2020/04/21

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VII 王の居室・聖所


ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 関連ポストは「12部構成」となっています。
1. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace I 概要
2. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace II 西中庭~南翼部
3. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace III 中央中庭・王座の間
4. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IV 聖域・宝庫
5. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace V 貯蔵庫
6. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VI 女神パリジェンヌ
7. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VII 王の居室・聖所(当ポスト)
8. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VIII 王妃の間
9. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IX 雄牛跳び
10. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace X 北~東翼部
11. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 周辺の先史遺跡
12. ミノア文明・クノッソス宮殿 崩壊の原因は?

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東翼部・王家の「プライベート生活区画」

位置 クレタ島・中央北部/イラクリオン Heraklion/Iraklion~南南東5km
GPS クノッソス宮殿遺跡・中央中庭: 35°17′53″N 25°09′47″E/標高95m

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡/Google Earth
クノッソス宮殿遺跡
クレタ島・中央北部
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入

ミノア文明&ミケーネ文明 編年表/©legend ej
クレタ島ミノア文明&ギリシア本土ミケーネ文明 編年表
・ミノア文明・「旧宮殿時代」: 紀元前1900年~前1625年
・ミノア文明・「新宮殿時代」: 紀元前1625年~前1375年
ミケーネ文明(時代):  後期ヘラディック文明 LH期
作図:legend ej


中央中庭に面する宮殿・「西翼部」&「東翼部」

中期ミノア文明の末期~後期ミノア文明の半ば、最も繁栄した「新宮殿時代」のミノア宮殿では、中央中庭の周りに王家のプライベート生活区画は当然のこと、政治・行政・宗教・文化に関連する重要な建物区画が配置された。

すべての宮殿に共通するが、特に中央中庭 Central Court の西側となる西翼部 West Wing には、王国の政治・財務・宗教関連の区画が配置された。そして王家のプライベート生活区画はクノッソス宮殿とザクロス宮殿では東翼部 East Wing に、フェストス宮殿とマーリア宮殿では北翼部 North Wing に配置された。
また、幾分の異なりはあるが、ミノア宮殿では南翼部 South Wing と北翼部 North Wing に工房や貯蔵庫など宮殿関係者の実務面の区画が付属された。


ミノア文明の宮殿遺跡(4か所)

・中央北部・ミノア文明センター・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace
・南西部・メッサラ平野・フェストス宮殿遺跡 Phaestos/Phaistos Palace
・北海岸・マーリア宮殿遺跡 Malia Palace
・最東部・ザクロス宮殿遺跡 Zakros Palace

クレタ島ミノア文明・宮殿群 地図 Map of Minoan Palaces in Crete/©legend ej
クレタ島・ミノア文明・宮殿遺跡 地図
作図:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・推測模型/©legend ej
クノッソス宮殿・推測模型(木製)
部屋数1,000室/東翼部~中央中庭~西翼部
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/1996年


東翼部・王家のプライベート生活区画

クノッソス宮殿の東翼部一階に配置された王と王妃、その家族が生活した王家のプライベート生活区画 Royal Apartments は中央中庭の東側、東西40m、南北30mの面積を占有した広いセクションであった。なだらかな丘陵地であるが、地盤段差のある場所という地形的な条件から、東翼部がクノッソス宮殿遺跡で最も複雑な構造である。

先史・古代遺跡における重要な部分は、発掘時の状態を保つ建造物の遺構であるのは当然だが、120年前のサー・アーサー・エヴァンズの発掘直後から始まった「復元・複製」、さらに今日のギリシア政府当局の復元プロジェクト・「こうであろう復元・複製」を経ている間、特に東翼部では二階~三階部分まで、過激に言えば、その大部分がコンクリートで復元されてしまった状態と言える。

故に東翼部では、純粋な発掘遺構である宮殿一階の建物基礎部が、復元・複製されたコンクリート建造物で覆われ、造り上げた「キレイな遺跡」へ変貌してしまった。
結果、考古学知識の乏しい一般の見学ツーリストにとっては、破壊石材がゴロゴロしている古い遺跡より見た目の抵抗感はないだろうが、クノッソス宮殿の重要な「本物の遺構」を見ることが難しくなっている。
しかも、大挙して押し寄せる世界からのツーリストの増加から、当局は最も短時間で宮殿遺構の外観だけ見せるためのロープ規制を確定したことで、遺構の内部はほぼ永久にツーリストの目に触れない、「外観を見せて内部を見せない」という遺跡の見学環境を創り上げてしまった。

中央中庭の東側は、東入口やカイラトス川 Kairatos の河畔へ向かって地盤がガクーンと一段と低くなることから、東翼部・王家のプライベート生活区画の一階床面レベルは、中央中庭レベルより二階分に相当する低い位置となる。
言い換えるならば、中央中庭の地表面は、王家のプライベート生活区画の北側の建物の三階に配置されていた東大広間 East Great Hall の床面レベルにほぼ同等している。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・主要部セクション視野 Section View of Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・復元セクション視野・アウトライン
南方から「西中庭~西翼部~中央中庭~東翼部」を見る
東翼部・王家の生活区画=中央中庭レベル~二階分低い
クレタ島・中央北部/作図:legend ej



王家の生活区画・アウトラインプラン(一階レベル)

王家のプライベート生活区画の「一階レベル」を限定してピックアップしても、東翼部は石板の舗装床面の大小の部屋が連なり、階段と通路や連絡ドアー口、採光吹き抜けの空間、さらに排水路システムなど、非常に複雑な構造でありながらも、効果的で利便性の良い配置を成している。

これがすでに3,650年前に設計され、現実にミノア王の住む大宮殿として建てられていたのである。驚くべきは東翼部だけでなく、このような正確に施工された部屋や大広間などが、クノッソス宮殿全体で1,000室以上も存在したことであり、繁栄した先史・ミノア文明のレベルとパワーに圧倒される。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「王家の生活区画」Plan of Minoan Royal Apartments, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部
「王家の生活区画」一階・アウトラインプラン図
・左上=列柱の間(or 柱廊の間)
・右上=王の居室コンプレックス
・左下=王妃の間コンプレックス
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

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王の居室コンプレックス

「両刃斧の間」と呼ばれる王の居室

王家プライベート生活区画の一階部分の平面図・右上半分が王の居室コンプレックス King's Room Complex となり、西側から王の居室である両刃斧の間 Double Ax Room、中間の前の間 Ante-Chamber/Room、そして最も東側の控えの間 Portico となり、先史時代から始まった特徴的な建築様式・「三部屋続き」の構成配置となっていた。

王の居室コンプレックスで最も重要な部屋、研究者から両刃斧の間と呼ばれ、比較的落ち着いたフレスコ画で装飾され、床面が石膏石板で舗装された部屋が、事実上の王の居室 King's Living Room であった。
王の居室コンプレックスは隣の部屋との壁面はなく、太い角柱だけで区分された「三部屋続き」の配置であり、光と空気の流通を最大限に考慮した、地中海クレタ島の自然環境に適した快適な造りであった。

王の居室コンプレックスでは、何れも部屋の床面は美しい石膏石で舗装され、両刃斧の間がそうであるように、壁面は白色の石膏プラスター表装&フレスコ画で美しく仕上げられていた。
西翼部の「三点セット」の一つ、「政治・行政」の中核スポットである石製王座が置かれた王座の間(王の公的執務室)の厳格な雰囲気とは異なり、東翼部の両刃斧の間(王の居室)は、静かに過ごせる安らぎと開放感の世界、という感じを受ける。

ほとんど間違いなく、この王の居室コンプレックスでは、公的な政務を離れたミノア王が食事を取り、家族と雑談で寛ぎながら、あるいは時には昼寝をした後、美しき王妃と二人だけの熱い愛の時を過ごしたのであろう。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王の居室 Double-Axe Room Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・両刃斧の間(王の居室)
・壁面と渦巻き線フレスコ画=発掘時の状態
・複製の木製王座(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王座の間 Throne Room, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・王座の間
・火炎跡の石製王座&石膏石ベンチ&床面
・1980年代の王座の前=石製水盤はない
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

両刃斧の間の装飾フレスコ画

両刃斧の間の背壁面の上部を横切る渦巻き線紋様のフレスコ画は、エヴァンズによる発掘時のままの状態を保っている。「こうであろう復元・複製」が多いクノッソス宮殿遺跡の中で、120年前の発掘時から残されている装飾としては本当に貴重な存在である。
かつて1980年代には両刃斧の間の内部へ立ち入り、写真撮影も許されていたが、残念ながら、現在、両刃斧の間を含め東翼部の重要セクションである王の居室コンプレックス全体は、ツーリストの立入禁止区域となっている。

フレスコ画の渦巻き線紋様は特に王や王妃などの部屋、さらに格式のある広間の壁面や天井、宮殿の主要な入口上部ではスタンダードな装飾として採用された。また、渦巻き線紋様はパピルスやユリの花やツタ紋様と並び、陶器の絵柄を初め金属容器の装飾、石製印章などにも顕著に登場する、ミノア文明を代表する装飾シンボルの一つである。

一方、「8の字形」の装飾は、海洋民族ミノア人の身近な食材であった二枚貝が開いた形容を表し、宮殿のフレスコ画のみならず、陶器の絵柄や石製印章の刻み、テラコッタ装飾品などに頻繁に登場する、ミノア文明を通して人々に好まれた典型的な芸術モチーフである。


両刃斧の間の想像図

発掘者エヴァンズの協力者の一人、クノッソス宮殿遺跡の主にフレスコ画などの「復元・複製」を担当した、オランダ系イギリス人の考古学・建築美術家 Piet Christiaan de Jong が描いた、東翼部・両刃斧の間(王の居室)の想像画では、天井~壁面はミノア人の色である落ち着いたブルー系色彩のロゼッタ&渦巻き線紋様、そして王座の背後壁面は「8の字形」の大型の盾紋様で強調的に装飾されている。

参考だが、この描画では室内に威厳を示す大型の装飾両刃斧は存在しないが、西翼部の聖域・神殿宝庫から出土した石製リュトン杯が「右下」に描かれている(印)。なお、Jong 作の描画はイラクリオン考古学博物館で見ることができる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・両刃斧の間 想像画/by Piet de Jong
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・両刃斧の間 想像画
石製リュトン杯=印(淡青色強調)
描画情報:イラクリオン考古学博物館
描画の作者: Piet Christiaan de Jong

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・石製リュトン杯 Minoan Stone Rython, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・石灰岩製のリュトン杯
イラクリオン考古学博物館・登録番号42/高さ382mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej



両刃斧の間に「両刃斧」は存在したか?

ミノア文明では歴代の王による政治と宗教が強く結び付き、崇拝される王自身も含め、多神教の思想が根本に流れていた。ミノアの王も人々も力のある雄牛や角、蛇などを強く崇拝し畏れた。
特に強調できるのは、全ての宗教的な崇拝シンボルの中で両刃斧/ラブリュス lábrys が、最も畏敬で最も神聖な意味をなしていた点である。

この王の居室が研究者の間で「両刃斧の間」と呼ばれる理由は、この部屋に、おそらく先端にミノアの最高の崇拝シンボルであった巨大な両刃斧(青銅製の装飾斧)を付けた高さ2m以上の支持棒が、石製の角錐台(保持台)に立ててあった、と想像したからである。
北海岸の「高位祭司の邸宅」と呼ばれるニロウ・カーニ遺跡から出土した横幅120cm、青銅製の薄板で造られた両刃斧と同サイズ品が、王座の両脇に置かれていた可能性が高い。当然のこと、神が宿る神聖なこの居室に置かれた王座には、唯一ミノア王だけが座ることができた。

ミノア文明・ニロウ・カーニ遺跡 ・青銅製の両刃斧 Bronze Ax, Nirou Khani/©legend ej
ニロウ・カーニ遺跡出土・青銅製の大型両刃斧
イラクリオン考古学博物館/最大横幅120cm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

青銅/黄銅/銅酸化物「緑青」
青銅は銅を主成分として5%~20%ほどの錫(すず)を添加した合金、錫の含有量が多いほど白銀色に近く硬度が増し、含有量が少ないほど赤銅色で柔らかくなる。銅合金では銅に鉛を添加した、やや黄色を呈する黄銅もある。
また、銅が空気中の二酸化硫黄などと化合した時、古寺の屋根と同じ美しい緑色の錆・「緑青」を生じる。

主な金属の融解温度(融点)
鉄 1,536℃  銅 1,084.5℃  金 1,064℃  銀 962℃  鉛 327.5℃  錫 232℃  プラチナ 1,769℃  青銅(主成分 銅+錫)700℃~1,000℃

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ミノア宮殿様式・「三部屋続き」の配置

両刃斧の間は王の居室コンプレックスの最も西側に配置されている。ミノア文明の特徴的な宮殿建築様式である「三部屋続き」の構造を示す王の居室コンプレックスは、ギリシア本土ミケーネ文明の宮殿建築様式・「メガロン形式 Megaron Complex」と共通する配置と構成である。

「三部屋続き」の配置法は、南西部・メッサラ平野に建つフェストス宮殿の王の居室や王妃の間、北海岸のマーリア宮殿などミノア文明の宮殿のほか、ティリッソス邸宅やクノッソス・南の邸宅など多くの大型邸宅でも採用されている。
尊貴な権力者や高位な人達の主部屋を構成する、この特徴ある連続部屋・「三部屋続き」の配置法は、ミノア文明の社会的な地位・身分を明確にするある種の「ステータス」となっていたのかもしれない。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・王の居室 King's Room Complex, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・北翼部・王の居室コンプレックス
「三部屋続き」の構成/手前=テラース形式部屋を付属
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・王妃の間 Queen's Room, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・北翼部・王妃の間コンプレックス
「三部屋続き」の構成/西部屋=石製ベンチ
クレタ島・メッサラ平野/1982年


ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・南の邸宅 South House, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・南の邸宅
クレタ島・中央北部/1982年



ただしクノッソス宮殿やフェストス宮殿などでは、ミケーネ文明の宮殿とは異なり、王の居室の中心部に絶えることなく火を焚いた「聖なる炉」を設けていない。
ミノア文明のクレタ島はギリシア本土より遥かに南に位置するエーゲ海の暖かい気候の島であり、例え権威と神聖さを示すとは言え、室内の炉で「熱い火を焚く」という発想と習慣がなかったのかもしれない。

ミケーネ文明・ネストル宮殿遺跡・メガロン形式 Megaron Complex, Nestor's Palace/©legend ej
ネストル宮殿遺跡・「メガロン形式」の王の居室
王の居室の奥部~前の間~控えの間(右上)を見る
「聖なる炉」の側面=「サメの背びれ紋様」が残る
ペロポネソス・メッセニア地方/1982年

ギリシア本土のミケーネ文明の「メガロン形式」の建築様式は、紀元前1400年頃、ミケーネ人がミノア宮殿の建築様式・「三部屋続き」の配置法からヒントを得て開発したとされる。またミケーネ文明の「聖なる炉」の設置が始まったのは、さらに後の紀元前1300年~前1250年頃と推定されている。

ミケーネ文明・「メガロン形式」
ミケーネ時代の宮殿建築で最も重要な部屋は王の居室 Throne Room である。その周辺の配置では、先ず控えの間/入口&ポーチ Portico と呼ばれる円柱で出口が開放された空間があり、次に前の間 Vestibule、最も奥まった位置に王の居室が連続して配置されていた。
この「三部屋続き」の配置方法を「メガロン形式 Megaron Complex」と呼ぶ。「メガロン形式」の起源はミケーネ文明の半ば・後期ヘラディックLHIIIA期が始まる時期、紀元前1400年頃とされている。

「メガロン形式」を残すミケーネ文明の宮殿遺跡では、先ずアルゴス地方の世界遺産ミケーネ宮殿 Mycenae Palace を初め、ミケーネ宮殿~南南東15kmの世界遺産ティリンス宮殿 Tiryns Palace、「トロイ戦争」で知られたネストル将軍の本拠地、南西ギリシア・メッセニア地方のネストル宮殿 Nestor's Palace が挙げられる。

下作図はミケーネ文明の三宮殿の「メガロン形式」の配置比較である。ネストル宮殿とミケーネ宮殿はほぼ同じような配置仕様だが、ミケーネ宮殿のそれはやや小さい。また、ティリンス宮殿の奥行きはネストル宮殿とミケーネ宮殿に比べ少しだけ「細長い」ことが分かる。
部屋の配置では、図の下部が二本円柱の入口・控えの間、次が前の間、そして図の上部が王の居室となり、王の居室には王座と四本円柱と「聖なる炉」が設けられていた。

ミケーネ文明・宮殿建築様式・「メガロン形式」Mycenaean Megaron Complex/©legend ej
ミケーネ文明・宮殿建築様式・「メガロン形式」
三宮殿の配置仕様 比較 アウトライン図
ネストル宮殿・ミケーネ宮殿・ティリンス宮殿
作図=legend ej
※学芸出版社発行書籍(著者代表 藤本和男)「住空間計画学」掲載図面/2020年12月

ミケーネ文明・ミケーネ宮殿遺跡・王の居室 King's Room Complex, Mycenae Palace/©legend ej
ミケーネ宮殿遺跡・王の居室コンプレックス
「メガロン形式」=王の居室~前の間~控えの間
ペロポネソス・アルゴス地方/1982年
※学芸出版社発行書籍(著者代表 藤本和男)「住空間計画学」掲載写真/2020年12月

ミケーネ文明・ティリンス宮殿遺跡・「メガロン形式」Throne Room of Megaron Complex, Tiryns Palace/©legend ej
ティリンス宮殿遺跡・王の居室コンプレックス
「メガロン形式=控えの間~前の間~王の居室
三部屋を通過する壁面=後世の追加建築
ペロポネソス・アルゴス地方/1982年


両刃斧の間に置かれた現在の木製王座は当然のことに複製品だが、王座の背後の壁面とそこに描かれた渦巻き線の連鎖フレスコ画は、若干地味な壁面装飾に見えるが、エヴァンズが発掘した当時のまま、クノッソス宮殿が大火災で崩壊した3,400年前の状態を保っている。
このフレスコ画こそが、クノッソス宮殿遺跡で「本物」のミノア美術を目にすることができる唯一の物証と言える。

ピンポイントの事実を言ってしまえば、クノッソス宮殿遺跡を訪ねたツーリストが、西中庭 West Court から最初にアクセスする南西翼部・南プロピュライア(South Propylaea 下の入口間)の建物、あるいは朱色円柱とフレスコ画《赤い雄牛》の北翼部・北入口の建物などは、発掘時には基礎部分だけが残っていたが、その後、建物の90%がエヴァンズによってコンクリート復元されたものである。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・北入口 North Gate, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・北翼部・北支柱広間~北入口
・北入口の建物=エヴァンズのコンクリート復元
・手前・大型角柱群=発掘時の状態の北支柱広間
クレタ島・中央北部/1982年

同様にエヴァンズの発掘当時、王の居室コンプレックスの外側で残っていたのは、太い角柱の下部50cm、円柱礎と床面だけであり、現在、ツーリストが見ている黒色円柱・朱色柱頭・角柱上部・梁&上階部分などは、残念ながらすべてコンクリートによる「復元建物」である。

結果、この両刃斧の間(王の居室)の内部は、「こうであろう復元・複製」が多過ぎるクノッソス宮殿遺跡で、3,400年前の「ミノア時代のままの遺構」を残す貴重なスポットと言える。
ただし、今日、遺跡見学のツーリストは復元された黒色円柱とコンクリート角柱の外側の「L字形の中庭」を利用したロープ規制の見学コースを回ることから、「三部屋続き」の内、最も西側奥の木製王座が置かれた両刃斧の間を直に覗くことは難しい。
外観を見せて内部を見せない」を基本とする、遺跡保護を優先する当局が設定した見学のロープ規制コースなので止むを得ないが。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王の居室 外部 King's Room Complex, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・王の居室コンプレックス
木枠=前の間/円柱内側=控えの間(1980年代)
(円柱&角柱より内側床面=現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


王の居室コンプレックス・「採光吹抜け構造」の空間的な部屋

王家のプライベート生活区画の最も重要なセクションである王の居室コンプレックス(両刃斧の間~前の間~控えの間)は、東~南側のL字形の中庭と西側の採光吹抜け構造の空間的な部屋とに挟まれた配置である。
両刃斧の間から西側の列柱の間への連絡口の直ぐ南西側の、やや狭いが天空に開口された採光吹抜け構造の部屋は、太い角柱以外に壁面のない東隣の王の居室コンプレックス全体へ明るい光を届けていた。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王の居室・採光吹抜け部屋 Double Ax Room's Lightwell, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・王の居室コンプレックス
両刃斧の間~(西側)採光吹抜け部屋を見る
・地中細溝=排水路システム遺構
・排水の流れ=右方~左方~外部
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年


採光吹抜け構造の部屋(空間)の壁面に残された「両刃斧の記号」

王の居室コンプレックスの最も西側のスペース的な箇所が採光吹抜けの構造の部屋である。1921年に発表されたエヴァンズの発掘レポートでは、西隣の列柱の間との境壁となる採光吹抜け部屋の西壁面では、やや細幅・黄色の横帯部分を挟み、その上下の石組みには複数の横向きの両刃斧の記号が確認されている。
エヴァンズの発掘直後の写真(1902年頃?)と私が1982年に撮影した上写真とを比較した場合、二本の円柱間に見える排水路システムの上方の壁面に限っても、少なくとも合計7か所に両刃斧の記号刻みが確認できる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王の居室・採光吹抜け部屋 Double Ax Room's Lightwell, Knossos Palace/Sir Arthur Evans
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・王の居室コンプレックス
両刃斧の間・採光吹抜け部屋の西壁面&両刃斧の記号
写真情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.I (1921年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)
エヴァンズ写真⇒テキスト&〇マーク挿入


王の居室コンプレックス・「排水路システム」

採光吹抜け構造の空間的な部屋の南半分を東西に横切るように地中に敷設された東翼部の排水路システムの遺構が確認できる。
この排水路は採光吹抜け部屋に降った雨水を集め、王の居室コンプレックスの地下から東方へ流すほか、より南側の王妃の水洗トイレへも連結していた。東翼部・王の居室コンプレックスの床面下に敷設された、合計三系統の排水路システムは途中、互いに合流して東方へ流れ出ていた。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王の居室・採光吹抜け部屋・排水路 Drain System, Double-ax Complex, Knossos Palace/©legend ej/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・採光吹抜け空間
・西隣の列柱の間からの排水路システム
・排水路=幅35~50cm・深さ60~70cm
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「王家の生活区画」南西セクション・プラン図 Plan of Southwest section, Royal Apartment, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・「王家の生活区画」アウトラインプラン図
・南西セクション(列柱の間~両刃斧の間~王妃の間)
・排水路システム&デーモン印章の区画&竪坑堆積層
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

エヴァンズの発掘レポートによれば、東翼部・王家の生活区画の地中に敷設された、採光吹抜け部の雨水&王妃の水洗トイレからの汚水を東方へ流す排水路システムでは、石材を組み上げ、平均横幅40cm(35~50cm)・深さ60cm~Max150cmの断面が方形構造の排水路を造り、漏水対策として内面を石膏プラスターで表装してあったとされる。
場所により排水路の寸法(横幅・深さ)はランダムとなるが、厚さ20cm前後のカバー石材で覆われ、地中深くまたは舗装床面の下部に敷設された。

なお、東翼部・排水路の最も標高の高いスポットは、王の居室コンプレックスの西側に配置された列柱の間の採光吹抜け空間とされ、降った雨水は右回りのルートで両刃斧の間の床面を通過していた。
また、列柱の間からの左回りの排水ルートでは、王妃の水洗トイレと南西区画の雨水の排水路と合流、王妃の間の南側を通過して東方へ流れ、王の居室の外側、L字形の中庭の地中で右回り排水ルートと合流して東方へ流れ出た。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王家の生活区画・排水路断面 Section of Drain-system, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・排水路システム
参考情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.I (1921年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

王妃のバスルーム水洗トイレからの汚水を含める東翼部・王家の生活区画の排水路システムは、宮殿建物の屋根から降り注いだ雨水を集める石製の導水路システム、テラコッタ製パイプを使った飲料水の給水システム、そして東入口の排水・集砂ピットなどと並び、3,500年以上前に敷設されたミノア文明の高度な水利施設であった。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・ミノア王妃の水洗トイレ Minoan Queen's Flashing Toilet, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・ミノア王妃の「水洗トイレ」
・右壁面・細縦溝=木製椅子の設置跡
・奥部・方形の深溝=トイレ~排水路
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・東翼部・導水路システム Water Supply System, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・石製の導水路システム
石製水溜~石製水路&分岐部~北東翼部へ導水
クレタ島・中央北部/1994年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・給水システム Water Supply Pipe, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・給水システム
「ゲーム盤の通廊」・テラコッタ製給水パイプ
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・東入口・集砂ピット施設 Water pit, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・東入口
・排水路システム&集砂ピットの連結施工
・集水雨水~土砂沈殿&除去~排水~東方
クレタ島・中央北部/1994年

※ミノア王妃の「世界最古のお風呂」と「水洗トイレ」の詳細は:
関連Blog情報: ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VIII 王妃の間
関連Blog情報: ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace X 北~東翼部


王の居室コンプレックス・「L字形の中庭」

非常に太い黒色円柱と角柱で囲まれた「三部屋続き」の王の居室コンプレックスの東~南側に配置されたL字形の中庭では、間違いなく適度の給水が行われ、春の頃にはフレスコ画に描かれたのと同様に、ミツバチやチョウが舞う地中海の美しい草花やソテツや糸杉など緑の植込みがあった、と想像できる。
この中庭の地中にも王の居室コンプレックスの東端を北~南へ流れる東翼部・排水路システムの一つの系統が敷設されている。

現在、このL字形の中庭は王の居室コンプレックスの外側を回るロープ規制の見学ルートの「通り道」になっている。ただし、円柱より内部の控えの間は立入禁止区域である。
この周辺の見学ルートの通路幅は狭く、しかも王の居室コンプレックスを一目見ようとする沢山に人が立ち止まり、時にはそれほど広くはないL字形の中庭内に30人以上のツーリスト、西翼部・王座の間の見学と並び「混雑スポット」となる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王の居室・L型中庭/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・「L字形の中庭」
・控え間~明るい中庭~遠方を見る
・中庭の地中=排水路システム敷設
(円柱&角柱~内側=現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1994年

王の居室コンプレックスの「こうであろう復元・複製」
両刃斧の間を含む王の居室コンプレックスの周辺は、クノッソス宮殿の特に重要な区画であった。しかし、エヴァンズの発掘時に出土した部分は、わずかな壁面と大型角柱の下1/4程度、円柱の柱礎と床面だけであった。
それ以外の大型角柱の上3/4、黒色塗装の円柱の下部から朱色柱頭部分、堅固な上階の梁とその上部の床面や部屋は、すべてコンクリートによる復元・複製である。要するに王の居室コンプレックスの外観の90%はミノア文明の本物の遺構ではなく、現代の建造物と言える。

宮殿・南西翼部、南プロピュライア(下の入口間)のいわゆる《行列のフレスコ画》と呼ばれる複製描画が二枚、壁面に飾ってある程度なら何とか我慢できる。
しかしながら、今日の10階建てマンションでも使われそうな大型の角柱と円柱が建ち並ぶ、東翼部・王の居室コンプレックス周辺のやり過ぎた近代建築の「こうであろう復元・複製」を見てしまうと、胸ワクワクでクノッソス宮殿遺跡にやって来たグループ・ツーリストでさえも、ふと急ぎ足を止め、「エッ、これって本当に遺跡なの?」と疑いの感覚で眺めることになる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・南プロピュライア South Propylaea, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・南西翼部・南プロピュライア
復元された建物&複製《行列フレスコ画》
クレタ島・中央北部/描画:legend ej



東翼部・列柱の間(柱廊の間)

朱色円柱の吹き抜け構造の美しい広間

クノッソス宮殿の東翼部には、王家のプライベート生活区画の西側に隣接して、列柱の間 or 柱廊の間 Pillar Hall と呼ばれる朱色の円柱と階段で構成された、吹抜け構造の壮麗で非常に美しい区画がある。列柱の間(柱廊の間)は決して広い部屋と空間ではないが、構造的には非常に複雑でありながら、調和の取れた安定感ある建築区画である。

かつて、中期ミノア文明MMIIB期の終わり頃、3,650年ほど前、地震で破壊された旧宮殿の敷地を利用する形で、ミノアのエンジニア達はクノッソスの新宮殿を設計したであろう。
石積み建造物特有の構造力学は当然の事、美的な空間演出という点からも、時間をかけて熟考した後、紀元前1625年頃、彼らが最も力を注いで建築した新宮殿のセクションの一つが、この列柱の間であった、と言えるほどにこの区画は見事な構造を示している。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・列柱の間 Pillar Hall, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・列柱の間
石膏石舗装の一階~二階を見上げる
渦巻き線&「8の字形」の盾の装飾画
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年


列柱の間(柱廊の間)二階のフレスコ画

王の居室コンプレックスの西隣の吹抜け構造の美しい空間・列柱の間(柱廊の間)の二階、バルコニー風の部屋の壁面は、渦巻き線紋様の横帯と二枚貝が開いた形容の「8の字形」の大型盾をアレンジしたフレスコ画で装飾されていた。
この渦巻き線紋様の装飾は、例えば王の居室や王妃の間を含め、ミノア宮殿の高貴な部屋の「定番」とも言える壁面装飾である。現在、ミノア時代の本物のフレスコ画断片は、イラクリオン考古学博物館で展示され、復元された東翼部二階のバルコニー風の部屋の南壁面には、渦巻き線紋様と「8の字形」の大型の複製フレスコ画が描かれている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画「渦巻き線&8の字装飾」/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・フレスコ画
ミノア様式の渦巻き線&「8の字形」の盾紋様
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/1996年

なお、渦巻き線&「8の字形」の盾紋様のフレスコ画では、ギリシア本土ミケーネ宮殿遺跡から出土した作品が、列柱の間・二階のフレスコ画とサイズや紋様が同様である。ミケーネ宮殿のフレスコ画は紀元前14世紀~前13世紀とされることから、クノッソス宮殿のフレスコ画の方が一世紀以上早い時期の作品となる。

ミケーネ文明・ミケーネ宮殿遺跡・フレスコ画「8の字形」盾 Eight-Shield Fresco, Mycenae Palace/©legend ej
ミケーネ宮殿遺跡出土・フレスコ画
渦巻線&「8の字形」の盾紋様(現物=カラー)
アテネ国立考古学博物館・登録番号11671
ペロポネソス・アルゴス地方/1987年


「立入禁止区域」となった列柱の間(柱廊の間)

残念ながら列柱の間(柱廊の間)は一階部分を除き、階上の建物部分、大型円柱とその朱色と黒色の塗装、開いた二枚貝をモチーフにした「8の字形」の大型の盾紋様のフレスコ画などは、すべて復元・複製されたものである。

また、中央中庭から優雅にターンして階段を下る複雑構造の列柱の間の区画は、現在、ツーリストの立入禁止区域となってしまった。
このため石膏石板が敷き詰められた正方形の最下の床面から、天井を支えるリズムカルな配置の円柱群、上階への吹抜け構造の壮麗さ、感動にも値する美しい光の明暗コントラストなどを体感して、「ウワ~~、きれい~~!」という見学ツーリストの感嘆の声が、木霊(こだま)のように列柱の間に響くことはない。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・列柱の間 Pillar Hall, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・列柱の間
階段と円柱のリズムカルな美的な演出
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

クノッソス宮殿遺跡の中で、フレスコ画《女神パリジェンヌ》を含む《キャンプスツールのフレスコ画》が描かれた西翼部二階に存在したであろう聖なる儀式広間と並んで、この東翼部・列柱の間はクノッソス宮殿で最も美しい区画であったと確信できる。
ただ、今日、年間70万人のおびただしい数の見学ツーリストに対応、「外観を見せて内部を見せない」の遺跡保護を優先する管理当局が列柱の間も立入禁止区域に指定してしまったことは、たいへんと残念である。
クノッソス宮殿遺跡のこの非常に美しい区画こそ、ぜひとも来訪したツーリストに公開して欲しい最高のスポットなのだが・・・

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・列柱の間 Pillar Hall, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・列柱の間
・石膏石舗装の床面・円柱の林立・最下部
・階段手前の明るい箇所=採光吹抜け空間
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

1980年代 列柱の間(柱廊の間)での居眠り
現在、ツーリストの立入禁止となっているが、1980年代には中央中庭脇から朱色の円柱が林立する列柱の間の優雅に折り返しターンする階段を二回り下り、吹抜け構造の最下部一階へ降りることができた。
さらに列柱の間の最下空間から東側ドアーを抜け、通路を右折して王の居室コンプレックスの両刃斧の間へ進み、王座の正面にある南側ドアー口から狭い石板舗装の「くの字」の暗い通路を通過すると王妃の間へ通じていた。
さらに列柱の間の南側ドアー口を抜けると「くの字」の通路を経て、王妃の化粧室&トイレや王妃のバスルームへ自由に進むこともできた。

クレタ島の真夏の時期、空気は乾燥しているが直射の屋外は非常に暑い。しかし複雑な地下室のような構造の列柱の間はたいへんと涼しいこともあって、見学に疲れたツーリストがこの空間でしばしの小休止を取り、時折、私も含めヨーロッパからの学生や若者達が床面や階段に座って居眠りをする風景があった。

1980年代の居眠りツーリストがそこで見る「夢」は、宮殿・西翼部の王座の間や上階の大広間で執り行われた午前の儀式や遠来の賓客との謁見を終えたミノアの王が、昼下がり、お付きと共に中央中庭を横切り、この列柱の間の美しい階段を下り、すでにランチの席に着いた王妃や子供達が待つ王家のプライベート生活区画へ向かうシーンであった・・・


南東翼部・「両刃斧の聖所」

「両刃斧の聖所」と呼ばれるミノア王家の神殿区画

三分割聖所 Tripartite Shrine や両刃斧の記号の支柱礼拝室 Pillar Crypt のある西翼部の聖域と並び、クノッソス宮殿の宗教・信仰面で重要な役目を果たしていた場所は、「両刃斧の聖所 Shrine of Double Ax」と呼ばれる区画であった。
ここは王家の神殿区画、要するに宮殿聖所 Royal Shrine であり、その場所は中央中庭の南東側、王妃の間の南側を占める宮殿・南東翼部であった。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「聖域」Sanctuary, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿・西翼部・三分割聖所(再現予想図)
プレ・ヘレニズム様式の円柱&雄牛角U型オブジェ
原画情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.II(1928年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)
描画&色彩:legend ej


クノッソス宮殿の南東翼部は、「新宮殿時代」の終焉、紀元前1375年頃、新宮殿が大火災で崩壊した後、それ以降完全に放棄されたままの状態で発見された区画である。
両刃斧の聖所の東側には、南北に長い舗装された部屋が存在したとされ、聖所区画はこの舗装部屋からアクセスするような配置であった。聖所区画の内部は整然とした構造、厚い壁面で北区画南区画、ほぼ二分割された配置である。

1980年代には「立入自由」であったが、残念ながら、現在、両刃斧の聖所区画はロープ規制の立入禁止区域に指定され、ツーリストの内部への立ち入りはできない。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・両刃斧の聖所 プラン図/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・南東翼部・両刃斧の聖所
アウトラインプラン図/ミノア王家の神殿区画
クレタ島・中央北部/作図:legend ej


両刃斧の聖所・北区画

ミノア王家の神殿区画であった両刃斧の聖所・北区画は、決して広い敷地を占めている訳ではなく、舗装された狭い通路を含め、比較的小さな部屋の集合体と言える。
エヴァンズの発掘では、北区画から三か所の狭い部屋と空間、東西に走る二本の狭い通路(北&南)、そして神殿区画の西側となるが、中央中庭への上り通路に平行して走る短い南北通路が確認された。
エヴァンズがピトス容器の倉庫 Magazine of Spouted Pithoi と呼んだ、南北通路の東側の部屋からは大小五器の注ぎ口付きのピトス容器が出土した。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・両刃斧の聖所 Doubel Ax Shrine, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・南東翼部・両刃斧の聖所(北区画)
・左=南区画・東西通路~南北通路(暗い)
・中央壁面の向こう側=北区画・聖なる浴場
・右=北区画・東西通路~ユリ容器の置き場
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1994年

東側の舗装部屋からアクセスできる北区画の二本ある非常に狭い東西通路(南)を入り、ピトス容器の倉庫の北側へ進むと横幅50cm、奥行き2.5mほどの狭い空間がある。
狭い空所には、広い口縁部の水入れ容器やキャンドルスタンドや小型容器など、15器ほどの陶器が積み重なるように置かれていた、とエヴァンズの発掘レポートには記述されている。キャンドルスタンドは浅めの皿の中心部にエッグスタンド的な円筒型ローソク受けを乗せたシンプルな形容である。

特に出土した10器を数える同じ形容の水入れ容器は、丁度巨大なタンブラー(コップ)か、単純な花瓶のような寸胴の形容、高さ20cm~30cm、底部にかけてわずかに円錐形だが、ハンドルを除き、全体では円筒型の地味な形容である。元々の着色は黒色か暗いグレー地、絵柄に咲き誇る白いユリが描かれていた故に《ユリの容器 Lily Vase》と呼ばれている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「ユリの容器」 Lily Design Vase, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・南東翼部出土・《ユリの容器》
暗色系地・白色のユリの花の絵柄デザイン
新宮殿時代の前半・紀元前1550年/高さ265mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号2619
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ユリの絵柄の容器が多く出土したことから、エヴァンズはこの狭い空間をユリ容器の置き場 Magazine of Lily Vases と名称した。《ユリの容器》の製作は「新宮殿時代」の前半、中期ミノア文明MMIII期~後期ミノア文明LMIA期、紀元前1550年頃とされる。

また、北海岸・アムニッソス邸宅遺跡の《ユリのフレスコ画》、あるいはエーゲ海サントリーニ島・アクロティーリ遺跡の《ユリとツバメのフレスコ画》などから影響を受けたのか、この時代、ミノア陶器の絵柄にも植物性デザインが大いに好まれた。ユリの表現の多くは、茎の根本は一か所、数本のユリが上方へ平面放射状に伸び上がり、開花するシーンである。

ミノア文明・アムニッソス遺跡・「ユリのフレスコ画」Lily Fresco, Amnisos/©legend ej
アムニッソス遺跡出土・《ユリのフレスコ画》
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/1982年


アクロティーリ遺跡・ユリのフレスコ画 Lily Fresco, Akrotiri, Santorini/©legend ej
アクロティーリ遺跡・《ユリのフレスコ画》(部分)
ユリの花の間に春を呼ぶツバメが飛ぶ/Δ地区・「家屋2」
紀元前1600年頃/アテネ国立考古学博物館・登録番号BE1974-29
エーゲ海・サントリーニ島/描画:legend ej


肩部の丸みがないタンブラーのような比較的単調な形容の胴部の広いスペースを活かして、絵柄は黒色または暗色系の地に白色のユリだけ、使うのは二色という最低限の色彩で装飾されたこの水入れ容器は、ほかに出土例がほとんどないことから、ミノア陶器のデザイン技法ではやや斬新的な、当時としては「新しい作品」であったのかもしれない。

参考だが、植物性デザインの陶器の一つ、両刃斧の聖所の《ユリの容器》の製作時期より少し後、「新宮殿時代」の最盛期、後期ミノア文明LMIB期、紀元前1500年~前1450年頃、植物性デザイン様式陶器 Floral Design Style は洗練され、クレタ島全域でその流行がピークとなる。
この様式の絵柄のモチーフはパピルス・オリーブ・ツタ・サフラン、そしてヨシ(旧アシ)などが採用され、スペースにはロゼッタや渦巻線などが追加的に描画された。

後期ミノア文明LMIB期の植物性デザイン様式陶器の「最も美しい陶器」の一つと言える、メッサラ平野のフェストス宮殿遺跡から出土したヨシの絵柄の水差しがある。
明るい地に暗色のヨシの群生だけを描いた、一見では単純なモチーフだが極めて精緻な表現は、フェストス宮殿の付属工房の陶工職人が発揮した超人的な「技」を代弁している。

フェストス宮殿遺跡からの水差しのイラスト画を描こうと、かなりの時間を費やしてヨシの葉を一枚一枚、数ミリの誤差範囲で精密に模写してみた。完成後、如何にミノアの陶工職人が鋭い集中力を注いだか、自分ながら実感した次第である。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・植物性デザイン様式陶器・ヨシの絵柄水差し Reeds Painter Jug, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡出土・植物性デザインの水差し
「ヨシの絵柄」の精緻な表現/高さ290mm
新宮殿時代・紀元前1500年~前1450年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号3962
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej


両刃斧の聖所・北区画、ピトス容器の倉庫の東側、狭い東西通路(南)に入口がある床面と壁面が石膏石板で丁寧に表装された、一辺2mにも満たない正方形の狭い部屋がある。内部には中期ミノアⅢ期~後期ミノアIA期、紀元前1625年~前1500年頃の浴槽(バスタブ)が置かれていたことから、この部屋は「聖所の浴場 Bath in Shrine」と呼ばれている。
浴槽の長さは約1.5m、カーブを描き傾斜する縁は最大高さ約50cm、横幅が狭いことから王妃の間に隣接するバスルームに残されていた「世界最古のお風呂」の実用的なバスタブとは異なり、明らかに儀式・祭祀に使われた特別な目的の「聖なる浴槽 Ritual Bathtub」と考えられる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・南東翼部・聖所出土・「聖なる浴槽」Ritual Bathtub, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・南東翼部出土・「聖なる浴槽」
ミノア王家の祭祀・清め用の浴槽
紀元前1625年~前1500年頃
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「世界最古のお風呂」・ミノア王妃のバスルーム Minoan Queen's Bathroom and Bathtub, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・ミノア王妃のバスルーム
「世界最古のお風呂」の実用バスタブ
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年


王家の神殿に深く関わると推測できる、聖なる浴槽が置かれた狭く特殊な配置の部屋に関しては、ギリシア本土ミケーネ宮殿遺跡の南翼部・宮殿聖所区画の「フレスコ画の部屋」でも、この浴槽と同様な長さ1.5mのテラコッタ製の「聖なる浴槽」が発見されている。
この事例からも、両刃斧の聖所・北区画の狭い「浴場」は、儀式・祭祀など非常に「特別な聖なる用途」のためにだけ限定的に使われ、当然、浴槽は日常生活のお風呂(バスタブ)ではなかった、と考えるべきである。

そうだとしたら、例えば祈祷などの祭祀が執り行われる時、浴槽は王族や神官などが事前に手足の洗い清めをするためだけに使用する、あるいはキリスト教徒の洗礼式のように王家の子供達の誕生時に入水させる、または比較的大きな像やオブジェなどを洗う儀式、そして王族が亡くなった時に遺体を清めるために使われた、などを想定することができる。

また、両刃斧の聖所・北区画の北西角にちょっとした空間があるが、エヴァンズは「神殿 Shrine」として使われたと判断している。北側の壁面から50cmほどのテーブル状の出っ張りがあり、その脇から五器の容器とホラガイ型リュトン杯が見つかっている。


両刃斧の聖所・南区画

かつて、宮殿・南西翼部の《行列フレスコ画の通廊》の南側には、平行するように南テラース通廊 Corridor of South Terrace が東西方向に走っていた。 南テラース通廊から南入口の《祭司王のフレスコ画》の通路を抜けると中央中庭・南中央付近へ至る。また、南入口へ向かわずにテラース通路をさらに東進した場合、両刃斧の聖所区画の西側で北方(左折)へ折れる汎用通路となり、中央中庭・南東端へ上がることができた。

南北に延びる汎用通路に並行して、両刃斧の聖所・南区画の内部には南~北に1本、そして北区画との境壁面に沿うように東~西に1本、二つの狭い通路がある。
通路を除くやや長方形の敷地である南区画には、狭い通路のようなスペース的な空間を含めると合計9部屋が配置されている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・両刃斧の聖所 Doubel Ax Shrine, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・南東翼部・両刃斧の聖所(南区画)
中央の狭い部屋の奥(暗い)=後世の神殿
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1994年

また、エヴァンズの発掘では、南区画の中央中庭側の南北通路から幾らかの線文字A粘土板が見つかっている。線文字Aの数値では、「〇=100単位」・「・ or 横線=10単位」・「縦線=1単位」となることから、粘土板には何か「物品」と「数量」が記述されていると推測できる。
ただ、これらの線文字A粘土板が元々聖所に在ったのではなく、紀元前1375年頃、大火災でクノッソス宮殿が崩壊した時、上階に存在した何かの管理部屋などから崩落した可能性が高い。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・南東翼部・両刃斧の聖所・線文字A粘土板 Minoan Linear A, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・南東翼部出土・線文字A粘土板
両刃斧の聖所・南北通路から出土した粘土板
参考情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.I (1921年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

両刃斧の聖所・南区画の最も北西端、東西・南北の2本の通路が直交する角部の部屋は、紀元前1375年~前1300年頃、クノッソスの「新宮殿時代」が終焉した後に遡る後期の神殿 Later Shrine と呼ばれている。

エヴァンズの発掘では、この部屋の横幅1.5m程の漆喰祭壇の上には、祈祷・崇拝に使ったのか、二基の焼成石膏製の雄牛角U型オブジェ、そして《ハトの女神像 Dove Goddess》を含む五体の小型のテラコッタ製塑像が置かれていた。
さらに祭壇の下、小石が散在した一段盛り上がりの床面と、その手前の低い台座上に敷いた石膏石板の上には、背の低い三脚の円形奉納台、鐙型(あぶみ)の注ぎ口付き容器やカップ類を含め、10器以上の陶器が置かれていた、とされる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・《ハトの女神》Dove Goddess, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・南東翼部出土・テラコッタ像
頭部にハト・小型像《ハトの女神像》
イラクリオン考古学博物館/高さ210mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

紀元前12世紀・崇拝用の塑像
1936年、イラクリオン市街地~西方6km、北海岸から内陸へ1km、ガジ地区 Gazi で農作業中の住民がやや小型の崇拝用テラコッタ製の女神像二体を見付け、直後の発掘調査でさらに三体の女神像が出土した。
聖所とされるガジ遺跡から出土した女神像は、銃を突きつけられた時の「ホールドアップ」のように両手を広げ、頭部には太い飾りバンド、聖なる雄牛角や鳥(ハト)、ケシの種子などがシンボル装飾されている。
ガジ遺跡から出土した塑像の内、最も大型の像はケシの種子を頭部に付けていることから、《ケシの女神像 Poppy Goddess》と呼ばれている。

ガジ遺跡出土・《ケシの女神像》Poppy Goddess, Gazi, Crete/©legend ej
ガジ遺跡出土・テラコッタ像
《ケシの女神像》/高さ775mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号9305
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

この種の女神塑像は、紀元前12世紀、家庭用や奉納用の崇拝像として盛んに作られた。女神像の下半身はろくろ(轆轤)を使って作られたことから安定感のある円筒形、さらに後期にはロングスカートの裾部分が少し上げられ脚の見えるタイプも出現した。
これは自然崇拝の本来のミノア文明では有り得ない崇拝像の形容であり、「新宮殿時代」のクノッソス宮殿が崩壊してから約200年が経過、ミノア文明が衰退したこの時代にクレタ島の宗教観が大きく変化した証とも言える。

ガジ地区の発掘ミッションでは、1950年代、より北側となるエーゲ海岸のスカフィダラス地区 Skafidharas では、ミノア文明後期の居住地遺構と隣接する墳墓が発掘され、石製容器や二基のろくろが見つかっている。
さらに1960年代には紀元前13世紀に属する複数のラルナックス陶棺が出土、内一基は四個のハンドル付き、正面にはやや粗雑ながら三角の帆を張った舟の絵柄である。舟は太いマスト帆柱のガレー舟タイプ Galley のやや大型、側面に27本のオール(櫂)が確認でき、左方から右方へ進んでいる。マスト先端から左右に延びる波状紋様は波か雲の流れなのか強調的に描かれ、一方、舟の下方には「ナイル自然様式」の水鳥とパピルスが描写されている。

ミノア文明・ガジ遺跡出土・ラルナックス陶棺・舟の絵柄 Minoan Larnax with Boat-picture, Gazi/©legend ej
ガジ遺跡出土・ラルナックス陶棺・舟の絵柄
後期ミノア文明LMIIIB期・紀元前13世紀
イラクリオン考古学博物館・登録番号18985
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

両刃斧の聖所・南区画の南東端には「聖なる浴場 Ritual Bath」が配置されている。この「聖なる浴場」は左回り階段で半地下の床面へ降りる構造である。
「聖なる浴場」は発掘時のままの状態が保たれ、通路と階段の側壁面はマーリア宮殿遺跡のそれと同様、美しく研磨加工された石膏石で表装施工、また底部は石膏石で舗装されている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・聖所・「聖なる浴場」Ritual Bath, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・宮殿聖所・「聖なる浴場」
側面=石膏石の表装・底部=石膏石の舗装
クレタ島・中央北部/1994年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・聖所・「聖なる浴場」Ritual Bath, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・宮殿聖所・「聖なる浴場」
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡・「聖なる浴場」Ritual Bath, Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡・西翼部・「聖なる浴場」
クレタ島・中央北部/1982年/描画:legend ej


ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡 Ritual Bath, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・西翼部・「聖なる浴場」
クレタ島・最東部/1982年


ミノア文明の「聖なる浴場」
床面から深さにして1mほど、決して広くはない半地下式の「聖なる浴場」。明かり取りの窓を設けず、間違いなく、石製ランプに照らされた暗く神秘なるこの場所では、王や神官など宮殿の限られた高位の人により、聖なる水を使い、手足のみならず身体の清めを含め、祈祷のようなある種の神聖な儀式、非常に重要な宗教的な行為が行われたはずである。
例えば、宮殿全体で行われる聖なるイベント前の、主催者たる王や神官などの「清めの場」として使われた可能性が高い、と想定できる。

考古学情報の乏しい一般の観光ツーリストのほとんどが、この施設は水が湧き出る普通の「井戸」と勘違いしている。が、実はこの窓のない空間、それほどの深さもない特殊な構造にこそ大きな意味があり、聖なる水を使って儀式が執り行われる極めて宗教色の強い施設であった。
そのため、発掘により確認されたクノッソス宮殿を初めミノア文明の諸宮殿のほか、イラクリオンの西方のティリッソス遺跡 Tylissos など豪奢な造りの地方邸宅などに限定されて造られた「聖なる浴場」では、石製ランプが同時に見つかっている。
単純な飲料水の井戸ならば、王の居室や聖域に付属させる必要はなく、石製ランプも不要な宮殿外部の明るい場所、例えば泉水が期待できる糸杉の大木の根本に掘っても良いはずである。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・石製ランプ Minoan Stone Lamp/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・石製ランプ
イラクリオン考古学博物館
・左=登録番号616・高さ460mm
・右=登録番号133・高さ110mm
クレタ島・最東部/描画:legend ej

紀元前1375年頃、クノッソス宮殿が崩壊した後、南東翼部全体は放棄されて来たが、「新宮殿時代」より後期に使われた神殿の存在から、宮殿聖所の区画は部分的に再居住された、と判断されている。
位置的に王家のプライベート生活区画に隣接しているという配置から、研究者に「両刃斧の聖所」と呼ばれるように、「新宮殿時代」の宮殿聖所は王家だけが専用に使うことができた、言わば「内輪の聖所」であった、と考える研究者が多い。


「内陣仕切りの邸宅」&「南東の邸宅」

両刃斧の聖所の南東方向、宮殿区画からわずかに離れた位置に独立した二つの邸宅遺構が残されている。宮殿・南西翼部近くの南の邸宅と同様、いずれも王族や貴族階級や祭司など宮殿の上位クラスの人が住んだ邸宅である。
内部構造はそれぞれ異なるが、二つの邸宅の敷地スペースはほぼ同等、ただ、クノッソス宮殿の建つ丘状の地形条件から、標高95mの中央中庭レベルより5m~10mほど低い、わずかに斜面となる場所に建っている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・周辺遺跡 広域地図 Map Prehistoric Site around Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡&周辺 地図
クレタ島・中央北部/作図:legend ej


内陣仕切りの邸宅

両刃斧の聖所に近い遺構が内陣仕切りの邸宅 House of Chancel Screen と呼ばれる建物である。「聖なる浴場」を含め一階レベルで部屋数10室、階段があることから上階レベルを合わせると合計15室~20室と想定できる。「聖なる浴場」を備えている意味からは、この邸宅が極めて高位の聖職者の居住に使われていた可能性を連想できる。

また、「内陣仕切り」とは、ヨーロッパのローマ・カトリック系教会やイギリス・イングランド国教会で見られる、比較的規模の大きな教会堂内部で聖職者側の内陣 Chancel と信者側の身廊 Nave とを仕切る装飾障壁 Choir/Rood Screen を意味する教会建築用語である。
120年前、発掘者エヴァンズは、二本円柱のある低い仕切り状の構造を持つ上質な部屋から連想して、「内陣仕切りの邸宅」と名称を付けた。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・内陣仕切りの邸宅 House of Chancel Screen, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿・内陣仕切りの邸宅・「奥の間」
二本円柱&低位仕切り壁の「内陣仕切り」の構造
クレタ島・中央北部/1994年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・内陣仕切りの邸宅/©legend ej
クノッソス宮殿・内陣仕切りの邸宅
主部屋に付属する「奥の間」
クレタ島・中央北部/1994年

復元&保護屋根された最も北側の部屋は、現状、内壁面は石膏プラスターの塗壁なしの石組みのまま、領主椅子が置かれていた石製基盤だけが残されている。二本円柱の仕切りの手前(東側・写真の明るい箇所)は、ミノア宮殿様式の「三部屋続き」の構造の主部屋が配置されていた。

メッサラ平野のアギア・トリアダ準宮殿と同様に、石製基盤の置かれた上質の部屋は、事実上、主部屋に付属する領主だけが入れる「奥の間」と言うことができ、ミノア時代には間違いなく壁面は美しいフレスコ画で装飾されていた。
かつては立ち入りが許されていたが、現在、この邸宅遺構もツーリストの立入禁止区域に指定され、少し離れたロープ規制の東方から「奥の間」の内部を一寸だけ見ることができる。

また、内陣仕切りの構造に関しては、宮殿・南東部の内陣仕切りの邸宅と、宮殿・東入口~北方130m、「宮殿時代」の王族 or 高位祭司などが住んだ王家の邸宅 Royal Villa と呼ばれる高貴な建物遺構の主部屋&「奥の間」がまったく同じ造りである。
宮殿区域から少し離れているが、エヴァンズの発掘により、王家の邸宅は極めて祭祀的な内部構造と仕様であったことが判明している。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・内陣仕切り邸宅&王家の邸宅/Sir Arthur Evans-Theodore Fyfe
クノッソス宮殿遺跡・内陣仕切りの邸宅&王家の邸宅
主部屋・「奥の間」の復元予想=祭祀的な構造&仕様
原画情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
・左描画・内陣仕切りの邸宅=Sir Arthur Evans
・右描画・王家の邸宅=建築家 Theodore Fyfe
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.II (1928年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)


南東の邸宅

内陣仕切りの邸宅よりさらに南東方向の建物が、南東の邸宅 Southeast House と呼ばれる区画である。
南東の邸宅からは非常に上品な紫色系の石膏石製ランプが出土している。発掘時に上部(ランプ部)は欠損、ステム部(脚)と底部のみが見つかった。「新宮殿時代」の前半、中期ミノア文明MMIIIB期、紀元前1600年~前1550年頃の作品とされ、当然、製作はクノッソス宮殿・東翼部の石製工房が担当したはずである。

欠損している上部の推定形状を加えて、推定できる全体の形容をイラスト画した。ランプのステム部の表面にはやや斜め・螺旋状の浅い溝が切られ、溝間にはツタの葉の連鎖紋様が精巧に彫刻されている。

ミノア文明・クノッソス宮殿・南東の邸宅 プラン図/©legend ej
クノッソス宮殿・南東の邸宅・アウトラインプラン図
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿・南東の邸宅・石製ランプ Stone Lamp, Southeast House, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿・南東の邸宅出土・石膏石製ランプ
・出土=脚&底部/高さ=460mm
・上部欠損ランプ部=推定の形容
イラクリオン考古学博物館・登録番号66
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

参考だが、発掘者エヴァンズの協力者の一人、クノッソス宮殿遺跡の主にフレスコ画などの「復元・複製」を担当した、オランダ系イギリス人の考古学・建築美術家 Piet Christiaan de Jong が描いた、東翼部・両刃斧の間(王の居室)の想像画では、南東の邸宅出土の紫色石膏石製ランプが、左方の入口ドアー付近に描かれている(〇印)。なお、Jong 作の描画はイラクリオン考古学博物館で見ることができる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王の居室(想像画)/Piet Christiaan de Jong
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・両刃斧の間 想像画
石膏石製ランプ=印(黄色強調)
描画情報:イラクリオン考古学博物館
描画の作者:Piet Christiaan de Jong

そのほか、南東の邸宅からはマグカップに長い注ぎ口を付けたタンカード容器、そしてミケーネ様式と同じ形容の美しいキリックス杯が見つかっている。何れも後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年以降に流行する、抽象化されたパピルスの花が表現されている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・南東の邸宅・タンカード容器 Minoan Tankard, Southeast House, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿・南東の邸宅出土・タンカード容器
後期ミノア文明LMIIIA期~LMIIIB期・紀元前1300年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号4513
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・南東の邸宅・キリックス杯 Minoan Kylix, Southeast House, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿・南東の邸宅出土・キリックス杯
後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年
イラクリオン考古学博物館・登録番号3859
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


ミノア文明の「ツタの葉」のモチーフ表現

ミノア文明では、ツタの葉はパピルスやユリやサフランなどと並び、主に陶器の絵柄やフレスコ画や金属容器など、特に連鎖デザインとして頻繁に登場する植物性モチーフの代表格である。
例えば、北海岸・モクロス遺跡・共同墓地 Mochlos からは、ツタの葉の連鎖紋様が打出し加工された青銅製カップが出土している。

エーゲ海・モクロス島 Mochlos Island/©legend ej
エーゲ海・モクロス島
ミノア時代=本島と陸続きの「小さな半島」
クレタ島・東部北海岸/1982年

ミノア文明・モクロス遺跡・青銅製カップ Minoan Bronze Cup with Ivy Pattern, Mochlos/©legend ej
モクロス遺跡・共同墓地出土・青銅製カップ
ヴァフィオ型・ツタの葉の連鎖紋様/高さ約65mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号1574
クレタ島・東部北海岸/描画:legend ej

さらにメッサラ平野のアギア・トリアダ遺跡の「準宮殿」の遺構、フレスコ画の部屋からは「新宮殿時代」の最盛期、後期ミノア文明LMI期・紀元前1550年~前1450年に描かれたフレスコ画の断片が出土している。
見つかったフレスコ画の断片はわずか、イラクリオン考古学博物館で展示公開されている、横幅40cm、ツタの絡まる岩場の陰から《キジを狙うネコ》、そして横幅53cm、やや縦長残存の《岩場に垂れ下がるツタの枝葉・パピルス?の花》にツタの描写を見ることができる。

フレスコ画《キジを狙うネコ》では、ツタの生えるゴツゴツとした岩場に静かに佇む美しい一羽のキジを狙って、忍び足で接近する眼光鋭いネコを描写したものである。次に起こり得る激しくも危険な場面を予想させながら、緑色のツタ葉のシンプルな美しさに対比するように非常に緊迫したシーンを切り取って描いた見事な作品である。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・フレスコ画《キジを狙うネコ》 Minoan Fresco of Cat Stalking Pheasant, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡・準宮殿出土・フレスコ画《キジを狙うネコ》
ツタの生える岩場のキジ&狙うネコが忍び足で接近
後期ミノア文明LMI期・紀元前1550年~前1450年
イラクリオン考古学博物館/横幅40cm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej


また、ギリシア本土ミケーネ文明のデンドラ遺跡 Dendra の「王家のトロス式墳墓」からは、ほとんど間違いなくクノッソス宮殿の金属工房で製作された後、ミノア王からの献上品と断定できる、やはりツタの葉の連鎖紋様が打出し加工された金製カップが見つかっている。
上から見たなら広がった花弁のように波打つカップの口縁部は直径130mm、ミケーネ様式独特のループするハンドル、頸部にロゼッタ風のリベット、腹部は全周に連鎖するツタの葉紋様で打出し装飾されている。

ミケーネ文明・デンドラ遺跡・「王家のトロス式墳墓」 Mycenaean Royal Tholos Tomb, Dendra/©legend ej
デンドラ遺跡・「王家のトロス式墳墓」
ペロポネソス・アルゴス地方/1987年

ミケーネ文明・デンドラ遺跡・金製カップ(ツタの葉)Gold Cup, Dendra Royal Tomb/©legend ej
デンドラ遺跡出土・金製カップ
・ツタの葉の連鎖紋様の打出し加工=ミノア様式
・ループのリングハンドルの形式=ミケーネ様式
アテネ国立考古学博物館・登録番号8743
ペロポネソス・アルゴス地方/描画:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 関連ポストは「12部構成」となっています。
1. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace I 概要
2. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace II 西中庭~南翼部
3. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace III 中央中庭・王座の間
4. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IV 聖域・宝庫
5. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace V 貯蔵庫
6. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VI 女神パリジェンヌ
7. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VII 王の居室・聖所(当ポスト)
8. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VIII 王妃の間
9. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IX 雄牛跳び
10. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace X 北~東翼部
11. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 周辺の先史遺跡
12. ミノア文明・クノッソス宮殿 崩壊の原因は?

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