2020/03/07

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡 Zakros Palace I


ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡 Zakros Palace は「二部構成」となっています。
1)ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡 Zakros Palace I(このページ)
2)ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡 Zakros Palace II 宮殿北東~西~南~北翼部・王家の生活区画

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「未盗掘」のミノア宮殿&市街地の遺構

位置
クレタ島・最東部/シティア~南東19km・イエラペトラ~東北東50km
GPS
ザクロス宮殿遺跡: 35°05’53"N 26°15’40"E/標高5m


ザクロス広域遺跡の地理的な位置と偶然の考古学的条件

クレタ島の最東部、大規模なミノア文明の町・パライカストロ遺跡~南方11km(道路=約27km)、ミノア文明の重要な遺跡、ザクロス宮殿遺跡 Zakros Palace がある。
ザクロス宮殿遺跡へ至る道路・「ジロス Ziros=パライカストロ」は交通量が極めて少ない地方道、最東部特有の岩丘陵と標高200m~300mの盆地に広がるオリーブ耕作地の中を蛇行を繰り返しながら延びている。

クレタ島・最東部・Azokeramos村~聖Ioanis礼拝室~オリーブ耕作地 Olive field, Agios Ioanis Church, Azokeramos, Eastern Crete/©legend ej
最東部の典型的な風景・オリーブ耕作地
・Azokeramos村・聖イオアニス教会堂(標高225m)
・遠方=Adravasti渓谷と岩山地(標高500m級)
クレタ島/1996年

GPS Azokeramos聖イオアニス教会堂: 35°07′54″N 26°14′52″E/標高225m

ミノア宮殿と市街地を合わせたザクロスの広域遺跡は、エーゲ海岸(リビア海)から最短で100m、最大350mほど内陸、おおむね南北300m・東西250mの範囲に位置している。
宮殿区域は標高5mあまりの平坦地に残され、一方、市街地区域はおおむね四か所に分散している。海から宮殿区域へ向かうエリア、宮殿区域の北側に隣接する市街地区域、宮殿区域からやや離れた北西側、そして西側のやや離れた区域となっている。概して市街地区域のほとんどはなだらかな斜面に展開していると言える。
広域遺跡の西~北側、直ぐ背後には浸食が激しいザクロス渓谷の険しく高い崖と草木の少ない岩の丘陵が張り出している。広域遺跡の直ぐ南脇にはザクロス峡谷から、水量は少ないがザクロス川が流れている。

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡 遠望 Zakros Palace/©legend ej
西方の岩平原~ザクロス遺跡 展望
遠方はエーゲ海(リビア海)
クレタ島・最東部/1982年

このエリアにミノアの宮殿が造営された時代には、当然のことに宮殿の基礎部はザクロス川の水面レベルより高い位置であったはずである。しかし、ミノア時代以降、クレタ島の東部地域では、非常にゆっくりとしたペースで地質学的な沈下現象が続いていること、さらに乾燥した気候が特徴の地中海とは言え、50年、100年に一度の豪雨ではザクロス渓谷の上流から大量の土砂が流れ下って来たことから、ザクロス宮殿と市街地区域の遺構の大半は含水の土砂で完全に覆われていた。
この水分で保護されていたということ、そして過去に盗掘が行われていなかった幸運が重なり、宮殿遺構からミノア文明を解明するおびただしい数の貴重な品々が、ほぼ完全な形で発見された。これこそがミノア文明・ザクロス宮殿遺跡の最大の考古学的な価値である。


ザクロス遺跡の発掘

1900年代の初め、クノッソス宮殿遺跡の南方、ジプサデスの丘の「ホガースの邸宅」の発掘を担当したイギリス人考古学者ホガース D.G. Hogarth が、ザクロス宮殿区域の西側に広がるミノア市街地区域で狭い範囲だが最初の発掘を行った。このミッションではカマレス様式陶器を含むミノア陶器が見つかった。
さらには宮殿区域の北側に張り出した尾根の発掘作業では、フレスコ画の断片を含め、ミノア文明の陶器類、比較的大型の建物の遺構、そして印章で押された無数の粘土印影などが見つかっている。

その後、半世紀以上、ザクロス地区での発掘調査は行われなかったが、1961年、アテネ大学のプラトン教授 Nikolaos Platon のチームが中心となり、ザクロス川の扇状地での発掘ミッションが実施された。結果、クレタ島ミノア文明の「第四番目の宮殿遺構」を確認、以降、ザクロス広域遺跡での発掘作業が継続的に行われている。

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡 Minoan Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・北翼部~西翼部~中央中庭
クレタ島・最東部/1996年


クレタ島ミノア文明の宮殿遺跡(4か所)

クレタ島ミノア文明では、文明センターであった中央北部のクノッソス宮殿、南西部メッサラ平野のフェストス(ファイストス)宮殿、そして北海岸のマーリア宮殿の存在が知れている。
これら三か所のミノア文明の発祥・発展の中心的な場所では、中期ミノア文明MMIB期、紀元前1900年頃、最初の宮殿である旧宮殿が造営され、ミノア文明の「旧宮殿時代」が始まる。
しかし、中期ミノア文明MMIIB期に大きな地震が発生、三か所の宮殿が破壊されたことから、紀元前1625年頃、旧宮殿のあった場所に一斉に新宮殿の建設が行われ、ミノア文明は大繁栄の「新宮殿時代」を迎える。
この時期、クレタ島最東部のザクロスにも宮殿建設が始まり、「新宮殿時代」の繁栄を享受、同時にザクロスのミノア市街地も発展することになる。

ミノア文明&ミケーネ文明 編年表/©legend ej
クレタ島ミノア文明&ギリシア本土ミケーネ文明 編年表
・ミノア文明・「旧宮殿時代」: 紀元前1900年~前1625年
・ミノア文明・「新宮殿時代」: 紀元前1625年~前1375年
ミケーネ文明(時代):  後期ヘラディック文明 LH期
作図:legend ej


・中央北部・ミノア文明センター・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace
・南西部・メッサラ平野・フェストス宮殿遺跡 Phaestos/Phaistos Palace
・北海岸・マーリア宮殿遺跡 Malia Palace
・最東部・ザクロス宮殿遺跡 Zakros Palace

クレタ島ミノア文明・宮殿群 地図 Map of Minoan Palaces in Crete/©legend ej
クレタ島・ミノア文明・宮殿遺跡 地図
作図:legend ej

クレタ島・東部・ミノア文明・遺跡 地図 Map of Minoan Sites, East Crete/©legend ej
クレタ島・東部・ミノア文明・遺跡 地図
作図:legend ej

クレタ島・東部・ミノア文明・遺跡 地図 Map of Minoan Sites, East Crete/©legend ej
クレタ島・最東部・ミノア文明・遺跡 地図
作図:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・北入口 North Gate, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・北翼部・北支柱広間~北入口
・北入口の建物=エヴァンズのコンクリート復元
・手前・大型角柱群=発掘時の状態の北支柱広間
クレタ島・中央北部/1982年


ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・大階段周辺
クレタ島・メッサラ平野/1982年


ミノア文明・マーリア宮殿遺跡 Minoan Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡・西翼部・支柱礼拝室
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年




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ザクロス宮殿と市街地の破壊

繁栄の「新宮殿時代」になってから約175年後、後期ミノア文明LMI期、紀元前1450年頃、ギリシア本土からエーゲ海へ勢力を拡大してきた好戦的なミケーネ人の「クレタ島侵攻」が始まり、文明センターのクノッソス宮殿を除き、フェストスとマーリア、そしてザクロスのミノア宮殿、さらに多くの地方邸宅やグルーニアなど繁栄していた各地の町が次々に破壊された。
この「侵攻ミケーネ人」の攻撃で破壊されたザクロス宮殿とミノア市街地は、その後再建されることはなく、繁栄していた多くのミノアの町と同様にザクロスも歩調を速め文明の衰退へと向かって行く。

ミノア文明・グルーニア遺跡 Minoan Settlement, Gournia/©legend ej
グルーニア遺跡・丘の頂上付近・「小宮殿」&列柱
左遠方=紺藍のエーゲ海・ミラベロ湾
クレタ島・東部/1982年



ザクロス宮殿の特徴

紀元前1450年頃、「侵攻ミケーネ人」により宮殿が破壊された後、おおよそ3,450年間、ザクロス川の水位とほぼ同じ標高、ザクロス宮殿の遺構は含水の土砂に埋もれ、言わば水没に近い状態のまま残されてきた。しかも過去に盗掘を免れたクレタ島唯一のミノアの宮殿遺構でもある。

ザクロス宮殿はクレタ島の東端に築かれたミノア人の宮殿である。文明センターのクノッソス宮殿やメッサラ平野のフェストス宮殿などと同様に、ザクロス宮殿にも防御を目的とした城壁的な遺構が存在していない。
このことから、東地中海からの異民族の攻撃に対する最前線の防衛砦としての宮殿ではなく、ザクロス宮殿はクレタ・ミノア人が得意とした中東パレスチナやエジプト、キクラデス諸島との交易を直接行う重要な役目を担う、ミノア王国の経済面の実務宮殿であったと考えられる。
発掘で明らかになったが、盗掘を免れたザクロス宮殿区域からは象牙製品や銅インゴットなど、海外との交易を明確に裏付けるような出土品が次々に見つかっている。

そうであっても、地理・地形的に観ても、ザクロス宮殿の周囲の自然環境と条件は、先史時代の「宮殿建設」に適している場所とは思えない。
ザクロス宮殿区域の北側には標高350mクラスの岩山地が迫り、西側には標高200m以上の岩平原と山地が連なり、飲料水の確保面では優位なザクロス川が流れているとは言え、その狭い扇状地のすぐ上流は標高差150mの険しいザクロス峡谷となっている。
海からのアクセスは容易だが、クレタ島内陸部からは標高差200mの岩の断崖と急斜面を上り下りしない限り、アクセスが非常に難しい場所である。

クレタ島・ザクロス渓谷 Zakros Gorge, Crete/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡の西方・ザクロス渓谷&ザクロス川
クレタ島・最東部/1982年

ミノア文明・ザクロス広域遺跡 地図 Map, Zakros/©legend ej
アノ・ザクロス遺跡&ザクロス宮殿遺跡 周辺 地図
クレタ島・最東部/作図:legend ej

現代でも「辺境の地」と言える地形の厳しい場所に、3,625年前、ミノア人が宮殿を築いた理由は二つ、中東地域とエジプト、そして銅の供給地・キプロス島に最短距離にあるクレタ島最東部という交易の利便性、そして東方を除き北~西~南側を高い岩山地に囲まれている地形の、「ある意味」での有利性を重要視した結果と想定できる。

特に快晴の天候が続く夏、クレタ島では時折、バルカン半島から乾いた強い北西~北風・「メルテミ Meltemi Wind/エテジアン Etesian」が吹き、突然と海が荒れることがある。
この強風から避けられる最適な場所が、周囲を比較的高い岩山地に囲まれたザクロスの狭い扇状地と、狭幅650m・奥行き350mのザクロスの小湾であり、この場所に「宮殿&舟着き場」を建設するという発想は、伝統の海外交易で得た海洋民族の経験と知恵を最大限に活かした判断であった。

故にクレタ島最東部、平野が無いに等しいザクロスの狭い扇状地からの小麦などの農産物の収穫は期待できなかったが、ザクロス宮殿の最大の役目は、王国管理下に置かれたであろう象牙や銅インゴットや貴金属など東方からの輸入品のみならず、地中海を代表する上質な陶器や石製容器などミノア文明の特産物を海外輸出する最前線の交易拠点として、極めて重要な経済活動の実務と責任を果たしていたと強調できる。

地中海の強風・メルテミ Meltmi とシロッコ Scirocco
メルテミ」は5月~9月頃、バルカン半島~ヨーロッパに乾燥した高気圧、トルコ方面に低気圧が配置された気象条件で発生する異常気象の一つ。晴天にもかかわらず、特にギリシア本土では北からの強風となり、より南方のクレタ島やエーゲ海の島々では北西からの風速15m~20mの乾いた強風となる。
先史時代では、小舟が海上交易に使われたことから、海洋民族・ミノア人にとって時折発生するメルテミの強風は、海難事故を引きお起こす最大の自然の驚異でもあった。

一方、早春~初夏の頃、地中海ではアフリカ・サハラ砂漠から乾燥した強風が吹き付けることがある。時には砂嵐を伴うこの強風をイタリアでは「シロッコ」と呼ぶ。
先史の時代、紀元前1375年頃、このシロッコの強風が吹いた日、ミノア文明センターであったクノッソス宮殿に大火災が発生、南方からの強風に煽られた宮殿全体は一気に火の手が回り崩壊する。このクノッソス宮殿の崩壊をもって繁栄の「宮殿時代」が終焉、以降、ミノア文明は足早に衰退への道を歩むことになる。


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海岸からザクロス広域遺跡へ向かう

舗装のミノア道と市街区域・青銅の「流路システム」

ザクロスの宮殿区域と市街地区域は、かつてミノア時代の「舟着き場」があった海岸から最短で100m、ザクロス渓谷の崖下となる西市街地の最も遠いポイントは350mの距離である。
舟着き場から直接連絡されていたであろう、白色と青色石材を使った舗装のミノア道 Minoan Passage は、ミノアの東市街地を東西に走り、宮殿区域へ向かっている。

ミノア文明・ザクロス宮殿&市街地遺跡/Google Earth
ザクロス宮殿&ミノア市街地遺跡
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・石板舗装のミノア道 Minoan Passage, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・海岸~宮殿を結ぶ石板舗装のミノア道
クレタ島・最東部/1996年

東市街地のミノア道を西方へ進むと、先ず南側脇に保護屋根カバーの遺構、溶解青銅の「流路システム Melting Channel System」が目に止まる。この白色石膏の斜め4本溝で構成される装置の脇には、間違いなく銅インゴットと錫の合金・青銅を造る再溶解炉が存在したはずである。

ミノア文明・ザクロス遺跡  Minoan Town, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス遺跡・東市街地
保護屋根=青銅の「流路システム」の遺構
クレタ島・最東部/1982年

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・青銅流路システム Melting Bronze Channel, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・青銅の「流路システム」(上部)
クレタ島・最東部/描画:legend ej

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・青銅流路システム Melting Bronze Channel, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・青銅の「流路システム」(下部)
最下凹部緑色=3,500年前の銅の酸化物「緑青」の残留
クレタ島・最東部/1996年

クレタ島ミノア文明では、ザクロス宮殿へ陸揚げされたキプロス島からの輸入銅インゴットは、中東地域から輸入された錫(すず)が加えられ再溶解、出来た合金が先史・「青銅器文明」の名称となる「青銅 Bronze」である。
ザクロスの東市街地に残る遺構は、溶解した銅合金・青銅をさらに個別の塊に流し込むための「流路システム」である。再溶解炉で合金となった溶融青銅は、流路システム装置の四本溝の上部から流され、下方の低い凹部に置かれた「受け型」に流れ込み、持ち運び易い形状や即座に加工できる素材形容に冷却されたと推測できる。

ミノア文明・銅インゴット&石製計量おもり Copper Ingot, Stone Weight/©legend ej
輸入銅インゴット&クノッソス宮殿・西翼部出土・赤色石膏石製の計量おもり
左=銅産地・キプロス文明 ⇒ 輸入された銅インゴットの標準形容 ※サイズ・重量=多種
右=石製計量おもり/イラクリオン考古学博物館・登録番号26/高さ425mm・重量29kg
描画:legend ej

輸入された銅インゴットはそのまま、または比較的運び易い形状に成形された青銅の塊は、今日のトラック輸送に相当するややスピードが遅い従順なロバの背に積まれ、陸路で中央北部・文明センターであるクノッソス宮殿やマーリア宮殿などへ搬送された。
または小舟を使った「国内航路」の場合、南海岸のミルトス・ピルゴス居住地などを経由、南西部・メッサラ平野のフェストス宮殿とアギア・トリアダ準宮殿へと運ばれた。

クレタ島 ロバ/©legend ej
クレタ島の農家で見かける従順なロバ
強健で粗食に耐え、咳き込んだような鳴き声が特徴
最東部・アノ・ザクロス村近郊/1996年

ロバの活躍
経験論で言えば、1970年代~90年代、ギリシア国内、特に地方や島々ではロバは利便性の高い重要な家畜であり色々な面で活躍している姿を見た。

北西ギリシア・イオニア地方 1970年代・ロバの活躍/©legend ej
北西ギリシア・イオニア地方・ロバの活躍/1972年

クレタ島・モクロス島近郊・1980年代・ロバの活躍/©legend ej
クレタ島・モクロス島近郊・ロバの活躍
経験論=荒れた急斜面の農道を90ccレンタバイクを押して登る
農家の人=「ロバが一番! バイクは無用!」と自慢で語る
バイクがロバに負けた真夏のエーゲ海沿岸の経験/1982年

陸揚げ拠点・ザクロスから銅インゴットのまま運ばれた場合、配送先の宮殿などではザクロス宮殿に在ったのと同種の再溶解炉が必要であり、現実にフェストス宮殿遺跡では東翼部の広い中庭から再溶解炉の遺構が確認されている。
硬い青銅は工房職人が使う加工工具や農耕具は当然の事、二輪走行の馬車、装飾用の像や大型両刃斧、大型扉の飾りや旋回軸、家具や大鍋などの台所用品、「戦争をしない民族・平和主義のミノア人」とは言え、一部には王宮警護者の装飾剣&槍などの製作にも使われた。


ミノア文明・鉱物資源の輸入
クレタ島ミノア文明では、島内に金や銀を初め、銅や鉛などの金属鉱山は皆無、貴金属とその他の重要な金属&鉱物は、すべて得意とした中東地域やエジプトとの海洋交易を介した輸入に頼っていた。ミノア文明が自給できた資源は、島内の何処でも産出された美しい紋様の石製容器用の原石材、小麦や豆、オリーブやぶどうなどの農産物、魚や貝など豊富な海産物、そして東地中海を代表する上質な陶器類であった。

キプロス島から輸入された銅インゴット
クレタ島メッサラ平野のアギア・トリアダ遺跡や最東部のザクロス宮殿遺跡から出土した輸入銅インゴットの大きさは、20kg~30kg前後のやや大型であった。
一方、ギリシア本土・中部地方の海岸で発見された17枚の銅インゴット(アテネ国立考古学博物館/登録番号13051)の重量は、小型サイズで5kg、大型でも18kgであった。
ギリシア各地の輸入銅インゴットのサイズと重量の異なりは、輸入された時期の差異のほか、取引先であるキプロス島の銅の採掘・精錬の産地により、成形の型や冷却方法などにそれぞれ特徴があったと推測できる。

青銅/黄銅/銅酸化物「緑青」
青銅は銅を主成分として5%~20%ほどの錫(すず)を添加した合金、錫の含有量が多いほど白銀色に近く硬度が増し、含有量が少ないほど赤銅色で柔らかくなる。銅合金では銅に鉛を添加した、やや黄色を呈する黄銅もある。
また、銅が空気中の二酸化硫黄などと化合した時、古寺の屋根と同じ美しい緑色の錆・「緑青」を生じる。

主な金属の融解温度(融点)
鉄 1,536℃  銅 1,084.5℃  金 1,064℃  銀 962℃  鉛 327.5℃  錫 232℃  プラチナ 1,769℃  青銅(主成分 銅+錫)700℃~1,000℃



ミノアの市街地区域 Minoan Town

ザクロスでは宮殿区域を囲むように、ミノアの庶民が住んだ市街地区域 Minoan Town が広がっている。
海岸に近い東市街地は標高5mの平坦なエリア、東西60m・南北40mほどの範囲に広がり、その西方で宮殿区域の北側一帯が北市街地となり、その範囲はおおよそ東西80m・南北50m、標高5m~15mのやや斜面に広がる。
さらに宮殿区域から北西100mほど離れた標高10m~20mの尾根斜面に、約150mの範囲で細長く広がるのが北西市街地。そして宮殿から西方100mほど離れた岩山地の麓、標高5m~25m、おおよそ130mの範囲が西市街地の区域となる。

市街地には複数の蛇行する玉石舗装の通りが延び、通りに面して十数軒の集合家屋が一つのユニットとして建ち並んでいるが、建物は概して複雑で狭い造りである。
ただ、宮殿区域に隣接する北市街地の比較的大きく整然とした建物は、主に宮殿の経済・宗教に関わる指導的立場の高位な人達の住まいであったとされる。北市街地の北西端のある住宅遺構からは、「新宮殿時代」に属する複数の重要な粘土印影(印章を押した跡)が見つかっている。

ミノア文明・ザクロス市街地遺跡 Minoan Town of Zakros/©legend ej
ザクロス広域遺跡・ミノア市街地
クレタ島・最東部/1982年

ザクロス宮殿遺跡~西方500m~1km、険しい断崖のザクロス渓谷 Zakros Valley の調査では、ミノア時代の人々が居住した岩陰や洞窟、相当数の埋葬墳墓も確認されている。


アノ・ザクロス遺跡

クレタ島東部の白いリゾート街・シティアからザクロス宮殿遺跡へ来る途中、手前4km付近(道路7km)、小規模だがミノア文明のアノ・ザクロス邸宅遺跡が残されている。

ミノア文明・アノ・ザクロス遺跡 Minoan House, Ano Zakros/©legend e
アノ・ザクロス遺跡・支柱の部屋(左側)
クレタ島・最東部/1982年

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡 Zakros Palace は「二部構成」となっています。
1)ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡 Zakros Palace I(このページ)
2)ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡 Zakros Palace II 宮殿北東~西~南~北翼部・王家の生活区画

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