2020/03/22

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace III 中央中庭・王座の間


ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 関連ポストは「12部構成」となっています。
1. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace I 概要
2. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace II 西中庭~南翼部
3. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace III 中央中庭・王座の間(当ポスト)
4. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IV 聖域・宝庫
5. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace V 貯蔵庫
6. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VI 女神パリジェンヌ
7. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VII 王の居室・聖所
8. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VIII 王妃の間
9. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IX 雄牛跳び
10. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace X 北~東翼部
11. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 周辺の先史遺跡
12. ミノア文明・クノッソス宮殿 崩壊の原因は?

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宮殿の「中心」を成す中央中庭

位置 クレタ島・中央北部/イラクリオン Heraklion/Iraklion~南南東5km
GPS クノッソス宮殿遺跡・中央中庭: 35°17′53″N 25°09′47″E/標高95m


全面 平石板舗装の長方形の広い中庭

壮大なスケール感の建物遺構と素晴らしい美術様式を残したクレタ島の四か所のミノア文明の宮殿には、建物の構造と配置に幾らかの共通点があり、その典型例が中央中庭 Central Court と呼ばれる平石板舗装の長方形の広い庭である。
このような共通建築の発想は、単なる偶然の流行ではなく、おそらくミノア人統治者の優れた指導力、そして建築エンジニア達が伝統的に大切にしていた宮殿建築への強い理念、あるいは設計技術を伝承する高い民族的な意識があったから、と考えて良いだろう。

クノッソス宮殿遺構の全体規模は最大180m四方の広大な敷地である。宮殿の中央部にはミノア文明の伝統と基本に従って、50mx25mの長方形、全面が石板舗装された中央中庭が南北に長く配置されていた。四か所のミノアの宮殿の中では、クノッソス宮殿の中央中庭が最大級の広さを誇る。
かつて広い中央中庭では公的行事や集会、王国レベルの盛大な儀式や祭典、あるいはミノア人の得意技・「雄牛跳び/牛飛び」などの民衆参加の大規模なイベントも開催されたと考えられる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡/Google Earth
クノッソス宮殿遺跡
クレタ島・中央北部
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入

ミノア宮殿・中央中庭のサイズ比較
・文明センター・クノッソス宮殿: 50mx25m
・メッサラ平野・フェストス宮殿: 52mx22m
・北海岸・マーリア宮殿: 48mx22m
・最東部・ザクロス宮殿: 30mx12m

ミノア文明・宮殿&中央中庭サイズ/©legend ej
ミノア文明・宮殿区域&中央中庭 サイズ比較
作図:legend ej


ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・中央中庭 Central Court, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・1980年代の中央中庭(南西角周辺)
左建物=南翼部・《祭司王のフレスコ画》通路(南入口)
白円柱=プロピュレイア(復元の行列フレスコ画の壁面)
右建物=西翼部・復元の「女神の列柱群」&聖域の区画 
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・中央中庭(西側)
列柱の柱礎ピット穴/右側=「聖域」
クレタ島・メッサラ平野/1982年

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡 Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡・北翼部~中央中庭~西翼部
左遠方=祭壇ブロック(屋根)/手前=北翼部「食堂」の角柱礎群
右遠方=大階段/最右遠方=ロッジア(ステージ・テラース広間)
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡 Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・中央中庭&西翼部
左側=東翼部(ツーリスト)
中央=平坦な区域・中央中庭
右側=西翼部・円柱の大広間
手前=北翼部・キッチン柱礎
クレタ島・最東部/1982年

中央中庭に面する宮殿・「西翼部」&「東翼部」

中期ミノア文明の末期~後期ミノア文明の半ば、最も繁栄した「新宮殿時代」のミノア宮殿では、中央中庭の周りに王家のプライベート生活区画は当然のこと、政治・行政・宗教・文化に関連する重要な建物区画が配置された。

すべての宮殿に共通するが、特に中央中庭の西側となる西翼部 West Wing には、王国運営の最も重要な「三点セット」である王国の政治・財務・宗教関連の区画が配置された。そして王家のプライベート生活区画はクノッソス宮殿とザクロス宮殿では東翼部 East Wing に、フェストス宮殿とマーリア宮殿では北翼部 North Wing に配置された。
また、幾分の異なりはあるが、ミノア宮殿では南翼部北翼部に工房や貯蔵庫など宮殿関係者の実務面の区画が付属された。いずれにしても中央中庭は、正にミノア宮殿のすべての「中心」を成していたと言える。


ミノア文明の宮殿遺跡(4か所)

・中央北部・ミノア文明センター・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace
・南西部・メッサラ平野・フェストス宮殿遺跡 Phaestos/Phaistos Palace
・北海岸・マーリア宮殿遺跡 Malia Palace
・最東部・ザクロス宮殿遺跡 Zakros Palace

クレタ島ミノア文明・宮殿群 地図 Map of Minoan Palaces in Crete/©legend ej
クレタ島・ミノア文明・宮殿遺跡 地図
作図:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・推測模型/©legend ej
クノッソス宮殿・推測模型(木製)
部屋数1,000室/東翼部~中央中庭~西翼部
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/1996年

ミノア文明&ミケーネ文明 編年表/©legend ej
クレタ島ミノア文明&ギリシア本土ミケーネ文明 編年表
・ミノア文明・「旧宮殿時代」: 紀元前1900年~前1625年
・ミノア文明・「新宮殿時代」: 紀元前1625年~前1375年
ミケーネ文明(時代):  後期ヘラディック文明 LH期
作図:legend ej

西翼部・中央大階段

ミノア文明のセンターであったクノッソス宮殿の西翼部では、王の執務室である王座の間を初め、宗教関連の源泉となる宮殿の聖域と直轄貯蔵庫群が占有、その上階(二階)には国内外からの賓客や来訪者などの迎賓のための大広間や儀式ホールなどが配置された。
さらに間違いなく存在した西翼部三階には、おそらく迎賓客の宿泊広間などが配置されていた、と想定できる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・西翼部イメージ画/Evans-Heidelberg U
クノッソス宮殿遺跡・西翼部(再現予想図)
原画情報:サー・アーサー・エヴァンズ・発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.II(1928年)
描画作者:F.G. Newton
Digital Library, Heidelberg U. (DE)

中央中庭に面する西翼部の真ん中付近、幅のある復元の中央大階段 Central Great Staircase がある。西翼部の上階(二階)へ上がる大階段の位置は、イラクリオン~東方35kmのマーリア宮殿とほとんど同じ配置である。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・中央大階段 Central Great Staircase, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・中央大階段
中央中庭~西翼部上階を結ぶ宮殿最大級の階段
クレタ島・中央北部/1994年

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡・大階段~ロッジア Great Staircase, Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡・西翼部・大階段の周辺
左=支柱礼拝室/中央=大階段/右=ロッジア
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


クノッソス宮殿遺跡・中央大階段の踊り場付近から、間違いなく宮殿が最終崩壊する紀元前1375年頃、西翼部・上階(二階~三階)から崩落したと断定できる粘土印影が見つかった。
部分的に欠損しているが、横24mm・縦23mmのほぼ円形の印面には、花を付けたパピルスの茎を中央水平線として、上面に同じ方向を向いた大人しそうな三頭のヤギ(or ムフロン Mouflon 地中海域~中央アジア生息・羊原種)が、下面にも三頭が上面とは反対方向を向いて仲良く座っている。非常に微細で精緻な加工である。
特に神的要素などはなくミノア時代の極普通の情景だが、紀元前1375年頃、クノッソス宮殿の最終崩壊の直前~1か月程度以前とか、上階の部屋で何か重要な物品を収めた収納箱などを粘土封印した、印章の所有者の穏やかな人柄が伝わって来る感じがある。

クノッソス宮殿遺跡・中央大階段付近・粘土印影「ヤギの群れ」 Minoan  Seal Impression of sitting Goats, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・中央大階段「踊り場」出土・粘土印影
印影=円形 横24mm・縦23mm・座るヤギ6頭&パピルス
印章=硬質石材・後期ミノア文明LMII期・紀元前1400頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号231
参考情報:CMS, Heidelberg U. (DE)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

中央大階段の踊り場付近からは、ほかの粘土印影が見つかっている。この印影も紀元前1375年頃、宮殿崩壊時に上階(二階~三階)から崩落したと断定できる。
横17mm、ほぼ円形、レンズ型のステアタイト製?のビーズ形式の印章で押印されたと推測できる、牛の授乳シーンが残されている。牛や野生ヤギの授乳はミノアの人々の身近な情景であり、多くの印章&粘土印影の出土例がある。
6頭ヤギの座り姿勢とこの牛の授乳シーン、二つ共に身近な動物の極自然の姿を表現している点が共通している。もしかするとこれらのオリジナル印章の所有者、上階(二階~三階)に勤務した複数の宮殿スタッフは、一様にクノッソスの市街 ko-no-so に住む誠実で穏やかな性格の人達であったかもしれない。ただ、少なくとも宮殿の重要な物品の管理を行うために、粘土押印を行う役目の相当に上位の人物であったことは間違いない。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・中央大階段・牛の授乳の粘土印影 Minoan Clay Seal Impression, Breastfeeding, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・中央大階段「踊り場」出土・粘土印影
印章=軟質石材円形・横17mm・牛の授乳シーン
後期ミノア文明LMIIIA1期・紀元前1375年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号221
参考情報:CMS, Heidelberg U. (DE)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

イラクリオンの東方、ニロウ・カーニ遺跡 Nirou Khani~東方2.5km、海岸グールネス地区 Gournes では、1915年、イラクリオン考古学博物館の創設に尽力した Joseph Hatzidakis が、初期ミノア文明EM期と後期ミノア文明LMIII期の複数の墳墓を発掘した。
紀元前1300年頃に属する後期ミノア文明の横穴墓・2号墓から、ほぼ円形のカーネリアン製の印章が出土した。横19.5mm・縦19mm、レンズ型の印面には、ミノア文明の代表的なモチーフである牛の授乳シーンが刻まれている。

ミノア文明・グールネス遺跡・カーネリアン製印章・牛の授乳 Minoan Seal, Gurnes,/©legend ej
グールネス遺跡・カーネリアン製の印章
印面=レンズ型・ほぼ円形・牛の授乳シーン
後期ミノア文明LMIII期・紀元前1300年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号1249
クレタ島・中央北部/描画:legend ej



西翼部・王座の間コンプレックス

王座の間付属の「控えの間」

中央大階段の北側区画が王座の間コンプレックス Throne Room Complex となる。王座の間を中心としたこの区画が西翼部・「三点セット」の一つ、ミノア王国の「政治・行政」を担う中枢セクションと言える。
先ず中央中庭と王座の間に挟まれた控えの間 Waiting Room と呼ばれる、格式のある上質な舗装部屋が配置されている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・大階段&王座の間コンプレックス Great Staircase & Throne Room Complex/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・1990年代の中央中庭~西翼部
・左=中央大階段/正面一階=控えの間&王座の間
・二階の一本円柱の部屋=復元のフレスコ画の部屋
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

控えの間は床面に石灰岩と石膏石を敷き詰めた上質な仕様、中央中庭よりわずかに低い床面レベル、段差のない四段の入口ステップから入室する。部屋の南北の両壁面には、隣の王座の間と同様な形式の3,400年以上前の石膏石製のベンチが残されている。
石製ベンチに座る人数だが、エヴァンズの想定では南ベンチには7人が座り、北ベンチは中間で分離しているので五人が座れるスペースと推計、従って控えの間の南北ベンチには合計12人が座れた、とされている。

おそらくこの石製ベンチには、ミノア王に面会する人達がその順番が来るまでこのベンチで待機して座っていたと想像できる。あるいは謁見や儀式の際に、王座の間に着席できない準トップクラスの、今で言えば省庁の事務次官や局長クラスの人や見習い神官などが、この舗装部屋で謁見や儀式の進行を見守ったのかもしれない。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・控え室 Waiting Room, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・1980年代の王座の間・控えの間
・南&北壁面=石膏石製のベンチ
・床面=石製水盤が置かれている
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

また、エヴァンズの発掘では、控えの間の南壁面には「雄牛の足」のフレスコ画のわずかな痕跡が、さらに北側壁面にもフレスコ画の痕跡が確認できたとされる。

控えの間の北側の回り階段が、上階(二階)の復元されたフレスコ画の部屋 Room of Fresco へ連絡している。なお、回り階段の外壁は、直線と直角的な構造が主流のクノッソス宮殿の建物では珍しい、中世要塞のタレットか側防塔のように「丸み」の外観である。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・二階フレスコ画の部屋 Room of Fresco, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部二階・フレスコ画の部屋
《サフランを摘む青い猿》&《アオイガイ》の複製品
クレタ島・中央北部/1982年


王座の間の上階(二階)の「フレスコ画の部屋」

王座の間の上階(二階)の「フレスコ画の部屋」と呼ばれる壁面には、ローヤルロード脇のフレスコ画の邸宅 House of Fresco から出土したフレスコ画《サフランを摘む青い猿》や《アオイガイ》、《青い鳥》などの複製描画が展示されている。

西翼部二階のこの部屋と宮殿外部・フレスコ画の邸宅の内部構造はまったく異なるが、エヴァンズの復元した宮殿建物の内、採光吹抜け構造の明るいこの部屋が上質な仕様となっていることから、ツーリストへのサービス精神から、フレスコ画の邸宅の壁画部屋の「雰囲気」をこの部屋に再現したものである。
紀元前1375年頃、クノッソス宮殿が崩壊する直前まで、この二階の部屋は間違いなく非常に美しい装飾が施されていたはずだが、実際にはどのようなフレスコ画で装飾されていかは、エヴァンズを含め、誰にも分からない。

なお、《サフランを摘む青いサル》など、フレスコ画の邸宅から出土したオリジナル・フレスコ画は、イラクリオン考古学博物館で展示公開されている。


ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画の邸宅・サフランを摘む青い猿 Fresco Blue Monkey, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画の邸宅出土
フレスコ画《サフランを摘む青いサル》
イラクリオン考古学博物館/紀元前1550年~前1500年頃
クレタ島・中央北部/1994年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画の邸宅・《青い鳥》 Minoan Fresco Blue Bird, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画の邸宅出土
フレスコ画《青い鳥》/高さ約60cm
イラクリオン考古学博物館/紀元前1550年~前1500年頃
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

一方、茜染めの緋色(ひいろ)と濃淡グラデーションのベージュ色を背景に、大胆に伸びるアオイガイの特徴的な三本の長い脚と海草を描いたフレスコ画《アオイガイ》のオリジナル(イラクリオン考古学博物館)も、この部屋からの出土ではなく、《サフランを摘む青い猿》と同様にローヤルロード脇にあったフレスコ画の邸宅の壁面を飾っていたものである。

フレスコ画を元に精密イラスト画を描いてみたが、遠目にはタコ属のアオイガイ(葵貝)の特徴ある三本の足を描いただけの「低俗な描画」と感じる。
しかし、集中力を高めジーと眺めていると、実は海洋生物の固有の特徴を詳細に観察した結果としての、極めて精緻なタッチの細線と生きているようにうねる三本の足、そして無数の吸盤の連続性の精密描写からは、この壁画が単純なフレスコ画ではないことが分かる。

エヴァンズの発掘ではフレスコ画の邸宅からは大量のフレスコ画の断片が出土した。北翼部とは別の《サフランを摘む青いサル》や《青い鳥》のフレスコ画と共に、この《アオイガイ》の足を描いたフレスコ画も邸宅壁面を大胆に装飾、見る人を圧倒させる役目を果たしていたに違いない。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画《アオイガイ》Fresco Argonauta Argo, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画の邸宅出土
フレスコ画《アオイガイ》/薄殻と三本の長い足&海草
イラクリオン考古学博物館/紀元前1550年~前1500年頃
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

控えの間の出来事
ずーと以前、1982年、私が初めてクノッソス宮殿遺跡を訪れた時、控えの間の床面には大型の石製水盤が無造作に置かれていた。現在、石製水盤は王座の間に置かれている。
この時、地元イラクリオンの市街で買ったのであろうか、ヨーロッパからの長期バカンス・ツーリストが好んで着用する少々派手なサマーワンピースを着たイギリス系の二人のご婦人が、流れるような UK English で「グリフィン」について優雅に会話をしながら王座の間を覗いていた。
1982年の夏、30分以上休んでいたが、私以外に控えの間と王座の間を訪れたツーリストはこの二人のご婦人だけであった。クレタ島のまどろみの夏の午後、クノッソス宮殿遺跡に音もない静かな時間が流れ、王座の間を見学するツーリストが誰も来ない。

石製ベンチで資料を見ていた私の瞼(まぶた)はとうとう閉じてしまい、結局、気持ちの良い居眠りが始まってしまった。ミノア王の執務室の隣部屋・控えの間でミノア時代の見習い神官と同じように、3,400年以上前のミノア時代の石膏石のベンチに座り、見習い神官はやっていなかったであろう、気だるい真夏の居眠り、コックリ・コックリで夢の世界へ誘導されて行く。

イギリス系のご婦人二人が控えの間を出る時、ハッと目が覚めた私に気遣い、ご婦人の一人は;
「Oh, sorry, it is a very hot day ! あら、ごめんなさい、今日はとても暑い日ですこと・・・」
若干寝ぼけた状態の私は;
「Um...m, Oh, yes, very hot... it is..... ウムー、あー、暑いですね、本当に・・・」

居眠りを起こしてしまったことに対してイギリス人らしい丁寧なお詫びを残して、二人のご婦人はサングラスをかけ直して、控えの間の四段の低い入口ステップを上がり、真夏の陽光が眩しい中央中庭へ出て行った・・・

これはずーと昔の、1982年の夏の事だが、少し寝ぼけ状態でありながらも、何故か強い印象となったこの時の幾分あやふやなやり取りを、私は今でもはっきりと覚えている。ツーリストの居ないクノッソス宮殿遺跡での「小さな物語」だったが、記憶は鮮明に・・・
ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王座の間コンプレックス Plan of Throne Room Complex, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・王座の間コンプレックス
王座の間&周辺一階レベル・アウトラインプラン図
参考情報:Cambridge U. (UK) Online-data
クレタ島・中央北部/作図:legend ej


ミノア王の執務室・王座の間

西翼部一階、控えの間の奥(西側)に配置されたミノア王の執務室、王座の間 Throne Room は、予想に反して決して大きな部屋ではない。
石膏石で舗装された王座の間の壁面に沿って、東側・控えの間側には無いが、部屋を3/4周するように石製ベンチが設けられ、3,400年以上前にミノアの歴代の王が実際に座っていた、石製の王座が南向きに据えられている。

エヴァンズの発掘ミッションでは、この王座の間付近の地表面は王座の背もたれ上端より約50cm上方であり、宮殿の最終崩壊で焼け焦げた石製ベンチはミノア時代のまま地中に残存、部屋の壁面は崩壊状態であったとされる。
王座を挟んで向かい合う想像上の動物である「グリフィン Griffin」やパピルス Papyrus など、和色で言えば緋色~茜色を基調とする西~北側のフレスコ画の装飾壁面は、1913年&1930年、エヴァンズとスイス人の考古学美術家エミール・ジリエロン Émile Gilliéron により復元されたものである。
王座の間の全体イメージでは、先史時代・東地中海域で最も興隆したミノア文明、その王の執務室としての神秘性と権力の威厳さを感じることができる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王座の間 Throne Room, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・王座の間
・火炎跡の石製王座&石膏石ベンチ&床面
・1980年代の王座の前=石製水盤はない
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

考古学美術家エミール・ジリエロン Émile Gilliéron(1850年~1924年)
スイス生まれのエミール・ジリエロンはバーゼルで貿易を学んだ後、ドイツ・ミュンヘンの美術アカデミーで学び、パリへ移った後、活動の本拠地をアテネへ移した。
当初、ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓Aやティリンス宮殿遺跡の発掘で有名となった、「宝探しの考古学者」とも言われたドイツ人実業家シュリーマン Johann Schliemann の下で発掘遺跡の図面作成などを担当した。その後、クノッソス宮殿遺跡の発掘者エヴァンズの協力者となり、遺構図面やフレスコ画の復元などで活躍した。
エヴァンズのクノッソス宮殿遺跡の関係では、エミールはフレスコ画の復元に尽力、特に東翼部から見つかった美しいミノアの三人の高位女性を描いた《青の婦人達》、南翼部からの《祭祀王のフレスコ画》、そして王座の間の壁面を飾る「グリフィン&パピルス」のフレスコ画の復元に携わった。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画《青の婦人達》 Minoan Fresco, Ladies in Blue, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・フレスコ画
エーゲ海の Kyanos Blue 背景色・《青の婦人達》
紀元前1650年~前1550年頃
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/1994年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「祭司王」のフレスコ画 Fresco Priest King, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・南翼部・《祭司王のフレスコ画》
イラクリオン考古学博物館/高さ約210cm
クレタ島・中央北部/1994年


今日、クノッソス宮殿遺跡への見学ツーリストが激増、連日、王座の間を「一目見たい!」と憧憬する人達の順番待ちができている。カメラシャッターを数回ONする程度、「見学時間1人=1分間」という現実を見るまでもなく、正直に言えば、時間をかけて王の執務室をじっくりと覗き、心をミノアの時代へ浮遊させるとする、ツーリストの切なる希望が叶うことは相当に難しい状況である。

また、重みのある格式と威厳が漂う王の執務室である西翼部・王座の間と、東翼部・王家の生活区画にある寛ぎの王の居室・両刃斧の間とを比べる時、それぞれの部屋の明確な「役割」がはっきりと分かる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王の居室 Double-Axe Room Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・両刃斧の間(王の居室)
・壁面と渦巻き線フレスコ画=発掘時の状態
・複製の木製王座(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

なお、エヴァンズの想定では、控えの間では合計12人であったが、王座の間の壁面を3/4周している石製ベンチに座る人数では、合計16人分に相当するスペースとしている。当然のことに王の左右となる北側ベンチには宮殿の最高位ランクの人達が座ったはずである。

※王座の間・石製王座や石製ベンチのように、クノッソス宮殿遺跡の多くの区画では、紀元前1375年頃の大火災で焼け焦げた痕跡が残されている。
関連Blog情報: ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace I 概要
関連Blog情報: クノッソス宮殿の崩壊の原因は?

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王座の間/石製王座のほかに「装飾品」が置かれていたか?

歴史に出てくる多くの国の王座がそうであったように、クノッソス宮殿・王座の間の石製王座の背もたれも権威と格式を示すように垂直に立っている。
王座下の長方体の安定盤を除き、普通の椅子の脚の部分~座板の部分まで約48cm、背もたれの背面の高さ約90cm、全高約138cmの石製王座は、当然、寛ぎのソファではなく、常に姿勢を正して堂々と座ることが要求され、庶民感覚では若干人間工学的ではない、座っていても疲労するような造りである。

しかし、王座の座板の部分はまっ平らではなく、ヒップの形状に合わせた円形の凹みが施工され、正面視では両ヒップが安定して沈み込むように、わずかな波状加工が施されている。威厳優先だけでなく、ちょっとオシャレと言うか、王のヒップが確実に収まるように加工を施した「新宮殿時代」のミノア石工職人のせめてもの配慮が伺える。

この王座の間は明らかにクノッソス宮殿の統治者であったミノア王の公的執務室であり、また神聖な儀式が執り行われた部屋でもあった。
かつて3,400年以上前の状態の石製ベンチは、現在で言うならば政府の内閣官房や閣僚達が座るためにあり、王座に座った王からの指令を受けたり、重要会議や儀式・祭祀など、王座の間では国家レベルの決め事、高位祭司や神官による定期的な神への祈祷などが行われたのであろう、私の想像だが。

王座の間の周辺の建物構造は、宮殿・東翼部の「王家のプライベート生活区画」と同様にかなり複雑な配置である。が、意外にもエヴァンズの発掘ミッションでは、乳白色の石膏石製のアラバストロン型容器を除いて、金銀財宝など王座の間からの出土品は「何一つ無かった」とされる。
この王座の間はその性格上、余計な飾り物などを置く必要のない、この部屋の神聖な空気にこそ重要な意義があったのであろうか?

しかも残されていた「鏡餅」のようなアラバストロン型容器は、クノッソス宮殿が最終崩壊する時、おそらくは祭司か神官だったのか、この石製容器を使って火災を鎮める「祈り」を奉げていたのであろう、と推測する研究者も居る。そうであるならば、平常時、王座の間の床面には「何も置かなかった」が正しい分析かもしれない。

Edwin J. Lambert の想像画(1917年)では、王座の間の床面には複数のアラバストロン型容器が並んでいる状況が描かれている。また、描画の奥の部屋は王座の間の付属・内部聖所、左側の階段は半地下式の「聖なる浴場」への入口である。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王座の間 Throne Room, Knossos Palace/Ashmolean Museum
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・王座の間(想像画)
床面=複数のアラバストロン型容器
原画情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.IV(1935年)
描画作者:Edwin J. Lambert(1917年)
Ashmolean Museum, U. Oxford (UK)

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王座の間・石膏石製容器 Alabastron Vase, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・アラバストロン型容器
「何も置かなかった」王座の間からの唯一の出土品
イラクリオン考古学博物館・登録番号883
クレタ島・中央北部/1982年

アラバストロン型容器の蓋と口縁部には、非常に精巧な渦巻き線と「カンマ」の紋様の円周装飾が、びっしりと浮き彫り加工されている。また、容器の肩部と蓋の摘みは、ミノア工芸美術に頻繁の登場するモチーフ、貝が開いたような「8の字形」である。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王座の間・アラバストロン容器 Alabastron Vase, Throne Room, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・王座の間出土・アラバストロン型容器
蓋&口縁部=渦巻き線とカンマ紋様の装飾
イラクリオン考古学博物館・登録番号883
クレタ島・中央北部/描画:legend ej
アラバストロン型容器
王座の間出土の「鏡餅」のような安定感のある扁平型容器の材料は石膏石、ギリシア名称=「アラバストロス」/エジプト名称=「アラバストロン(地名由来)」の容器である。
本来は石製だが、ギリシア本土では初期ミケーネ文明・後期ヘラディックLHI期、紀元前1550年頃になると、アルゴス地方イライオン遺跡 Heraion の横穴墓群からの出土例のように、陶器の同型容器が多く生産された。
紀元前1375年頃、クノッソス宮殿の最終崩壊の時、用途は不明だが王座の間にアラバストロン型容器が残されていたことは、当然の事にクノッソス宮殿の最終崩壊当時の統治者や神官などが「占領ミケーネ人」であり、ミケーネ様式に準じた祈祷など大火災の鎮火と危機回避の対応習慣を実行していた、と連想できる。

ミケーネ文明・イライオン遺跡・アラバストロン容器 Mycenaean Alabastron Vase, Heraion/©legend ej
イライオン遺跡出土・アラバストロン型容器(陶器)
アテネ国立考古学博物館・登録番号6771
ペロポネソス・アルゴス地方/描画:legend ej

本・ゲーム&映画・ファッション・PC・カメラ・食品&飲料・アウトドアー・薬品・・・


王座の間の「グリフィン」のフレスコ画

王座の間の北壁と西壁、咲き誇るパピルスの中、二つの壁面を飾っている頭が鳥、身体がライオンのような想像上の四足動物である「グリフィン Griffin」は、ミノア文明のフレスコ画や彫刻作品、石製印章の刻み表現などに頻繁に登場する聖なるモチーフである。
グリフィンを描いた実際のフレスコ画の断片が、ギリシア本土ペロポネソス・メッセニア地方のネストル宮殿遺跡 Nestor's Palace の王妃の間から発見されている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・グリフィンのフレスコ画 Minoan Griffin Fresco, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・王座の間
西壁面・グリフィンの複製フレスコ画
クレタ島・中央北部/1994年

ミケーネ文明・ネストル宮殿遺跡・グリフィンのフレスコ画 Griffin Fresco, Nestor's Palace/©legend e
ミノア文明&ミケーネ文明のグリフィンのフレスコ画
左=ネストル宮殿遺跡・フレスコ画(出土品)
メッセニア地方・ホーラ考古学博物館/1982年
右=クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画(複製)
クレタ島・中央北部/1982年


色々な表現の「グリフィン」の絵柄

クノッソス宮殿遺跡・東翼部の階下(一階レベル)から、間違いなく上階(三階)に存在した東大広間 East Great Hall を飾っていたと推定できる、支柱につながれた《神殿のグリフィン》の浮彫フレスコ画が見つかっている。
このフレスコ画では、二頭のグリフィンが描画されているが、左グリフィンは全身残存だが、右グリフィンは尾・両後脚・腰・羽の一部のみ残存、オリジナル画はイラクリオン考古学博物館で展示公開されている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・浮彫フレスコ画《神殿のグリフィン》Minoan Tethered Griffin, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・浮彫フレスコ画
支柱につながれた《神殿のグリフィン》
イラクリオン考古学博物館/描画:legend ej

メッサラ平野のフェストス宮殿遺跡から近いアギア・トリアダ遺跡 Agia Triada の円形墳墓から出土した、後期ミノア文明LMIIIA2期、紀元前14世紀に属する石灰岩製の棺の側面には、グリフィンが引く女神の二輪走行車が描かれていた。
また、最東部のパライカストロ遺跡 Palaikastro の墳墓からは、「宮殿時代」の後、後期ミノア文明LMIIIA2期・紀元前1375年~前1300年頃の埋葬に使われた、グリフィンや雄牛角の絵柄のラルナックス陶棺が出土している。アギア・トリアダ遺跡の石棺フレスコ画と同じ、このグリフィンも羽根を持っている。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・フレスコ画石棺 Minoan Guriffin & Goddess Fresco, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡・円形墳墓B出土・大型石棺
グリフィンが引く女神の二輪走行車のフレスコ画
イラクリオン考古学博物館・登録番号396
クレタ島・メッサラ平野/1994年


ミノア文明・パライカストロ遺跡・ラルナックス陶棺 Griffin of Minoan Larnax, Plaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・ラルナックス陶棺
後期ミノア文明LMIIIA2期・紀元前1375年~前1300年
陶棺の正面(右半分)=グリフィンの絵柄
イラクリオン考古学博物館・登録番号1619
 クレタ島・最東部/1982年


アギア・トリアダ遺跡からのグリフィンと女神の二輪走行車を描いた石棺フレスコ画とほぼ同じシーンを刻んだ金製リングが、ギリシア本土・メッセニア地方・アンティア遺跡 Anthia で発見された。
この地方の中心都市カラマータ Kalamata ~北西9km付近、南北に約3km延びる標高150m前後の丘陵尾根の東斜面、初期ミケーネ文明の26基の横穴墓などが確認されたアンティア遺跡がある。墳墓群の一つ、トロス式墳墓からもたらされた金製リングの様式は、間違いなくクレタ島・ミノア文明のモチーフである。

1986年9月の「カラマータ大地震」の後、カラマータ市場跡に新たに開館したメッセニア考古学博物館 Messenia Archaeological Museum に展示されている金製リングでは、やや楕円形(オーバル形状)の印面に二頭のグリフィンが引く、二輪走行車に二人の女神が乗っている。左端には聖なる樹木が生え、二輪走行車は今まさにスタートする瞬間なのか、女神の一人が鞭(むち)を振り、グリフィンは大きく羽根を延ばした格好である。

ミケーネ文明・カラマータ・アンティア遺跡 Minoan Gold Ring, Kalamata-Anthia/©legend ej
カラマータ近郊・アンティア遺跡・金製リング
ミノア文明モチーフ=グリフィン・女神・二輪走行車
初期ミケーネ文明LHI期・紀元前1550年~前1500年
南西ギリシア・カラマータ・メッセニア考古学博物館
ペロポネソス・メッセニア地方/描画:legend ej

南西ギリシアのペロポネソス・メッセニア地方はミケーネ文明の範疇でありながら、文明センターのミケーネ宮殿やティリンス宮殿とは異なり、この地方の統治センターであるネストル宮殿は、ミノア文明の諸宮殿と同様に堅固な城壁も城門も備えていない。
その上で宮殿内部はミノア文明のフレスコ画とまったく同じ画風で装飾され、さらにメッサラ様式の円形墳墓の流れを汲む初期トロス式墳墓の埋葬は、ギリシア本土ではネストル宮殿を中心に先ずメッセニア地方から流行が広まった。
クレタ島から近距離にあるメッセニア地方が、ミノア文明の影響を大きく受けていたのは確実であり、可能性だが、アンティア遺跡から出土した金製リングはミノア文明からの献上品の一つであったかもしれない。なお、アンティア遺跡の尾根と西斜面には、古代クラシック文明の都市テオリア Thoria の遺構が点在している。

「カラマータ大地震」
1986年9月13日、南西ギリシアを中心にマグニチュード6.2の大きな地震が発生した。エーゲ海プレート上のギリシアはイタリアやトルコと並び地中海域では「地震国」の一つである。

東地中海域・岩盤プレート・テクトニクス/©legend e
東地中海域・岩盤プレート・テクトニクス理論
エーゲ海プレート=周囲3岩盤プレートに挟まれ圧縮される状態
プレートの境界面=地震多発/クレタ島東部=わずかに沈下現象
作図:legend ej

この大地震でカラマータの東方に広がる険しい山岳地帯では全滅した村もあり、カラマータ市内では鉄筋5階建ての大型アパートメントが崩壊するなど、無数の住宅や商業ビルの損壊・倒壊など甚大な被害が発生した。
死者35人・負傷者300人、海軍の病院船も派遣され、当時人口42,000人のカラマータ市では約1万人の被災市民が、郊外に設営されたテントや親戚宅などでの長期の避難生活を余儀なくされた。

地震の翌年 1987年の春、私はメッセニア~アルゴス地方のミケーネ文明遺跡と考古学博物館を巡り、3か月間ギリシアに滞在した。カラマータ市内は地震の5年前 1982年にも滞在した経験があったが、地震から半年後のカラマータ市内の風景は激変、ほとんど復興していなかった。
五年前に宿泊した小ホテルは崩壊状態のまま残され、営業を続けるホテルはわずか数軒、唯一のアクセス手段であるギリシア公共バスKTELのターミナルは市の北部の狭い空き地で仮営業を行っていた。

1986年・「カラマータ大地震」
1986年・「カラマータ大地震」の被害
カラマータ市内の倒壊の建物群
写真情報:greecereporter.com (GR)

宝飾品のグリフィン表現では、クノッソス宮殿遺跡~南方7km、アルカネス市街 Archanes の北側~北東へ延びる尾根で確認された、フォウルニ共同墓地 Fourni のトロス式墳墓Bの発掘では、羽ばたくグリフィンと女神を刻んだ金製リングが見つかっている。
金製リングはわずかに縦幅が小さいが、横幅10mmのほぼ円形の印面には羽根を大きく広げて右方~左方へ飛翔するようなグリフィンが刻まれ、その後方(右側)には両腕を横方向へ延ばした厚ぼったい特徴的なスカート姿の女神が刻まれている。
印面が狭いことから、ほかの目立つ具象は表現されていないが、ミノア文明の標準モチーフの一つ、「女神とグリフィン」の組み合わせの典型的な例を表現する宝飾品である。

ミノア文明・アルカネス遺跡・トロス式墳墓B Tholos Tomb B, Archanes/©legend ej
アルカネス遺跡・フォウルニ共同墓地・トロス式墳墓B
左=南東側の入口/右=北西側副室への通路口
トロス内面=盛り上がりベンチ状床面
クレタ島・中央北部/1994年

ミノア文明・アルカネス遺跡・トロス式墳墓出土・金製リング・グリフィン Minoan Gold Ring-Griffin, Archanes/©legend ej
アルカネス遺跡・共同墓地・トロス式墳墓B出土・金製リング
飛翔するグリフィン&女神/横幅10mm
後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1400年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号1017
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


また、クノッソス宮殿遺跡・南の邸宅遺構からは、振り向き姿勢の単体グリフィンが刻まれた、「新宮殿時代」の最盛期に属する滑石・ステアタイト製のレンズ型の印章が出土している。円形印面の横幅15mm~16.5mm、製作は後期ミノア文明LMI期と推定されている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・南の邸宅・グリフィン印章 Minoan Griffin Stone Seal, South House, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・南の邸宅出土・グリフィンの石製印章
後期ミノア文明LMI期・紀元前1550年~前1450年
滑石製・レンズ型印面=横幅15mm~16.5mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号842
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

消石灰・漆喰&フレスコ画の技法
地中海の諸島や沿岸~内陸部まで何処にでも無尽蔵に存在する石灰岩を砕き、加塩で焼成した物質が白色の生石灰。生石灰を加水処理すると白色微粉末の消石灰となる。
水酸化カルシウムが主成分の消石灰を水で溶き、壁面や天井や床面に塗った状態を漆喰と呼ぶ。完全に水溶せず強いアルカリ性を呈する漆喰は調湿・消臭・防水・不燃性に富み殺菌作用もある。また、消石灰にやや多めの水を加えたのが石灰水である。

フレスコ画の語源はイタリア語、壁面や天井や床面を造成した後、基本的に白色漆喰で表面を施工、漆喰が乾燥しない間に石灰水と顔料で描画する技法をフレスコ画と呼ぶ。
顔料が遅乾性の漆喰の石灰層へ染み込み、ゆっくりと乾燥する時、石灰質が透明で強固なコーティング質を作り、最終的に描画の表面を保護する。


色々な「パピルス」の絵柄

ミノア文明で陶器絵柄やフレスコ画のモチーフになっているパピルスでは、エーゲ海サントリーニ島(テラ島)のアクロティーリ遺跡で見つかった《パピルスのフレスコ画》、あるいは陶器では最東部・パライカストロ遺跡から出土した、器形がキレイなパピルスを描いた植物性デザイン様式の水入れがある。
さらに宮殿の広間などに置かれた装飾用の宮殿様式のアンフォラ型容器では、抽象化されたパピルスの花がモチーフになっている出土例が多い。

アクロティーリ遺跡・「パピルスのフレスコ画」 Papyrus Fresco, Akrotiri, Santorini/©legend ej
アクロティーリ遺跡・《パピルスのフレスコ画》
サントリーニ島・テラ考古学博物館
紀元前1650年頃の作品/描画:legend ej


ミノア文明・パライカストロ遺跡・パピルス絵柄水入れ Minoan Floral Style Jar, Papyrus Design, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・美しい器形の水入れ
植物性デザイン様式・パピルスの絵柄
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号3382/高さ245mm
描画:legend ej

ミノア文明・イソパタ遺跡・「王家の墳墓」・宮殿様式アンフォラ型容器・植物性デザイン Minoan Palace Style Amphora, Floral Design, Isopata/©legend ej
イソパタ遺跡・「王家の墳墓」出土・アンフォラ型容器
宮殿様式・美しい器形・パピルスの抽象化絵柄
新宮殿時代・紀元前1450年~前1400年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号3882/高さ635mm
クレタ島・中央北部/1982年

聖なるメスライオン
ミノア文明では、グリフィンと並んで時折、「聖なるメスライオン」も王や王妃の守護神としてフレスコ画を初め、儀式用のリュトン杯や印章のモチーフなどに登場する。
クノッソス宮殿遺跡・神殿宝庫からは、高さ170mm・長さ295m、大理石に近似する石灰岩製のライオン頭型リュトン杯が出土している。艶のある淡い黄色系の滑らかな光沢、睨み(みらみ)を利かした少々怖い表情のメスライオンの頭部を形容した精巧なリュトン杯である。上面・頸部には聖なるワインなどを注ぐ穴がある。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・ライオン頭型リュトン杯 Lion-head Rhyton, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・ライオン頭型リュトン杯
新宮殿時代・後期ミノア文明LMI期・紀元前1500年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号44/長さ295mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


また、ミノア文明の影響を受けていたグリフィンのフレスコ画の断片が見つかったネストル宮殿遺跡の王妃の間からは、同時にクノッソス宮殿遺跡と同じポーズのグリフィンの直ぐ脇に聖なる雌ライオンが鎮座するフレスコ画の断片が見つかっている。
この雌ライオンのフレスコ画の断片は、ギリシア本土ペロポネソス地方のホーラ考古学博物館 Chora Archaeological Museum で展示公開されている。
なお、本物のライオンはアフリカのサバンナ草原の「ゲームサファリ」で遭遇できる。

ミケーネ文明・ネストル宮殿遺跡・雌ライオンのフレスコ画 Lion Fresco, Nestor's Palace/©legend ej
ネストル宮殿遺跡・王妃の間出土・雌ライオンのフレスコ画
ペロポネソス・メッセニア地方・ホーラ博物館
描画:legend ej

南アフリカ・動物サファリゲーム・雌ライオン Wild Lion, South Africa/©legend ej
クルーガーズドープ保護区・雌ライオン
南アフリカ・ヨハネスブルグ~西北西35km/2011年

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南アフリカのゲームサファリ/ピラネスバーグ国立公園&クルーガー国立公園

また、クノッソス宮殿の王家の墳墓が確認されたイソパタ遺跡・1号墓の発掘では、「クッション型」とも呼ばれるフラット系円筒形の印面、左右両端を金装飾したカルセドニー(玉髄)のビーズ型の印章が見つかっている。
横幅20m、長方形の淡青色の印面には、頸部・襟カラー装飾の堂々たるライオンが刻まれ、おそらくライオン調教師なのか、二人のミノア男性が佇んでいるシーンが表現されている。
ただ、多くの研究者の想定では、大型の四つ足動物は「調教されたライオン」としているが、尾がライオン風ではなく、やや大型の番犬・マスティフの感じがしないでもない。エヴァンズもライオンとしながらもマスティフ番犬の可能性も否定していない。何れにしてもモチーフはエジプトからの影響を示している。
製作は被葬者が埋葬された時期、「新宮殿時代」の後半期、後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1400年頃とされる。

ミノア文明・イソパタ遺跡・カルセドニー製ライオン印章 Chalcedony Seal with Lion, Isopata/©legend ej
イソパタ遺跡・1号墓出土・カルセドニー製の印章
金装飾・フラット系円筒型=ライオン&調教師二名
紀元前1450年~前1400年頃/ビーズ形式・横20mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号900
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

イソパタ遺跡出土のカルセドニー製の《ライオン印章》のモチーフに非常に近似する、「新宮殿時代」に属する金製リングタイプの印章が、クノッソス宮殿遺跡・南西端の南の邸宅から出土している。
南の邸宅の印章の素材は濃紺色の貴重なラピスラズリ、大型のライオンと調教師が一人という表現だが、その印面外周はミノア文明の最高レベルの工芸美術の一つ、「黄金の造粒技術 Gold Granulation」、金の微細粒の装飾が施されている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・南の邸宅・石製印章 Minoan Lapis-lazuli Seal,  Lion with Tamer, South House, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・南の邸宅出土・金製リングタイプの印章
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
・円形印面外周=「黄金の造粒技術」・金の微細粒
・素材=円盤型ラピスラズリ・横幅18mm~19mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号839
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


王座の間付属の「聖なる浴場」

王座の両脇と同様に、王座の間の南側正面にも石製ベンチがあり、ベンチの背面である高さのない壁の上面には三本の円柱が立ち、円柱の南側には、回り階段で下がった半地下式の「聖なる浴場 Ritual Bath」が配置されている。
エヴァンズの発掘では、浴場の床面で銀製の腕輪1個、幾らかの金箔が見つかっている。このような物が通常「聖なる浴場」にあることは考え難く、紀元前1375年頃、クノッソス宮殿の最終崩壊時、上階(二階~三階)から落下したものと推定された。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王座の間・「聖なる浴場」 Ritual Bath of Throne Room, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・王座の間・「聖なる浴場」
上階から見る「聖なる浴場」のピット床面
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明の時代、宗教的な儀式などが執り行われた「聖なる浴場」と呼ばれる施設は、今日の身体を洗う風呂の設備ではなく、無論半地下式の単なる水汲み場や湧水でもない。「聖なる浴場」は両刃斧の記号と並び、ミノアの人々にとり極めて重要な聖なる意味をもつ「特別な場所」であった。

クノッソス宮殿を含め、三か所のほかのミノア宮殿の共通点として、通常、「聖なる浴場」は中央中庭の西側・西翼部の内部に必ず一か所設けられていた。ただし、「聖なる浴場」の合計設置数は各宮殿の規模により異なり、単数または複数存在する。
さらに地方の比較的大型の邸宅内部にも「聖なる浴場」を設けていた。「聖なる浴場」の存在の有無は、その場所で神聖なる儀式を執り行う必要性があったことを連想させ、それは統治力とその地の重要性を反映したものと言える。

クノッソス宮殿の場合、「聖なる浴場」は王座の間の内部のほか、北翼部と東翼部・宮殿聖所の内部、南東翼部の脇にある内陣仕切りの邸宅 House of Chancel Screen などにも残されている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・聖所・「聖なる浴場」Ritual Bath, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・宮殿聖所・「聖なる浴場」
側面=石膏石の表装・底部=石膏石の舗装
クレタ島・中央北部/1994年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・聖所・「聖なる浴場」Ritual Bath, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・宮殿聖所・「聖なる浴場」
クレタ島・中央北部/1982年


ミノア文明・マーリア宮殿遺跡・「聖なる浴場」 Ritual Bath, Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡・西翼部・「聖なる浴場」
クレタ島・中央北部/1982年/描画:legend ej


ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡 Ritual Bath, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・西翼部・「聖なる浴場」
クレタ島・最東部/1982年


ミノア文明の「聖なる浴場」
床面から深さにして1mほど、決して広くはない半地下式の「聖なる浴場」。明かり取りの窓を設けず、間違いなく、石製ランプに照らされた暗く神秘なるこの場所では、王や神官など宮殿の限られた高位の人により、聖なる水を使い、手足のみならず身体の清めを含め、祈祷のようなある種の神聖な儀式、非常に重要な宗教的な行為が行われたはずである。
例えば、宮殿全体で行われる聖なるイベント前の、主催者たる王や神官などの「清めの場」に使われた可能性が高い、と想定できる。

考古学情報の乏しい一般の観光ツーリストのほとんどが、この施設は水が湧き出る普通の「井戸」と勘違いしている。が、実はこの窓のない空間、それほどの深さもない特殊な構造にこそ大きな意味があり、聖なる水を使って儀式が執り行われる極めて宗教色の強い施設であった。
そのため、発掘により確認されたクノッソス宮殿を初めミノア文明の諸宮殿のほか、イラクリオンの西方のティリッソス遺跡 Tylissos など豪奢な造りの地方邸宅などに限定されて造られた「聖なる浴場」では、石製ランプが同時に見つかっている。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・石製ランプ Minoan Stone Lamp/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・石製ランプ
イラクリオン考古学博物館
・左=登録番号616・高さ460mm
・右=登録番号133・高さ110mm
クレタ島・最東部/描画:legend ej


王座の間の付属部屋・「内部聖所」

王座の間の西側には、儀式・祭祀に関係したとされる二つの狭い部屋が連結され、その内の北側の部屋、研究者から内部聖所 Inner Shrine と呼ばれる部屋から、エヴァンズの発掘で石製ランプを初め儀式容器や金箔、水晶(クリスタル)断片などが見つかった。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・内部聖所入口 Inner Shrine of Throne Room, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・王座の間・内部聖所
・ドアーの奥部=内部聖所&付属部屋
・ドアーの左右=グリフィン&パピルス
・円柱の左=半地下式の「聖なる浴場」
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

内部聖所からの出土品の中で最も素晴らしいと思われているものは、水晶の六角柱原石から剥離成形したガラス状の水晶薄板に描画された「赤い雄牛」の部分である。
わずかに淡い黄色系の水晶薄板の裏側に顔料で描かれた雄牛は、エーゲ海の色、エヴァンズが言うギリシア語「キアノス色 Kyanos Blue 」を背景として、上半身がやや上向き姿勢で走行しているように見える。

残存の水晶薄板は縦55mm・最大横幅35mmの変形長方形、雄牛の胴部~後脚部分は欠損しているが、エヴァンズと協力者の考古学美術家エミール・ジリエロンは、この描画は雄牛の単純な走行姿勢を描いたものではなく、オリジナル絵はミノアの青年による「雄牛跳び」の迫力シーンであった、と想定している。雄牛の後頭部の上方にわずかだが、「青年の髪」の先端と「ロープ」の一部と思われる絵の具が残留している感じがある。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王座の間(内部聖所)・水晶薄板絵「雄牛跳び」Minoan Drawing Bull-leaping on Crystal-plaque, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・王座の間(内部聖所)出土・水晶薄板絵
赤色雄牛の頭部~胴部/「雄牛跳び」のシーンの一部?
新宮殿時代・紀元前1600年~前1450年
水晶薄板残存=縦55mm・最大横幅35mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号37
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王座の間(内部聖所)・水晶薄板絵「雄牛跳び」Minoan Drawing Bull-leaping on Crystal-plaque, Knossos Palace/Sir Arthur Evans and E. Gillieron
クノッソス宮殿遺跡・王座の間(内部聖所)出土・水晶薄板絵 想像画
赤色雄牛&ミノア青年の「雄牛跳び」のシーン(想像)
描画情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.III(1930年)
描画作者:考古学美術家 Émile Gilliéron

エヴァンズはこの水晶の薄板描画が出土したピンポイントが、王座の間に付属する、王座の間以外に出入口がない内部聖所であったことから、水晶描画は王座の間で執り行われた何か聖なる儀式にだけ使われ、それを見ることのできたのは王や宮殿の尊貴な人物、あるいは高位祭司・神官のみであった、と考えている。
そうであるならば、赤色の雄牛が描かれたこの水晶薄板はクノッソス宮殿の最上位の宝飾品、現代で言えば表彰盾のような儀式で使う最重要のリュトン杯の一部であった可能性が濃厚である。

小片ながらも、これは中東地域から輸入された水晶の六角柱原石から剥離成形した薄板という素材の貴重価値のみならず、ガラス材料と同じ素材に顔料で描画するという、西翼部・神殿宝庫から出土した《蛇の女神像》と並び、製作には「新宮殿時代」の最高ランクの技法で成し得た「ミノア文明の最高傑作品」の一つであった、と言えるかもしれない。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・《蛇の女神像》Minoan Snake Goddess, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡出土・ファイアンス陶器《蛇の女神像》
中期ミノア文明MMIIB期~MMIIIA期・紀元前1625年頃
NTS(Not to Scale)・イラクリオン考古学博物館
・左像(母女神?)=登録番号63・高さ342mm
・右像(娘女神?)=登録番号65・高さ295mm
クレタ島・中央北部/1994年


また、特に希少価値の高い水晶材料に関して、エヴァンズは北東翼部から出土した「王家のゲーム盤 Royal Game Board」で使われているのと同じタイプであると判断している。
元々、この水晶薄板絵が内部聖所に置かれていなかったなら、現在、エヴァンズとその後のギリシア政府当局により美しく復元され、複製描画が展示されている上階のフレスコ画の部屋、またはさらに上階(三階)の豪華な部屋から、紀元前1375年頃、クノッソス宮殿の崩壊時に崩落したこともあり得る。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「ロイヤル・ゲーム盤」 Minoan Royal Game Board, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・象嵌のゲーム盤
「王家のゲーム盤」/イラクリオン考古学博物館
盤サイズ=長辺965mm・短辺553mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


重要なことは、現在ツーリストの立ち入りが禁止されているこれらの複雑構造の付属部屋への出入りが、王座の間以外にアクセスできないような「特異な構造」となっている点である。この意味は、ミノア王が、あるいは王座の間に立ち入ることのできた高位な祭司・神官だけが、この区画で執り行われた何か「神聖なる儀式」に参加できたことを連想させている。


王座の間の付属部屋・「隠れた区画」

王座の間の円柱と「内部聖所」のドアーとの間の狭い通路からアクセスできる、「聖なる浴場」の南側に配置された隠れた区画は、中央中庭から上階(二階~三階)へ上る中央大階段の階下に相当する、複雑で秘密めいたスポットである。この隠れた区画は、現在、ツーリストの立入禁止区域となっている。

この隠れた区画には少なくとも合計7つを数える部屋があり、最も中央中庭寄りの部屋には底広で床面にベタリと置く三個の大型容器が残され、エヴァンズの発掘では儀式用容器類などが出土した。
この大階段の階下の隠れた区画と内部聖所など、王座の間コンプレックスに配置された合計9部屋は、すべて王座の間からのみアクセスができる非常に「特異な構造と配置」となっている。

直径約90cm 大型の石膏石製水盤の運命
現在、王座の間の床面に置かれている紫色系石膏石を削った円形の大型の水盤は、私が最初にクノッソス宮殿遺跡を訪ねた1982年には、ツーリストが見学できる控えの間の床面に無造作に置かれていた。当時、どう考えてもこのミノア時代の石製水盤は、控えの間に「相応しくない存在」と感じたツーリストは、私以外にも居たはずである。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・石製水盤/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・石膏石製の水盤
水盤=直径約90cm・高さ約20cm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

そして何時の間にか、おそらく1990年代の後半以降か、当の石製水盤は王座の間の王座の前へ移動させられてしまった。
王座の正面に石製水盤が置かれているシーンは、ミノア文明に限らず、ほかの古代文明の時代でも、現代でも何か違和感を覚えてしまう。大型水盤を王座の間に置いたのは、ほぼ間違いなく、ギリシア当局の「ツーリストへ印象良く見せる」ためのサービスである、と私には思える。

クノッソス宮殿遺跡を訪ねた多くのツーリストが、写真を載せたクレタ島に関するネット発信している絵日記ブログでは、この大型水盤は王座の間に「相応しい存在」、あるいは王座の間の「儀式に使った」など、素人考古学の憶測的な説明が色々記述されている。しかし、残念ながら厳密には石製水盤は王座の間からの出土品ではない。
実は石製水盤は王座の間の北側、王座の間コンプレックスと北翼部との間に配置された通廊で発見された。故に研究者の間では、王座の間から壁を隔てて北側にあるこの通路は石製水盤の通廊 Corridor of Stone Basin と呼ばれている。

結構大型サイズで重量もある水盤が、もともと石製水盤の通廊に置いてあったとは考え難く、あくまでも想像だが、紀元前1375年頃、クノッソス宮殿が大火災で崩壊する時、現在、美しいフレスコ画が復元・複製されている上階(二階)の吹抜構造の壮麗な広間から通廊へ落下した、と考えるのが最も正しい推測であろう。あるいはさらに上階(三階)の賓客の宿泊する上質な部屋から落下した可能性も否定できない。

1980年代 「ゴミ箱」であった石製水盤
3,500年の昔、石製王座にミノアの王が座り、国家政務を遂行していた王座の間は、ツーリストがドッと訪れる現在では格子囲いでツーリストの立ち入りが禁止されている。
また、控えの間から格子囲いを通して王座の間を覗き込むツーリストがあまりに多く、有名なパティシエが経営する東京・青山のケーキショップで人気のスウィーツ商品を買い求めるように、控えの間の入口付近の日陰のない中央中庭には、常に30人以上の見学順番待ちの長蛇の列ができている。一人1分間の王座の間の見学でも、盛夏の時期なら炎天下で「最低30分待ち」となる。
しかも控えの間の石灰岩と石膏石を敷き詰めた床面には、見学者が直接床面を歩かないようにロープ規制見学歩行通路が設けられ、壁面のミノア時代の焼け焦げた石製ベンチにも手を触れることもできない。

訪れるツーリストが限りなく少なかった1980年代では、夏、日陰が少ないクノッソス宮殿遺跡で小休止をかねて、涼しい控えの間の左右壁面にあるミノア時代の冷たい石膏石製のベンチに座り、私がやったように居眠りも含め、ツーリストは発掘レポートを確認するとか、ガイドブックに目を通すなど、静かな時間を過ごすこともできた。
その当時、現在王座の間の床面にある石製水盤は、控えの間の床面に無造作に置かれていた。ミノア時代の石製ベンチに座ったツーリストが、タバコの吸殻を石製水盤の中へ投げ捨てたり、駄菓子の袋を捨てたり、飲み終わったコカコーラの空瓶(まだペットボトルは普及していない)を置いて行ったりする、言ってしまえば、この石製水盤はツーリストに便利な「ゴミ箱」として活用されていた。

当時、間違いなく普通のツーリストは、この石製水盤がミノア時代の本物の発掘品ではなく、宮殿遺跡の雰囲気に合わせて現代の石工職人が作った偽物と思ったはず。たとえクノッソス宮殿遺跡からの出土品が有り余っていても、ツーリストの立ち入る場所の足元に、まさか「3,500年前の本物の水盤があるはずがない」、と思ったことであろう。
ツーリストが小休止するのに丁度よい石製ベンチがある場所に置かれた円形の石製水盤は、「ゴミ箱」に最適な広く浅い形状であったのは事実。ただ、格子囲いの王座の間を覗いたツーリストが振り返った時、足元に直径約90cm・高さ約20cmの石製水盤があり、「ちょっと、この水盤邪魔じゃない! こんな足元に置くなんて!」、と誰もが感じる置き場所の不適合さはあった。
それでも「ゴミ箱」と勘違いした小休止のツーリストが、次々にゴミやタバコを石製水盤の中へポイっと投げ捨てることで、ミノアの石製水盤は貴重な出土品として観てもらうこともなく、ゴミに汚されるだけの悪循環の犠牲になっていたのである。

あの頃のセピア色の記憶では、「ゴミ箱」なので当然のこと、石製水盤の表面はかなりキズついてしまっていた。そうなると今さらイラクリオンの考古学博物館での展示公開もできず、その取り扱いに悩んだ遺跡管理当局は、痛んだ水盤の表面を#320の布ヤスリで磨き上げ、観光用のアクセントとして「何かに活用できないか?」と思案したであろう。
その最もヴィジュアル効果のある場所が、当時ガラーンとして何もない王座の間で展示することであった、というのが私の想像した石製水盤の移動履歴と言うか、扱いの経緯である。

何しろ120年前に行われたエヴァンズの発掘ミッションでは、石製アラバストロン型容器のほか、王座の間からの出土品は「何一つ無かった」はずである。サイエンスであるべき考古学の観点では、現在、この石製水盤が王座の間の王座の正面に置かれているのは、エヴァンズの遺構の「復元・複製」より、さらに史実に反する当局による虚偽的な「見せる過剰サービス」と言えるかもしれない。かなりの過激発言を「良き提案」として、当局がご理解して戴けるなら幸いに思います・・・

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 関連ポストは「12部構成」となっています。
1. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace I 概要
2. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace II 西中庭~南翼部
3. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace III 中央中庭・王座の間(当ポスト)
4. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IV 聖域・宝庫
5. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace V 貯蔵庫
6. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VI 女神パリジェンヌ
7. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VII 王の居室・聖所
8. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VIII 王妃の間
9. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IX 雄牛跳び
10. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace X 北~東翼部
11. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 周辺の先史遺跡
12. ミノア文明・クノッソス宮殿 崩壊の原因は?

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