2020/08/29

ミノア文明・カミラーリ遺跡 Kamilari


ミノア文明・メッサラ様式の円形墳墓の発掘

位置 クレタ島・メッサラ平野
アギア・トリアダ遺跡~南南西1.6km・フェストス宮殿遺跡~南西2.6km
GPS
カミラーリ遺跡: 35°02′43″N 24°47′13″E/標高60m

フェストス宮殿遺跡の発掘を担当したイタリア考古学チーム(アテネ)が、1959年、メッサラ平野のカミラーリ村 Kamilari の北方周辺で発掘ミッションを実施、サイズの異なる三基のミノア文明・メッサラ様式 Messara Style の円形墳墓(墳墓A・墳墓B・墳墓C)を発見した。

三基の円形墳墓は何れも過去に盗掘されていたことから、金銀財宝など宝飾品の出土はない。
特にサイズが最大規模の円形墳墓Aが、保存状態が最も良い墳墓であった。墳墓Bは墳墓A~東方850m付近(埋め戻し)、そして墳墓Cは墳墓A~南南西850m、オリーブ耕作地にトロス部の基礎部のみ残存している。

クレタ島南西部・メッサラ平野・ミノア文明・遺跡 地図 Map of Minoan Archaeological Sites at Messara/©legend ej
クレタ島南西部・メッサラ平野・ミノア文明・遺跡 地図
作図:legend ej

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡&周辺 地図 Minoan Site, Map around Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡 周辺・ミノア文明遺跡 地図
クレタ島・メッサラ平野/作図:legend ej


円形墳墓Aの位置

カミラーリ村はフェストス宮殿遺跡やアギア・トリアダ遺跡の南方、殆んど平坦で広大な豊穣なる農耕地が展開するメッサラ平野の西部地区である。
カミラーリ村~北北西1.4km付近、周囲が全面オリーブ耕作地の中に、地元で「グリゴリ・コリフィ Grigori Koryphi」と呼ばれ、間近に接近しなければ目に留まらないほどの「岩盤の丘」がある。


ミノア文明・カミラーリ遺跡・円形墳墓A/Google Earth
カミラーリ遺跡・円形墳墓A周辺
クレタ島・メッサラ平野
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入

ミノア文明・カミラーリ遺跡・円形墳墓 Messara Style Circlar Tomb, Kamilari/©legend ej
ミノア文明・カミラーリ遺跡・メッサラ様式円形墳墓
クレタ島・メッサラ平野/1994年

カミラーリ遺跡を代表するメッサラ様式の円形墳墓Aは、周囲半径100mの範囲では西~北方から標高差15m~10mほど高く、東方から5mほど高く、そして南方では墳墓と同じ標高差、わずかに盛り上がりながら北方へ張り出した岩盤、グリゴリ・コリフィの丘の頂点で発見された。

オリーブの巨木
円形墳墓A~北東約1km、フェストス宮殿遺跡~南西1.6km付近のオリーブ耕作地の中に、地元で「オリーブの母 Mana Elia/Mother Olive」と呼ばれる樹齢2,800年とされる、根本回り約9.5m、直径約3mのオリーブの巨木が残されている。
クレタ島ではオリーブやプラタナスの巨木&老木を各地で見ることができる。オリーブの樹では、グルーニア遺跡~東方6kmのオリーブ産地・カヴォウシ村 Kavousi の樹齢3,250年の老木、西部地方の中心地ハーニア~南西13kmのヴォトラッコス村 Votolakkos の樹齢2,000年、同じくハーニア~西南西21kmのアノ・ヴォウヴェス村 Ano Vouves の樹齢2,000年(4,000年説も)などの老木も有名である。島内のオリーブの巨木&老木を巡るトレッキングツアーも企画されるほど、クレタ島では「巨木ハンター」も大勢居る。

「新メッサラ考古学博物館」開館
ゴルティス遺跡~西南西1km、フェストス宮殿遺跡~東北東11km、幹線道路N97号脇、2020年、「新メッサラ考古学博物館 New Archaeological Museum of Messara」が開館した。

GPS 新メッサラ考古学博物館: 35°03′36″N 24°56′16″E/標高160m

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円形墳墓Aの被葬者は誰か?


当初、地理的な条件からして、円形墳墓Aの被葬者は「旧宮殿時代」のフェストス宮殿(北東へ2.6km)、またはアギア・トリアダ準宮殿(北北東へ1.6km)に居住した、王の家族や親族など宮殿に関わる尊貴の人達であった、と考えられていた。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・大階段周辺
クレタ島・メッサラ平野/1982年

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡 Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡
左側=市街地区域/右側=「準宮殿」の区域
クレタ島・メッサラ平野/1982年


ミノア文明&ミケーネ文明 編年表/©legend ej
クレタ島ミノア文明&ギリシア本土ミケーネ文明 編年表
・ミノア文明・「旧宮殿時代」: 紀元前1900年~前1625年
・ミノア文明・「新宮殿時代」: 紀元前1625年~前1375年
ミケーネ文明(時代):  後期ヘラディック文明 LH期
作図:legend ej

しかし、最近の出土品の分析では、円形墳墓Aの建造は「旧宮殿時代」の初め、中期ミノア文明MMIB期・紀元前1900年期とされ、中期ミノア文明MMII期、さらに「新宮殿時代」の初めの中期ミノア文明MMIII期まで約3世紀に渡って使われた、と断定されている。
その後、わずかなインターバルを経て「新宮殿時代」の最盛期、後期ミノア文明LMI期にも埋葬があり、加えるに「侵攻ミケーネ人」によりフェストス宮殿やアギア・トリアダ準宮殿が破壊される、後期ミノア文明LMIB期が終わる紀元前1450年前後にも使われた。
そうして円形墳墓Aでは、クレタ島が「占領ミケーネ人」の統治の時代に入った、中期ミノア文明LMII期以降~クノッソス宮殿が崩壊する、後期ミノア文明LMIIIA1期・紀元前1375年頃まで、さらに紀元前1300年頃にも断続的に埋葬が行われていた、とされる。

この結果、墳墓が建造された「旧宮殿時代」の初期~「新宮殿時代」の最盛期までは、フェストス宮殿とアギア・トリアダ準宮殿に関係する王族や貴族階級など、比較的高貴な身分の人達の埋葬に使われていた。
その後、後期ミノア文明LMII期が始まる紀元前1450年以降、「占領ミケーネ人」の統治の時代ではクノッソス宮殿以外、フェストス宮殿を含めほかの三か所のミノア宮殿は破壊され、宮殿関係者の存在がほぼ消滅したことから、円形墳墓Aはカミラーリの居住地の庶民の埋葬墳墓へと変容した、と推定されている。

メッサラ様式の円形墳墓を専門とする研究者は、「旧宮殿時代」~「新宮殿時代」に連続して数世紀間、その後やや断続的に使われた円形墳墓Aでは、累計400人最大500人の埋葬が行われた、と推計している。

メッサラ様式の「円形墳墓」とミケーネ様式の「トロス式墳墓」
初期ミノア文明の末期EMIII期・紀元前2200年~中期ミノア文明MMI期・紀元前1800年頃の、主にクレタ島南西部で流行した埋葬形式が、メッサラ様式の円形墳墓 Messara Style Circular Tomb である。

現在までのメッサラ平野周辺の発掘調査では、合計75墳墓を数えるメッサラ様式の円形墳墓が確認されている。
その主な発掘場所では、先ずゴルティス(ゴルティン)遺跡の北方のカラティアーナ遺跡周辺、フェストス宮殿遺跡アギア・トリアダ遺跡周辺、プラタノス遺跡周辺、コウマサ遺跡周辺、さらにリビア海岸のレンダス Lendas ~海岸沿いに西方のカロイ・リメネス Kaloi Limenes~聖ファランゴ渓谷 Agio Farango ~ Odigitrias修道院周辺などに点在する。
ただ確認された円形墳墓の数で言えば、コウマサ遺跡周辺と聖ファランゴ渓谷 Agio Farango とその周辺に集中している。

メッサラ様式の円形墳墓の構造形式が、後にギリシア本土で流行するミケーネ様式のトロス式墳墓 Mycenaean Tholos Tomb へ発展したと考えられている。
ミケーネ様式のトロス式墳墓では、流行初期にはクレタ島に距離的に近いペロポネソス・メッセニア地方で小型サイズの墳墓が造られた。その後、ミケーネ文明の発展と同期するように、ミケーネ文明の前半、後期ヘラディックLHI期・紀元前15世紀頃には、ミケーネ宮殿周辺などアルゴス地方や中部ギリシア地方の文明センターでも大型サイズのトロス式墳墓が造営されるようになった。

ミノア文明・円形墳墓&ミケーネ文明・トロス式墳墓 Minoan Circular Tomb and Mycenaean Tholos Tomb/©legend ej
ミノア文明・円形墳墓&ミケーネ文明・トロス式墳墓
・ミノア・メッサラ様式の円形墳墓(地上式)
・ミケーネ様式のトロス式墳墓(半地下式)
・ミケーネ様式のトロス式墳墓(地下式)
作図:legend ej

埋葬の使用期間が数世紀~1,000年単位の長期となった大型のメッサラ様式の円形墳墓では、当初、フェストス宮殿の王族や貴族階級の人々の埋葬に使われた。その後、紀元前1450年頃、ギリシア本土からクレタ島へ攻撃を仕掛けた「侵攻ミケーネ人」によりミノア宮殿システムが破壊された後には、カミラーリ遺跡・円形墳墓Aが典型例であるように、円形墳墓は庶民の埋葬にも使われて来た。
一方、ミケーネ文明では、特に大型のトロス式墳墓においては、ほとんどすべての墳墓が地域を統治した王族や貴族など、高位な身分階級の人達の埋葬に限定的に使われてきた。

構造仕様は言及せずに単純に「トロス内径」だけを比較した場合、時代的に早いメッサラ様式の円形墳墓より、ミケーネ様式のトロス式墳墓の方が遥かに大型サイズであることが分かる。代表的な墳墓とトロス内径を挙げるなら;

メッサラ様式の円形墳墓
プラタノス遺跡・円形墳墓A:トロス内径13m(クレタ島最大級)
プラタノス遺跡・円形墳墓B:トロス内径10m
カミラーリ遺跡・円形墳墓A:トロス内径7.6m
コウマサ遺跡・円形墳墓B:トロス内径9.5m

ミケーネ様式のトロス式墳墓
ミケーネ遺跡・「アトレウスの宝庫」:トロス内径15m(ギリシア本土最大級)
オルコメノス遺跡・「ミニュアースの宝庫」:トロス内径14m
カコヴァトス遺跡・トロス式墳墓A:トロス内径14m
ペリステリア遺跡・トロス式墳墓2号墓:トロス内径12m
ヴァフィオ遺跡・トロス式墳墓:トロス内径10m

ミケーネ文明・ミケーネ遺跡・「アトレウスの宝庫」Atreus Tholos Tomb, Mycenae Palace/©legend ej
世界遺産/ミケーネ遺跡・「アトレウスの宝庫」
ミケーネ様式のトロス式墳墓最大級/トロス内径=15m
ペロポネソス・アルゴス地方/1982年

ミケーネ文明・オルコメノス遺跡・トロス式墳墓 Mycenaean Tholos Tomb, Orchomenos/©legend ej
オルコメノス遺跡・「ミニュアースの宝庫」
内径=14mのトロス内部~入口
ボイオティア地方/1982年


ミケーネ文明・ペリステリア遺跡・トロス式墳墓2号墓 Mycenaean Tholos Tomb, Myron-Peristeria/©legend ej
ペリステリア遺跡・ミケーネ様式のトロス式墳墓・2号墓
ランダム石材の構造/トロス内径=12m
ペロポネソス・メッセニア地方/1987年


ミケーネ文明・ヴァフィオ遺跡・トロス式墳墓 Mycenaean Tholos Tomb, Vaphio/©legend ej
ヴァフィオ遺跡・ミケーネ様式のトロス式墳墓(1982年)
スパルタ・メネライオス王家の墳墓/トロス内径=10m
ペロポネソス・ラコニア地方/描画:legend ej

なお、スパルタ近郊・ヴァフィオ遺跡の「メネラオス王家」のトロス式墳墓からは、クノッソス宮殿・金属工房で製作され、王家へ贈呈されたと推測できるミノア様式の見事な金製カップが出土している。

ミケーネ文明・ヴァフィオ遺跡・金製カップ Gold Vaphio Cup/©legend ej
スパルタ近郊ヴァフィオ遺跡出土・金製カップ(動的シーン)
アテネ国立考古学博物館・登録番号1758/口縁径108mm
ペロポネソス・ラコニア地方/1982年


マターラ海岸 Matala Beach
イラクリオン発・メッサラ平野方面への路線バスは、フェストス宮殿遺跡やカミラーリ村などを経由、終点のマターラ海岸へ向かう。
クレタ島南西部の海岸、交通アクセスに難があるが、マターラ海岸は今ではクレタ島有数のビーチとして知られている。地球の地質時代に遡る石灰岩の巨大な地層がむき出した尾根が海へ迫り出し、小さなマターラ湾を形成している。

クレタ島南西部・マターラ海岸/(C)legend ej
クレタ島・マターラ海岸
石灰岩の巨大な地層尾根が迫り来る
クレタ島・南西部/1994年

石灰岩の崖に新石器文化の痕跡も残るマターラ海岸は、フェストス宮殿遺跡の東方12kmの古代ゴルティス(ゴルティン) Gortyn の港であった。ゴルティス(ゴルティン)遺跡はマターラ海岸~北東約20kmに位置している。

古代ギリシア文明・ゴルティス(ゴルティン)遺跡 Gortyn, Crete/©legend ej
古代ゴルティス(ゴルティン)遺跡
クレタ島・メッサラ平野/1982年


コモス居住地遺跡 Kommos
マターラの石灰岩の地層尾根を越えた北方2.5kmの海岸には、コモス居住地遺跡があり、この浜辺もツーリストからキレイな海の「古代ビーチ」として知られている。

クレタ島・メッサラ平野・コモス遺跡海岸/©legend ej
コモス遺跡の海岸・「古代ビーチ」
今日 サーファーに人気のビーチとして知られている
地層半島の向こう側が賑わうマターラ海岸のビーチ
クレタ島・南西部/1994年

リビア海に開けたコモス居住地は、フェストス宮殿やカミラーリ居住地の舟着き場の一つであったとされ、クノッソス宮殿遺跡の発掘者サー・アーサー・エヴァンズは、この地にフェストス宮殿の海外交易の管理を行う「税関」が存在した可能性を主張している。
コモスでは紀元前2000年頃から居住され、メッサラ平野に点在するほかのミノア文明の居住地に同調して発展してきた。その後、紀元前1650年頃、クレタ島で大きな地震が発生、文明センターのクノッソスやフェストスの旧宮殿などが大きな被害を被ったが、この地震でコモス居住地も破壊された。
直後、クノッソス宮殿やフェストス宮殿などが再建され、ミノア文明の大繁栄の「新宮殿時代」が始まり、コモス居住地も再建され、その後、紀元前1世紀頃のヘレニズム時代まで居住が継続した。

ミノア文明・コモス遺跡 Minoan Kommos Settlement/©legend ej
コモス遺跡(発掘中)
クレタ島・南西部/1994年

コモス遺跡の発掘は1976年~1996年まで実施され、ミノア文明の家屋を初め、公共的な建物、中庭を含めやや上質な住宅、大型の貯蔵庫、オリーブ油の搾り装置なども出土、より後世の古代ギリシアの聖域跡も確認されている。
訪ねた1994年、発掘中の区画もあったが、海岸に沿って南北180m、東西70m規模のサイトは公開されていた。ただ、紀元前16世紀~前1世紀の遺構が混在することから、捉えどころがなく個人的には関心が「やや散漫する遺跡」の印象を覚えた。

居住が長期に及んだことから、陶器などを中心に各時代の物品が多数出土したが、「新宮殿時代」の初め、中期ミノア文明MMIIIB期・紀元前1600年~前1550年頃に属する水入れも見つかっている。この時代の典型的な器形の一つ、ブリッジ型注ぎ口付きの安定感のある容器である。
残念ながら、わずかに横帯線と曲線紋様が確認できるが、全体を装飾していたであろう絵柄が消えてしまい、オリジナルの装飾モチーフが不明だが、おそらくは典型モチーフの太い帯線や渦巻き線、さらに花をやや抽象化したアレンジ・モチーフが暗褐色で表現されていたであろう。

ミノア文明・コモス遺跡・ブリッジ型注ぎ口つき水入れ Minoan Bridge-spouted Jar, Kommos/©legend ej
コモス遺跡・中央丘陵・部屋25室出土・ブリッジ型注ぎ口付き水入れ
中期ミノア文明MMIIIB期・紀元前1600年~前1550年
イラクリオン考古学博物館・登録番号C-2373/高さ138mm
クレタ島・南西部/描画:legend ej

バロス・ラグーン(ビーチ) Balos Lagoon
クレタ島で美しいビーチで過ごすなら、ギリシアと言わずヨーロッパでも知られている真っ白な砂のビーチがある。最北西部、樹木のないプラティスキノス山地(標高670m)が形成する半島のほぼ先端、バロス・ラグーンである。
ただし、人々に「トルコ石の色・ターコイズブルー」と比喩されるこの美しい砂州ビーチは、西部地方の中心地ハーニア~西北西40km、最も近い村 Kalivian~8km、交通アクセスに難がある秘境である。
車なら半島の東側・標高160m付近のパーキングまで、その後徒歩で岩の山道を約1km下り接近(帰りは同じ山道を標高160mまで1km登る)、車や徒歩を避けたい人なら、現在、半島の東側・フェリー港キサモス Kissamos から観光船が出航している。
かつて1980年代では地元の人さえも訪ねることがない「ただの浅瀬の海」であったが、今や世界は観光ブーム、「美しいスポット」なら何処でも誰でも「一度は訪ねたい」の時代となり、特に5月~10月、イラクリオン近郊のミノア文明・クノッソス宮殿遺跡と並び、乾燥した夏のクレタ島の絶大人気のスポットとなっている。また、ハネムーンでバロス・ラグーンを訪れるヨーロッパのカップルも居る。

クレタ島・バロス・ラグーン(ビーチ)
バロス・ラグーン(砂州ビーチ)
クレタ本島~バロス島=500mに広がる真っ白な砂の浅瀬
クレタ島・最北西部・プラティスキノス半島

GPS
マターラ海岸: 34°59′39″N 24°44′59″E/浜辺
ゴルティン遺跡: 35°03′45″N 24°56′50″E/標高165m
コモス遺跡: 35°00′47″N 24°45′39″E/標高10m
バロス・ラグーン(砂州ビーチ): 35°35′00″N 23°35′21″E/浜辺

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円形墳墓Aの構造

円形墳墓Aでは、墳墓建造にあたり、事前に石灰岩の岩盤を平坦に削った後、石材の積み上げを行った。トロス部の東側に前室を初め、葬儀の用具室や古い遺骨の納骨室など複数の部屋からなる付属施設を備えた、この墳墓構築に使われた石材は完璧な切石施工ではない。

訪ねた1994年の簡易測定では、円形墳墓Aのトロス部の内径は約7.6m(発掘レポート=765cm)、ランダム石材だが丁寧に積み上げられたトロス壁面の基礎部の厚さも約1.4m~最大1.7mほどである。また、トロス部の円形壁面の残存高さでは、北~西~南側で130cm~190cm前後、特に東側にある入口より少し南側付近では最高210cmであった。

ミノア文明・カミラーリ遺跡・円形墳墓Aプラン図 Circular Tomb A-Plan, Kamilari/(C)legend ej
カミラーリ遺跡・円形墳墓A・アウトラインプラン図
クレタ島・メッサラ平野/作図:legend ej

トロス部中心から見た入口はメッサラ様式・円形墳墓の「標準」である東側にあり、持参コンパス=N75°(東北東)の向きで前室へ開口されていた。
簡易測定ではトロス部の入口幅=75cm、高さ=120cm、奥行き=160cm、入口上部にセットされたリンテル石は厚さ約60cmの大型石材が使われ、この周辺の一部が最も高さのある残存壁面となる。

トロス部の東側に接合された色々な用途の付属施設では、5部屋~6部屋が集合的に配置されている。施設の北東端に入口となる小さな部屋があり、その西側にやや大きな部屋が並び、その南側口から細長い通路状の空間を経て、トロス部入口の直ぐ東側に配置された南北に細長い前室となる。
また、前室の南側、岩盤との間に東西に長い変形部屋が付属され、これは古い埋葬骨を集めた納骨室と推測できる。

ミノア時代では、トロス部はドーム状の石積み天井、付属施設にもフラットな天井があったことから、窓のない狭い部屋を抜け、右折&左折を四回繰り返してようやくトロス部入口に至ったことから、付属施設~トロス内部ではランプ照明が必要であった。
数世紀に渡り最大500人の埋葬に使われたことから、円形墳墓Aではトロス部での埋葬が満杯になった場合、新しい埋葬を優遇させることから、古い遺骨は前室の南側の納骨室へ移された。
また、無数の陶器と石製品などの出土のほとんどは、トロス内部を初め、前室と用具室内、さらにトロス部と付属施設の外側などから、さらに付属施設の北側にわずかに広がる舗装中庭からも発掘されている。


円形墳墓Aの出土品・無数の陶器&石製品

円形墳墓Aでは、埋葬部である内径765cmのトロス内部、さらに東側の付属施設からも含め、水差しなど500器以上の多種の容器類、そして500器の円錐カップ、100器の石製品、19個の石製印章などが出土した。

出土陶器のうち、保存状態が良好な作品ではアラバストロン型容器がある。口縁部と頸部は暗色色彩、肩部付近にはジグザグ線と押し潰したような横長楕円形の紋様が描かれている。さらに腹部全体には傾斜の枠線が引かれ縦菱形のスペースを作り、合計150個ほど、ローマ字の「A」の横線がカーブしたような幾何学紋様で埋め尽くされている。
器形と絵柄デザインから、アラバストロン型容器の製作年代はフェストス宮殿の宮殿システムが崩壊した後期ミノア文明LMIB期・紀元前1450年より後世、円形墳墓Aが宮殿関係者の埋葬から庶民の墳墓へと転換した、後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年と考えられる。

ミノア文明・カミラーリ遺跡・アラバストロン型容器 Minoan Alabastron Vase, Kamilari/©legend ej
カミラーリ遺跡・円形墳墓A出土・アラバストロン型容器
後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

円形墳墓Aからの印章では、全体的には直線と曲線のやや単純な幾何学的な表現が多い中で、水晶(クリスタル)製の印章が見つかっている。
円形墳墓内部ではなく、付属施設の中央北側の「部屋β」からの出土とされる、この外観曲線が美しい印章は日本酒の「徳利」に似た形状、上部のくびれ部分に紐を通す小穴がある。底部の印面は円形、「ボロミアン環 Borromean Ring」に似た視覚的にバランスが良く、非常に美しいと言える構図を成す「三つ輪」の重なりを表現している。

印章の製作は「旧宮殿時代」の後半期、中期ミノア文明MMIIB期・紀元前1700年~「新宮殿時代」の初めとなる中期ミノア文明MMIIIA期・紀元前1600年頃とされる。多くの石製印章は軟石の滑石・ステアタイトが使われているが、硬質の貴重な水晶が素材であり、所有者(被葬者)は比較的高位な人であったかもしれない。
また、印章の「三ツ輪」の表現では、同じ水晶製の印章がサー・アーサー・エヴァンズの発掘によりアルカネスの遺跡から出土している。

ミノア文明・カミラーリ遺跡・水晶製の印章 Minoan Crystal Seal, Circular Tomb of Kamilari/©legend ej
カミラーリ遺跡・円形墳墓A出土・水晶製の印章
印面=円形・「三つ輪」の刻み
中期ミノア文明MMIIB期~MMIIIA期・紀元前1700年~前1600年
イラクリオン考古学博物館・登録番号2167/直径18mm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

ミノア文明・アルカネス遺跡・水晶製の印章 Minoan Crystal Seal, Archanes/©legend ej
アルカネス遺跡出土・水晶製の印章
印面=円形・「三ツ輪」の刻み
中期ミノア文明MMIA期・紀元前2000年~前1900年/直径12.5mm
Ashmolean Museum, U. Oxford (UK)
登録番号AN1938-785
※Sir Arthur John Evans 寄贈(1938年)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

予想を遥かに超えた数量の出土品の中、特に250器の水差し容器と100器の石製水差しと容器は、ほとんどが墳墓の建造直後、「旧宮殿時代」の中期ミノア文明MMIB期~MMII期に遡る、古い埋葬時の副葬品とされる。
また、不思議なことに、出土した容器類の内、ハンドルが付いていない簡素な形容、無数の小型円錐カップのほとんどは「新宮殿時代」の初め、中期ミノア文明MMIIIA期~IIIB期、約100年間の埋葬で副葬されたと断定され、内わずか25年間のMMIIIA期の円錐カップだけで約400器を数えた、とされている。

なお、墳墓の外側の舗装広場で見つかった後期ミノア文明に属する小型円錐カップと石製容器は、何故か「逆さま」に伏せた状態で出土している。この意味は墳墓への遺体の埋葬前または後に、舗装広場では親近者が聖なるワインなどを飲み、故人を悼む何か儀式のようなものが営まれたことを連想させる。

カミラーリ遺跡・円形墳墓Aでは大量の石製円錐カップが見つかっているが、当地から東方13kmの距離、メッサラ様式の「最大級」とされるプラタノス遺跡の円形墳墓では、円錐カップは皆無であったが、数百点の「ぐい呑み」のような円筒の小型石製容器や象牙・カバ牙製を含め無数の印章が出土している。

ミノア文明・プラタノス遺跡・円形墳墓A&B Messara Style Circular Tomb, Platanos/©legend ej
プラタノス遺跡・メッサラ様式の「最大級」の円形墳墓A
内径13m・円形墳墓Aの向こう側=内径10m・円形墳墓B
クレタ島・メッサラ平野/1982年

プラタノス遺跡の円形墳墓Bからは、古代エジプトや中東地域との交流を示す注目されるべき出土品がもたらされた。紀元前18世紀~前17世紀、中東地域から輸入された、硬質石材の赤鉄鉱石(ヘマタイト)の円筒型のバビロニア印章が確認されている。

ミノア文明・プラタノス遺跡・円形墳墓B出土・バビロニア印章 Babylonian Stone Seal, Minoan Platanos, Messara/©legend ej
プラタノス遺跡・円形墳墓B出土・円筒型のバビロニア印章
赤鉄鉱石/古代バビロン・ハンムラビ王の統治時代
三行碑文・女神イシュタル・王(高位男性)・下位女神(上位女性)
イラクリオン考古学博物館・登録番号1098/縦24mm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

この円筒型の印章は、有名な《ハンムラビ法典 Code of Hammurabi》の制定者でもある、メソポタミアの都市国家バビロン・第六代ハンムラビ王(Hammrabi バビロン帝国・初代王)の時代の作品とされ、外周印面には縦三行の碑文が刻印、その右側には武器を背負いローブを羽織ったシュメール神話の美・愛・戦争の高位女神《イシュタル》が立っている。
イシュタル神の右手には長い湾曲刀(三日月刀)、左手には権標(権威棒)が捧げられ、左足はライオン頭のワシを踏み付けている。イシュタル神の右側の台座の上には権標(権威棒)を携えた戦闘帽の王(or 高位男性)が立ち、その後ろには衣装からして下位の女神(or 普通の上位女性)が両手を捧げ女神に敬意を示している。
神や統治者・王などの前で上位階級を含め崇拝者や一般庶民が敬意を示す崇敬シーンは、古代バビロニアでは円筒型印章の標準的な表現モチーフであった。



円形墳墓A・特徴的な塑像の出土品

円形墳墓Aからの出土品は、現在、イラクリオン考古学博物館で展示公開されている。
その内、特に興味深い出土品では、「新宮殿時代」が終焉するクノッソス宮殿の崩壊前後を含め、後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年頃、この墳墓の「最後の埋葬」の副葬品である、テラコッタ製の模型的な塑像三個(基)がある。何れの塑像も死者への供養を表現する宗教観の強い像と言える。

一つ目の塑像では、円形のテーブルを挟み、上半身が欠損しているが後ろ向きの「死者」に向き合うように、一人が供物を差し出している。その後方では部屋の入口なのか、一人のおそらく男性がその様子を見ている。
頭部が欠損の供物の人は格子柄のスカート姿と判断でき、間違いなく親近者の女性であろう。「死者」の周囲には聖なる雄牛角型オブジェと神の使いであるハトが置かれていることから、極めて神聖な祭祀的シーンを表現している。なお、台座の外周にはわずかだが、色彩装飾の痕跡が確認できる。

ミノア文明・カミラーリ遺跡・円形墳墓A・塑像 Minoan Cult Figure, Kamilari/©legend ej
カミラーリ遺跡出土・テラコッタ塑像
祭祀的シーン/故人(一人)への供物
後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年
イラクリオン考古学博物館・登録番号15072
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

二つ目の塑像では、円柱が立つ変形窓のある部屋の壁に沿って、おそらく「死者」である四人が横並びに座り、その前方からやや小さい形容だが親近者の二人が、四人に供物を差し出しているシーンを表現している。
壁面の四人は、向かって左側の二人は男性の故人、その右側のやや小柄の人は子供の男性、最も右側が髪を結っていることから大人の女性の故人と思われる。尊厳を込めて亡くなった人達を供養するミノア風の儀式なのか、あるいは日本やアジアの「お盆」や「年忌法要」に似た宗教的な風習なのであろうか。

上述の供物の儀式とこの四人の故人への供物の祭祀は、何れも「新宮殿時代」より後の時代の庶民生活の中で現実に行われた宗教的な情景であるのは間違いなく、交易が盛んであった古代エジプトからの影響が、後期ミノア文明の庶民の精神文化へ強く反映されている観がある。

ミノア文明・カミラーリ遺跡・円形墳墓A・塑像 Minoan Cult Figure, Kamilari/©legend ej
カミラーリ遺跡出土・テラコッタ塑像
祭祀的シーン/故人(四人)への供物
後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年
イラクリオン考古学博物館・登録番号10574
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

また、円形墳墓Aからは「ダンスを踊る男性達」を表現した塑像も出土した。
円周縁に力の象徴たる雄牛角型オブジェが置かれ、その先端には神の使いの聖なるハトが止まり、この塑像が宗教観の強い情景を意味することを強調している。円形の狭い空間に、おそらくは亡くなった人の生前の名誉を称賛し供養するためか、四人のミノア男性が互いに腕を取って踊っている。

ミノア文明・カミラーリ遺跡・円形墳墓A・塑像 Minoan Cult Figure, Kamilari/©legend ej
カミラーリ遺跡出土・テラコッタ塑像
祭祀的シーン/故人への供養のダンスを踊る男性達
後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年
イラクリオン考古学博物館・登録番号15073
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

互いの腕を取って単独、または複数の人達がダンスを踊る姿は、現在、ギリシアで踊られている伝統的な「グリークダンスGreek-Dance」に共通しているとも思える。
また、このミノア男性四人が故人への供養のダンスを踊る塑像は、最東部のミノア人の町・パライカストロ遺跡 Palaikastro から出土した、喜びを表現する「リラ演奏&ダンスを踊る女性達」の塑像とはまったく異なる意味を含んでいる。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・《ダンスを踊るミノア女性達》Minoan Dancing Women with Lire/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・《ダンスを踊るミノア女性達》
中央女性=リラの演奏/周囲女性達=ダンスを踊る
後期ミノア文明LMIIIA2期・紀元前1350年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号3903
クレタ島・最東部/描画:legend ej

円形墳墓Aからは、さらに一人の男性が容器の外側にしがみ付いて、中を覗いている形容のユニークな陶器、そして色彩劣化したため不明瞭な直線と流線絵柄がわずかに残る、四脚付きで二枚のフラットカバー(蓋)を乗せた長方体、テラコッタ製のラルナックス陶棺 larnax coffin も出土した。
何れも上述のテラコッタ製の塑像と同じ時期、後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年頃、円形墳墓Aの「最後の埋葬」で副葬されたものである。

ミノア文明・カミラーリ遺跡・ユニークな容器 Unique Ware, Kamilari/(C)legend ej
カミラーリ遺跡・円形墳墓A出土・ユニークな陶器
人が容器の側面に張り付いて 中を覗いている姿
後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

ヴォロス遺跡・メッサラ様式の円形墳墓
ギリシア人考古学者マリナトス教授 S.N. Marinatos は、1931年、ゴルティス遺跡~東北東10km、コウマサ遺跡~北方13km付近、民家はなく地元でヴォロス Voros と呼ばれるスポットから、崩壊した二基のメッサラ様式の円形墳墓を発見する。年代は中期ミノア文明MMI期・紀元前2000年~前1800年頃に属するとされた。
カミラーリ遺跡・円形墳墓Aと同様に、埋葬時に故人を偲びワインを飲んだ後、収めたのであろうおびただしい程の数の小カップ類が出土、さらに銀製のイヤリング、複数のピトス陶棺と特徴的なラルナックス陶棺から人骨も見つかっている。

その内、一基のラルナックス陶棺は絵柄デザインが無い珍しいタイプだが、蓋カバーと陶棺本体に合計16か所のハンドル(取っ手)と吊り突起が付けられていた。ハンドルや突起部はおそらく重量のある陶棺を墳墓まで運ぶ時、ロープ掛けで使ったものであろう。

ミノア文明・Voros遺跡・ラルナックス陶棺 Messara Style Larnax Sarcophagus, Voros/©legend ej
ヴォロス遺跡・円形墳墓出土・ラルナックス陶棺
絵柄は無く 蓋カバーと陶棺本体に無数のハンドルと突起部
中期ミノア文明MMI期・紀元前2000年~前1800年
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・メッサラ平野/1994年

ミノア文明のラルナックス陶棺
紀元前1375年以降、クノッソス宮殿が崩壊したクレタ島では、「本来」のミノア文明の伝統文化はほとんどすべて衰退か消滅、文明の統治者を失った人々の生活も大きく変わり、特に埋葬習慣に大きな変化が現れる。その典型が埋葬用のラルナックス陶棺 Larnax Sarcophagus である。
マリナトス教授が発掘したメッサラ平野のヴォロスの円形墳墓は、中期ミノア文明MMI期に属することから、陶棺に絵柄表現がない。しかし、後期ミノア文明のラルナックス陶棺では、ほぼ間違いなく華やかというほどの色々な絵柄が表現されるようになる。

レセィムノン Rethymnon ~南方5km、約200基の横穴墓が見つかったアルメーニ共同墓地遺跡 Armeni を初め、東部の大規模な町遺跡・グルーニア Gournia やメッサラ平野の各地の墳墓からの後期ミノア文明に属するラルナックス陶棺では、「楽園」と想像された「来世の風景」や個人の好みの対象物が描写されている。
陶棺の外面には魚や抽象化したタコの絵柄、授乳の牛の姿、水鳥や抽象化した花と植物など、内面にはシンプルな泳ぐ魚などが描かれた。

ミノア文明・グルーニア遺跡・ラルナックス陶棺 Minoan Larnax Sarcophagus, Gournia/©legend ej
グルーニア地区・墓地遺跡出土・ラルナックス陶棺
牛の授乳の姿を描写した埋葬用の陶棺/高さ465mm
後期ミノア文明LMIIIB期・紀元前1300年~前120年
イラクリオン考古学博物館・登録番号9499
クレタ島・東部/1994年

ミノア文明・グルーニア遺跡・ラルナックス陶棺・魚の絵柄/©legend ej
グルーニア地区・墓地遺跡出土・ラルナックス陶棺
陶棺の内側に描かれた泳ぐ魚の絵柄
後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1350年
イラクリオン考古学博物館・登録番号11163
クレタ島・東部/1982年

ミノア文明・ヴァシリカ・アノージャ遺跡 Minoan Larnax Sarcophagus, Vasilika Anogia, Messara/©legend ej
ヴァシリカ・アノージャ遺跡出土・ラルナックス陶棺
水鳥・魚・花咲くパピルスの絵柄/尖った屋根型カバー
後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年
イラクリオン考古学博物館・登録番号1612/横幅123cm
クレタ島・メッサラ平野/1982年

ミノア文明・ザフェール・パポウラ遺跡・ラルナックス陶棺 Minoan Larnax, Zafer Papoura/©legend ej
ザフェール・パポウラ遺跡出土・ラルナックス陶棺
抽象化のパピルスの絵柄/横幅106cm
後期ミノア文明LMIII1A期・紀元前1400年~前1375年
Ashmolean Museum, U. Oxford (UK)
登録番号 AN1896-1908-AE-582
※Sir Erthur John Evans寄贈(1905年)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


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