2020/05/07

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace X 北~東翼部


ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 関連ポストは「12部構成」となっています。
1. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace I 概要
2. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace II 西中庭~南翼部
3. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace III 中央中庭・王座の間
4. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IV 聖域・宝庫
5. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace V 貯蔵庫
6. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VI 女神パリジェンヌ
7. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VII 王の居室・聖所
8. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VIII 王妃の間
9. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IX 雄牛跳び
10. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace X 北~東翼部(当ポスト)
11. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 周辺の先史遺跡
12. ミノア文明・クノッソス宮殿 崩壊の原因は?

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クノッソス宮殿遺跡・北翼部

位置 クレタ島・中央北部/イラクリオン Heraklion/Iraklion~南南東5km
GPS クノッソス宮殿遺跡・中央中庭: 35°17′53″N 25°09′47″E/標高95m

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡/Google Earth
クノッソス宮殿遺跡
クレタ島・中央北部
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入


中央中庭に面する宮殿・「西翼部」&「東翼部」

中期ミノア文明の末期~後期ミノア文明の半ば、最も繁栄した「新宮殿時代」のミノア宮殿では、中央中庭の周りに王家のプライベート生活区画は当然のこと、政治・行政・宗教・文化に関連する重要な建物区画が配置された。

すべての宮殿に共通するが、特に中央中庭 Central Court の西側となる西翼部 West Wing には、王国の政治・財務・宗教関連の区画が配置された。そして王家のプライベート生活区画はクノッソス宮殿とザクロス宮殿では東翼部 East Wing に、フェストス宮殿とマーリア宮殿では北翼部 North Wing に配置された。
また、幾分の異なりはあるが、ミノア宮殿では南翼部 South Wing と北翼部~北東翼部に工房や貯蔵庫など、宮殿関係者の実務や生産関連の区画が付属された。


ミノア文明の宮殿遺跡(4か所)

・中央北部・ミノア文明センター・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace
・南西部・メッサラ平野・フェストス宮殿遺跡 Phaestos/Phaistos Palace
・北海岸・マーリア宮殿遺跡 Malia Palace
・最東部・ザクロス宮殿遺跡 Zakros Palace

クレタ島ミノア文明・宮殿群 地図 Map of Minoan Palaces in Crete/©legend ej
クレタ島・ミノア文明・宮殿遺跡 地図
作図:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・推測模型/©legend ej
クノッソス宮殿・推測模型(木製)
部屋数1,000室/東翼部~中央中庭~西翼部
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/1996年


東翼部の地表面レベル

中央中庭の東側は、東入口やカイラトス川 Kairatos の河畔へ向かって地盤がガクーンと一段と低くなることから、東翼部・王家のプライベート生活区画の一階床面レベルは、中央中庭レベルより二階分に相当する低い位置となる。
言い換えるならば、中央中庭の地表面は、王家のプライベート生活区画の北側の建物の三階にあった東大広間 East Great Hall の床面レベルにほぼ同等している。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・主要部セクション視野 Section View of Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・復元セクション視野・アウトライン
南方から「西中庭~西翼部~中央中庭~東翼部」を見る
東翼部・王家の生活区画=中央中庭レベル~二階分低い
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・北翼部~東翼部 プラン図 North-East Wings Plan, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・北翼部~北東翼部~東翼部
一階レベル・アウトラインプラン図
クレタ島・中央北部/作図:legend ej


北翼部の「聖なる区画」

ローヤルロードと劇場区域に近い宮殿・北翼部の北西端には、清めのための「聖なる区画」とされる東西15m、南北10mほどの比較的広い部屋が配置され、内部には「聖なる浴場 Ritual Bath」が施設されている。
エヴァンズにより朱色の柱頭・黒色の円柱を含む「聖なる区画」の建物が復元され、外観を見ることはできる。ただ、1990年代の初めまでは見学できたが、現在、肝心の建物内部の「聖なる浴場」は立入禁止区域となっている。管理当局の「外観を見せて 内部を見せない」とする遺跡保護を優先する規制なので止むを得ない。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・北翼部・「聖なる浴場」Ritual Bath, North Wing, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・北翼部・「聖なる浴場」
内部石段~二本円柱の左側=「清めの場」
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1994年

北翼部の「聖なる浴場」は、西翼部・王座の間コンプレックスや南東翼部・両刃斧の聖所区画にある、王や王族や祭司・神官などが限定的に使用した「聖なる浴場」とは異なり、宮殿勤務の一般公務スタッフ、あるいは宮殿への来訪者が使うことができた、やや一般向けの「清めの場」であったかもしれない。
この格式が少し低いと言える一般用の「聖なる浴場」では、最東部のザクロス宮殿の北東中庭に面する場所に施設された、「ワンランク格下タイプ」と同じであったであろう。

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡 Ritual Bath, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・北東中庭・「聖なる浴場」
格式がやや低い一般来訪者用の「清めの場」
クレタ島・最東部/1982年



北翼部・「聖なる区画」からの出土品

エヴァンズの発掘では、北翼部の「聖なる区画」から石膏石・アラバスター製の容器の蓋が出土した。
部分破損があるが蓋の直径=115mmと計測され、蓋の中央部には古代エジプト文明独特の「カトゥーシェ曲線」で囲んだ「ファラオ名」、古代エジプト第二中間期・第15王朝・第三代ファラオ・キアン(Khyan 在位=紀元前1610年~前1580年)の名前が確認された。

「エジプトのナポレオン」と別称されるファラオ・キアンなど古代エジプト・第15王朝のファラオや王族は、「アジア系ヒクソス族(異国支配者)」と呼ばれ、首都が置かれたカイロ~北東方向のアヴァリス(Avaris=Tell el-Dab'a遺跡 )の神殿遺構から、エジプト流の画風ではなく、ミノア文明とまったく同じ様式、少なくも五頭の雄牛を相手にする五人以上の男性が「雄牛跳び」をする連続シーンの長大なフレスコ画が見つかっている。

容器の蓋とフレスコ画「雄牛跳び」、この二つの関連事実から、研究者はクノッソスの「旧宮殿時代」~「新宮殿時代」の初め頃、ミノア文明とエジプト王朝とは交易を通じてかなり濃厚で深化の関係にあった、と想定している。

クノッソス宮殿遺跡・古代エジプト第15王朝・ファラオ・キアン名の蓋 Name of Egypt Pharaoh Khyan on Lid, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・北翼部出土・石膏石製の容器の蓋
古代エジプト・第15王朝・「ファラオ・キアン」の刻銘
中期ミノア文明MMIIIB期・紀元前1600年~前1550年
イラクリオン考古学博物館・登録番号263/直径115mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


北翼部・北西プロピュライア

「聖なる浴場」の東側、北西~北翼部の事実上の入口間となる二本円柱の舗装された部屋・北西プロピュライア Northwest Propylaea は、大型の角柱を経て西側の「聖なる浴場」と連絡できる配置である。
フレスコ画の断片が大量に出土した北西プロピュライアの南西側の二か所のドアー口は、直角曲がりの通路を経て王座の間コンプレックスへアクセスできた。一方、プロピュライアの南東側のドアー口は、参拝者の案内と警備を担当するガードマン詰所であった。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・北西プロピュライア Northwest Propylaea, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・北翼部・北西プロピュライア
プロピュライアの北側~円柱礎~南側を見る
・左側ドアー口=ガードマン詰所
・右側ドアー口=直角曲がり通路
クレタ島・中央北部/1994年

ローヤルロード&劇場区域、または北入口を訪れた参拝者が、身を清めるために立ち寄った場所が聖なる区画の建物内にある「聖なる浴場」であった。参拝者は入口から北西プロピュライア(入口間)へ入り、聖なる区画の北側から左回りに「聖なる浴場」を一周した順路を辿り、階段を下り浴場で身を清めた。
「聖なる浴場」を訪れる参拝者がスムーズに清めができるように、聖なる区画内では「順路」が決められていた、とエヴァンズは想定している。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・北翼部・「聖なる区画」/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・北翼部・「聖なる区画」の参拝順路
参考情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.I(1921年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

北西プロピュライアの南側の部屋からは、《サフラン摘みのフレスコ画》の断片が大量に出土、さらに破損品も含め装飾加工が施された複数の石製ランプも見つかっている。
エヴァンズの発掘では、このフレスコ画の部屋の舗装床面をさらに1m近く掘り下げた時、口縁部が逆円錐形状、四か所ハンドル付きの腹部に太めの渦巻き線が横方向へ浮き彫り連鎖する、セラミック絶縁材ステアタイトの原料である黒色滑石(タルク)製の保存容器が出土した。
容器は「新宮殿時代」の前半、紀元前1550年頃に遡る作品とされる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・滑石製保存容器 Talc Storage Vase, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・北翼部出土・石製の容器
渦巻き線の浮き彫り連鎖加工
紀元前1550年頃/高さ485mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号22
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


北翼部・神殿の美しいフレスコ画

《サフラン積みのフレスコ画》の部屋の南側、中央中庭の北西端は上質な石膏石で舗装された神殿 Shrine と呼ばれる、複数の部屋で構成された複雑構造の区画が配置されていた。
神殿遺構の主に東半分の区画からは、何十人もの着飾ったミノアの美しい女性達が三分割聖所の周辺で集う《観覧席 Grandstand》のフレスコ画の断片が大量に見つかった。

さらに神殿区画の南東部分、中央中庭の北側直ぐの部屋では、中央中庭から下がるのか室内石段が確認され、石膏石・アラバスター製の水盤が出土、そしてミノア文明の広間の小壁や入口上部など室内装飾のスタンダードな絵柄である渦巻き線紋様のフレスコ画の断片が見つかった。

エヴァンズが1930年に発表した発掘レポートでは、渦巻き線紋様のフレスコ画の復元絵柄は、中心部に小さなロゼッタのある無数の浮き彫り(レリーフ)された白色の渦巻き線紋様が四方へ連鎖して広がり、その隙間には中サイズのロゼッタ紋様、さらに間隔約75cm毎に四花弁の縁取りの中に大きな浮き彫りロゼッタ紋様が配置された、精緻な立体フレスコ画であった。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・レリーフフレスコ画・渦巻き&ロゼッタ紋様 Minoan Relief-Fresco of Spiral and Rosette, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・北翼部出土・浮彫フレスコ画
連鎖の白色渦巻き線・ロゼッタ・花弁の紋様
参考情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.III(1930年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)
クレタ島・中央北部/描画&色彩:legend ej

3,500年以上前のミノア絵師により製作されたものだが、今日のアートデザインにも堂々と使えるほどの要素と見事な構図バランス、この渦巻き線のフレスコ画についてエヴァンズは、現実にはそれほど大規模な面積ではなく、比較的狭い部分の装飾であった可能性もあるが、ただ間違いなく天井の装飾として描かれていた、と想定している。

製作過程では、先ず天井一面に下地漆喰を塗り、下絵を基準として盛り上がり(レリーフ)の渦巻き線部分を造る。そして背景色と中サイズ・ロゼッタ紋様、さらに小サイズ・ロゼッタ紋様と渦巻き線の色付けの後、別途に製作した大サイズ・ロゼッタ紋様が描かれた幅25cm以上の四花弁のパーツを逆さに固定する、となるだろう。
これはフレスコ画の必須プロセスである「漆喰が乾かない間に顔料で色付けする」という、ミノアのフレスコ画職人にとっても時間との勝負の相当に困難な作業であったに違いない。しかも、垂直な壁面や平らな床面ではなく、逆さまに作業を強いられる天井の浮き彫りの装飾である。

消石灰・漆喰&フレスコ画の技法
地中海の諸島や沿岸~内陸部まで何処にでも無尽蔵に存在する石灰岩を砕き、加塩で焼成した物質が白色の生石灰。生石灰を加水処理すると白色微粉末の消石灰となる。
水酸化カルシウムが主成分の消石灰を水で溶き、壁面や天井や床面に塗った状態を漆喰と呼ぶ。完全に水溶せず強いアルカリ性を呈する漆喰は調湿・消臭・防水・不燃性に富み殺菌作用もある。また、消石灰にやや多めの水を加えたのが石灰水である。

フレスコ画の語源はイタリア語、壁面や天井や床面を造成した後、基本的に白色漆喰で表面を施工、漆喰が乾燥しない間に石灰水と顔料で描画する技法をフレスコ画と呼ぶ。
顔料が遅乾性の漆喰の石灰層へ染み込み、ゆっくりと乾燥する時、石灰質が透明で強固なコーティング質を作り、最終的に描画の表面を保護する。

エヴァンズの浮彫フレスコ画の復元情報を元に私が模写した描画では、白色系渦巻き線や四花弁&ロゼッタ紋様なども単調な感じとなってしまった。
が、実際にはこれらの部分は浮き彫りであり、光が斜め方向から照射されたなら、カーブする一本一本の無数の渦巻き線にもわずかな陰を伴った明暗のコントラストが生まれるはずである。そのビジュアル効果は絶大であり、エヴァンズが言うギリシア語「キアノス色 Kyanos Blue 」、紫色系の青色を基調とするフレスコ画全体は比較的落ち着いた色彩でありながら、眼を奪われるほどの典雅にして豪華な雰囲気をかもし出していた、と私には無理なく想像できる。
これをして、研究者からクノッソス宮殿が先史の東地中海域で「最も美しいフレスコ画の宮殿」と別称される所以である。

この非常に美しいパターンの浮彫フレスコ画は、間違いなく神殿の天井、あるいはクノッソス宮殿が最終崩壊する時、紀元前1375年頃、神殿の上階に存在した上質な広間の天井を装飾していたものが階下の神殿区画へ崩落した、と断定できる。

また、この浮彫フレスコ画とほぼ同じ渦巻き線が連鎖する絵柄パターンでは、東翼部・王妃の間の天井フレスコ画でも表現されていたことを、出土したフレスコ画の断片が代弁している。120年前のクノッソス宮殿遺跡の発掘ミッションの後、発掘者エヴァンズとミッションの協力者であった、オランダ系イギリス人の考古学・建築美術家 Piet Christiaan de Jong(1887年~1967年) は、王妃の間の想像画をイラクリオン考古学博物館に残している。

王妃の間の支柱側面はロゼッタ紋様と踊るミノア女性達のポートレート、小壁は小魚とイルカの泳ぐ様、そして青い「キアノス色」を背景とする天井は連鎖する渦巻き線紋様のフレスコ画で装飾されていた。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王妃の間 想像図/by Piet de Jong
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・王妃の間 想像画
描画情報:イラクリオン考古学博物館
描画の作者: Piet Christiaan de Jong


大量のフレスコ画の断片の出土からして、五部屋から成る神殿を含む合計7室~8室が配置された北翼部一階のこの区画は、宮殿・南西翼部の南プロピュライアや西翼部の上階の広間や通廊などと同様に、間違いなくすべての部屋が美しいフレスコ画で装飾されていた。
また、神殿区画の西半分となる複数の小部屋からは、フレスコ画の断片を初め大型のピトス容器、ハスの花形容の石製ランプや石膏石・アラバスター製の水盤、鐙型(あぶみ)注ぎ口付き容器なども出土した。


北翼部・北入口&北支柱広間

ローヤルロード&劇場区域から延びる盛り上がった石板歩道が、クノッソス宮殿・北入口 North Gate の建物へ向かっている。建物一階にあった北入口は狭い部屋を通り、その東側の広い部屋、北支柱広間 North Pillar Hall へ連絡している。

おおよそ東西12m、南北22mほど、北支柱広間は大型の二本円柱と8本の角柱が二列に並び天井を支える壮大な構造、クノッソス宮殿の中でも堂々たる区画の一つであった。
発掘直後のエヴァンズとその後のギリシア当局の復元プロジェクトの結果、現在、北入口の建物上部はコンクリート復元され、見学ツーリストはミノア時代のクノッソス宮殿の壮大さの一端を感じることができる。なお、北支柱広間の角柱群はほぼ発掘時の状態である。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・北入口 North Gate, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・北翼部・北支柱広間~北入口
・北入口の建物=エヴァンズのコンクリート復元
・手前・大型角柱群=発掘時の状態の北支柱広間
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・北入口付近/Sir Arthur Evans, Heidelberg U.
クノッソス宮殿遺跡・北翼部・北支柱広間~北入口
発掘時の北支柱広間(角柱群)~北入口(石組み)
写真情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.I(1921年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)

幾らかの研究者は、この北支柱広間を「税関 Customs」と呼んでいる。かつてミノア時代には北支柱広間から真北へ延びるミノア道 Minoan Road が、イラクリオンの東方に存在したクノッソス宮殿の舟着き場・ポロス Poros やカタンバ居住地 Katsamba、そしてやや東方のアムニッソス邸宅 Amnisos の近くの舟着き場へも連絡していた。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡&周辺 地図 Map of Prehistoric Sites around Knossos Palace/©legend ej
イラクリオン~クノッソス宮殿遺跡 先史文明遺跡 広域地図
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

「北の邸宅」からの出土品・青銅製の道具
エヴァンズの発掘では、北翼部・「聖なる区域」~北方60m、北支柱広間~北西60m付近から「北の邸宅 North House」と呼ばれる建物遺構が確認された。北の邸宅はクノッソスの宮殿区域の最も北区域にあたる場所、部屋数は多くはないが、通路や複数の広い貯蔵庫、そして東方のカイラトス河畔へ向かう石灰岩の外付け階段を備えていた。

この邸宅遺構からは、連鎖する渦巻き線とロゼッタ紋様、あるいは渦巻き線とカンマ紋様の大型ピトス容器が二器、そして多くの陶器片や青銅製の道具などが見つかっている。
青銅製の鐇(ちょうな)は二基、そしておそらく同じ遺構からと思われる青銅製の両刃斧も出土した。両刃斧は形状とサイズはミノア文明の各地の遺跡から出土している実用の普通タイプと同じだが、両面に羽根飾りのヘルメットの紋様が刻まれていた。
ヘルメット紋様はミケーネ文明を象徴する装飾モチーフであり、紀元前1375年頃、クノッソス宮殿が最終崩壊する時、北の邸宅の「最後の居住者」が、紀元前1450年頃、ギリシア本土からクレタ島へ侵攻したミケーネ人系譜の相当に高位な人物であったことを連想させる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・青銅製の道具 Minoan Bronze Tool, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・北の邸宅遺構出土・青銅製の道具
=青銅製の鐇(ピック)・中央穴付き
後期ミノア文明LMI期・紀元前1500年頃
Ashmolean Museum, U. Oxford (UK)
登録番号1910-181/長さ310mm
※Sir Arthur John Evans寄贈(1910年)
=青銅製の両刃斧・ヘルメット紋様/長さ180m
後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1400年
イラクリオン考古学博物館・登録番号371
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミケーネ文明の象徴である「ヘルメット」の表現では、クノッソス宮殿遺跡~北方2.8km、イソパタ遺跡・王家の墳墓グループ・5号墓から出土した多色彩のリュトン杯にも描かれている。また、実物の青銅製のヘルメットでは、クノッソス宮殿遺跡~北西2.3km付近、アギオス・イオアニス遺跡からの出土品がある。

ミノア文明・イソパタ遺跡・円錐形リュトン杯 Minoan Conical Rhyton with 8-shaped Ring-handle and Helmet, Isopata/©legend ej
イソパタ遺跡・「王家の墳墓グループ」・5号墓出土・多彩色のリュトン杯
「8の字形」リングハンドル・渦巻き線&ヘルメット紋様
後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1400年
イラクリオン考古学博物館・登録番号7702/高さ285mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・アギオス・イオアニス遺跡・青銅製ヘルメット Bronze Helmet, Knossos-Agios Ioanis/©legend ej
アギオス・イオアニス遺跡出土・青銅製ヘルメット
青銅薄板の円錐形容・頭頂部に突起・長い頬当て
「兵士の墓」/紀元前1450年~前1400年
イラクリオン考古学博物館/高さ386mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


海外からの高位の賓客はクノッソス宮殿の正規の参道であったローヤルロード&劇場区域から来訪したはずだが、そのほかの一般来訪者の内、北入口を利用する人の多くは、エーゲ海の舟付き場方面からやって来る海外からの交易商人などであった。
このため、北入口には交易品の納入手続きや検査を行う部署が必要であったはずで、北支柱広間がその重要な役目(税務)を果たしていた。エジプトや中東地域など海外との交易は、クノッソス宮殿の経済資源としての最も重要な業務の一つであった。

ミノア文明・アムニッソス遺跡・邸宅遺構 House of Amnisos/©legend ej
アムニッソス遺跡・「ユリの邸宅」の遺構
左方(北)150m先=浜辺~エーゲ海
クレタ島・中央北部/1982年



北入口・上階のフレスコ画《赤い雄牛》

北入口の復元建物の上階部分の壁面には、暴れ狂う雄牛の姿を浮彫フレスコ画で表現した《赤い雄牛》が複製描画されている。雄牛の全体は欠損しているが、頭部は現物のフレスコ画として残存、現在、イラクリオン考古学博物館で展示公開されている。
ツーリストの「立入自由」であった1980年代には、北入口の建物上部へ上がり、復元の《赤い雄牛》を直に見ることができたが、現在、この建物は立入禁止となっている。

また、この《赤い雄牛》と同じようなフレスコ画の破断片が、上階の壮麗な儀式広間から階下へ崩落したと推測できるが、西翼部・西貯蔵庫・第13号室で見つかっている。発掘者エヴァンズのモノクローム・イラスト画を元にして、私が模写・色付けした描画だが、ミノア時代には北入口の《赤い雄牛》と近似していたと確信する。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・北入口・浮彫フレスコ画「赤い雄牛」 Red Bull Fresco, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・北翼部出土・浮彫フレスコ画
後ろを振り返り突進する《赤い雄牛》
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫・雄牛フレスコ画 Bull Fresco, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西貯蔵庫出土・《雄牛のフレスコ画》
参考情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.I (1921年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)
参考原画:エヴァンズ作モノクローム・イラスト画
描画&色彩:legend ej



北翼部・北通路

北支柱広間の南西端から《赤い雄牛》の建物の東側を抜ける、長さ25mほどやや傾斜のある北通路 North Passage は、地表面レベルが建物で言えば一階分、5m前後高くなる中央中庭の北端中央付近へ誘導している。

クノッソス宮殿遺跡の発掘者エヴァンズのミッションの協力者であった、オランダ系イギリス人の考古学・建築美術家 Piet Christiaan de Jong(1887年~1967年) は、北通路の想像画をイラクリオン考古学博物館に残している。また、建物壁面の複製の浮彫フレスコ画《赤い雄牛》も Jong の作品である。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・北入口 想像画/by Piet de Jong
クノッソス宮殿・北入口 想像画
右上階・浮彫フレスコ画《赤い雄牛》
描画情報:イラクリオン考古学博物館
描画の作者: Piet Christiaan de Jong

北通路の舗装面の地中には、先ず中央中庭付近から、そして北東貯蔵庫群からの雨水を集めた排水路システムが施工されていた。
中央中庭側からの排水ルートはほぼ直線で約25mが残され、途中の北支柱広間の中間付近で北東貯蔵庫群からの排水が合流する仕様、集められた排水は北支柱広間の西側~真北方向へ流れ出ていた。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・北入口 North Gate, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・北翼部・北通路
・左=北支柱広間/中央の高い部分=中央中庭北端
・右=北入口の建物&浮彫フレスコ画《赤い雄牛》
・通路地中=雨水排水路の施工(手前・崩壊部分)
クレタ島・中央北部/1982年

また、北通路の西側の建物壁面一帯には、エヴァンズの発掘時、両刃斧・三叉槍先・「針葉樹の葉」に似た特殊な記号など合計30個ほどの刻みが確認されたとされる。


北通路の出土品・「サフラン」の線文字B粘土板

北翼部の北西プロピュライアから《サフラン摘みのフレスコ画》の断片が大量に出土しているが、エヴァンズの発掘では、北通路からサフラン線文字B粘土板が出土している。
オリーブ・ツタ・ユリなどと並び、サフランはミノア文明で人々に最も愛された植物の一つであった。データによれば、現在、発掘されている線文字B粘土板の内、サフランの絵記号の記述は合計59か所とされ、ミノア文明でのサフラン(花&乾燥めしべ粉末)に対する人々の注目度が反映されている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・線文字B粘土板・「サフラン」 Saffran Linear-B, Knossos Palace/Rita Roberts & Richard Vallence Janke/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・北翼部出土・線文字B粘土板
「サフラン」・クノッソス宮殿崩壊時・紀元前1375年頃
・左粘土板・表意訳=Richard Vallance Janke(2015)
・右粘土板・表意訳=Rita Roberts(2017)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

サフランの乾燥めしべ粉末は、衣装生地の染料、食材の香料、時には女性の生理痛の緩和や胃腸の消化力アップなど健康対応でも、ミノア時代の人々が大いに活用していた。
生地の染料にサフランの乾燥めしべ粉末を使うこと関しては、北翼部からの三分割聖所にミノアの女性達が集うフレスコ画《観覧席》やアクロティーリ遺跡のフレスコ画《ミノアの女性(後述イラスト画)》に例を見るように、ミノア織りの厚ぼったいスカートを履いた女性達の衣装の一部は、サフラン染めの生地を縫い合わせた素材である。

ミノア文明では、サフランは陶器の絵柄やフレスコ画など、美術工芸分野のメインモチーフとしても無数に表現され、布地の染色や香料など実用の分野でも大いに重宝された。
特に山野に生育する野生サフランを摘み、乾燥めしべを作るなど、直に手で触れる立場の女性達の間では、日常生活を含め文化レベルと存在主張(社会的地位・ステイタス)の素材としても強く認識されていた。ミノアの人々にとって、サフランは普通の植物や農作物を遥かに超えた、「特別な価値」を持っていた、と言えるかもしれない。


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サフランの絵柄の陶器

サフランの花はクノッソス宮殿を飾った美しいフレスコ画のみならず、エーゲ海サントリーニ島(テラ島)のアクロティーリ遺跡で見つかった無数のフレスコ画に描かれているほか、ミノア人の得意とした陶器の絵柄装飾のモチーフとしても頻繁に登場して来る。

例えば、小宮殿に相当する高貴な邸宅遺構のティリッソス遺跡からは、大口縁径で美しい器形、準宮殿様式のアンフォラ型容器が出土している。
「花ほとばしる新宮殿時代」、紀元前1500年~前1450年頃に製作された容器には、サフランの花の植物性と海綿スポンジや海草など海洋性デザインが混在する交互様式 Alternating Style の連鎖の絵柄が、肩部~腹部全体を覆っている。

ミノア文明・ティリッソス遺跡 Minoan House A, Tylissos/©legend ej
ティリッソス遺跡・「邸宅A」
円柱礎の主部屋~角柱の支柱礼拝室
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・ティリッソス遺跡・アンフォラ型容器「サフランの絵柄」 Minoan Saffran Amphora Ware, Tylissos/©legend ej
ティリッソス遺跡出土・準宮殿様式・アンフォラ型容器
相互様式=サフラン(植物性)&海綿・海草(海洋性)
紀元前1500年~前1450年/高さ600mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号6526
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

そのほかでは、最東部の大規模なミノア人の町・パライカストロ遺跡からは、ティリッソス遺跡と同じ時期、紀元前1500年~前1450年頃の美しい作品、サフランの花が横並びに連鎖する絵柄表現、花づな装飾 Festoon の円錐型リュトン杯がもたらされた。
さらにエーゲ海サントリーニ島のアクロティーリ遺跡・Δ地区・「家屋9」からは、グルーニアからの輸入品とされるサフランの花の絵柄の円錐型リュトン杯が出土している。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・円錐形リュトン杯「サフラン」Minoan Saffran Design Colonical Rhyton, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・円錐型リュトン杯
サフランの花の「花づな装飾」/高さ370mm
新宮殿時代・紀元前1500年~前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号3390
クレタ島・最東部/描画:legend ej

ミノア文明・アクロティーリ遺跡・円錐リュトン杯・サフラン絵柄 Minoan Saffran Conical Rhyton, Akrotiri/©legend ej
アクロティーリ遺跡・Δ地区出土・円錐型リュトン杯
グルーニアからの輸入品?サフランの絵柄
テラ考古学博物館・登録番号1494/高さ300mm
エーゲ海・サントリーニ島/描画:legend ej

GPS ティリッソス遺跡: 35°17′55″N 25°01′13″E/標高190m
GPS パライカストロ遺跡: 35°11′42″N 26°16′32″E/標高10m
GPS アクロティーリ遺跡: 36°21′06″N 25°24′12″E/標高30m


陶器の絵柄モチーフ・「相互様式」&「花づな装飾」
先史・古代文明の陶器の絵柄モチーフでは、植物性デザインと海洋性デザインの絵柄が交互に混在する表現を交互様式 Alternating Style と呼ぶ。また、花輪のように花や紋様を連鎖的につなげる表現は花づな装飾(Festoon(s)フェスツーン)と呼ばれている。

「サフラン」に関わるカマレス様式陶器 Kamares Style の植物性デザインでは、メッサラ平野のフェストス宮殿遺跡からの出土品、人気のサフランの花をアレンジしたブリッジ型注ぎ口付き水入れがある。
サフランの花の対(二個)を上下対称として、流行の水飴が回転しながら湾曲して垂れるような絵柄と大胆な渦巻き線の組み合わせである。「旧宮殿時代」の後半期、中期ミノア文明MMIIB期の典型的なカマレス様式陶器のモチーフを力強く表現している。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・カマレス様式陶器・サフラン絵柄 Saffran Design, Kamares Style Jar, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡出土・カマレス様式の水入れ
サフランの花・カンマ紋様・渦巻き線・蛇行線
旧宮殿時代・紀元前1700年~前1625年
イラクリオン考古学博物館/高さ約430mm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej


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実務系の産業区画・東翼部(北半分)~北東翼部

東翼部・「機織り(はたおり)重りの階下」

クノッソス宮殿の東翼部の北半分~北東翼部に関して、多くの研究者は産業区画 Industrial Quarter と呼び、手仕事を含む宮殿内の工芸品の生産や物品保管など、主に生活関連の業務を担っていた部署が集中している。

東翼部の王家のプライベート生活区画の北側には、東入口方面へ連絡する東階段通路東西通廊 East-West Corridor)がある。発掘者エヴァンズは階段通路より北側に配置された、一階レベルの区画を「機織り重りの階下 Loom Weight Basement」と呼んだ。
階下(一階レベル)は「新宮殿時代」の東貯蔵庫や工房など、頑丈な分厚い壁面構造、複数の生産関連の部屋が配置されていたが、エヴァンズの発掘作業で約400個の機織り重りが発見されたことから、この区画に名称が付けられた。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・東翼部・東階段通路 East-West Corridor, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・東階段通路
右側(通路の南側)=両刃斧の間(王の居室コンプレックス)
左側(通路の北側)=「機織り重りの階下」・東貯蔵庫&工房
クレタ島・中央北部/1982年

機織り重りの発見は、当然、東翼部で「機織りが行われていた」ことを連想でき、それが一階レベルの部屋であったのか、あるいは上階(おそらく二階)の部屋が機織りなど衣服生産に関わる部署であったのかは分からない。
しかし、「新宮殿時代」の終焉、紀元前1375年頃、クノッソス宮殿の大火災の際、重りが上階(二階)から崩落したのであれば、東翼部三階に存在したと想定されている東大広間の階下(二階)には、王妃など王族や貴族階級の女性達が必要とした衣装や美容&化粧関連の部屋が配置されていた可能性がある。その内の一つの部屋でミノア女性達による機織り作業が行われていたのかもしれない。


機織り(はたおり)」に関しては、フランス考古学チーム(アテネ)による北海岸のマーリア宮殿遺跡に隣接するミノア市街地・Mu区域の発掘で、テラコッタ製の機織り重りが数百個も見つかっている。
そのほかでは、シティア~南西9km、カメシオン(カマイジー Chamesion/Chamezi)の居住地遺跡からも個数は少ないが、複数のテラコッタ製の機織り重りの出土があった。
重りの形状はピラミッド状の円錐形、ソロバン玉のような双円錐型、単純な球形などサイズも様々だが、単純な球形塊では高さ55mm~75mm前後、糸を通す小穴がある。

先史・古代文明 機織りの仕組み・縦糸重り Prehistoric and Historic Loom System/©legend ej
先史~古代文明・機織りの仕組み&縦糸重り
マーリア遺跡・市街地出土・テラコッタ製「縦糸重り」
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


ミノア文明・カメシオン遺跡・南西区画の遺構 Minoan Settlement, Chamesion/Chamezi/©legend ej
カメシオン遺跡・サイト中心~南西区画
ランダム配置の変形の貯蔵庫&ピトス容器
クレタ島・東部/1982年


特に歴史上初めて縫製加工されたミノア女性の着用する厚ぼったい感じのスカート地は、多くのフレスコ画に描かれたミノアの女性達が身に着けている例からも想像できるが、クノッソス宮殿の作業所のみならず、マーリア宮殿やほかのミノア人の町でも、女性達の需要に見合った大量の布地が盛んに生産されたはずである。

アクロティーリ遺跡・フレスコ画「ミノア女性」Fresco Minoan Woman, Akrotiri, Santorini/©legend ej
アクロティーリ遺跡・フレスコ画《ミノアの女性》
・重ね縫いの斬新デザインのスカート姿の女性
・市街地・「ミノア女性の家」・北壁面の描画
紀元前1650年頃/テラ考古学博物館
エーゲ海・サントリーニ島/描画:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・行列フレスコ画 Minoan Procession Fresco, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西~南翼部・《行列フレスコ画》
豪華なスカート姿の王女 or 女神&若い男性達(部分)
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

また、クノッソス宮殿遺跡周辺で確認された複数個所の「王家の墳墓」から出土した金製リングのモチーフには、厚ぼったいスカート姿の豪華な衣装の女神や高位女性達が表現されている。
例えば、クノッソス宮殿地区の南方、ジプサデスの丘の東斜面で見つかった王家の墳墓 Temple Tomb からは《ミノス王の金製リング Gold Ring of King Minos》、あるいは宮殿地区~北方2.8kmのカイラトス川西側のイソパタ遺跡からは《イソパタ金製リング Isopata Gold Ring》が出土している。
これらは何れもある時代の王家の、しかも最高位の人達が身に付けていたもので、ミノア文明を代表する金製工芸技術の極致、非常に豪華な宝飾品であるが、その印面にはミノアの美しい女性達が彫刻されている。

ミノア文明・クノッソス地区・王家の墳墓・金製リング《Gold Ring of King Minos》Temple Tomb, Knossos Area/©legend ej
クノッソス地区・王家の墳墓 Temple Tomb 出土・金製リング
エヴァンズ=《Gold Ring of King Minos》と名称
新宮殿時代の初期~中期・紀元前1600年~前1450年
イラクリオン考古学博物館/重さ約30g
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

この金製リングは、エヴァンズをして《ミノス王の金製リング Gold Ring of King Minos》と呼ばれるようになった。
楕円形(オーバル形状)の印面には聖なる雄牛角型オブジェと聖なる樹木が生える三分割聖所(神殿)と山頂聖所、複数の女神と尊貴な若い祭祀王(or 王子 or 青年)、高貴な舟などが刻まれている。
極めて微細で精緻加工が特徴の、この金製リングのモチーフは間違いなく、神出(かみいずる)の「エピファニー表現 Epiphany scene」であり、非常に高尚にして厳粛な宗教的な情景を印面に隙間なく刻んでいる。
女神の履く厚ぼったい感じのミノア風スカートからの判断では、この金製リングの製作はミノア文明が最も繁栄した「新宮殿時代」の前半、中期ミノア文明MMIII期・紀元前1600年~後期ミノア文明LMI期・紀元前1450年頃と断定できる。

一方、《イソパタ金製リング》では、女神と二匹の聖なる蛇が見守る中、厚ぼったいミノア風のスカート姿の四人のミノア女性達が、スミレの花咲く草原でダンスに興じる情景を描写したものである。
天の女神が見守る中、(私の推測では)子供を宿す年齢になった若い女性達のお祝いの感動・歓喜のシーンを、こちらも見事な「エピファニー表現」で描写していることから、このリングの所有者(被葬者)はクノッソス宮殿の「王女」であった可能性が高い。

ミノア文明・イソパタ遺跡・王家の墳墓出土・金製「イソパタ・リング」Minoan Gold Isopata-ring, near Knossos Palace/©legend ej
イソパタ遺跡・横穴墓・1号墓出土・金製リング
《イソパタ・リング》 印面=楕円形・横26mm
エピファニー表現=女神・蛇・踊る女性達・スミレ花
新宮殿時代・紀元前1550年~前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号424
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

※金製リングの「エピファニー表現」の詳細;
関連Blog情報: ミノア文明・クノッソス宮殿周辺の先史 遺跡 Prehistoric Sites around Knossos Palace

ギリシア本土ミケーネ文明でも厚ぼったいスカートを履いた高位身分の女性の表現が確認できる。ミケーネ宮殿遺跡~北西20km、古代クラシック文明遺跡が点在するネメア~西北西7km、人口350人の小村アイドニア Aidonia で確認されたミケーネ文明の共同墳墓から出土した金製リングがある。
1970年代の初め、アイドニア村~東方450mの共同墓地遺跡では、地元民による盗掘が横行してほとんどの墳墓が荒らされてしまった。しかし、その後の公的な発掘ミッションでは、墳墓内の床面下が未盗掘の横穴墓・7号墓から素晴らしい金製リングが四個発見された。これらの宝飾品は《アイドニアの財宝 Aidonia Treasure》と呼ばれている。

そのうちの一つ、横幅25mmの楕円形(オーバル形状)の金製リングの印面には、クレタ島ミノア文明で見られる典型的な厚ぼったいスカートを履いた高位身分の三人の女性が、手に花か苗を持ち神殿へ歩んでいるシーンが刻まれている。岩丘の神殿にはミノア文明のような雄牛角U型オブジェはなく、大きな聖なる樹木が生えている。

押し潰された形容で発見されたため、金製リングのアーム(輪部分)は部分破断で変形しているが、その外周には「黄金の造粒技術 Gold Granulation」の微細粒の装飾が施されている。金製リングの製作は後期ヘラディック文明LHI期~LHII期・紀元前1500年頃とされる。
また、印面に表現されたモチーフに限定するなら、神殿の表現や厚ぼったいスカート姿など、ミノア文明の影響を相当に受けていることが分かる。あるいはクノッソス宮殿のミノア王からの献上品という蓋然性が高い。

ミケーネ文明・アイドニア遺跡・金製リング・黄金の造粒技術 Mycenaean Gold Ring with Gold Granulation, Aidonia Treasure/©legend ej
ミケーネ文明・アイドニア遺跡出土・金製リング
《アイドニアの財宝》・「黄金の造粒技術」
花を持つ三人の女性・神殿・聖なる樹木
後期ヘラディック文明LHI期~LHII期・紀元前1500年頃
ネメア考古学博物館・登録番号549/横25mm
ペロポネソス・コリンティア地方/描画:legend ej

GPS アイドニア遺跡: 37°50′25″N 22°34′59″E/標高355m

エーゲ海・サントリーニ島(テラ島)は先史時代の「織物産地」
機織りに関しては、素晴らしいミノアのフレスコ画が見つかったサントリーニ島・アクロティーリ遺跡から、合計950個を数える機織り重りが出土している。
機織り作業はミノアの女性達の重要な手仕事、クノッソス宮殿やマーリア宮殿のみならず、エーゲ海文明・考古学者 Rachel Dewan の研究(2015/U.Toronto)によれば、アクロティーリ居住地はエーゲ海域の最大級の織物産地であったとされる。
住民が完全避難する紀元前1500年頃の火山爆発が起こるまで、テラ島で織られた生地はフレスコ画のように島内での消費だけでなく、遠くエジプトや中東地域向けの重要な輸出品であった、と想定している。

関連Blog情報: ミノア文明・クノッソス宮殿の崩壊の原因は?

GPS アクロティーリ遺跡: 36°21′06″N 25°24′12″E/標高30m

また、服地素材が綿花栽培で得られるコットンや天然の植物繊維・リネン(リンネル)ではなく、ウールでは素材は草原や岩場での羊の育成が前提となる。さらに縦横糸に使う細い繊維(糸)を作るためには紡ぎと糸巻の器具や装置、そして青銅製や魚骨から作る針も絶対的な必需品であった。
最東部のパライカストロ遺跡からは、ミノアの羊飼いが羊の群れを管理している情景を表現したテラコッタ製のボウル容器が出土している。ボウル内面には一人の羊飼いが立ち、少なくとも160頭の羊が「整列」しているシーンである。これは実用の食器ではなく、神殿などへの奉納用として作られた。
ボウルの製作はクノッソス宮殿の「旧宮殿時代」の半ば、中期ミノア文明MM1B期~IIA期・紀元前1800年頃とされる。この時代、既に羊は現代と同じ完全に「群れ」で飼育されていたこと連想させる。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・ボウル容器・牧童と羊 Minoan Bowl with Sheep and Shepherd, Plaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・ボウル容器
羊飼い&約160頭の飼育羊の群れ
旧宮殿時代・紀元前1800年頃/直径20cm
イラクリオン考古学博物館・登録番号2908
クレタ島・最東部/1982年


大型ピトス容器が残る東貯蔵庫群

採光吹抜け構造の美しい区画、東翼部・列柱の間の厚い壁面を隔てた北側は、エヴァンズの呼ぶ「機織り重りの階下」の一部、東貯蔵庫群 East Storerooms の区画である。現在、一部の貯蔵庫が復元され、メダリオン紋様の大型ピトス容器が保管・展示されている。

ピトス容器の円形のパターン装飾・メダリオン紋様では、西翼部・聖域の大型ピトスの部屋や宮殿の直轄管理の西翼部・貯蔵庫群の長い通廊など宮殿内部の重要なスポットに同様なピトス容器が残されていることから、この紋様は庶民が使う普通のピトス容器では見ることのない、”宮殿専用”の特別な装飾であったと考えられる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・東貯蔵庫&ピトス容器 East Storeroom, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・東貯蔵庫
円形のメダリオン紋様のピトス容器
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・大型ピトス容器の部屋 Tall-Pithos Room, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・大型ピトス容器の部屋
ピトス容器=後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1400年
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年


また、東翼部の東貯蔵庫群と北東貯蔵庫群では、西翼部・西貯蔵庫群とは異なり、庫内床面に地中収納ピットを設けていない。
なお、貯蔵庫の形態&規模では、メッサラ平野のフェストス宮殿の貯蔵庫群に比べ、当然ながら文明センターのクノッソス宮殿の方が貯蔵庫群の庫数の多さのみならず、全体の専有総面積も遥かに広い。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・西貯蔵庫・第17号室 West Storeroom, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・西貯蔵庫・第17号室
奥~入口を見る/地中=収納ピット
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・貯蔵庫 West Storeroom, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・西翼部・貯蔵庫&ピトス容器
床面=石膏石の舗装・地中=収納ピットなし
クレタ島・メッサラ平野/1982年


東翼部・雨水を活用する「導水路システム」

ピトス容器保管の貯蔵庫の東隣は、東西7m、南北6.5mの空地、このスペースには雨水を集める石製水溜&石製導水路システムが残されている。
上階(三階)に存在した東大広間の中心部分が一階レベルのこの空地と同じであり、しかも雨水を活用する導水路システムの存在から、この空地は一階~二階~三階(東大広間・中心部)~存在したなら四階まで、天空に開放された採光吹抜け構造であったと確信できる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・東大広間・プラン図 Plan of Great East Hall, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・東大広間
三階レベル・アウトラインプラン図
参考情報:サー・アーサー・エヴァンズ・発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.III(1930年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・東翼部・導水路システム Water Supply System, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・石製の導水路システム
石製水溜~石製水路&分岐部~北東翼部へ導水
クレタ島・中央北部/1994年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・東翼部・導水路システム Water Supply System, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・石製の導水路システム
石製水溜~石製水路&分岐点
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・東翼部・導水路システム Water Supply System, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・石製の導水路システム
・石製水路の屈折ポイント・接合部・上面カバー石
・ブロック接合部の漏水対策=石膏プラスター施工
クレタ島・中央北部/1982年

石製水溜の空地から始まる東翼部・導水路システムは北東方向へ延び、複数の部屋の壁面下を通過、陶器工房と巨大ピトス容器の倉庫に挟まれた、水溜ピトス容器の中庭の西側に敷設されたテラコッタ製の巨大ピトス容器へ流れ込む。
また、水路の中間に分岐部が確認できるので、さらに支流水路が北方向へも延びていたはず。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・東翼部・導水路システム・水溜ピトス容器の中庭 Water Pythos Court, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・水溜ピトス容器の中庭
雨水=導水路システム経由~巨大ピトス容器へ流れる
クレタ島・中央北部/1994年

ゲーム盤の通廊 Corridor of Game Board の東側、「機織り重りの階下」~北方15mには飼育動物小屋 Animal Breeding Huts があることから、集めた雨水は動物の飲み水として、あるいは衣類の洗濯、広間や部屋の掃除用に、さらに植え込みや草花への給水など生活用水として使われたかもしれない。
拡大視するならば、地表レベルが低くなる宮殿・北東端には「旧宮殿時代」の建物群があり、水の流れの落差を利用したなら、石製導水路システムの雨水は北東翼部の隅々までへも給水されていた可能性がある。


北東貯蔵庫群

四本円柱の北東広間~北入口の間に広がる複雑な遺構群は、北東貯蔵庫群の区画である。エヴァンズの発掘ではこの貯蔵庫群から、各室で個数は異なるがピトス容器を初め、カップ類・短脚付き容器、スタンド、水入れ容器や寸胴型容器など、合計おおよそ120器を数える容器類が見つかっている。また、東貯蔵庫群と同様に、北東貯蔵庫群でも庫内床面に地中収納ピットは敷設されていない。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・北東翼部・ゲーム盤の通廊&北東広間/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・北東翼部・複雑な建物遺構
ゲーム盤の出土点~北東広間~北東貯蔵庫群~北入口
クレタ島・中央北部/1982年

宮殿の貯蔵庫なので大量のピトス容器の保管は当然のことだが、この北東貯蔵庫群からのユニークな出土品では、高さの割には細い器形、ダブル・ハンドル、注ぎ口付きの無地の器肌にモダンアートのように釉(うわぐすり)を垂れ流した感じのやや大型の水入れが、同じ庫内から五器見つかった。
この水入れの製作時期は「新宮殿時代」の初め、中期ミノア文明MMIIIB期・紀元前1600年~前1550年頃に属するとされた。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・水入れ Minoan Jar, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・北東貯蔵庫出土・水入れ
紀元前1600年~前1550年/高さ450mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号5208
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

この時代のミノア陶器は花や植物などを抽象化した豊富なモチーフと色鮮やかな絵柄が特徴のカマレス様式の後継であり、陶器様式は発展・成熟した結果、器形も安定感のあるブリッジ型注ぎ口付き容器やバランス形容の水入れや美的カップ類などが主流であった。
が、どうしたことか?この水入れは器形も絵柄デザインも一風変わった印象を受けるタイプである。「花ほとばしる新宮殿時代」となり、クノッソス宮殿の陶器工房では新しい思考の若い陶工達が採用され、ちょっとだけ今までにない斬新デザイン陶器の製作が試されたのかもしれない。

また、北東貯蔵庫群は南側の北東広間から、そして北支柱広間の東側ドアー口(発掘者エヴァンズは宮殿・北東入口 Northeast Gate と呼んだ)からそれぞれ連絡できた。


北東翼部・「ゲーム盤の通廊」

北東貯蔵庫群の東側は、ゲーム盤の通廊と名称された長い通廊区画が南北に走っている。この区画からは間違いなく、紀元前1375年頃、クノッソス宮殿が大火災で最終崩壊する時、上階から崩落したと考えられる「王家のゲーム盤 Royal Game Board」と呼ばれる大型長方形のゲーム盤が出土した。
ゲーム盤が発見されたピンポイントは、北東広間の南側の石段を降り切った先、約2.5m東方の壁面付近である。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「ロイヤル・ゲーム盤」Minoan Royal Game Board, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・象嵌のゲーム盤
「王家のゲーム盤」/イラクリオン考古学博物館
盤サイズ=長辺965mm・短辺553mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

象牙・水晶(クリスタル)・ファイアンス製の部材で象嵌された非常に豪華なゲーム盤のサイズは、長辺965mm x 短辺553mmである。同じ場所から「駒」に相当する象牙・水晶製の小片も見つかっている。
このことから王族や貴族階級の人達の高級な遊び、現在のチェスのようなゲームに使われたと推測されている。同種のゲーム盤はエジプト王朝の宮殿から、そしてギリシア本土ミケーネ宮殿遺跡からも出土している。

可能性としては北東広間の上階(二階)には、線文字A or B粘土板のIDカードを持参する、宮殿の高位の人だけが入室できる「会員制ゲーム室」があり、室内にはワインをサーブするカウンター、そして中央テーブルにはゲーム盤が置かれていたのかもしれない。

また、ゲーム盤に象嵌されている象牙や水晶やファイアンス製の部材と同じものが、ミノア文明の象徴であるファイアンス陶器《蛇の女神》が出土したクノッソス宮殿の宝庫区画、西翼部・聖域の神殿宝庫 Temple Repositories からも大量に出土している。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・神殿宝庫 Temple Repositories, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・神殿宝庫
奥側=西側の収納ピット
中間=後世の収納ピット
手前=東側の収納ピット
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年



飼育動物小屋群巨大ピトス容器の倉庫

ゲーム盤の通廊の東側で少しだけ地表レベルが低くなり、飼育動物小屋 or 倉庫タイプの 小部屋の連なりとなる。
さらに東側の低いレベルの復元建物は、巨大ピトス容器の倉庫である。内部には高さ2mを超す複数の超大型ピトス容器が残されている。信じられない巨大サイズのピトス容器は、ミノア文明の陶器造りの高い技術レベルを証明する「文化遺産」でもある。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・北東翼部・飼育動物小屋/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・北東翼部・小部屋の連なり
・飼育動物小屋群 or 倉庫群
・手前の石段=東入口へ連絡
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・巨大ピトス容器 Giant Pithos, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・北東翼部・巨大ピトス容器の倉庫
高さ2mを超す大型サイズの容器
クレタ島・中央北部/1994年


東翼部・東入口の「集砂ピット」

石製導水路システムからの雨水を受けた東翼部・水溜ピトス容器の中庭と巨大ピトス容器の倉庫とに挟まれた石段を東方へ、回りながら30mほど下った宮殿・東入口 East Gate では、復元された複雑な階段と堅固な壁面、そして二か所の集砂ピットの設備を見ることができる。

直線と直角曲がりの流路、内幅約50cm四方・深さ約30cmのピットを連結した構造、集砂ピットはクノッソス宮殿の排水システムの一端を担い、雨水の集水と混じった土砂やゴミの沈殿・除去を目的とした、高度な知識で裏打ちされた先史時代では非常に珍しい環境施設であった。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・東入口 East Gate, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・東入口
復元の石段と擁壁の複雑堅固な構造
クレタ島・中央北部/1994年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・東入口・集砂ピット施設 Water pit, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・東入口
・排水路システム&集砂ピットの連結施工
・集水雨水~土砂沈殿&除去~排水~東方
クレタ島・中央北部/1994年

地表面レベルがかなり低い東入口(標高85m)は、見学ツーリストが集中する中央中庭(標高95m)や王座の間などから直接見えず、しかもクノッソス宮殿遺跡の周囲林の陰にあり、ほとんどの一般ツーリストが見逃すスポットでもある。
しかし、東入口は建築・土木・水利関連の研究者やエンジニアなら一度は確認しておきたい遺構スポットでもある。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・周辺遺跡 広域地図 Map Prehistoric Site around Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡&周辺 地図
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Minoan Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東方の丘から展望
遺跡規模=東西180m 南北180m
右方(北)=イラクリオン方面
クレタ島・中央北部/1982年

東翼部・東入口の周囲林の外側、現在は農道だが、かつてのミノア道を北方へ130mほど進んだ、道の右下にクノッソス宮殿の尊貴な王族や祭司などが居住した、王家の邸宅 Royal Villa と呼ばれる建物遺構が残されている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王家の邸宅・水差し Minoan Jug, Knossos Royal Villa/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・王家の邸宅出土・水差し
準宮殿様式の美しい器形/長い頸部&注ぎ口・楕円ハンドル
肩部=抽象化された放散状のパピルスの絵柄
後期ミノア文明LMIIIA期・紀元前1400年~前1300年
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

クノッソス宮殿の充実した「水関連施設」
クノッソス宮殿では、東翼部の雨水を集めて利用する導水路システムのほか、東翼部・王家の生活区画の地中には排水路システムが敷設されていた。
エヴァンズの発掘レポート(1921年)によれば、東翼部・王家の生活区画の地中に敷設された、採光吹抜け部の雨水&王妃の水洗トイレからの汚水を東方へ流す排水路システムでは、石材を組み上げ、平均横幅40cm(35~50cm)・深さ60cm~Max150cmの断面が方形構造の排水路を造り、漏水対策として内面を石膏プラスターで表装してあったとされる。
場所により排水路の寸法(横幅・深さ)はランダムとなるが、厚さ20cm前後のカバー石材で覆われ、王家の生活区画の地中深く、または広間などの舗装床面の下部に敷設された。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「王家の生活区画」南西セクション・プラン図 Plan of Southwest section, Royal Apartment, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部
「王家の生活区画」一階・南西セクション・アウトラインプラン図
・列柱の間~両刃斧の間~宝庫~王妃の間コンプレックス
・排水路システム&「デーモン印章の区画」&竪坑堆積層
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・ミノア王妃の水洗トイレ Minoan Queen's Flashing Toilet, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・王妃の化粧室
王妃の「水洗トイレ」(現在 立入禁止区域)
・右壁面・細縦溝=木製椅子の設置跡
・奥の方形深溝=トイレ~排水路合流
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア王妃が使った「世界最古のお風呂」と「水洗トイレ」の詳細は:
関連Blog情報
: ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VIII 王妃の間

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王の居室・採光吹抜け部屋・排水路 Drain System, Double-ax Complex, Knossos Palace/©legend ej/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・採光吹抜け空間
西隣の列柱の間からの排水路システム
排水路=幅35~50cm・深さ60~70cm
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王家の生活区画・排水路断面 Section of Drain-system, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・排水路システム
参考情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.I (1921年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)
クレタ島・中央北部/作図:legend ej


飲料水の確保では、宮殿区域に敷設した7か所の井戸、ジプサデスの丘に三か所の井戸、そして南方100mを流れる小川ヴリチアスからも供給されるなど、宮殿生活に絶対的に必要な「水関連」の対応と設備が充実していた。

宮殿区域内の井戸の設備では、ローヤルロードの脇のフレスコ画の邸宅付近、西中庭と西ポーチの西側付近、東翼部のゲーム盤の通廊と飼育動物小屋と巨大ピトス容器の倉庫付近、王の居室コンプレックスの南東付近の合計7か所、さらに南方のジプサデス丘では北側斜面に三か所の井戸が掘られていた。
また、小川ヴリチアスの流れから飲料水を取水、仮に標高95mの西中庭まで導水するならば、標高差から単純計測すると現在のチケット・入口の南方の道路(橋)~約110m上流付近、ジプサデスの丘の西側が取水ポイント、西中庭~約350mの石製導水路システムが必要であった。

宮殿内部の飲料水を流す給水システムでは、伝統ある陶器生産の技術を活かし、サイズを一定にしたテラコッタ製給水パイプの規格品が量産され、破損を防ぐため地中の溝に敷設され、その総延長は約150mに及んだ。
製法の容易性から、給水パイプのほとんどはシンプル管が生産された。また、水圧による「パイプの外れ」を防ぐ対応として、隣接パイプのハンドル同士をロープ接合させるため、パイプ外周に四か所の半円型ハンドルを付けた特殊なタイプも製作された。さらにパイプの接合部の水漏れ対策として、石膏プラスターのセメント施工が採用されていた。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・給水システム Water Supply Pipe, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・給水システム
「ゲーム盤の通廊」・テラコッタ製給水パイプ
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・給水システム Water Supply Pipe, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・給水システム
テラコッタ製パイプの仕様と使用 例
・単純管=直行ルート~やや曲がり接続も可能
・特殊管・半円ハンドル=外れ防止ロープ接合
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明の導水路システムでは、メッサラ平野のアギア・トリアダ準宮殿遺跡、最東部のアノ・ザクロス邸宅遺跡でも石製導水路の遺構を確認できる。アノ・ザクロス邸宅では、標高差からの推測では250mほど離れた小川の取水ポイントから導水していた。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・石製導水路 Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡・石製の導水路システム
建物間に並行する二系統の石製導水路
クレタ島・メッサラ平野/1982年


ミノア文明・アノ・ザクロス遺跡・導水路 Minoan House, Ano Zakros/©legend ej
アノ・ザクロス遺跡・石製の導水路システム
邸宅遺構に残る石製水路のブロック
クレタ島・最東部/1982年


GPS アギア・トリアダ遺跡: 35°03’33"N 24°47’35"E/標高35m
GPS アノ・ザクロス遺跡: 35°06′26.50″N 26°13′09.50″E/標高210m


宮殿付属の工房群

王の居室コンプレックスの北側の東階段通路(東西通廊)が、王家のプライベート生活区画と「産業区画」との事実上の分離線を成している。
階段通路の北側~東方には比較的小さな広間と部屋が配置されていた。先ず四本円柱の南北に細長い列柱の間(東ベランダ East Portico/Veranda)が宮殿の東正面部を固めている。
列柱の間の南ドアー口からアクセルできる木製支柱の間 Lobby of Wooden Posts があり、その北側には石製工房 Stone Mason’s Workshop、さらに石膏石ベンチを備えた陶器工房 Potter’s Workshop が並んでいる。

また、大型ピトス容器の倉庫の北側の区画、宮殿・北東翼部に含まれる「旧宮殿時代」の建物群には、東翼部の陶器工房とは別に陶器工房の作業所があり、500年間以上に渡って優秀なミノア陶器生産の中心的な役割を果たし、美しい陶器を限りない数量で焼き続けて来た。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・北東翼部・「旧宮殿時代」の建物群/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・北東翼部・旧宮殿時代の建物群
宮殿用陶器を製作した作業所・工房・倉庫群
クレタ島・中央北部/1982年

東翼部では、水溜ピトス容器の中庭と大型ピトス容器の倉庫の間の通路石段を下ると、東入口~ミノア道~カイラトス河畔へアクセスできたことから、東翼部・東入口は主に宮殿公務スタッフと工房や作業所などで働いた人達に利用されていた、と考えられる。
また、エヴァンズはミノア道~カイラトス川の間に広がる河畔平地では、「雄牛跳び」などの全員集合できるミノアの伝統的なイベントなどが開催されたと推測している。


東翼部・陶器工房で生まれた「宮殿様式陶器」

東翼部・陶器工房に関係するクノッソス宮殿遺跡からの出土品例で言えば、西翼部・西貯蔵庫・第11号室~第13号室周辺で見つかった、宮殿様式陶器 Palace Style の大型ピトス容器がある。

紀元前1450年頃、クレタ島の三か所のミノア宮殿を初め、無数の地方邸宅と庶民の町や居住地が、ギリシア本土からの「侵攻ミケーネ人」により相次いで徹底的に破壊された。
その後、最後に唯一残されたクノッソス宮殿で生産された宮殿様式陶器は、クレタ島のほかのすべての焼き窯・キルンが破壊されたことから、事実上、クノッソス宮殿の東翼部・陶器工房だけで生産された。
そうして、紀元前1375年頃、クノッソス宮殿が最終崩壊するまでの約75年の間に、陶器工房の職人達は、過激に言えば、ミノア文明の「美術の最後の花」と言っても過言とならないほどの、文明を象徴するに値する美しい陶器様式を確立した。

陶器の系譜から言えば、元々はギリシア本土ミケーネ文明で開発されたオリジナル宮殿様式を、クノッソス宮殿の陶工達が一世紀に満たない短期間で洗練の域へ改良したのが、この“クノッソスの宮殿限定”の宮殿様式陶器である。
結果、この美形の陶器はクノッソス宮殿遺跡と周囲の邸宅群、そしてクノッソス地区に点在する王家に関わる墓地&墳墓からのみ出土している。

西翼部・西貯蔵庫から出土したこの装飾用の大型ピトス容器は、宮殿様式陶器の「最高傑作」と言えるほどの素晴らしい作品である。
階下レベルの出土ポイントから判断するなら、ピトス容器は、紀元前1375年頃、クノッソス宮殿の最終崩壊の時、間違いなく西翼部・上階に存在した聖なる北西儀式広間 Northwest Sanctuary Hall から崩落した、と断定できる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・宮殿様式ピトス容器・両刃斧&ロゼッタ Minoan Palace Style Pithos, Double Ax, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・宮殿様式ピトス容器
北西儀式広間・両刃斧&ロゼッタ&植物性デザイン
新宮殿時代の後半・紀元前1450年~前1400年
イラクリオン考古学博物館・登録番号7757/高さ1345mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

この宮殿様式の大型ピトス容器の絵柄は、基本的には穏やかな印象を与える植物デザイン系 Floral Design であるが、ミノア文明の最高崇拝シンボルであった両刃斧とロゼッタ紋様を堂々と中央&上部スペースに威厳を秘めながら描写している。

クノッソス宮殿だけに関わると言える宮殿様式陶器では、器形の美しいアンフォラ型容器を初め、水差しなど多くの作品が出土している。
しかしながら、今までにクレタ島内で出土・確認されている宮殿様式陶器のうち、絵柄デザインの内容に限定するなら、8基の両刃斧をデフォルメして簡略的に描くのではなく、精緻な細線で正確に描写する、この大型ピトス容器こそが最も高い格式でクノッソス宮殿の統治者を称えていると強調でき、これ以上の畏敬象徴するアートモチーフは見当たらない。

この大型ピトス容器がクノッソス宮殿の最終ステージの時代、宮殿・西翼部二階の最も壮麗な広間、聖なる北西儀式広間に相応しい最高の装飾品であったのは間違いないだろう。その製作は「新宮殿時代」の後半、後期ミノア文明LMII期、紀元前1450年~前1400年頃、東翼部&北東翼部に在った宮殿の陶器工房で働いた職人達が担当した。

あるいは、あくまでも私の仮定となるが、この大型ピトス容器を製作した陶工はミノア人ではなく、ギリシア本土ミケーネ文明の最も美しい陶器の供給地であったアルゴス地方の世界遺産ティリンス宮殿の陶器工房から、または世界遺産ミケーネ宮殿遺跡~南東5km、ミケーネ陶器の最大生産地であったプロシムナ・ベルバチ居住地 Prosymna-Berbati の焼き窯・キルンから派遣された、腕の立つ陶工だったかもしれない。
だとしたら、何れの陶工達も「侵攻ミケーネ人」と一緒に紀元前1450年頃、ギリシア本土からクレタ島へ移って来たミケーネ人であった。

世界遺産/ミケーネ文明・ティリンス宮殿遺跡 Mycenaean Gate, Tiryns Palace/©legend ej
世界遺産/ティリンス宮殿遺跡・入城門
ミケーネ様式の巨大な石組み城門&城壁
ペロポネソス・アルゴス地方/1982年

ミケーネ文明・プロシムナ・ベルバチ居住地 Mycenaean Prosymna-Berbati/©legend ej
プロシムナ・ベルバチ居住地跡
ミケーネ文明最大の陶器生産地
ペロポネソス・アルゴス地方/1982年

GPS 世界遺産/ティリンス宮殿遺跡: 37°35′56″N 22°48′02″E/標高25m
GPS プロシムナ・ベルバチ遺跡: 37°42′39″N 22°48′16″E/標高195m

クノッソス宮殿遺跡出土の格式高い宮殿様式のピトス容器のデザインより少々劣るが、北海岸・プッシーラ居住地から出土した準宮殿様式のピトス容器がある。
容器の平坦な口縁部の外周面には連鎖する両刃斧、さらに腹部では両刃斧と雄牛の頭部、植物のデザイン、下部は連鎖するツタの葉や渦巻き線紋様で埋められている。描画技法の精緻性では一般的だが、モチーフではクノッソス宮殿遺跡のピトス容器に匹敵する格式レベルと言える。

ミノア文明・プッシーラ遺跡・準宮殿様式ピトス Minoan Pithos with Bull and Double Ax design, Pseira/©legend ej
プッシーラ遺跡出土・準宮殿様式のピトス容器
両刃斧・雄牛頭部・ツタ葉・渦巻き線デザイン
紀元前1550年~前1450年/高さ760mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号5459
クレタ島・東部/1982年

同じくプッシーラ居住地からは、高さ20cm、適度にループするハンドル付き、現在の「トートバック」に近似する形容、外周は水平四区分され、聖なる両刃斧の絵柄がぴっしりと連鎖表現されたテラコッタ製の小型奉納容器が出土している。プッシーラ居住地が最も繁栄した後期ミノア文明LHI期・紀元前1500年頃の作品、このタイプの陶器奉納品はプッシーラ島からが唯一の出土となっている。
美しいフレスコ画や上質な陶器など、多くの作品を生み出したエーゲ海沿岸の島・プッシーラ居住地は、この50年後、紀元前1450年頃、クノッソス宮殿を除くミノア諸宮殿や地方邸宅、さらに繁栄した町などを襲撃した、ギリシア本土ミケーネ人のクレタ島侵攻により、完全に破壊され再び居住されることはなかった。

ミノア文明・プッシーラ遺跡・バッグ形容の両刃斧絵柄の奉納容器 Minoan Basket-shaped Vase with Double Ax, Pseira/©legend ej
プッシーラ遺跡出土・「トートバッグ」形容の奉納容器
ループハンドル・聖なる両刃斧の連鎖絵柄
後期ミノア文明LMI期・紀元前1500年頃/高さ20cm
イラクリオン考古学博物館・登録番号5407
クレタ島・東部/描画:legend ej

東翼部・石製工房のスパルタ玄武岩の原石
エヴァンズの発掘では、石製工房からスパルタ玄武岩の加工前の原石が見つかっている。スパルタ玄武岩は大理石や石膏石、蛇紋岩などと並び、ミノア文明の石製装飾品や道具類の典型的な原石であり、クノッソス宮殿の工房でも多くの石製品を送り出していたはずである。

スパルタ玄武岩を使った石製品では、最東部のザクロス宮殿遺跡から出土した非常に美しいリュトン杯が、イラクリオン考古学博物館に展示公開されている。リュトン杯の素地は暗色系、表面の浮彫装飾もなく、細長い涙のしずくのようなシンプルな涙滴型、ミノア・リュトン杯の典型的な器形である。
しかし、石材の持つ何とも言えない複雑なランダムパターン、斜長石と輝岩の配色と斑晶構造こそが、このリュトン杯の「装飾」に相当する最大のビジュアル効果と言える。3,500年以上前、リュトン杯を製作したザクロス宮殿に所属したミノア石工の技能より、このスパルタ玄武岩の石材を選択した「プロの眼」に称賛の拍手を贈りたい作品と言える。

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・石製リュトン杯 Minoan Stone Rython, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・西翼部出土・石製リュトン杯
スパルタ玄武岩製の装飾杯/高さ460mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号2712
クレタ島・最東部/描画:legend ej

そのほかザクロス宮殿遺跡・宝庫からの石製品では、歴史上初めてピラミッド建設を行ったファラオ・ジェセル王を含む、古代エジプト・古王国・第三王朝時代(紀元前2686年~前2613年)に製作され、その後に輸入された斜長石の斑晶が美しい玄武岩製の容器も見つかっている。
エジプト産の石製容器は安定感のある単純な球形だが、後にザクロス宮殿の工房で容器の肩部に小穴が加工され、陶器でブリッジ型注ぎ口を造り、肩部に取り付け、やや重量があるが「水入れ」として儀式などに使われた、と推測されている。

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・エジプト輸入の石製容器 Basalt Vase from Egypt, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・西翼部出土・エジプト輸入の石製容器
容器=斜長石の斑晶玄武岩/陶器製ブリッジ型注ぎ口付き
イラクリオン考古学博物館・登録番号2695/高さ165mm
クレタ島・最東部/描画:legend ej


ラコニア地方・コウフォヴォーノ遺跡での経験
ギリシア本土ラコニア地方のスパルタ~南南西2km、紀元前3500年期・新石器時代の後期~紀元前1100年期・ミケーネ文明の末期頃まで、2,000年以上の長期にわたって居住されたコウフォヴォーノ遺跡 Kouphovouno がある。石材の名称の通り、ラコニア地方からはスパルタ玄武岩の産出が顕著である。

1982年、小村に広がるオリーブ耕作地の中の「わずかな盛り上がり地表」を訪れたことがある。このギリシアなら何処にでもあるオリーブ耕作地のポイントが、後に居住家屋跡やキスト墓、チャート尖頭器や剥片フリントなど約19,000点の出土品をもたらす、1999年~2007年のイギリス考古学チーム(アテネ)の発掘調査の中心エリアとなる。
しかし、私が訪れたのはその17年前、発掘調査が行われていない時期、雑草を埋没させる時にトラクターの回転プラウ(鍬 すき)が損傷するため、農家の人が嫌がるほどのスパルタ玄武岩の石器類が、オリーブ耕作地と野菜畑にバラバラと散在するシーンは見たこともなく、驚きをもって確認した。

新石器文化・コウフォヴォーノ遺跡・スパルタ玄武岩製の磨製手斧 Hand Ax, Kouphovouno/©legend ej
新石器文化・コウフォヴォーノ遺跡・磨製石器
左斧=高さ78mm・右斧=高さ66mm
ペロポネソス・ラコニア地方/1982年

GPS コウフォヴォーノ遺跡: 37°03′19″N 22°25′24″E/標高200m


東翼部・「機織り重りの階下」からの出土品

出土品・フレスコ画《雄牛跳び》

ミノア文明の特徴的、重要な伝統的なイベント行事、または奉納儀式であったと推測できる「雄牛跳び」を描写した素晴らしいフレスコ画《雄牛跳び》が、東翼部・「機織り重りの階下」から出土している。
高さ約78cm、残存するフレスコ画《雄牛跳び》は、宮殿・南翼部に複製された高さ2m強のいわゆる《グリフィンを牽く祭祀王(ユリの王子)》と呼ばれるフレスコ画に比べると、決して大型の壁画ではない。
雄牛の背上(背中)を跳ぶという危険な動作と言える「雄牛跳び」こそが、美術表現として長い間ミノア人に愛された最高のモチーフであり、フレスコ画以外にも多くの石製&金製の印章や容器の絵柄、彫刻品などに表現された。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画《雄牛跳び》 Fresco Bull-leaping, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・フレスコ画
《雄牛跳び》の詳細描写/高さ約78cm
イラクリオン考古学博物館・登録番号T-15
クレタ島・中央北部/1994年

象牙製《雄牛跳びをする人》&フレスコ画《雄牛跳び》の詳細は:
関連Blog情報: ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IX 雄牛跳び

「雄牛跳び」の関連情報だが、エヴァンズの発掘レポート(v. III/1930年)で記述してあるが、(ピンポイント場所=不明)アルカネス近郊の横穴墓の発掘では、ミノア文明の工芸モチーフの代表格である「雄牛跳び」を刻んだ金製リングが見つかっている。
かつて自身が館長を務めたエヴァンズが、オクスフォード大学 Ashmolean 博物館へ寄贈したとされる、横幅34mm・縦幅22mmのオーバル形、やや凸状の印面にインタリオ(凹)で刻まれた、極めて動的で迫力ある雄牛跳びのシーンでは、短めの巻き毛の青年が走る雄牛の背上で逆立ちする姿を捉えている。弓なりで腰巻姿の青年の両足は雄牛の尾を越えて風圧で雄牛の後方へ延び、右腕は雄牛の浮き出た肋骨(あばらぼね)付近、左腕は背骨に置かれている。

ミノア文明・アルカネス遺跡・金製リング「雄牛跳び」 Minoan Gold Ring of Bull-leaping. Archanes/©legend ej
アルカネス近郊・横穴墓出土・金製リング・《雄牛跳び》
後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1375年
Ashmolean Museum, U. Oxford (UK)
登録番号AN1896-1908-AE2237/横幅34mm
※Sir Arthur John Evans 寄贈
クレタ島・中央北部/描画:legend ej



出土品・魅力的なフレスコ画《青の婦人達》

イラクリオン考古学博物館の至宝の一つでもある、美しくドレスアップしたミノア女性・三人を描いたフレスコ画《青の婦人達 Ladies in Blue》は、東翼部・「機織り重りの階下」の区画の一部、東貯蔵庫群の北側の通路付近で見つかった。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・東貯蔵庫群 East Storerooms, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東貯蔵庫群の周辺・重要出土品&スポット
・フレスコ画《雄牛跳び》/ファイアンス製品《タウン・モザイク》
・石製導水路システム/「王家のゲーム盤」/地中の「給水パイプ」
・メダリオンピトス貯蔵庫(復元建物)/フレスコ画《青の婦人達》
クレタ島・中央北部/1994年

華やかな髪飾りを付けたカールするロングヘア、細い眉毛、凛々しくも清楚な顔形、エジプト・アレキサンドリアから直輸入された流行の豪華なネックレースとブレスレット、余りに大きなバストとミノア織の斬新デザインの衣装・・・

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画《青の婦人達》 Fresco Ladies in Blue from Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・フレスコ画
エーゲ海の Kyanos Blue 背景色・《青の婦人達》
紀元前1650年~前1550年
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/1994年

「花ほとばしる新宮殿時代」の初期、中期ミノア文明MMIII期、紀元前1650年~前1550年頃の作品とされる魅力的なフレスコ画《青の婦人達》は、当然の事、東翼部上階の二階の広間、または三階の東大広間の壁面を飾っていたクノッソス宮殿が誇る第一級のフレスコ画であった。
階下一階レベルで大量に見つかっているほかのフレスコ画と同様、紀元前1375年頃、この美しいフレスコ画もクノッソス宮殿の最終崩壊の時、上階から崩落したものである。

なお、イラクリオン考古学博物館で展示公開されている現物フレスコ画《青の婦人達》は、スイス人の考古学美術家エミール・ジリエロンが修復&復元を担当した。

考古学美術家エミール・ジリエロン Émile Gilliéron(1850年~1924年)
スイス生まれのエミール・ジリエロンはバーゼルで貿易を学んだ後、ドイツ・ミュンヘンの美術アカデミーで学び、パリへ移った後、活動の本拠地をアテネへ移した。
当初、ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓Aやティリンス宮殿遺跡の発掘で有名となった、「宝探しの考古学者」とも言われたドイツ人実業家シュリーマン Johann Schliemann の下で発掘遺跡の図面作成などを担当した。その後、クノッソス宮殿遺跡の発掘者エヴァンズの協力者となり、遺構図面やフレスコ画の復元などで活躍した。
エヴァンズのクノッソス宮殿遺跡の関係では、エミールはフレスコ画の復元に尽力、特に東翼部から見つかった美しいミノアの三人の高位女性を描いた《青の婦人達》、南翼部からの《祭祀王のフレスコ画》、そして王座の間の壁面を飾る「グリフィン&パピルス」のフレスコ画の復元に携わった。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「祭司王」のフレスコ画 Fresco Priest King, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・南翼部・《祭司王のフレスコ画》
イラクリオン考古学博物館/高さ約210cm
クレタ島・中央北部/1994年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・グリフィンのフレスコ画 Minoan Griffin Fresco, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・王座の間
西壁面・グリフィンの複製フレスコ画
クレタ島・中央北部/1994年


参考だが、美しい女性のフレスコ画では、クレタ島北海岸のプッシーラ島 Pseira の居住地遺跡で見つかったフレスコ画《ミノアの女神 or 王女 Minoan Goddess or Princess》がある。
他に類を見ないミノア織りの複雑な紋様の衣装を身に付けた二人の女性を描いた、この非常に美しい浮彫フレスコ画は、研究者からクノッソス宮殿などを意識したミノアの女神、または宮殿の王女と推測されている。

このフレスコ画の製作時期は、《青の婦人達》より一世紀ほど遅い、大繁栄の「新宮殿時代」の最盛期、紀元前1500年~前1450年頃と断定されている。
透き通るような白い肌、形の良いバストの間を上品に飾る金製とおそらくガラスペースト(鉛ガラス)かラピスラズリの豪華なネックレース、ウェストを無理なく絞った不思議な紋様織りの上着、縫製加工された軟質素材のスカート姿は、3,500年以上前の女性とは思えない。
楚々とした気品と美しさを放し、「女神」を表す神的な要素がまったくないことから、私にはこのフレスコ画のモデルは、クノッソス宮殿の「王女」であったと思える。

ミノア文明・プッシーラ遺跡・フレスコ画《ミノアの女神 or 王女》Fresco Minoan Goddess/Princess, Pseira, Crete/©legend ej
プッシーラ遺跡・神殿遺構出土・浮彫フレスコ画
《ミノアの女神 or 王女》紀元前1500年~前1450年
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・東部/描画:legend ej

プッシーラ居住地遺跡
クレタ島の東部、ミノア文明・グルーニア遺跡~東方6km、オリーブ栽培で知られた幹線道路N90号のカヴォウシ村 Kavousi の海岸 Tholos 地区から沖合3.5km、ミノア文明の共同墓地遺跡のモクロス島~西方4km、平地は無いに等しく標高200mの岩山の島、草木がほとんどないプッシーラ島は、現在、人が住んでいない。

ミノア文明・モクロス遺跡&プッシーラ遺跡 Minoan Mochlos and Psiera Islands/Google Earth
エーゲ海・プッシーラ遺跡~モクロス遺跡 地図
クレタ島・東部北海岸
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入

エーゲ海・プッシーラ島遠望 Pseira Island, Crete/©legend ej
エーゲ海・プッシーラ島 遠望
標高400m カヴォウシ遺跡~北海岸の眺め
クレタ島・東部/1996年

GPS プッシーラ遺跡: 35°11′08″N 25°51′51″E/標高15m

長さ約2.5kmの細長い島の東側、小さな湾と突き出た半島の丘に広がるプッシーラ居住地遺跡は、1906年~07年、アメリカの考古学者 Richard Seager により確認され、その後1980年代にも発掘調査が実施された。
舟着き場から丘の居住地まで長い階段が造られ、小さな広場を中心に約60棟の家屋が確認された。そのうち、広場の北側の「住民の神殿」と呼ばれる建物遺構から、二人のミノア女性の浮彫フレスコ画の断片が見つかった。
二人は身体を優雅にひねりながら岩に座り、おそらく静かな会話のシーンと推測できる。残念ながら、二人ともに頭部などは欠損しているが、その特殊なミノア織りの上質な衣装は二人の身分の高さを連想させ、服地紋様からは庶民の住む市街地ではとても手に入れることができない高貴な香りを漂わせている。

平地のない岩だらけの島、常に飲料水の確保が最大の問題であったはずで、新石器文化の末期から約2,500年間も居住されたプッシーラでは、小さな谷間に石板を並べた「貯水ダム」の痕跡が確認されている。
クレタ島のミノア宮殿や邸宅や繁栄の町が、後期ミノア文明LMIB期、紀元前1450年頃、ギリシア本土からの「侵攻ミケーネ人」により攻撃されたのと同じ時期、美しいフレスコ画を描き平和であった小さなプッシーラ居住地も徹底的に破壊された。

小規模なミノア居住地であったが、プッシーラ居住地&墓地の発掘では、美しいフレスコ画《ミノアの王女》を含め保存状態の良好な陶器類など、ミノア文明の系譜を彩る数々の出土品がもたらされた。

ミノア文明・プッシーラ遺跡・卵型リュトン杯 Minoan Ovoid Rhyton, Psiera/©legend ej
プッシーラ遺跡出土・装飾用リュトン杯
頸部=小ハンドル/宮殿発祥の優美な卵型の伝統器形
海洋性デザイン=海草&波間に泳ぐイルカの群れ
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号4508/高さ270mm
クレタ島・東部/描画:legend ej

ミノア文明では庶民から宮殿の王族まで伝統的に雄牛への崇拝に特徴があり、色々な祭祀では力の象徴たる雄牛に関連するリュトン像が奉られ、儀式では聖なる神酒(ワイン)を注ぐ容器としてリュトン杯が使われた。
クノッソス宮殿遺跡の北西方向、小宮殿と呼ばれる大型遺構から出土した雄牛頭型リュトン杯を例として、雄牛の「頭部」や「角」を強調的に形容するタイプがスタンダードであったが、プッシーラ居住地では雄牛の全身型リュトン杯が見つかっている。
角部は欠損していたが、静止姿勢の堂々たる雄牛の肩~胴部全体が、魚の「うろこ」のような連鎖紋様で装飾された、祭祀要素の強いリュトン塑像である。

ミノア文明・プッシーラ遺跡・雄牛型リュトン杯 Minoan Bull-shaped Rhyton, Psiera/©legend ej
プッシーラ遺跡出土・雄牛の全身型リュトン杯
雄牛の胴体=「うろこ」の紋様/角部欠損
紀元前1500年頃/長さ260mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号5413
クレタ島・東部/描画:legend ej

カヴォウシ居住地遺跡
オリーブ栽培のカヴォウシ村 Kavousi の南方1.5km付近、地元で言う「Vronta」や「Kastro」の標高400m前後の丘陵地から、サブ・ミノア文明~幾何学紋様時代の居住地が確認され、家屋や複数のトロス式墳墓などが発掘されている。
1996年に訪ねた状態では、遺構はかなり広範囲だが全体的には破壊が進んでいた。

ミノア文明・カヴォウシ遺跡 Vronta Sttlement, Kavousi/©legend ej
カヴォウシ遺跡・Vronta居住地サイト
遠方=エーゲ海・プッシーラ島
クレタ島・東部/1996年

ミノア文明・カヴォウシ遺跡・トロス式墳墓 Tholos Tomb, Kavousi/©legend ej
カヴォウシ遺跡・小型トロス式墳墓
クレタ島・東部/1996年

また、Vronta のサイトと村との中間付近、山間道路脇には天然記念物に指定された地中海周辺で「最も古いオリーブの樹」の一つ、樹齢=約3,250年の「古代オリーブ」の巨木がある。
さらに私は訪れていないが、Vronta のサイト~東方1km付近、標高300m~700mの岩山地を南北に断崖を刻む、クレタ島東部の有数な Mesona 渓谷があり、トレッキング・ハイカーには人気のスポットとなっている。

GPS カヴォウシ遺跡: 35°06′36″N 25°51′30″E/標高425m


ミノア文明・金製ネックレース・パーツのモチーフは?

フレスコ画《青の婦人達》や《ミノアの女神 or 王女》を例に見るように、ミノアの女性達は総じて「オシャレ」。特に高位の女性達は必ず宝飾品を身に着ける習慣があったようだ。
豪華な出土品があったアルカネス遺跡・フォウルニ共同墓地を初め、ミノア文明センターのクノッソス宮殿の周辺の墓地&墳墓遺跡、あるいはメッサラ平野のアギア・トリアダ遺跡などから、被葬者である高位の女性達が身に着けていた色々な宝飾品がもたらされた。

ミノア文明・アルカネス遺跡・トロス式墳墓 Mycenaean Tholos Tomb, Archanes/©legend ej
アルカネス遺跡・共同墓地・トロス式墳墓A
被葬者=「アルカネスの王女」の墳墓
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

参考だが、アルカネス遺跡・フォウルニ共同墓地、「アルカネスの王女」の墳墓とされるトロス式墳墓A(上描画)の発掘では、「王女」の遺骸の胸の位置付近から、祭祀的なシーンを刻んだ金製リングが見つかっている。
横幅26mmの楕円形(オーバル形状)、リングの印面の中央には厚ぼったい特徴的なスカートの女神の立ち姿、その右側には三分割聖所と思われる神殿風の建物とカーブして延びる聖なる樹木が生え、その枝を折ろうとしているのか、または枝にぶら下がっているのか、活動的なミノアの若い男性が刻まれている。
一方、印面の左側には、聖なる石(ビトラス Baetylus)かあるいは埋葬用の大型ピトス容器を抱えるような仕草で、両膝を地面に付けたやや落胆したようなミノアの男性が居る。そして女神と膝付け男性の間の空間には二頭(匹)の蝶、さらに蝶の上部には植物の死と再生(死生観)に関わるエジプト・オシリス柱と思われる微細刻みが確認できる。
聖なる樹木と三分割聖所のみならず、右側の男性が「活動(生)」、左側の男性が「悲しみ(死)」を表現、それを見守る中央の女神の存在を考える時、エジプト文明の影響も含めミノア文明の「死生観」が連想できる。

ミノア文明・アルカネス遺跡・「アルカネスの王女」の墳墓・金製リング Minoan Gold Ring, Archanes Tholos Tomb/©legend ej
アルカネス遺跡・トロス式墳墓A出土・金製リング
「アルカネスの王女」の墳墓/女神・三分割聖所&樹木
紀元前1600年~前1500年/横幅26mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号989
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

GPS アルカネス遺跡・フォウルニ共同墓地: 35°14′42″N 25°09′32″E/標高430m
GPS アルカネス遺跡・準宮殿遺構: 35°14′11″N 25°09′35.50″E/標高385m(現在 市街地)

特に金製ネックレースのモチーフとしては、自然主義を貫いたミノアの人々は身近な植物や動物の形容をアレンジして、石製の「型モールド」を用いて、均一パターンのビーズ製品を量産した。

ミノア文明・金製ネックレース・モチーフ例 Minoan Motif of Gold Necklace/©legend ej
ミノア文明・金製ネックレース・モチーフ例
上=パピルス花/中=ツタ葉/下=アオイガイ
石製型(モールド)を使い均一的に量産された
描画:legend ej

ミノア文明の金製宝飾品・ネックレース・ビーズ
宮殿王家の関係者が埋葬されたイソパタ遺跡・「王家の墳墓」やザフェール・パポウラ遺跡の共同墓地などから出土する金製ネックレースのビーズでは、パピルスの花を初めツタの葉、ユリの花、そしてアオイガイなどを形容したものが多い。
これらは石製の「型(モールド)」を使って、現代の「ダイキャスト加圧鋳造」や「砂型鋳造」と同じ、型の端面に刻んだ注ぎ口から溶融した金を流し込み、型(製品となるキャビティ空間)に金を充填させる方法で同じサイズの製品を量産することができた。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・金製宝飾品の石製「型」 Stone Mold for making Gold Jewelry, Knossos Palace/Ashmolean Museum
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・石製の「型」
・表面=パピルス・ユリの花・貝の「8の字」など
・裏面=女神・ユリの花など/滑石製・横110mm
Ashmolean Museum, U. Oxford (UK)
登録番号AN1910-522
※Sir Arthur John Evans 寄贈(1910年)

ミノア文明・パライカストロ遺跡・金製宝飾品用の石製型(モールド)Minoan Stone Mold for processing Gold Jewelry Goods, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・金製宝飾品用の石製の「型」
片岩製/表面=大小サイズ両刃斧・裏面=両刃斧を持つ女神
金製宝飾品の鋳造法/モールド&溶融金材料の注湯&完成品
イラクリオン考古学博物館・登録番号116/横幅225mm
クレタ島・最東部/描画:legend ej



出土品・金製《アヒルの宝飾品》

マーリア遺跡出土の金製《ミツバチ・ペンダント》より微細粒・ビーズの数は少ないが、東翼部、王の居室コンプレックスの北側の東階段通路(東西通廊)からは、ミノア文明の「黄金の造粒技術 Gold Granulation」を活かした、静かな表情の金製《アヒルの宝飾品》が出土した。
小穴があることから、この金製品はネックレースのパーツであったかもしれない。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・金製「アヒル」宝飾品 Gold Granulation, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・金製の宝飾品
大人しい表情の「アヒル」の形容/長さ26m
イラクリオン考古学博物館・登録番号123
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・マーリア遺跡・金製「ミツバチ・ペンダント」Gold Bee-Pendant, Malia, Crete/©legend ej
マーリア遺跡出土・金製《ミツバチ・ペンダント》
ミノア文明の「黄金の造粒技術」の最高傑作品
紀元前1800年~前1700年/高さ46mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号559
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

金製《ミツバチ・ペンダント》の製作技法などの詳細は:
関連Blog情報: ミノア文明・「黄金の造粒技術&微細粒の装飾」 Gold Granulation
関連Blog情報: ミノア文明・マーリア宮殿遺跡 Malia Palace

高純度の金の抽出・「灰吹法」
金や銀など鉱石に含まれる貴金属の量は極めて少なく、通常、硫化物の状態で鉱物に含まれている。貴金属硫化物を含む鉱石と方鉛鉱、または方鉛鉱から抽出した鉛を高温で一緒に溶解すると、金属は溶け合って「貴鉛」と呼ばれる合金が生成される。
「貴鉛」と動物の骨灰や松葉灰や酸化マグネシウムなどを一緒に高温溶解した場合、鉛は酸素と反応して表面張力の低い酸化鉛となり灰の中へしみ込み、一方、表面張力の高い金や銀などの貴金属は酸化せずに「灰吹銀」と呼ばれる粒状金属となり分離される。
取り出した粒状の「灰吹銀」から金への純度精錬では、再び鉛と硫黄を加え、鉛と銀の化合物である硫化銀を生成させ分離して、残った高純度の金を取り出すという、手間のかかる錬金技法が「灰吹法」と呼ばれ、先史・古代の時代から行われて来た。


出土品・カマレス様式・《ヤシの絵柄ピトス容器》

「機織り重りの階下」からは、大型の陶器にも特徴的な作品が見つかっている。「新宮殿時代」の初め頃、中期ミノア文明MMIII期、紀元前1600年頃の製作とされるカマレス様式《ヤシの絵柄ピトス容器》は、モチーフのヤシの木から連想して中東地域からの輸入品という説もある。

ただ、現在、クレタ島では、経験論で言えば、最東部のパライカストロ遺跡~北方6km、海水浴場として有名なヴァイ海岸 Vai Beach には群生する自生のヤシの木が茂っている。
この自然環境がミノア時代から続いているならば、国内産のモチーフとして黒色の地に白色で描いた《ヤシの絵柄ピトス容器》は、ミノア文明・「新宮殿時代」のクノッソス宮殿の陶工による製作と判断して良いだろう。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・カマレス様式《ヤシの絵柄ピトス容器》Kamares Style Palm Trees Pithos, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・ピトス容器
カマレス様式・《ヤシの木の絵柄》
新宮殿時代・紀元前1600年頃/高さ545mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号7691
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

カマレス様式陶器
《ヤシの絵柄》のピトス容器はカマレス様式陶器 Kamares Style である。この様式陶器は「旧宮殿時代」の半ば、中期ミノア文明MMIIA期・紀元前1800年頃から生産が始まり、「新宮殿時代」に至るまで長期間、人々に愛され続けたミノア文明を代表する陶器の一つ、流れるような曲線と大胆な絵柄、鮮やかな色彩に特徴がある。
カマレス様式陶器の出土では、特にクレタ島の南西部で多く生産されたことから、発掘ではメッサラ平野のフェストス宮殿遺跡からの出土例が圧倒的で、作品の上質なセンスと絵柄の表現力は際立っている。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・カマレス様式陶器 Kamares Ware, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡出土・カマレス様式ピトス容器
旧宮殿時代・紀元前1700年~前1625年/高さ690mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号10678
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・カマレス様式陶器 Kamares Ware, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡出土・カマレス様式のピトス容器
紀元前1700年~前1625年/高さ495mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号10679
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・カマレス様式陶器・水差し Kamares Style Jug, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡出土・カマレス様式の水差し
紀元前1700年~前1625年/高さ267mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号10073
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej


カマレス洞窟
大胆な絵柄、鮮やかな色彩に特徴があるカマレス様式陶器とは、この様式陶器が最初に発見された聖なるイダ山系(イディ山/クレタ島最高峰・標高2,456m Mt.Ida/Psiloritis)の南東山麓にあるカマレス洞窟 Kamares Cave からその名称を由来している。

カマレス洞窟の位置は、フェストス宮殿遺跡~北方12kmの標高600mのカマレス村からトレッキングルートを北方へ3時間登った、ほとんど植生のない標高1,700m付近の荒涼の岩石斜面である。車で行ける人気のある標高1,350mのニダ高原 Nidas Plateau~南南西3.5kmである。
南北40m以上の開口幅、西方へ大きく開口したカマレス洞窟は、先史時代からの崇拝の場所、19世紀の終わり頃に村人により発見され、その後、1913年、イギリス考古学チームが洞窟内部の本格的な調査を実施した。

GPS カマレス洞窟: 35°10′39″N 24°49′39.50″E/標高1,700m
GPS ニダ高原:   35°12′27″N 24°50′25″E/標高1,350m

また、《ヤシの絵柄》のピトス容器の絵柄デザインと技法に関しては、南東翼部・両刃斧の聖所から出土した《ユリの容器》に共通する、黒色地 or 暗色地系の地に白色だけで花や木を描く技法である。さらに双方の容器の製作時期が紀元前1600年~前1550年頃、ほぼ同時期である。

この二つの近似条件から、あくまでも私の仮定だが、二つの容器は同じ工房、最も想定できるのはクノッソス宮殿・東翼部の陶器工房で焼かれ、《ユリの容器》は王家の神殿で祭祀に使われ、《ヤシの容器》は東翼部二階の広間で飾られていたのかもしれない。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「ユリの容器」 Lily Design Vase, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・南東翼部出土・《ユリの容器》
暗色系地・白色のユリの花の絵柄デザイン
新宮殿時代の前半・紀元前1550年頃/高さ265mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号2619
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


イタノス遺跡&「古代ビーチ」
クノッソス宮殿遺跡出土のピトス容器に描かれた《ヤシの木》だが、クレタ島最東部・ヤシの木が群生するヴァイ海岸~北方1km、古代ギリシア文明のイタノス遺跡 Itanos がある。イタノスはミノア時代から居住され、最も繁栄したのは紀元前7世紀頃と、その後アレキサンドロス大王の征服で始まるヘレニズム時代とされる。
今日、周囲に民家がない遺跡の海岸は、リゾートツーリストから「古代ビーチ」の別称が付けれ、ゴミがまったくない透明度の高いキレイな海の一つとして知られている。

GPS イタノス遺跡: 35°15′49″N 26°15′48″E/標高5m

クレタ島・最東部・ヴァイ海岸(ヤシの木の群生) Vai Beach, Crete/©legend ej
ヤシの木の群生するヴァイ海岸(ビーチ)
クレタ島・最東部/1982年

クレタ島・古代文明・イタノス遺跡&ビーチ Ancient Itanos, Crete/©legend ej
古代ギリシア文明・イタノス遺跡&エーゲ海
かつての舟着き場は「古代ビーチ」
クレタ島・最東部/1982年

イタノス遺跡・「古代ビーチ」 全裸で泳いだ日
かつてツーリストが居なかった1980年代の盛夏、2か月間滞在したクレタ島、まどろみの午後、私は誰も居ないこの古代ビーチで水着を付けずに泳いだ経験がある。1時間後、ドイツから来た三人の女子大生も全裸となり、クノッソス宮殿遺跡・王妃の間の《イルカのフレスコ画》のように、波のないエーゲ海で一緒に泳いだ時間は、私にとり生涯色褪せることのない爽やかな「心の宝石」の一つである。
それはかつて訪ねたバルト海エストニアの首都、世界遺産タリーン旧市街のラエコヤ広場、氷点下の真冬の空を染め上げたオーロラの余波の色と同じ、ミッドナイトブルーのインクを流したようなエーゲ海の深い蒼色の海であった。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王妃の間・《イルカのフレスコ画》 Dolphin Fresco, Queen's Room, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・王妃の間
無数の魚&《イルカのフレスコ画》
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/1994年

バルト海エストニア・首都タリーン旧市街 Old Town, Tallinn, Estonia/©legend ej
世界遺産エストニア・首都タリーン旧市街
真冬の深夜 オーロラの余波が北国の夜空を染める
北ヨーロッパ・バルト海諸国/2005年


出土品・ファイアンス製《タウン・モザイク》

エヴァンズの「機織り重りの階下」での発掘作業では、東貯蔵庫群の北東端の狭い部屋を中心に、ミノア時代の建物を描いた40個を数えるファイアンス製の小板が見つかっている。
出土した小板のサイズはまちまちだが、おおよそ横25mm~35mm、縦35mm~45mmほど、建物の壁面と窓を描いた方形、一部は上部に突起が付けられている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・ファイアンス製の建物模型 Town Mosaic, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・《タウン・モザイク》
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

後に《タウン(市街)モザイク Town Mosaic》と呼ばれる、これらのファイアンス製小板は、中期ミノア文明MMIIB期~MMIIIA期・紀元前1700年~前1600年に遡るとされ、元々は木箱か戸棚や広い板材の表面にパッチワーク風に張り付けた装飾品とされている。
エヴァンズや研究者達は、これらの小板や出土したフレスコ画などから、ミノア時代のクノッソス宮殿などの大型建物の外観を初め、壁面の石積みやデザイン、窓の仕様や配置と構造など、宮殿の建築技術を推測する重要な手がかりとした。

高位な身分の人だけが手元に置いたであろう、高温焼き付けの高度な技法で製作される色彩装飾陶器であるファイアンス製品が、貯蔵庫群の区画に存在する理由には難があり、クノッソス宮殿が最終崩壊した紀元前1375年頃、上階(おそらく二階)から崩落したものと推測できる。

《タウン・モザイク》を見ていると、かつて1998年、アラビア半島南端のイエメン Yemen で過ごした情景を追懐できる。特に標高2,200m、世界遺産・首都サナアの旧市街の路地の風景、泥レンガを積み上げたすべて手造りの伝統的なイエメン建築の外観に、ミノア文明の《タウン・モザイク》と共通した美観を連想できる。

世界遺産/イエメン首都サナア・旧市街の路地 Old Town, Sanna, Yemen/©legend ej
世界遺産/イエメン首都サナア・旧市街の路地
イエメン建築様式の伝統的な建物が密に建ち並ぶ
中東・アラビア半島/1998年

また、ファイアンス製品ではないが、アルカネス遺跡からはテラコッタ製の建物の模型がもたらされた。これはおそらく祭祀的な用途として作られたと考えられるが、ミノア時代の比較的上質な建物と部屋の内部が再現されている。
内部の建築仕様は詳細ではないが、外壁では厚さのある切石材が多用され、一部では梁材に木材だけでなく石材も使われている。一階の部屋の窓はやや小さいが、隣の部屋は採光用の天空に開放された中庭がある。
円柱と角柱が取り囲む主部屋は二階にあり、同じフロアーにはバルコニーが二か所設けられている。 一方のバルコニーは手すりのみの無装飾タイプ、反対側は椅子なのか「階段」のような仕様で高い壁面を持つバルコニーである。この建築はクノッソス宮殿などで多々見ることのできるミノア宮殿様式の仕様に近似する立派な構造である。

ミノア文明・アルカネス遺跡・建物模型 Minoan House Model, Archanes/©legend ej
アルカネス遺跡出土・テラコッタ製の建物模型
中期ミノア文明MMIIIB期・紀元前1600年頃
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/1994年


ファイアンス陶器
「色彩装飾陶器」に分類できるミノア文明のファイアンス製品は、具象の製作センスのみならず、特殊な釉薬(うわぐすり)の開発や焼成温度1,000℃が必要とされるなど、単純な陶器類ではない。
ミノア文明の遺跡からはファイアンス製の色々な作品が出土している。中でもミノア文明の象徴でもあり、クノッソス宮殿遺跡・聖域・神殿宝庫からもたらされた最も重要な出土品となっている《蛇の女神像》、そして牛と野生ヤギの子供への《授乳の像》などがある。
ファイアンス製品は、現代で例えれば、フランス王朝御用達であったリモージュ色彩磁器、あるいはスペインの高級色彩人形・リヤドロやマヨリカ焼きなどに相当する、非常に高度な陶器製作の技術に裏打ちされたミノア工芸美術の極致の作品であった。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・《蛇の女神像》Minoan Snake Goddess, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡出土・ファイアンス陶器《蛇の女神像》
中期ミノア文明MMIIB期~MMIIIA期・紀元前1625年頃
NTS(Not to Scale)・イラクリオン考古学博物館
・左像(母女神?)=登録番号63・高さ342mm
・右像(娘女神?)=登録番号65・高さ295mm
クレタ島・中央北部/1994年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・ファイアンス陶器「牛の授乳」 Faience-Cow-breastfeeding, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・ファイアンス陶器《牛の授乳》
中期ミノア文明MMIII期・紀元前1600年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号68/長さ190mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・ファイアンス陶器「ヤギの授乳」 Faience Goat-breastfeeding, Knossos Palace
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・ファイアンス陶器《野生ヤギの授乳》
中期ミノア文明MMIII期・紀元前1600年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号69/長さ190mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej



出土品・《三本円柱神殿&ハト》のリュトン杯

宮殿・西翼部の聖域の円柱の立つ三分割聖所に関連するが、「機織り重りの階下」から儀式用の《三本円柱神殿&ハト Tri-columnar Shrine》の着色リュトン杯が出土している。神殿の円柱が三本、その柱頭部の上に各々ハトが止まり羽を休めているシーンを表現している。
一見、単純な模型のように感じるが、明らかに儀式・祭祀に使われた宗教色の強いリュトン杯である。ハトはミノア文明では主に女神の使いであり、印章モチーフなどに頻繁に登場する聖なる動物の一つである。このリュトン像の製作は、後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年である。

このリュトン杯が東貯蔵庫群内に置かれていた理由はまったく見当たらず、紀元前1375年頃、クノッソス宮殿の最終崩壊の際、上階(二階)の格式の高い部屋から、または三階に配置された東大広間 Great East Hall や大女神の神殿 Great Goddess Sanctuary から崩落した、と断定して良いだろう。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・三本円柱神殿&ハト Tri--columnar  Shrine, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・リュトン杯
色彩像《三本円柱神殿&ハト》/横幅約10cm
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号2582
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「聖域」Sanctuary, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿・西翼部・三分割聖所(再現予想図)
プレ・ヘレニズム様式の円柱&雄牛角U型オブジェ
原画情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.II(1928年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)
描画&色彩:legend ej



ミノア文明の「ハト」の存在と信仰

ミノア文明では、「ハト」は宗教的にも、信仰面でも忠実要素を秘めた聖なる動物とされ、特に神聖な神殿や女神の使いの存在として、多くのフレスコ画や印章、そのほか南東翼部・両刃斧の聖所からの《ハトの女神像》に例をみるように崇拝塑像などにも表現された。

例えば、メッサラ平野のアギア・トリアダ遺跡の円形墳墓Bから出土した石灰岩製の大型石棺の側面には、王子 or 王族など相当高い身分のミノア男性の葬儀のシーンが、多彩色のフレスコ画技法で描かれていた。
その描写では、ハトの止まる大型の両刃斧が二本立てられ、その間には縞紋様の台座に大型容器が置かれている。羊革のロングスカートを履いた普通身分の女性が何か、おそらくは雄牛の生贄の血を大型容器へ注いでいる。その後方には高位の身分の女性が雄牛の生贄の血の容器を担ぎ、さらに7弦リラで音楽を奏でる男性楽師が続く・・・
両刃斧はミノア文明の最高の崇拝シンボルであり、その上に止まるハトも聖なる動物として人々から崇められていた。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・フレスコ画石棺 Stone Sarcophagus, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡・円形墳墓B出土・大型石棺
フレスコ画・高位身分の王族の葬儀シーン
大型両刃斧&ハト・生贄の血の処理・楽師
イラクリオン考古学博物館・登録番号396
クレタ島・メッサラ平野/1996年



「ハト」の美術・工芸モチーフ

ギリシア本土のペロポネソス・アルゴス地方、世界遺産ミケーネ宮殿遺跡~南南東15km、世界遺産ティリンス遺跡 Tiryns の「王家のトロス式墳墓」の埋葬ピットから、横幅57mmの超大型の金製リングと横幅35mmの金製リングが一緒に出土した。いずれも《ティリンスの財宝 Tiryns Treasure》と呼ばれている。

ティリンス宮殿を治めたある時代の王と王妃、あるいは王子と妃の副葬品であるが、間違いなくクレタ島ミノア王家から献上されたであろう超大型の金製リングの左端には、X脚のスツールに座る女神の後方に女神の使いとして、何故か?後ろ向きのハトが佇んでいる。また、ミノア文明ではX脚に座ることができた女性は「女神」であった。

世界遺産/ミケーネ文明・ティリンス遺跡・「王家のトロス式墳墓」Royal Tholos Tomb, Tiryns/©legend ej
世界遺産ティリンス遺跡・王家のトロス式墳墓
入口高さ=約380cm/上部リンテル石厚さ=約42cm
ペロポネソス・アルゴス地方/1982年

世界遺産/ミケーネ文明・ティリンス遺跡・金製リング Tiryns Treasure, Gold Ring/©legend ej
ティリンス遺跡・トロス式墳墓出土・金製リング
・「ティリンスの財宝」/横幅57mm・重さ83g
・X脚スツールの女神の後方=後ろ向きのハト
アテネ国立考古学博物館・登録番号6208
ペロポネソス・アルゴス地方/1987年

ミノア文明の「女神」とフレスコ画《パリジェンヌ》の詳細は;
関連Blog情報: ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VI 女神パリジェンヌ

ハトを表現した愛らしい作品では、メッサラ平野のフェストス宮殿遺跡から緑泥岩 or 石灰岩製の奉納容器も見つかっている。上から見ると四弁の「十字形」の口縁部、容器の両側面にはおのおの二羽のハトが対として細線で刻まれている。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・石製容器 Stone Dove Vessel, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡出土・石製の奉納容器
両面=四羽の愛らしいハトの絵柄/高さ80mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号1514
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej


そのほか、ハトを表現した作品では、メッサラ平野のアギア・トリアダ遺跡の神殿遺構から、テラコッタ製のブランコに乗る女性祭司の像が見つかっている。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・ブランコに乗る女性祭司の像 Priestess on the Swing, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡出土・「ブランコに乗る女性祭司」
後期ミノア文明LMIIIA2期・紀元前1350年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号3039
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej

後期ミノア文明LMII期、紀元前1450年頃、ほかのミノア文明の宮殿と町と同様に、ギリシア本土からの「侵攻ミケーネ人」の攻撃でアギア・トリアダの準宮殿は完全破壊された。
その後、後期ミノア文明LMIII期になると、「占領ミケーネ人」は廃墟の上にミケーネ文明・メガロン形式の大型建物を建て、聖域にあった神殿も再び使用していることから、ブランコの像は後期ミノア文明LMIIIA期、紀元前1350年前後に神殿に納められたもの、と判断できる。

像は「宮殿時代」が終わった頃の子供の遊びではなく、女性祭司の乗るブランコの支柱の上には二羽の聖なるハトが止まっていることから、研究者から「エピファニー表現 Epiphany scene」と呼ばれ、極めて祭祀的な意味を含みながらも、それでいて日常的にもあり得る聖なる情景を表現している。


さらに、アギア・トリアダ遺跡~南南西1.6km、カミラーリ遺跡 Kamilari のメッサラ様式の円形墳墓から出土したテラコッタ塑像では、円形のテーブルを挟み、上半身が欠損しているが後ろ向きの「故人」に向き合うように、一人が供物を差し出している。その後方では部屋の入口なのか、一人のおそらく男性がその様子を見ている。
頭部が欠損している供物の人は格子柄のスカート姿と判断でき、間違いなく親近者の女性であろう。「死者」の周囲には聖なる雄牛角U型オブジェと神の使いであるハトが置かれていることから、極めて神聖な祭祀的シーンを表現している。

ミノア文明・カミラーリ遺跡・円形墳墓A・塑像 Minoan Cult Figure, Kamilari/©legend ej
カミラーリ遺跡出土・テラコッタ塑像
故人へ供物する女性&見守る男性
紀元前1400年~前1300年
イラクリオン考古学博物館・登録番号15072
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej



出土品・波紋装飾のヴァフィオ型カップ

「旧宮殿時代」の代表的なミノア陶器・カマレス様式の大流行の後、中期ミノア文明MMIIB期・紀元前1700年~「新宮殿時代」の初めの中期ミノア文明MMIIIA期・前1600年頃、クレタ島ではクノッソス宮殿の陶器工房で開発された波紋装飾の陶器の流行が始まる。
この陶器は明るい地に暗色のジグザグ線や少し歪んだ平行縦線を描くことで、カメ(亀)の甲羅状のイメージがあることから、 亀甲羅状・波紋装飾の陶器 Tortoise-shell Rippled Ware と呼ばれた。

波紋装飾の陶器の器形では、ダチョウの卵型(オーストリッチ)のリュトン杯や水差し、ハンドル・カップなどが焼かれた。主に発祥地・クノッソス宮殿より東方~最東部で流行、東部北海岸のグルーニア居住地、シティア周辺、さらに南海岸のミルトス・ピルゴス居住地 Myrtos-Pirgos などで好まれた陶器である。

エヴァンズの東翼部・「機織り重りの階下」の発掘では、比較的古い堆積層からヴァフィオ型カップが出土した。カップは典型的な少々歪な縦線をほぼ平行に描く波状線の装飾、安定感のあるハンドル付きのシンプルな形容である。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・波紋装飾カップ Tortoise-shell Rippled Cup, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・ヴァフィオ型カップ
亀甲羅状・波紋装飾「Tortoise-shell Rippled Ware」の絵柄
紀元前1700年~前1600年/高さ72mm
Ashmolean Museum, U. Oxford (UK)登録番号AN1938-456
※Sir Arthur John Evans 寄贈(1938年)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 関連ポストは「12部構成」となっています。
1. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace I 概要
2. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace II 西中庭~南翼部
3. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace III 中央中庭・王座の間
4. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IV 聖域・宝庫
5. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace V 貯蔵庫
6. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VI 女神パリジェンヌ
7. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VII 王の居室・聖所
8. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VIII 王妃の間
9. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IX 雄牛跳び
10. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace X 北~東翼部(当ポスト)
11. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 周辺の先史遺跡
12. ミノア文明・クノッソス宮殿 崩壊の原因は?

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