2020/01/28

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaestos Palace I


ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaestos Palace は「二部構成」となっています。
1. ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaestos Palace I(当ポスト)
2. ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaestos Palace II 東~北東翼部・フェストス宮殿の円盤・南西翼部

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フェストス宮殿の役割と歴史

位置
クレタ島・南西部・メッサラ平野/イラクリオン~南西45km・レセィムノン~南東45km
※レセィムノン Rethymnon: 別名 レシムノ
GPS
フェストス宮殿遺跡: 35°03′05″N 24°48′51″E/標高85m


フェストス宮殿の役割

クレタ島の南西部に建てられたヨーロッパの「最初の文明」である、ミノア文明のフェストス宮殿(ファイストス Phaeston/Phaistos Palace)の主たる役目は、疑うことなく、目の前に広がるクレタ島最大のメッサラ農耕平野 Messara を管理することであった。
平野の少ないこのクレタ島にあって、メッサラ平野での農産物の収穫は、ミノア王国全体の経済を担い、人々の生活に大きな影響を及ぼしていたと考えられる。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・大階段周辺 Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・西中庭~大階段~西翼部
クレタ島・メッサラ平野/1982年

クレタ島・メッサラ平野/©legend ej
フェストス宮殿遺跡から南東方向・メッサラ平野
左遠方山地=「Vigla- Krio Nero自然保護区」(最高峰640m)
クレタ島/1982年


クレタ島ミノア文明の宮殿遺跡(4か所)

・中央北部・ミノア文明センター・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace
・南西部・メッサラ平野・フェストス宮殿遺跡 Phaestos/Phaistos Palace
・北海岸・マーリア宮殿遺跡 Malia Palace
・最東部・ザクロス宮殿遺跡 Zakros Palace

クレタ島ミノア文明・宮殿群 地図 Map of Minoan Palaces in Crete/©legend ej
クレタ島・ミノア文明・宮殿遺跡 地図
作図:legend ej

クレタ島南西部・メッサラ平野・ミノア文明・遺跡 地図 Map of Minoan Archaeological Sites at Messara/©legend ej
クレタ島南西部・メッサラ平野・ミノア文明・遺跡 地図
作図:legend ej

「新メッサラ考古学博物館」開館
ゴルティス遺跡~西南西1km、フェストス宮殿遺跡~東北東11km、幹線道路N97号脇、2020年、「新メッサラ考古学博物館 New Archaeological Museum of Messara」が開館した。

GPS 新メッサラ考古学博物館: 35°03′36″N 24°56′16″E/標高160m

フェストス宮殿の歴史

フェストス宮殿遺跡の発掘ミッションは伝統的にイタリア考古学チームが担当している。クノッソス宮殿と同様に、このフェストス宮殿は中期ミノア文明MMIB期、紀元前1900年頃、最初の旧宮殿が建てられ、「旧宮殿時代 Old Palace Era」が始まる。
発掘で明らかになっているが、おおよそ3世紀/300年間ほど使われた旧宮殿の建物は、火災、又は地震で三度部分崩壊をしている。その度に修復と再建を繰り返したが、最終的にはほかのミノア宮殿と同様に、紀元前1625年頃、旧宮殿の建物敷地を利用して新宮殿が造営され、ミノア文明は大繁栄の「新宮殿時代 New Palace Era」を迎える。

研究者は中期ミノア文明MMIB期・ 紀元前1900年頃から始まる「旧宮殿時代」、そして中期ミノア文明MMIIIA期・ 紀元前1625年頃~後期ミノア文明LMIIIA1期・ 紀元前1375年頃のクノッソス宮殿の崩壊までの「新宮殿時代」を合わせて「宮殿時代 Palace Era」と呼ぶ。ミノアの宮殿時代の繁栄は約500年間続いた。

ミノア文明&ミケーネ文明 編年表/©legend ej
クレタ島ミノア文明&ギリシア本土ミケーネ文明 編年表
・ミノア文明・「旧宮殿時代」: 紀元前1900年~前1625年
・ミノア文明・「新宮殿時代」: 紀元前1625年~前1375年
ミケーネ文明(時代):  後期ヘラディック文明 LH期
作図:legend ej

フェストスの新宮殿の崩壊は、クノッソス宮殿を除く、ほかのマーリア宮殿とザクロス宮殿、そして無数の邸宅や各地の町などが破壊される紀元前1450年頃と推定され、新宮殿の生命は250年間ほどで決して長くは続かなかった。
ただ北西2km(道路3.5km)にあるアギア・トリアダの「準宮殿」と同様に、その後の「侵攻ミケーネ人」の統治時代には新宮殿の崩壊建物の一部で再居住があったことが分かっている。


ミノア文明・フェストス宮殿遺跡&周辺 地図 Minoan Site, Map around Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡 周辺・ミノア文明遺跡 地図
クレタ島・メッサラ平野/作図:legend ej

現在、ツーリストが見ることのできる遺構の大部分は、比較的保存状態が良い新宮殿の崩壊時の基礎部分である。一方、「旧宮殿時代」の遺構は破壊レベルが激しく、一部の区画にはプラスチック屋根で保護カバーされ、立ち入りが制限されている箇所もある。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡/Google Earth
フェストス宮殿遺跡
クレタ島・メッサラ平野
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Great Staircase, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・大階段周辺
クレタ島・メッサラ平野
1982年/描画:legend ej

フェストスの居住の変遷
フェストス宮殿遺跡の残る丘陵とその麓では、早くも6,000年前の新石器時代から居住が始まり、プラスチック屋根カバーの南西区画や中央中庭の下層などから新石器時代の陶器や石器類などが見つかっている。
その後、ミノア文明の初期から旧宮殿と新宮殿が建てられた宮殿時代を経て、一部はヘレニズム時代まで、フェストスでは非常に長期間にわたり人々に居住されていたことが分かっている。
ミノア時代の居住が最も繁栄した時期で、その規模はフェストス宮殿の建つ尾根とその麓は当然のこと、宮殿から南方700m、民家30軒の現在のアギオス・イオアニス Agios Ioannis 地区付近まで、フェストスの広域居住地が広がっていたと想定できる。
文明センターのクノッソス宮殿と同様に、フェストス宮殿は周辺市街とメッサラ平野からの農産物の収穫を管理していた。ただし、時代の変化と共に再居住が繰り返されたフェストスの致命的な破壊と最終崩壊は、紀元前2世紀頃、東方12km、ミノア文明の邸宅遺跡が残る現在のミトロポリス村周辺 Mitropolis で興隆したゴルティス(ゴルティン Gortyn)からの攻撃であった。

古代ギリシア文明・ゴルティン遺跡 Gortyn, Crete/©legend ej
古代ゴルティン遺跡
クレタ島・メッサラ平野/1982年

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フェストス宮殿の建物配置と構成

ミノア宮殿建築/尾根と段差の活用

部屋数1,000室を誇ったミノア文明センターのクノッソス宮殿には及ばないが、文明の最大規模のフェストスの新宮殿の建物配置と構成は、クノッソス宮殿やマーリア宮殿などと同様に、ミノア時代の伝統的なスタイルに従い中央中庭 Central Court を設けている。
少しだけほかの宮殿と異なる点は、旧宮殿の建物・施設を限りなく再使用する、高いレベルの計画的な設計プランの下で新宮殿を造営した、と考えられる。サイト全体が尾根丘の頂上全体に広がり、斜面や段差を効果的に利用している点もフェストス宮殿の大きな特徴でもある。

フェストス宮殿では、儀式用と宗教的な施設や王と家族の「プライベート生活区画」など、宮殿の重要な機能をもった区画は主に中央中庭の西側と北側に集中している。また、丘を隅々まで100%活用して宮殿が建てられたことから、残念ながら長い年月の経過で丘の端面付近では崩落が起こり、中央中庭の一部を含め、部分的に失われている箇所もある。

さらに不思議なことに、クノッソス宮殿を初め、マーリア宮殿、ザクロス宮殿などすべてのミノア宮殿に共通している事実だが、このフェストス宮殿でも、宮殿を囲む城壁の存在がまったく確認されていない。
王の住む宮殿でありながら、城壁も城門もない宮殿の存在こそが、「ミノア文明の七不思議」の一つとも言える。旧宮殿の造営~新宮殿の崩壊まで約500年あまりの長期間、クレタ島のすべてのミノア宮殿は無防備に等しい環境の中にあって、王国の繁栄と文化の発展を遂げてきた。
このことは戦いが当たり前であった先史時代の東地中海域にあっては、稀な幸運であったと同時に、自然を愛したミノアの人々が平和主義を貫き、如何に繁栄を維持できたかを証明しているとも言えるだろう。


「旧宮殿時代」の西中庭

フェストス宮殿ではクノッソス宮殿、マーリア宮殿、ザクロス宮殿など、ほかのミノア宮殿では確認できない舗装された「旧宮殿時代」に属する西中庭 West Court が残っていることも大きな特徴である。中庭はほぼ二等辺三角形に近似するスペースである。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・西中庭 West Court, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・西中庭~西翼部・正面ファサード部
舗装面=西中庭/石板歩道~左折~中央中庭へ至る
女性の位置=旧宮殿・西翼部ファサード部
左壁面=新宮殿・西翼部ファサード部
クレタ島・メッサラ平野/1982年

西中庭の舗装施工や使用されている石材などを見る限り、おそらくフェストス宮殿の統治者は、立派に施工された古い西中庭を取り壊して、その上に新宮殿の建物を建てる方法より、現代的な言葉を使えば、「再利用・リサイクル」した方が賢明と考えたのではないだろうか?
古い設備や施設を取り壊して破棄するよりも、経費削減という価値と時間的にもリサイクルと言うか、旧宮殿施設の再利用はミノア文明でも財政面や工期などを含め、非常に効果的であったであろう。
結果的にクノッソス宮殿などほかのミノア宮殿遺跡より、フェストス宮殿では「旧宮殿時代」の遺構が極端の多く残され、ミノア文明の研究に重要な要素と貴重な価値を提供している。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 West Court, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・西中庭~擁壁
擁壁の上部は北西中庭~遺跡入口(管理事務所)
クレタ島・メッサラ平野/1982年

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・擁壁の上部・北西中庭
「旧宮殿時代」の建物群の遺構/左下石積み部=飲料水用の井戸
クレタ島・メッサラ平野/1982年

現在の見学入口付近も含め、フェストス宮殿遺跡サイトの北西区域の位置レベルがかなり高いことから、西中庭の北側には非常に強固な擁壁 Masonry Retainging Wall が造られ、上部の北西中庭 Northwest Court と「旧宮殿時代」の建物敷地を支えている。擁壁の直ぐ上、建物群の南東端には飲料水用の井戸が掘られていた。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・擁壁 West Wall, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・擁壁&石段
クレタ島・メッサラ平野/1994年

高い擁壁の足元には、西中庭に面する9段を数える石灰岩の横長石段がある。おそらく「宮殿時代」、西中庭で行われた宮殿を挙げてのイベントや王や神官の演説などがあった時、この石段に座ったフェストスの庶民が熱狂したり、聞き入り、盛り上がったことであろう。

石段の下から6段目~最上9段目には、北海岸・マーリア宮殿の奉納台・「ケルノス Kernos」より貧弱だが、石灰岩に刻んだ小穴の円周的な連鎖や渦巻線刻みなどが確認できる。これらは収穫の種などの奉納用の小穴ではなく、石工職人のマークか、あるいは石段に座った庶民が楽しむ「ゲーム」に使われたものかもしれない。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・西中庭・石段の円周的な小穴刻み
クレタ島・メッサラ平野/1982年

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡・大理石奉納台ケルノス Minoan Marble Kernos, Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡・南西翼部・石製奉納台「ケルノス」
珪質・石英混じりプラテンカルク系大理石・直径88cm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


舗装面より幾分盛り上がった大型の石板を使った立派な歩道が、三角形の西中庭を横切るように延び、旧宮殿の西入口があったポイントへ至っている。「宮殿入口」とは言え、ミノアのすべての宮殿では城壁も城門もなく、通常、東西南北の入口は建物と隣の建物の間に設けた単純な通路のような感じであった。

新宮殿の西正面部ファサード West Facade の基礎面は、西中庭の舗装レベルより約1m高く、新宮殿は旧宮殿の基礎部を活用する形で東方へ8m~10mほど後退(東移動)した位置で建てられている。
従って、遺跡入口から連絡している小階段の最下から、大階段の下部~西貯蔵庫群の西側~旧宮殿の西入口まで、高さ約1mで東西幅8m前後x南北幅35m以上のステージ状の更地空間が延びている。

なお、西中庭の西~南側に広がるかなり崩壊が進んでいる段差の低い区画は「旧宮殿時代」に遡る複雑な建物群、現在、立ち入りが制限され、一部区画は保護屋根カバーされている。
西中庭の南西側に深い円形ピット施設(完全2基・崩壊2基)が残されている。これはエーゲ海岸のマーリア宮殿遺跡にも残る穀物貯蔵庫である。

ミノア文明・フェストス宮殿 Old Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・円形ピット群
旧宮殿時代の穀物貯蔵庫群
クレタ島・メッサラ平野/1994年

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡 Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡・円形ピット群
新宮殿時代の穀物貯蔵庫群
クレタ島・中央北部/1982年



西翼部(北区画)

大階段

ツーリストは見学入口から先ず小階段を下り、フェストス宮殿で最も堂々たる建物区画、大階段 Great Stairs へ向かう。大階段のステップとその両脇壁面に使われている切石は、訪れるツーリストにミノア人の高い石工技術と洗練された美的センスを見せつけている。
この幅の広い大階段の下に立っただけでも、多くのツーリストは、3,500年以上前のフェストス宮殿の壮麗さが連想でき圧倒される感覚を覚える。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・プラン図 Plan of West-North-East Wings, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡/西翼部~北翼部~東翼部 アウトラインプラン図
クレタ島・メッサラ平野/作図:legend ej

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・小階段&大階段と周辺壁面
クレタ島・メッサラ平野/1982年

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Minoan Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・大階段周辺
クレタ島・メッサラ平野/1982年

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・大階段
大階段の上部=「三部屋続き」の大広間コンプレックス
大階段の下部の凹部=旧宮殿時代に遡る建物の遺構
クレタ島・メッサラ平野/1982年

「旧宮殿時代」のままの西中庭の北東端に設けられた大階段は東方へ上る仕様である。現代なら豪華な劇場の入口階段に匹敵する12段の幅広ステップを登ると、天空に開口された採光用のスペースを備えた大広間 Great Hall となる。
大広間は大型の円柱・角柱・受け柱で区分された「メガロン形式 Megaron Complex」に近似する「三部屋続き」の仕様で、遠来の訪問客を迎えるために壮麗さを強調したか、あるいは儀式などでは最大限に活用された、フェストス宮殿の「自慢の場所」であったはずである。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・大階段上部~三部屋続きの円柱礎の大広間
クレタ島・メッサラ平野/1982年

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・三部屋続きの円柱礎の大広間
左側=大階段側の大広間・第二の間
右側=天空に開口・採光吹抜・第三の間
ドアー口=北西翼部・列柱の間への階段通路
クレタ島・メッサラ平野/1982年

なお、クノッソス宮殿とマーリア宮殿では、中央中庭から大階段で西翼部の上階へ上がる仕様であったが、フェストス宮殿では地形的な条件から、西中庭から大階段で宮殿主要部へ上がる配置となっている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・中央大階段 Central Great Staircase, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・中央大階段
中央中庭~西翼部二階~三階へ上がる宮殿最大級の階段
クレタ島・中央北部/1994年

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡・大階段~ロッジア Great Staircase, Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡・西翼部・大階段~ロッジア
左=支柱礼拝室/中央=大階段/右=ロッジア
クレタ島・中央北部/描画:legend ej



宮殿直轄の西貯蔵庫群

大階段と大広間の右側(南側)の極端に厚い壁面の区画は、整然と配置された新宮殿の西貯蔵庫群 West Storerooms である。西貯蔵庫群の入口の役目を果たしていたのは、中央中庭に面する石膏石で舗装された一辺 約9mの正方形の部屋で、内部は二基の円柱で南北に区分される仕様である。
この「二部屋続き」の部屋の中央中庭からの入口には三基の柱礎が残り、二つの部屋の広い扉口の真ん中の柱礎は、ほかでは見られない楕円形の珍しいタイプである。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・西貯蔵庫群入口 West-stores Entrance, Phaestos Palace/©legend ej©legend ej
フェストス宮殿遺跡・中央中庭~円柱&舗装の部屋~西貯蔵庫群入口
中央手前柱礎=楕円形/奥柱=貯蔵庫群の通路の角柱
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・貯蔵庫群入口 Entrance of West Store Rooms, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・西翼部・円柱&舗装の部屋
中央中庭側の柱礎=楕円形/二本円柱=部屋を南北二分割
クレタ島・メッサラ平野/1982年

発掘では、西貯蔵庫群の入口を兼ね収納管理業務を行っていたであろう円柱&舗装の部屋から、20種以上の粘土印影がそれぞれ複数として出土している。この舗装の部屋から、大量の粘土印影が限定的に見つかっていることから、この部屋では単純な貯蔵庫の収蔵&搬出の業務のみならず、仮想だが貴重品の管理業務も行っていた可能性が高い。
粘土印影は高温の焼成作用(火災)で陶器のように硬化して今日まで地中に残されてきた。

小麦やオリーブ油や豆類などの収納とは異なり、宮殿の大切な物品を木箱に収蔵する時、複数の責任者が粘土で木箱封印を行い、それぞれ各自の印章で押印したのであろう。
研究者はこれらの粘土印影は、中期ミノア文明MMIIB期に遡るとしていることから、「旧宮殿時代」の末期、クノッソス・フェストス・マーリアのミノア諸宮殿が被害を被る、紀元前1650年頃、クレタ島の大地震とその後の宮殿火災により粘土印影が硬化したと想定できる。

フェストス宮殿遺跡からは、単純な直線や曲線、円形や放射線など幾何学紋様を初め、ライオンや雄牛やヤギなど動物、魚や植物などが表現された多くの粘土印影が見つかっているが、出土点数のピンポイントで言えば、殊更にこの円柱&舗装の部屋からの出土が顕著である。
多くの種類の粘土印影の出土は、「旧宮殿時代」の末期、紀元前1650年頃、大火災の直前、この区画には複数の責任者が管理する象牙製品や宝飾品など、かなりの数の貴重品の収納箱が集積されていたことを連想させる。

出土した特徴ある粘土印影では、二重曲線輪の組み合わせを表現した印影がある。印面の直径は約16mm、おそらくは硬質石材の印章に彫刻されたものと思うが、現代アート作品でも使えそうなバランスの良い精緻な曲線デザインである。
 

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・舗装部屋・粘土印影 Minoan Clay Impression, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・西翼部・円柱&舗装の部屋・粘土印影
印章=円形・直径16mm/印影=二重曲線の組み合わせ
中期ミノア文明MMIIB期・紀元前1650年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号769
参考情報:CMS, Heidelberg U. (DE)
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

円柱&舗装の部屋付近で大型ドアー用に使った青銅製の旋回軸が発見されていることから、中央中庭から舗装部屋への出入口は、「観音開きタイプ」の大型ドアー仕様であった可能性を示している。
正方形の舗装部屋の西方奥へ長さ20mほどの貯蔵庫群の通路が延び、中間付近の角柱が天井を支えていた。通路の両脇(南北)に対称サイズで各5室・合計10室の貯蔵庫が並んでいる。
床面は石膏石で舗装されていたが、フェストス宮殿の貯蔵庫では、クノッソス宮殿のように床面に地中収納ピット穴を設けなかったようである。フェストス宮殿の貯蔵庫は、最東部のザクロス宮殿のそれより広いが、マーリア宮殿に比べても概して狭い印象を受ける。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・貯蔵庫 West Storeroom, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・西翼部・貯蔵庫&ピトス容器
床面は石膏石舗装・地中の収納ピットなし
クレタ島・メッサラ平野/1994年

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・貯蔵庫 Storeroom, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・貯蔵庫
床面は石膏石の舗装仕様/地中収納ピットはない
クレタ島・メッサラ平野/1982年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫 West Storeroom, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・貯蔵庫(第5号室)
床面に大型ピトス容器・地中に収納ピット
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

西貯蔵庫群からは大型ピトス容器のほか、石臼や擂鉢(すりばち)など穀物の製粉用具も発見された。現在、見学用として貯蔵庫内にはオリーブ油などを入れた複数の大型ピトス容器が保管されている。

また、西貯蔵庫群の西外壁と庫内の一部の内壁が極端に厚くなっていることから、厚い壁は上階に大きな広間が存在したことを連想させている。
貯蔵庫群が比較的狭い部屋の連続仕様の意味は、その壁面が上階を支える「柱」の役目を果たしていたことであり、広くて正方形の部屋を階下の貯蔵庫として配置するのは設計的に適さなかったのであろう。
この上階の重量を考慮した、当然と言える階下に支え壁を多く配置する設計仕様は、幅が狭く奥行きが長いクノッソス宮殿の貯蔵庫群に共通する設計である。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫群 Storerooms, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・貯蔵庫群
第3号室~6号室付近/狭い幅・奥行きの長い構造
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年


なお、西貯蔵庫群の南西端の南側は、「旧宮殿時代」の西入口に相当する通路であったが、この場所に小規模な古い貯蔵庫があり、中期ミノア文明MMIIA期~MMIIB期、 紀元前1700年頃の大型ピトス容器が発掘時のまま保管されている。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Pithos, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・大型ピトス容器
旧宮殿時代の後半/高さ約1.3m
クレタ島・メッサラ平野/1982年

エーゲ海先史 ミノア文明ミケーネ文明
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北西翼部

大階段と「三部屋続き」の大広間の北側の区画、宮殿の北西翼部は、今では幾らかの柱礎を残すだけの単純な空所のような感じであるが、ここはフェストス宮殿で最大の広さを誇り最も重要な部屋の一つ、一辺 約13mの正方形をした堂々たる列柱の間 Peristyle Hall の遺構である。
豪華壮麗な回廊形式であったと想像できる列柱の間では、階上に広間などが存在したとしても、間違いなく、中央部分は天空に開口した広い吹抜け構造であった。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・支柱の間 Pillar Hall, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・北西翼部・支柱の間
手前=支柱の間・円柱礎~テラース形式の部屋
右保護屋根カバー=王家の生活区画コンプレックス
クレタ島・メッサラ平野/1982年

列柱の間の北側に角柱礎があることから、明るいテラース形式の空間が付属されていたと想像できる。この区画には複数の通路と階段が複雑に交わっていることから、階上には間違いなく遠来の客などを迎える格式高い大広間など、美しいフレスコ画で装飾された壮麗な部屋が存在していたであろう。
また、列柱の間の西側にも広いスペースがあり、この区画にも建物が存在したはずだが、現在、不明瞭な遺構となっている。


北翼部

中央中庭~北翼部

大階段と「三部屋続き」の大広間の東側にも南北に細長い広間があり、その東側で中央中庭の北側区画が宮殿の北翼部となる。南北に長い広間は1本円柱を通して北側の列柱の間へ、さらに南側の階段を経由して西貯蔵庫の正方形の舗装広間へ通じている。

中央中庭に面する北翼部の正面の真ん中に中庭~王家の生活区画へ通じる舗装通路がある。舗装通路の南端・入口の両脇には半円柱が立ち、ミノア時代にはこの入口は木製の二枚扉で閉じられる仕様であったとされる。
中央中庭に面する舗装通路の入口周辺の建物構造は非常に堅固、そして、かつて南北に延びる長さ約15mの舗装通路の両壁面は美しいフレスコ画で装飾され、通路の真ん中には南北に延びる比較的浅めの雨水用の排水路が設けられている。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・中央中庭~北翼部・舗装通路 North Wing, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・中央中庭~北翼部・舗装通路
舗装通路の南入口=左右に半円柱/舗装通路=地中に排水路
遠方の保護屋根カバー=王家のプライベート生活区画
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

中央中庭の北西端、舗装通路の入口の左方(西方)の壁面には、やや判別し難いが、聖なる「両刃斧・十字・連鎖する菱形」の記号が刻まれている。これらの重要な記号が何のためにこの場所に刻まれたのか、はっきりとした「理由」は分からない。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・中央中庭北西端 Northern Wall-mark of Central Court, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・中央中庭~北翼部
壁面に刻まれた両刃斧・十字・菱形の記号
クレタ島・メッサラ平野/1982年


宮殿直轄の北貯蔵庫群

中央中庭から舗装通路に入り直ぐ左側にガードマンの立つ小スペース、そして北西翼部の柱廊の間などへ通じる階段通路がある。さらに右側の狭い通路は北貯蔵庫群と工房群へ通じている。
舗装通路を通り抜けた北側は切石積みの壁面で囲まれた、東西約13mx南北7mほどの北中庭 North Court となる。北中庭の西側に行き止まり通路のような空所があるが、階段がないのでおそらく単純な倉庫スペースだったかもしれない。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・北中庭付近
左上=工房群/左下=北貯蔵庫
中央上=東翼部/右下=舗装通路の北入口
クレタ島・メッサラ平野/1982年

舗装通路の左右が北貯蔵庫群 North Storerooms で、西側の貯蔵庫群は狭い5部屋で構成され、東側は西側の倍のスペース区画にやはり5部屋のやや広めの貯蔵庫が配置されている。
北貯蔵庫群の壁面の厚さからして、西側の貯蔵庫群の上階には比較的広い部屋が、また東側の上階には「食堂」とされるさらに大きな部屋が存在した、と研究者は想定している。もし、北翼部のこの場所に「食堂」があったなら、その配置法は北海岸のマーリア宮殿と同じである。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Storerooms, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・北翼部・北貯蔵庫群
中央中庭・北東端~舗装通路の東側貯蔵庫群を見る
クレタ島・メッサラ平野/1982年

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・北翼部・北貯蔵庫群
舗装通路・北入口~東側貯蔵庫群を見る
右上=中央中庭・北東端の角柱礎
クレタ島・メッサラ平野/1982年


北翼部・「王家のプライベート生活区画」

王の居室コンプレックス

尾根北端の崖に面した一部が崩落しているが、北中庭の北側の広い区画が「王家のプライベート生活区画 Royal Apartments」であった。明確な遺構が残るクノッソス宮殿の王家の生活区画と異なり、フェストス宮殿の王家の生活区画は、マーリア宮殿と同様に最近になって修復した部分が含まれる。

はっきりと目で確認できる発掘当時の遺構が残っているのは、区画の南端を占める王妃の間 Queen's Room である。その北側の通路を挟んでやや広めの王の居室コンプレックス King's Room Complex が配置されている。
保護ロープ規制された王の居室コンプレックスの遺構は、現在、修復されているので、宮殿遺跡の北周回ルートから近寄って見ることができる。ただし、王の居室の壁面は崩壊と劣化が激しく、コンプレックス全体は「広い空間」のような感じ、床面はミノア時代の状態だが、角柱礎は復元したものである。
初めて訪ねた1982年には修復が途中だったこともあり、復元の角柱礎は在ったが、床面はほとんど発掘時のままであった。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・王の居室 King's Room Complex, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・北翼部・王の居室コンプレックス
「三部屋続き」の王の居室/北側=テラース形式の部屋
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

王家の生活区画は全体の崩壊が激しく不明点が多いが、クノッソス宮殿・東翼部一階に配置された王家の生活区画と比べるとかなり狭い感じである。
なお、フェストス宮殿の王の居室や王妃の間は、壁面全体が石膏石で美しく表装され、ミケーネ文明の「メガロン形式」に近似する、ミノア時代の宮殿建築の特徴である「三部屋続き」の配置構成であった。
ただ、ギリシア本土のミケーネ文明の宮殿と異なり、クノッソス宮殿と同様にフェストス宮殿では、王の居室の中心に絶えることなく火を焚いた「聖なる炉」を設けていない。

王の居室の北側には角柱礎が残されていることから、間取りの広い開放されたテラース形式の部屋が付属されていた。
特に夏の時期、乾燥した地中海気候帯の最大の特徴である、日中の暑さから想像できないくらい急激に気温が低下して清々しいな時間帯となる夕刻、子供達を含め王や王妃など家族は王の居室のテラース形式の部屋へ集まり、メッサラ平野と遠方のイダ山を眺めつつ、プライベートな寛いだ時間を過ごしていたのかもしれない。
そうだとしたら、現在、石膏石舗装の床面しか残存していないが、このテラース形式の部屋はフェストス宮殿で最も快適な部屋であったであろう。これは複雑に配置された文明センターのクノッソス宮殿ではあり得ない、メッサラ平野へ突き出した岩の尾根上に建造されたフェストス宮殿ならではの優位性でもある。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王の居室 外部 King's Room Complex, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・王の居室コンプレックス外部
木枠=前の間/円柱内側=控えの間(1980年代)
(現在 円柱&角柱より内側=立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王の居室 Double-Axe Room Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・王の居室=両刃斧の間
壁面&渦巻線フレスコ画は発掘時の状態
木製王座は複製/「聖なる炉」はない
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年



王妃の間コンプレックス

三部屋に区分された王妃の間は二本の円柱が二か所、合計四本で支えられ、その最西側の部屋の床面は石膏石で舗装され、隙間には赤色の石膏アラバスターを詰めた施工、南と西側の壁面には石膏表装のL型ベンチが設備されていた。
また、中間の部屋の床面が石灰の粉末&欠片で覆われているころから、この部屋は建築用語・「インプルウィウム Impluvium」の構造で天空に開放され、雨水を受け流すことができた、とも考えられている。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・王妃の間 Queen's Room, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・北翼部・王妃の間コンプレックス
「三部屋続き」の王妃の間/西部屋=石製ベンチあり
クレタ島・メッサラ平野/1982年

ミケーネ文明・「メガロン形式」
ミケーネ時代の宮殿建築で最も重要な部屋は「王の居室 Throne room」である。その周辺の配置では、先ず「控えの間/入口&ポーチ Portico」と呼ばれる円柱で出口が開放された空間があり、次に「前の間 Vestibule」、最も奥まった位置に「王の居室」が連続して配置されていた。
この「三部屋続き」の配置方法を「メガロン形式 Megaron Complex」と呼ぶ。「メガロン形式」の起源はミケーネ文明の半ば・後期ヘラディックLHIIIA期が始まる時期、紀元前1400年頃とされている。
「メガロン形式」を残すミケーネ文明の宮殿遺跡では、先ずアルゴス地方の世界遺産ミケーネ宮殿を初め、ミケーネ宮殿から南方へ約20kmの世界遺産ティリンス宮殿、さらに「トロイ戦争」で知られたネストル将軍の本拠地、南西ギリシア・メッセニア地方のネストル宮殿が挙げられる。
下作図はミケーネ文明の三宮殿の「メガロン形式」の配置比較である。ネストル宮殿とミケーネ宮殿はほぼ同じような配置仕様だが、ミケーネ宮殿のそれはやや小さい。また、ティリンス宮殿の奥行きはネストル宮殿とミケーネ宮殿に比べ少しだけ「細長い」ことが分かる。
部屋の配置では、図の下部が二本円柱の入口・「控えの間」、次が「前の間」、そして図の上部が「王の居室」となり、王の居室には王座と四本円柱と「聖なる炉」が設けられていた。

ミケーネ文明・宮殿建築様式・「メガロン形式」Mycnaean Megaron Complex/©legend ej
ミケーネ文明・宮殿建築様式・「メガロン形式」
三宮殿の配置仕様 比較
作図=legend ej
※学芸出版社発行書籍(著者代表 藤本和男)「住空間計画学」掲載図面/2020年12月


北中庭から王妃の間コンプレックスの東側を南北に走る通路がある。宮殿崩壊時に上階から崩落したのか、食味が鶏肉風の二枚貝のトリガイ(鳥貝)や海草、岩礁などを背景に泳ぐイルカを正面に強調した、海洋性デザイン様式の陶器・円筒型の装飾物が出土した。
上部が欠損していることからオリジナルは不明だが、これは儀式などで使われた何か荘厳な形容の「大型容器 or 大皿」などの脚部(ステム)ではないか、と考えられる。「旧宮殿時代」の後半期・中期ミノア文明MMII期、紀元前1700年前後の作品であろう。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・儀式用容器脚 Dolphin Object, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・北翼部出土・儀式用(容器)の脚
イルカ&海洋性デザイン装飾/上部欠損⇒残存高さ390mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号18199
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

王妃の間コンプレックスの西側の南北に走る通路付近から、「旧宮殿時代」の末期に遡る粘土印影が出土している。長い楕円形(オーバル形状)の印章で押印された印影では、欠損があるので全体は不鮮明だが、海洋民族ミノア人の好んだ工芸モチーフの一つ、ホラガイと植物が表現されている。
粘土印影が出土する絶対条件は、大切な宝飾品などが収納された木箱を粘土封印する時、管理責任者が各自の印章で押印した後、何らかの高温作用、そのほとんど全ては建物火災で粘土印影が硬化することであり、陶器のように変質した結果、今日まで残されて来た。

発掘では通路から複数種の粘土印影が見つかった。それらは「旧宮殿時代」の末期、紀元前1650年頃、クレタ島の大きな地震でフェストス宮殿が破壊&火災を起こした時に硬化したと考えられ、上階にあった宝飾品の管理部門の部屋から崩落した可能性がある。
その後、ミノア文明では旧宮殿の敷地を利用して新宮殿が新たに造営され、紀元前1625年頃、「花ほとばしる新宮殿時代」がスタートする。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・粘土印影 Minoan Seal-print, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・北翼部出土・粘土印影
印面=長い楕円形・ホラガイ&植物の刻み
中期ミノア文明MMIIB期・紀元前1650年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号1489/長さ18mm
参考情報:CMS, Heidelberg U. (DE)
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaestos Palace は「二部構成」となっています。
1. ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaestos Palace I(当ポスト)
2. ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaestos Palace II 東~北東翼部・フェストス宮殿の円盤・南西翼部

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