2020/04/12

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VI 女神パリジェンヌ


ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 関連ポストは「12部構成」となっています。
1. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace I 概要
2. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace II 西中庭~南翼部
3. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace III 中央中庭・王座の間
4. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IV 聖域・宝庫
5. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace V 貯蔵庫
6. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VI 女神パリジェンヌ(当ポスト)
7. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VII 王の居室・聖所
8. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VIII 王妃の間
9. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IX 雄牛跳び
10. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace X 北~東翼部
11. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 周辺の先史遺跡
12. ミノア文明・クノッソス宮殿 崩壊の原因は?

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クノッソス宮殿遺跡・西翼部の上階(二階)

位置 クレタ島・中央北部/イラクリオン Heraklion/Iraklion~南南東5km
GPS クノッソス宮殿遺跡・中央中庭: 35°17′53″N 25°09′47″E/標高95m

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡/Google Earth
クノッソス宮殿遺跡
クレタ島・中央北部
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入

ミノア文明&ミケーネ文明 編年表/©legend ej
クレタ島ミノア文明&ギリシア本土ミケーネ文明 編年表
・ミノア文明・「旧宮殿時代」: 紀元前1900年~前1625年
・ミノア文明・「新宮殿時代」: 紀元前1625年~前1375年
ミケーネ文明(時代):  後期ヘラディック文明 LH期
作図:legend ej


中央中庭に面する宮殿・「西翼部」&「東翼部」

中期ミノア文明の末期~後期ミノア文明の半ば、最も繁栄した「新宮殿時代」のミノア宮殿では、中央中庭の周りに王家のプライベート生活区画は当然のこと、政治・行政・宗教・文化に関連する重要な建物区画が配置された。

すべての宮殿に共通するが、特に中央中庭 Central Court の西側となる西翼部 West Wing には、王国の政治・財務・宗教関連の区画が配置された。そして王家のプライベート生活区画はクノッソス宮殿とザクロス宮殿では東翼部 East Wing に、フェストス宮殿とマーリア宮殿では北翼部 North Wing に配置された。
また、幾分の異なりはあるが、ミノア宮殿では南翼部 South Wing と北翼部 North Wing に工房や貯蔵庫など宮殿関係者の実務面の区画が付属された。


ミノア文明の宮殿遺跡(4か所)

・中央北部・ミノア文明センター・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace
・南西部・メッサラ平野・フェストス宮殿遺跡 Phaestos/Phaistos Palace
・北海岸・マーリア宮殿遺跡 Malia Palace
・最東部・ザクロス宮殿遺跡 Zakros Palace

クレタ島ミノア文明・宮殿群 地図 Map of Minoan Palaces in Crete/©legend ej
クレタ島・ミノア文明・宮殿遺跡 地図
作図:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・推測模型/©legend ej
クノッソス宮殿・推測模型(木製)
部屋数1,000室/東翼部~中央中庭~西翼部
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/1996年


クノッソス宮殿では北入口東入口南入口はそれぞれ地表レベル(一階)であった。しかし、正規の宮殿への参道・ローヤルロード Royal Road &劇場区域 Theater Area を経由して、直接的に西翼部二階に配置されていた西入口 West Gate へ向かうこともできた、と発掘者エヴァンズは想定している。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・ローヤルロード Royal Road, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・宮殿へ参道・ローヤルロード
劇場区域~西方(現在 立入禁止区域)
切り通し的な石組み・平板舗装・石板歩道
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・北入口 North Gate, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・北翼部・北支柱広間~北入口
・北入口の建物=エヴァンズのコンクリート復元
・手前・大型角柱群=発掘時の状態の北支柱広間
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・東入口 East Gate, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・東入口
復元の石段と擁壁の複雑堅固な構造
クレタ島・中央北部/1994年


ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・南入口 South Gate, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・南翼部・南入口
左建物=《祭司王のフレスコ画》の通路
クレタ島・中央北部/1982年


エヴァンズは、クノッソス宮殿・西翼部の二階をイタリア・ルネッサンス様式の大邸宅からヒントを得て「Piano Nobile 高貴な造りのフロアー」と呼び、西翼部の「三点セット」である王座の間や聖域、西貯蔵庫群が配置された階下区画とは異なり、二階部分は豪華な造りの大広間やフレスコ画装飾の立派な通廊で構成されていた、と考えた。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・発掘者エヴァンズ
クノッソス宮殿遺跡・発掘者サー・アーサー・エヴァンズ

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・西翼部二階・プラン図 West-Wing 2F Plan, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部二階・アウトラインプラン図
参考情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.II (1928年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)
作図:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・主要部セクション視野 Section View of Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・復元セクション視野・アウトライン
南方から「西中庭~西翼部~中央中庭~東翼部」を見る
東翼部・王家の生活区画=中央中庭レベル~二階分低い
クレタ島・中央北部/作図:legend ej


かつてミノア時代、イラクリオン方面から来訪するより高貴な遠来の賓客は、宮殿への正規の参道であるローヤルロードを通り、美しいミノア女性達による「歓迎の舞」が演じられた劇場区域での迎賓の後、西翼部・北西端の階段から二階・西入口へ上り、上階に配置された大広間群へ案内されたことであろう。

なお、宮殿・西翼部の正面壁に沿って残されている、劇場区域~西ポーチへ向かう盛り上がりの石板歩道付近でエヴァンズは、半割ロゼッタと渦巻き線紋様が表現された緑青色の石灰岩製の浮彫加工品(レリーフ)を見つけた。
この精巧な芸術加工品は、間違いなく紀元前1375年頃、クノッソス宮殿が大火災で最終崩壊した時、西翼部二階に配置された西入口への階段上部、または西入口の軒下部分・フリーズから崩落したと推定できる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・浮彫加工 Half Rosette Relief, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西中庭・石灰岩製の浮彫加工品
後期ミノア文明LMII期・紀元前1450~前1400年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号67/高さ約17cm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

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二階・聖なる北西儀式広間

「劇場区域」からの石板歩道を歩み、宮殿・北西端の階段を使い二階の西入口へ上がった遠来の賓客は、先ず二階入口間 West Entrance Hall で歓迎の儀を受けたであろう。
入口間から南側の豪華な装飾通路を南方へ抜けると、天井~壁面が美しいフレスコ画で装飾されていたと推定できる東西18m、南北8m、6本円柱の聖なる北西儀式広間 Northwest Sanctuary Hall と呼ばれる格式の高い壮麗な部屋となる。
儀式広間の西壁面には細い三本円柱の装飾の窓があり、東側は二階の長い通廊の扉口、南側には形式張った二か所の扉口があった。儀式広間の位置は階下の西貯蔵庫・第11号室~第13号室の上階に相当する。

儀式広間の階下となる西貯蔵庫・第11号~13号室周辺からは、上階から崩落したミノアの女性達の描画や雄牛の頭部を描いたフレスコ画の断片が多数出土、さらにクノッソス宮殿の最終崩壊の後、おおよそ75年間、「占領ミケーネ人」の統治時代、東地中海域で最も美しい陶器となった宮殿様式の、最も素晴らしい絵柄デザインのピトス容器が見つかっている。


ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫群 West Storerooms, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・西貯蔵庫群
・右=第13号室(ピトス容器&地中収納ピット)
・中央(ピットなし)=右から第14号~16号室
・左の分厚い壁面の向こう側=第17号~18号室
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・西翼部二階&貯蔵庫群 West Wing 2nd-floor, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部二階(復元)~階下の遺構
北西儀式広間~階下・貯蔵庫群(第14号室~第18号室)
クレタ島・中央北部/1982年

貯蔵庫・第11号室~第13号室周辺から見つかった「宮殿様式陶器の最高作品」と言える大型ピトス容器は、当然、クノッソス宮殿の最終崩壊時、間違いなく上階に存在した聖なる北西儀式広間から崩落したと断定できる。

紀元前1450年頃、クレタ島の三か所のミノア宮殿と地方の無数の邸宅と庶民の街が、相次いで徹底的に破壊された後、最後に残されたクノッソス宮殿で発達した宮殿様式陶器 Palace Style は、事実上、クノッソス宮殿遺跡と邸宅群、そして周辺に点在する王家に関わる墓地&墳墓からのみ出土する。
そうして、紀元前1375年頃、クノッソス宮殿が最終崩壊するまでの約75年の間に、東翼部・陶器工房の職人達は「新宮殿時代」の「最後の文化の花」と言っても過言とならないほどの、ミノア文明を象徴するに値する美しい陶器様式を確立した。

出土した宮殿様式の大型ピトス容器の絵柄は、基本的には穏やかな印象を与える植物性デザイン系 Floral Design であるが、ミノア文明の最高崇拝シンボルであった両刃斧とロゼッタ紋様を堂々と中央に威厳を秘めながら描写している。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・宮殿様式ピトス容器・両刃斧&ロゼッタ Minoan Palace Style Pithos, Double Ax, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・宮殿様式ピトス容器
北西儀式広間・両刃斧&ロゼッタ&植物性デザイン
新宮殿時代の後半・紀元前1450年~前1400年
イラクリオン考古学博物館・登録番号7757/高さ1345mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

宮殿様式陶器では、器形の美しいアンフォラ型容器を初め水差しなど多くの作品が出土している。しかしながら、今までにクレタ島内で出土・確認されている宮殿様式陶器のうち、絵柄デザインの内容に限定するなら、8基の両刃斧をデフォルメして簡略的に描くのではなく、精緻な細線で正確に描写する、この大型ピトス容器こそが最も高い格式でクノッソス宮殿の統治者を称えていると強調でき、これ以上の畏敬象徴するアートモチーフは見当たらない。

この大型ピトス容器がクノッソス宮殿の最終ステージの時代、宮殿・西翼部二階の最も壮麗な広間、聖なる北西儀式広間に相応しい最高の装飾品であったのは間違いないだろう。その製作は「新宮殿時代」の後半、後期ミノア文明LMII期、紀元前1450年~前1400年頃とされる。

聖なる北西儀式広間の南側の扉口を抜けると、扉口と窓部を除く天井~壁面~床面全体が豪華絢爛たるフレスコ画で装飾された、東西13m、南北15m、クノッソス宮殿で最大規模の広さを誇る大広間 Great Hall が配置されていた。大広間の位置は階下の貯蔵庫・第6号室~第10号室の上階に相当する。

さらに大広間の南側には少し狭いスペースだが、東西11.5m、南北10mほどの南西広間 South-West Hall が配置され、この広間もフレスコ画で装飾されていたはずである。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・西翼部・西貯蔵庫群・プラン図 West Store Rooms Plan, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・西貯蔵庫群
アウトラインプラン図(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/作図:legend ej


大広間での宮殿晩さん会
クノッソス宮殿の最終崩壊時、大火災で最も燃焼が激しかったのはオリーブ油を保管していた階下の貯蔵庫群であり、当然の結果、上階の大広間はアッと言う間もなく完全に燃え尽き、全てが微塵となって崩落してしまったであろう。そのため、階下の貯蔵庫群からは大広間から崩落したと推測できる原型を保つ出土品はほとんどない。

しかしながら、かつて大繁栄の「宮殿時代」、クノッソス宮殿で最大規模の二階・大広間、中ほどで天井を支えた2本円柱を除き、広い空間を使って遠来の賓客を歓迎する晩さん会が、飽きることなく連日開催されていたことを疑う理由は存在しない。
メッサラ平野のフェストス宮殿遺跡からの信じられないほどの斬新デザイン、多彩色の台座と白色の大きな花弁の立体的な装飾が施された見事なカマレス様式のクラテール型容器の出土例からは、宮殿での大宴会が容易に想像できる。

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・カマレス様式陶器 Minoan Kamares Ware, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡出土・カマレス様式・クラテール型容器
旧宮殿時代・紀元前1700年~前1625年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号10578/高さ455mm
クレタ島・メッサラ平野/1982年

間違いなく、大広間での晩さん会では優美なデザインの大型クラテール型容器には、準宮殿遺跡のアルカネス近郊のヴァシイペトロン邸宅 Vathypetron で生産された「ミノア赤ワイン」がなみなみと満たされ、円筒型大皿にはローズマリー風味の子羊の丸焼きなどがサーブされたであろう。
石製の7弦リラや木製の二管フルート、テラコッタ製のシストラムによる心地よいリズムに合わせ、魅力的なミノアの女性達の優美な舞が披露され、美味な赤ワインの余韻は明け方まで続いたであろう。

ミノア文明・ヴァシイペトロン遺跡 Minoan House, Vathypetron/©legend ej
ヴァシイペトロン遺跡・邸宅遺構
・手前長方形スペース=石板舗装の広間
・左建物=貯蔵庫/右上=邸宅の主部屋
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・ヴァシイペトロン遺跡・ワイン用ブドウ搾りプレス装置 Minoan Wine Press/©legend ej
ヴァシイペトロン遺跡出土・ワイン用ブドウ搾りプレス装置
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画 Playing Music Fresco, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡出土・フレスコ画・「音楽を奏でる人達」
水鳥デザインの7弦リラ(たて琴)&二管フルートの演奏者
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

テラコッタ製の楽器・シストルムは、手で振ることで三枚の円盤がカタカタ音を出し、共鳴胴の機能を果たす内部が中空のハンドルから響き音が出る仕組みであった。

ミノア文明・アルカネス遺跡出土・楽器シストルム Minoan Clay Sistrum, Archanes/©legend ej
アルカネス遺跡・フォウルニ共同墓地出土・シストルム
子供埋葬ピトスの副葬品・テラコッタ製の楽器
紀元前2000年~前1900年頃/高さ18cm
イラクリオン考古学博物館・登録番号27695
クレタ島・中央北部/描画:legend ej



ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画「踊るミノア女性」 Minoan Fresco of Dancing Woman, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・王妃の間
フレスコ画《踊るミノア女性》(部分)
イラクリオン考古学博物館/残存高さ370mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej




二階・南北に走る「上階の長い通廊」

西翼部二階の複数の格式ある広間は、その東側を南北に走る上階の長い通廊 Upper Long Corridor に面していた。
建築構造から階下の貯蔵庫群の長い通廊と同じ位置と規模、西貯蔵庫・第1号室~西翼部の北端までと同じ距離に延びた上階の長い通廊は、東西幅約3.5m長さ約65mであった。
さらに通廊の北端のスペースは東方へ15mほど延びていることから、上階の長い通廊の「壁面」の長さは、ドアー口を含め総延長80mと推測できる。
広間群と同様に、二階の長い通廊はドアー口を除き、天井と両壁面のすべてが美しいフレスコ画で装飾されていたと想定され、それは先史の時代、他に類を見ない壮麗で圧倒される美しさを誇示する、言葉通りの豪華な長い通廊であった。

そして、上階の長い通廊の東側の区画、西側の大広間に対面するように、東西11m、南北12mの広さ、角柱三本と円柱三本が立つ中央支柱広間 Central Pillar Hall が配置されていた。豪華な中央支柱広間の位置は、階下の聖域・東&西支柱礼拝室&付属保管室の丁度上階に相当する。

中央支柱広間の南側の二つあるドアー口を抜けると中央ロビー Central Lobby となり、さらに南側には南西翼部・南大階段からアクセスできるプロピュライア(Propylaea 上の間)へと連なっている。
また、中央支柱広間の南東のドアー口の南側、中央ロビーの東側に配置された部屋に関して、エヴァンズは「二階宝庫」であったと推測している。

従って、西中庭から地上レベルの西ポートを抜け、豪華なフレスコ画の通廊を歩み、南翼部の南プロピュライア(下の入口間)からの賓客は、南大階段を上り、プロピュライア~中央ロビー~中央支柱広間へと進む、やや「遠回り」だがクノッソス宮殿の贅を尽くした圧倒されるフレスコ画を満喫できる、「感動・感激コース」も選択できたことであろう。


ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・西翼部二階 Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部二階(復元)
・手前の円柱礎=中央支柱広間
・女性の立つ位置=中央ロビー
・角柱円柱礎=プロピュライア
クレタ島・中央北部/1982年

クノッソス宮殿遺跡・西翼部・二階~南プロピュライア 2nd Floor of West-wing, Knossos Palace/Sir Arthur Evans
クノッソス宮殿遺跡・西翼部二階フロアー(復元)
中央支柱広間~中央ロビー~南プロピュライア
遠方=聖なるユクタス山~ジプサデスの丘
右下=西貯蔵庫・第3号室~第5号室
写真情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.II (1928年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)


二階・復元された「フレスコ画の部屋」

二階の中央支柱広間の北側には中央中庭から上る中央大階段 Central Staircase があり、その北側には復元されたフレスコ画の部屋 Room of Fresco が配置されている。フレスコ画の部屋の位置は、階下の王座の間コンプレックスの丁度上階に相当する。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・中央大階段 Central Staircase, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・中央大階段
中央中庭~西翼部上階を結ぶ宮殿最大級の階段
クレタ島・中央北部/1994年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・大階段&王座の間コンプレックス Great Staircase & Throne Room Complex、Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・1990年代の中央中庭~西翼部
・左=中央大階段/正面一階=控えの間&王座の間
・二階の一本円柱の部屋=復元のフレスコ画の部屋
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・二階フレスコ画の部屋 Room of Fresco, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部二階・フレスコ画の部屋
《サフランを摘む青い猿》&《アオイガイ》の複製品
クレタ島・中央北部/1982年

復元された二階のフレスコ画の部屋では、ローヤルロード脇のフレスコ画の邸宅 House of Fresco で見つかった、《サフランを摘む青いサル》や《青い鳥》など複数のフレスコ画の複製画を展示している。
《青い鳥》はクレタ島の自然を丁寧に観察したフレスコ画、そして大型の描画は三本足が特徴のタコ属の《アオイガイ(葵貝)》を描いたフレスコ画である。食用には適さないが、アオイガイは海洋民族・ミノアの人々には人気の高い美術表現のモチーフであった。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画の邸宅・《青い鳥》 Blue Bird Fresco, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画の邸宅出土
フレスコ画《青い鳥》/高さ約60cm
イラクリオン考古学博物館/紀元前1550年~前1500年頃
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画《アオイガイ》Fresco Argonauta Argo, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画の邸宅出土
フレスコ画《アオイガイ》/薄殻と三本の長い足&海草
イラクリオン考古学博物館/紀元前1550年~前1500年頃
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


フレスコ画の部屋の低い壁の上に立つ細めの円柱に囲まれた採光吹抜けの階下が、王座の間コンプレックスの「聖なる浴場 Ritual Bath」である。
中央中庭の西側、控えの間から王座の間を覗く時には半地下式の「聖なる浴場」を見ることはできないが、上階のフレスコ画の部屋の採光吹抜けから唯一確認することができる。階下の「聖なる浴場」は王座の間からのみアクセスできる、非常に神聖なる部屋であった。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王座の間・「聖なる浴場」Ritual Bath of Throne Room, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・王座の間・「聖なる浴場」
上階から見る「聖なる浴場」のピット床面
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年


いずれにしても、現在は失われているが、ほとんど間違いなくクノッソス宮殿・西翼部二階は、クレタ島内や遠くエジプトや中東地域からの賓客の迎賓、そして宮殿主催の晩さん会、さらには大掛かりな宗教的な儀式や祭祀など、ハイレベルで格式を伴った用途と目的に使われた。
そうだとすれば、さらに上階に存在した区画、西翼部三階のフロアーは、賓客達の宿泊のための部屋群などであった、と想定することができる。


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フレスコ画《女神パリジェンヌ》 la Parisienne

フレスコ画《女神パリジェンヌ》の発見

120年前、1900年3月から開始されたエヴァンズによるクノッソス宮殿遺跡の発掘ミッションでは、西翼部一階の西貯蔵庫・第12号室周辺を中心に、後に研究者から《キャンプスツールのフレスコ画 Fresco of Camp Stool》と呼ばれる、美しいミノアの女神と若い女性達を連続的に描いたフレスコ画の断片が大量に見つかった。
このフレスコ画の製作時期は、後期ミノア文明LMI期、「新宮殿時代」の最盛期、紀元前1500年頃に遡るとされた。

通常、穀物やオリーブ油を保管する一階の西貯蔵庫内部の壁面に美的なフレスコ画を描く理由はなく、間違いなくこれらのフレスコ画の断片は、すべて上階に配置された豪華な広間から落下したものと断定できる。西貯蔵庫・第10号室~第13号室の上階には、6本円柱の聖なる北西儀式広間が配置されていた。

そうして、出土したフレスコ画の断片を接合する作業の中、エヴァンズは殊更に美しい女性のフレスコ画を見つけ、思わず「オー、パリジェンヌ! Oh, Parisienne!」と叫び、その美貌に歓喜した、という伝説的な話が残されている。このエピソードから、魅力的なフレスコ画は《女神パリジェンヌ》と令名された。
なお、フランス語の発音では、Parisienne=「パリズィエヌ」となるが、「カワイイ・キレイ」の印象がありそうな「パリジェンヌ」の方が我が国では好まれている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画《女神パリジェンヌ Fresco Parisienne》 Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画《女神パリジェンヌ》
イラクリオン考古学博物館・登録番号11/高さ250mm
クレタ島・中央北部/1994年

何故にミノアのフレスコ画が《パリジェンヌ》なのか?
特に自分の美しさを互いに競う傾向の女性達から、「ミノア文明とパリジェンヌは関係ないでしょう。何がパリジェンヌなのよ!」、というやや挑戦的な意見もある。確かにその通り、クノッソス宮殿遺跡からフランスの首都パリはあまりに離れた距離にある。
「フランス革命」の後、1830年の「7月革命」、さらに1848年の「2月革命」の市民革命を経たフランスは、1800年代後半~1900年代前半、社会の安定化が図られた。結果、パリは正に「芸術の都」となり作曲家や画家が集まり、バレー音楽なども急速に発展してきた。
音楽ではロマン派のサン・サーンス、印象派のドヴュッシーやモーリス・ラヴェル、画家では印象派のマネやクロード・モネ、さらにドガやルノワール、続いてゴーギャンやロダン、ゴッホやロートレックなどが活躍した時代であった。
パリの街は華やぎ、考古学者エヴァンズがクノッソス宮殿遺跡を発掘した1900年代の初め頃は、「美しい女性=パリジェンヌ」という方程式が適用できる時代、最先端の都市パリに住む女性パリジェンヌは、世界の男性諸君の”憧れの的”であった。

フランスの歴史に刻む1789年に起こった「フランス革命」の100周年となる1889年には、パリ市内にはエッフェル塔が建造され、「パリ万国博覧会 Expo-1889」が開催されるほど、産業革命を成し遂げたイギリス・ロンドンと並び、当時のパリは誰もが認める世界の中心都市であった。
そんな折、クノッソス宮殿遺跡はパリとは無縁であったが、発掘中に美しいフレスコ画の断片を見つけたエヴァンズが、即時に「オー、パリジェンヌ!」と歓喜し”憧れの的” を連想したことから、このフレスコ画に名称が付けられた。
特にフレスコ画に描かれたミノアの女神が「フランス女性に似ていた」という訳ではなく、美的な女性の絵柄だからこそ、時代を映してパリジェンヌに連想できる美しい女性を120年前の男達が褒め称えたのである。

ロングドレス姿・X脚の簡易スツールに座る《女神パリジェンヌ》

西翼部の西貯蔵庫・第12号室周辺の発掘作業で、高さ250mm、フレスコ画《女神パリジェンヌ》の上半身の断片を発見した後、エヴァンズは母校オックスフォード大学・アシュモレアン博物館 Ashmolean Museum, U. Oxford (UK) に《パリジェンヌ》の全身イラスト画を残している。

エヴァンズのカラー描画からは、《パリジェンヌ》は京都・西陣織より豪華なロングドレスの衣装、戦国の世で野戦の武将が腰掛けたX脚の床机(しょうぎ)タイプの簡易スツールに座った、やや腰周りが大きめのミノアの女神 Minoan Goddess と判断できる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・エヴァンズ作《パリジェンヌ》/Sir Arthur Evans-Ashmolean Museum
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・フレスコ画 模写
《女神パリジェンヌ》全身イラスト描画
描画情報:サー・アーサー・エヴァンズ
Ashmolean Museum, U. Oxford (UK)

エヴァンズのイラスト画では、《パリジェンヌ》の正面には、出土したフレスコ画が断片であり顔部分だけが描かれているが、ロングドレス or スカート衣装のミノアの若い女性(巫女 or 女神)が、《パリジェンヌ》の方へ向かって何か話しかけている、あるいは《パリジェンヌ》へ何かの容器、おそらくワイン入り儀式杯を差し出す立ち姿が描写されている。

日本の若い女性達がWebページで探すファッション広告の言葉を借りるならば、東京・青山の人気ヘアサロンでセットしたような「フェミディカールでグラマラスな艶髪」が特徴の《パリジェンヌ》。胸を張ったその正しき姿勢と大きな瞳の向いている方角から、この《パリジェンヌ》とロングドレス衣装の若い女性が話し合っている、または儀式杯を捧げている、というエヴァンズの想定は正しいと判断できる。

消石灰・漆喰&フレスコ画の技法
地中海の諸島や沿岸~内陸部まで何処にでも無尽蔵に存在する石灰岩を砕き、加塩で焼成した物質が白色の生石灰。生石灰を加水処理すると白色微粉末の消石灰となる。
水酸化カルシウムが主成分の消石灰を水で溶き、壁面や天井や床面に塗った状態を漆喰と呼ぶ。完全に水溶せず強いアルカリ性を呈する漆喰は調湿・消臭・防水・不燃性に富み殺菌作用もある。また、消石灰にやや多めの水を加えたのが石灰水である。

フレスコ画の語源はイタリア語、壁面や天井や床面を造成した後、基本的に白色漆喰で表面を施工、漆喰が乾燥しない間に石灰水と顔料で描画する技法をフレスコ画と呼ぶ。
顔料が遅乾性の漆喰の石灰層へ染み込み、ゆっくりと乾燥する時、石灰質が透明で強固なコーティング質を作り、最終的に描画の表面を保護する。


聖なる「結び目」と「女神」

目にも鮮やかなルージュをひいた《女神パリジェンヌ》の首筋(うなじ)部分に、ループカーブしている深紅色の太い紐(ひも)が描かれている。
エヴァンズは、これを「聖なる結び目 Sacral Knot」と呼び、本人がクノッソスの街 ko-no-so に住む普通のミノア女性ではなく、宮殿の聖所や儀式などに関わる特別な存在の「女神」、あるいは「高位の巫女」を意味していると考えた。

「聖なる結び目」は、幾らかの女神のフレスコ画のみならず、西翼部・神殿宝庫から出土したファイアンス製《蛇の女神像 Snake Goddess》の胸元のコルセットの綴じバンド、石製や象牙製の彫刻品などにも残されている。
この結び目は両刃斧や雄牛頭型リュトン杯と同様に、先史の時代、ミノア文明やミケーネ文明の人々の精神文化と宗教に深く関係する神聖なるシンボルでもあった。

ミノア文明・「蛇の女神」 Minoan Snake Goddess, Knossos Palace/©legend ej
ミノアの人々が崇拝した《蛇の女神》
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・ファイアンス陶器
原画情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.I (1921年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)
クレタ島・中央北部/模写:legend ej

ギリシア本土・ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A・第Ⅳ竪穴墓から出土したファイアンス製「聖なる結び目」では、今日、北風の吹く寒い冬の夕方、市街で身に付けても良さそうな、上質な「カシミヤ混紡のウールマフラー」に近似する形容に特徴がある。

ミノア文明&ミケーネ文明・「聖なる結び目」 Sacral Knot/©legend ej
ミノア文明&ミケーネ文明・聖なる結び目&両刃斧
左=アテネ国立考古学博物館・ファイアンス陶器
登録番号553・554/高さ95mm・102mm
右=ディクテオン洞窟・青銅製両刃斧&石製角錐台
描画:legend ej


女神の「聖なる座り姿勢」

背骨が極端に湾曲しないことから普通の男性ではポーズできないが、フレスコ画《女神パリジェンヌ》は腰を引き、背を美しく弓なりにカーブさせ、胸を張り、肩から首筋と頭部を垂直に保つたいへんと魅力溢れる女性特有の座り姿勢で描かれている。
その腰~背にかけて流れるような曲線の秘めたる魅力を強調するため、今日の多くのファッション・モデルもポーズ表現しているが、男性から見れば《パリジェンヌ》の座り姿は「セクシー度100%」と言うか、ゾクゾクするような何とも言えない、女性だけが「勝負姿勢」として凛と決められる美しい座り方である。
エヴァンズの「聖なる結び目」にならい、世界の考古学者に問うことなく、私は《パリジェンヌ》の座り姿に勝手に名称を付け、ミノア文明の女神だけに許された「聖なる座り姿勢」と呼ぶことにしている。


美しい壁画《キャンプスツールのフレスコ画》

エヴァンズの発掘では、《女神パリジェンヌ》を含む大量のフレスコ画の断片は、宮殿・西翼部の一階の西貯蔵庫・第12号室周辺で発見された。
美しいミノアの女神《パリジェンヌ》や若い女性達(巫女 or 女神)を描いたフレスコ画は、「新宮殿時代」の最終期、紀元前1375年頃、クノッソス宮殿の最終崩壊時、描かれていた真上(二階)の聖なる北西儀式広間の壁面と共に階下の貯蔵庫群へ崩落したのは間違いないだろう。

エヴァンズの微細に破断された大量のフレスコ画の断片の接合作業では、二階の北西儀式広間の壁面には、横線で区切られた高さ30cmほどの帯状の「青い描画スペース」が上下二段で横へ延び、上下の線余白を合わせたフレスコ画の高さは70cm前後と想定している。
簡易スツールに座った《パリジェンヌ》と立ち姿の若いミノア女性が互いに向かい合って「二人一組」を成すように、同じように向かい合う座りポーズの色々なロングドレスの女神と立ち姿の若い女性がやはり「二人一組」となり、その横帯状の描画スペースに延々と連続的に描写されていたと言う。

これを以って、《パリジェンヌ》を含む二階の北西儀式広間の壁面を飾ったこの一連のフレスコ画は、ヨーロッパの研究者の間では女神達の座るX脚のアウトドアー用折りたたみ式腰掛け Camp Stool から名を取り、《キャンプスツールのフレスコ画 Fresco of Camp Stool》と呼ばれるようになる。
なお、フレスコ画の復元イメージでは、《パリジェンヌ》は上段・左から三番目の座り姿の女神となる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「キャンプスツールのフレスコ画」/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・フレスコ画
《キャンプスツールのフレスコ画》
座り姿勢=女神/立ち姿=若い巫女 or 女神
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/1996年

《キャンプスツールのフレスコ画》の一連の描写は、手の動作と位置は微妙に異なるが、「二人一組」の全ての立ち姿の女性(巫女 or 女神)は、ゴブレット杯やミノア様式の水差し容器を捧げ、相手となる自分の前のX脚の簡易スツールに腰掛けた、それぞれの女神が差し出す聖なる受け容器へワインを注ぐか、あるいは水差し容器や儀式杯そのものを座り姿勢の女神へ渡そうとしている神聖なシーンであった。

エヴァンズの推測が正しければ、《キャンプスツールのフレスコ画》はクレタ島ミノア文明の特徴的な色、エーゲ海と同じ高彩度の青い壁面を背景に、赤や黒や黄色などの顔料を使い、美しい色彩バランスで精密に仕上げられていた。
その絵柄が二階の聖なる北西儀式広間の、扉口を除き北側壁面の約14m、南側壁面の約12m、壁面だけで合計約26m分全て、上下二段の横帯スペースに描かれていたと仮定するならば、上段・下段合わせておおよそ30組、60人の聖なる女性達がまるで平安朝の絵巻物のように描写されていた訳である。
それは正に北西儀式広間の壁面に「花が咲いた」ような、先史時代に類を見ない圧倒的に華やかな装飾壁画であったに違いない。

流麗なハープの伴奏に合せゆったりと踊るような聖なる女性達の優美なその立ち振舞いの連続描画、《キャンプスツールのフレスコ画》は、儀式広間に案内された遠来の賓客や宮殿の高位な身分の人達すべてが、感動せずには居られないほど優しく、そして落ち着き感をかもす高貴な雰囲気を漂わせていたことであろう。
それはまるでフランスの作曲家ジュール・マスネの間奏曲《タイスの瞑想曲》のヴァイオリンとハープによる甘美な調べが奏でられているかの如く優雅に、ミノアの絵師による醇然たる表現力で・・・

これが事実であったなら、《女神パリジェンヌ》を含む《キャンプスツールのフレスコ画》の聖なる北西儀式広間は、1,000室を数えた壮大なクノッソスの大宮殿で、いや当時のエーゲ海全域の宮殿や邸宅の中で「最も美しい広間」の一つであったかもしれない、と私は勝手に美的な夢想を抱いてしまう。

日本の最初の王国・「邪馬台国」を治めたとされる女王・卑弥呼が登場する時代より 1,700年前、今から3,500年以上の昔、クノッソス宮殿の西翼部二階の壮麗な広間には、すでに60人を数えるミノアの美しい女神と巫女の姿が、ゆったりと全員で踊る優雅なバレーダンスかマスゲームのように精緻に描かれていた。
優雅で美しいフレスコ画に象徴される約500年間続いたミノア文明の「宮殿時代」、戦いのない平和な時代を長い期間に渡って享受できたミノアの人々の幸福感が、優美なフレスコ画から聖なる光のように放散されている。
この《キャンプスツールのフレスコ画》が、紀元前1375年頃、クノッソス宮殿の大火災で破壊されずに今日まで現存していたならば、と仮想する時、私は余りの残念さを覚える。


《女神パリジェンヌ》と金製リングの女神

エヴァンズが残したイラスト画、簡易スツールに座る《女神パリジェンヌ》の姿勢が、ギリシア本土の世界遺産ミケーネ宮殿遺跡~南南東15km、世界遺産ティリンス遺跡 Tiryns の「王家のトロス式墳墓」から出土した、金製リングに刻まれたミノア文明の「女神の姿勢」とまったく同じであるという事実、これに注目したい。

ミケーネ文明・ティリンス遺跡・「王家のトロス式墳墓」Royal Tholos Tomb, Tiryns/©legend ej
世界遺産ティリンス遺跡・王家のトロス式墳墓
入口高さ=約380cm/上部リンテル石厚さ=約42cm
ペロポネソス・アルゴス地方/1982年

金製リングの左側、X脚のスツールに座る女神は、正に私が勝手に付けた「聖なる座り姿勢」である。クノッソス宮殿のフレスコ画《女神パリジェンヌ》の両腕部分は欠損しているが、エヴァンズのイラスト画や《キャンプスツールのフレスコ画》のイメージでは、素肌の腕は前方へ向けられている。
《パリジェンヌ》は、ティリンス遺跡の金製リングの女神と同様に、エヴァンズの想像通り、女神だけが許された聖なる容器、または金製のゴブレットなどワインを受ける大きな儀式杯を胸の前方で保持していたと想像できる。

ティリンス遺跡からの横幅57mmの金製リングが、紀元前15世紀頃、クレタ島クノッソス宮殿のミノア王からティリンス宮殿の王、または王妃へ献上されたものと想定するならば、ほとんど同時代で共通な神聖なミノア美術モチーフからして、間違いなくクノッソス宮殿遺跡・西翼部から出土したフレスコ画《パリジェンヌ》は、美しいグラマラスな艶髪のミノアの女神を描いたもの、と確信をもって言えるだろう。

ミケーネ文明・ティリンス遺跡・金製リング Tiryns Treasure, Gold Ring/©legend ej
ティリンス遺跡・トロス式墳墓出土・金製リング
「ティリンスの財宝」/横幅57mm・重さ83g
アテネ国立考古学博物館・登録番号6208
ペロポネソス・アルゴス地方/1987年

先史の東地中海域で「最も美しいフレスコ画の宮殿」

フレスコ画は消石灰を水で溶いた漆喰表装の壁面に描くことから、破壊され易いアート作品の一つである。クノッソス宮殿遺跡から出土したフレスコ画の断片のほとんどは、宮殿崩壊の瓦礫に混じった微細片で見つかっている。
故にミノアの時代に描画されたオリジナルなフレスコ画への原型復元は困難を極める作業であった。そうであっても、微細片から得られる高い芸術レベルから連想して、研究者の間ではクノッソス宮殿は、先史の東地中海域で「最も美しいフレスコ画の宮殿」と比喩されている。

クノッソス宮殿の多くの広間や部屋は、ギリシア本土メッセニア地方のネストル宮殿遺跡・王の居室の床面装飾と同様に、特に宮殿・西翼部二階と東翼部二階~三階の全ての部屋が、《女神パリジェンヌ》や《青の婦人達》のような美しいフレスコ画で装飾されていた。
それを裏付けるようにエヴァンズの発掘作業では、北東翼部の工房群と倉庫区画などを除き、宮殿全域の28か所の区画から大小の破断フレスコ画が発見されている。

ミケーネ文明・ネストル宮殿遺跡・メガロン形式 Megaron Complex, Nestor's Palace/©legend ej
ネストル宮殿遺跡・「メガロン形式」の王の居室
王の居室の奥部~前の間~控えの間(右上)を見る
「聖なる炉」の側面=「サメの背びれ紋様」が残る
ペロポネソス・メッセニア地方/1982年

ミケーネ文明・ネストル宮殿遺跡・王の居室・床面パターン Decoration of Throne Room, Nestor's Palace/©legend ej
ネストル宮殿遺跡・王の居室・床面装飾
「聖なる炉」&タコ・幾何学紋様の美しいパターン
ホーラ考古学博物館
ペロポネソス・メッセニア地方/1987年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画《青の婦人達》 Fresco Ladies in Blue, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・フレスコ画
エーゲ海の Kyanos Blue 背景色・《青の婦人達》
紀元前1650年~前1550年頃
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/1994年



ミノア文明の女性達の斬新なデザイン衣装

歴史上 初めて「縫製」されたミノア女性の衣装

フレスコ画《女神パリジェンヌ》が着用しているやや厚ぼったいスカートに関して、このタイプの衣装は女神や巫女のみならず、ミノア時代の一般庶民の一部と、特に王族を含めた貴族階級の女性達が着用していたことは間違いないだろう。
その特徴ある上着やスカート、説によれば、歴史上、縫製加工された衣装を身に付けたのはミノア女性が初めてであり、そのファッション性は今でもヨーロッパの服飾デザイナーの間では高く評価されている。

例えば、古代からある説の一つ、ギリシアの哲学者プラトンの唱えた「巨大な島アトランティス」とも言われたエーゲ海サントリーニ島(テラ島 Santorini-Thera)、その火山が紀元前1500年頃に大噴火を起こし、危機を避ける住民が他の島へ避難して放棄されたアクロティーリ遺跡 Akrotiri がある。

キクラデス文化・サントリーニ島・アクロティーリ遺跡 Akrotiri, Santorini/©legend ej
サントリーニ島・アクロティーリ遺跡
エーゲ海/1982年

この火山灰に覆われた町遺跡からの出土品は少ないが、最大の遺産は邸宅や住宅の壁面に描かれていた数多くのフレスコ画である。
その中の一つ、《ミノア女性のフレスコ画》の部屋では、ミノアの美しい女性が戸外でサフランを摘むシーン、そして何かを、説ではネックレースを手渡し、あるいは奉納する姿を捉えた、現代でも注目されそうな濃艶なフレスコ画がある。
ミノア女性の背からウェストとヒップ周りの流れるような美しい曲線、そして大きなバスト、何とも魅力的なフレスコ画である。これは日本では毛皮の腰巻姿で弓矢を放してイノシシを追う縄文時代に相当する、3,650年以上前、紀元前1650年頃に描かれたフレスコ画とされている。

アクロティーリ遺跡・フレスコ画「ミノア女性」Fresco Minoan Woman, Akrotiri, Santorini/©legend ej
アクロティーリ遺跡・フレスコ画《ミノアの女性》
重ね縫いの斬新デザインのスカート姿の女性
「ミノア女性の家」・北壁面の描画
紀元前1650年頃の作品/テラ考古学博物館
エーゲ海・サントリーニ島/描画:legend ej


そのほか、クノッソス宮殿・南西~南翼部の行列フレスコ画の通廊の長大な壁画、フレスコ画《行列フレスコ画》の一部、胸を大きく露出して象牙のティアラを付けた宮殿の王女は、薄手の上着だがやはり厚ぼったい豪華なスカート姿である。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・行列フレスコ画 Minoan Procession Fresco, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西~南翼部・《行列フレスコ画》
豪華なスカート姿の王女 or 女神&若い男性達(部分)
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

さらに美しい女性のフレスコ画では、クレタ島・東部の北海岸・プッシーラ島 Pseira の居住地遺跡で見つかったフレスコ画《ミノアの女神 or 王女 Minoan Goddess or Princess》がある。
他に類を見ないミノア織りの複雑な紋様の衣装を身に付けた二人の女性を描いた、この非常に美しい浮彫フレスコ画は、研究者からクノッソス宮殿などを意識したミノアの女神、または宮殿の王女と推定されている。
形の良いバストの間を上品に飾る金製とおそらくガラスペースト(鉛ガラス)かラピスラズリの豪華なネックレース、不思議な紋様織りの上着、軟質素材のスカート姿は、3,500年以上前の女性とは思えないほど魅力的な描写である。

ミノア文明・プッシーラ遺跡・フレスコ画《ミノアの女神 or 王女》Fresco Minoan Goddess/Princess, Pseira, Crete/©legend ej
プッシーラ遺跡・神殿遺構出土・浮彫フレスコ画
《ミノアの女神 or 王女》紀元前1500年~前1450年頃
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・東部/描画:legend ej

クレタ島の北海岸から沖合3kmほど、ミノア文明の共同墓地遺跡のモクロス島~西方4km、平地は無いに等しく標高200mの岩山の島、湧き水も少なく草木がほとんどないプッシーラ島は、現在、人が住んでいない。
長さ約2.5kmの細長い島の東側、小さな湾と突き出た半島の丘に広がるプッシーラ居住地遺跡では、舟着き場から丘の居住地まで長い階段が造られ、小さな広場を中心に約60棟の家屋が建ち並んでいた。広場の北側の「住民の神殿」と呼ばれる建物遺構から、二人のミノア女性の浮彫フレスコ画の断片が見つかった。

二人は身体を優雅にひねりながら岩に座り、おそらく静かな会話のシーンと推測できる。残念ながら、二人ともに頭部などは欠損しているが、その上質な衣装は二人の身分を連想させ、高貴な香りを漂わせている。「女神」を特徴付ける神的な要素が見当たらないことから、私にはこのフレスコ画はクノッソス宮殿の二人の王女」を描いたものと確信する。

クレタ島のミノア宮殿や邸宅や繁栄の町が、後期ミノア文明LMIB期、紀元前1450年頃、ギリシア本土からの「侵攻ミケーネ人」により攻撃されたのと同じ時期、美しいフレスコ画を描き平和であった小さなプッシーラ居住地も徹底的に破壊され、その後に再居住されることはなかった。



機織り(はたおり)&重ね縫いスカート地

ミノア文明の影響を受けていたテラ島の先史アクロティーリの市街を含め、クレタ島を中心とするミノア文明のフレスコ画では、描かれた女性達の上着はややシンプル、大き過ぎると言えるバストは例外なく露出されている。
そして特徴的なスカートは、現代の「ティアード・トラペーズスカート(重ね縫い台形型)」とでも言うのか、複数枚の布地を重ねて縫い上げるやや厚ぼったい感じのスタイルである。

クノッソス宮殿遺跡~南方7kmのアルカネス近郊、ワイン生産のヴァシィペトロン邸宅遺跡 Vathypetron のみならず、北海岸のマーリア宮殿に隣接するミノアの人々が住んだ市街地遺構から、機織りに使うテラコッタ製の縦糸重りが数百個も出土している。
重りの形状はピラミッド状の円錐形、ソロバン玉のような双円錐型、単純な球形など、サイズも様々だが単純な球形塊では高さ55mm~75mm前後、糸を通す小穴がある。

これらの出土品は、早くもミノア時代には機織りが行われていたことを証明している。当時、布地は鮮やかな色彩パターンのストレート柄が織られ、長い間ミノアの女性達の間で好んで着用されて来た。おおよそ3,500年前の女性達の衣服・アパレルの話だが・・・

先史・古代文明 機織りの仕組み・縦糸重り Prehistoric and Historic Loom System/©legend ej
先史~古代文明・「機織り」の仕組み
マーリア遺跡・市街地出土・縦糸重り
描画:legend ej


ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 関連ポストは「12部構成」となっています。
1. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace I 概要
2. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace II 西中庭~南翼部
3. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace III 中央中庭・王座の間
4. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IV 聖域・宝庫
5. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace V 貯蔵庫
6. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VI 女神パリジェンヌ(当ポスト)
7. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VII 王の居室・聖所
8. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VIII 王妃の間
9. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IX 雄牛跳び
10. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace X 北~東翼部
11. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 周辺の先史遺跡
12. ミノア文明・クノッソス宮殿 崩壊の原因は?

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