2020/02/23

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡 Agia Triada


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複雑な遺構が残るアギア・トリアダ遺跡

位置 クレタ島・南西部/イラクリオン~南西45km・フェストス宮殿遺跡~北西2km
GPS アギア・トリアダ遺跡: 35°03’33"N 24°47’35"E/標高35m

アギア・トリアダ遺跡 Agia Triada は、クレタ島・南西部に広がる最大の農耕地・メッサラ平野 Messara を管理したフェストス宮殿(ファイストス Phaestos/Phaistos Palace)~北西約2km(道路3.5km)に位置する。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Great Stairs Case, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・大階段周辺
クレタ島・メッサラ平野
1982年/描画:legend ej


アギア・トリアダにはクレタ島で確認されている大規模な4か所のミノア宮殿には及ばないが、「準宮殿クラス」の遺構と庶民が住んだ小規模な市街地の遺構、そして複数のメッサラ様式の円形墳墓が残されている。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡 Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡
左側=市街地区域/右側=「準宮殿」の区域
クレタ島・メッサラ平野/1982年

クレタ島南西部・メッサラ平野・ミノア文明・遺跡 地図 Map of Minoan Archaeological Sites at Messara/©legend ej
クレタ島南西部・メッサラ平野・ミノア文明・遺跡 地図
作図:legend ej

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡&周辺 地図 Minoan Site, Map around Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡 周辺・ミノア文明遺跡 地図
クレタ島・メッサラ平野/作図:legend ej

ミノア文明センターのクノッソス宮殿 Knossos Palace を初め、ほかの主要宮殿で確認されている長方形の中央中庭は存在しないが、アギア・トリアダ遺跡は松林が続く尾根の斜面を上手に利用して、平面視では「L字」の形容の敷地に複雑な建物遺構が残されている。
西方のリビア海へ続くなだらかな斜面という場所と建物遺構の規模からして、アギア・トリアダはフェストス宮殿の王が「夏の離宮」に、あるいは王族が居住するなど、重要な目的を果たしていたと推測するには、十分過ぎる条件と内容を残している。
アギア・トリアダの遺跡の発掘ミッションは、フェストス宮殿遺跡と同様に伝統的にイタリア考古学チームが担当してきた。


ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡 Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡
手前=聖域/中央=「準宮殿」の区域
クレタ島・メッサラ平野/1982年

遠退いたリビア海/ゲロポタモス川を素足で渡る
今日、アギア・トリアダ遺跡の下方(西方)には広大な豊穣平原が広がり、リビア海の海岸線まで最短でも約3.5kmの距離がある。しかし、ミノア文明の時代では、多くの研究者が主張するように、海岸線がアギア・トリアダの直ぐ近くまで迫って来ていたとされる。

アギア・トリアダ遺跡~北方300m付近には、東~西方へ向けてゲロポタモス川(Geropotamos イエロポタモス)が流れている。大きな河川ではないゲロポタモス川は、フェストス宮殿遺跡~東南東27km、アステルシア山地の最高峰1,231mのコフィナス山 Mt Kofinas の北麓を水源として、広大なメッサラ平野を東西に蛇行横断、そしてフェストス宮殿遺跡とアギア・トリアダ遺跡がある尾根の北側を経由、西方のリビア海へ下っている。

ミノア文明ではフェストス宮殿とその周辺の市街地、アギア・トリアダの「準宮殿」と市街地に住んだ人々は、間違いなくゲロポタモス川を農業用水と飲料水にも活用していたであろう。
ミノア文明の時代~過去3,000年の間、ゲロポタモス川の氾濫などで土砂が運ばれ、アギア・トリアダ遺跡の西方一帯は広大な扇状地となり、海が相当に遠退いてしまった。ただ、典型的な乾燥の地中海の島・クレタ島のほかの河川と同様に、ゲロポタモス川の流れる水量は多くはない。

1994年の夏、二度目にアギア・トリアダ遺跡を訪ねた時、遺跡から北方へ向かって細道を下り、トレッキングシューズを脱ぎ、素足で水深20cmのゲロポタモス川を越えたことがある。今日、幹線道路N97号~アギア・トリアダ遺跡へのルートが整備され、ゲロポタモス川にも車走行できる橋が架けられた。

複雑に重なり合うミノア文明・「準宮殿」&ミケーネ文明・「メガロン形式」の遺構

アギア・トリアダ遺跡の主要区域と市街地区域では、基本的に中期ミノア文明MMIII期から始まる「新宮殿時代」に属する建物遺構と、それより遅れた「侵攻ミケーネ人」のクレタ島統治が始まる後期ミノア文明LMIII期、「ミノア・ミケーネ融合文化」の時代の遺構とが、複雑に重なり合っている点に大きな特徴がある。

ただし、1900年代の初め頃、最初の発掘ミッションが実施された後も含め、多くの考古学者が指摘しているように、出土した陶器や宝飾品などの総点数や個別情報などを含め、担当したイタリア考古学チームからの精緻な発掘レポートが公表されていない。このため遺跡区域の遺構のみならず、アギア・トリアダ遺跡の特徴を示す多くの考古学的要素の解析や関連性などの判断を難しくしているとされる。

ミノア文明&ミケーネ文明 編年表/©legend ej
クレタ島ミノア文明&ギリシア本土ミケーネ文明 編年表
・ミノア文明・「旧宮殿時代」: 紀元前1900年~前1625年
・ミノア文明・「新宮殿時代」: 紀元前1625年~前1375年
ミケーネ文明(時代):  後期ヘラディック文明 LH期
作図:legend ej

アギア・トリアダの「準宮殿」の建物群は、ミノア文明の繁栄を象徴する宮殿建設ラッシュの時期、「新宮殿時代」が始まる中期ミノア文明MMIII期、紀元前1600年頃に建造され、最も繁栄したのは「新宮殿時代」の半ば、後期ミノア文明LMI期の頃とされる。
その後、「準宮殿」と庶民の住んだ市街は後期ミノア文明LMIB期、紀元前1450年頃、ほとんど間違いなくギリシア本土の好戦的なミケーネ人による「クレタ島侵攻」により破壊された。

そうして、「新宮殿時代」が終わる後期ミノア文明LMIII期になると、「準宮殿」の破壊遺構の上部にミケーネ文明の建築様式・「メガロン形式 Megaron Complex」の建物が建てられ、部分的に再居住が行われた。
おそらく「侵攻ミケーネ人」が居住したであろうこの「メガロン形式」の建物は、極端に厚い壁面を示す横30mx縦15mほどの大型の建造物、さらに建物の脇には周囲から雨水を集める石製導水路が設置されていた。


ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・「準宮殿」遺構/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡・「準宮殿」の遺構 アウトライン図
クレタ島・メッサラ平野
作図情報:発掘レポート⇒テキスト&色彩追加

ミケーネ文明・「メガロン形式」
ミケーネ時代の宮殿建築で最も重要な部屋は「王の居室 Throne room」である。その周辺の配置では、先ず「控えの間/入口&ポーチ Portico」と呼ばれる円柱で出口が開放された空間があり、次に「前の間 Vestibule」、最も奥まった位置に「王の居室」が連続して配置されていた。
この「三部屋続き」の配置方法を「メガロン形式 Megaron Complex」と呼ぶ。「メガロン形式」の起源はミケーネ文明の半ば・後期ヘラディックLHIIIA期が始まる時期、紀元前1400年頃とされている。
「メガロン形式」を残すミケーネ文明の宮殿遺跡では、先ずアルゴス地方の世界遺産ミケーネ宮殿を初め、ミケーネ宮殿から南方へ約20kmの世界遺産ティリンス宮殿、さらに「トロイ戦争」で知られたネストル将軍の本拠地、南西ギリシア・メッセニア地方のネストル宮殿が挙げられる。
下作図はミケーネ文明の三宮殿の「メガロン形式」の配置比較である。ネストル宮殿とミケーネ宮殿はほぼ同じような配置仕様だが、ミケーネ宮殿のそれはやや小さい。また、ティリンス宮殿の奥行きはネストル宮殿とミケーネ宮殿に比べ少しだけ「細長い」ことが分かる。
部屋の配置では、図の下部が二本円柱の入口・「控えの間」、次が「前の間」、そして図の上部が「王の居室」となり、王の居室には王座と四本円柱と「聖なる炉」が設けられていた。

ミケーネ文明・宮殿建築様式・「メガロン形式」Mycenaean Megaron Complex/©legend ej
ミケーネ文明・宮殿建築様式・「メガロン形式」
三宮殿の配置仕様 比較
作図=legend ej
※学芸出版社発行書籍(著者代表 藤本和男)「住空間計画学」掲載図面/2020年12月

ミノア文明が紀元前1200年頃に衰退、そして紀元前1100年頃に本土ミケーネ文明も完全に消滅、以降、ギリシアの「暗黒時代 Dark Age」と呼ばれる文明の停滞期に入る。
その後、紀元前900年頃から始まる幾何学紋様時代 Geometric Pattern Age になり、アギア・トリアダは祭祀的な場所として再居住が行われた。発掘の結果からは、その後、アギア・トリアダは古代ローマ時代の後半期、紀元2世紀頃まで断続的な居住が続き、かつてのミノア文明の「準宮殿」の区域には大型の邸宅が建てられたことも分かっている。

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アギア・トリアダ遺跡の遺構

ミノア文明の聖域

フェストス宮殿遺跡からの道路・パーキング場&見学入口は、遺跡より標高の高い位置にある。入口から遺跡へ向かって西方へ下がると、すぐ右方(北側)に「ベランダのある建物」を含め、複雑な建物遺構がある。

また、左方(南方)には中庭を囲むように小部屋が密集的に連続する聖域の遺構が見える。聖域の最も南側に神殿 Shrine と呼ばれる建物があり、内部は中間ドアーで二部屋に分割され、入口の西側が控え室、東側が神殿の「本殿」となっている。
神殿の壁と床面は「新宮殿時代」の最盛期、後期ミノア文明LMI期に遡る海洋性デザインのフレスコ画で装飾され、ベンチを備えた内部から陶器製の管状奉納台が出土している。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・神殿 Shrine, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡・神殿周辺
クレタ島・メッサラ平野/1982年

神殿は「新宮殿時代」が終わった後、後期ミノア文明LMIII期になり再使用が行われた、と判断されている。再使用の時代に納められたと推測できるテラコッタ製の女性祭司がブランコに乗る塑像が見つかっている。
ブランコの支柱の上には二羽の聖なるハトが止まっていることから、研究者から「エピファニー表現 Epiphany scene」と呼ばれ、極めて祭祀的な意味を含みながらも、それでいて日常的にもあり得る情景を表現している。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・ブランコに乗る女性祭司の像 Priestess on the Swing, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡出土・「ブランコに乗る女性祭司」
後期ミノア文明LMIIIA2期・紀元前1350年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号3039
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡/Google Earth
アギア・トリアダ遺跡
クレタ島・メッサラ平野
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入

ミノア文明・「準宮殿」の遺構

石製ベンチ部屋&石製リュトン杯

標高レベルが下がる聖域の西側には、東西に延びるかなり広い空間が広がり、発掘では初期ミノア文明~中期ミノア文明の痕跡が確認された。
その北側の保護屋根カバーを含め狭い階段と複雑な壁面で構成され、西方へ80mほど長く延びる建物群がミノア文明の「準宮殿」の遺構である。

二回目に訪ねた1994年では、そのわずか1週間前頃か、サイトのある尾根周辺で発生した広範囲の山火事の延焼があったのか、遺構周囲の松など多くの樹木は燃えるか、煙害で赤枯れしていた。サイトの遺構自体の被害はなかったが、松の大木の下にある入口・管理室の建物は焼け焦げていた。
雨がまったく降らない半年間、晴天が続く夏季、極端に乾燥するクレタ島を初め、エーゲ海諸島やギリシア本土でも、気温上昇と乾燥から自然発火する山火事は毎年多数発生する。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・準宮殿遺構 Agia Triada/(C)legend ej
アギア・トリアダ遺跡・入口~主要部
保護屋根のカバー部分が「準宮殿」の一部
山火事の影響で周辺松林の葉が枯れている
クレタ島・メッサラ平野/1994年

庶民の住んだ市街地区域へ下がる幅のある階段の西側、聖域に最も近い保護屋根カバーされたセクションには、「準宮殿」で重要な部屋であったと思われる石膏石ベンチを備えた複数の部屋、それに別々に連結する採光用の吹抜け構造の部屋が配置されている。これらの部屋の壁面や床面は、採光吹抜け構造の部屋を除き、間違いなく石膏表装の上質な仕様であった。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡 Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡・石製ベンチの部屋
クレタ島・メッサラ平野/1982年

この区画からイラクリオン考古学博物館で展示されている、有名な石製の「刈取人夫達のリュトン杯 Harvester Vase」が出土している。
同時に見つかった多くの装飾品や陶器類などと同様に、儀式用または装飾品として造られた石製リュトン杯も破損状態で見つかっている。ただ、これらミノア文明の工芸品が、1階のベンチの部屋にあったものか、あるいは存在したであろう上階の部屋から落下したかは不明である。

ミノア文明の最盛期、「新宮殿時代」の半ば、後期ミノア文明LMI期、紀元前1500年前後に製作されたとされる、黒色滑石・ステアタイト製の見事なリュトン杯は、ミノア文明の工芸美術レベルの高さを象徴する作品の一つと言える。

残念ながら、リュトン杯の下半分は欠損しているが、裸で筋肉質の腰巻姿の人夫達は、それぞれ肩に「箒(ほうき)」や「熊手」のような長い枝状の道具を携えていることから、オリーブの収穫作業、または小麦などの籾(もみ)落とし作業を終えて、同行する楽師の演奏に合わせ全員で行進、大きく口を開けて歌いながら帰宅するシーンが写実的に浮彫表現されている。

裾がフリンジ(房飾り)で魚のウロコ紋様のマントを羽織ったリーダーと思われる男性は、豊かなロングヘア、手にややカーブする長い剣またはステッキを持っている。また、人夫達のほとんどは二人ずつ並んで整列行進しているが、一人の人夫だけ前後の間隔取りが乱れているが、これは3,500年前のミノア工房職人のユーモアセンスと言うべき、意図的な製作表現なのか?

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・石製リュトン杯 Stone Rython, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡出土・石製の「刈取人夫達のリュトン杯」
後期ミノア文明LMI期・紀元前1500年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号184
最大直径115mm・上半分残存高さ96mm
クレタ島・メッサラ平野/1996年

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・石製リュトン杯 Stone Rython, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡出土・石製の「刈取人夫達のリュトン杯」
楽器シストルムを振る人夫=歩行リズム
後期ミノア文明LMI期・紀元前1500年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号184
クレタ島・メッサラ平野/1996年

また、「刈取人夫達のリュトン杯」と同じ時期に製作されたミノア文明の石製品では、クレタ島最東部のザクロス宮殿遺跡から素晴らしい作品が数多く出土している。

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・山頂聖所リュトン杯 Peak Sanctuary Rhyton, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・西翼部出土・石製リュトン杯
緑泥石製・「山頂聖所リュトン杯」/腹部直径140mm
・荘厳な山頂聖所&雄牛角型オブジェに止まる鳥・飛ぶ鳥
・野生ヤギの群れ(聖所で休む・岩場を飛ぶ・岩場を登る)
イラクリオン考古学博物館・登録番号2764
クレタ島・最東部/描画:legend ej


アギア・トリアダ遺跡から出土した陶器のうち、同じ「新宮殿時代」に製作された水差しの絵柄が、フェストス宮殿遺跡からのステムカップのそれとまったく同じであり、もしかすると双方共にフェストス宮殿の陶器工房の同じ職人によりほぼ同時に焼かれた可能性がある。
器形は異なるが、共通した絵柄である両刃斧と「聖なる結び目」を描いている点、双方の陶器は室内装飾の相当ハイレベルの用途として製作されたかと推測する。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・水差し Minoan Jug, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡出土・水差し
ロゼッタ・カンマ紋様・両刃斧・「聖なる結び目」
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号3936
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・ステムカップ Stemed Cup, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡出土・ステムカップ
抽象&幾何学様式/ハンドル除く高さ145mm
ロゼッタ・カンマ紋様・両刃斧・「聖なる結び目」
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号8407
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

ピトス貯蔵庫&ミケーネ様式・「メガロン形式」の建物

紀元前1450年頃、クノッソス宮殿を除くクレタ島の三か所の宮殿、フェストス宮殿・マーリア宮殿・ザクロス宮殿、そして地方の無数の邸宅と町を破壊した「侵攻ミケーネ人」の攻撃を受け、アギア・トリアダの「準宮殿」も破壊された。
その後、石製ベンチの部屋の西側付近からさらに西方の破壊遺構の上部には、石製の導水路を備えた横30mx縦15m、ミケーネ様式の「メガロン形式」の大型建造物が建てられた。発掘でこの「メガロン形式」の建物レベルから、後期ミノア文明LMIIIに属する陶器類が見つかっている事実から、建物は間違いなく「新宮殿時代」より遅い時期に建てられ、居住したのは「占領ミケーネ人」であったと断言できる。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・石製導水路 Stone Water Course, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡・石製導水路(2ルート)
クレタ島・メッサラ平野/1982年


「メガロン形式」の建物の真下に相当するミノア文明の「準宮殿」の遺構では、多くのピトス容器を保管していた南北に細長い複数の貯蔵庫が配置され、現在、一部の大型ピトス容器が発掘状態のまま残されている。また、階段の上部の箇所にはピトス容器を置いた複数の石膏石の安定台が残されている。
貯蔵庫群の西側には、階段や小部屋のほか、床面が舗装された正方形の支柱の部屋が配置され、その北側の区画は破壊が激しい遺構となっている。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡 Storeroom, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡・貯蔵庫
やや狭い空所にピトス容器が残されている
クレタ島・メッサラ平野/1982年


北西翼部/列柱中庭~記録保管室

アギア・トリアダの「王」、または「王族」の統治者が居住した「準宮殿」の主部屋などは、区域の北西翼部に配置されていた。「準宮殿」の区域の最も北西側には3基の円柱礎と1基の円柱礎跡が確認できる。この円柱に囲まれた箇所は、それほど広くはないが、研究者は列柱造りの中庭であった可能性が高いとしている。

中庭空間の東側には、ミノア宮殿や地方の大型邸宅に共通する行政管理面の重要な部屋、記録保管室が配置されていた。この記録保管室と庶民の市街区域で確認された家屋(記録保管室?)からを合わせ、合計150点を数えるミノア文明の文字・線文字A粘土板が出土した。

確認された線文字A粘土板のほとんどは、アギア・トリアダの管理区域からの農産物や工芸品、あるいは特産品の輸出(舟を使って)に関する集計リストなどである。それらにはオリーブ油・イチジク・穀物類の農産物を初め、工芸品である織物&布地や青銅製品、さらに羊毛&羊、牛やヤギや豚などの飼育動物などの記述が含まれ、研究者の推計では重複があるが、粘土板に登場する人物は合計2,800人を数えたとされている。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・線文字A粘土板 Minoan Linear A tablet, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡・記録保管室出土・線文字A粘土板
新宮殿時代の後半・紀元前1500年~前1450年
左=イラクリオン考古学博物館・登録番号7/高さ約100mm
右=イラクリオン考古学博物館・登録番号8 (Not to Scale)
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej


また、アギア・トリアダ遺跡からは、粘土に押された《雄牛跳び》や御者の操る《二輪走行車》の印影が見つかっている。
これらとまったく同じ印影がクノッソス宮殿遺跡~西方19km、スクラヴォカンボス邸宅遺跡 Sklavokambos や東部のミノア人の町グルーニア遺跡、最東部・ザクロス宮殿遺跡などからも出土している。

研究者は何れの粘土印影もそれぞれ同じ金製印章で押されたものと判断、「新宮殿時代」の後半期、文明センター・クノッソス宮殿から派遣された特定の金製リング(印章)を携えた複数の監査官のような立場の人が、各地の宮殿や地方センターであるミノア人の町や邸宅などを巡回する、国家レベルの行政・財務管理システムが構築されていた事実を連想できる。
粘土印影は現地で農産物などの収穫&管理状況の監査が終了した時点で、収納箱&結束ロープを粘土塊で固定、監査官が特定の金製リングで粘土塊に「封印」を押した、と推測されている。その「封印粘土塊」が発生した火災の高温下で陶器のように硬化した結果、現在まで残存したと考えられている。

ミノア文明・スクラヴォカンボス遺跡&アギア・トリアダ遺跡・「雄牛跳び」の印影 Minoan Bull-leaping, Clay Seal Impression, Sklavokambos and Agia Triada/©legend ej
複数のミノア文明遺跡出土・《雄牛跳び》の共通粘土印影
印影=雄牛の後方に雄牛跳びのミノア青年
・中央北部・スクラヴォカンボス遺跡
・メッサラ平野・アギア・トリアダ遺跡
・東部・大規模町遺構のグルーニア遺跡
・最東部・エーゲ海岸ザクロス宮殿遺跡
印章=後期ミノア文明LMIB期・紀元前1450年頃
イラクリオン考古学博物館/横約31mm
参考情報:CMS, Heidelberg U. (DE)
描画:legend ej

ミノア文明・スクラヴォカンボス遺跡&アギア・トリアダ遺跡・「雄牛跳び」の印影 Minoan Bull-leaping, Clay Seal Impression, Sklavokambos and Agia Triada/©legend ej
複数のミノア文明遺跡出土・《雄牛跳び》の共通粘土印影
印影=雄牛の後頭部付近に雄牛跳びのミノア青年
・中央北部・スクラヴォカンボス遺跡
・メッサラ平野・アギア・トリアダ遺跡
・東部・大規模町遺構のグルーニア遺跡
印章=後期ミノア文明LMIB期・紀元前1450年頃
イラクリオン考古学博物館/横約31mm
参考情報:CMS, Heidelberg U. (DE)
描画:legend ej

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・二輪走行車の粘土印影 Minoan Chariot Seal Impression on Clay, Agia Triada/©legend ej
複数のミノア文明遺跡出土・《二輪走行車》の共通粘土印影
印影=御者はほとんど欠損・二頭立て馬&二輪走行車
・中央北部・スクラヴォカンボス遺跡
・メッサラ平野・アギア・トリアダ遺跡
・サントリーニ島・アクロティーリ遺跡
印章=後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年頃
イラクリオン考古学博物館/横約30mm
参考情報:CMS, Heidelberg U. (DE)
描画:legend ej

GPS スクラヴォカンボス邸宅遺跡: 35°17’43”N 24°57’29”E/標高420m


北西翼部/フレスコ画の部屋

記録保管室の直ぐ東側がフレスコ画の部屋であった。その壁面に描かれていたフレスコ画は、いずれも「新宮殿時代」の最盛期、後期ミノア文明LMI期・紀元前1550年~前1450年に描かれたものである。
見つかったフレスコ画の断片はわずか、イラクリオン考古学博物館で修復断片として展示公開されている、横幅40cm、ツタの絡まる岩場の陰から《キジを狙うネコ》、そして横幅53cm、やや縦長残存の《岩場に垂れ下がるツタの枝葉・パピルス?の花》である。

フレスコ画《キジを狙うネコ》では、ツタの生えるゴツゴツとした岩場に静かに佇む一羽のキジを狙って、忍び足で接近する眼光鋭いネコを描写したものである。次に起こり得る激しい場面を予想させながら、自然のシンプルな美しさと静寂の中に非常に緊迫したシーンを切り取って描いた見事な作品である。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・フレスコ画《キジを狙うネコ》 Minoan Fresco of Cat Stalking Pheasant, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡・準宮殿出土・フレスコ画《キジを狙うネコ》
ツタの生える岩場のキジ&狙うネコが忍び足で接近
後期ミノア文明LMI期・紀元前1550年~前1450年
イラクリオン考古学博物館/横幅40cm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej


北西翼部/主部屋コンプレックス

記録保管室とフレスコ画の部屋の南側にある狭い通路の南側が、この「準宮殿」の主部屋コンプレックスとなる。
最も西側には北と東側が角柱で出入りができる構造の大広間が配置されていた。大広間の東側がミノア文明の宮殿様式の特徴的な仕様、「三部屋続き」の構成の広間となる。
「三部屋続き」の広間は、二本一組の円柱礎が二列あり、三つの部屋に区分されている。その最も東側には排水路が残されていることから、三部屋のうち、中間の部屋か東側の部屋は天空に開放された採光用の吹抜け構造であったかもしれない。

最も東側の部屋の南半分は二枚ドアーで開け閉めできる仕様の造り、この東側がアギア・トリアダの「準宮殿」で最も重要な区画、王の居室 King's Room であった。
クノッソス宮殿の王座の間 Throne Room と同じように、王の居室は北~東~南側壁面に石膏石ベンチが施設されていた。統治者の執務室としてはやや狭い感じの部屋であるが、居室の壁面全体は石膏石の羽目板仕様で非常に上質な造りである。

王の居室の北側には付属の小部屋があり、ベッド代わりになりそうな幅広の長椅子風の石膏石ベンチが備えられていた。また、王の居室と付属部屋には窓がなく、西側の採光吹抜け構造の部屋からの光を中心に、時にはランプ照明に頼っていたのか、居室と付属部屋から合計3個のランプが見つかっている。

なお、ミノア文明のランプ照明では、北海岸のマーリア宮殿 Malia Palace を囲む広域遺跡から大量の陶器製ランプが、最東部のパライカストロ遺跡 Palaikastro からは多くの石製ランプが出土している。

マーリア遺跡・陶器製ランプ例/©legend ej
マーリア広域遺跡出土・陶器製ランプ使用例
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・パライカストロ遺跡・石製ランプ Minoan Stone Lamp/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・石製ランプ
左 脚付き=イラクリオン考古学博物館・登録番号616・高さ460mm
右 平置き=イラクリオン考古学博物館・登録番号133・高さ110mm
クレタ島・最東部/描画:legend ej


そのほか、主部屋コンプレックスの区画からは、銅インゴット19枚が見つかっている。「座布団」の四隅を引っ張ったような形容、銅鉱石から精錬した最初の原料銅の鋳塊、研究者から「ケフテウ・インゴット Kefteu Ingot 」と呼ばれ、先史時代の原料銅の最大の供給地であった東地中海・キプロス島から輸入された。
なお、出土した銅インゴットのサイズは多種、重量では20kg前後~最大32kgであった。

ミノア文明・銅インゴット&石製計量おもり Copper Ingot, Stone Weight/©legend ej
輸入銅インゴット&クノッソス宮殿・西翼部出土・赤色石膏石製の計量おもり
左=銅産地・キプロス文明 ⇒ 輸入された銅インゴットの標準形容 ※サイズ・重量=多種
右=石製計量おもり/イラクリオン考古学博物館・登録番号26/高さ425mm・重量29kg
描画:legend ej

クレタ島ミノア文明では、最東部のザクロス宮殿 Zakros Palace へ陸揚げされたキプロス島からの輸入銅インゴットは、中東地域から輸入された錫(すず)が加えられ再溶解、出来た合金が先史・青銅器文明の名称となる「青銅 Bronze」である。
ザクロス宮殿遺跡では、溶解した銅合金・青銅をさらに個別の塊に流し込むための「流路システム Melting Channel System」が残されている。

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・青銅「流路システム」Bronze Melting System, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・青銅の「流路システム」(下部)
最下凹部緑色=3,500年前の銅の酸化物「緑青」の残留
クレタ島・最東部/1996年


輸入銅インゴットはそのまま、または比較的運び易い形状に成形された青銅の塊は、ロバの背に積まれ陸路で中央北部・文明センターであるクノッソス宮殿やマーリア宮殿などへ、または小舟で南海岸を経由して南西部・メッサラ平野のフェストス宮殿とアギア・トリアダへと運ばれた。
アギア・トリアダ遺跡を初め、輸入銅インゴットが見つかっているミノア文明の遺跡では、当然のこと、ザクロス宮殿と同じタイプの原料銅から青銅を合金する再溶解炉が必要となる。

ミノア文明・鉱物資源の輸入
クレタ島ミノア文明では、島内に金や銀を初め、銅や鉛などの金属鉱山は皆無、貴金属とその他の重要な金属&鉱物は、すべて得意とした中東地域やエジプトとの海洋交易を介した輸入に頼っていた。ミノア文明が自給できた資源は、島内の何処でも産出された美しい紋様の石製容器用の原石材、小麦や豆、オリーブやぶどうなどの農産物、魚や貝など豊富な海産物、そして東地中海を代表する上質な陶器類であった。

キプロス島から輸入された銅インゴット
クレタ島メッサラ平野のアギア・トリアダ遺跡や最東部のザクロス宮殿遺跡から出土した輸入銅インゴットの大きさは、20kg~30kg前後のやや大型であった。
一方、ギリシア本土・中部地方の海岸で発見された17枚の銅インゴット(アテネ国立考古学博物館/登録番号13051)の重量は、小型サイズで5kg、大型でも18kgであった。
ギリシア各地の輸入銅インゴットのサイズと重量の異なりは、輸入された時期の差異のほか、取引先であるキプロス島の銅の採掘・精錬の産地により、成形の型や冷却方法などにそれぞれ特徴があったと推測できる。

青銅/黄銅/銅酸化物「緑青」
青銅は銅を主成分として5%~20%ほどの錫(すず)を添加した合金、錫の含有量が多いほど白銀色に近く硬度が増し、含有量が少ないほど赤銅色で柔らかくなる。銅合金では銅に鉛を添加した、やや黄色を呈する黄銅もある。
また、銅が空気中の二酸化硫黄などと化合した時、古寺の屋根と同じ美しい緑色の錆・「緑青」を生じる。

主な金属の融解温度(融点)
鉄 1,536℃  銅 1,084.5℃  金 1,064℃  銀 962℃  鉛 327.5℃  錫 232℃  プラチナ 1,769℃  青銅(主成分 銅+錫)700℃~1,000℃

南西翼部/貯蔵庫群&工房群

北西翼部の主部屋コンプレックスで最も広く角柱ドアー仕様の大広間と、その東側の「三部屋続き」の広間の南側が「準宮殿」の南西翼部となる。「三部屋続き」の広間の南ドアーの南側には階段と戻り階段が設けられていたことから、この区画でも上階が存在していたと想定できる。

階段の西側には円柱礎と切石積みの壁面の採光用の吹抜け構造の小部屋があり、その西側にはピトス容器を収蔵した貯蔵庫であったと思われる、ほぼ正方形の部屋がある。
貯蔵庫の南側で採光吹抜けの小部屋から出入りする構造の部屋は、壁面が石膏石の羽目板仕様、敷石床面の広い貯蔵庫で大型ピトス容器が残されている。広い貯蔵庫の東側は、やはり採光吹抜けの部屋から出入りできる角柱の部屋で、この部屋は穀物や材料など何かの保存部屋であったかもしれない。

貯蔵庫群の南側、東西にやや長い小部屋が連続的に並んでいるが、この区画がアギア・トリアダの工房群である。工房全体では少なくとも大小15~最大17部屋を数える。
最も北側に配置された複雑な三部屋の小工房は、「準宮殿」の西側にあったフェストス宮殿へ連絡する「ミノア道 Minoan Passage」から直接アクセスできた。

一か所を除き、残りの5~6か所を数える工房の内部は各二部屋に区分され、西側の奥まった部屋はおのおの西壁面に窓があったとされ、各東側の部屋は、南北に伸びる長さ15m以上の工房通路からアクセスできる構造である。
一部岩盤を切削して造られた工房通路には仕切り状の痕跡があるので、通路の一部は小部屋的なスペースとして使われ、通路の最南端は「ミノア道」への出口なのか数段の石段があり、その手前の東側には工房部屋か製品の保管部屋だったか、舗装された部屋の遺構が残されている。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡 Minoan Craftrooms, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡・工房通路と工房群
工房通路と各部屋の出入り口/通路の最南端に数段の石段
工房群の外側(西方)にはフェストス宮殿への「ミノア道」があった
クレタ島・メッサラ平野/1982年


工房からの出土品・石製リュトン杯

工房から絶縁材ステアタイトの原料である滑石(タルク)製の「首領のリュトン杯 Chieftain's Cup」が見つかっている。リュトン杯は濃緑&黒色の色彩、円錐外周には腰巻姿のミノア男性が二人、互いに向かい合って立つシーンが浮彫表現されている。リュトン杯の製作時期は、「新宮殿時代」の最盛期、後期ミノア文明LMIA期~LMIB期・紀元前1550年~前1450年である。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・首領のリュトン杯 Stone Rython, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡・工房出土・石製の「首領のリュトン杯」
後期ミノア文明LMIA期~LMIB期・紀元前1550年~前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号341
高さ115mm・口縁直径99mm
クレタ島・メッサラ平野/1994年

石製リュトン杯の浮彫表現を観た場合、右手に身分を表す長い権標棒を持ち、ロングブーツを履き、アッパーアーム・アクセサリー&ネックレースを付けた右側のロングヘアの若い青年は明らかに高位な人物。対して向かい合う左側の青年は肩に長剣を持ち、おそらく右側の若者の臣下(部下)の身分。
この身分関係でやり取りが行われているシーンとして、この石製リュトン杯は広く「首領(かしら)のカップ」と呼ばれている。一方、臣下が右側の上司(プリンス?)へ何かの「説明や報告」を伝えている様を表現しているとして、クノッソス宮殿遺跡の発掘者・イギリス人考古学者サー・アーサー・エヴァンズ Sir Arthur J. Evans は、「Cup of the Report 報告のカップ」と呼んだ。
ほかの研究者の見解では、ミノア時代の文化風習の一つ、少年がある年齢に達した時、年長の青年からある種の「儀式」を受けるシーンを表現している、という説もある。

リュトン杯とは
「リュトン杯」はミノア文明やミケーネ文明の儀式・祭祀用、あるいは宮殿や高貴な人達の住居に置く装飾用の容器や彫刻された杯、現代で言えば、競技での勝利カップや記念盾に共通した装飾品である。
多くは陶器や石製、金や銀製、金と銀などの合金であるニエロ金属などで造られ、その形容とサイズは多種多様、文明を象徴する工芸美術の粋を行く美しい芸術作品であった。
リュトン杯に表現される絵柄や浮彫彫刻のモチーフは変化に富み、杯自体が宗教色が強い女神を初め、パワーの象徴の雄牛やライオンなど聖なる動物の形容の例も少なくない。特に石材が豊富であったクレタ島ミノア文明の石製リュトン杯では、浮彫彫刻だけでなく、無装飾で石材自体の自然色の紋様を活かし形容を重要視するタイプ、精緻な刻み直線だけで装飾された杯も多い。

そのほか、アギア・トリアダ遺跡からは、やはりステアタイト滑石(タルク)製の「ボクサーのリュトン杯 Boxer Rhyton」も出土している。
ハンドルを除き、円錐型の容器は高さ465mm、その外表面には上下四つに段区分されたスペースに色々なスポーツ的なシーンが浮彫彫刻されている。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・「ボクサー・リュトン杯」Boxer Rhyton, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡出土・石製《ボクサーのリュトン杯》
一段目=レスリング試合
二段目=雄牛飛びの刻み
三段目=ボクシング試合
四段目=ボクシング試合
後期ミノア文明LMIA期・紀元前1550年~前1500年
イラクリオン考古学博物館・登録番号498/高さ465mm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

四段区分の最上段のシーンはレスリングの試合、二段目は「雄牛跳び/牛飛び or 牛跳び」、三段と四段目のシーンはヘルメット無しの男性とヘルメットを装着した男性のボクシング試合を表現している。下方のボクシング試合から名を取り、「ボクサーのリュトン杯」と呼ばれているこの石製容器は、「新宮殿時代」の最盛期、後期ミノア文明LMIA期、紀元前1550年~前1500年頃の作品である。
四段のいずれのシーンも力強く躍動感あふれる表現で、ミノア人のスポーツ的なイベントが盛んであったことが推測でき、またその表現技法とミノア文明の石製容器の加工技術が非常に高かった事実を証明している。

また、ボクシングに関連して、エーゲ海のサントリーニ島のアクロティーリ遺跡・B地区・「家屋1」からは、《ボクシングをする少年達》のフレスコ画が見つかっている。二人とも腰ベルト以外は裸姿、当時の風習から頭部の一部は「剃り上げ」、長い髪が延びる。
二人とも背丈が実際より少し大きく描かれ(約155cm)、右少年は右手にグローブをはめ、左少年も右手にグローブをはめているが、上流階級の証しであるネックレース、アームレット、アンクレットを付けている。互いにグローブの右手が攻撃、素手の左手は防御だったかもしれない。

アクロティーリ遺跡・ボクシングの少年フレスコ画 Minoan Fresco, Boxing Young-boys, Akrotiri/©legend ej
アクロティーリ遺跡・住宅室内のフレスコ画
・片手グローブ《ボクシングをする少年達》
・市街地B地区・「家屋1」・南壁面の描画
アテネ国立考古学博物館・登録番号BE1974-26β
エーゲ海・サントリーニ島/描画:legend ej

エーゲ海先史 ミノア文明ミケーネ文明
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庶民の住んだ「ミノア市街地」

遺跡の見学入口を下り、幅があり保存状態の良い階段を北方へ下ると、アギア・トリアダの庶民が居住した「ミノア市街地 Minoan Town」の区域となる。「アゴラ・市場」とも呼ばれる市街地区域は、南北おおよそ70m、東西50mほどの広がりを見せている。
また、「準宮殿」と同様に、市街地区域も複数の時代の建造物が重なり合っていることから、遺構全体がやや複雑化されて残っている。区域のほぼ中央付近の家屋遺構(記録保管室?)から、幾らかのミノア文明の文字・線文字A粘土板が見つかっている。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・ミノア市街 Minoan Town, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡・庶民が住んだ「ミノア市街地」
左側=庶民の住宅&家屋/右側=列柱アーケード・柱礎&作業所群
クレタ島・メッサラ平野/1982年

市街地は南北に走る比較的幅の広い通りを挟み東西に二分割され、通りの西側一帯が庶民の住宅と家屋群となる。一方、通りの東側には南北の列で8基の角柱礎&9基の小型円柱礎が一つ置きに並び、列柱様式造りの仕様で配置されている。
列柱スペースの東側が分厚い壁面を残す「作業所 Work-shop」と呼ばれる整然とした建物群である。9部屋を数える作業所群は、おのおの大型ブロックの間口と、中間の一部屋を除き、奥行きがほぼ同一サイズの造りである。

作業所では、おそらく機織り作業や穀物の保管や仕分け、あるいは庶民が使う日常生活の道具や陶器の製作など、美術工芸品を作る工房に似た手仕事&作業が行われていた、と想定できる。
通りの脇に配置された列柱様式の造りを構成する角柱礎と小型円柱礎は、間違いなく作業所群との間に設けた屋根を支えていたと推測でき、現代で言う「アーケード」のような造りであった。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・ミノア市街 Minoan Town, Agia Triada/©legend e
アギア・トリアダ遺跡・庶民が住んだ「ミノア市街地」
列柱アーケードの柱礎&右側=作業所群
クレタ島・メッサラ平野/1982年

ほぼ100年前の発掘レポートでは、ミノア庶民が住んだ市街地と作業所群の年代は、後世に再居住した一部の家屋を除き、そのほとんどは「新宮殿時代」の最盛期、後期ミノア文明LMI期から「新宮殿時代」の末期である後期ミノア文明LMIIIA1期、紀元前1500年~前1375年に属するとしている。


アギア・トリアダ遺跡から出土品(陶器)

中期ミノア文明のメッサラ平野では、アギア・トリアダ遺跡も含め、陶器の表面装飾が絵柄だけでなく、ブツブツ・突起をつけたバーボタイン様式陶器 Barbotine Style が流行する。
個人的には、野生動物のワニやヒキガエルを連想させるようなやや違和感を覚える特異な装飾だが、アギオス・オヌフリオス様式陶器などのように非常に「短命」ではなく、結構長い間、人々に好まれた陶器であった。

ミノア文明・バーボタイン様式陶器・水差し Minoan Jag, Barbotine Style Ware, Messara Plain/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡出土・バーボタイン様式の水差し
器体=「ブツブツ装飾」/高さ155mm
中期ミノア文明MMII期・紀元前1800年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号5775
クレタ島・メッサラ平野/1982年


アギア・トリアダ遺跡・円形墳墓

作業所群の北端から北東50m~100m、二基のメッサラ様式の円形墳墓 Messara Style Circular Tomb が残されている。市街地区域に近い墳墓がやや小型の円形墳墓B、遠方が少し大きな円形墳墓Aである。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・円形墳墓A プラン図 Minoan Messara Style Circular Tomb A, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡・円形墳墓A・アウトラインプラン図
クレタ島・メッサラ平野/作図=legend ej

二つの円形墳墓ともに、円形の石積みの基礎部を残す程度の遺構となっているが、1903年、イタリア考古学チームの発掘ミッションでは、墳墓Bの内部から非常に高貴な身分の人が被葬されたと確証できる、見事なフレスコ画技法で彩色された石灰岩製の大型石棺が見つかった。

残念ながら石蓋は失われているが、石棺は長手方向の横幅1375mm、奥行き幅450mmの大型の長方体、頑丈な方形の大型脚を含め高さ985mmである。
脚を含め石棺全体が渦巻線・ロゼッタ紋様・色絵縞紋様の直線帯など多彩色で縁取り装飾され、四面の中心部には被葬者の身分と重要性を連想させる、フレスコ画技法の葬儀・葬送シーンの精緻な絵柄が描かれている。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・フレスコ画石棺 Stone Sarcophagus, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡・円形墳墓B出土・大型石棺
全面フレスコ画装飾/王族の葬儀・葬送シーン
石灰岩製/横幅1375mm・奥行き幅450mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号396
クレタ島・メッサラ平野/1996年

これほど大型の彩色石棺は、クレタ島ミノア文明の遺跡から過去に発見された例はない。石棺は「新宮殿時代」ではなく、後期ミノア文明LMIIIA2期、紀元前1375年より後の、間違いなく「占領ミケーネ人」の統治した時代の「王子」、または極めて重要な「王族」の埋葬に使われたと推定された。
また、間違いなく副葬されていたであろう豪華な宝飾品などは、歴史の中でそのほとんどが盗掘されていたとは言え、石棺と同時に複数の青銅製短剣や陶棺、テラコッタ製の女性塑像なども見つかっている。これらの出土品からは、被葬者は一人ではなく、円形墳墓Bは王家・王族の「家族埋葬墓」であったと判断されている。

石棺のフレスコ画は、葬送シーンであるにも関わらず「悲しみ」はなく、静かで尊厳な世界を表現すると同時に、ティアラと髪飾りを付け、豪華なドレス姿の女神、または高位な身分の姿勢正しき女性達の存在から、ある種の「優雅さ」さえも感じ取れる。

先ず、長手方向の正面描画では、生贄された動物を祭壇へ納めるシーンを表現している。右手には黒色の鳥がとまる大型の両刃斧が立てられ、渦巻紋様と聖なる雄牛角のU型オブジェで装飾された祭壇の周りには、聖なる樹の枝葉が飾られている。
祭壇へ向かい、羊革のロングスカートを履いた一人の長い髪の普通身分の女性が、ミノア様式の水差し容器とフルーツ・バスケットを奉納しようとしている。「点や縞」の紋様で描かれた羊革のロングスカート姿は参列者ではなく、現在の斎場セレモニースタッフと同じ立場の人達、葬儀進行の業務を行っている。

その後方からは、白色の背景の中、やや丈の短いスカート衣装の男性の吹くフルートの音に合わせるように参列者が続く。
黄色の背景の中、ティアラと羽飾りを付けた豪華なロングドレス姿の女神、または高位な女性が細く美しい長い指を伸ばし、生贄された一頭の雄牛をスカーレット色のロープで固定したテーブルを押しながら歩んでいる。生贄の雄牛から血が滴り落ち、テーブルの下には二頭の生贄のヤギも見える。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・フレスコ画石棺 Stone Sarcophagus, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡・円形墳墓B出土・石灰岩製の大型石棺
フレスコ画装飾(拡大)/女神(高位女性)・生贄の雄牛
イラクリオン考古学博物館・登録番号396
クレタ島・メッサラ平野/1996年

なお、テーブルを押す女神のさらに後方(左方)にも、上質なロングドレス姿の女性の素足が四人分描かれているが、紋様の異なるドレスの裾を除き、上部が欠損しているので、間違いなく上位な身分と予想できるが、女性達の詳細は分からない。ただし、参列者と葬儀スタッフ全員が「素足」であることも注目せねばならない。

反対側の長手方向の正面描画では、ほぼ中央で分割された異なる二つのシーンが描かれている。
左半分のシーンでは、左端にはハトの止まる大型の両刃斧が二本立てられ、その間には縞紋様の台座に大型容器が置かれている。羊革のロングスカートを履いた普通身分のセレモニースタッフ女性が何か、おそらくは雄牛の生贄の血を大型容器へ注いでいる。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・フレスコ画石棺 Stone Sarcophagus, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡・円形墳墓B出土・石灰岩製の大型石棺
全面フレスコ画装飾/生贄の雄牛血・供物(舟・動物)
イラクリオン考古学博物館・登録番号396
クレタ島・メッサラ平野/1996年

女性のさらに後方からはより豪華な衣装の、ティアラと髪飾りからして女神か、または高位な女性が天稟棒(てんびんぼう)を右肩に背負い、二個の円錐形容器(生贄血?)を持って歩む。さらにその後方にはロングガウン姿の男性楽師が7弦リラ(たて琴)を演奏しながら進んで行く。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・フレスコ画石棺 Stone Sarcophagus, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡・円形墳墓B出土・石灰岩製の大型石棺
フレスコ画装飾(拡大)/両刃斧と生贄の血の処理
イラクリオン考古学博物館・登録番号396
クレタ島・メッサラ平野/1996年

また、この正面描画の右半分のシーンでは、右端には渦巻線紋様の祭壇(墓?)があり、白色の背景の壁面、青色の聖なる樹の下では、金色のトリム(縁飾り)の羊革のロングガウン姿の、おそらくは被葬者である「足のない男性」が左を向いて立っている。
その左方からは羊革のロングスカートを履いた三人のセレモニースタッフ男性が、青色の背景の中、被葬者へ近付いて行く。うち二人の男性はそれぞれ両腕で茶色と黒色斑点のある仔牛(陶器像?)を一頭ずつ抱え、先頭を歩む男性は弓なり形状の舟の模型を携えている。
また、三人のセレモニースタッフ男性の姿は、肩と上半身がこちら側を向き、顔と下半身は進行方向を向く特徴的な「エジプト絵画」の技法で描かれている。

さらに石棺の両短側面にもやや狭い範囲だが、フレスコ画技法で描画が表現されている。片側のシーンは一頭の馬が引く二輪走行車に乗る二人の女神、反対側の描画では空に青い羽根の鳥が飛び、多彩色の羽を広げた仮想動物・「グリフィン」が引く二輪走行車に乗る二人の女神が描かれている。二輪走行車の女神が、亡くなった故人を天国へ誘導する宗教思想が背景にある、とも考えられる。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・フレスコ画石棺 Stone Sarcophagus, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡・円形墳墓B出土・大型石棺(側面)
馬が引く二輪走行車に乗る女神のフレスコ画
イラクリオン考古学博物館・登録番号396
クレタ島・メッサラ平野/1994年

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・フレスコ画石棺 Stone Sarcophagus, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡・円形墳墓B出土・大型石棺(側面)
グリフィンが引く二輪走行車に乗る女神のフレスコ画
イラクリオン考古学博物館・登録番号396
クレタ島・メッサラ平野/1994年

消石灰・漆喰&フレスコ画の技法
地中海の諸島や沿岸~内陸部まで何処にでも無尽蔵に存在する「石灰岩」を砕き、加塩で焼成した物質が白色の「生石灰」。生石灰を加水処理すると白色微粉末の「消石灰」となる。
水酸化カルシウムが主成分の消石灰を水で溶き、壁面や天井や床面に塗った状態を「漆喰」と呼ぶ。完全に水溶せず強いアルカリ性を呈する漆喰は調湿・消臭・防水・不燃性に富み殺菌作用もある。また、消石灰にやや多めの水を加えたのが「石灰水」である。

フレスコ画の語源はイタリア語、壁面や天井や床面を造成した後、基本的に白色漆喰で表面を施工、漆喰が乾燥しない間に石灰水と顔料で描画する技法を「フレスコ画」と呼ぶ。
顔料が遅乾性の漆喰の石灰層へ染み込み、ゆっくりと乾燥する時、石灰質が透明で強固なコーティング質を作り、最終的に描画の表面を保護する。

先史文明・音楽を奏でる
先史時代の管弦楽器の演奏では、クレタ島ミノア文明&ギリシア本土ミケーネ文明の遺跡からの出土品からも推測できる。
クノッソス宮殿遺跡やペロポネソス地方ネストル宮殿遺跡 Nestor Palace からのフレスコ画、あるいはアギア・トリアダ遺跡・円形墳墓から出土した彩色石棺の絵柄でも、7弦リラ(たて琴)や二管フルートを演奏するシーンが表現されている。
また、実際に使われていたシストラムや、水鳥の頭部を彫刻した石膏石製の7弦リラ(たて琴)の断片が、クレタ島内から出土している。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画 Playing Music Fresco, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡出土・フレスコ画・「音楽を奏でる人達」
水鳥デザインの7弦リラ(たて琴)&二管フルートの演奏者
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・クレタ島・7弦リラ Minoan Lire/©legend ej
ミノア文明・石膏石製・「7弦リラ(たて琴)」
イラクリオン考古学博物館・登録番号107(上)・179(下)
クレタ島/描画:legend ej

アルカネス遺跡・共同墓地から出土したテラコッタ製のシストルムは、手で振ることで三枚の円盤がカタカタ音を出し、共鳴胴の機能を果たす内部が中空のハンドルから響き音が出る仕組みであった。
また、シストルムでは上述の石製ベンチの部屋から出土した《刈取人夫達のリュトン杯》の行進列の中、一人の楽師が右手でシストルムを振り、列の歩行リズム&ペースを先導している姿を確認できる。

ミノア文明・アルカネス遺跡出土・楽器シストルム Minoan Clay Sistrum, Archanes/©legend ej
アルカネス遺跡・フォウルニ共同墓地出土・シストルム
子供埋葬ピトスの副葬品・テラコッタ製の楽器
紀元前2000年~前1900年/高さ18cm
イラクリオン考古学博物館・登録番号27695
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

大型石棺では、被葬者が立つ画面の左端に置かれている大型の両刃斧は、ミノア文明の複数の宗教的な崇拝シンボルの中で「最も神聖」とされていた。両刃斧の記号を刻んだ柱や壁面の場所、あるいは大型両刃斧が支持棒と共に石製角錐台に立ててあるスポットは、限られた人だけが接近を許される「特異な場所」を意味していた。
この点からして、アギア・トリアダ遺跡からの大型石棺の被葬者の身分と地位が連想できる。
ミノア文明の遺跡で特に青銅製の大型両刃斧が見つかっているのは、最東端のザクロス宮殿遺跡や北海岸のニロウ・カーニ遺跡からである。ニロウ・カーニ遺跡の内部聖所と推定される部屋からは、横幅120cmの青銅製の両刃斧が出土した。

ミノア文明・ニロウ・カーニ遺跡 ・青銅製の両刃斧 Bronze Ax, Nirou Khani/©legend ej
ニロウ・カーニ遺跡・聖所出土・青銅製の大型両刃斧
製作時 青銅製の両刃斧は白銀色~赤銅色を呈する
イラクリオン考古学博物館/最大横幅120cm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


イタリア・チームの発掘では、アギア・トリアダの円形墳墓から金製の宝飾品も出土している。金製ネックレースでは何か植物の種子をアレンジしたような形容の部品を連鎖させ、二種の涙滴型の部品を挟むような造りである。
三種のビーズ部品はそれぞれ「同じサイズ」にできていることから、ミノア文明のほかの遺跡からの出土品と同様に、すべて石製の型(モールド)で均一的に成形したと考えられる。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡出土・金製ネックレース Minoan Gold Necklace, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡・円形墳墓出土・金製ネックレース
中期ミノア文明MMIIIB期~後期ミノア文明LMIA期・紀元前1550年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号138
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

ミノア文明・金製ネックレース Minoan Gold Necklace/©legend ej
ミノア文明・各地遺跡出土・金製ネックレース
イラクリオン考古学博物館・宝飾品展示
クレタ島/1982年

ミノア文明・金製ネックレース・ロゼッタ形容 Minoan Gold Necklace, Rosette motif/©legend ej
ミノア文明・金製ネックレース・ロゼッタ形容
描画:legend ej

ミノア文明・金製ネックレース・パピルス形容 Minoan Gold Necklace, Papyrus motif/©legend ej
ミノア文明・金製ネックレース・パピルス形容
描画:legend ej

ミノア文明・金製ネックレース・アオイガイ形容 Minoan Gold Necklace, Argonauta Argo motif/©legend ej
ミノア文明・金製ネックレース・アオイガイ形容
描画:legend ej

ミノア文明の金製宝飾品・ネックレース・ビーズ
宮殿王家の関係者が埋葬されたクノッソス宮殿遺跡の北方、イソパタ遺跡・「王家の墳墓」やザフェール・パポウラ遺跡の共同墓地などから出土する金製ネックレースなどに典型を見るミノア文明の金製宝飾ビーズでは、パピルスの花を初めツタの葉、ユリの花、そしてアオイガイなどを形容したものが多い。
これらは石製の「型(モールド)」を使って、延ばした金の薄片を柔らかな細棒などで押し付け、同じ成形品を量産することができた。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・金製宝飾品の石製「型」 Stone Mold for making Gold Jewelry, Knossos Palace/Ashmolean Museum
クノッソス宮殿遺跡・工房区画出土・石製の「型」
金製ネックレース・ビーズ量産=パピルス・ユリの花・貝の「8の字」
滑石(ステアタイト)・横110mm/裏面=女神・ユリの花など
Ashmolean Museum, U. Oxford (UK)登録番号AN1910-522
※Sir Arthur John Evans 寄贈(1910年)

そのほか、アギア・トリアダ遺跡の円形墳墓の副室からは、複数の青銅製の装飾短剣が出土している。すべての短剣のハンドル(柄)は腐食して欠損していたが、少なくとも二本の短剣では各々三個の金製リベットが残留していた。短剣は中期ミノア文明MMIII期・紀元前1600年頃に属する。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・青銅製短剣 Minoan Bronze Dagger, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡・円形墳墓出土・青銅製の装飾短剣
中期ミノア文明MMIII期・紀元前1600年頃
イラクリオン考古学博物館/上=長さ220mm・下=長さ320mm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

アガメムノンの金製マスク》を初め限りないほどの金製宝飾品をもたらし、「黄金のミケーネ Mycenae Rich in Gold」と比喩される、ギリシア本土ミケーネ文明では全期間を通じ、統治者・王や王族&貴族階級など尊貴な人々は、常に「金 Gold」が同席した。
そして、クノッソス宮殿遺跡近郊のザフェール・パポウラ墓地遺跡からの豪華な青銅製の剣の出土例のように、紀元前1450年頃にクレタ島へ攻撃を仕掛け、ミノア文明の崩壊&衰退の原因をつくった「侵攻ミケーネ人」のクノッソス宮殿関連での埋葬では、金表装やニエロ金属で象がん装飾された青銅製の長剣&短剣の副葬は極普通に行われていた。

ミケーネ文明・ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A・《アガメムノンの金製マスク》Agamemnon's Gold Mask, Grave Circle A, Mycenae Palace/©legend ej
ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A出土・《アガメムノンの金製マスク》
後期ヘラディックLHI期・紀元前1550年~前1500年
アテネ国立考古学博物館・登録番号624/高さ315mm・重さ168.5g
ペロポネソス・アルゴス地方/1987年

ミノア文明・ザフェール・パポウラ遺跡出土・青銅製・装飾長剣 Minoan Bronze Long Sword,  Zafer Papoura, Knossos/©legend ej
ザフェール・パポウラ遺跡出土・青銅製の長剣
《首領の墳墓》・「C-type装飾剣」
・柄頭=象牙製・青銅製リベット固定
・柄~ショルダー=金製リベット固定
・青銅部=二列連鎖する渦巻き線刻印
イラクリオン考古学博物館/長さ955mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・ザフェール・パポウラ遺跡出土・青銅製短剣・金装飾 Minoan Bronze Sword, Gold Plate of Lion and Goat, Zafer Papoura, Knossos/©legend ej
ザフェール・パポウラ遺跡出土・青銅製の中型剣
《首領の墳墓》・「D-type装飾剣」
・柄頭=オニキス・メノウ・径44mm
・柄~ショルダー=金製リベット固定
・金表装=ヤギを襲うライオンの装飾
・青銅部=二列連鎖する渦巻き線刻印
イラクリオン考古学博物館・登録番号1098/長さ610mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


一方、芸術や精神文化に重点を置き、武力と戦いに無縁であったクレタ島ミノア文明では、概して装飾剣の副葬事例は多くはない。
アギア・トリアダ遺跡から出土した短剣類は、カマレス様式陶器が盛んに生産された時期とほぼ同じ、「旧宮殿時代」、中期ミノア文明MMI期~MMII期、比較的古い時代に製作されたとされる。可能性を追加するなら、短剣の所有者(被葬者)は「旧宮殿時代」のフェストス宮殿に関係する王族の身分の男性であったかもしれない。


アギア・トリアダ遺跡 周辺のミノア文明遺跡

円形墳墓B~南東50mの建物遺構から、テラコッタ製塑像や「聖所」の模型の飾り物など、ミノア文明の宗教的・精神文化を表す多くの出土品がもたらされた。
また、1957年、アギア・トリアダ遺跡~フェストス宮殿遺跡の間で実施された発掘ミッションでは、集合的な家屋群の遺構が確認され、陶器窯・キルンとされる遺構と多くの陶器類が出土した。

なお、「アギア・トリアダ」とはギリシア語の「三位一体」から付けられた名称、遺跡サイト~南西250mの平原に遺跡の名称の語源となったビザンティン時代(東ローマ帝国)のアギア・トリアダ礼拝堂がある。

アギア・トリアダ遺跡~南南西1.6km、メッサラ平野のカミラーリ村のオリーブ耕作地の中、標高の低い岩盤丘からメッサラ様式の円形墳墓が発掘されている。

ミノア文明・カミラーリ遺跡・円形墳墓 Messara Style Circlar Tomb, Kamilari/©legend ej
ミノア文明・カミラーリ遺跡・メッサラ様式の円形墳墓
クレタ島・メッサラ平野/1994年


「新メッサラ考古学博物館」開館
ゴルティス遺跡~西南西1km、フェストス宮殿遺跡~東北東11km、幹線道路N97号脇、2020年、「新メッサラ考古学博物館 New Archaeological Museum of Messara」が開館した。

GPS 新メッサラ考古学博物館: 35°03′36″N 24°56′16″E/標高160m

クレタ島・メッサラ平野・ミノア文明・プラタノス遺跡 周辺地図 Map of Minoan Archaeological Site at Messara/©legend ej
プラタノス村周辺・ミノア文明・遺跡 地図
クレタ島・メッサラ平野/作図:legend ej


メッサラ様式の「円形墳墓」とミケーネ様式の「トロス式墳墓」
初期ミノア文明の末期EMIII期・紀元前2200年~中期ミノア文明MMI期・紀元前1800年頃の、主にクレタ島南西部で流行した埋葬形式が、メッサラ様式の円形墳墓 Messara Style Circular Tomb である。

現在までのメッサラ平野周辺の発掘調査では、合計75墳墓を数えるメッサラ様式の円形墳墓が確認されている。
その主な発掘場所では、先ずゴルティス(ゴルティン)遺跡の北方のカラティアーナ遺跡周辺、フェストス宮殿遺跡アギア・トリアダ遺跡周辺、プラタノス遺跡周辺、コウマサ遺跡周辺、さらにリビア海岸のレンダス Lendas ~海岸沿いに西方のカロイ・リメネス Kaloi Limenes~聖ファランゴ渓谷 Agio Farango ~ Odigitrias修道院周辺などに点在する。
ただ確認された円形墳墓の数で言えば、コウマサ遺跡周辺と聖ファランゴ渓谷 Agio Farango とその周辺に集中している。

メッサラ様式の円形墳墓の構造形式が、後にギリシア本土で流行するミケーネ様式のトロス式墳墓 Mycenaean Tholos Tomb へ発展したと考えられている。
ミケーネ様式のトロス式墳墓では、流行初期にはクレタ島に距離的に近いペロポネソス・メッセニア地方で小型サイズの墳墓が造られた。その後、ミケーネ文明の発展と同期するように、ミケーネ文明の前半、後期ヘラディックLHI期・紀元前15世紀頃には、ミケーネ宮殿周辺などアルゴス地方や中部ギリシア地方の文明センターでも大型サイズのトロス式墳墓が造営されるようになった。

埋葬の使用期間が数世紀~1,000年単位の長期となった大型のメッサラ様式の円形墳墓では、当初、フェストス宮殿の王族や貴族階級の人々の埋葬に使われた。その後、紀元前1450年頃、ギリシア本土からクレタ島へ攻撃を仕掛けた「侵攻ミケーネ人」によりミノア宮殿システムが破壊された後には、カミラーリ遺跡・円形墳墓Aが典型例であるように、円形墳墓は庶民の埋葬にも使われて来た。
一方、ミケーネ文明では、特に大型のトロス式墳墓においては、ほとんどすべての墳墓が地域を統治した王族や貴族など、高位な身分階級の人達の埋葬に限定的に使われてきた。

構造仕様は言及せずに単純に「トロス内径」だけを比較した場合、時代的に早いメッサラ様式の円形墳墓より、ミケーネ様式のトロス式墳墓の方が遥かに大型サイズであることが分かる。代表的な墳墓とトロス内径を挙げるなら;

メッサラ様式の円形墳墓
プラタノス遺跡・円形墳墓A:トロス内径13m(クレタ島最大級)
プラタノス遺跡・円形墳墓B:トロス内径10m
カミラーリ遺跡・円形墳墓A:トロス内径7.6m
コウマサ遺跡・円形墳墓B:トロス内径9.5m

ミケーネ様式のトロス式墳墓
ミケーネ遺跡・「アトレウスの宝庫」:トロス内径15m(ギリシア本土最大級)
オルコメノス遺跡・「ミニュアースの宝庫」:トロス内径14m
カコヴァトス遺跡・トロス式墳墓A:トロス内径14m
ペリステリア遺跡・トロス式墳墓2号墓:トロス内径12m
ヴァフィオ遺跡・トロス式墳墓:トロス内径10m

ミケーネ文明・ミケーネ遺跡・「アトレウスの宝庫」Atreus Tholos Tomb, Mycenae Palace/©legend ej
世界遺産/ミケーネ遺跡・「アトレウスの宝庫」
ミケーネ様式のトロス式墳墓最大級/トロス内径=15m
ペロポネソス・アルゴス地方/1982年

ミケーネ文明・オルコメノス遺跡・トロス式墳墓 Mycenaean Tholos Tomb, Orchomenos/©legend ej
オルコメノス遺跡・「ミニュアースの宝庫」
内径=14mのトロス内部~入口
ボイオティア地方/1982年


ミケーネ文明・ペリステリア遺跡・トロス式墳墓2号墓 Mycenaean Tholos Tomb, Myron-Peristeria/©legend ej
ペリステリア遺跡・ミケーネ様式のトロス式墳墓・2号墓
ランダム石材の構造/トロス内径=12m
ペロポネソス・メッセニア地方/1987年


ミケーネ文明・ヴァフィオ遺跡・トロス式墳墓 Mycenaean Tholos Tomb, Vaphio/©legend ej
ヴァフィオ遺跡・ミケーネ様式のトロス式墳墓(1982年)
スパルタ・メネライオス王家の墳墓/トロス内径=10m
ペロポネソス・ラコニア地方/描画:legend ej

なお、スパルタ近郊・ヴァフィオ遺跡の「メネラオス王家」のトロス式墳墓からは、クノッソス宮殿・金属工房で製作され、王家へ贈呈されたと推測できるミノア様式の見事な金製カップが出土している。

ミケーネ文明・ヴァフィオ遺跡・金製カップ Gold Vaphio Cup/©legend ej
スパルタ近郊ヴァフィオ遺跡出土・金製カップ(動的シーン)
アテネ国立考古学博物館・登録番号1758/口縁径108mm
ペロポネソス・ラコニア地方/1982年


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