2021/04/12

ミノア文明・クノッソス宮殿周辺の先史遺跡 Prehistoric Sites around Knossos Palace


ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 関連ポストは「12部構成」となっています。
1. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace I 概要
2. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace II 西中庭~南翼部
3. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace III 中央中庭・王座の間
4. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IV 聖域・宝庫
5. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace V 貯蔵庫
6. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VI 女神パリジェンヌ
7. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VII 王の居室・聖所
8. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VIII 王妃の間
9. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IX 雄牛跳び
10. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace X 北~東翼部
11. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 周辺の先史遺跡(当ポスト)
12. ミノア文明・クノッソス宮殿 崩壊の原因は?

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ジプサデスの丘・王家の墳墓 Temple Tomb

王家の墳墓 Temple Tomb の位置

GPS 王家の墳墓: 35°17′32.50″N 25°09′51.50″E/標高105m
GPS 高位祭司館: 35°17′39.50″N 25°09′50″E/標高95m

クノッソス宮殿・南西翼部の直ぐ南側の遺構が南の邸宅 House of South である。
かつてミノア時代には、クノッソス宮殿から王家の墳墓 Temple Tomb や高位祭司館 House of High Priest などが残る南方約600mのジプサデスの丘 Gypsades へ向かうためには、南の邸宅の前のミノア道 Minoan Road を南方へ下り、80m先の小川ヴィリチアス Vlychias に架かるミノア橋 Minoan Bridge を渡っていた。
ミノア橋はクノッソス地区の南方に架かる現在のコンクリート橋の下流130m付近にあった。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・周辺遺跡 広域地図 Map Prehistoric Site around Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡&周辺 地図
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 周辺 Minoan Palace of Knossos/©legend ej
東方の丘~クノッソス宮殿遺跡&周辺の眺め
・撮影場所=標高140m/カイラトス川=標高70m付近
・宮殿区域=標高95m/アクロポリスの丘=標高170m
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・南の邸宅 South House, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・南の邸宅
クレタ島・中央北部/1982年

「南の邸宅」からの出土品
エヴァンズの発掘では、宮殿の南西翼部の南側、少し低い場所に残る南の邸宅からは、渦巻き線&太い横帯線デザイン、器形がヴァシリキ様式に近似する水差しを含め色々な出土品があった。
特に青銅製品の出土例が顕著であり、高さ60cmの三脚付き&三個ハンドル付き直径61cmの大鍋、高さ38cmの三脚付き・直径38cmの中鍋、底の浅い鍋やフライパン形容の容器、道具としての両刃斧、さらに青銅製の短剣(四本)、ナイフやノコギリが三丁(三本)見つかっている。
ノコギリに関してエヴァンズは、最長163cmの大型品は木材の伐採ではなく、内装建材として多用された石膏石の切断に使われたと推測している。

そのほかでは「新宮殿時代」の最盛期に属する石製の印章の出土品があった。一つは滑石・ステアタイト製の円形レンズ型の印章、印面の横幅15mm~16.5mm、振り向き姿勢のグリフィンが刻まれている。製作は後期ミノア文明LMI期・紀元前1500年頃と推定された。
もう一つの印章は金製リングタイプ(後述)、素材は濃紺色のラピスラズリ、印面は横幅18mm~19mm、ほぼ円形の円盤型、大きなライオンと調教師が刻まれている。製作はグリフィン印章とほぼ同じ時期、後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年頃と推定された。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・南の邸宅・グリフィン印章 Minoan Griffin Stone Seal, South House, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・南の邸宅出土・グリフィンの石製印章
後期ミノア文明LMI期・紀元前1550年~前1450年
滑石製・レンズ型印面=横幅15mm~16.5mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号842
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ジプサデス丘の東斜面、アルカネス方面への地方道路(Knossos=メッサラ平野 Karakas)の西側、現在、立ち入りが許されていないが、王家の墳墓 Temple Tomb が発掘されている。
王家の墳墓の発掘は、クノッソス宮殿遺跡を発掘したサー・アーサー・エヴァンズ Sir Arthur John Evans と若い考古学者 John Pendlebury が中心となり、1930年に実施された。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・発掘者エヴァンズ
クノッソス宮殿遺跡・発掘者サー・アーサー・エヴァンズ

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王家の墳墓 Temple Tomb, Knossos/©legend ej
クノッソス遺跡・王家の墳墓 Temple Tomb
ジプサデスの丘の東斜面(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1994年


王家の墳墓からの出土品・金製リング Gold Ring of King Minos

王家の墳墓 Temple tomb(発掘前の地表面)からの最も有名な出土品の一つ、非常に祭祀的なシーンを刻んだ金製リングがある。
この金製リングは、考古学者が発見したものではなく、1928年、地元の10歳の少年(Michalis Papadkis)が、後にエヴァンズにより存在が確認される王家の墳墓のわずか10mほど南方の耕作地の地表面で見つけた、とされている。
通常ではこのような非常に高貴な宝飾品がオリーブ耕作地の地表面に存在するはずがなく、歴史の中で盗掘者が王家の墳墓から抱えられないほどの大量の金銀財宝を掘り出し、慌てて撤収する時に地表面に偶然に「落とした」のかもしれない。

ただ、当時のクレタ島の文化遺産に対するやや低い関心と、途轍もない利益獲得を夢想した地元の宗教指導者や役人も絡む特有の社会性などが背景にあり、「本物・偽物・所有権・価格$35万・・・」の騒動の後、70年ほど金製リングは行方不明となっていた。
その後、ギリシア政府が取得、ミノア文明の「本物」と確定した結果、2002年7月、文化大臣も列席した大々的な式典を経て、以降、イラクリオン考古学博物館の「至宝」の一つとして展示公開されている。

ミノア文明・クノッソス地区・王家の墳墓・金製リング《Gold Ring of King Minos》Temple Tomb, Knossos Area/©legend ej
クノッソス地区・王家の墳墓 Temple Tomb 出土・金製リング
エヴァンズ=《Gold Ring of King Minos》と名称
新宮殿時代の初期~中期・紀元前1600年~前1450年
イラクリオン考古学博物館/重さ約30g
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

金製リングは、エヴァンズをして《ミノス王の金製リング Gold Ring of King Minos》と呼ばれるようになった。
楕円形(オーバル形状)の印面の左右に三分割聖所(神殿)があり、左神殿の枝葉を延ばした聖なる樹木に右手を置き振り向くような姿勢の大きな女神が、右神殿には聖なる雄牛角型オブジェが飾られ、しゃがみ姿勢のやはり大きな女神が居る。
印面の中央には聖なる樹木が茂る山頂聖所が建ち、左斜面に二羽のハト(or 水鳥)が佇んでいる。聖なる枝葉に右手を置いた若い「祭祀王 Priest King」、あるいは「王子 Prince」など尊貴な人物、または活発な「ミノア青年」が今まさに、左手に携えたリュトン杯を山頂聖所に奉納しようとしている。
祭祀王(or 王子 or 青年)の下方は小波の立つ海か、雄牛角型オブジェを積んだタツノオトシゴの上半身を形容したような舳先の舟を女神(or 上位階級の女性)が漕いでいる。一方、右上方には小さな刻みだが、天から別な女神が聖なるシーンを見守っている。

極めて微細で精緻加工が特徴の、この金製リングのモチーフは間違いなく「エピファニー表現 Epiphany scene」であり、極めて尊貴な人物と女神、聖なる樹木の山頂聖所と神殿、聖なる雄牛角型オブジェや特徴ある高貴な舟など、非常に高尚にして厳粛な宗教的な情景を印面に隙間なく刻んでいる。表現内容からして王家に深く関わると連想でき、ミノア文明の宝飾品を代表するに相応しい見事な作品と言える。

女神の履く厚ぼったい感じのミノア風スカートからの判断では、この金製リングの製作はミノア文明が最も繁栄した「新宮殿時代」の前半、中期ミノア文明MMIII期・紀元前1600年~後期ミノア文明LMI期・紀元前1450年頃と断定できる。

ミノア文明&ミケーネ文明 編年表/©legend ej
クレタ島ミノア文明&ギリシア本土ミケーネ文明 編年表
・ミノア文明・「旧宮殿時代」: 紀元前1900年~前1625年
・ミノア文明・「新宮殿時代」: 紀元前1625年~前1375年
ミケーネ文明(時代):  後期ヘラディック文明 LH期
作図:legend ej

なお、王家の墳墓からの金製リングに表現されている「タツノオトシゴ」の上半身に似た舳先の舟の関連では、エーゲ海北海岸のモクロス共同墓地から出土した金製リングがある。
モクロス・リングでは、タツノオトシゴ風の舟に一人の女神が座り、舟の上か遠方か、聖なる樹木の三分割聖所、さらに上部と右側には神の住む天と聖なる岩聖所が刻まれている。モチーフは明らかに「神出(かみいずる)エピファニー表現」と言える。

海洋生物・タツノオトシゴ/©東海大学・海洋学部・水産学科・秋山信彦教授
海洋生物・タツノオトシゴ(着底間近の子供)
写真情報:東海大学・海洋学科・水産学科・教授 秋山信彦

ミノア文明・モクロス遺跡・共同墓地・金製リング Minoan Gold Ring, Goddess on the Boat, Mokros/©legend ej
モクロス遺跡・共同墓地出土・金製リング
印面=三分割聖域・聖なる樹木・高貴な舟の女神
後期ミノア文明LMI期・紀元前1500年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号259/横19mm
クレタ島・東部北海岸/描画:legend ej


王家の墳墓からの出土品・エフィレアン様式ゴブレット杯s

王家の墳墓 Temple Tomb からは、エヴァンズの発掘により、形容の美しいエフィレアン様式 Ephyrean Style のゴブレット杯が出土している。このリュトン杯の形容は、クノッソス宮殿の正規の参道・ローヤルロード脇の邸宅遺構からもたらされたゴブレット杯と同じである。ただ、王家の墳墓の杯の方が一回り小さい。
口縁部に定番のリングハンドル付き、腹部には抽象化した花を大胆に描き、花弁が回転して湾曲する細長いカンマ紋様のようなモチーフである。また、ハンドルの脇には三個の小さな「U字形」がアクセントとして描画されている。このリュトン杯は後期ミノア文明II期・紀元前1450年~前1400年、クノッソス宮殿の陶器工房で造られた作品である。

安定感と太い脚部に特徴があるゴブレット杯は、後期ミノア文明LMIB期、紀元前1450年頃、クレタ島への攻撃を仕掛けた「侵攻ミケーネ人」が、すでにギリシア本土のミケーネ文明で流行していた脚の細長いキリックス杯 Mycenaean Kylix の応用バージョンとして、占領後のクレタ島で開発したものと考えられる。
標準的には器の素地が無地、その腹部の絵柄には植物の花やユリやパピルス、ロゼッタや曲線紋様のほかに、海洋生物ではタコやイカなどがモチーフ採用された。いずれもかなり抽象化された絵柄を単色で大胆に描くデザインである。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Temple Tomb・エフィレアン様式ゴブレット杯 Ephyrean Goblet, Knossos Temple Tomb/©legend ej
クノッソス地区・王家の墳墓 Temple Tomb 出土
エフィレアン様式ゴブレット杯/高さ150mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号9062
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・エフィレアン様式ゴブレット杯 Ephyrean Goblet, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿地区・邸宅遺構出土
エフィレアン様式ゴブレット杯/高さ約170mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号21154
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

キャラバンサライ

南方からの人々を迎えた給水設備のある施設

GPS キャバンサライ遺跡: 35°17′47″N 25°09′46″E/標高90m

ミノア橋の遺構~南東70m付近、今日の地方道路(Knossos=メッサラ平野 Karakas)と小川ヴィリチアスに挟まれた狭い畑のある斜面に、1924年、エヴァンズがキャラバンサライ Caravansary と呼んだ廃墟的な建物遺構が残されている。
ほとんど目立たない遺構、さらに南の邸宅~南南東120m、宮殿区域から少し離れている理由から、立ち寄るツーリストはほとんど居ない。なお、小川ヴィリチアスはキャラバンサライ遺構~東方180m付近でカイラトス川 Kairatos と合流する。

繁栄した街と準宮殿と大規模な共同墓地のアルカネス Archanes や準宮殿のガラータ Galata など、クレタ島の南部方面からクノッソス宮殿へやって来るミノアの人々が、南入口から宮殿へ入場する前にこのキャラバンサライで足を洗い、身を清めたとされる。
砂漠のオアシスにある旅人やラクダを連れた隊商の宿泊設備と同様な意味から、120年前、発掘者エヴァンズが「キャラバンサライ」と名称した。この施設には休憩用の部屋とエヴァンズの言う Foot Bath(足洗い場)と呼ばれるテラコッタ製の給水用パイプが設備され、常時、誰でも新鮮な水を自由に使えるように配慮されていた。

クレタ島・アルカネス市街/(C)legend ej
4,000年の歴史あるアルカネス市街
丘陵地=オリーブ&ワイン用ブドウ栽培
クレタ島・中央北部/1994年

ミノア文明・アルカネス遺跡・トロス式墳墓B Tholos Tomb B, Archanes/©legend ej
アルカネス遺跡・フォウルニ共同墓地・トロス式墳墓B
左=南東側の入口/右=北西側副室への通路口
トロス内面=盛り上がりベンチ状床面
クレタ島・中央北部/1994年

GPS アルカネス遺跡・フォウルニ共同墓地: 35°14′42″N 25°09′32″E/標高430m
GPS アルカネス遺跡・準宮殿遺構: 35°14′11″N 25°09′35.50″E/標高385m
GPS ガラータ遺跡: 35°10′28″N 25°14′45″E/標高415m



キャラバンサライは「フレスコ画のパビリオン」

クノッソス宮殿自体も「美しいフレスコ画の宮殿」と呼ばれているが、《青い鳥》や《サフランを摘む青いサル》などが見つかった宮殿区域・西側のフレスコ画の邸宅 House of Fresco と同様に、小規模な施設ながらもキャラバンサライは「フレスコ画のパビリオン」と別称されている。
エヴァンズの発掘では、キャラバンサライ内部の梁フリーズ部分を飾っていた茂みに佇む大人しそうなキジの仲間のヤマウズラの群れ、金色の冠鳥などを描いた紀元前1550年頃の美しいフレスコ画の断片が見つかっている。

訪ねた1982年、復元されたキャラバンサライの梁フリーズには、イラクリオン考古学博物館の絵柄と同じ色鮮やかなフレスコ画《ヤマウズラの群れ》が描かれていた。
クノッソス宮殿遺跡に飾られている額に入った多くの複製フレスコ画と異なり、キャラバンサライの鳥のフレスコ画は縦28cmの横長、決して迫力感があるとは言えないが、額入りではなく復元梁のフリーズ壁面に直接描画されている。
復元の作業者の意図的な技法なのか、あるいは復元後の時候劣化のプラス効果なのか、部分的に「剥離損傷」もあり、キャラバンサライの複製描画の古めかしい感じが偶然のビジュアル効果となり、ミノア時代の「本物のフレスコ画」と勘違いするツーリストも居る。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・キャラバンサライ/©legend ej
クノッソス遺跡・キャラバンサライ遺構
復元の壁面描画・ヤマウズラの群れ
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・キャラバンサライ・フレスコ画 Partridge Fresco, Knossos Caravasarai/©legend ej
クノッソス遺跡・キャラバンサライ遺構出土・フレスコ画
《ヤマウズラの群れ》/高さ28cm
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/1994年

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クノッソス宮殿の周辺遺跡の発掘

かつてミノア時代、クノッソス宮殿の周辺には住民四万人という「クノッソスの街 コノソ ko-no-so」が形成されていた。当然、現在は開発が進み、クノッソス宮殿遺跡の周辺にはミノア人の「市街地」の痕跡はほとんど無いに等しい。

1900年~1904年のエヴァンズによるクノッソス宮殿遺跡の初期の発掘ミッションに続き、宮殿地区とその周辺の発掘が広範囲に実施された。
クレタ島の中心・イラクリオン市街~カイラトス河畔を含む宮殿を囲むクノッソス地区の範囲で確認された墓地&墳墓群は、中期ミノア文明~最高の繁栄期であった「新宮殿時代」を含めるが、発掘スポットの数で言えば、後期ミノア文明の前半期に遡る埋葬墳墓が際立って多い。

後期ミノア文明LMIIIA1期・紀元前1375年頃のクノッソス宮殿の崩壊後の埋葬では、もはや王国&宮殿システムは完全に消滅、社会は指導者不在に等しく、高位階級の埋葬は激減して来る。当然のこと、副葬品の質は急激に低下、取り立てて注目するでもない庶民の「普通」の埋葬だけが増えることになる。

この事実からは、ミノア文明とは「ミノア王国」と「宮殿システム&統治者」の存在があって成立した、と言えるだろう。過激に言えば、クノッソス宮殿の最終崩壊後の、後期ミノア文明LMIIIA2期以降は編年上の「名ばかりのミノア文明」、繁栄したそれ以前の確たる文明の「名残の時代」であった、と言えるかもしれない。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡&周辺 地図 Map of Prehistoric Sites around Knossos Palace/©legend ej
イラクリオン~クノッソス宮殿遺跡 先史文明遺跡 広域地図
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

イラクリオン~クノッソス地区の墳墓群からは、具体的な出土品ではミノア文明の宝飾品、陶器や石製印章、さらに好戦的な「占領ミケーネ人」を象徴する青銅製の宝飾剣や武器類などがもたらされた。
これらの出土品には「本家本元」のミノア文明だけでなく、「外来」と言えるギリシア本土ミケーネ文明の要素が多々含まれている。特に出土点数が多いのは、編年上で「ミノア&ミケーネ混合文化」と言える後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年以降の墳墓群からの副葬品である。


イソパタ遺跡・「王家の墳墓」

「王家の墳墓」の発掘

クノッソス宮殿遺跡~北方2.8km、カイラトス川左岸(川~西方500m付近)、周囲よりわずかに標高がある丘に造られた、イソパタ遺跡 Isopata の「王家の墳墓 Royal Tomb」とされる遺構が確認された。

GPS イソパタ遺跡・王家の墳墓: 35°19′17″N 25°09′19″E/標高90m

イソパタの王家の墳墓の発掘ミッションは、クノッソス宮殿遺跡の発掘者であるエヴァンズが担当した。ミッションはクノッソス宮殿遺跡発掘(1900年~1904年)の一環として、1904年に実施された。

120年前、エヴァンズの発掘ミッションが実施された時期、この地域では軟質岩盤の石切り作業が盛んに行われていた。当時、土地所有者である農家では家屋の基礎石として王家の墳墓の石組み石材を搬出、さらに丁寧にカットされた墳墓の石材は新たに石切りする手間も省けることから、市街の聖ニコラオス教会堂の建築材にも使われるほど、特に墳墓上部に相当する天井部の石組みは解体・搬出されていた、とされる。

当然、歴史の中で盗掘があり、金銀財宝や青銅製の器具、装飾短剣などの多くが失われてしまった。が、それでもこの複合的な大型横穴墓が「王家の墳墓」と呼ばれるのに相応しい、点数こそ多くはないが、高貴な出土品がもたらされた。

そのほか、王家の墳墓に隣接する「王家の墳墓グループ」として、イソパタ遺跡・1号墓(連結1a号墓含む)2号墓3号墓4号墓5号墓6号墓の、合計6基の横穴墓が確認されている。ほとんどの墳墓が盗掘されていたとは言え、残されていた副葬品は何れもクノッソス宮殿の王家親族の被葬者を象徴するに相応しい物品であった。


「王家の墳墓」の構造

複合的で大型横穴墓の範疇であるイソパタの王家の墳墓 Royal Tomb of Isopata の通路ドロモスは、軟質な凝灰岩の岩盤を掘削した最大深さ5.5m・幅2m・長さ約24m、カイラトス川側の北東~墳墓入口の南西方向へ緩やかに傾斜して下る仕様であった。
高さのない奥行1mの第一入口を潜ると横幅1.6m・奥行き6.8mほどの前室 Fore Hall となり、再び高さのない第二入口を潜ると埋葬室 Inner Chamber に至る規模の大きな複雑な構造である。
また、前室の左右には幅1m強・奥行き約1.3m(石組みの厚さ)の副室的な空間があり、発掘では少なくとも三人の遺体が見つかり、さらに埋葬室の最奥正面にも幅1m強・奥行き1.3m(石組みの厚さ)の副室的な空間が設けられていた。

通路ドロモスは地表面から長さ24mの穏やかな傾斜が始まり、最大深さ5.5mで垂直に掘削したままの岩盤が露出する施工だが、第一入口~前室~第二入口~埋葬室は、掘削した岩盤の内側全面に厚さ1.3m前後の切石積みの丁寧な施工が施されていた。
頂点がやや尖るヨーロッパ・ロマネスク様式の教会堂の尖頭アーチ型、またはやや丸みの頂点を示すカテナリーアーチ型(かまぼこ型)と想定できる、高さ約8mと推定された埋葬室の天井部分の石組みは、すでに歴史の中で解体・搬出されていた。

周辺地表面から深さ約6mレベルとなる石膏表装の埋葬室・床面の広さは、横幅6.1m・奥行き7.8m(7.7~7.9m)の長方形である。埋葬室を第二入口から見て右側床面には、長さ2.2m・幅60cmのキスト墓 Cist Grave が掘られ、ピットは二段形式で深さ1.9mであった。
キスト墓の丁度東側の内壁面(第二入口の右側)の高さ70cm付近には横向きの両刃斧の記号が刻まれていた。この墳墓には極めて尊貴な人達が埋葬されることを暗示させている。

ミノア文明・イソパタ遺跡・王家の墳墓・プラン図 Plan of Minoan Royal Tomb, Isopata/©legend ej
イソパタ遺跡・「王家の墳墓」アウトラインプラン図
参考情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v. IV(1935年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

エヴァンズのクノッソス地区の墳墓の発掘レポート(1906年)によれば、ほかのイソパタ遺跡・1号墓などを含む、この地域では表土部分が平均深さ50cmほど、埋葬室の床面は地表面から深さ6mレベルであり、王家の墳墓の造営では表土除去は簡単だが、軟質岩盤を深さ5.5m掘削して建造したことになる。
結果、推定通り、墳墓天井が約8mの高さであったなら、当然、天井部の石組みは2m前後の露出、あるいは土で覆った場合では周辺より3m以上の「塚」となり、建設当初から王家の墳墓は、イソパタの丘の上で結構目立った造営物であったかもしれない。その理由から、歴史の中で盗掘者の涎(よだれ)を誘う恰好のターゲットとなったのであろう。

王家の墳墓の建造時期ははっきりとしない。発掘ミッションにより確認された出土品は、ある意味で「最終埋葬」の副葬品である。副葬品の特に石膏石・アラバスター製の容器の多くが、古代エジプト・新王国・トトメスI世やツタンカーメン王に代表される、第18王朝時代の作品とされることから、王家の墳墓の最終埋葬について、研究者は「新宮殿時代」の後半~最終期、後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~クノッソス宮殿が最終崩壊する後期ミノア文明LMIIIA1期・紀元前1375年頃に属する、と断定している。
あるいは一部の希望的な論説では、紀元前12世紀の《トロイ戦争》で「木馬」に隠れて功績を挙げたミノア王国の英雄・イドメネウス王の埋葬を含め、王家の墳墓はさらに後期ミノア文明LMIIIB期・紀元前13世紀頃まで使われた、とする可能性も否定していない。

その上で、多くの先史文明では、王族を含む統治者は一つの大型墳墓を代々に渡り長期間使用する傾向があること、そして出土した閃緑岩製の小型ボウル容器(直径11cm・高さ5cm)が、古代エジプト・中王国・第12王朝、紀元前20世紀の様式とされることから、王家の墳墓自体は「新宮殿時代」より遥かに早い時期、「旧宮殿時代」に建造され、前埋葬を順次整理しながら、継続的に長期間使用されて来た、とする仮想もやや現実的と言えるかもしれない。


「王家の墳墓」からの出土品・宮殿様式陶器

歴史の中で金銀財宝類の盗掘が行われたとしながらも、サイトからは盗掘者が「価値がない」と判断した結果の「見落とし品」であるが、クノッソス宮殿の「最終期」の王家の被葬者を象徴する幾らかの副葬品がもたらされた。

王家の墳墓からの重要な出土品では、美しい器形の宮殿様式のアンフォラ型容器がある。宮殿様式陶器は元々、ギリシア本土ミケーネ文明で開発された美しい器形の陶器だが、紀元前1450年頃、クレタ島へ侵攻したミケーネ人が持ち込み、クノッソス宮殿の陶器工房で改良・発展させた陶器である。
ウェストを絞り美しいヒップラインを強調した女性のマーメイド・ローブのようなビューティ・シルエットの、「クノッソス宮殿 限定品」と言える宮殿様式のアンフォラ型容器こそが、先史の東地中海域で「最も美しい陶器」と呼ばれた器形である。

王家の墳墓からは四器の美しい宮殿様式陶器が出土した。その内の一つは高さ635mm・腹部直径420mm、三か所のハンドル付き、幸いなことに大きな損傷もない状態で出土した。
平らな口縁部の上面にはサメの背ビレのような三角波&光る星(Wave-and-Star)の連鎖紋様、肩部は隙間なく連鎖する「まが玉」に似たカンマ紋様、そして側面には花咲くパピルスを抽象化した大胆な連鎖絵柄である。

ミノア文明・イソパタ遺跡・「王家の墳墓」・宮殿様式アンフォラ型容器・植物性デザイン Minoan Palace Style Amphora, Floral Design, Isopata/©legend ej
イソパタ遺跡・「王家の墳墓」出土・アンフォラ型容器
宮殿様式・美しい器形・パピルスの抽象化絵柄
後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1400年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号3882/高さ635mm
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・イソパタ遺跡・「王家の墳墓」・宮殿様式アンフォラ型容器・植物性デザイン Minoan Palace Style Amphora, Architectual Design, Isopata/©legend ej
イソパタ遺跡・「王家の墳墓」出土・アンフォラ型容器
宮殿様式・美しい器形・構成的なデザイン絵柄
後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1400年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号3884/高さ503mm
クレタ島・中央北部/1982年

やや小型サイズとなるが、高さ503mmの宮殿様式のアンフォラ型容器も三か所ハンドル付き、肩部には渦巻き線の連鎖と、カンマ紋様が植物の新芽のように二重連鎖で埋め尽くしている。また、腹部を縦三分割しているハンドルから下方へ延びる縦帯にもカンマ紋様の二重連鎖が描かれている。
腹部は水平三区分され、上部と中間部のスペースは宮殿の装飾にも採用された、チェッカー紋様の縦帯で二分割された構成デザインの多重円紋様が、そして下部は複数の湾曲線が噴水のように上下する連鎖装飾である。

多重円紋様を二分割するチェッカー紋様の組み合わせは、ミノア文明の上質な構成的な装飾の一つであり、クノッソス宮殿・西翼部・聖域の象徴である「三分割聖所」のファサード中央下部の装飾、あるいはエヴァンズが西中庭で発見した、西翼部二階の西入口の軒下部分・フリーズから崩落したと考えられる、半割ロゼッタと渦巻き線紋様が刻まれた石灰岩製の浮彫加工品(レリーフ)に共通する装飾パターンである。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「聖域」Sanctuary, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿・西翼部・三分割聖所(再現予想図)
プレ・ヘレニズム様式の円柱&雄牛角U型オブジェ
原画情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.II(1928年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)
描画&色彩:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・浮彫加工 Half Rosette Relief, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西中庭出土・石灰岩製の浮彫加工品
半割ロゼッタ&渦巻き線の浮き彫り/幅29cm
後期ミノア文明LMII期・紀元前1450~前1400年
Ashmolean Museum, U. Oxford (UK)
登録番号AN1896-1908-AE791
※Sir Arthur John Evans寄贈(1905年)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


「王家の墳墓」からの出土品・石製エジプト容器

そのほか、王家の墳墓からの出土品では、古代エジプトの色々な時代の王朝からクノッソス宮殿のミノア王家に献上されたと思われる、器形とサイズの異なる石膏石・アラバスター製の容器が11器、そして斑岩製の容器閃緑岩製の小型ボウル容器がそれぞれ一器ずつ出土した。

最も知られているエジプト容器の一つは、エジプト様式の特徴を示す円筒型の長い頸部、縦長のストラップ型のハンドル、低円錐型の高台(脚部)、腹部は「卵型」でやや粗い表面仕上げの容器である。
この背高でハンドル付き容器と同じように頸部が長い器形ではやや小型品が三器、さらに日本酒の「徳利」を少し太めにしたようなタイプも大小サイズで合計四器、そして三器のボウル型容器も出土した。何れも石膏石・アラバスターの持つ乳白色の穏やかな色彩、優しい手触り感のある石製品である。

ミノア文明・イソパタ遺跡・エジプト・アラバスター製容器 Egyptan Alabaster Vase, Knossos-Isopata-Royal Tomb/©legend ej
イソパタ遺跡・「王家の墳墓」出土・石膏石製の容器
古代エジプト・第15~第18王朝からの献上品 or 輸入品
・左=イラクリオン考古学博物館・登録番号600/高さ253mm
・右=イラクリオン考古学博物館・登録番号603/高さ 78mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

同時に出土した水晶の大粒斑紋が際立つ緑黒色系の斑岩製のエジプト容器では、腹部直径380mm・高さ130mm、口縁部が斜め60度でラッパ状に上方へ広がり、横から見たならX軸対称の「そろばん玉」のような器形である。
これらの石製容器は、ミノア文明では「旧宮殿時代」の初期となる古代エジプト中王国・第12王朝を含め、「新宮殿時代」の初期に相当する第二中間期・第15王朝・キアン王に代表される「アジア系ヒクソス族(異国支配者)」の時代の作品、そして多くは「新宮殿時代」の最盛期に相当するトトメスI世の新王国・第18王朝時代の作品とされる。

ミノア文明・イソパタ遺跡・「王家の墳墓」・エジプト産石製容器 Egyptian Stone Vessel, Minoan Royal Tomb of Isopata/©legend ej
イソパタ遺跡・「王家の墳墓」出土・斑岩製の容器
古代エジプト・第18王朝からの献上品 or 輸入品?
イラクリオン考古学博物館・登録番号611/腹部直径380mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

なお、暗色系の石材で斑紋が美しい対比を示す石製エジプト容器では、最東部のザクロス宮殿遺跡・宝庫区画から出土した玄武岩製の容器がある。
歴史上初めてピラミッド建設を行ったファラオ・ジェセル王を含む、古代エジプト・古王国・第三王朝時代(紀元前2686年~前2613年)に製作され、輸入された後、ザクロス宮殿の工房で容器の肩部に小穴が加工され、ミノア文明お得意の陶器でブリッジ型注ぎ口を造り、肩部に取り付けた、と推測されている。

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・エジプト輸入の石製容器 Basalt Vase from Egypt, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・西翼部出土・エジプト輸入の石製容器
斜長石の斑晶玄武岩/陶器製ブリッジ型注ぎ口付き
イラクリオン考古学博物館・登録番号2695/高さ165mm
クレタ島・最東部/描画:legend ej


参考情報だが、古代エジプト第二中間期・第15王朝の時代、「エジプトのナポレオン」と別称される第三代ファラオ・キアン(Khyan 在位=紀元前1610年~前1580年)の名前が刻印された石膏石・アラバスター製の容器の蓋が、クノッソス宮殿の北翼部・「聖なる区画」から出土している。
イソパタ遺跡・王家の墳墓からの出土を含め、エジプトからの献上品や輸入された石製容器の出土例は、特に大繁栄の「新宮殿時代」がスタートしたミノア文明が、交易を通じてエジプトとの濃厚で深化した関係にあったことを裏付けていると言える。

クノッソス宮殿遺跡・古代エジプト第15王朝・ファラオ・キアン名の蓋 Name of Egypt Pharaoh Khyan on Lid, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・北翼部出土・石膏石製の容器の蓋
古代エジプト・第15王朝・「ファラオ・キアン」の刻銘
新宮殿時代の前半期・紀元前1600年~前1550年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号263/直径115mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej



「王家の墳墓」からの出土品・宝飾品

盗掘の影響から、王家の墳墓からの宝飾品の出土はわずかな点数であった。盗掘者の「見落とし品」となる微細な物品だが、ねじり形式の金製のヘアピンを初め、ラピスラズリ製のネックレースと猿やカエルを形容したラピスラズリ製のネックレース・トップ、押し潰された状態で見つかった銀製のゴブレット杯などである。

ミノア文明・イソパタ遺跡・「王家の墳墓」・宝飾品 Minoan Jewelry from Isopata Royal Tomb/©legend ej
イソパタ遺跡・「王家の墳墓」出土・宝飾品
参考情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
「クノッソス地区・先史時代の墳墓群(1906年)」
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


「王家の墳墓」からの出土品・青銅製鏡・水晶加工品・粘土印影・石製ランプ

エヴァンズの発掘では、王家の墳墓から青銅製鏡水晶加工品、そして破断片も含め同じ印章で押された合計12点の粘土印影石製ランプが見つかっている。
青銅製の大型の鏡と一緒に腐食の進んだ象牙製ハンドルの痕跡が確認され、水晶製品では青銅短剣のハンドル柄頭、さらにネックレースに使ったのか大型の水晶ビーズ品と単純な円盤形容の水晶パーツも見つかっている。
盗掘者が持ち去ったのであろう男性被葬者の青銅短剣や豪華な金銀財宝類などは確認されていないが、青銅製の鏡は女性被葬者の持ち物であったであろう。

粘土印影はレンズ型の直径18.5mm、硬質な石製印章で押されたと推測でき、雄牛の寝そべる姿と渦巻き線のある神殿?が刻まれている。
同じ粘土印影が埋葬室内で大量に見つかった意味は、埋葬時、あるいはクノッソス宮殿での埋葬準備時に、宝飾品などを収納した少なくも12箱以上の木箱が、石製印章を持つ宮殿の葬儀担当者により封印され、遺体と共に副葬されたと無理なく想像できる。当然、木箱に納められた金銀財宝の宝飾品は、盗掘者を大興奮・大満足させるに十分過ぎる非常に豪華な品々であった。

ミノア文明・イソパタ遺跡・「王家の墳墓」・雄牛の粘土印影  Minoan Bull Clay Seal Impression, Isopata/©legend ej
イソパタ遺跡・「王家の墳墓」出土・粘土印影
印影=寝そべる雄牛・渦巻き線の神殿?
印章=硬質石製・レンズ型・直径18.5mm
後期ミノア文明LMII期~LMIIIA1期・紀元前1450年~前1375年
Ashmolean Museum, U. Oxford (UK)
登録番号AN1938-1082
※Sir Arthur John Evans 寄贈(1938年)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

また、この粘土印影とまったく同じ印影が、王家の墳墓~南方1.8km、クノッソス宮殿遺跡~北方1km、ザフェール・パポウラ遺跡の二人が埋葬された横穴墓・56号墓からも出土している。
「寝そべる雄牛」の石製印章の所有者が、ザフェール・パポウラ共同墓地の被葬者の葬儀にも何らかの関りがあり、葬儀の準備時に宝飾品を収納した木箱の封印を行っていた、と連想できる。そうだとしたら、石製印章の所有者自身の埋葬墳墓も現物の印章も確認されていないが、クノッソス宮殿勤務の、しかも宮殿レベルで行う葬儀などの総括責任者とか、相当な高位の人物であったかもしれない。

王家の墳墓の埋葬室から出土した石製ランプは二器である。二器とも淡い紫色系の石膏石・アラバスター製、やや大きいランプは高さ92mm・口縁部径200mm、もう一方のランプは高さ93mm・口縁部径165mm、何れも口縁部~肩部に渦巻き線の連鎖浮き彫りが施されていた。

ミノア文明・イソパタ遺跡・「王家の墳墓」・石製ランプ Minoan Alabaster Lump, Royal Tomb of Isopata/©legend ej
イソパタ遺跡・「王家の墳墓」出土・石膏石製ランプ
口縁部~肩部=連鎖する渦巻き線の浮き彫り
イラクリオン考古学博物館/口縁部径200mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・墳墓形式(簡易区分)
死者の埋葬は先史の時代より人々の宗教的・精神的な重要な習慣・儀式であった。個々の墳墓の詳細仕様ではそれぞれ微差があるが、ミノア文明の墳墓の形式をアウトラインで区分した場合、下記の形態となる。
特に軟質岩盤を掘削して造営する構造的に強固な横穴墓では、単埋葬で封印されそれ以降使われなくなるのではなく、数世代に渡って代々使われるケースもあり、その都度入口の石組みを開放、新埋葬が行われた。また、発掘される横穴墓の「最終埋葬」の被葬者数では、単数と複数埋葬が半々程度となる。

ミノア文明・墳墓形式 Minoan Grave-Tomb Type/©legend ej
ミノア文明・墳墓形式
土葬・単純ピット埋葬・キスト墓・岩窟墓(岩陰墓)
作図:legend ej

ミノア文明・墳墓形式 Minoan Grave-Tomb Type/©legend ej
ミノア文明・墳墓形式
竪穴墓・ピット墓(竪穴+副室)
作図:legend ej

ミノア文明・墳墓形式 Minoan Grave-Tomb Type/©legend ej
ミノア文明・墳墓形式
横穴墓
作図:legend ej

このほか、特に初期ミノア文明~中期ミノア文明の南西部・フェストス宮殿周辺では、数世紀に渡り使用された大型のメッサラ様式・円形墳墓 Messara Type Circular Tomb が造られ、現在までに75基が確認されている。
さらに「新宮殿時代」の後半~末期・紀元前1450年頃から、ギリシア本土ミケーネ人の「クレタ島侵攻」が始まり、クノッソス宮殿を含め統治者が変更となり、本来のミノア文明の「衰退」が始まり、政治的・文化的な大きな変革の影響から、墳墓数は多くはないがクレタ島内でもミケーネ様式・トロス式墳墓 Mycenaean Tholos Tomb が造られた。

ミノア文明・円形墳墓&ミケーネ文明・トロス式墳墓 Minoan Circular Tomb and Mycenaean Tholos Tomb/©legend ej
ミノア文明・円形墳墓&ミケーネ文明・トロス式墳墓
・ミノア・メッサラ様式の円形墳墓(地上式)
・ミケーネ様式のトロス式墳墓(半地下式)
・ミケーネ様式のトロス式墳墓(地下式)
作図:legend ej

ミノア文明・カミラーリ遺跡・円形墳墓 Messara Style Circlar Tomb, Kamilari/©legend ej
カミラーリ遺跡・メッサラ様式の円形墳墓A
クレタ島・メッサラ平野/1994年

ミノア文明・アルカネス遺跡・トロス式墳墓B Tholos Tomb B, Archanes/©legend ej
アルカネス遺跡・フォウルニ共同墓地・トロス式墳墓B
左=南東側の入口/右=北西側副室への通路口
トロス内面=盛り上がりベンチ状床面
クレタ島・中央北部/1994年

ミノア文明・アクラディア遺跡・トロス式墳墓 Mycenaean Tholos Tomb, Achladia/©legend ej
アクラディア遺跡・ミケーネ様式のトロス式墳墓
保存状態の良い墳墓への通路ドロモス~入口
後期ミノア文明LMIII期・紀元前1300年頃
クレタ島・東部/1996年


イソパタ遺跡・「王家の墳墓グループ」の墳墓群

イソパタ遺跡・「王家の墳墓グループ」・1号墓と金製《イソパタ・リング》

王家の墳墓に隣接する「王家の墳墓グループ」である1号墓~6号墓では、それぞれの墳墓でわずかな時間差はあるにしても王家の墳墓と同様に「新宮殿時代」の後半~末期、後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~クノッソス宮殿が最終崩壊する後期ミノア文明LMIIIA1期・紀元前1375年頃に埋葬された、と断定されている。

「王家の墳墓」&「王家の墳墓グループ」

・「王家の墳墓」:Royal Tomb of Isopata(上述)
・横穴墓・1号墓&1a号墓:「王家の墳墓」形式・金製リング《イソパタ・リング
・横穴墓・2号墓:《両刃斧の墳墓 Tomb of Double Axes》・複雑構造・複数埋葬室
・横穴墓・3号墓:《職杖持者・メイスベアラーの墳墓 Mace-bearer's Tomb》
・横穴墓・4号墓
・横穴墓・5号墓:《多彩色リュトン杯の墳墓 Tomb of Polychrome Vases》
・横穴墓・6号墓:複数埋葬室・子供含む埋葬

「王家の墳墓グループ」・1号墓と1a号墓は連結横穴墓と言える構造である。北方向へ延びる55m以上、非常に長い通路ドロモスを備えた横穴墓・1号墓が造営された後、1号墓の通路ドロモスを直角に横切る形で東方から約12mの長さの1a号墓の通路ドロモスが掘削された、と考えられている。

ミノア文明・イソパタ遺跡・「王家の墳墓グループ」・1号墓 Minoan Royal tomb 1, Isopata/©legend ej
イソパタ遺跡・「王家の墳墓グループ」・1号墓&1a号墓
アウトライン・プラン&セクション図
参考情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
「古代に関連するその他の地域の考古学 v. LXV(1913年)」
Central Archaeological Library, Government of India (IN)
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

天井部は破壊されていたが、横穴墓・1号墓の前室と埋葬室の側面は、王家の墳墓と同じように完璧に切石組み施工された堅固な仕様であった。
正方形の埋葬室の南東側床面に「L字形」に掘削された深さ約1.7mのキスト墓があり、中から女神と二匹の蛇が見守る中、四人のミノア女性達がダンスに興じる情景を描写した、素晴らしい金製リングが出土した。
この金製リングはミノア文明の宝飾品の金製リングや石製印章などを語る上で最優先でピックアップされるほど、ミノア工芸美術の最高傑作の宝飾品の一つとされ、その象徴的な意味を込めて研究者から《イソパタ・リング Isopata Ring》と固有名詞で呼ばれている。

ミノア文明・イソパタ遺跡・「王家の墳墓グループ」・1号墓・金製「イソパタ・リング」Minoan Gold Isopata-ring, near Knossos Palace/©legend ej
イソパタ遺跡・「王家の墳墓グループ」・1号墓出土・金製リング
《イソパタ・リング》 印面=楕円形・横26mm
エピファニー表現=女神・蛇・踊る女性達・スミレ花
後期ミノア文明LMI期・紀元前1550年~前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号424
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

印面幅26mmのややオーバル形状、この金製リングにインタリオ(凹)で刻まれた情景は、研究者から「エピファニー表現」と呼ばれ、極めて祭祀的な意味を含み、それでいて日常的にもあり得る情景でもある。
遠近法で表現されていることから、金製リングの女神は中央左遠方に「小さく」刻まれ、その足元に一匹の蛇が、さらに右遠方にもやや大きな蛇が刻まれていることから、場面は極めて神聖な雰囲気と判断できる。
ミノア風の厚ぼったいスカート姿の四人のミノアの女性達、左側の二人と中央の女性は髪飾りとロングヘアが揺れていることから「若い女性」、右側の女性の髪は結ってあることから三人より少し「年上女性」であろう。四人の周囲にはスミレの花が咲き乱れることから、時期は春の頃、場所は宮殿の南方のジプサデスの丘など草原である。

若い女性達がある年齢に達したことを祝う、何か喜びの踊りなのか、あるいは女神が見守る中で執り行う何かの儀式なのかは想像の域である。
ただ、中央の女性の左腰近くに「眼」のような刻みがある。これは、一部の研究者は「発芽」する新芽としているが、もしかしたら、三人の若い女性達が「子供を宿す時期」になったことを意味するのはないだろうか?
その祝いを右側の経験者である先輩女性がリードして、全員で伝統ある「喜びの舞」を踊っている可能性がある。だとしたら、この「神出(かみいずる)エピファニー表現」は、女性に関わる生理学的な成長と幸ある未来への期待を秘めた歓喜のシーンなのかもしれない。

この金製リングの所有者(被葬者)は、ほとんど間違いなく、ミノア文明の最も繁栄した平和で豊かな時代、クノッソス宮殿に住んだミノアの王妃、または可憐な王女高位貴族など尊貴な女性であったと推測でき、その製作は「花ほとばしる新宮殿時代」の最盛期、後期ミノア文明LMIA期~LMIB期、紀元前1550年~前1450年頃とされている。
なお、横穴墓・1号墓の埋葬は金製リングの製作より半世紀ほど後、後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1400年頃と断定されている。

王家の墳墓に隣接する位置、金製リングの出土した横穴墓・1号墓は、宮殿の南方ジプサデスの丘にある王家の墳墓 Temple Tomb(上述)と並び、クノッソス宮殿を統治した王族の埋葬に関係する「王家の墳墓グループ」の一つであった。

ダンスを踊るミノア女性達
「エピファニー表現」とは言えないが、ミノアの女性達のダンスに関しては、最東部のパライカストロ遺跡の神殿遺構から、一人の女性の演奏するリラに合わせて三人のミノア女性が踊る姿を形容した、テラコッタ製の《ダンスを踊るミノア女性達》の像が出土している。
明らかに塑像は庶民が神殿へ奉納したものである。ミノア文明では音楽やダンスは宮殿の高貴な人達に限定されたものではなく、広く庶民の楽しみでもあったことを物語っている。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・《ダンスを踊るミノア女性達》Minoan Dancing Women with Lire. Plaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・《ダンスを踊るミノア女性達》
中央女性=リラの演奏/周囲女性達=ダンスを踊る
後期ミノア文明LMIIIA2期・紀元前1350年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号3903
クレタ島・最東部/描画:legend ej


ダンスを踊る女性達の表現では、クノッソス宮殿遺跡・ローヤルロード脇で確認されたフレスコ画の邸宅からは、一般的な印章素材である滑石・ステアタイト製の横16.5mm・縦15mm、いわゆる枕に似たクッション型の印章が見つかっている。
印面にはミノア風の厚ぼったいスカート姿の二人の女性が、腕を大きく振り、ダンスを踊っているシーンが刻まれ、左側には聖なる樹木なのか判断できないが、植物の植え込みのような刻みが確認できる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画の邸宅・石製印章 Minoan Stone Seal, House of Fresco, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画の邸宅出土・石製の印章
滑石製・クッション型・ダンスを踊る二人の女性
紀元前1550年~前1450年/横16.5mm・縦15mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号1288
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


1号墓からの出土品・金装飾の石製印章

《イソパタ・リング》が出土した横穴墓・1号墓からは、中ぐり円筒を押しつぶしたようなフラット系円筒形(クッション形状)の印面、左右両端が金装飾されたカルセドニー(玉髄)のビーズ形式の印章も見つかっている。
横幅20mm、長方形の淡青色の印面には、頸部・襟カラー装飾の堂々たるライオンが刻まれ、おそらくライオン調教師なのか、二人のミノア男性が佇んでいるシーンが表現されている。

ただ、多くの研究者の想定では、大型の四つ足動物は「調教されたライオン」としているが、尾がライオン風ではなく、やや大型の番犬・マスティフの感じがしないでもない。エヴァンズもライオンとしながらもマスティフ番犬の可能性も否定していない。何れにしてもモチーフはエジプトからの影響を示している。
製作は被葬者が埋葬された時期、《イソパタ・リング》と同じ「新宮殿時代」の後半期、後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1400年頃とされる。

ミノア文明・イソパタ遺跡・カルセドニー製ライオン印章 Chalcedony Seal with Lion, Isopata/©legend ej
イソパタ遺跡・「王家の墳墓グループ」・1号墓出土・カルセドニー製の印章
金装飾・フラット系円筒型=ライオン&調教師二名
紀元前1450年~前1400年頃/ビーズ形式・横20mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号900
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

参考情報だが、カルセドニー製の《ライオン印章》のモチーフに非常に近似する、「新宮殿時代」に属する金製リングタイプの印章が、クノッソス宮殿遺跡・南西端の南の邸宅から出土している。
南の邸宅からの印章では、素材には濃紺色のラピスラズリが使われ、大型ライオンと調教師が一人という表現だが、その印面外周はミノア文明のハイレベル工芸美術の一つ、「黄金の造粒技術 Gold Granulation」、金の微細粒の装飾が施されている。金製の装飾と貴重なラピスラズリのコラボレーション、この金製リングタイプの印章の所有者が、クノッソス宮殿の相当高位な人物であったことを連想できる。
なお、「黄金の造粒技術」の最高傑作品としては、北海岸のマーリア宮殿遺跡・共同墓地で見つかった金製の《ミツバチ・ペンダント》がある。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・南の邸宅・石製印章 Minoan Lapis-lazuli Seal,  Lion with Tamer, South House, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・南の邸宅出土・金製リングタイプの印章
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
・円形印面外周=「黄金の造粒技術」・金の微細粒
・素材=円盤型ラピスラズリ・横幅18mm~19mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号839
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・マーリア遺跡・金製「ミツバチ・ペンダント」Gold Bee-Pendant, Malia, Crete/©legend ej
マーリア遺跡・共同墓地出土・金製《ミツバチ・ペンダント》
イラクリオン考古学博物館・登録番号559/高さ46mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej



1a号墓からの出土品

1号墓の通路ドロモスと交差するドロモスの横穴墓・1a号墓からは、過去の盗掘の結果、埋葬室からはわずかな点数の出土品しか確認できなかったが、青銅製の大型の槍先が三個、カーネリアン製のアーモンド型のビーズ印章、陶器では水差しと小型容器が見つかっている。


イソパタ遺跡・「王家の墳墓グループ」・2号墓《両刃斧の墳墓》

イソパタ遺跡・「王家の墳墓グループ」の横穴墓・2号墓の通路ドロモスは長さ約15m、最初70cmほどの狭い幅で始まり、傾斜15度のやや急斜面で北方~入口(南方)へ向かうに従い徐々に幅が広がり、高さ2.6mのアーチ型入口付近では幅155cmとなる。
エヴァンズの発掘では、入口付近は切石組みの崩壊石材と土砂で埋め尽くされていたが、入口と埋葬室の境目付近、床面から高さにして120cm付近の堆積層から、長さ203mmの青銅製の両刃斧が見つかっている。
通常、出土品は遺構の最下部レベルから見つかるが、何故に堆積層の中間付近で重さのある青銅製品が出土したかは分からないが、歴史の中で盗掘者が抱え切れないほどの金銀財宝を掘り出して撤収する際に「落とした」のかもしれない。

ミノア文明・イソパタ遺跡・「王家の墳墓」・2号墓・青銅製の両刃斧 Minoan Bronze Axes, Isopata/©legend ej
イソパタ遺跡・「王家の墳墓グループ」・2号墓出土・青銅製の両刃斧
《両刃斧の墳墓 Tomb of Double Axes》・実用型&装飾用
参考情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
「古代に関連するその他の地域の考古学 v. LXV(1913年)」
Central Archaeological Library, Government of India (IN)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

天井崩落であった埋葬室は非常に複雑でユニークな構造、入口から見た場合、中央の仕切り壁で左右に分かれ、丁度「V字形」のような内部空間である。
副葬品が散在していた入口付近の床面を基準とするなら、右側は1mほど高いわずかに傾斜する「ベンチ状」となり、2.2mx90cmほどのキスト墓が掘られていた。ベンチ面より40cm下から始まる、平面視野で「両刃斧」と同じ形状に掘られた埋葬ピットは深さ約1m(ベンチ面~1.4m深い)であったとされる。なおキスト墓のベンチ面より奥部の空間はさらに20cmほど高い平面施工であった。

入口付近から青銅製の両刃斧が出土、埋葬室内からは二基の祭祀的な青銅製の小型両刃斧も見つかり、さらに埋葬ピットの形状が「両刃斧」であったことから、エヴァンズは複雑構造の2号墓を《両刃斧の墳墓 Tomb of Double Axes》と名称した。

ミノア文明・イソパタ遺跡・「王家の墳墓グループ」・2号墓 Minoan Royal Tomb 2, Isopata/©legend ej
イソパタ遺跡・「王家の墳墓グループ」・2号墓
《両刃斧の墳墓 Tomb of Double Axes》アウトライン・プラン図
参考情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
「古代に関連するその他の地域の考古学 v. LXV(1913年)」
Central Archaeological Library, Government of India (IN)
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

一方、入口から見て正面左側が埋葬室の基準床面となり、陶器を含め多くの副葬品が床面に散在する形で見つかっている。既に崩落していたが、推定された中央天井部は床面~高さ3.6m前後とされ、基準床面は地表面~6m前後の深さであったとされる。
また、左側埋葬室では東~南壁面に沿って、床面~高さ70cmの「L字形」のベンチ面となり、盗掘されたのか器自体はなかったが、銀製のゴブレット杯のハンドル部分が見つかっている。


2号墓からの出土品・上質な陶器

埋葬室(左側)床面からは、タコや植物モチーフの最大高さ720mmの大型アンフォラ型容器を初め、美形の水差しや特殊形容のハンドル付きリュトン杯など、合計9器の陶器が出土した。破壊されていたが雄牛頭型の陶器リュトン杯も見つかり、さらに20個を数える青銅製の槍先、三基の青銅製のナイフも出土した。

出土品には「新宮殿時代」の半ば、後期ミノア文明LMI期・紀元前1500年頃から盛んに生産された「準宮殿様式 Special Palatial Tradition」の絵柄モチーフの一つ、抽象・幾何学様式 Abstract & Geometric Style の、非常に美しい器形の水差しが含まれている。
鶴のように細く長い頸部、肩部は直線とカンマ紋様の連鎖、そして腹部は水平三区分され、スペースを取りながらゆらゆらと揺らぐ波状パターンが、明るい地に黒褐色で表現されている。如何にも宮殿で飾るに相応しい優美な陶器という印象を覚える。

ミノア文明・イソパタ遺跡・「王家の墳墓グループ」・水差し Minoan Jag, Royal Tomb, Isopata/©legend ej
イソパタ遺跡・「王家の墳墓グループ」・2号墓出土・水差し
準宮殿様式陶器・抽象・幾何学様式のモチーフ
後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号6506/高さ350mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

美形の水差しとほぼ同じ時期の作品、準宮殿様式の水差しが、クノッソス宮殿遺跡・東入口の周囲林の外側、現在は農道だが、かつてのミノア道を北方へ130mほど進んだ、道の右下にクノッソス宮殿の尊貴な王族や祭司などが居住した、王家の邸宅 Royal Villa から出土している。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王家の邸宅・水差し Minoan Jug, Knossos Royal Villa/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・王家の邸宅出土・水差し
準宮殿様式の美しい器形/長い頸部&注ぎ口・楕円ハンドル
肩部=抽象化された放散状のパピルスの絵柄
後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

2号墓からの特殊形容の祭祀リュトン杯の「8の字形」のリングハンドルでは、「王家の墳墓グループ」・5号墓《多彩色リュトン杯の墳墓》から出土した円錐形のリュトン杯と共通する仕様である(後述)。

ミノア文明・イソパタ遺跡・祭祀リュトン杯 Minoan Ritual Rhyton, Royal Tomb of Isopata/©legend ej
イソパタ遺跡・「王家の墳墓グループ」・2号墓出土・陶器リュトン杯
「8の字形」ハンドル・特殊形容の祭祀用容器
後期ミノア文明LMII期~LMIIIA1期・紀元前1450年~前1375年
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

キスト墓からは被葬者が身に付けていたライオンを刻んだカーネリアン製のビーズ型印章、アオイガイ形容の金製ネックレース・ビーズが見つかっている。

ミノア文明・金製ネックレース・アオイガイ形容 Minoan Gold Necklace, Argonauta Argo motif/©legend ej
ミノア文明・金製ネックレース・アオイガイ形容
描画:legend ej

2号墓の埋葬は、ほかの「王家の墳墓グループ」とほぼ同じ、後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~クノッソス宮殿が最終崩壊する後期ミノア文明LMIIIA1期・紀元前1375年頃とされる。


イソパタ遺跡・「王家の墳墓グループ」・3号墓《職杖持者・メイスベアラーの墳墓》

北方~墳墓入口(南方)へ向かう3号墓の通路ドロモスは、斜面の経年変化でほとんど消滅状態であった。天井崩落の埋葬室は横3.5mx奥行き3.4mほど、ほぼ正方形に近い歪んだ台形、入口から見て左側が床面からわずかに高いステップ構造であった。

副葬品は右側の低い床面に置かれていたが、直径53mm~56mmのほぼ球形、表面に湾曲ファセット(カット面)が施された濃茶色&白色のまだら紋様の珪質角礫岩製の球体が見つかった。エヴァンズはこの球体を権威ある人が持つ宝飾棒・「メイス(職杖)」のトップ部分と推測、3号墓を《職杖持者・メイスベアラーの墳墓 Mace-bearer's Tomb》と名称した。
木製の権威棒自体は腐食してしまっているので、実際にこの球体がメイス・トップを飾っていたかは推測の域である。ただ、メイスではなく、この美しい球体自体が何か祭祀的な役目を果たす、代々伝わる「家宝」のような宝飾品であったのかもしれない。

豪華な金銀財宝類は歴史の中で盗掘者の「戦利品」と化したと推定できるが、埋葬室からは節角の野生ヤギ(クレタ・アイベックス)を刻んだ複数のビーズ型印章、最長470mmの槍先・鏡・ナイフなどの青銅製品が出土、さらにパピルスなどの抽象化モチーフのアラバストロン型容器(陶器)も見つかっている。


イソパタ遺跡・「王家の墳墓グループ」・4号墓

3号墓と同じ北方~入口(南方)へ向かう通路ドロモスは長さ5mほど、天井崩落の4号墓の埋葬室は正方形に近いやや台形、盗掘されたためか豪華な副葬品はなく、魚のうろこ紋様や山形紋様(Λ)のアンフォラ型容器や青銅製の浅いパン容器などが見つかった。
出土した陶器からの判断では、3号墓と同様に4号墓の埋葬は後期ミノア文明LMIIIA1期・紀元前1400年~前1375年頃とされ、被葬者は王家親族に関わる「占領ミケーネ人」の尊貴な人であったかもしれない。


イソパタ遺跡・「王家の墳墓グループ」・5号墓《多彩色リュトン杯の墳墓》

西方~入口(東方)へ向かう長さ13mほどの通路ドロモスを備えた、「王家の墳墓グループ」・5号墓は、丁寧に掘削された横穴墓である。埋葬室は横幅5m・奥行き5.5m・高さ3mほどの方形の構造であった。
内部には脚部が壊れていたが、長さ1.5mほどのベンチか台座のようなものがあり、その脇に一人の遺体が横たわり、左手にはコイル状の銀製リング、やや離れて鏡餅のようなアラバストロン型容器や水差しなど陶器が並べてあったとされる。

そして、遺体の頭部脇からは、非常に凝った形容、装飾的と言える「8の字形」のリングハンドル付き、円錐形状のリュトン杯が三器出土した。
アギア・トリアダ遺跡からの出土例があるが、他に例を見ない特殊なハンドルは、形状的にはギリシア本土の世界遺産・ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓Aから出土した石膏石・アラバスター製リュトン杯の、「Sの字形」の流線形ハンドルに影響された感じがある。
三器の美しいリュトン杯の出土をして、エヴァンズは5号墓を《多彩色リュトン杯の墳墓 Tomb of Polychrome Vases》と名称した。

当然、出土品は色彩劣化していたが、三器の絵柄はほぼ同様、焼成当時にはエヴァンズの言うギリシア語「キアノス色 Kyanos Blue 」と「ヴェネチアン・レッド 」が鮮やかに輝く、ミノア文明の典型的なモチーフ・渦巻き線の連鎖、そしてハンドルの下方にはヘルメット紋様と、二枚貝が開いた形容の「8の字形」の紋様が「透かし表現」のように装飾されていた。

ミノア文明・イソパタ遺跡・円錐形リュトン杯 Minoan Conical Rhyton with 8-shaped Ring-handle and Helmet, Isopata/©legend ej
イソパタ遺跡・「王家の墳墓グループ」・5号墓出土・多彩色のリュトン杯
「8の字形」リングハンドル・渦巻き線&ヘルメット紋様
後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1400年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号7702/高さ285mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミケーネ文明・ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A・アラバスター製リュトン杯 Mycenaean Alabaster Rhyton, Grave Ciecle A, Mycenae Palace/©legend ej
世界遺産/ミケーネ宮殿遺跡出土・石膏石製リュトン杯
円形墳墓A・第IV竪穴墓出土・流線形ハンドル
ミケーネ文明LH1期・紀元前1550年~前1500年
アテネ国立考古学博物館・登録番号389/高さ247mm
ペロポネソス・アルゴス地方/描画:legend ej

三器のうち最も大きなリュトン杯はハンドルを含め高さ285mm、ほかの二器は「ペア」として製作したのかほぼ同じサイズ、口縁部の高さはそれぞれ228mmと212mmであった。また、「8の字形」のリングハンドルでは、2号墓《両刃斧の墳墓》から出土した特殊形容の祭祀リュトン杯のハンドルに共通仕様を見出せる(上述)。

ヘルメットはミケーネ文明の象徴的なモチーフであり、製作は好戦的なミケーネ人の「クレタ島攻撃」の直後、後期ミノア文明LMII・紀元前1450年~前1400年頃とされる。故にこのリュトン杯が副葬された5号墓の被葬者は、王家親族に関わる「占領ミケーネ人」の尊貴な人であったかもしれない。

そのほか、遺体の脇からテラコッタ製の火鉢が見つかっている。この種の火鉢はイソパタ遺跡~クノッソス宮殿遺跡の中間、ザフェール・パポウラ遺跡・横穴墓・32号墓からも出土している。埋葬儀式を行う際に木炭を燃やしたと想像できる。

ミノア文明・イソパタ遺跡・「王家の墳墓グループ」・粘土製火鉢 Minoan Clay Brazier, Isopata/©legend ej
イソパタ遺跡・「王家の墳墓グループ」・5号墓出土・粘土製の火鉢
後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1400年
参考情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
「古代に関連するその他の地域の考古学 v. LXV(1913年)」
Central Archaeological Library, Government of India (IN)
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


イソパタ遺跡・「王家の墳墓グループ」・6号墓

2号墓《両刃斧の墳墓》の東側に隣接する「王家の墳墓グループ」・6号墓では、埋葬室は大きく露出して崩壊状態であった。内部は2号墓と同じようにユニークな構造、入口から見た場合、中央の仕切り壁で左右に分かれ、丁度「V字形」のような内部空間である。

ミノア文明・イソパタ遺跡・「王家の墳墓グループ」6号墓 Plan of Royal Tomb 6, Isopata/©legend ej
イソパタ遺跡・「王家の墳墓グループ」・6号墓
「V字形」埋葬室・アウトライン・プラン図
参考情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
「古代に関連するその他の地域の考古学 v. LXV(1913年)」
Central Archaeological Library, Government of India (IN)
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

過去の盗掘と雨水や土砂の流入の結果か、埋葬遺体の痕跡はなく、平たんな埋葬室床面の中央~右側に盗掘者の「見落とし品」の副葬品が、統一性もなく散在しているのが確認された。
仮想だが、被葬者の一人が「子供」であったのか、出土品の中に楕円形(オーバル形状)の金製リングがあり、アーム(輪部分)の内径が15mm、普通の大人のリングとしては小さいと判断された。
横幅14mm、小さなリングの印面には、おそらく聖なる樹木の神殿と思われる場所で、厚ぼったいミノア風のスカート姿の二人の女神が、(私の想像だが)フォークダンスのように互いに手を取り合って「踊っている」シーンが表現されている。エヴァンズは二人の女神が「綱引き」をしていると判断しているが・・・

ミノア文明・イソパタ遺跡・「王家の墳墓グループ」6号墓・金製リング Minoan Gold Ring, Dancing Two Goddess, Isopata/©legend ej
イソパタ遺跡・「王家の墳墓グループ」・6号墓出土・金製リング
印面=楕円形・二人の女神・手を取り合いダンスを踊る
横14mm・アーム(輪)内径15mm⇒「子供用」?
後期ミノア文明LMII期~LMIIIA1期・紀元前1450年~前1375年
イラクリオン考古学博物館・登録番号431
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

さらにウズガイ(渦貝)かフジツボ形容とイトカゲガイ形容の小さなファイアンス製品、人形とハトをそれぞれ形容した手の平サイズのテラコッタ製品、小さな金製ビーズ、直径8cmの青銅製の鏡、直径5cmの蛇紋岩製の小型容器なども見つかっている。何れも「子供」を連想できるような小品である。

そのほか、ツタやパピルスの抽象化された絵柄、二器の容器を連結した祭祀用の容器(ハンドル上部高さ154mm)も見つかった。片方の容器の封印状の広い口縁部は、水やりの「ジョウロ」のように微細穴が加工され、他方の容器は小さなアンフォラ型容器のような器形である。
互いの肩部間は細めのアーチハンドル連結、腹部は内部中空の太い導管で連結されている。どう見ても普通の連結容器とは考えられず、二器に別々な液体を入れたのか、あるいはアンフォラ型容器だけに入れたのか分からないが、おそらくは儀式・祭祀の際、「混合液体」を微細穴の容器から水やりのように注いだと想像する。

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マヴロ・スペリオ墳墓群

連結横穴墓・9号墓からの出土品・金製リング&銀製ヘアピン

1926年、エヴァンズのクノッソス宮殿遺跡の周辺地区の発掘ミッションでは、宮殿・中央中庭~北東650m付近、カイラトス川の東方の岩尾根の西低斜面、マヴロ・スペリオ Mavro Spelio から20基の横穴墓が見つかった。墳墓群は東西約100m・南北約50mの範囲に点在していた。
確認されたすべての横穴墓の入口は、地形的な理由かあるいは意図的なのか、埋葬室から見て入口が南西方向となるクノッソス宮殿へ向いていた。

墳墓群の最も標高の低いスポット、複雑に連結された五室構成の横穴墓・9号墓から、ミノア人の文字・線文字Aスクリプトが刻まれた金製リング銀製ヘアピンが出土した。

ミノア文明・クノッソス地区・マヴロ・スペリオ遺跡・連結横穴墓プラン図/(C)legend ej
マヴロ・スペリオ遺跡・横穴墓・9号墓
アウトライン(プラン図&Y-Yセクション図)
参考情報:Sir Edger John Forsdyke(1926年)
作図:legend ej

Sir Edger John Fersdyke(1883年~1979年 UK)
サー・エドガー・ジョン・フォースダイクは、第一次世界大戦ではイギリス・王立野戦砲兵隊 RFA 隊長となり、その後、クノッソス宮殿遺跡の初期発掘ミッションを実施したサー・アーサー・エヴァンズに協力、クノッソス地区の墳墓発掘ミッションに参加した。
フォースダイクは、1936年~1950年、ロンドン大英博物館・館長を歴任、1937年にイギリス・バス騎士団勲章・ナイトコマンダー(二等KCB)を授与された。また、オクスフォード・ケブル大学・名誉フェローでもあった。

連結横穴墓・9号墓内のE墓から出土した金製リングはシールリングタイプ、外径8.5~9.5mm、少しオーバル的な印面に一周半ほどの渦巻き線がインタリオ(凹)で彫られ、線に沿って線文字Aスクリプトが渦の中へ回転するように合計19文字印字されている。

リング(輪部分)の内径が13mm、一般論として日常的に指に装着するには内径が「細過ぎる」と考えられ、さらにリングをはめていたと仮想できる指の骨が確認されていない、そしてリングがネックレースの金製ビーズと一緒に出土した点などから、多くの研究者は指にはめたものではなく、ペンダントとして保有されていた可能性などを推測している。

ミノア文明・クノッソス地区・横穴墓・金製リング(線文字A) Linear A on Gold Seal-ring, near Knossos Palace/©legend ej
マヴロ・スペリオ遺跡・横穴墓・9号墓出土・金製リング
印面=渦巻き線&線文字Aスクリプト刻印
外径=8.5mm~9.5mm/リング内径=13mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号530
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

一方、同じ連結横穴墓からの銀製ヘアピンでは、合計37文字~40文字ほどの線文字Aスクリプトの印字が確認できる。ただ、金製リングと銀製ヘアピンの線文字Aスクリプト体系は微妙に異なると判断されている。
また、リングとピンの被葬者は同じ連結横穴墓に埋葬されていたが別人とされ、家族・親族関係が推測されている。ただ、知識階級など高位な身分を連想する線文字Aの刻みだが、貴金属の銀のヘアピンであることから、直感的にはこの被葬者は尊貴な女性であった可能性を否定できない。ミノア人の文字である線文字Aは、未だに完全解読されていない文字体系である。

ミノア文明・クノッソス地区・横穴墓・銀製ピン(線文字A) Minoan Linear A on Silver Pin, near Knossos Palace/©legend ej
マヴロ・スペリオ遺跡・横穴墓・9号墓出土・銀製ヘアピン
ピン表面=線文字Aスクリプト刻印/ピン長さ150mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号504
クレタ島・中央北部/描画:legend ej



横穴墓・3号墓からの出土品・テラコッタ製の塑像

マヴロ・スペリオ遺跡・横穴墓・3号墓からは、美しいロングヘアの女神が両腕で「聖なる子」を抱くテラコッタ製の塑像が発見されている。
後世のアテナ像など古代ギリシアで崇拝された「子供の守護女神・クーロトロポス:GR語 κουροτρόφος」と同意の、ミノア文明の「子供の守護女神像」であったとする研究者が多い。全体はやや抽象的な女神像だが、残存する色彩から像全体が赤褐色・黒色などで装飾されていたと推測できる。

ミノア文明・クノッソス地区・マヴロ・スペリオ遺跡・聖なる子を抱く女神像 Minoan Goddess Figurine with Divine Child, Mavro Spelio/©legend ej
マヴロ・スペリオ遺跡・横穴墓・3号墓出土・テラコッタ塑像
「聖なる子」を抱く女神像/美しい曲線のロングヘア
後期ミノア文明LMIIIA1期・紀元前1400年~前1350年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号8345
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

女神像の製作時期は、クノッソス宮殿が最終崩壊する直前の時期、「新宮殿時代」の末期、後期ミノア文明LMIIIA1期・紀元前1400年~前1350年頃と断定されている。
従って、この塑像が副葬された墳墓の被葬者は、クノッソス宮殿勤務のスタッフか、あるいは人口四万人が居住していた宮殿を囲むクノッソス市街 ko-no-so で生活した中流階級のミノア女性であった、と考えられる。

そのほか、この横穴墓からは鉛製の重りが三個、ケーキパンのような青銅製のフライパン容器(二器)を含め複数の青銅製のチッチン用品、かなりの点数の陶器などが出土している。墳墓の埋葬は後期ミノア文明LMIA期~LMIII期・紀元前1500年~前1300年頃とされる。


ザフェール・パポウラ遺跡

墳墓100基を数える大規模な共同墓地

クノッソス宮殿遺跡~北方1km付近、カイラトス川方向へわずかに傾斜する左岸エリア、ザフェール・パポウラ墓地遺跡 Zafer Papoura がある。
南北約200mx東西約140mの共同墓地区域から、竪穴墓 Shaft Grave=33基・横穴墓 Chamber Tomb=49基、ピット墳墓 Pit Grave=8基、合計100基を数える無数の墳墓が確認された。共同墓地の発掘ミッションはクノッソス宮殿遺跡の発掘者エヴァンズが担当した。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 周辺(北方)遺跡群 地図 Map of Minoan Archaeological Site, Northern Area of Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡 周辺(北方)・ミノア文明遺跡群 地図
・イソパタ遺跡・王家の墳墓/聖イオアニス教会堂周辺の遺跡
・テーケ遺跡/Benizeleio病院・北方共同墓地&古代建物遺構
・ザフェール・パポウラ遺跡/セロポウロ遺跡/ケファーラ遺跡
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

ザフェール・パポウラ共同墓地サイトのほとんど全ての横穴墓では、長短の長さは異なるが、通路ドロモスと墳墓の入口は(埋葬室から見て)南方のクノッソス宮殿か、東方のカイラトス川へ向くような造りであった。
ただし、埋葬室&その他の埋葬箇所の遺体の向き(頭部)は、墳墓の構造に合わせて入口側、または奥側へ向くなどランダムに安置されていた。さらにテラコッタ製のラルナックス陶棺では、遺体は足を抱くような姿勢の「屈葬」であった。

ミノア文明・ザフェール・パポウラ遺跡 遠望 Minoan Zafer Papoura, near Knossos Palace
クノッソス宮殿遺跡~ザフェール・パポウラ遺跡方面
東方150mのカイラトス川へわずかな傾斜のオリーブ耕作地
クレタ島・中央北部


横穴墓・14号墓・「三脚炉床の墳墓」からの出土品・青銅製品

ザフェール・パポウラの墓地遺跡の中央よりやや南東寄り、通路ドロモスを備えた「三脚炉床の墳墓 Tomb of Tripod Hearth」と呼ばれる横穴墓・14号墓からは、色々な青銅製の日用品が出土している。
「三脚炉床の墳墓」は、ザフェール・パポウラ墓地サイトで確認された100基の墳墓の中で「最大サイズ」、幅1.6mの通路ドロモスは約15mの長さ、入口は底部幅72cm・高さ190cm・奥行き120cm、方形の埋葬室は横幅3.7m・奥行き2.8mとされた。

エヴァンズの発掘レポート(1928年)で発表されたイラスト画では、円形の石膏製の三脚炉床を除き、すべてが青銅製、大鍋~中型の浅鍋を初め水入れ&水差し、皿やカップやスープラドル(お玉杓子)など14点が含まれる。

ミノア文明・クノッソス宮殿近郊・ザフェール・パポウラ墳墓遺跡・青銅製品/Sir Arthur John Evans (1928)
ザフェール・パポウラ遺跡出土・青銅製品
「三脚炉床の墳墓」出土品/手前=石膏製の三脚炉床
画像情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.II(1928年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)
クレタ島・中央北部

青銅製品の中に長いハンドル付きのランプも出土している。ハンドルの付け根付近にビスがあり、三つ折り(3ピース)のねじりチェーンが付いている。どのような用途のチェーンなのか想像の域だが、炎芯の布などが油中で浮かないように押さえる「重り」として使っていたのかもしれない。
また、直径19cm、口縁部の両サイド上面には魚の「うろこ紋様」がびっしりと刻印されている。形状と刻印装飾、さらに創意工夫のチェーンの存在など、ランプとしては例を見ない上品でユニークなタイプと言える。

ミノア文明・ザフェール・パポウラ遺跡・青銅製のランプ Minoan Bronze Lamp, Zafer Papoura/©legend ej
ザフェール・パポウラ遺跡出土・青銅製のランプ
ユニークな形容/チェーン=「炎芯」の重り?
口縁部=直径19cm・魚のうろこ紋様の刻印
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

発掘では、埋葬室の左半分に三脚炉床のほか、合計14器を数える青銅製の日用品が集中的置かれ、右奥には掘削された横幅40cm・縦幅1m・深さ45cmほどの埋葬ピットがあり、土に覆われていない一人の遺体が確認された。
埋葬ピットの手前のスペースには、象牙製の奉納箱の痕跡、青銅製の「C-type 装飾短剣」と腐食した短剣、青銅製の槍先と鏡などが置かれていたとされる。装飾短剣などの出土から被葬者は高位の「占領ミケーネ人」と考えられる。


竪穴墓・36号墓・「首領の墳墓」

大型横穴墓の「三脚炉床の墳墓」~北方30m付近、「首領の墳墓 Chieftain's Grave」と呼ばれる竪穴墓・36号墓では、墳墓は縦方向に二層の構造であった。
先ず一層レベルの地表から深さ約3mの竪穴には、複数の平石板が幅1m超x2m超の広さで敷かれ、その上にホタテ貝紋様の青銅製水入れ容器(高さ50cm)、象牙ハンドル付きの青銅製の鏡(直径15.5cm)と両ハンドル付きの容器、口縁部が渦巻き線紋様の青銅製ソースパン(直径15cm)、やや長めの青銅製の槍先が二本並べてあった。
平石板は事実上の埋葬室のカバーの役目を果たし、石板からさらに1m深く掘削された墳墓の下層レベルとなる、幅約75cmx約2mの広さの埋葬室に一人の遺体が安置されていた。

頭部が東向きの遺体の頸骨周りからは、18点のアオイガイ形容の金製ネックレース・ビーズが、左腕付近からは野生ムフロン(Mouflon 地中海域~中央アジア生息・羊原種)と神殿支柱を刻んだメノウ製の円形印章、平行縞模様のオニキス・メノウ、カーネリアン(赤玉髄)の宝石ビーズなどが見つかった。

ミノア文明・ザフェール・パポウラ遺跡・石製印章「ムフロン羊・神殿」 Minoan Stone Seal, Goat at Shrine, Zafer Papoura/©legend ej
ザフェール・パポウラ遺跡出土・石製印章
「首領の墳墓」・メノウ製レンズ型・ほぼ円形
印面=神殿の支柱&野生ムフロン(羊原種)
後期ミノア文明LMII期~LMIIIA期・紀元前1450年~前1350年
イラクリオン考古学博物館・登録番号685・直径20~21mm
クレタ島・中央北部/描画・legend ej

遺体の右側には、研究者から別称で「Horned Sword」と呼ばれる象牙の柄頭の「C-type 装飾剣」が一本(柄頭含め長さ955mm)、そして「Cross Sword」の別名で知られている「D-type 装飾剣」と呼ばれるやや短めの剣(長さ610mm)が一本、副葬されていた。

ミノア文明・ザフェール・パポウラ遺跡・首領の墳墓・金表装の剣 Minoan Bronze Sword with Gold Hilt, Zafer Papoura/©legend ej
ザフェール・パポウラ遺跡出土・青銅製の金表装剣
「首領の墳墓」・「D-type装飾剣」・長さ610mm
オニキス・メノウの柄頭&金打出し装飾の柄
後期ミノア文明LMII期~LMIIIA期・紀元前1450年~前1350年
イラクリオン考古学博物館・登録番号1098
クレタ島・中央北部/1994年

《首領の墳墓》からの剣と同じ「D-type 装飾剣」が、クノッソス宮殿遺跡~北西1.2km、現在 Benizeleio 病院となっているエリア、北方共同墓地遺跡 Northern Cemeteries から出土した。大きく打出し加工された五か所のリベット留め部がある剣は、柄頭~グリップハンドル~ショルダーが全面金製表装、渦巻き紋様が打出し加工されている。

ミノア文明・クノッソス北方墓地遺跡・金表装の剣 Minoan Bronze Sword with Gold Hilt, Northern Cemeteries of Knosos/©legend ej
北方共同墓地(現 Benizeleio 病院)出土・金表装剣
「D-type装飾剣」・金製の柄頭&グリップハンドル
後期ミノア文明LMII期~LMIIIA期・紀元前1450年~前1350年
イラクリオン考古学博物館・登録番号 710/長さ560mm
クレタ島・中央北部/1994年

ザフェール・パポウラ遺跡と北方共同墓地遺跡からの二本の装飾剣は、何れもショルダー部が穏やかな丸みを帯び、グリップハンドル(柄)が美しい紋様で打出し加工された金製装飾の「D-type 装飾剣」である。
二本の剣は後期ミノア文明LMII期、紀元前1450年~前1350年に属するとされ、「侵攻ミケーネ人」によるミノア諸宮殿や地方邸宅の破壊の後の埋葬で副葬されたものである。剣の所有者(被葬者)は、一緒に槍先や装飾剣が副葬されていたことから、それぞれ極めて高位の立場にあった「占領ミケーネ人」の男性達であろう。

なお、北方共同墓地(現 大規模病院の敷地)からは、装飾剣のほか金製の「8の字形」の装飾品、珍しい遺物ではサメの歯や青色ガラスのランプ、天然磁石なども見つかっている。墳墓群は後期ミノア文明LMII期~LMIIIA期・紀元前1450年~前1350年の埋葬がメインとなる。

研究者による分類・区分/ミノア文明&ミケーネ文明の装飾剣
ギリシア本土ミケーネ文明でも相当数出土している「Cross Sword/D-type 装飾剣」の最大の特徴は、ショルダー(刃区)が凸状で丸みを帯び、タング(中子)は鍔状(フランジ風)、そして盛り上がりの中央リブが明瞭な薄いブレード(剣身)である。
一方、強化した中央リブが目立ちながらもブレードは薄く、ショルダーが角のように尖り、その先端がグリップハンドル(柄)側へ突き出て、剣を握る手を保護するような形容の特徴的な剣は、「Horned Sword/C-type 装飾剣」と呼ばれている。

「首領の墳墓」からの二本の剣の装飾&仕様

「首領の墳墓」から出土した象牙の柄頭の「C-type 装飾剣」、柄頭含め長さ955mmの長剣では、柄頭の象牙は青銅製のリベットで固定、木製とされるグリップハンドルは三か所の金製リベットで、ショルダー部が二か所のやはり金製リベットで固定されていた。
グリップハンドルの側面(青銅部分)には二列の連鎖渦巻き線紋様が刻印、さらにそれは延長されてショルダー部クロスガード(鍔)の側面にも二列連鎖の渦巻き線紋様が刻印されている。
また、ブレード(剣身)の中央線は盛り上がりの強化リブ仕様、やはり二列連鎖の渦巻き線紋様が刻印されている。

ミノア文明・ザフェール・パポウラ遺跡出土・青銅製・装飾長剣 Minoan Bronze Long Sword,  Zafer Papoura, Knossos/©legend ej
ザフェール・パポウラ遺跡出土・青銅製の長剣
《首領の墳墓》・「C-type装飾剣」
・柄頭=象牙製・青銅製リベット固定
・柄~ショルダー=金製リベット固定
・青銅部=二列連鎖する渦巻き線刻印
後期ミノア文明LMII期~LMIIIA期・紀元前1450年~前1350年
イラクリオン考古学博物館/長さ955mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・ザフェール・パポウラ遺跡出土・青銅製短剣・金装飾 Minoan Bronze Sword, Gold Plate of Lion and Goat, Zafer Papoura, Knossos/©legend ej
ザフェール・パポウラ遺跡出土・青銅製の中型剣
《首領の墳墓》・「D-type装飾剣」
・柄頭=オニキス・メノウ・径44mm
・柄~ショルダー=金製リベット固定
・金表装=ヤギを襲うライオンの装飾
・青銅部=二列連鎖する渦巻き線刻印
後期ミノア文明LMII期~LMIIIA期・紀元前1450年~前1350年
イラクリオン考古学博物館・登録番号1098/長さ610mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

平行縞模様のオニキス・メノウの柄頭の「D-type装飾剣」、長さ610mmの中型剣では、グリップハンドルに三か所(大)、ショルダー部に二か所(小)、合計五か所のリベット留めがある。
ハンドルの柄頭側には逃げ惑う野生ヤギの腰~後脚を襲うライオンが、さらにショルダーにはライオンと野生ヤギが互いにけん制し振り返って見つめ合うシーンが打ち出し表現されている。
グリップハンドルの側面(青銅部分)には、上述の長剣と同様に、二列の連鎖渦巻き線紋様が刻印、さらにそれは延長されてショルダー部クロスガード(鍔)の側面にも二列連鎖の渦巻き線紋様が刻印されている。
また、ブレード(剣身)の中央線は盛り上がりの強化リブ仕様、やはり二列連鎖の渦巻き線紋様が刻印されている。

弱肉強食の野生動物の世界、強者ライオンと野生ヤギの互いの警戒から始まり、次の瞬間にライオンの猛襲が始まるという、狭いスペースながらも剣の装飾に「物語性」の要素が見え隠れしている素晴らしい作品である。

なお、かつて北アフリカや中東地域でも生息したとされる野生のライオンは、現在ではそのほとんどはアフリカ大陸・サハラ砂漠以南のサバンナ草原、そしてわずかな個体がインド南部・ギル国立公園 Gir NP に生息している。

南アフリカ・クルーガー国立公園・雄ライオン Lion, Kruger National Park, South Africa/©legend ej
クルーガー国立公園・サビ川流域・アフリカライオン
草原に横たわる弱肉強食の頂点に立つ雄ライオン
南アフリカ・北東部/2017年

青銅製の装飾武器・連鎖する渦巻き線紋様
クノッソス宮殿遺跡~南方7km、アルカネス遺跡・フォウルニ共同墓地・トロス式墳墓Bと付属コンプレックスの南側埋葬施設から出土した、明らかに戦闘用ではなく、装飾用の美しい青銅製の槍先には連鎖する渦巻き線が刻まれていた。
渦巻き線を表現する装飾モチーフはギリシア本土ミケーネ様式であり、《首領の墳墓》と同様に、このフォウルニ共同墓地からの槍先の所有者(被葬者)は、紀元前1450年頃、クレタ島への侵攻に関わった高位身分のミケーネ人の可能性が高い。

ミノア文明・アルカネス遺跡・共同墓地・連鎖渦巻き線紋様の青銅製槍先  Minoan Bronze Spear-tip with Spiral, Archanes/©legend ej
アルカネス遺跡・共同墓地出土・青銅製の装飾槍先
ソケット形式/連鎖する渦巻き線紋様
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミケーネ文明・ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A・青銅製短剣 Mycenaean Bronze Dagger with Spiral and Rosetta, Mycenae Palace/©legend ej
世界遺産/ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A出土・青銅製の短剣
金&ニエロ金属象嵌=連鎖の渦巻き線・ロゼッタ紋様
後期ヘラディック文明LHI期・紀元前1550年~前1500年
アテネ国立考古学博物館・登録番号744/長さ243mm
ペロポネソス・アルゴス地方/1982年



横穴墓・99号墓からの出土品

墓地サイトの南区域、大型横穴墓の「三脚炉床の墳墓」~南南西25m付近、横穴墓・99号墓の東方からの通路ドロモスはほとんど崩壊していたが、270cm四方・正方形の埋葬室には頭部を西方へ向けた大人二人、そして子供と思われる遺体があり、被葬者は「三人家族」と断定された。

大人二人の左指にはそれぞれ金製細線の四回巻きのリングが、そして男性と思われる遺体の頸部~胸部には、糸は残っていなかったが、カーネリアン(赤玉髄)製の印章を初め、エジプト産スカラベ印章、金製・象牙・水晶・滑石(ステアタイト)・青銅製のビーズ類など合計19点が残されていた。エヴァンズは、これらの豪華な宝飾品は糸を通した「ネックレース」であったと推測している。

円形(直径17mm~18mm)、カーネリアン製のビーズ形式の印章では、ミノア印章で顕著に登場するシーン、印面下部のライオンが上部の逃げる雄牛の下腹部に噛み付いている表現である。

ミノア文明・ザフェール・パポウラ遺跡・カーネリアン製印章・「雄牛を襲うライオン」 Minoan Carnelian Seal, Bull attacked by Lion, Zafer Papoura/©legend ej
ザフェール・パポウラ遺跡出土・石製のビーズ型印章
印章=円形カーネリアン製・直径18mm
印面=逃げる雄牛を襲撃するライオン
後期ミノア文明LMII期~LMIIIA1期・紀元前1450年~前1375年
イラクリオン考古学博物館・登録番号687
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

クルーガー国立公園・サビ川流域・バッファローを襲うライオン Lion, Kruger National Park, South Africa/©legend ej
クルーガー国立公園・サビ川流域・アフリカライオン
バッファローを襲い 腹部に噛み付く雌ライオン
南アフリカ・北東部/2017年

99号墓ではそのほか、家族の遺体の周りには青銅製のハンドル付き容器や鐙型注ぎ口の水差し容器、美的な石製容器などが並べて副葬されていた。

ミノア文明・ザフェール・パポウラ遺跡・青銅製容器 Minoan Bronze Vase, Zafer Papoura/©legend ej
ザフェール・パポウラ遺跡出土・青銅製のハンドル付き容器
使い勝手の良い深さ・側面ハンドルに上向き摘み付き
Ashmolean Museum, U. Oxford (UK)
登録番号AN1896-1908-AE494/直径248mm
※Sir Arthur John Evans 寄贈(1906年)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

なお、青銅製のハンドル付き容器と同型の容器が、上述の「三脚炉床の墳墓」からも出土している。また、極端に大きなサイズの大鍋では、クノッソス宮殿遺跡~西方13km、ティリッソス遺跡・邸宅Aから出土している。

ミノア文明・ティリッソス遺跡・青銅製大鍋 Minoan Caldron, House of Tylissos/©legend ej
ティリッソス遺跡・邸宅A出土・青銅製の大鍋
青銅薄板四枚⇒リベット固定・三か所ハンドル
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

美しい装飾剣が出土した「首領の墳墓」などと同様、この横穴墓・99号墓も歴史の中で盗掘を免れた墳墓と言える。エヴァンズの発掘レポート(1906年)では、ザフェール・パポウラ遺跡で発掘された合計100基の墳墓遺構の内、崩壊や盗掘を免れた「無傷状態」で確認されたのは60基であった。墳墓の遺構は確認できたが、盗掘の結果なのか、埋葬室からは人骨の散在以外に副葬品は何も出土しなかった例も多々ある。


ピット墳墓・7号墓からの出土品

墓地サイトの中央のやや北区域、大型横穴墓の「三脚炉床の墳墓」~北西55m付近、一人の遺体が埋葬されていた深さ4m以上のピット墳墓・7号墓では、「首領の墳墓」と同じタイプのアオイガイ・モチーフの金製ネックレース(ビーズ40点)を初め、羽根を広げたスフィンクスを刻んだ楕円形(オーバル形状)の金製リング、さらに象牙製の小舟の模型、長さ19cmの青銅製のナイフと直径13cmの鏡などが出土した。

ミノア文明・ザフェール・パポウラ遺跡・金製リング「スフィンクス」 Minoan Gold Ring, Sphinx, Zafer Papoura, Knossos/©legend ej
ザフェール・パポウラ遺跡出土・金製リング
印面=羽根を広げたスフィンクス・横31.5mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号203
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

腐食が進んでいたが、象牙製の小舟は海洋民族ミノア人が乗り熟した標準タイプの舟を模型として、発掘者エヴァンズの推測によれば、原形全長250mmとされる。
副葬品に青銅製品が含まれていることから、7号墓の被葬者は「占領ミケーネ人」と断定でき、小舟の模型は後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1400年に製作されたと考えられる。

ミノア文明・ザフェール・パポウラ遺跡・象牙製の舟模型 Minoan Ivory Boat Model, Zafer Papoura/©legend ej
ザフェール・パポウラ遺跡出土・象牙製の舟模型
エヴァンズ推測=原形全長250mm
後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1400年
イラクリオン考古学博物館・登録番号120
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

クレタ島・小舟の沿岸漁業/©legend ej
透明なエーゲ海・小舟の沿岸漁業
クレタ島・東部シティア近郊


ネックレース用金製ビーズ

ネックレース用の宝飾品であるアオイガイ・モチーフの金製ビーズでは、ピット墳墓・7号墓から40点、竪穴墓・36号墓・「首領の墳墓」から18点が出土しているが、ピット墳墓・66号墓からはロゼッタ・モチーフの金製ビーズが46点、さらに竪穴墓・75号墓からはパピルス・モチーフの金製ビーズ18点が出土している。

いずれもモチーフ毎に同一サイズの穴付きビーズ、クノッソス宮殿遺跡の工房から出土している石製の型(モールド)を使って製作された作品であり、この種のネックレースの所有者(被葬者)は、間違いなく宮殿勤務の比較的高位な身分の人達であったはずである。

ミノア文明・金製ネックレース Minoan Gold Necklace/©legend ej
ミノア文明・各地遺跡出土・金製ネックレース
イラクリオン考古学博物館・宝飾品展示
クレタ島/1982年

ミノア文明・金製ネックレース・ロゼッタ形容 Minoan Gold Necklace, Rosette motif/©legend ej
ミノア文明・金製ネックレース・ロゼッタ形容
描画:legend ej

ミノア文明・金製ネックレース・パピルス形容 Minoan Gold Necklace, Papyrus motif/©legend ej
ミノア文明・金製ネックレース・パピルス形容
描画:legend ej

ミノア文明の金製宝飾品・ネックレース・ビーズ
宮殿王家の関係者が埋葬されたイソパタ遺跡・「王家の墳墓」やザフェール・パポウラ遺跡の共同墓地などから出土する金製ネックレースのビーズでは、パピルスの花を初めツタの葉、ユリの花、そしてアオイガイなどを形容したものが多い。
これらは石製の「型(モールド)」を使って、現代の「ダイキャスト加圧鋳造」や「砂型鋳造」と同じ、型の端面に刻んだ注ぎ口から溶融した金を流し込み、型(製品となるキャビティ空間)に金を充填させる方法で同じサイズの製品を量産することができた。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・金製宝飾品の石製「型」 Stone Mold for making Gold Jewelry, Knossos Palace/Ashmolean Museum
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・石製の「型」
・表面=パピルス・ユリの花・貝の「8の字」など
・裏面=女神・ユリの花など/滑石製・横110mm
Ashmolean Museum, U. Oxford (UK)
登録番号AN1910-522
※Sir Arthur John Evans 寄贈(1910年)

ミノア文明・パライカストロ遺跡・金製宝飾品用の石製型(モールド)Minoan Stone Mold for processing Gold Jewelry Goods, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・金製宝飾品用の石製の「型」
片岩製/表面=大小サイズ両刃斧・裏面=両刃斧を持つ女神
金製宝飾品の鋳造法/モールド&溶融金材料の注湯&完成品
イラクリオン考古学博物館・登録番号116/横幅225mm
クレタ島・最東部/描画:legend ej



横穴墓・49号墓からの出土品・象牙製のスフィンクス(鏡ハンドル)

墓地サイトの中央区域、大型横穴墓の「三脚炉床の墳墓」~北西25m付近、横穴墓・49号墓は短めの通路ドロモスを備えていた。天井崩落で発掘された横幅145cmの小さな埋葬室には、三人の遺体が葬られていた。
過去に盗掘されたのか、墳墓からの出土品はわずかであり、直径45mmのグレー系の滑石・ステアタイト製の容器と、そして青銅製の鏡は残されていなかったが、スフィンクスを彫刻した象牙製の鏡用ハンドルの部分が見つかった。「女性」のような顔つきのスフィンクスは座り姿勢、広げた左右の翼・羽根部分に鏡固定の小穴がある。

ミノア文明・ザフェール・パポウラ遺跡・象牙製鏡ハンドル Minoan Ivory Handle for Bronze Mirror, Zafer Papoura/©legend ej
ザフェール・パポウラ遺跡出土・象牙製の鏡用ハンドル
スフィンクスの彫刻・固定用小穴・二か所
イラクリオン考古学博物館/青銅製の鏡なし
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


横穴墓・100号墓からの出土品・ラルナックス陶棺

大型横穴墓の「三脚炉床の墳墓」~南方10m、後期ミノア文明LMIIIA1期・紀元前1400年~前1375年の埋葬とされる横穴墓・100号墓の通路ドロモスは南東方向へ開ける造りであった。
埋葬室の天井はほぼ崩落状態、長方形2.45mx1.6mの埋葬室には、屈葬の三人が一人ずつ安置された三基のラルナックス陶棺が残されていた。副葬品はわずか、青銅製のリングと青銅製のブレスレッド、テラコッタ製のシンプルなカップなどであった。
蓋は破損だが、最も保存状態が良好なラルナックス陶棺は、横幅106cm、正面には渦巻き線と「うろこ紋様」の組み合わせの連鎖描写、そして反対側の正面には抽象化されたパピルスの絵柄が描写されていた。発掘者エヴァンズは、1905年、パピルス絵柄のラルナックス陶棺をアシュモレアン博物館へ寄贈している。

ミノア文明・ザフェール・パポウラ遺跡・ラルナックス陶棺 Minoan Larnax, Zafer Papoura/©legend ej
ザフェール・パポウラ遺跡出土・ラルナックス陶棺
抽象化のパピルスの絵柄/横幅106cm
後期ミノア文明LMIIIA1期・紀元前1400年~前1375年
Ashmolean Museum, U. Oxford (UK)
登録番号 AN1896-1908-AE-582
※Sir Arthur John Evans寄贈(1905年)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


横穴墓からの出土品・宮殿様式陶器

別な横穴墓から出土した陶器では、写実的な鳥と小魚の群れの絵柄、ブリッジ型注ぎ口付き、宮殿様式の水差しが出土した。この種の絵柄モチーフはギリシア本土ミケーネ人のクレタ島侵攻の後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年頃から流行し始めた、水鳥や魚や水草などエジプト・ナイル川流域の生物・植物や風景をリアリステックに描写する、ナイル自然様式 Nile-landscape Style の範疇に入る。
水差しの出土した墳墓の被葬者はミノア人ではなく、陶器様式から判断して間違いなく「占領ミケーネ人」の関係者であろう。

ミノア文明・ザフェール・パポウラ遺跡・宮殿様式水差し Palace Style Jug, Zafer Papoura/©legend ej
ザフェール・パポウラ遺跡出土・宮殿様式の水差し
鳥&小魚の絵柄=ナイル自然様式のモチーフ
後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1400年
イラクリオン考古学博物館・登録番号10017
クレタ島・中央北部/1982年

ナイル自然様式の陶器では、メッサラ平野・フェストス宮殿遺跡・カリヴィア共同墓地から出土した、後期ミノア文明LMIIIA2期・紀元前1375年~前1300年に属する形容の美しいアラバストロン型容器がある。水鳥とパピルスの花がモチーフとなっている。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・カリヴィア共同墓地・アラバストロン型容器 Minoan Alabastron Vase, Phaestos-Kalivia/©legend ej
フェストス宮殿・カリヴィア共同墓地出土・アラバストロン型容器
パピルスの花・水鳥=ナイル自然様式のモチーフ
後期ミノア文明LMIIIA2期・紀元前1375年~前1300年
イラクリオン考古学博物館・登録番号1588/高さ230mm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej



ケファーラ遺跡

小型トロス式墳墓

イソパタ・王家の墳墓とザフェール・パポウラ遺跡の丁度中間付近、ケファーラ地区 Kephala の民家の庭先から、1907年、エヴァンズは内径4.5mの小型のトロス式墳墓を発掘した。

GPS ケファーラ・トロス式墳墓: 35°18′45.80″N 25°09′37″E/標高110m

墳墓は中期ミノア文明MMIII期~後期ミノア文明LMI期・紀元前1600年~前1500年に建造されたが、発掘された最終埋葬は後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年頃、ギリシア本土ミケーネ人によるクレタ島侵攻よりやや後の時期とされ、さらに後期ミノア文明LMIII期以降にも再使用された痕跡が確認された。

ケファーラ地区ではトロス式墳墓から半径200mの範囲で、ミノア文明の竪穴墳墓を初め小型の横穴墓や古い井戸遺構なども確認されている。
トロス式墳墓~西方180m付近、民家の敷地から大型の石製のオリーブ油搾り装置が見つかった。さらにエヴァンズはトロス式墳墓~北西160m、鉄器時代の墳墓・二基も発掘している。


セロポウロ遺跡

カイラトス川河畔の墳墓遺跡からの出土品・金製リング

ザフェール・パポウラ遺跡~北東400m付近、カイラトス川右岸の小さなセロポウロ地区 Sellopoulo で確認された墳墓群の横穴墓・4号墓から金製リングが出土した。4号墓と隣の横穴墓3号墓は、1968年、考古学者 M. Popham が発掘、後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年に遡る埋葬とされた。
ラグビーボールのようなやや細長い楕円形(オーバル形状)の印面では、左側の花咲く岩山に聖なる樹木が生え、下方の聖なる石(ビトラス Baetylus/Baetyl)に膝を付き何かを崇拝する男性が居る。彼の願いを叶えるため、天の彼方から神の使いのハトが「願いのもの」を口にくわえ運んで来る。
これは聖なる樹木と鳥をして聖なるシーン、研究者の言う「神出(かみいずる)」の「エピファニー表現」の一つとされている。

ミノア文明・セロポウロ遺跡・金製リング Minoan Gold Ring, Sellopoulo near Knossos/©legend ej
セロポウロ遺跡出土・金製リング
印面=楕円形・横20mm・「エピファニー表現」
表意=聖なる樹木&聖石・崇拝男性・ハト
後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年
イラクリオン考古学博物館・登録番号1034
クレタ島・中央北部/legend ej

なお、セロポウロ遺跡では、1900年、考古学者ホガースが発掘した小型のミケーネ様式のトロス式墳墓から、後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年に埋葬された三基のラルナックス陶棺が見つかっている。トロス式墳墓はカイラトス川右岸~東方100m、オリーブ耕作地の中に建つ小さな聖パラスケヴィ礼拝堂 Agios Paraskevi ~西南西30m付近である。
トロス式墳墓の位置を北西端として東西200m・南北200mの範囲がセロポウロ墳墓群の範囲となり、トロス式墳墓のほか横穴墓6基、竪穴墓一基が五か所に点在して確認されている。金製リングの見つかった横穴墓・4号墓はトロス式墳墓~東南東200m付近となる。

GPS セロポウロ遺跡・トロス式墳墓: 35°18′35.50″N 25°09′56″E/標高55m


アギオス・イオアニス遺跡

「兵士の墳墓」の発掘&出土品・青銅製のヘルメット

クノッソス宮殿遺跡~北西2.3km、イソパタ遺跡・王家の墳墓~南西750m付近、イラクリオン方面へ向かう「地方道・クノッソス大通り Leoforos Knossos」の少し東側の住宅地にアギオス(聖)イオアニス教会堂 Agios Ioannis がある。
教会堂から半径300mの範囲から、後期ミノア文明の横穴墓五基やピット墓、さらに幾何学紋様時代の墓地を含め、合計9基の墳墓が確認されている。

GPS アギオス・イオアニス遺跡(兵士の墳墓): 35°18′57″N 25°08′56.50″E/標高95m

2021年1月に103歳で死去したイギリスの著名な考古学者 (Martin) Sinclair F. Hood は、1953年、聖イオアニス教会堂~南西100m、道路脇から「兵士の墳墓 Soldier’s Grave」と呼ばれる後期ミノア文明の横穴墓・5号墓を発掘した。
墳墓からは、青銅製の薄板でできた円錐形容の兵士用ヘルメットが出土した。腐食が進行しているが、頭頂部に羽根飾りを付ける突起があり、長めの頬当てがリベットで固定されている。

このタイプの青銅製ヘルメットでは、ギリシア本土ミケーネ宮殿遺跡から出土した大型のクラテール型容器に描かれた、好戦的なミケーネ兵士が被るヘルメットに近似している。間違いなく「兵士の墳墓」の被葬者は、紀元前1450年頃、クレタ島への攻撃を行った「侵攻ミケーネ兵士」であった。

ミノア文明・アギオス・イオアニス遺跡・青銅製ヘルメット Bronze Helmet, Knossos-Agios Ioanis/©legend ej
アギオス・イオアニス遺跡出土・青銅製ヘルメット
青銅薄板の円錐形容・頭頂部に突起・長い頬当て
「兵士の墳墓」/紀元前1450年~前1400年
イラクリオン考古学博物館/高さ386mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミケーネ文明・「ミケーネ兵士」の絵柄陶器 Mycenaean Ware, Soldiers Design, Mycenae Palace/©legend ej
ミケーネ宮殿遺跡出土・クラテール型容器(部分)
戦闘用衣装・武器携行の好戦的な「ミケーネ兵士」の絵柄
ミケーネ文明LHIIIC期・紀元前1200年頃
アテネ国立考古学博物館/登録番号1426/容器高さ430mm
ペロポネソス・アルゴス地方/1987年


出土品・金製カップ

「兵士の墓」からは、金製宝飾品の出土例が少ないクレタ島にあって、非常に珍しい太い渦巻き線紋様を打出し加工した深さの浅い金製カップが見つかっている。金製カップが出土したことで、この「兵士の墳墓」は別称・「金製カップの墳墓 Tomb of Gold Cup」と呼ぶ幾らかの研究者も居る

カップの側面には連鎖する渦巻き線紋様が加工され、ハンドルはギリシア本土ミケーネ文明のリングハンドルが付けられている。特徴的なハンドル形式からの判断では、被葬者が本土ミケーネ文明の地から持ち込んだ金製カップではないか、と推測できる。そうならば、被葬者は「占領ミケーネ人」であったと考えて良いだろう。

ミノア文明・クノッソス地区・アギオス・イオアニス遺跡 Mycenaean Gold Cup, Knossos-Agios Ioannis/©legend ej
アギオス・イオアニス遺跡出土・金製カップ
ミケーネ様式リングハンドル&渦巻き線紋様
後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1400年
イラクリオン考古学博物館・登録番号758/高さ37mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

なお、「兵士の墳墓」からの金製カップのデザインでは、ギリシア本土ペロポネソス・メッセニア地方のミィロン・ペリステリア遺跡 Myron-Peristeria のミケーネ様式のトロス式墳墓から出土した金製カップに近似している(下写真・右カップ)。
浅いカップ形状、ループするミケーネ様式のリングハンドル、連鎖するやや大きな渦巻き線紋様の打出し加工に共通点を見ることができる。

ミケーネ文明・ペリステリア遺跡・金製カップ Gold Cups, Mycenaean Pyron-Peristeria/©legend ej
ペリステリア遺跡・トロス式墳墓出土・金製カップ
連鎖する渦巻き線紋様/ホーラ考古学博物館
ペロポネソス・メッセニア地方/1982年



出土品・石製の印章

「兵士の墳墓」の発掘では、寝そべって後ろを振り向くライオンを刻んだ、アーモンド型のカーネリアン製の印章も一緒に見つかっている。

ミノア文明・アギオス・イオアニス遺跡・カーネリアン製印章・ライオン Minoan Stone Seal of Lion, Agios Ioanis/©legend ej
アギオス・イオアニス遺跡出土・石製の印章
印章=カーネリアン製・アーモンド型
印面=後ろを振り向く寝そべりライオン
後期ミノア文明LMIB期~LMII期・紀元前1500年~前1400年
イラクリオン考古学博物館・登録番号1713/長さ20mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ギリシア本土・ミケーネ兵士の「武装」
「好戦的なミケーネ人」を象徴するように、ミケーネ兵士の武装では、ペロポネソス・アルゴス地方のデンドラ遺跡・横穴墓からは、兵士が装着した青銅製の鎧(よろい)が出土している。また、クレタ島での出土例もあるが、ミケーネ文明の複数の遺跡からは、イノシシの牙を利用した兵士用ヘルメットも出土している。

ミケーネ文明・デンドラ遺跡出土・青銅製の鎧 Mycenaean Bronze Armor, Dendra/©legend ej
デンドラ遺跡・横穴墓出土・青銅製の鎧
イノシシ牙ヘルメット&青銅薄板の全身型鎧
紀元前1450年~前1350年頃
ナフプリオン考古学博物館
ペロポネソス・アルゴス地方/1982年

ミケーネ文明・クラデオス遺跡出土・イノシシ牙ヘルメット Mycenaean Boar-fangs Helmet, Kaladeos/©legend ej
クラデオス遺跡出土・イノシシ牙ヘルメット
(世界遺産オリンピア遺跡~北北東6km)
オリンピア考古学博物館
ペロポネソス・エリス地方/1982年

GPS デンドラ遺跡: 37°39′24″N 22°49′32″E/標高60m
GPS クラデオス遺跡: 37°41′25″N 21°39′34″E/標高135m


ミケーネ文明・統治者(王)と金製副葬品

「黄金に富むミケーネ」

紀元前1450年頃、クレタ島への攻撃を仕掛けミノア文明の崩壊への序曲を弾いた「侵攻ミケーネ人」、そのギリシア本土のミケーネ人の本拠地は、供給地エジプトから膨大な量の金を輸入、「黄金に富むミケーネ Mycenae Rich in Gold」と呼ばれたペロポネソス・アルゴス地方のミケーネ宮殿 Mycenae Palace である。
1876年、「宝探しの考古学者」とも言われたドイツ人実業家シュリーマン J.H. Schliemann による、ミケーネ宮殿内部・円形墳墓Aの発掘で出土した《アガメムノンの金製マスク Gold Mask of Agamemnon》の例を見るように、ミケーネ文明では「金 Gold」は統治者の最もたる象徴でもあった。

エーゲ海域・主要遺跡 地図 Map of Major Archaeological Sites, Aegean Sea/©legend ej
エーゲ海域・主要遺跡 地図
作図:legend ej

ミケーネ文明・ペロポネソス地方・宮殿遺跡 地図/©legend ej
ペロポネソス地方・ミケーネ文明・宮殿遺跡 地図
作図:legend ej

ミケーネ文明・ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A・《アガメムノンの金製マスク》Agamemnon's Gold Mask, Grave Circle A, Mycenae Palace/©legend ej
ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A出土・《アガメムノンの金製マスク》
ミケーネ文明LHI期・紀元前1550年~前1500年
アテネ国立考古学博物館・登録番号624/高さ315mm
ペロポネソス・アルゴス地方/1987年

「アガメムノンの金製マスク」
1876年、「宝探しの考古学者」のシュリーマンは、ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓Aの発掘で見つけた金製マスクを「アガメムノンのデスマスク」と唱えた。しかし、古代の「物語」では是非とも信じたくなる、このシュリーマンの希望的仮説は殆ど間違いと言える。
よりサイエンスであるべき現代の考古学的な判断では、この金製マスクはシュリーマンの唱えたミケーネ・ギリシア連合軍総司令官アガメムノンの活躍した、紀元前1200年頃の「トロイ戦争」の時代より、時間的に3世紀分、年数にしておおよそ300年以上も遡ったより古い時代に作られた、と確定されている。
明らかなことは、金製マスクはミケーネ文明の初期、後期ヘラディックLHI期・紀元前1550年~前1500年頃、ミケーネ宮殿を治めた「王」の副葬デスマスクである。

内径25mの石板で円周された円形墳墓Aは、ミケーネ宮殿内部(埋葬時は城壁の外部であったが 後に新たな城壁が墳墓の外側に構築された)、硬い石灰岩の岩盤を深く掘り下げ、大小6か所の竪穴墓 Shaft Grave を設けた、他に例を見ない非常に独特な墳墓形式であった。
過去に未盗掘であったことから、シュリーマンの発掘により、円形墳墓Aからは大量の眩い金製&銀製の宝飾品・石製品・装飾短剣などが出土した。円形墳墓Aの被葬者は子供を含め、男性・女性の成人、王族合計19人であった。

世界遺産/ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A Grave Circle A, Mycenae Palace/©legend ej
世界遺産/ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A
ミケーネ文明LHI期・紀元前1550年~前1500年
内径25m・竪穴墓6基・被葬者19人
ペロポネソス・アルゴス地方/1982年

ケーネ文明・ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A・六角宝飾箱 Gold Pyxis, Mycenae Palace/©legend ej
ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A出土・金表装六角宝飾箱
雄牛・狩りのライオン・渦巻き線の打ち出し表現
ミケーネ文明LHI期・紀元前1550年~前1500年
アテネ国立考古学博物館・登録番号808/811/高さ85mm
ペロポネソス・アルゴス地方/描画:legend ej

ミケーネ文明・ミケーネ宮殿遺跡・「円形墳墓A」出土・金製イヤリング Mycenae Gold Earrings, Mycenae Palace/©legend ej
ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A出土・金製イヤリング
ミケーネ文明LHI期・紀元前1550年~前1500年頃
アテネ国立考古学博物館・登録番号61/外幅76mm
ペロポネソス・アルゴス地方/描画:legend ej

GPS ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A: 37°43′49.5″N 22°45′23″E/標高240m

高純度の金の抽出・「灰吹法」
金や銀など鉱石に含まれる貴金属の量は極めて少なく、通常、硫化物の状態で鉱物に含まれている。貴金属硫化物を含む鉱石と方鉛鉱、または方鉛鉱から抽出した鉛を高温で一緒に溶解すると、金属は溶け合って「貴鉛」と呼ばれる合金が生成される。
「貴鉛」と動物の骨灰や松葉灰や酸化マグネシウムなどを一緒に高温溶解した場合、鉛は酸素と反応して表面張力の低い酸化鉛となり灰の中へしみ込み、一方、表面張力の高い金や銀などの貴金属は酸化せずに「灰吹銀」と呼ばれる粒状金属となり分離される。
取り出した粒状の「灰吹銀」から金への純度精錬では、再び鉛と硫黄を加え、鉛と銀の化合物である硫化銀を生成させ分離して、残った高純度の金を取り出すという、手間のかかる錬金技法が「灰吹法」と呼ばれ、先史・古代の時代から行われて来た。

ミケーネ文明の豪華な装飾剣

北海岸のマーリア遺跡の「王家の墳墓」やミノア市街地・Mu区域からの出土例もあるが、クレタ島ミノア文明では概して金製の装飾剣の出土例は限定的と言える。しかし、ギリシア本土ミケーネ文明では、宮殿の王や貴族階級など高位の人物の埋葬では、「必ず」と言って良いほど見事な装飾剣が副葬された。

ミノア文明・マーリア遺跡・「Mu区域」・青銅製短剣の金製ハンドル Gold-hilt of Bronze Dagger, Malia/©legend ej
マーリア遺跡・Mu区域出土・青銅製短剣
ハンドル(柄)=金製シートの打抜き加工
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/1994年

クレタ島へ攻撃を仕掛け、ミノア文明を破壊、その後の「ミノア・ミケーネ混合文化」の主人公となった「占領ミケーネ人」も、本土ギリシアと同様にクノッソス宮殿支配の約75年間、統治者達の豪華な装飾剣への拘りが継承されていた、と考えて良いだろう。
比較対照として、ギリシア本土ミケーネ文明の装飾短剣を列挙する。二本の青銅製短剣は貴族階級の人物が埋葬されていたと推測できる、ミケーネ遺跡地区・横穴墓からの出土品である。

研究者の分類・区分では、二本の短剣は「Cross Sword」の別名で知られている「D-type 装飾剣」とされ、最大の特徴はショルダーが凸状で丸みを帯び、タング(中子)は鍔状(フランジ風)、ブレードは腐食しているので不明だが、存在するなら盛り上がりのリブが明瞭な薄いブレードであった。

二本の剣とも凸状の丸みのショルダーが典型的な形状を示し、メノウのグリップハンドルの左剣はミケーネ遺跡・横穴墓・81号墓から出土、横穴墓・102号墓から出土したファイアンス製グリップハンドルの右剣、何れも剣の製作時期はミケーネ文明・後期ヘラディックLHIIIA1期・紀元前1400年~前1350年とされる。

ミケーネ文明・ミケーネ地区・横穴墓出土・装飾短剣 Mycenaean Dagger, Mycenae Site/©legend ej
ミケーネ遺跡地区・横穴墓出土・装飾短剣
左=アテネ国立考古学博物館・登録番号3110/長さ 85mm
右=アテネ国立考古学博物館・登録番号4908/長さ110mm
ミケーネ文明LHIIIA1期・紀元前1400年~前1350年
ペロポネソス・アルゴス地方/描画:legend ej


テーケ遺跡

出土品・キクラデス様式の石製像&銀製の短剣

アギオス・イオアニス教会堂~南南東550m付近、「地方道・クノッソス大通り Leoforos Knossos」の東側のテーケ地区 Teke、1933年、地元住民の N. Nisiotis は所有地の広いブドウ耕作地(現在 住宅地)で、初期ミノア文明EMII期~EMIII期に属するキクラデス様式の石製像・二体と「青銅製の短剣」・二本を見つけた、とされている。

GPS テーケ遺跡(石製像・銀製短剣): 35°18′42″N 25°09′09.50″E/標高105m

ブレード(剣身)に凸状の盛り上がりリブ加工が施された短剣は、後の専門的なクリーニング作業で「銀製」と判明、素材の修正が行われた。なお、その後のブドウ耕作地周辺の調査では、石製像と短剣に関連する初期ミノア文明の建物や墳墓の痕跡は確認できなかったとされる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡近郊・Teke遺跡・銀製短剣 Minoan Silver Dagger, Knossos-Teke/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡近郊・テーケ遺跡出土・銀製の短剣
初期ミノア文明EMIII期・紀元前2200年~前2100年
・上=イラクリオン考古学博物館/長さ195mm
・下=イラクリオン考古学博物館/長さ205mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

石製像の一つ、高さ83mm、白色系の大理石製の像は背もたれのないスツール(台)に座る女性像である。胸と陰部、さらに両腕が胸の前で組まれている独特な姿からしてキクラデス様式の作品である。
もう一つの石像は緑がかった滑石・ステアタイト製、大理石像と同じキクラデス様式の加工、高さ50mmの小さな作品だが、非常に珍しい二つの、間違いなく女性の合体像である。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡近郊・Teke遺跡・キクラデス様式石像 Cyclades Style Stone Figurine, Knossos-Teke/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡近郊・テーケ遺跡出土・石像
キクラデス様式/大理石製・腕組みの座る女性像
初期ミノア文明EMII期・紀元前2400年~前2200年
イラクリオン考古学博物館・登録番号287/高さ83mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡近郊・Teke遺跡・キクラデス様式石像 Cyclades Style Stone Figurine, Knossos-Teke/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡近郊・テーケ遺跡出土・石像
キクラデス様式/緑色系滑石製・女性の合体像
初期ミノア文明EMII期・紀元前2400年~前2200年
イラクリオン考古学博物館・登録番号288/高さ50mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

参考だが、初期ミノア文明EMIII期のキクラデス様式の像では、クノッソス宮殿遺跡~南方7kmのアルカネス遺跡・フォウルニ共同墓地から大理石製象牙製の女性像が出土している。

ミノア文明・アルカネス遺跡・フォウルニ共同墓地・石製&象牙製女性像 Cyclades Type Stone and Ivory Figurine, Archanes/©legend ej
アルカネス遺跡・トロス式墳墓Γ出土・石製&象牙製の女性像
左=大理石製/右=象牙製・高さ80mm/NTS(Not to Scale)
キクラデス様式・紀元前2200年~前2000年
イラクリオン考古学博物館・登録番号440(右)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej



テーケ遺跡・トロス式墳墓

キクラデス様式の石製像と銀製の短剣の出土ポイント~南西250m、「地方道・クノッソス大通り」脇の大型シッピングモールの北側で、1939年~40年、発掘ミッションを実施したイギリスの考古学者 R.W. Huchinson は、二基の横穴墓を連結するトロス式墳墓を発掘した。
被葬者と宝飾品など副葬品から、トロス式墳墓での埋葬は後期ミノア文明に始まり、初期鉄器時代まで使われたと判断された。また、墳墓の周辺では特にクラシック文明の複数の建物遺構が確認されている。


クノッソス宮殿・北方共同墓地遺跡(Benizeleio病院周辺)

先史・古代文明の共同墓地&建物遺構

クノッソス宮殿遺跡~北西1km、現在の「Benizeleio病院」の敷地とその周辺では、ミノア文明~鉄器時代~古代ローマ時代の共同墓地と建物遺構が無数に確認されている。一帯は「クノッソス宮殿・北方共同墓地 Knossos-Northern Cemetery」と呼ばれている。

GPS クノッソス宮殿・北方共同墓地遺跡(Benizeleio病院): 35°18′21″N 25°09′17″E/標高110m

病院の敷地内では、1951年、クノッソス宮殿遺跡・王妃の間や北入口の想像図をイラクリオン考古学博物館に残している、エヴァンズの発掘協力者・オランダ系イギリス人の考古学・建築美術家 Piet Christiaan de Jong、そしてアギオス・イオアニス遺跡(兵士の墳墓)を発掘した考古学者 (Martin) Sinclair F. Hood が、後期ミノア文明LMII期の竪穴墓・一基と横穴墓・三基を発掘している。

病院の敷地周辺では多くの発掘ミッションが実施され、特に北西側~「地方道・クノッソス大通り」の直ぐ西側~南側の小川に沿った区域から、後期ミノア文明~古代ローマ文明に至る無数の先史・古代墳墓と建物遺構が発掘されている。発掘ポイント数で言えば、ローマ時代の遺構が圧倒的に多い。


ホガースの墳墓

浮彫彫刻の蛇紋岩製の《山頂聖所のリュトン杯》が出土した、ジプサデスの丘の「Hogarth の邸宅遺構」を発掘した、エヴァンズのクノッソス宮殿遺跡の発掘ミッションに協力していたイギリスの考古学者 D.G. Hogarth は、1900年、病院~北東450m付近のオリーブ耕作地から、後期ミノア文明~初期鉄器時代に遡る合計8基の「Hogarth の墳墓」を発掘している。
そのほか、墳墓群の周辺からは鉄器時代の複数の墳墓を含む、古代クラシック文明~古代ローマ文明の建物遺構などが確認されている。


クノッソス宮殿の「港」・ポロス遺跡

岩窟墳墓からの出土品・金製の印章リング・《聖なる会話》

今日のイラクリオン港(フェリー・クルーズ船)の南側、かつてクノッソス宮殿の「港」であったポロス地区がある。すでにイラクリオンの東地区の市街地として発展していることから、一帯は商店やオフィスビル、そして住宅地が広がっている。
2002年、イラクリオン考古学博物館前~空港へ通じる幹線道路 Leoforos Ikarou 大通り脇の工事現場から、岩盤を掘削した岩窟墳墓 Rock-shelter Tomb が見つかった。ポロス地区で確認されているミノア文明の墳墓では、第10番目の墳墓遺構となった埋葬室は東方からアクセスでき、長方形と円形の二つの部屋の連結、合わせて約60㎡の広さであった。

残念ながら遺構の内部は歴史の中で盗掘されていたため、遺体の散在とわずかな陶器が確認された。しかし、詳細な発掘作業の結果、盗掘者の「見落とし品」だが、ミノア文明の精神文化に関わる美しい金製の印章リングが見つかった。印章リングの印面は、横18.6mmの楕円形(オーバル形状)、アーム(輪部分)のサイズは約17mmである。

研究者に《聖なる会話 Sacred Conversation》と呼ばれる極めて神聖なる要素が刻まれた印面では、中央左側の草の生える岩場に両手を脚の上に置く座り姿勢の女神が、右側には立ち姿の男性の神が左腕を前方へ伸ばし、女神に「何か」を語っている。
そして印面の中央上部には女神を守るように二羽の鳥(聖なるハト?)が羽ばたき、その上方では星が瞬き、さらに右側上方では二つの三日月に挟まれた位置で太陽が輝いている。男性の神の上方には水平線が広がり、おそらくは森と思われる刻みが確認できる。

特に鳥と女神と男性の神、さらに星・三日月・太陽をして、「エピファニー表現」と同様な《聖なる会話》が成立、一部の研究者はこの金製リングを《神のカップルのリング Divine Couple's Ring》とも別称している。

ミノア文明・クノッソス宮殿港・ポロス遺跡・金製リング「聖なる会話」 Minoan Gold Ring, Sacred Conversation,  Konssos-Poros/©legend ej
クノッソス宮殿港・ポロス遺跡出土・金製の印章リング
印章=楕円形(オーバル形状)・横18.6mm
印面=《聖なる会話》=別称「神のカップル・リング」
後期ミノア文明LMIA期・紀元前1550年~LMIB期・紀元前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号1710
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

さらに過去のポロス地区での別な墳墓遺構の発掘では、同じような《聖なる会話》を刻んだ金製の印章リングも見つかっている。
印章はラグビーボールのような横長の楕円形(オーバル形状)、印面には座り姿勢の女神を守るように二羽の鳥(聖なるハト?)が飛び、中央部分の台座に立つ男性の神が、右手を前方へ伸ばし女神に「何か」を語っている。一方、右側にはミノアの若い男性が恩恵を得るため神殿の聖なる樹木に触れようとしている。

表現モチーフの聖なる人物と鳥の存在、さらに神殿&聖なる樹木を刻むことで、この金製リングも非常に高次の精神文化、宗教観念を含んでいることが理解できる。
もしかしたら、ポロス地区内で発掘ピンポイントは別々だが、二つの金製リングは同じ工房、しかも同じ職人の手で前後して製作された可能性が濃厚であり、その最もたる製作と場所は、「新宮殿時代」の最盛期、クノッソス宮殿の金属宝飾品の工房であったであろう。

ミノア文明・クノッソス宮殿港・ポロス遺跡・金製リング「聖なる会話」 Minoan Gold Ring, Sacred Conversation,  Konssos-Poros/©legend ej
クノッソス宮殿港・ポロス遺跡出土・金製の印章リング
印章=楕円形(オーバル形状)・使い熟したためやや表面摩耗
印面=《聖なる会話》=女神・男性の神・鳥・神殿&聖なる樹木
後期ミノア文明LMIA期・紀元前1550年~LMIB期・紀元前1450年
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


クノッソス宮殿の「港」・カタンバ遺跡

共同墓地遺跡からの出土品・特殊形容の水差し

イラクリオン市街の東地区・クノッソス宮殿の舟付き場ポロス Poros の南隣となるカタンバ Katsamba では、イラクリオン生まれ、後にクレタ大学・哲学教授やイラクリオン考古学博物館の館長を歴任する考古学・哲学者 Stylianos Alexiou が、1953年~1964年、断続的に発掘ミッションを実施した。
結果、ポロスと同様にカタンバでもクノッソス宮殿の「港」の痕跡が確認され、居住地ではフレスコ画の部屋のある中期ミノア文明MMIIIB期・紀元前1550年頃の住宅、さらに後期ミノア文明LMIII期・紀元前1400年以降のバスタブ&バスルームを備えた上質な住宅遺構も確認された。

居住地の南側には岩盤掘削の複数の横穴墓の墓地があった。特にカタンバ遺跡からの出土品の多くはこの共同墓地からもたらされた。「新宮殿時代」の末期、後期ミノア文明LMII期~LMIIIA1期・紀元前1450年~前1375年頃に属するとされる、例を見ない特殊形容の水差し型容器が出土した。
注ぎ口と頸部自体はミノア文明の典型的な水差し型だが、この容器を見た誰もが驚くほどの肩部~腹部にかけての異様とも言える突起、そして高さ495mmという実用には適さない大型サイズである。
これらの目立つ特徴から、これは生活用品ではなく、何か儀式・祭祀に使った水入れか、あるいは水を入れない単純な装飾容器であったかもしれない。

紀元前1450年以降、時代は「侵攻ミケーネ人」の攻撃でクレタ島の元来のミノア文明はほぼ崩壊に等しく、新たな統治者となった「占領ミケーネ人」のクノッソス宮殿の陶器工房で焼かれたと推測できる。
ただし、絵柄装飾では容器の明るい地肌に濃赤茶色の単色で描いた、抽象化した三本足のアオイガイの海洋性と、パピルスの植物性の混合様式のデザインである。絵柄は別にしても、△突起と腹部を縦割りしている尾根のような凸線からして、個人的な感覚では、「伝統ある美形なミノア陶器からかけ離れている」、とかなり冷ややかな視線で眺めてしまう作品であるが・・・

ミノア文明・イラクリオン・カタンバ遺跡・祭祀用水差し Minoan Ritual Jug, Knossos-Katsamba/©legend ej
カタンバ遺跡出土・特殊形容の水差し
突起と海洋性&植物性の絵柄・祭祀用 or 装飾用?
後期ミノア文明LMII期~LMIIIA1期・紀元前1450年~前1375年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号9540/高さ495mm
クレタ島・中央北部/1982年


共同墓地遺跡からの出土品・宮殿様式のアンフォラ型容器

そのほか、カタンバの墓地遺跡からは、肩部に三か所のハンドル付き、腹部には合計四個、イノシシ牙で強固された兵士の戦闘用ヘルメットを横にした、大胆な絵柄の宮殿様式のアンフォラ型容器も出土している。
容器の絵柄デザインからして、戦いとは無縁の平和主義を貫いた本来のミノア文明ではなく、明らかに好戦的な「占領ミケーネ人」が好んだモチーフとなっている。容器の製作時期は、クノッソス宮殿が「侵攻ミケーネ人」の攻撃を受けた後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1400年頃である。

ミノア文明・クノッソス・カタンバ遺跡・宮殿様式水差し Minoan Palace Style Jug, Knossos-Katsamba/©legend ej
カタンバ遺跡出土・アンフォラ型容器
宮殿様式・イノシシ牙ヘルメットの絵柄
後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1400年
イラクリオン考古学博物館・登録番号10058/高さ474mm
クレタ島・中央北部/1994年


共同墓地遺跡からの出土品・石製のエジプト容器

カタンバ墓地の横穴墓・11号墓からは、ミノア文明とエジプトとの深化した関係を裏付ける重要な出土品となる、石膏石・アラバスター製のアンフォラ型容器も見つかっている。
「新宮殿時代」の後半期、後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年頃にエジプト王朝からの献上品と思われる容器の腹部には、古代エジプト文明独特の「カトゥーシェ曲線」で囲んだ「ファラオ名」、古代エジプト新王国・第18王朝・第六代トトメスIII世(Thutmos III 在位=紀元前1504年~前1450年)の名前が確認できる。

エジプト風のやや高めの脚を持つ容器は卵型、穏やかなトーラス状(輪環面 toras)の口縁部、肩部より少し下の腹部に縦長のハンドルを付け、腹部正面に縦長の古代エジプト・神聖文字(ヒエログリフ)が刻まれている。

ミノア文明・カタンバ遺跡・古代エジプト・ファラオ・トトメスIII刻銘・石製容器 Name of Pharao Thutmos III on Aabaster vase/©legend ej
カタンバ遺跡出土・石膏石製のアンフォラ型容器
古代エジプト・第18王朝・「トトメスIII世」の刻銘
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号2409/高さ290mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


共同墓地遺跡からの出土品・象牙製の容器(宝石箱)

カタンバ遺跡からの重要な出土品の一つ、中東地域から素材輸入された貴重な象牙加工の円筒型容器(宝石箱)が見つかっている。象牙を輪切りして、内部を中ぐり加工、外周面に彫刻を施した上質な作品である。
上空に鳥が飛び、周囲はヤシの木が生える険しい崖下のような場所、雄牛を捉えようと男性三人の「雄牛ハンター」が、荒れ狂う雄牛に果敢に挑むシーンが刻まれている。一人のハンターは雄牛の角の上部に逆さま状態でしがみ付き、地上の二人のうち一人は長槍で雄牛をけん制、さらに一人は危険からやや逃げ腰の姿である。
象牙容器の製作は「新宮殿時代」の後半、後期ミノア文明LMII期~LMIIIA1期・紀元前1450年~前1350年頃とされる。

ミノア文明・カタンバ遺跡・象牙製の円筒容器 Minoan Ivory Pyxis with Bull-hunting seen, Katsamba/©legend ej
カタンバ遺跡出土・象牙製の円筒容器(宝石箱)
男性三人・「雄牛狩り」のシーン
紀元前1450年~前1350年
イラクリオン考古学博物館・登録番号345
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

カタンバの象牙製容器の表現モチーフが「雄牛狩り Bull-hunting」であり、一部の研究者はギリシア本土スパルタ近郊・ヴァフィオ遺跡 Vaphio のミケーネ様式のトロス式墳墓から出土した、ミノア様式の金製カップに共通する思想が流れているとしている。
ヴァフィオ遺跡からの金製カップは二個が出土、一つのカップは暴れ狂う雄牛を捉えようとする若いミノア男性を「動的」に表現、もう一方のカップは網とロープで捕えられ、静かになった雄牛を「静的」に精巧な打出し加工で表現している。

ミケーネ文明・ヴァフィオ遺跡・金製カップ Gold Vaphio Cup/©legend ej
ヴァフィオ遺跡出土・金製カップ
動的=激しく暴れ狂う雄牛/口縁径108mm
ミケーネ文明LHIIA期・紀元前1500年頃
アテネ国立考古学博物館・登録番号1758
ペロポネソス・ラコニア地方/1982年

ミケーネ文明・ヴァフィオ遺跡・金製カップ Gold Vaphio Cup/©legend ej
ヴァフィオ遺跡出土・金製カップ
静的=網で捕えられた雄牛/口縁径108mm
ミケーネ文明LHIIA期・紀元前1500年頃
アテネ国立考古学博物館・登録番号1759
ペロポネソス・ラコニア地方/1982年

私の仮想だが、金製カップはクノッソス宮殿の金属工房で製作され、ミノアの神的な「崇拝対象の雄牛」ではなく、力任せに暴れる「パワフルな動物の雄牛」が好まれたミケーネ文明の、スパルタの王への献上品であったと確信している。その製作時期はクレタ島・後期ミノア文明LMIB期、同時に本土・ミケーネ文明の初めとなるLHIIA期、紀元前1500年頃とされている。
その半世紀の後、後期ミノア文明LMIB期・紀元前1450年頃、ギリシア本土から「侵攻ミケーネ人」のクレタ島攻撃が始まり、ミノア文明は確実に「ミケーネ文明化」され、本来の平和&自然主義の文明の本質は破壊~融合~変容されて行く。

その時期に製作されたカタンバの象牙製容器では、本来のミノア文明の「聖なる雄牛」への崇拝思想は消滅、剣と槍に象徴される好戦的なミケーネ人の好み、獰猛な動物としての「暴れる雄牛」の扱い習慣がモチーフ反映されている、と言えるかもしれない。

GPS ヴァフィオ遺跡: 37°01’13”N 22°28’04”E/標高195m



共同墓地遺跡からの出土品・石製の印章&青銅製の男性像

カタンバ遺跡の岩盤を切削した岩窟墳墓Bからは、カーネリアン製の印章が出土した。レンズ型の直径19mmの印面には、部分欠損があるが、ライオンが雄牛の背にまたがり、頸部に噛み付いているシーンが刻まれている。製作は後期ミノア文明LMIIIA1期・紀元前1400年~前1375年とされる。
また、ライオンが雄牛を襲撃するカーネリアン製の印章では、上述のザフェール・パポウラ遺跡・横穴墓・99号墓から出土した印章に近似するが、ザフェール・パポウラのシーンはライオンが雄牛の腹部に噛み付いている。

ミノア文明・カタンバ遺跡・石製の印章 Minoan Stone Seal, Lion attacks Bull, Katsamba/©legend ej
カタンバ遺跡・岩窟墓出土・石製の印章
印面=円形・カーネリアン製・雄牛を襲うライオン
後期ミノア文明LMIIIA1期・紀元前1400年~前1375年
イラクリオン考古学博物館・登録番号1598/直径19mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

共同墓地からは青銅製の男性像も出土した。ロングヘアの若い男性は珍しい「三角帽子」を被り、両腕を胸の前で組んで敬意の姿勢を取っている。

ミノア文明・カタンバ遺跡・青銅製の男性像 Minoan Bronze Figurine, Katsamba/©legend ej
カタンバ遺跡出土・青銅製の男性像
珍しい「三角帽子」を被り敬意の腕組み姿勢
イラクリオン考古学博物館・登録番号1829
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 関連ポストは「12部構成」となっています。
1. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace I 概要
2. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace II 西中庭~南翼部
3. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace III 中央中庭・王座の間
4. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IV 聖域・宝庫
5. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace V 貯蔵庫
6. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VI 女神パリジェンヌ
7. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VII 王の居室・聖所
8. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VIII 王妃の間
9. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IX 雄牛跳び
10. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace X 北~東翼部
11. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 周辺の先史遺跡(当ポスト)
12. ミノア文明・クノッソス宮殿 崩壊の原因は?

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