2020/04/11

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace V 貯蔵庫群


ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 関連ポストは「12部構成」となっています。
1. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace I 概要
2. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace II 西中庭~南翼部
3. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace III 中央中庭・王座の間
4. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IV 聖域・宝庫
5. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace V 貯蔵庫(当ポスト)
6. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VI 女神パリジェンヌ
7. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VII 王の居室・聖所
8. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VIII 王妃の間
9. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IX 雄牛跳び
10. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace X 北~東翼部
11. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 周辺の先史遺跡
12. ミノア文明・クノッソス宮殿 崩壊の原因は?

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クノッソス宮殿遺跡・西翼部の貯蔵庫群

位置 クレタ島・中央北部/イラクリオン Heraklion/Iraklion~南南東5km
GPS クノッソス宮殿遺跡・中央中庭: 35°17′53″N 25°09′47″E/標高95m

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡/Google Earth
クノッソス宮殿遺跡
クレタ島・中央北部
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入

ミノア文明&ミケーネ文明 編年表/©legend ej
クレタ島ミノア文明&ギリシア本土ミケーネ文明 編年表
・ミノア文明・「旧宮殿時代」: 紀元前1900年~前1625年
・ミノア文明・「新宮殿時代」: 紀元前1625年~前1375年
ミケーネ文明(時代):  後期ヘラディック文明 LH期
作図:legend ej


中央中庭に面する宮殿・「西翼部」&「東翼部」

中期ミノア文明の末期~後期ミノア文明の半ば、最も繁栄した「新宮殿時代」のミノア宮殿では、中央中庭の周りに王家のプライベート生活区画は当然のこと、政治・行政・宗教・文化に関連する重要な建物区画が配置された。

すべての宮殿に共通するが、特に中央中庭 Central Court の西側となる西翼部 West Wing には、王国の政治・財務・宗教関連の区画が配置された。そして王家のプライベート生活区はクノッソス宮殿とザクロス宮殿では東翼部 East Wing に、フェストス宮殿とマーリア宮殿では北翼部 North Wing に配置された。
また、幾分の異なりはあるが、ミノア宮殿では南翼部 South Wing と北翼部に工房や貯蔵庫など宮殿関係者の実務面の区画が付属された。

ミノア文明の宮殿遺跡(4か所)

・中央北部・ミノア文明センター・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace
・南西部・メッサラ平野・フェストス宮殿遺跡 Phaestos/Phaistos Palace
・北海岸・マーリア宮殿遺跡 Malia Palace
・最東部・ザクロス宮殿遺跡 Zakros Palace

クレタ島ミノア文明・宮殿群 地図 Map of Minoan Palaces in Crete/©legend ej
クレタ島・ミノア文明・宮殿遺跡 地図
作図:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・推測模型/©legend ej
クノッソス宮殿・推測模型(木製)
部屋数1,000室/東翼部~中央中庭~西翼部
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/1996年


宮殿の直轄管理の貯蔵庫群の位置

規則正しく並んだクノッソス宮殿の直轄管理の西貯蔵庫群 West Store Rooms/Magazines は、西翼部の王座の間コンプレックスと聖域の西側に配置されている。
宮殿・西翼部二階に配置された大広間などの床面に相当する、コンクリート復元の階上見学用ステージから、貯蔵庫群の一部を眺めることができる。しかし、現在、ツーリストが階下へ降りて、貯蔵庫群へ直接立ち入ることはできない。

全体では専有面積も広く、南北に長い区画である西貯蔵庫群は、位置的には宮殿・西翼部の上階(二階)に存在した壮麗な大広間などの丁度真下の位置である。22室(18号室の説もある)を数える西貯蔵庫群は、南北に走る貯蔵庫群の長い通廊 Long Corridor of Store Rooms に対して、各貯蔵庫が通廊から個別に出入りできるように、直角に規則正しく配置されている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・西翼部・西貯蔵庫群・プラン図 West Store Rooms Plan, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・西貯蔵庫群
アウトラインプラン図(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/作図:legend ej


貯蔵庫群の内部と構造

貯蔵庫群の壁面は上階の広間群の重量を支えるため、壁面部を木板で囲い、中に割り石を積め、隙間を粘土で塞ぐという強化仕様の非常に分厚い構造、壁面が事実上の「階下支柱」の役目を果たしている。
それは膨大な重量となる階上の広間群の崩落を防ぐ意味でも、ミノア時代の宮殿建築の責任者が、各貯蔵庫スペースを幅が狭く、奥行きがある細長い造りとして設計したことを示している。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・西貯蔵庫群 West Storerooms, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・西貯蔵庫群
第3号室~第6号室付近(現在 立入禁止区域)
左=貯蔵庫群の長い通廊/右上=西ポーチ
クレタ島・中央北部/1982年


貯蔵庫のピトス容器&アンフォラ型容器

宮殿の中央中庭の西側、西翼部に配置された「政治・行政」の王座の間、「宗教と精神文化」の聖域と並び、貯蔵庫は王国の「経済・財務」を担う部門であり、王国運営の「三点セット」の一つとして非常に重要な役割を果たしていた。
このため、直轄管理の貯蔵庫群へのアクセスは宮殿の限られた人だけが許され、ほとんどの貯蔵庫へは王座の間や聖域から直接連絡できる通路が設けられていた。「他かが倉庫ではないか」の、単純で軽い認識は明らかに間違いで、ミノア宮殿の貯蔵庫は現代で言えば、国の財務省&国税庁&経済産業省に相当していた。

宮殿の直轄管理の西貯蔵庫群には、王国への租税(税金)としての物納された小麦や豆類など乾燥した穀物類、そして中型~大型のピトス容器アンフォラ型容器には大量のオリーブ油が保管された。
クノッソス宮殿のピトス容器では、アンフォラ型容器に近似する小型~中型もあるが、大型サイズでは内容量50ガロン級(約190リットル)、要するにドラム缶と同じ容量の陶器容器も製作された。ピトス容器は西貯蔵庫群のほか、東貯蔵庫群や北東貯蔵庫群などで使われた。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫・ピトス容器 Pithos in Store Room, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・西貯蔵庫群
第5号室~第6号室の奥部(西側)のピトス容器
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・東貯蔵庫&ピトス容器 East Storeroom, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・東貯蔵庫
円形のメダリオン紋様のピトス容器
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明の大型ピトス容器
クレタ島ミノア文明は陶器生産では、東地中海域で右肩並ぶ者が居ないほど、その生産量と技術では抜きん出ていた。クノッソス宮殿を初め諸宮殿と市街の陶器工房では多くの大型容器が生産された。
さらにメッサラ平野のフェストス宮殿遺跡~東方11km、古代ゴルティス遺跡~南西2km、ミノア文明のミトロポリス邸宅 Mitropolis では中型~大型のピトス容器の専用生産が盛んに行われていた。訪ねた1994年、発掘された邸宅遺構と出土したピトス容器が、保護屋根カバーの下にそのままの状態で置かれていた。

ミノア文明・ミトロポリス遺跡 Minoan House of Mitoropolis/©legend ej
ミトロポリス遺跡・邸宅遺構
発掘で出土したピトス容器
クレタ島・メッサラ平野/1994年

GPS ミトロポリス遺跡: 35°02’55.50"N 24°56’00"E/標高135m


エーゲ海先史 ミノア文明ミケーネ文明
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貯蔵庫の地中収納ピット

ギリシア神話》の時代から「迷宮」と呼ばれたクノッソス宮殿では、建造物の建築技術やほかに類を見ない上質な装飾レベル、部屋数1,000室という規模だけではなく、空間も限りなく効果的に活用していたことに特徴がある。野外の空間活用としては、平石板で舗装された広い中央中庭や西中庭もその例である。

一方、室内の効果的な空間利用の例では、ファイアンス製《蛇の女神像》が出土した宮殿の宝物保管室であった聖域・神殿宝庫を初め、その南隣の大型ピトスの部屋、そして貯蔵庫群の石膏石舗装の床面に設けられた深い収納ピットの存在を挙げられる。
貯蔵庫の収納ピットの内側壁面は、石組み&石膏表装の仕様、長期間保存の効く乾燥穀物などを貯蔵していた。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・西貯蔵庫 West Storeroom, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・西貯蔵庫・第5号室
床面=ピトス容器・地中=収納ピット
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

1980年代~90年代、クノッソス宮殿遺跡のほとんどの区画が「立入自由」であった時期、私は貯蔵庫・第1号室~第3号室を除き、ほとんど全ての貯蔵庫群の内部へ直接立ち入り、(現在では絶対に許されないが)石膏表装の地中の収納ピット内へ降りて実際の深さを計測、構造などを確認した経験がある。

西貯蔵庫群の収納ピットは、より南側の貯蔵庫・第4号室(ピット4基)~第13号室(ピット8基)、そしてさらに北側へ離れた第17号室(ピット4基)、それぞれの敷設数は異なるが、11室分の貯蔵庫=合計69基の地中収納ピットを数えた。
各室のピットの東西幅・南北幅・深さでは近似サイズも認められるが、貯蔵庫と収納ピットの数が多いこともあり、全体では大小様々で一定値ではない。ただ深さに関しては、おおむね120cm~140cmとなっていた。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・西貯蔵庫 West Storeroom, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・西貯蔵庫・第4号室
床面=ピトス容器・地中=収納ピット
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・西貯蔵庫・第17号室 West Storeroom, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・西貯蔵庫・第17号室
奥~入口を見る/地中=収納ピット
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

概して言えば、西貯蔵庫内の収納ピットは、平面視野で細長く、聖域・神殿宝庫の宝飾品を保管した収納ピットより「やや小ぶり」と言える。なお、第1号室~第3号室、さらに第17号室を除く第14号室~第22号室(18号室までの説もある)は、地中に収納ピットの敷設はない。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・神殿宝庫 Temple Repositories, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・神殿宝庫
奥側=西側の収納ピット
中間=後世の収納ピット
手前=東側の収納ピット
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年


ただし、この半地下式のピット収納システムは、文明の最大センターであったクノッソス宮殿だけで採用され、メッサラ平野を管理したフェストス宮殿や北海岸のマーリア宮殿、最東部の新設されたザクロス宮殿の貯蔵庫の床面では収納ピットは設けず、石膏石で舗装された単純な床面仕様となっている。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・貯蔵庫 West Storeroom, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・西翼部・貯蔵庫&ピトス容器
床面=石膏石の舗装・地中=収納ピットなし
クレタ島・メッサラ平野/1982年

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・貯蔵庫 Storeroom, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・貯蔵庫&ピトス容器
床面=石膏石の舗装・地中=収納ピットなし
クレタ島・メッサラ平野/1982年

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・貯蔵庫 Storerooms of Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・貯蔵庫群
クレタ島・最東部/1996年


貯蔵庫の「両刃斧」などの刻印

ミノア時代、聖なる崇拝シンボルであった両刃斧特殊な記号の刻まれた場所、あるいは青銅製の薄板で作られた両刃斧が置かれた場所は「聖なる区域」か、普通の人が立ち入ることができない「特別な場所」を意味していた。
宮殿の非常に重要なセクションであった貯蔵庫群の内部壁面には、聖なる両刃斧や特殊な記号が刻まれ、その室内がクノッソス宮殿の極めて大切な場所であることを警告していた。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫・壁面刻印 Special Sign, West Storeroom, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・西貯蔵庫の特殊な刻印
第2号室の壁面に残る特殊記号の刻み
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1994年

刻印された記号の内、特に両刃斧の記号は貯蔵庫・第1号室~第9号室まで、各室内の奥部(西側)の壁面に1か所、または2か所に刻まれ、第3号室と第5号室ではさらに南側壁面にもそれぞれ1か所に刻まれていた。
さらに、各貯蔵庫の入口、要するに貯蔵庫群の長い通廊に面する、貯蔵庫と隣の貯蔵庫との境界壁となる場所にも両刃斧の記号が刻まれていた。

両刃斧や特殊な記号は合計9室の貯蔵庫内に刻まれ、より北側の貯蔵庫・第10号室~第22号室(18号室の説もある)では確認されていない。
ただし、ミノア時代にはすべての貯蔵庫内の壁面に記号が存在したと考えられるが、第13号室~第18号室では残存壁面が低く石材の破壊も激しいことから、より北側の貯蔵庫群では記号が消滅してしまった可能性もある。

また、両刃斧や特殊記号の刻みでは、西貯蔵庫群のみならず西翼部では聖域の支柱礼拝室、東翼部では王の居室コンプレックスの採光吹抜け構造の部屋の壁面などでも確認されている。さらにクノッソス宮殿遺跡のほか、北海岸のマーリア宮殿遺跡の西翼部・支柱礼拝室の角柱にも両刃斧の刻みが見つかっている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・支柱礼拝室 Pillar Crypt, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・東支柱礼拝室
角柱側面=聖なる両刃斧の刻み
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年


ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王の居室・採光吹抜け部屋 Double Ax Room's Lightwell, Knossos Palace/Sir Arthur Evans
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・王の居室コンプレックス
両刃斧の間・採光吹抜け部屋の西壁面&両刃斧の記号
写真情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.I (1921年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)
エヴァンズ写真⇒テキスト&〇マーク挿入


ミノア文明・マーリア宮殿遺跡・支柱礼拝室・「両刃斧」記号 Doube Axe, Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡・西翼部・支柱礼拝室
角柱側面=聖なる両刃斧の刻み
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

「両刃斧/ラブリュス lábrys」の記号
ミノア文明では政治と宗教は強く結び付き、多神教の思想からして、例えば聖なる動物とされた力のある雄牛やその角を初め、蛇やメスライオン、仮想上の動物《グリフィン》など複数の崇拝対象があった。
ミノア時代の人々にとり、あらゆる宗教的な崇拝シンボルの中で、殊更に両刃斧の記号が「最も神聖」とされた。部屋の壁面や支柱側面にやや斜めに刻まれ、その配置も決して規則正しいと言えないが、両刃斧の記号は極めて重要な神聖な標識であり、神と王からの最も高次な宗教的な警告でもあった。
通常、両刃斧の記号が表示された場所は、特別な身分の人、例えば王や王族、あるいは祭司・神官など、限定された人だけが近づくことを許された非常に特殊な場所、「聖なる場所」を意味していた。
また、石製金型を使ってある程度の数が量産された金製の小型両刃斧は、宮殿の宝飾品として大切にされ、時には信仰の山頂聖所や洞窟聖所へ奉納された。
あるいは超大型の青銅製の装飾用の両刃斧は、長さ2mを超す長い支持棒に取り付けられ、穴加工の石製角錐台(保持台)に差し込まれ、宮殿の統治者の居室を初め、地方の邸宅の宝庫や貯蔵庫など、大切な資産や宝飾品を保管する部屋や施設内に立てていた。

ミノア文明・両刃斧/©legend ej
ミノア文明・崇拝シンボルの「両刃斧」
左=黄金の両刃斧の宝飾品/イラクリオン考古学博物館
中=両刃斧の刻み記号  右=青銅製両刃斧&石製角錐台
描画:legend ej

また、クレタ島ミノア文明のみならず、両刃斧の崇拝思想はギリシア本土ペロポネソス半島にまで及び、メッセニア地方のペリステリア遺跡のトロス式墳墓でも両刃斧の刻みを確認できる。

関連Blog情報: ミケーネ文明・ミィロン・ペリステリア遺跡 Peristeria

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西貯蔵庫群の大火災の痕跡/焼け焦げた壁面

戦いのない繁栄の500年間、平和で安泰であったクレタ島のミノア文明の「宮殿時代」は、歴史に刻む大事変で一気に文明崩壊&衰退への道を歩み始める。
ギリシア本土で勢力を増強していたミケーネ人のクレタ島への攻撃が始まり、「新宮殿時代」の後半期、紀元前1450年頃、クノッソス宮殿を除くフェストス宮殿・マーリア宮殿・ザクロス宮殿の三か所の宮殿、ティリッソスなど地方の邸宅、そしてグルーニアなど繁栄のミノア人の町が、連鎖反応のように次々に「侵攻ミケーネ人」により占領・破壊される。
そうして75年後、最後まで残ったミノア文明センターであったクノッソスの大宮殿は、紀元前1375年頃、理由は不明だが大火災を起こし、呆気なく崩壊して行く。これ以降、ミノア文明が再び精気を取り戻すことはなく、文明は駆け足で衰退へと進んで行く。


クノッソス宮殿が最終崩壊する時、西翼部・西貯蔵庫群に保管されていた大量のオリーブ油に火が回り、その激しい火炎は部屋数1,000室と言われた宮殿全体を包み込んだと想像できる。
その火炎で激しく焼かれた壁面や支柱など、現在のクノッソス宮殿遺跡の至る場所で確認できるが、最も激しい火炎の痕跡はオリーブ油保管の貯蔵庫群で見ることができる。

宮殿崩壊後、すでに3,400年が経過したにも関わらず、高温の火炎で焼かれガラス質に変化した西貯蔵庫群の壁面は、当時の大火災の激烈さを今に伝えている。ただし、現在、西翼部・西貯蔵庫群はツーリストの「立入禁止区域」に指定されている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・西貯蔵庫 火炎跡 Burn Trace West Storeroom, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・西貯蔵庫・第4号室
火炎跡の角柱・壁面/地中=収納ピット群
床面=ピトス容器&アンフォラ型容器
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

建築材料・石灰岩の浸食
クレタはエーゲ海域の大きな島、当然、ほかの地中海の島と同様に石材は無尽蔵であり、現在と同様にミノア文明では宮殿建築のみならず、ほとんどの建物の建築材料として現地産の石灰岩が主として使用されてきた。
ほとんど炭酸カルシウムである石灰岩は酸性に弱く、長い年月の間、二酸化炭素を含む雨水に触れるとわずかずつ浸食されることが知られている。クノッソス宮殿遺跡でも、かつての建物遺構の多くの箇所で石灰岩の浸食現象を見ることができる。
発掘者サー・アーサー・エヴァンズによる発掘直後からの「復元・複製」の意思を継いだギリシア政府当局は、今日でも継続的にクノッソス宮殿遺跡で「こうであろう復元・複製」の作業を行っている。
当局が「復元・複製」した新規の壁面、浸食が進行した石灰岩と、3,400年前の大火災で焼け焦げた貯蔵庫の壁面を比較する時、未だに崩れないガラス質となった火災壁面からは、クノッソス宮殿の「悲痛なる叫び」が聞こえるような気がする。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・復元石材と浸食石灰岩/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・復元石材と浸食の石灰岩
クレタ島・中央北部/1996年

西貯蔵庫群からの注目すべき出土品

西翼部・西貯蔵庫群はクノッソス宮殿の直轄管理の重要な施設であり、当然、大量の穀物類やオリーブ油、その他の重要な物品が収蔵されていた。特にオリーブ油を保管した中型~大型のピトス容器の出土例は顕著で、現在でもその幾らかの容器類は発掘時のままの状態で貯蔵庫群に残されている。
西貯蔵庫群からはピトス容器のほか、クノッソス宮殿の大火災による最終崩壊に関わる、通常では貯蔵庫とは無関係の色々な物品も出土している。これらは宮殿が採集崩壊する時、上階の豪華な広間などから崩落したものである。


貯蔵庫・第3号室の出土品/エジプト豆と線文字B粘土板

エヴァンズの発掘では、地中の収納ピットがない貯蔵庫・第3号室から12器のピトス容器が見つかり、その近くから炭化されたエジプト豆の種子が見つかっている。
通常、貯蔵庫のピトス容器にはオリーブ油が保存され、一方、小麦など穀物類は収納ピットに収蔵されるのが標準であったが、床面に豆類が残っていた事実は、第3号室ではピトス容器にも穀物類が保存されていた可能性がある。
クノッソス宮殿のエジプト豆が原産地エジプトからの輸入豆なのか、それともクレタ島で改良された豆なのかは分からないが、ミノア時代には人々の重要な食材であったのは疑いの余地はない。

また、第3号室の入口付近、貯蔵庫群の長い通廊からは、いわゆる「穀物倉庫」の粘土板と呼ばれる、線文字B粘土板が大量に見つかっている。「穀物倉庫」は三角屋根の家屋の形容の絵記号として粘土板に刻まれている。

出土した粘土板(KN416)をイラスト描画したが、「穀物倉庫」の右側に縦線9本と2本の「単位数量」の刻みが確認できる。線文字Bの数値では、「〇=100単位」・「横線=10単位」・「縦線=1単位」となる。
なお、粘土板KN416の表意訳は、「AGREUS(人名?)はフェストス宮殿の倉庫に篩った(ふるい分け)香辛料・9単位、エジプト豆・2単位を保有する/Richard Vallane Janke(2016)」とされる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・西翼部・線文字B粘土板「穀物倉庫」Linear B from Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・線文字B粘土板
ミケーネ文明の文字・「穀物倉庫」の粘土板
イラクリオン考古学博物館・登録番号KN416
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

宮殿・貯蔵庫での最も重要な保管物は小麦、そしてピトス容器の出土数からしてオリーブ油であったのは間違いない。エヴァンズの発掘では、オリーブ油の線文字B粘土板(KN355)も出土している。
粘土板KN355の表意訳は、「QOTIYA(人名?)はZOA(地名?)にオリーブ油・30単位を保有する(or 破断片=さらに増単位?)/Rita Roberts(2017)」とされる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・西翼部・線文字B粘土板「穀物倉庫」Linear B from Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・線文字B粘土板
ミケーネ文明の文字・「オリーブ油」の粘土板
イラクリオン考古学博物館・登録番号KN355
クレタ島・中央北部/描画:legend ej



貯蔵庫・第8号室の出土品/線文字B粘土板

6か所の地中収納ピットが設けられていた第8号室からは、線文字B粘土板が大量に発見されている。エヴァンズの発掘時に粘土板は、モノクローム写真を見る限り、石膏石が溶けて冷却・固化した状態の中に混じった感じで出土している。
粘土板はいわゆる「(ちょうな・手斧)」の粘土板グループと呼ばれ、木材の切削や石材を削ぐための青銅製の道具の一つ、鐇・手斧の「保管個数目録」とされた。
また、横台形の鐇の絵記号の右側に「在庫数量」の刻み、「30基」・「217基」が確認できる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・西翼部・線文字B粘土板「穀物倉庫」Linear B from Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・線文字B粘土板
ミケーネ文明の文字・「鐇・手斧」の粘土板群
イラクリオン考古学博物館
写真情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.IV (1935年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)
粘土板・描画:legend ej

粘土板の周りに半溶解された石膏石が固化したと考えられる塊があることから、エヴァンズは情報を刻んだ生の粘土板が石膏石の「容器」に収納されていて、宮殿の大火災の高熱で石膏石が半溶解、同時に粘土板は陶器のように硬化、両者が偶然に固溶体となったと考えた。
あるいは鐇や工具などの在庫情報を記録した多くの粘土板が容器ではなく、石膏石の「棚」に置かれていた可能性もあり、大火災の高温の火炎で半溶解した石膏石と粘土板が、破壊されることなく固溶化したのかもしれない。

第8号室が穀物とオリーブ油だけでなく、道具の管理も行っていたかどうかは分からない。また宮殿の最終崩壊の時、粘土板が上階から落下したこともあり得る。第8号室の上階(二階)にはクノッソス宮殿で最大級の広さを誇る大広間 Great Hall が配置され、さらに間違いなく存在した三階に宮殿の記録保管室 Archive Room があったなら、大量の粘土板を管理保管していた、と仮想できる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・西翼部二階・プラン図 West-Wing 2F Plan, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部二階・アウトラインプラン図
参考情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.II (1928年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)
作図:legend ej

ただ、エヴァンズの発掘時のモノクローム写真では、粘土板の破壊はわずかであり、高温下であっても粘土板は大きな衝撃を受けずに、しかも丁寧に整頓されたように並び、半溶解した石膏石と固溶化しているように判断できる。
直観的には、高温で焼けながら上階から膨大な量の瓦礫と共に落下したなら、粘土板はほとんど粉々に破壊されたと想定できる。反面、粘土板の破壊がほとんどない事実からは、上階からの落下ではなく、第8号室内にキレイに並べて保管されていた複数の粘土板が、何らかの偶然から衝撃を受けずに石膏石と共に火炎の高温にさらされた、と想定できる。

石膏石の主成分は硫酸カルシウムであり、この物質が溶ける融点は1460℃である。ただ、1000℃以上に加熱されると石膏質はわずかに分解して三酸化硫黄を生成した後、酸化カルシウムを含む固溶体となり、水分を吸収して固化する性質がある。
「1000℃」とは通常、磁器やミノア文明のファイアンス陶器を焼く温度に相当する。クノッソス宮殿の大火災の火炎が保管していたオリーブ油の燃焼熱で増幅されたなら、難なく1000℃を超えたはずで、粘土板は硬い陶器質へ変化、石膏石は半溶解から固溶体となったであろう。

かつて遺構が「立入自由」となっていた1982年、私はコンクリート復元の上階床面(貯蔵庫群の天井)が付けられた、第8号室や第9号室の内部を見たことがある。当時、内部照明もなかったが、双方ともに内部に五器以上のピトス容器が残され、東側の聖域・支柱礼拝室などと同様に壁面は真っ黒に焼け焦げた状態であった。


貯蔵庫・第13号室の出土品・《雄牛のフレスコ画》

エヴァンズの発掘では、西貯蔵庫・第13号室から《雄牛のフレスコ画》の断片が出土している。エヴァンズは断片を元に描いたモノクローム・イラスト画を発掘レポート(1921年)に残している。
貯蔵庫の性格上、かつて第13号室の壁面がミノア文明の力の象徴である、雄牛のフレスコ画で装飾されていたとは考えられない。第13号室の上階(二階)には、6本円柱の広い西儀式広間 West Sanctuary Hall、その北側に豪華な通路があったとされることから、このフレスコ画の断片は「新宮殿時代」の終末、紀元前1375年頃、クノッソス宮殿の崩壊の時、上階のいずれかの区画から崩落したもの、と断定するのが正しい答であろう。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・西貯蔵庫群 West Storerooms, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・西貯蔵庫群
・右=第13号室(ピトス容器&地中収納ピット)
・中央(ピットなし)=右から第14号~16号室
・左の分厚い壁面の向こう側=第17号~18号室
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

下画像はエヴァンズのモノクローム・イラスト画を元にして、宮殿・北入口の復元建物の壁面を飾っている複製の浮彫フレスコ画《赤い雄牛》と同イメージで、私が推測色付けしたものである。果たして上階の儀式広間や北側通路の壁面を飾っていたのは、この画像と「同じ」の赤い雄牛のフレスコ画であったであろうか?

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫・雄牛フレスコ画 Bull Fresco, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西貯蔵庫出土・《雄牛のフレスコ画》
参考情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.I (1921年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)
参考原画:エヴァンズ作モノクローム・イラスト画
描画&色彩:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・北入口・浮彫フレスコ画「赤い雄牛」 Red Bull Fresco, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・北翼部出土・浮彫フレスコ画
後ろを振り返り突進する《赤い雄牛》
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/描画:legend ej




貯蔵庫・第11号室~第13号室周辺の出土品・《キャンプスツールのフレスコ画》

貯蔵庫・第13号室周辺から、現在、ミノア文明の象徴的な存在、イラクリオン考古学博物館の「至宝」の一つになっている、フレスコ画《女神パリジェンヌ la Parisienne》を含む、研究者から《キャンプスツールのフレスコ画 Fresco of Camp Stool》と呼ばれる、ミノアの美しい女神と若い巫女達を連続的に描写したフレスコ画の断片が、ほとんどが微細片であったが、大量に発見されている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画《女神パリジェンヌ Fresco Parisienne》 Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画《女神パリジェンヌ》
イラクリオン考古学博物館・登録番号11/高さ250mm
クレタ島・中央北部/1994年




貯蔵庫・第11号室~第13号室周辺の出土品/宮殿様式・大型ピトス容器

貯蔵庫・第11号室~第13号室周辺からは、「宮殿様式陶器の最高作品」と言える大型ピトス容器が見つかっている。当然、ピトス容器はクノッソス宮殿の最終崩壊時、間違いなく上階に存在した聖なる北西儀式広間などから崩落したと断定できる。

紀元前1450年頃、クレタ島の三か所のミノア宮殿と地方の無数の邸宅と庶民の街が、相次いで徹底的に破壊された後、最後に残されたクノッソス宮殿で発達した宮殿様式陶器 Palace Style Ware は、事実上、クノッソス宮殿遺跡と邸宅群、そして周辺に点在する王家に関わる墓地&墳墓からのみ出土する。
そうして、紀元前1375年頃、クノッソス宮殿が最終崩壊するまでの約75年の間に、東翼部・陶器工房の職人達は「新宮殿時代」の「最後の文化の花」と言っても過言とならないほどの、ミノア文明を象徴するに値する美しい陶器様式を確立した。

出土した宮殿様式の大型ピトス容器の絵柄は、基本的には穏やかな印象を与える植物性デザイン系 Floral Design であるが、ミノア文明の最高崇拝シンボルであった両刃斧とロゼッタ紋様を堂々と中央に威厳を秘めながら描写している。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・宮殿様式ピトス容器・両刃斧&ロゼッタ Minoan Palace Style Pithos, Double Ax, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・宮殿様式ピトス容器
北西儀式広間・両刃斧&ロゼッタ&植物性デザイン
新宮殿時代の後半・紀元前1450年~前1400年
イラクリオン考古学博物館・登録番号7757/高さ1345mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ギリシア本土ミケーネ文明の系譜である宮殿様式陶器では、器形の美しいアンフォラ型容器を初め水差しなど多くの作品が出土している。
しかしながら、今までにクレタ島内で出土・確認されている宮殿様式陶器のうち、絵柄デザインの内容に限定するなら、8基の両刃斧をデフォルメして簡略的に描くのではなく、精緻な細線で正確に描写する、この大型ピトス容器こそが最も高い格式でクノッソス宮殿の統治者を称えていると強調でき、これ以上の畏敬象徴するアートモチーフは、私には見当たらない。

この大型ピトス容器がクノッソス宮殿の最終ステージの時代、宮殿・西翼部二階の最も壮麗な広間、聖なる北西儀式広間に相応しい最高の装飾品であったのは間違いないだろう。その製作は「新宮殿時代」の後半、後期ミノア文明LMII期、紀元前1450年~前1400年頃である。


貯蔵庫・第15号室の出土品・石膏石製の「計量おもり」

地中に収納ピットがない貯蔵庫・第15号室からは、キプロス島から輸入された銅インゴットの計測に使われたとされる、赤色の石膏石製の計量おもりが出土している。
高さ425mm・重量29kg、円錐形容の計量おもりの外周には、やや抽象化された海洋性生物・タコの紋様が浮彫表現されている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・西翼部二階&貯蔵庫群 West Wing 2nd-floor, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部二階(復元)~階下の遺構
北西儀式広間~階下・貯蔵庫群(第14号室~第18号室)
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・銅インゴット&石製計量おもり Copper Ingot, Stone Weight/©legend ej
輸入銅インゴット&石製の計量おもり
左=キプロス・銅産地⇒輸入の銅インゴット
右=貯蔵庫・第15号室出土・石製計量おもり
イラクリオン考古学博物館・登録番号26
描画:legend ej

銅インゴットは「座布団」の四隅を引っ張ったような形容、銅鉱石から精錬した最初の原料銅の鋳塊、研究者からケフテウ・インゴット Kefteu (Cretan) Ingot と呼ばれ、先史時代の原料銅の最大の供給地であった東地中海・キプロス島から輸入された。
青銅器文明/時代」の名称由来である銅合金・青銅の原材料である輸入銅インゴットは、ミノア宮殿の最も重要な資源の一つであり、溶解前の銅インゴットの現物は加工の現場である工房や作業所ではなく、クノッソス宮殿も例外ではなく、どの宮殿でも直轄管理の西翼部・貯蔵庫内に保管されていた。

発掘により多くの銅インゴットが出土しているのは、メッサラ平野のアギア・トリアダ遺跡と最東部のザクロス宮殿遺跡からである。また、ザクロス宮殿遺跡では、銅インゴットと錫(すず)を溶融させ合金として青銅を精錬した後、用途に合わせた型に流し込む流路システムが残されている。


ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡 Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡・南方~サイト全景
・左方=ミノア人居住の市街地区域
・右手前=「準宮殿区域」の遺構群
クレタ島・メッサラ平野/1982年

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・青銅「流路システム」Bronze Melting System, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・青銅の「流路システム」
最下凹部の緑色=銅の酸化物「緑青」の残留
クレタ島・最東部/1996年

ミノア文明・鉱物資源の輸入
クレタ島ミノア文明では、島内に金や銀を初め、銅や鉛などの金属鉱山は皆無、貴金属とその他の重要な金属&鉱物は、すべて得意とした中東地域やエジプトとの海洋交易を介した輸入に頼っていた。
ミノア文明が自給できた資源は、島内の何処でも産出された美しい紋様の石製容器用の原石材、小麦や豆、オリーブやぶどうなどの農産物、魚や貝など豊富な海産物、そして東地中海を代表する上質な陶器類であった。

キプロス島から輸入された銅インゴット
クレタ島メッサラ平野のアギア・トリアダ遺跡や最東部のザクロス宮殿遺跡から出土した輸入銅インゴットの大きさは、20kg~30kg前後のやや大型であった。
一方、ギリシア本土・中部地方の海岸で発見された17枚の銅インゴット(アテネ国立考古学博物館/登録番号13051)の重量は、小型サイズで5kg、大型でも18kgであった。
ギリシア各地の輸入銅インゴットのサイズと重量の異なりは、輸入された時期の差異のほか、取引先であるキプロス島の銅の採掘・精錬の産地により、成形の型や冷却方法などにそれぞれ特徴があったと推測できる。

青銅/黄銅/銅酸化物「緑青」
青銅は銅を主成分として5%~20%ほどの錫(すず)を添加した合金、錫の含有量が多いほど白銀色に近く硬度が増し、含有量が少ないほど赤銅色で柔らかくなる。銅合金では銅に鉛を添加した、やや黄色を呈する黄銅もある。
また、銅が空気中の二酸化硫黄などと化合した時、古寺の屋根と同じ美しい緑色の錆・「緑青」を生じる。

中東地域&エジプトから輸入された象牙材
銅インゴットと並びミノア文明にとり極めて重要な原材料の象牙材料は、中東地域&エジプトから輸入され、そのほとんどは最東部のザクロス宮殿に陸揚げされたと考えられる。ザクロス宮殿遺跡の発掘では、輸入象牙の原木が見つかっている。

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・輸入された象牙原木 Imported Ivory, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・西翼部出土・輸入象牙原木
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・最東部/描画:legend ej

主な金属の融解温度(融点)
鉄 1,536℃  銅 1,084.5℃  金 1,064℃  銀 962℃  鉛 327.5℃  錫 232℃  プラチナ 1,769℃  青銅(主成分 銅+錫)700℃~1,000℃


西翼部・貯蔵庫群の長い通廊

長い通廊の位置

クノッソス宮殿・西翼部の重要な区画・「三点セット」の一つ、宮殿が直轄管理していたた「経済・財務」を担う西貯蔵庫群は、貯蔵庫群の長い通廊 Long Corridor of Store Rooms に対して直角に配置され、各貯蔵庫が通廊から個別にアクセスできる仕様であった。

そして、極めて重要な点は、貯蔵庫・第1号室~第13号室へのアクセスは、唯一、宮殿・聖域区画からのドアー口(貯蔵庫・第4号室付近)を抜け、長い通廊の南側からのみ限定可能であったことである。これが長い通廊への「南アクセスルート」である。

一方、貯蔵庫・第14号室~第22号室(18号室までの説もある)へは、聖域区画からの直接アクセスではなく、西翼部・王座の間コンプレックスから長い通廊の北側への「延長部」となる連絡通廊を介してのみアクセスが可能となっていた。これが「北アクセスルート」と言える。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫群の通廊 Corridor of West-Magazines/Stores, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・貯蔵庫群の長い通廊
貯蔵庫・第11号室入口~南方(第1号室方面)を見る
複数の大型ピトス容器が残る (現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

1982年に私が撮影した上写真とほぼ同じ視野、120年前のエヴァンズの発掘直後の貯蔵庫群の長い通廊の写真が発掘レポート(1921年)で発表されている。
草木のないジプサデス丘のさらに遠方には、エヴァンズが発掘調査を行った「ゼウス埋葬の地」の伝説が残るミノア文明の山頂聖所がある、アルカネス近郊 Archanes の標高811m、聖なるユクタス山 Mt. Juktas が見える。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫群の通廊/Evans-Heidelberg U.
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・貯蔵庫群の長い通廊
第13号室入口~南方(第1号室方面)の視野(発掘直後)
遠方=ジプサデスの丘~聖なるユクタス山
写真情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.I (1921年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)


長い通廊の構造

貯蔵庫群の長い通廊は東西幅=約3.5m、聖域区画からのアクセス通廊と王座の間コンプレックスからのアクセス通廊を合わせ、南北総延長=約65m、壁面は丁寧に加工された乳白色の石膏石の厚板と石膏プラスターで完全表装され、床面も石膏石の舗装施工であった。
ミノア時代、この長い通廊は「薄暗い倉庫群の単純な通路」などではなく、清楚で柔らかそうな印象を受ける総石膏石造りの、目を見張るほどの凛々しくも美しい通廊であった。

ミノア文明の宮殿システムでは、貯蔵庫群はすべて宮殿が直轄管理する、王国の「経済・財務」を担う極めて重要なセクションであった。
クノッソス宮殿の場合、西貯蔵庫群は西翼部・聖域と王座の間に関係する「特別な身分の人」だけが立ち入りを許され、しかも限定ルートを介する非常に「特殊な配置」となっていた。
その重要な西貯蔵庫群へのアクセスは、南&北のアクセスルートを介して、壁面と床面が乳白色の美しい光沢を放す石膏石で表装された貯蔵庫群の長い通廊からのみ可能であった。

西翼部・上階に配置された広間などとは異なり、フレスコ画の装飾はなかったにせよ、西翼部・西貯蔵庫群とその長い通廊は、現在の破壊された遺構からはとても想像もできないが、庶民の眼に触れることのない、整然とした機能美を秘めた美的なスポットであったことは間違いない。

ミノア文明の石灰岩と石膏石
エーゲ海クレタ島では石材は無尽蔵、建物の建築材には「モース硬度4」の石灰岩が、室内の壁面装飾や石製ベンチや床面舗装、儀式リュトン杯や装飾品、さらに庶民が使う日常の石製容器などには、島内産出の石膏石が大量に使われた。

硫酸カルシウム質の石膏石は「モース硬度2」のやや軟質岩石であり、比較的加工も容易、さらに表面研磨で乳白色の美しい光沢が得られ、水分を吸収する調湿性&結露防止の効果もある。この理由から、ミノア文明では宮殿や邸宅などは広間の壁面や床面、あるいは水を使う「聖なる浴場」などに挙って石膏石を多用した。また、加工性と光沢の美しさから儀式用リュトン杯などの石材としても適していた。

例えば、西翼部・王座の間の王座を囲むベンチは石膏石、石膏石で舗装された床面には石膏石を加工した「鏡餅」のような気品のアラバストロン型の儀式容器が並べてあった。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王座の間 Throne Room, Knossos Palace/Ashmolean Museum
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・王座の間(想像画)
床面=複数のアラバストロン型容器
原画情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.IV(1935年)
描画作者:Edwin J. Lambert(1917年)
Ashmolean Museum, U. Oxford (UK)


モース硬度 Mohs Hardness
「モース硬度」とは、ドイツの鉱物学者 Friedrich Mohs(1773年~1839年)が考案した、鉱物の「硬さ」を相対的に判断する基準・尺度である。硬度1~硬度10までの整数値に対応する標準鉱物が設定されている。
硬度1=滑石、硬度2=石膏石・・・硬度8=トパーズ(黄玉)・・・最高硬度10=ダイヤモンドが基準となる標準鉱物に設定されており、これらの標準鉱物10種と任意の試料鉱物を擦り合わせ、できる傷の有無で試料の硬さを測定する。
モース硬度は鉱物をハンマーで叩いて割れるかどうかの単独の硬さ判定ではなく、傷ができるかどうかの相対的な硬さ判定である。

長い通廊の「両刃斧」の刻印と石製角錐台

聖なる両刃斧の記号が刻まれた貯蔵庫・第1号室~第9号室を含む第13号室まで、各入口が面する貯蔵庫群の長い通廊(南アクセスルート=南通廊)の役目は、際立って重要であったことに疑いの余地はない。
貯蔵庫内部に両刃斧の記号が刻印されたと同時に、長い通廊に面する各貯蔵庫の入口・境壁面にも両刃斧の記号が刻まれていた。

さらにエヴァンズの発掘では、無数の大型ピトス容器のほか、長い通廊脇からは両刃斧の支持棒を差し込む、複数のピラミッド形容の石製角錐台(保持台)が見つかっている。青銅製の薄板で作られた大型両刃斧を装着した木製の支持棒はとうに腐食して存在しなかったが、間違いなく角錐台に差し込まれていた、と想定されている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・両刃斧保持の角錐台 Stone-base for inserting Stick with Double ax, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・貯蔵庫群の長い通廊
第4号室~5号室・両刃斧&支持棒用の石製角錐台
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

角錐台(保持台)に差し込まれた両刃斧は、東翼部・王の居室コンプレックス・両刃斧の間に置かれていた青銅製の大型両刃斧と同じタイプであったであろう。
あるいは北海岸のニロウ・カーニ遺跡 Nirou Khani の聖所遺構から出土した、横幅120cmの大型品と同種の両刃斧であったと断定するなら、西翼部・西貯蔵庫群がミノア王国にとり如何に重要なセクションであったかを連想できる。

ミノア文明・ニロウ・カーニ遺跡 ・青銅製の両刃斧 Bronze Ax, Nirou Khani/©legend ej
ニロウ・カーニ遺跡出土・青銅製の大型両刃斧
イラクリオン考古学博物館/最大横幅120cm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


ミノア文明・両刃斧保持用の石製角錐台 Minoan Stone Pyramid-base of Double Ax/©legend ej
ミノア文明・両刃斧保持用の石製角錐台
・左=クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・石製角錐台
・右=ディクテオン洞窟出土・青銅製両刃斧&角錐台
イラクリオン考古学博物館/描画:legend ej

「ゼウス誕生」の伝説/ディクテオン洞窟 Dikteon/Psychro Cave
ミノア文明では長い間、重要な「洞窟聖所」であったクレタ島中央部・ラシテイ高原のディクテオン洞窟は、文明が消滅した後、古代ギリシアの人々から《ギリシア神話・ゼウス誕生の地》として長い間崇められてきた。
発掘により、洞窟内部からミノア文明の銅製と青銅製の両刃斧が合計12基見つかっている。内二基は青銅の鋳造品、そのほかは銅と青銅の薄板を加工した両刃斧、サイズは大小様々、全体では比較的小型だが、最大品は横幅120cm、縦幅60cmであった。実用にも使える鋳造品を除き、ほかはすべて奉納品として作られた、と判断されている。

GPS 「ゼウス誕生」の伝説・ディクテオン洞窟: 35°09’46"N 25°26’43"E/標高980m

長い通廊の地中の「収納ピット」

貯蔵庫群の長い通廊の床面は、エヴァンズの発掘作業では、より南側の第4号室の入口付近~より北側で王座の間の西側にあたる第14号室付近まで、距離にして約32mの範囲、合計27か所を数える深い収納ピットが、通廊の中心線上に連続的に敷設されていたことが確認された。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫群の長い通廊 Long Corridor of West Storerooms, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・貯蔵庫群の長い通廊
貯蔵庫・第4号室入口~北方(第16号室方面)を見る
・床面中央=地中収納ピット(保護板カバー)
・貯蔵庫・第7号室入口=両刃斧の石製角錐台
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1994年

収納ピットは二種のサイズ、第3号室前~第6号室付近までの7か所ピット群は、おおむね東西幅40cm、南北幅90cm、深さ120cm。そして第7号室前~第14号室(上階への階段の足元)までの20か所ピット群では、深さ170cmの一か所を除き、おおむね東西幅75cm、南北幅100cm、深さ150cmである。
貯蔵庫内の収納ピットと同様に、長い通廊の収納ピットも数が多い、ただ個別には聖域・神殿宝庫の収納ピットより「やや小ぶり」である。

追加的な話だが、私が初めてクノッソス宮殿遺跡を訪ねた1982年、西貯蔵庫群と長い通廊は「立入自由」であり、通廊の収納ピットには木製合板カバーが掛けられ、床面はほぼ平坦になっていたが、歩き難い状態であった。
さらに12年後、1994年の夏、まだ立ち入りは許されていたが、長い通廊に脚を踏み入れる熱心なツーリストはなく、夏枯れした雑草が生え、足元が整備されない状態が続いていた。
この後、西翼部・聖域と西貯蔵庫群&長い通廊を含むクノッソス宮殿遺跡の主要区画が、「外観を見せて内部を見せない」とする管理当局の遺跡保護を優先するロープ規制、ツーリストの「立入禁止区域」に指定される。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 関連ポストは「12部構成」となっています。
1. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace I 概要
2. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace II 西中庭~南翼部
3. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace III 中央中庭・王座の間
4. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IV 聖域・宝庫
5. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace V 貯蔵庫(当ポスト)
6. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VI 女神パリジェンヌ
7. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VII 王の居室・聖所
8. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VIII 王妃の間
9. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IX 雄牛跳び
10. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace X 北~東翼部
11. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 周辺の先史遺跡
12. ミノア文明・クノッソス宮殿 崩壊の原因は?

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