓地・トロス式墳墓B
左=南東側の入口/右=北西側副室への通路口
トロス内面=盛り上がりベンチ状床面
クレタ島・中央北部/1994年
左=南東側の入口/右=北西側副室への通路口
トロス内面=盛り上がりベンチ状床面
クレタ島・中央北部/1994年
アルカネス遺跡・フォウルニ共同墓地・トロス式墳墓B
南東側副室への通路口~トロス内部を見る
クレタ島・中央北部/1994年
南東側副室への通路口~トロス内部を見る
クレタ島・中央北部/1994年
トロス式墳墓Bと、最大2mの壁面厚さからして「二階建て」であったとされる周囲の埋葬コンプレックスは、中期ミノア文明MMIA期・紀元前2000年~後期ミノア文明LMIIIA1期・紀元前1375年まで使われた、と考えられている。
トロス部の北側~北西側の二つの部屋からは、ラルナックス陶棺を含め、複数の埋葬が確認された。一方、トロス部の南西側の部屋にはラルナックス陶棺が置かれていた。この部屋はトロス部に埋葬された古い遺体を集合させる「納骨室」であり、陶棺とその周囲から子供二人を含め合計19体分の遺骨が確認され、複数のビーズ型のネックレースなどが見つかっている。
南西部屋の東側、トロス部の丁度南側に位置する埋葬部屋の中央には角柱が残されいる。約3.5m四方のこの支柱埋葬部屋(建物7)は、トロス式墳墓Bの付属コンプレックスの中で最も広く、壁面は上質な漆喰表装、支柱は非常に珍しいフレスコ画で装飾されていた。
支柱はコンプレックス上階の床面を支える役目を果たし、発掘では間違いなく上階の埋葬室から崩落したと推定できる女性用だったのか、線文字Aスクリプトが刻まれた銀製のピンと人骨も見つかっている。
トロス部の北側~北西側の二つの部屋からは、ラルナックス陶棺を含め、複数の埋葬が確認された。一方、トロス部の南西側の部屋にはラルナックス陶棺が置かれていた。この部屋はトロス部に埋葬された古い遺体を集合させる「納骨室」であり、陶棺とその周囲から子供二人を含め合計19体分の遺骨が確認され、複数のビーズ型のネックレースなどが見つかっている。
南西部屋の東側、トロス部の丁度南側に位置する埋葬部屋の中央には角柱が残されいる。約3.5m四方のこの支柱埋葬部屋(建物7)は、トロス式墳墓Bの付属コンプレックスの中で最も広く、壁面は上質な漆喰表装、支柱は非常に珍しいフレスコ画で装飾されていた。
支柱はコンプレックス上階の床面を支える役目を果たし、発掘では間違いなく上階の埋葬室から崩落したと推定できる女性用だったのか、線文字Aスクリプトが刻まれた銀製のピンと人骨も見つかっている。
アルカネス遺跡・フォウルニ共同墓地・トロス式墳墓B
南西区域~支柱埋葬部屋(建物7)を見る
クレタ島・中央北部/1994年
南西区域~支柱埋葬部屋(建物7)を見る
クレタ島・中央北部/1994年
トロス式墳墓Bの発掘では、羽ばたくグリフィンと女神を刻んだ金製リングが見つかっている。金製リングはわずかに縦幅が小さいが、横幅10mm、ほぼ円形の印面には羽根を大きく広げて右方~左方へ飛翔するようなグリフィンが刻まれ、その後方(右側)には両腕を横方向へ延ばした厚ぼったい特徴的なミノア風スカート姿の女神が刻まれている。
印面が狭いことから、ほかの目立つ具象は表現されていないが、ミノア文明の標準モチーフの一つ、「女神とグリフィン」の組み合わせの典型的な宝飾表現である。
印面が狭いことから、ほかの目立つ具象は表現されていないが、ミノア文明の標準モチーフの一つ、「女神とグリフィン」の組み合わせの典型的な宝飾表現である。
アルカネス遺跡・トロス式墳墓B出土・金製リング
飛翔するグリフィン&女神/横幅10mm
後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1400年
イラクリオン考古学博物館・登録番号1017
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
飛翔するグリフィン&女神/横幅10mm
後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1400年
イラクリオン考古学博物館・登録番号1017
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
「建物6」の遺構
トロス式墳墓Bと付属コンプレックスの西側には南北に走る舗装通路があり、その西側に6~7部屋で構成された建物遺構がある。階段で出入りしたのか、入口のない部屋も含め、これらの部屋は古い埋葬を整理して集合させる事実上の「納骨室」であったと考えられている。
これらの埋葬施設は中期ミノア文明MMIA期・紀元前2000年~後期ミノア文明LMII期・紀元前1400年まで使われたと判断されている。
そのうち、遺構の最も東側の「建物6」と呼ばれる南北に細長い部屋からは、絵文字の刻まれた動物の脚骨製の印章が見つかった。印章の外観は19mmx13mmx長さ57mm、細長い長方体の棒状の形容、四面プリズム型に分類され、そして長方体の上部が「摘み」のやや細い円筒状となっている。素材は動物の脚骨を削り成形したもの、風化が進んでいる。
印章の製作は「旧宮殿時代」より前、初期ミノア文明EMIII期・紀元前2100年~中期ミノア文明MMIA期・紀元前1900年頃に遡ると判断されている。
彫刻が残る印面では、長方体の四側面が各三つの表現スペースに分けられ、それぞれ絵文字の具象が合計12面、さらに両端部・二面にもそれぞれ具象が表現され、印章全体の彫刻スペースは合計14面となり、珍しい多面表現タイプの印章である。
14面のスペースに表現されている具象は、線文字Aのような「確たる文字」ではなく、動物や植物の葉、両刃斧・アンフォラ型容器、「S字・Y字形」・リボン風の抽象的な紋様など、視覚的にほぼ断定できる絵文字 Pictgraph/Hieroglyph と言える。
トロス式墳墓Bと付属コンプレックスの西側には南北に走る舗装通路があり、その西側に6~7部屋で構成された建物遺構がある。階段で出入りしたのか、入口のない部屋も含め、これらの部屋は古い埋葬を整理して集合させる事実上の「納骨室」であったと考えられている。
これらの埋葬施設は中期ミノア文明MMIA期・紀元前2000年~後期ミノア文明LMII期・紀元前1400年まで使われたと判断されている。
そのうち、遺構の最も東側の「建物6」と呼ばれる南北に細長い部屋からは、絵文字の刻まれた動物の脚骨製の印章が見つかった。印章の外観は19mmx13mmx長さ57mm、細長い長方体の棒状の形容、四面プリズム型に分類され、そして長方体の上部が「摘み」のやや細い円筒状となっている。素材は動物の脚骨を削り成形したもの、風化が進んでいる。
印章の製作は「旧宮殿時代」より前、初期ミノア文明EMIII期・紀元前2100年~中期ミノア文明MMIA期・紀元前1900年頃に遡ると判断されている。
彫刻が残る印面では、長方体の四側面が各三つの表現スペースに分けられ、それぞれ絵文字の具象が合計12面、さらに両端部・二面にもそれぞれ具象が表現され、印章全体の彫刻スペースは合計14面となり、珍しい多面表現タイプの印章である。
14面のスペースに表現されている具象は、線文字Aのような「確たる文字」ではなく、動物や植物の葉、両刃斧・アンフォラ型容器、「S字・Y字形」・リボン風の抽象的な紋様など、視覚的にほぼ断定できる絵文字 Pictgraph/Hieroglyph と言える。
アルカネス遺跡・共同墓地出土・脚骨製の印章
彫刻モチーフ全14面=動物・植物・両刃斧・抽象文様
初期ミノア文明EMIII期~中期ミノア文明MMIA期
サイズ=19mmx13mmx長さ57mm・四面プリズム型
イラクリオン考古学博物館・登録番号2260
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
彫刻モチーフ全14面=動物・植物・両刃斧・抽象文様
初期ミノア文明EMIII期~中期ミノア文明MMIA期
サイズ=19mmx13mmx長さ57mm・四面プリズム型
イラクリオン考古学博物館・登録番号2260
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
先史時代の印章研究が最も盛んなドイツ・ハイデルベルグ大学・研究プロジェクト CMS(Das Corpus der minoischen und mykenischen Siegel. Heidelberg U.)では、14面のうち最も刻みが鮮明である三面モチーフ(上描画)は、左面=ウマ(馬)、中面=シカ(鹿)、右面=ヒツジ(羊)、そして幾らかの小具象と断定している。
先史文明の印章&文字の研究者は、特に絵文字の印章出土例が顕著なアルカネス遺跡からの印章スクリプト Archanes Script を中心に表現モチーフを整理、《アルカネス・文字体系 Archanes Formula》として分類・解析を行っている。
多くの研究者の見解では、この《アルカネス・文字体系》で表現された絵文字/象形文字は、「線文字Aよりやや早い時期にクレタ島で使われ始めた」と考えている。この論説に従えば、《アルカネス・文字体系》の絵文字は、「ヨーロッパ最初の文明」であるミノア文明で「最も早く使われ始めた文字」、「ヨーロッパで最初の文字」と言うことができる。
参考だが、《アルカネス・文字体系》に分類される印章では、フォウルニ共同墓地遺跡のほか、クレタ島の複数の遺跡からも出土している。いずれも視覚できる具象、家のドアーや皮切ナイフ、人の脚や眼、陶器や植物などを表現した絵文字である。
例えば、クノッソス宮殿遺跡から出土した印章は、初期ミノア文明の末期・EMIII期・紀元前2100年~「旧宮殿時代」の初め頃・中期ミノア文明MMIA期・紀元前1900年頃に属するとされ、一方、マーリア遺跡からの四面プリズム型の印章はクノッソス印章より少し遅れた、「旧宮殿時代」~「新宮殿時代」の初め頃に遡ると判断されている。
先史文明の印章&文字の研究者は、特に絵文字の印章出土例が顕著なアルカネス遺跡からの印章スクリプト Archanes Script を中心に表現モチーフを整理、《アルカネス・文字体系 Archanes Formula》として分類・解析を行っている。
多くの研究者の見解では、この《アルカネス・文字体系》で表現された絵文字/象形文字は、「線文字Aよりやや早い時期にクレタ島で使われ始めた」と考えている。この論説に従えば、《アルカネス・文字体系》の絵文字は、「ヨーロッパ最初の文明」であるミノア文明で「最も早く使われ始めた文字」、「ヨーロッパで最初の文字」と言うことができる。
参考だが、《アルカネス・文字体系》に分類される印章では、フォウルニ共同墓地遺跡のほか、クレタ島の複数の遺跡からも出土している。いずれも視覚できる具象、家のドアーや皮切ナイフ、人の脚や眼、陶器や植物などを表現した絵文字である。
例えば、クノッソス宮殿遺跡から出土した印章は、初期ミノア文明の末期・EMIII期・紀元前2100年~「旧宮殿時代」の初め頃・中期ミノア文明MMIA期・紀元前1900年頃に属するとされ、一方、マーリア遺跡からの四面プリズム型の印章はクノッソス印章より少し遅れた、「旧宮殿時代」~「新宮殿時代」の初め頃に遡ると判断されている。
ミノア文明・《アルカネス・文字体系》の石製の印章
左印章=マーリア遺跡出土・プリズム型(四面)
・紀元前1900年~前1600年/横長さ16mm
・イラクリオン考古学博物館・登録番号2184
右印章=クノッソス宮殿遺跡出土・円盤型(二面)
・紀元前2100年~前1900年/滑石製・直径13mm
・Ashumolean Museum (UK)登録番号AN1938-929
※Sir Arthur John Evans 寄贈(1938年)
クレタ島・北海岸&中央北部/描画:legend ej
左印章=マーリア遺跡出土・プリズム型(四面)
・紀元前1900年~前1600年/横長さ16mm
・イラクリオン考古学博物館・登録番号2184
右印章=クノッソス宮殿遺跡出土・円盤型(二面)
・紀元前2100年~前1900年/滑石製・直径13mm
・Ashumolean Museum (UK)登録番号AN1938-929
※Sir Arthur John Evans 寄贈(1938年)
クレタ島・北海岸&中央北部/描画:legend ej
ミノア文明の印章に刻まれた表現モチーフでは、デザインの簡易性と加工の容易性からか、単純な直線や曲線を組み合わせた幾何学紋様の表現が最も多く出土している。
特に比較的早い時代、「旧宮殿時代」より以前の初期ミノア文明EMIII期・紀元前2100年頃~中期ミノア文明MMIA期・紀元前1900年頃では、アルカネス居住地のみならず、南西部・メッサラ平野などの印章では、エジプトからの輸入品である象牙やカバ牙材などを使った幾何学モチーフが主流であったと言える。
納骨室であった「建物6」からの《アルカネス・文字体系》の四面プリズム型は動物の脚骨製だが、同じ建物遺構から被葬者が身に付けていたカバやイノシシの牙材や大型動物の脚骨製の印章が複数見つかっている。
動物骨製の印章の一つは、穴開け摘み付きのスタンプ形式、印面には二重の外周円、中心に植物の葉なのか帯状の細かな刻みがあり、左右に太い曲線の幾何学紋様が表現されていた。
特に比較的早い時代、「旧宮殿時代」より以前の初期ミノア文明EMIII期・紀元前2100年頃~中期ミノア文明MMIA期・紀元前1900年頃では、アルカネス居住地のみならず、南西部・メッサラ平野などの印章では、エジプトからの輸入品である象牙やカバ牙材などを使った幾何学モチーフが主流であったと言える。
納骨室であった「建物6」からの《アルカネス・文字体系》の四面プリズム型は動物の脚骨製だが、同じ建物遺構から被葬者が身に付けていたカバやイノシシの牙材や大型動物の脚骨製の印章が複数見つかっている。
動物骨製の印章の一つは、穴開け摘み付きのスタンプ形式、印面には二重の外周円、中心に植物の葉なのか帯状の細かな刻みがあり、左右に太い曲線の幾何学紋様が表現されていた。
アルカネス遺跡・共同墓地出土・動物骨製の印章
印面=円形/幾何学紋様モチーフ
初期EMIII期~中期MMIA期・紀元前2100年~前1900年
イラクリオン考古学博物館・登録番号2247/直径10mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
印面=円形/幾何学紋様モチーフ
初期EMIII期~中期MMIA期・紀元前2100年~前1900年
イラクリオン考古学博物館・登録番号2247/直径10mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
20室以上の複雑配置の埋葬施設
トロス式墳墓Bと付属コンプレックスの南区域には、階段や通路、「建物3」や「建物8」と呼ばれる部屋を含め20室以上で構成された東西30m・南北8mほどの占有面積、非常に複雑配置の埋葬施設が連なっている。これらの埋葬施設は中期ミノア文明MMIA期・紀元前2000年~後期ミノア文明LMII期・紀元前1400年頃まで使われた、と判断されている。
トロス式墳墓Bと付属コンプレックスの区画、またはこの20室以上の複雑な埋葬施設から、明らかに戦闘用ではなく、装飾のために製作されたであろう連鎖する渦巻き線が刻まれた美しい青銅製の槍先が見つかっている。
この渦巻き線を表現する装飾モチーフはミケーネ様式に近似することから、紀元前1450年頃のギリシア本土ミケーネ人によるクレタ島侵攻より後の時期の埋葬、しかもかなり高位なミケーネ人系譜の人物の副葬品であろう。
トロス式墳墓Bと付属コンプレックスの南区域には、階段や通路、「建物3」や「建物8」と呼ばれる部屋を含め20室以上で構成された東西30m・南北8mほどの占有面積、非常に複雑配置の埋葬施設が連なっている。これらの埋葬施設は中期ミノア文明MMIA期・紀元前2000年~後期ミノア文明LMII期・紀元前1400年頃まで使われた、と判断されている。
トロス式墳墓Bと付属コンプレックスの区画、またはこの20室以上の複雑な埋葬施設から、明らかに戦闘用ではなく、装飾のために製作されたであろう連鎖する渦巻き線が刻まれた美しい青銅製の槍先が見つかっている。
この渦巻き線を表現する装飾モチーフはミケーネ様式に近似することから、紀元前1450年頃のギリシア本土ミケーネ人によるクレタ島侵攻より後の時期の埋葬、しかもかなり高位なミケーネ人系譜の人物の副葬品であろう。
アルカネス遺跡・共同墓地出土・青銅製の装飾槍先
ソケット形式/連鎖する渦巻き線紋様
後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1400年
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
ソケット形式/連鎖する渦巻き線紋様
後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1400年
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
世界遺産/ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A出土・青銅製の短剣
金&ニエロ金属象嵌=連鎖の渦巻き線・ロゼッタ紋様
後期ヘラディック文明LHI期・紀元前1550年~前1500年
アテネ国立考古学博物館・登録番号744/長さ243mm
ペロポネソス・アルゴス地方/1982年
金&ニエロ金属象嵌=連鎖の渦巻き線・ロゼッタ紋様
後期ヘラディック文明LHI期・紀元前1550年~前1500年
アテネ国立考古学博物館・登録番号744/長さ243mm
ペロポネソス・アルゴス地方/1982年
連鎖する渦巻き線紋様が刻まれた青銅製の装飾武器では、クノッソス宮殿遺跡~北方1km付近、ザフェール・パポウラ遺跡の《首領の墳墓 Chieftain's Grave》と呼ばれる竪穴墓・36号墓から出土した、長さ955m、研究者から「C-type 装飾剣」と呼ばれる長剣がある。
象牙柄頭は青銅製のリベットで固定、木製グリップハンドルは三か所の金製リベットで、ショルダー部が二か所のやはり金製リベットで固定されていた。
象牙柄頭は青銅製のリベットで固定、木製グリップハンドルは三か所の金製リベットで、ショルダー部が二か所のやはり金製リベットで固定されていた。
ザフェール・パポウラ遺跡出土・青銅製の長剣
《首領の墳墓》・「C-type装飾剣」
・柄頭=象牙製・青銅製リベット固定
・柄~ショルダー=金製リベット固定
・青銅部=二列連鎖する渦巻き線刻印
後期ミノア文明LMII期~LMIIIA1期・紀元前1450年~前1350年
イラクリオン考古学博物館/長さ955mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
《首領の墳墓》・「C-type装飾剣」
・柄頭=象牙製・青銅製リベット固定
・柄~ショルダー=金製リベット固定
・青銅部=二列連鎖する渦巻き線刻印
後期ミノア文明LMII期~LMIIIA1期・紀元前1450年~前1350年
イラクリオン考古学博物館/長さ955mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
長剣のグリップハンドルの側面(青銅部分)には二列の連鎖渦巻き線紋様が刻印、さらにそれは延長されてショルダー部クロスガード(鍔)の側面にも二列連鎖の渦巻き線紋様が刻印されている。また、ブレード(剣身)の中央線は盛り上がりの強化リブ仕様、やはり二列連鎖の渦巻き線紋様が刻印されていた。
フォウルニ共同墓地・トロス式墳墓Bの南側の埋葬区画からの青銅製の装飾槍先とザフェール・パポウラ遺跡の青銅製の長剣が、後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1400年の副葬品とするならば、何れも所有者(被葬者)はクレタ島への侵攻に関わったギリシア本土ミケーネ人であった可能性が高い。
フォウルニ共同墓地・トロス式墳墓Bの南側の埋葬区画からの青銅製の装飾槍先とザフェール・パポウラ遺跡の青銅製の長剣が、後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1400年の副葬品とするならば、何れも所有者(被葬者)はクレタ島への侵攻に関わったギリシア本土ミケーネ人であった可能性が高い。
トロス式墳墓Γ(C)
トロス式墳墓B~南方20m付近、東西に長い複雑な埋葬施設の南側に接続された形容のトロス式墳墓Γ(C)は、初期ミノア文明EMIII期・紀元前2200年~中期ミノア文明MMIA期・紀元前2000年頃まで埋葬された、と考えられている。
墳墓Γ(C)はメッサラ様式の円形墳墓と同様な構造を成し、トロス部の東側に埋葬コンプレックスを付属、4,000年以上前のミノア文明の古い墳墓比較では、最も保存状態が良好な墳墓の一つとされている。
トロス式墳墓B~南方20m付近、東西に長い複雑な埋葬施設の南側に接続された形容のトロス式墳墓Γ(C)は、初期ミノア文明EMIII期・紀元前2200年~中期ミノア文明MMIA期・紀元前2000年頃まで埋葬された、と考えられている。
墳墓Γ(C)はメッサラ様式の円形墳墓と同様な構造を成し、トロス部の東側に埋葬コンプレックスを付属、4,000年以上前のミノア文明の古い墳墓比較では、最も保存状態が良好な墳墓の一つとされている。
アルカネス遺跡・フォウルニ共同墓地・トロス式墳墓Γ(C)
トロス部~入口(東方)を見る
クレタ島・中央北部/1994年
トロス部~入口(東方)を見る
クレタ島・中央北部/1994年
確認された11基のラルナックス陶棺と多くのピトス容器の陶棺、さらに入口付近を含めた床面に安置された遺体を含め、トロス式墳墓Γ(C)からは合計50体以上の遺体が確認された。
トロス部内径3.6m、狭い埋葬室に重ねられたラルナックス陶棺とピトス容器の陶棺、さらに床面に多くの遺体を並べるという条件から、トロス部では余裕スペースが限定されていた。このため複数の青銅製の短剣を除き大きな埋葬儀式用品などはなく、被葬者が身に付けていた宝飾品など小さな副葬品・合計270点の多くは、ラルナックス陶棺の下と床面の遺体の下(地中)から見つかったされる。
トロス式墳墓Γ(C)からの特徴的な宝飾品の出土では、緑色ジャスパーをトップにした金製と象牙製ビーズの豪華なネックレースがあり、そのほか石製と象牙製のキクラデス様式の女性像なども副葬されていた。
また、東側の付属コンプレックスからは琥珀(こはく)ビーズのネックレースが出土した。そのほか、墳墓の南側の建物群からはビーズのネックレースなどが見つかっている。
トロス部内径3.6m、狭い埋葬室に重ねられたラルナックス陶棺とピトス容器の陶棺、さらに床面に多くの遺体を並べるという条件から、トロス部では余裕スペースが限定されていた。このため複数の青銅製の短剣を除き大きな埋葬儀式用品などはなく、被葬者が身に付けていた宝飾品など小さな副葬品・合計270点の多くは、ラルナックス陶棺の下と床面の遺体の下(地中)から見つかったされる。
トロス式墳墓Γ(C)からの特徴的な宝飾品の出土では、緑色ジャスパーをトップにした金製と象牙製ビーズの豪華なネックレースがあり、そのほか石製と象牙製のキクラデス様式の女性像なども副葬されていた。
また、東側の付属コンプレックスからは琥珀(こはく)ビーズのネックレースが出土した。そのほか、墳墓の南側の建物群からはビーズのネックレースなどが見つかっている。
アルカネス遺跡・トロス式墳墓Γ出土・金製ネックレース
緑色ジャスパー・象牙ビーズ
初期ミノア文明EMIII期・紀元前2200年~前2000年
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
緑色ジャスパー・象牙ビーズ
初期ミノア文明EMIII期・紀元前2200年~前2000年
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
アルカネス遺跡・トロス式墳墓Γ出土・石製&象牙製の女性像
左=大理石製/右=象牙製・高さ80mm/NTS(Not to Scale)
キクラデス様式・紀元前2200年~前2000年
イラクリオン考古学博物館・登録番号440(右)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
左=大理石製/右=象牙製・高さ80mm/NTS(Not to Scale)
キクラデス様式・紀元前2200年~前2000年
イラクリオン考古学博物館・登録番号440(右)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
10室以上の複雑配置の埋葬施設
トロス式墳墓Γ(C)と付属埋葬施設からわずかに離れた南側には、単独の集合体だが部屋数10室以上で構成された複雑構造の埋葬施設がある。
この8m四方を占有する埋葬施設の「建物18」と呼ばれる北側の部屋からは、円錐形の動物骨製の印章が出土した。円形の印面には、「男性?二人」が向かい合って各々台を使って「何か作業」を行っているのか、あるいは左側の人が右手で道具のような物を渡そうとして、右側の人が左手でそれを受ける瞬間なのかは推測の域だが、神的要素がないので日常生活の一コマを刻んでいるように思える。
トロス式墳墓Γ(C)と付属埋葬施設からわずかに離れた南側には、単独の集合体だが部屋数10室以上で構成された複雑構造の埋葬施設がある。
この8m四方を占有する埋葬施設の「建物18」と呼ばれる北側の部屋からは、円錐形の動物骨製の印章が出土した。円形の印面には、「男性?二人」が向かい合って各々台を使って「何か作業」を行っているのか、あるいは左側の人が右手で道具のような物を渡そうとして、右側の人が左手でそれを受ける瞬間なのかは推測の域だが、神的要素がないので日常生活の一コマを刻んでいるように思える。
アルカネス遺跡・共同墓地出土・動物骨製の印章
印面=円形/男性?二人・日常的な作業?のシーン
中期ミノア文明MMIA期・紀元前2000年頃/直径25mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号1177
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
印面=円形/男性?二人・日常的な作業?のシーン
中期ミノア文明MMIA期・紀元前2000年頃/直径25mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号1177
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
トロス式墳墓D
フォウルニ共同墓地サイトの最も南に位置するのがトロス式墳墓Dである。入口は南側、トロス部内径1.8mの「小型サイズ」の墳墓は、後期ミノア文明LMIIIA1期・紀元前1375年頃、クノッソス宮殿の最終崩壊で幕を閉じる「新宮殿時代」より後の埋葬とされ、内部には一人の女性が埋葬されていた。
この墳墓は被葬者の一人の女性のためだけに造営されたと考えられ、遺体と共に出土した金製ネックレースなど豪華な宝飾品は、「アルカネスの王女」の墳墓とされるトロス式墳墓Aに匹敵する内容であり、被葬者の女性が相当に高位の人物であったことを連想させる。
可能性としては、紀元前1450年頃、ギリシア本土からクレタ島へ侵攻したミケーネ人に系譜する、アルカネスの準宮殿に居住した尊貴な王族の一人と断定できるだろう。
フォウルニ共同墓地サイトの最も南に位置するのがトロス式墳墓Dである。入口は南側、トロス部内径1.8mの「小型サイズ」の墳墓は、後期ミノア文明LMIIIA1期・紀元前1375年頃、クノッソス宮殿の最終崩壊で幕を閉じる「新宮殿時代」より後の埋葬とされ、内部には一人の女性が埋葬されていた。
この墳墓は被葬者の一人の女性のためだけに造営されたと考えられ、遺体と共に出土した金製ネックレースなど豪華な宝飾品は、「アルカネスの王女」の墳墓とされるトロス式墳墓Aに匹敵する内容であり、被葬者の女性が相当に高位の人物であったことを連想させる。
可能性としては、紀元前1450年頃、ギリシア本土からクレタ島へ侵攻したミケーネ人に系譜する、アルカネスの準宮殿に居住した尊貴な王族の一人と断定できるだろう。
アルカネス遺跡・トロス式墳墓D出土・金製ネックレース
「8の字形」水晶&金製ビーズ(パピルス・ロゼッタなど)
後期ミノア文明LMIIIA2期・紀元前1350年頃
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
「8の字形」水晶&金製ビーズ(パピルス・ロゼッタなど)
後期ミノア文明LMIIIA2期・紀元前1350年頃
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
トロス式墳墓E
トロス式墳墓Γ(C)~南南東25mほど、最南端のトロス式墳墓D~北方18m付近、わずかな埋葬コンプレックを付属するトロス式墳墓Eがある。
トロス部内径4.5m、サイズ的にはトロス式墳墓Aと同様だが、墳墓Eはフォウルニ共同墓地で最も古い墳墓遺構であり、その埋葬は初期ミノア文明EMII期・紀元前2400年~EMIII期・紀元前2000年まで行われたとされる。
発掘時には岩盤の上に積み上げられたトロス部の壁面基礎部と、両脇に大型石板が立つ入口遺構(東側)が確認された。トロス内部は歴史の中で盗掘を免れ、EMII期の初期埋葬とやや遅れたEMIII期の埋葬の二つの層が確認された。
トロス式墳墓Γ(C)~南南東25mほど、最南端のトロス式墳墓D~北方18m付近、わずかな埋葬コンプレックを付属するトロス式墳墓Eがある。
トロス部内径4.5m、サイズ的にはトロス式墳墓Aと同様だが、墳墓Eはフォウルニ共同墓地で最も古い墳墓遺構であり、その埋葬は初期ミノア文明EMII期・紀元前2400年~EMIII期・紀元前2000年まで行われたとされる。
発掘時には岩盤の上に積み上げられたトロス部の壁面基礎部と、両脇に大型石板が立つ入口遺構(東側)が確認された。トロス内部は歴史の中で盗掘を免れ、EMII期の初期埋葬とやや遅れたEMIII期の埋葬の二つの層が確認された。
アルカネス遺跡・フォウルニ共同墓地・トロス式墳墓E
東方~入口~トロス部を見る
初期ミノア文明・紀元前2400年~前2000年
クレタ島・中央北部/1994年
東方~入口~トロス部を見る
初期ミノア文明・紀元前2400年~前2000年
クレタ島・中央北部/1994年
トロス式墳墓Eの初期ミノア文明EMII期の埋葬では二つのラルナックス陶棺が使われたが、トロス内部の埋葬の大半はEMIII期の埋葬に属すると判断されている。
より後期の埋葬では合計56人分の遺体が確認され、それらの2/3の遺体は積み重ねられた29基のラルナックス陶棺と大型のピトス容器の陶棺に、そして残りの遺体は床面に安置された状態であったとされる。初期の埋葬層でも、より後期の埋葬層からも、被葬者が身に付けていた多くの印象などが出土している。
より後期の埋葬では合計56人分の遺体が確認され、それらの2/3の遺体は積み重ねられた29基のラルナックス陶棺と大型のピトス容器の陶棺に、そして残りの遺体は床面に安置された状態であったとされる。初期の埋葬層でも、より後期の埋葬層からも、被葬者が身に付けていた多くの印象などが出土している。
ミケーネ様式の竪穴墓群
「アルカネスの王女」の墳墓のトロス式墳墓A~北西20m付近、フォウルニ共同墓地サイトの最北区画、ミケーネ様式の竪穴墓群 Mycenaean Shaft Grave がある。
岩盤を掘削した墳墓はまとまって合計7基が確認され、中にはラルナックス陶棺が納められていたが、歴史の中ですべて盗掘されていたため、豪華な宝飾品などは残されていなかった。
かつて墳墓群は周囲を壁面で囲まれていたとされるが、現在はわずかに西側にその痕跡が残されている。竪穴墳墓群は後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年の埋葬に使われたとされる。
墳墓脇に「墓標」を立て、意図的に墳墓群を「囲む形式」はクレタ島ミノア文明では例がなく、ミケーネ文明に系統する特殊な墳墓形式であり、被葬者は間違いなく紀元前1450年頃、クレタ島へ侵攻したミケーネ人系譜の人達であったと断定できる。
墓標と墳墓の周囲を建造物で囲む墳墓形式の典型例では、アルカネスと規模は異なるが、ギリシア本土の世界遺産/ミケーネ宮殿遺跡の円形墳墓A&円形墳墓Bがある。
「アルカネスの王女」の墳墓のトロス式墳墓A~北西20m付近、フォウルニ共同墓地サイトの最北区画、ミケーネ様式の竪穴墓群 Mycenaean Shaft Grave がある。
岩盤を掘削した墳墓はまとまって合計7基が確認され、中にはラルナックス陶棺が納められていたが、歴史の中ですべて盗掘されていたため、豪華な宝飾品などは残されていなかった。
かつて墳墓群は周囲を壁面で囲まれていたとされるが、現在はわずかに西側にその痕跡が残されている。竪穴墳墓群は後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年の埋葬に使われたとされる。
墳墓脇に「墓標」を立て、意図的に墳墓群を「囲む形式」はクレタ島ミノア文明では例がなく、ミケーネ文明に系統する特殊な墳墓形式であり、被葬者は間違いなく紀元前1450年頃、クレタ島へ侵攻したミケーネ人系譜の人達であったと断定できる。
墓標と墳墓の周囲を建造物で囲む墳墓形式の典型例では、アルカネスと規模は異なるが、ギリシア本土の世界遺産/ミケーネ宮殿遺跡の円形墳墓A&円形墳墓Bがある。
アルカネス遺跡・フォウルニ共同墓地・竪穴墓群
墓標&周囲建造物=ミケーネ文明の墳墓形式
後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年
クレタ島・中央北部/1994年
墓標&周囲建造物=ミケーネ文明の墳墓形式
後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年
クレタ島・中央北部/1994年
世界遺産/ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A
6基の竪穴墓を内径25mの二重石板が円周する
ペロポネソス・アルゴス地方/1982年
6基の竪穴墓を内径25mの二重石板が円周する
ペロポネソス・アルゴス地方/1982年
GPS 世界遺産/ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A: 37°43′49.50″N 22°45′23″E/標高240m
埋葬準備&管理の「建物4」
「アルカネスの王女」のトロス式墳墓A~南南東55m、トロス式墳墓B~北東20m付近、フォウルニ共同墓地サイトの東端区域、「建物4」と呼ばれる長方形の遺構がある。「二階建て」とされるこの建物は、墓地のほかの埋葬施設とは異なり、埋葬の準備と墓地の管理に限定して、後期ミノア文明LMIA期・紀元前1550年~前1500年、短い期間に使われた施設と考えられている。
発掘では、南北に長い二つの大きな部屋が並び、東側の部屋からは間違いなく上階から崩落したと推測できる40個以上の機織り重りが見つかっている。この出土品からは、間違いなく上階の部屋では「何か」を、仮想だが埋葬前に「遺体を包む布」を織っていた可能性が連想できる。
さらにワイン用のブドウ搾りプレス装置や約250個を数える小型サイズの石製カップが見つかっている。これらの出土品からは、この建物の一階レベルではワインを醸造する部屋があり、別の部屋ではアルカネスの住民の埋葬に関わる祭祀が執り行われ、故人との別れの儀式ではワインを注いだ石製カップが使われたと推測できる。
なお、墳墓や埋葬施設から出土した小型の石製カップでは、カミラーリ遺跡やプラタノス遺跡など南西部・メッサラ様式の円形墳墓から多数の出土例がある。
「アルカネスの王女」のトロス式墳墓A~南南東55m、トロス式墳墓B~北東20m付近、フォウルニ共同墓地サイトの東端区域、「建物4」と呼ばれる長方形の遺構がある。「二階建て」とされるこの建物は、墓地のほかの埋葬施設とは異なり、埋葬の準備と墓地の管理に限定して、後期ミノア文明LMIA期・紀元前1550年~前1500年、短い期間に使われた施設と考えられている。
発掘では、南北に長い二つの大きな部屋が並び、東側の部屋からは間違いなく上階から崩落したと推測できる40個以上の機織り重りが見つかっている。この出土品からは、間違いなく上階の部屋では「何か」を、仮想だが埋葬前に「遺体を包む布」を織っていた可能性が連想できる。
さらにワイン用のブドウ搾りプレス装置や約250個を数える小型サイズの石製カップが見つかっている。これらの出土品からは、この建物の一階レベルではワインを醸造する部屋があり、別の部屋ではアルカネスの住民の埋葬に関わる祭祀が執り行われ、故人との別れの儀式ではワインを注いだ石製カップが使われたと推測できる。
なお、墳墓や埋葬施設から出土した小型の石製カップでは、カミラーリ遺跡やプラタノス遺跡など南西部・メッサラ様式の円形墳墓から多数の出土例がある。
プラタノス遺跡・メッサラ様式の円形墳墓B
左側・大型石材=トロス部の入口遺構
クレタ島・メッサラ平野/1982年
左側・大型石材=トロス部の入口遺構
クレタ島・メッサラ平野/1982年
関連Blog情報: ミノア文明・カミラーリ遺跡 Kamilari
アルカネス遺跡からの出土品
アルカネスの断続的で長期の発掘ミッションにより、市街地の準宮殿の遺構とフォウルニ共同墓地からは無数の出土品がもたらされた。出土のピンポイントは不明だが、特に墳墓遺構からは女性用の宝飾品が顕著である。
そのうち、サイズと形状の異なるカーネリアンの濃い赤色玉と金製ビーズの組み合わせの豪華で美しいネックレースがある。金製ビーズの一部には、ミノア文明の高度な工芸技法・「黄金の造粒技術 Gold Granulation」の微細粒加工が施されている。
アルカネスの断続的で長期の発掘ミッションにより、市街地の準宮殿の遺構とフォウルニ共同墓地からは無数の出土品がもたらされた。出土のピンポイントは不明だが、特に墳墓遺構からは女性用の宝飾品が顕著である。
そのうち、サイズと形状の異なるカーネリアンの濃い赤色玉と金製ビーズの組み合わせの豪華で美しいネックレースがある。金製ビーズの一部には、ミノア文明の高度な工芸技法・「黄金の造粒技術 Gold Granulation」の微細粒加工が施されている。
アルカネス遺跡・共同墓地出土・カーネリアン・ネックレース
金製部分=「黄金の造粒技術」の装飾
イラクリオン考古学博物館・登録番号2268
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
金製部分=「黄金の造粒技術」の装飾
イラクリオン考古学博物館・登録番号2268
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
エヴァンズの発掘レポート(1930年)で確認できるが、(ピンポイント場所=不明)アルカネス近郊の横穴墓の発掘では、ミノア文明の工芸モチーフの代表格である「雄牛跳び」を刻んだ金製リングが見つかっている。
かつて自身が館長を務めたエヴァンズが、オクスフォード大学 Ashmolean 博物館へ寄贈したとされる、横幅34mm・縦幅22mmのオーバル形、やや凸状の印面にインタリオ(凹)で刻まれた、極めて動的で迫力ある雄牛跳びのシーンでは、短めの巻き毛の青年が走る雄牛の背上で逆立ちする姿を捉えている。
弓なりで腰巻姿の青年の両足は雄牛の尾を越えて風圧で雄牛の後方へ延び、右腕は雄牛の浮き出た肋骨(あばらぼね)付近、左腕は背骨に置かれている。また、二重紋様の地面か草原か、走行する雄牛の前方に刻まれた縦長の「物体」は、エヴァンズの言う「聖なる結び目 Sacral Knot」とする研究者も居る。
かつて自身が館長を務めたエヴァンズが、オクスフォード大学 Ashmolean 博物館へ寄贈したとされる、横幅34mm・縦幅22mmのオーバル形、やや凸状の印面にインタリオ(凹)で刻まれた、極めて動的で迫力ある雄牛跳びのシーンでは、短めの巻き毛の青年が走る雄牛の背上で逆立ちする姿を捉えている。
弓なりで腰巻姿の青年の両足は雄牛の尾を越えて風圧で雄牛の後方へ延び、右腕は雄牛の浮き出た肋骨(あばらぼね)付近、左腕は背骨に置かれている。また、二重紋様の地面か草原か、走行する雄牛の前方に刻まれた縦長の「物体」は、エヴァンズの言う「聖なる結び目 Sacral Knot」とする研究者も居る。
アルカネス近郊・横穴墓出土・金製リング・《雄牛跳び》
後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1375年
Ashmolean Museum, U. Oxford (UK)
登録番号AN1896-1908-AE2237/横幅34mm
※Sir Arthur John Evans 寄贈
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1375年
Ashmolean Museum, U. Oxford (UK)
登録番号AN1896-1908-AE2237/横幅34mm
※Sir Arthur John Evans 寄贈
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
アルカネス地区におけるエヴァンズの初期の発掘では、部分欠損しているが、メス牛?が寝そべっている姿を刻んだ円形レンズ型のカーネリアン製の印章が見つかっている。1938年、現物はエヴァンズによりアシュモレアン博物館へ寄贈された。
アルカネス遺跡出土・石製印章
印面=円形・カーネリアン製・寝そべるメス牛?
後期ミノア文明LMI期~II期・紀元前1550年~前1450年
Ashmolean Museum, U. Oxford (UK)
登録番号AN1938-1086/直径16mm
※Sir Arthur John Evans 寄贈(1938年)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
印面=円形・カーネリアン製・寝そべるメス牛?
後期ミノア文明LMI期~II期・紀元前1550年~前1450年
Ashmolean Museum, U. Oxford (UK)
登録番号AN1938-1086/直径16mm
※Sir Arthur John Evans 寄贈(1938年)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
さらに出土場所のピンポイントは不明だが、エヴァンズの寄贈とされる石製の印章がある。カルセドニー製のクッション形状の印面には、崖下で吠えるイヌと崖上で余裕で見下げている野生ヤギが刻まれている。ややユーモラスなシーンだが、動物世界であり得る情景を観察した印章職人のシャープな気質が見て取れる作品である。
アルカネス遺跡出土・カルセドニー製の印章
印面=クッション形状/イヌと崖上の野生ヤギ
中期ミノア文明MMIIIB期~後期LMIA期・紀元前1600年~前1500年
Ashmolean Museum, U. Oxford (UK)
登録番号AN1938-954/横12mm・縦15mm
※Sir Arthur John Evans 寄贈(1938年)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
印面=クッション形状/イヌと崖上の野生ヤギ
中期ミノア文明MMIIIB期~後期LMIA期・紀元前1600年~前1500年
Ashmolean Museum, U. Oxford (UK)
登録番号AN1938-954/横12mm・縦15mm
※Sir Arthur John Evans 寄贈(1938年)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
出土場所のピンポイントは不明だが、やはり1938年に「アルカネス出土」としてエヴァンズがアシュモレアン博物館へ寄贈した水晶製の印章がある。
中期ミノア文明MMIA期・紀元前2000年~前1900年の製作とされ、穴開き摘み付きのキレイなボタン型の外観、直径12.5mmの印面には、「ボロミアン環 Borromean Ring」に似た「三ツ輪」が刻まれている。
摘みの形状は異なり、製作時期がアルカネスの印章より三世紀ほど遅いが、同じような「三ツ輪」を刻んだ水晶製の印章が、メッサラ平野のカミラーリ遺跡・トロス式墳墓Aの付属埋葬施設からも出土している。
中期ミノア文明MMIA期・紀元前2000年~前1900年の製作とされ、穴開き摘み付きのキレイなボタン型の外観、直径12.5mmの印面には、「ボロミアン環 Borromean Ring」に似た「三ツ輪」が刻まれている。
摘みの形状は異なり、製作時期がアルカネスの印章より三世紀ほど遅いが、同じような「三ツ輪」を刻んだ水晶製の印章が、メッサラ平野のカミラーリ遺跡・トロス式墳墓Aの付属埋葬施設からも出土している。
アルカネス遺跡出土・水晶製の印章
印面=円形・「三ツ輪」の刻み
中期ミノア文明MMIA期・紀元前2000年~前1900年
Ashmolean Museum, U. Oxford (UK)
登録番号AN1938-785/直径12.5mm
※Sir Arthur John Evans 寄贈(1938年)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
印面=円形・「三ツ輪」の刻み
中期ミノア文明MMIA期・紀元前2000年~前1900年
Ashmolean Museum, U. Oxford (UK)
登録番号AN1938-785/直径12.5mm
※Sir Arthur John Evans 寄贈(1938年)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
カミラーリ遺跡・円形墳墓A出土・水晶製の印章
印面=円形・「三つ輪」の刻み
中期ミノア文明MMIIB-MMIIIA期・紀元前1700年~前1600年
イラクリオン考古学博物館・登録番号2167/直径18mm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej
印面=円形・「三つ輪」の刻み
中期ミノア文明MMIIB-MMIIIA期・紀元前1700年~前1600年
イラクリオン考古学博物館・登録番号2167/直径18mm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej
関連Blog情報: ミノア文明・カミラーリ遺跡 Kamilari
参考だが、輪・同心円や格子・網目紋様、直線放射や六角星型、ロゼッタ紋様など、色々な幾何学的モチーフを刻んだ石製の印章と粘土印影では、メッサラ平野・フェストス宮殿遺跡とその東北東1.3km付近のカリヴィア共同墓地遺跡 Kalivia からの出土例が、クノッソス宮殿遺跡や周辺遺跡より遥かに多い。
「三ツ輪」ではないが、フェストス宮殿遺跡・西翼部・西貯蔵庫群の管理を行っていた円柱&舗装の部屋からは、三重曲線輪の組み合わせを表現した粘土印影が見つかっている。印面の直径は約16mm、おそらくは硬質石材の印章に彫刻されたものと思うが、現代アート作品でも使えそうなバランスの良い精緻な曲線デザインである。
「三ツ輪」ではないが、フェストス宮殿遺跡・西翼部・西貯蔵庫群の管理を行っていた円柱&舗装の部屋からは、三重曲線輪の組み合わせを表現した粘土印影が見つかっている。印面の直径は約16mm、おそらくは硬質石材の印章に彫刻されたものと思うが、現代アート作品でも使えそうなバランスの良い精緻な曲線デザインである。
フェストス宮殿遺跡・西翼部・円柱&舗装の部屋・粘土印影
印章=円形・直径16mm/印影=三重曲線の組み合わせ
中期ミノア文明MMIIB期・紀元前1650年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号769
参考情報:CMS, Heidelberg U. (DE)
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej
印章=円形・直径16mm/印影=三重曲線の組み合わせ
中期ミノア文明MMIIB期・紀元前1650年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号769
参考情報:CMS, Heidelberg U. (DE)
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej
関連Blog情報: ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaestos Palace I
アルカネス遺跡・共同墓地からは、中期ミノア文明MMIA期・紀元前2000年~前1900年の子供の埋葬ピトス容器の副葬品だったのか、テラコッタ製の楽器・シストルムも出土している。手で振ることで三枚の円盤がカタカタ音を出し、共鳴胴の機能を果たす内部が中空のハンドルから響き音が出る仕組みであった。
アルカネス遺跡・共同墓地出土・シストルム
子供埋葬ピトスの副葬品・テラコッタ製の楽器
中期ミノア文明MMIA期・紀元前2000年~前1900年
イラクリオン考古学博物館・登録番号27695/高さ18cm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
子供埋葬ピトスの副葬品・テラコッタ製の楽器
中期ミノア文明MMIA期・紀元前2000年~前1900年
イラクリオン考古学博物館・登録番号27695/高さ18cm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
楽器・シストラム
メッサラ平野のアギア・トリアダ遺跡・準宮殿の石製ベンチの部屋の区画から出土した、滑石・ステアタイト製の《刈取人夫達のリュトン杯 Harvester Vase》では、行進する男達の中で歩行リズムを奏でるシストラムを振る男性が浮彫表現されている。このリュトン杯は「新宮殿時代」の石製工芸品を代表する見事な作品である。
アギア・トリアダ遺跡出土・石製の「刈取人夫達のリュトン杯」
楽器シストルムを振る人夫=歩行リズム
イラクリオン考古学博物館・登録番号184
クレタ島・メッサラ平野/1996年
関連Blog情報: ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡 Agia Triada
アルカネス遺跡出土とされる象牙製品がある。先ず、「疾走するライオン」、いわゆる「Flying Gallop」と呼ばれる形式の横幅10cmの彫刻品、そして節角の「野生ヤギ」の振り向き姿を刻んだ製品である。
象牙材でありやや腐食が進み、二品の彫刻はやや判別し難い状態だが、脚が太い野生ヤギの足元には植物か低木が表現されている。
象牙材でありやや腐食が進み、二品の彫刻はやや判別し難い状態だが、脚が太い野生ヤギの足元には植物か低木が表現されている。
アルカネス遺跡出土・象牙製品
上=疾走するライオン・「Flying Gallop」/横10cm
イラクリオン考古学博物館・登録番号356
下=後ろを振り向く節角の野生ヤギと植物/横8cm
イラクリオン考古学博物館・登録番号366
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
上=疾走するライオン・「Flying Gallop」/横10cm
イラクリオン考古学博物館・登録番号356
下=後ろを振り向く節角の野生ヤギと植物/横8cm
イラクリオン考古学博物館・登録番号366
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
なお、象牙製品ではないが、ライオンの疾走シーン・「Flying Gallop」のモチーフ表現では、ギリシア本土ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓Aから出土した金製ゴブレット杯がある。典型的なミケーネ様式のリングハンドル付き、非常にシンプルな形容のゴブレット杯の側面に、疾走するライオンが打出し加工で表現されている。
ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A出土・金製ゴブレット杯
疾走するライオン・「Flying Gallop」の打出し加工
ミケーネ文明LHI期・紀元前1550年~前1500年
アテネ国立考古学博物館・登録番号656/高さ100mm
ペロポネソス・アルゴス地方/描画:legend ej
疾走するライオン・「Flying Gallop」の打出し加工
ミケーネ文明LHI期・紀元前1550年~前1500年
アテネ国立考古学博物館・登録番号656/高さ100mm
ペロポネソス・アルゴス地方/描画:legend ej
アルカネス近郊のミノア文明の遺跡
アメノスピリア遺跡
アルカネス市街の準宮殿の遺構~北北西2.5km、フォウルニ共同墓地~北西1.7km付近、山頂聖所のユクタスの岩尾根の北端で発掘されたアメノスピリア遺跡 Amenospilia では、現在、四部屋と付属施設で構成された14m四方のほぼ正方形の遺構が残されている。
この建物は「旧宮殿時代」の終わり、中期ミノア文明MMIIB期・紀元前1650年頃、ミノアの諸宮殿も被害を被った大きな地震と火災により崩壊したと判断されているが、建物の用途に関しては不明な点が多く、複数の研究者から諸説が提唱されている。
遺構の発掘ミッションは、1979年、アルカネスの準宮殿の遺構やフォウルニの尾根の発掘を行った Yannis Sakellarakis が担当した。
「神殿 or 聖所」のような整然とした造りの建物遺構からは、祭壇状の階段や周囲に陶器が散在していた祭壇跡が確認され、穀物を収納したのか大型のピトス容器、テラコッタ製の奉納テーブルなどが見つかっている。
さらに崩落石材に押しつぶされた人骨、骨格から比較的若い女性、指輪を付け鍛えられた骨格の男性、そして装飾が施された青銅製の短剣を差した若い男性など、複数の遺体も確認された。
遺構からの出土品は決して多くはなかったが、少なくとも四人の遺体が見つかっている点を重視して、この建物では人間を生贄として神に捧げる「人身御供(ひとみごくう)」が行われていたとする、異例の見解を提唱している研究者も居る。
ただ、建物がクノッソス宮殿やメッサラ平野のフェストス宮殿など諸宮殿にも被害が出るほどの強い地震で崩壊していることから、遺体は建物崩壊前に逃げ遅れ、運悪く崩落石材で押し潰された可能性が高く、たまたま偶然に建物内部に居た人達が、地震の犠牲となったかもしれない。
「旧宮殿時代」の終末期、平和と繁栄が続いたミノア文明の人々が、ほかの遺跡では例を見ない「人身御供」を行う必要性とその理由を証明するのは、現在の考古学情報からは相当に難しい、と言えるであろう。
アルカネス市街の準宮殿の遺構~北北西2.5km、フォウルニ共同墓地~北西1.7km付近、山頂聖所のユクタスの岩尾根の北端で発掘されたアメノスピリア遺跡 Amenospilia では、現在、四部屋と付属施設で構成された14m四方のほぼ正方形の遺構が残されている。
この建物は「旧宮殿時代」の終わり、中期ミノア文明MMIIB期・紀元前1650年頃、ミノアの諸宮殿も被害を被った大きな地震と火災により崩壊したと判断されているが、建物の用途に関しては不明な点が多く、複数の研究者から諸説が提唱されている。
遺構の発掘ミッションは、1979年、アルカネスの準宮殿の遺構やフォウルニの尾根の発掘を行った Yannis Sakellarakis が担当した。
「神殿 or 聖所」のような整然とした造りの建物遺構からは、祭壇状の階段や周囲に陶器が散在していた祭壇跡が確認され、穀物を収納したのか大型のピトス容器、テラコッタ製の奉納テーブルなどが見つかっている。
さらに崩落石材に押しつぶされた人骨、骨格から比較的若い女性、指輪を付け鍛えられた骨格の男性、そして装飾が施された青銅製の短剣を差した若い男性など、複数の遺体も確認された。
遺構からの出土品は決して多くはなかったが、少なくとも四人の遺体が見つかっている点を重視して、この建物では人間を生贄として神に捧げる「人身御供(ひとみごくう)」が行われていたとする、異例の見解を提唱している研究者も居る。
ただ、建物がクノッソス宮殿やメッサラ平野のフェストス宮殿など諸宮殿にも被害が出るほどの強い地震で崩壊していることから、遺体は建物崩壊前に逃げ遅れ、運悪く崩落石材で押し潰された可能性が高く、たまたま偶然に建物内部に居た人達が、地震の犠牲となったかもしれない。
「旧宮殿時代」の終末期、平和と繁栄が続いたミノア文明の人々が、ほかの遺跡では例を見ない「人身御供」を行う必要性とその理由を証明するのは、現在の考古学情報からは相当に難しい、と言えるであろう。
GPS アメノスピリア遺跡: 35°15′19.50″N 25°08′40.50″E/標高425m
ユクタス山頂聖所
アルカネス市街の西方には、最標高811m、細長いユクタス山系 Mt. Juktas の岩尾根が南北約5kmに延びている。尾根の北端がアメノスピリア遺跡付近である。
1909年、クノッソス宮殿遺跡の発掘者エヴァンズは、「ゼウス埋葬の地」の伝説が残るユクタス山で発掘ミッションを実施、ミノア文明の山頂聖所の遺構を発見した。
遺構自体は後期ミノア文明に属すると判断されたが、発掘では中期ミノア文明I期~II期・紀元前2000年~前1700年に遡る装飾モチーフの陶器や塑像、線文字Aスクリプトが刻まれた石製の容器、青銅製の両刃斧や石製の雄牛角型オブジェ、さらに中期ミノア文明III期・「旧宮殿時代」の初め頃の陶器片などが見つかっている。
これらの出土品からクノッソス宮殿やアルカネス居住地から最も近いユクタス山頂聖所は、ミノア文明の早い時期から長い間人々から崇拝された非常に重要な聖地であった、と研究者は推測している。
ユクタス山系の険しい崖斜面では、新石器文化からの居住の痕跡が確認された Stavomiti Cave、Chostou Nerou Cave などの洞窟が見つかっている。
アルカネス市街の西方には、最標高811m、細長いユクタス山系 Mt. Juktas の岩尾根が南北約5kmに延びている。尾根の北端がアメノスピリア遺跡付近である。
1909年、クノッソス宮殿遺跡の発掘者エヴァンズは、「ゼウス埋葬の地」の伝説が残るユクタス山で発掘ミッションを実施、ミノア文明の山頂聖所の遺構を発見した。
遺構自体は後期ミノア文明に属すると判断されたが、発掘では中期ミノア文明I期~II期・紀元前2000年~前1700年に遡る装飾モチーフの陶器や塑像、線文字Aスクリプトが刻まれた石製の容器、青銅製の両刃斧や石製の雄牛角型オブジェ、さらに中期ミノア文明III期・「旧宮殿時代」の初め頃の陶器片などが見つかっている。
これらの出土品からクノッソス宮殿やアルカネス居住地から最も近いユクタス山頂聖所は、ミノア文明の早い時期から長い間人々から崇拝された非常に重要な聖地であった、と研究者は推測している。
ユクタス山系の険しい崖斜面では、新石器文化からの居住の痕跡が確認された Stavomiti Cave、Chostou Nerou Cave などの洞窟が見つかっている。
GPS ユクタス山頂聖所遺跡: 35°14′24″N 25°08′30″E/標高785m
ヴァシイペトロン遺跡
アルカネス市街地~南南西3km、ミノア・ワインの醸造を行っていたヴァシイペトロン遺跡 Vathypetron がある。整然とした邸宅遺構の一角にある建物にはワイン用のブドウ搾りプレス装置(上述写真)が、さらに野外には風化が進んでいるが石製のオリーブ油搾り装置もある。
ブドウ搾りプレス装置では、ヴァシイペトロン遺跡のみならず、フォウルニ共同墓地、東部のグルーニア遺跡や最東部のアノ・ザクロス邸宅遺跡からも出土、さらにメッサラ平野のアペソカリ遺跡・円形墳墓からは搾りプレス容器の模型が発見されているように、クレタ島ミノア文明では多くの場所でワイン醸造が盛んに行われていた。
アルカネス市街地~南南西3km、ミノア・ワインの醸造を行っていたヴァシイペトロン遺跡 Vathypetron がある。整然とした邸宅遺構の一角にある建物にはワイン用のブドウ搾りプレス装置(上述写真)が、さらに野外には風化が進んでいるが石製のオリーブ油搾り装置もある。
ブドウ搾りプレス装置では、ヴァシイペトロン遺跡のみならず、フォウルニ共同墓地、東部のグルーニア遺跡や最東部のアノ・ザクロス邸宅遺跡からも出土、さらにメッサラ平野のアペソカリ遺跡・円形墳墓からは搾りプレス容器の模型が発見されているように、クレタ島ミノア文明では多くの場所でワイン醸造が盛んに行われていた。
ヴァシイペトロン遺跡・結晶片岩の舗装広間
南北通路が主部屋へ延びる/左方は貯蔵庫
邸宅サイトの周辺にはブドウ畑が広がる
クレタ島・中央北部/1982年
南北通路が主部屋へ延びる/左方は貯蔵庫
邸宅サイトの周辺にはブドウ畑が広がる
クレタ島・中央北部/1982年
ヴァシイペトロン遺跡・オリーブ油搾りプレス装置
クレタ島・中央北部/1982年
クレタ島・中央北部/1982年
ミノア文明・ワインプレス 例/副葬品の模型&実用型
・左=アペソカリ遺跡・トロス式墳墓A出土・副葬品の模型
・右=東部・グルーニア遺跡出土・実用型テラコッタ製品
NTS(Not to Scale)/描画:legend ej
・左=アペソカリ遺跡・トロス式墳墓A出土・副葬品の模型
・右=東部・グルーニア遺跡出土・実用型テラコッタ製品
NTS(Not to Scale)/描画:legend ej
クノッソス宮殿遺跡 関連は「12部構成」となっています。
1. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace I 概要
2. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace II 西中庭~南翼部
3. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace III 中央中庭・王座の間
4. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IV 聖域・宝庫
5. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace V 貯蔵庫
6. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VI 女神パリジェンヌ
7. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VII 王の居室・聖所
8. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VIII 王妃の間
9. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IX 雄牛跳び
10. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace X 北~東翼部
11. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 周辺の先史遺跡
12. ミノア文明・クノッソス宮殿 崩壊の原因は?
2. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace II 西中庭~南翼部
3. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace III 中央中庭・王座の間
4. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IV 聖域・宝庫
5. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace V 貯蔵庫
6. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VI 女神パリジェンヌ
7. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VII 王の居室・聖所
8. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VIII 王妃の間
9. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IX 雄牛跳び
10. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace X 北~東翼部
11. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 周辺の先史遺跡
12. ミノア文明・クノッソス宮殿 崩壊の原因は?
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