2020/03/27

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IV 聖域・宝庫


ミノア文明・クノッソス宮殿 関連ポストは「12部構成」となっています。
1. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace I 概要
2. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace II 西中庭~南翼部
3. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace III 中央中庭・王座の間
4. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IV 聖域・宝庫(当ポスト)
5. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace V 貯蔵庫
6. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VI 女神パリジェンヌ
7. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VII 王の居室・聖所
8. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VIII 王妃の間
9. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IX 雄牛跳び
10. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace X 北~東翼部
11. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 周辺の先史遺跡
12. ミノア文明・クノッソス宮殿 崩壊の原因は?

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クノッソス宮殿の「聖域」

位置 クレタ島・中央北部/イラクリオン Heraklion/Iraklion~南南東5km
GPS クノッソス宮殿遺跡: 35°17′53″N 25°09′47″E/標高95m

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡/Google Earth
クノッソス宮殿遺跡
クレタ島・中央北部
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入

ミノア文明&ミケーネ文明 編年表/©legend ej
クレタ島ミノア文明&ギリシア本土ミケーネ文明 編年表
・ミノア文明・「旧宮殿時代」: 紀元前1900年~前1625年
・ミノア文明・「新宮殿時代」: 紀元前1625年~前1375年
ミケーネ文明(時代):  後期ヘラディック文明 LH期
作図:legend ej


中央中庭に面する宮殿・「西翼部」&「東翼部」

中期ミノア文明の末期~後期ミノア文明の半ば、最も繁栄した「新宮殿時代」のミノア宮殿では、中央中庭の周りに王家のプライベート生活区画は当然のこと、政治・行政・宗教・文化に関連する重要な建物区画が配置された。

すべての宮殿に共通するが、特に中央中庭 Central Court の西側となる西翼部 West Wing には、王国の政治・財務・宗教関連の区画が配置された。そして王家のプライベート生活区画はクノッソス宮殿とザクロス宮殿では東翼部 East Wing に、フェストス宮殿とマーリア宮殿では北翼部 North Wing に配置された。
また、幾分の異なりはあるが、ミノア宮殿では南翼部 South Wing と北翼部 North Wing に工房や貯蔵庫など宮殿関係者の実務面の区画が付属された。

ミノア文明の宮殿遺跡(4か所)

・中央北部・ミノア文明センター・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace
・南西部・メッサラ平野・フェストス宮殿遺跡 Phaestos/Phaistos Palace
・北海岸・マーリア宮殿遺跡 Malia Palace
・最東部・ザクロス宮殿遺跡 Zakros Palace

クレタ島ミノア文明・宮殿群 地図 Map of Minoan Palaces in Crete/©legend ej
クレタ島・ミノア文明・宮殿遺跡 地図
作図:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・推測模型/©legend ej
クノッソス宮殿・推測模型(木製)
部屋数1,000室/東翼部~中央中庭~西翼部
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/1996年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・中央中庭 Central Court, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・1990年代の中央中庭~西翼部
・左=中央大階段/正面一階=控えの間&王座の間
・二階の一本円柱の部屋=復元のフレスコ画の部屋
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


聖域の位置

クノッソス宮殿の最も重要な区画の一つ、宮殿の聖域 Palace Sanctuary は、中央中庭の西側を占める西翼部一階の中央付近である。西翼部の北区画にある王座の間コンプレックス Throne Room Complex の南側には、復元された中央大階段 Central Staircase があり、聖域は大階段の南側の広い区画を占めている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・中央大階段 Central Staircase, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・中央大階段
中央中庭~西翼部上階を結ぶ宮殿最大級の階段
クレタ島・中央北部/1994年

宮殿の「中心」である中央中庭の西側に面するほぼ真ん中付近、ミノア文明の精神文化と宗教・信仰において突出した役割を果たしていた、文明センターのクノッソス宮殿の聖域が、その位置からして如何に重要な施設であったかを示している。

聖域区画の西側には聖なる両刃斧/ラブリュスの記号が彫られた壁面、宮殿の限られた人だけの立ち入りが許されていた貯蔵庫群の長い通廊が南北に延び、聖域からもアクセスができた。王座の間と聖域、そして西貯蔵庫群はミノア宮殿・西翼部の「三点セット」、ミノア王国の政治・経済・宗教が関係する最も重要な区画であった。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・西翼部イメージ画/Evans-Heidelberg U
クノッソス宮殿遺跡・西翼部(再現予想図)
原画情報:サー・アーサー・エヴァンズ・発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.II(1928年)
描画作者:F.G. Newton
Digital Library, Heidelberg U. (DE)

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・大階段&王座の間コンプレックス Great Staircase & Throne Room Complex, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・1990年代の中央中庭~西翼部
大階段&王座の間コンプレックス周辺
左=中央大階段/正面一階=控えの間&王座の間
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫 West Storeroom, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・西貯蔵庫・第5号室
床面=ピトス容器・地中=収納ピット
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年


「立入自由」から「立入禁止」へ指定された聖域区画
現在、クノッソス宮殿遺跡では、一部写真撮影が許されている西翼部・王座の間や東翼部・王妃の間などを除き、多くの区画で「外観を見せて内部を見せない」とする管理当局のロープ規制が敷かれ、遺跡のほとんどが「ツーリスト・立入禁止」の対象になってしまった。
勢いクノッソス宮殿遺跡のトレードマークでもある王座の間などへ見学者が殺到して、人気のアトラクションの順番待ちの如く見学待ちの長い列ができている。

ミノア王の執務室であった王座の間と並び、クノッソス宮殿の最も重要な意味を成す「三点セット」の一つ、西翼部一階のほぼ真ん中、最も目立つ堂々たる位置を占有する宮殿の聖域内部への立ち入りは、1980年代には何の規制もなく、すべてが完全に「立入自由」となっていた。
復元と保護屋根カバーされた聖域の多くの部屋は、元々その性格上、窓がない複雑な構造であるが上に、当時は照明ライトの設備もなく内部は真っ暗であった。
眩いエーゲ海の陽光、サングラスがなければ外に居られない特に夏場、真っ暗な遺構部屋にあえて興味抱くツーリストは、聖域の重要性を知っている人以外に居ない。見学ツーリストが居ないなら、当然の結果、聖域区画の見回り担当のスタッフも居ない。

しかし、その後、年間70万人、大挙してクノッソス宮殿遺跡を訪れる見学ツーリストの増加に伴い、遺跡保護を優先するギリシア政府当局により、西翼部・西貯蔵庫群や東翼部・王家の生活区画など重要な遺構区画と同様に、この聖域区画も完全に「立入禁止」に指定されてしまった。
故にツーリストは、現在、聖域区画から数メーター離れた中央中庭に張られた規制ロープの外から、プラスチック保護屋根カバーの聖域の正面入口周辺の崩壊壁面を眺め、内部を見ることなく、その雰囲気から重要性をわずかに連想するだけで、次の遺構へと移動することになる。

発掘者エヴァンズの遺構の復元に始まり、その後のギリシア政府当局による「こうであろう復元・複製」の結果、より美しくなったクノッソス宮殿遺跡だが、「外観を見せて内部を見せない」とする遺跡保護の規制が緩和され、近未来の何時か、かつて1980年代のように「立入自由」となることはあり得ないであろう。
過剰ともいえる「復元・複製」が理由となり、UNESCO世界遺産に登録されないクノッソス宮殿遺跡は、「遺跡アミューズメントパーク」へ変貌するのであろうか?

関連Blog情報: ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace I 概要

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・聖域・プラン図 Palace Sanctuary Plan, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・聖域
一階レベル・アウトラインプラン図
クレタ島・中央北部/作図:legend ej


三分割聖所

三分割聖所の位置&建築仕様

西翼部一階レベル、保護屋根カバーの下、現在、崩壊した壁面遺構がゴロゴロと並べてある感じだが、中央大階段の南側、聖域の正面入口の右側(北側)には三分割聖所 Tripartite Shrine と呼ばれる、言わば聖域の正面部ファサード部が存在した。
聖所ファサード部は中央中庭の脇、保護屋根の支柱ポールの直ぐ奥、南北に少し離れて二基残る白色の大型角柱礎間に存在した。現在は基礎部のみが残り、壮麗な聖所ファサードを想像するのも難しいが、その横幅は約5.4mであった。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・西翼部・三分割聖所 Tripartite Shrine, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿・西翼部・「三分割聖所」
・保護ポール・ロープ内側=三分割聖所の基礎部跡
・聖所ファサード=推定された間口(横幅)約5.4m
・聖所の奥部=神殿宝庫・大型ピトスの部屋の区画
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1994年

発掘されたフレスコ画の断片などから想像できる三分割聖所では、幾分高い中央部に1本(または2本)の細めの円柱が立ち、柱礎と上部にはミノア文明の力の象徴であった雄牛の角を模した小型U型オブジェが置かれていた。中央部より低い左右部はやはり細めの円柱が各2本(または1本)立ち、柱礎部と上部にはU型オブジェの装飾があった。
細身の円柱は、現代の建築分野ではプレ・ヘレニズム様式 Pre-Hellenistic Style と呼ばれ、雄牛角のU型オブジェは宮殿の軒先や屋根にも置かれ、発掘では聖所内部などからも数多く出土、雄牛頭型リュトン杯と同様にミノア人が伝統的に崇拝した力の象徴の装飾物である。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「聖域」Sanctuary, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿・西翼部・三分割聖所(再現予想図)
プレ・ヘレニズム様式の円柱&雄牛角U型オブジェ
原画情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.II(1928年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)
描画&色彩:legend ej

研究者により中心部の円柱の本数の推量の異なりがあることから、三分割聖所の円柱の数は、ほとんど間違いなく合計4本~5本存在したと断定されている。中央中庭の西側、最も目立つ場所であった聖域の三分割聖所は、宗教思想の重要性からしても、神秘性を含め細部まで整然と色鮮やかな色彩の表装が施されていた。
ただし描画は発掘者エヴァンズの想定した青色・黄褐色・赤色・暗赤色を基にして、私の判断で色彩したものである。エヴァンズを含め、多くの研究者が想定する三分割聖所が、間違いなく「新宮殿時代」のクノッソス宮殿に存在したならば、現実は私の描画より遥かに高彩度の顔料を使っていた、と想像できる。


三分割聖所に関連する出土品・《山頂聖所のリュトン杯》

三分割聖所の造りに近似する山頂聖所で、ミノアの男性がバスケットに入れた「パン」を奉納している、神聖なシーンを浮彫彫刻した蛇紋岩製の《山頂聖所のリュトン杯》がある。
このリュトン杯はエヴァンズのクノッソス宮殿遺跡の発掘ミッションに協力していた考古学者 D.G. Hogarth が、宮殿区域・南の邸宅~南方300m付近、ジプサデスの丘で発掘調査した邸宅遺構からもたらされた。その後、この遺構は発掘者の名を取り、「Hogarth の邸宅」と呼ばれている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 周辺 Minoan Palace of Knossos/©legend ej
東方の丘~クノッソス宮殿遺跡&周辺の眺め
・撮影場所=標高140m/カイラトス川=標高70m付近
・宮殿区域=標高95m/アクロポリスの丘=標高170m
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・クノッソス遺跡・石製の山頂聖所リュトン杯 Stone Peak Sanctuary Rhyton, Knossos/©legend ej
クノッソス地区・ジプサデスの丘・Hogarthの邸宅出土
ミノア男性・山頂聖所にパンを奉納する浮き彫り
蛇紋岩製《山頂聖所のリュトン杯》/高さ59mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号2397
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

残存はわずかに高さ59mmの断片、ほとんどが欠損しているリュトン杯に刻まれた山頂聖所の形容からは、中央中庭に面する聖域・三分割聖所と同じように石組みの聖所の上部に段差があり、その上に細めの円柱が建ち、雄牛角U型オブジェが置かれている。この山頂聖所が非常に格式の高い聖地であると推量できる。
山頂聖所のピンポイント場所の可能性としては、1909年、エヴァンズが発掘調査を行った、クノッソス宮殿遺跡~南方7kmのアルカネス Archanes の西方、ユクタス山(Mt. Juktas 標高811m)の、「ゼウス埋葬の地」の伝説が残る山頂聖所ではないだろうか? ユクタス山の山頂聖所はミノア時代を通じて最も重要な聖地として人々に崇められてきた。

イギリス人・考古学者 David George Hogarth(1862年~1927年)
ジプサデスの丘で邸宅遺構を発掘したディヴィット・ホガースは、オクスフォード大学で西洋古典学を研究、クレタ島を初めエジプト・キプロス島・シリアなどの発掘調査を主導した。
その後、第一次世界大戦では海軍諜報部少佐に任命され、有名な「アラビアのローレンス」の少佐 T.E. Lawrence と親密な関係があった。戦中~戦後、エジプトのスルタンやサウジアラビアのシャリフから名誉勲章を授与され、イギリス王立地理学会・会長も歴任した。

また、雄牛角への崇拝に関しては、南翼部の見学コース脇にコンクリート復元された大型のU型オブジェが置かれている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・U型オブジェ/©legend e
クノッソス宮殿遺跡・南翼部・雄牛角U型オブジェ
クレタ島・中央北部/1982年


三分割聖所に関連する出土品・《三本円柱神殿&ハト》

細身の円柱があったとされる西翼部・三分割聖所に関連して、クノッソス宮殿遺跡・東翼部一階レベルからは、儀式用の《三本円柱神殿&ハト Tri-columnar Shrine》のリュトン杯が出土している。この像では神殿の円柱が三本あり、その柱頭部の上に各々ハトが止まり羽を休めているシーンを表現している。
一見、単純な模型のように感じるが、明らかに儀式・祭祀に使われた宗教色の強いリュトン杯である。ハトはミノア文明では主に女神の使いであり、印章モチーフなどに頻繁に登場する聖なる動物の一つである。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・三本円柱神殿&ハト Tri-columnar  Shrine, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・リュトン杯
色彩像《三本円柱神殿&ハト》/横幅約10cm
イラクリオン考古学博物館・登録番号2582
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


参考だが、アルカネス遺跡・フォウルニ共同墓地 Fourni、「アルカネスの王女」の墳墓とされるトロス式墳墓Aの発掘では、「王女」の遺骸の胸の位置付近から、三分割聖所を含む祭祀的なシーンを刻んだ金製リングが見つかっている。

ミノア文明・アルカネス遺跡・トロス式墳墓 Mycenaean Tholos Tomb, Archanes/©legend ej
アルカネス遺跡・共同墓地・トロス式墳墓A
被葬者=「アルカネスの王女」の墳墓
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・アルカネス遺跡・「アルカネスの王女」の墳墓・金製リング Minoan Gold Ring, Archanes Tholos Tomb/©legend ej
アルカネス遺跡・トロス式墳墓A出土・金製リング
「アルカネスの王女」の墳墓/女神・三分割聖所&樹木
紀元前1600年~前1500年/横幅26mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号989
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

横幅26mmの楕円形(オーバル形状)、リングの印面の中央には厚ぼったい特徴的なスカートの女神の立ち姿、その右側には三分割聖所と思われる神殿風の建物とカーブして延びる聖なる樹木が生え、神の恩恵を得るためその枝葉に触れようとしているのか、活動的なミノアの若い男性が刻まれている。
一方、印面の左側には、聖なる石(ビトラス Baetylus)に膝を付き何かを崇拝しているのか、あるいは埋葬用の大型ピトスを抱えるような仕草なのか、やや落胆のミノアの男性が居る。そして女神と膝付きの男性の間の空間には二頭(匹)の蝶、さらに蝶の上部には植物の死と再生(死生観)に関わるエジプト・オシリス柱と思われる微細刻みが確認できる。
聖なる樹木と三分割聖所のみならず、右側の男性が「活動(生)」、左側の男性が「悲しみ(死)」を表現、それを見守る中央の女神の存在を考える時、エジプト文明の影響も含めミノア文明の「死生観」が連想できる。このシーンも研究者の言う「エピファニー表現 Epiphany Scene」の一つであろう。

GPS アルカネス遺跡・フォウルニ共同墓地: 35°14′42″N 25°09′32″E/標高430m

そのほか、クノッソス宮殿遺跡の南方、ジプサデス丘の東斜面の「王家の墳墓 Temple Tomb」から見つかった、エヴァンズの言う《ミノア王の金製リング Gold Ring of King Minos》の 楕円形(オーバル形状)の印面では、聖なる雄牛角型オブジェと聖なる樹木が生える三分割聖所(神殿)と山頂聖所、複数の女神と尊貴な若い祭祀王(or 王子 or 青年)、高貴な舟などが刻まれている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・周辺遺跡 広域地図 Map Prehistoric Site around Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡&周辺 地図
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王家の墳墓 Temple Tomb, Knossos/©legend ej
クノッソス遺跡・王家の墳墓 Temple Tomb
ジプサデスの丘の東斜面(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1994年

GPS 王家の墳墓: 35°17′32.50″N 25°09′51.50″E/標高105m

ミノア文明・クノッソス地区・王家の墳墓・金製リング《Gold Ring of King Minos》Temple Tomb, Knossos Area/©legend ej
クノッソス地区・王家の墳墓 Temple Tomb 出土・金製リング
エヴァンズ=《Gold Ring of King Minos》と名称
新宮殿時代の初期~中期・紀元前1600年~前1450年頃
イラクリオン考古学博物館/重さ約30g
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

極めて微細で精緻加工が特徴の、この金製リングのモチーフは間違いなく、神出(かみいずる)の「エピファニー表現」であり、非常に高尚にして厳粛な宗教的な情景を印面に隙間なく刻んでいる。
女神の履く厚ぼったい感じのミノア風スカートからの判断では、この金製リングの製作はミノア文明が最も繁栄した「新宮殿時代」の前半、中期ミノア文明MMIII期・紀元前1600年~後期ミノア文明LMI期・紀元前1450年頃と断定できる。

※《ミノア王の金製リング》は、1928年、地元の10歳の少年が「王家の墳墓」の地表面で見つけた、とされている。その後、1930年、エヴァンズなどの発掘調査で地下に埋もれた王家の墳墓 Temple Tomb が確認された。

※金製リングの「発見」のエピソードと「エピファニー表現」の詳細;
関連Blog情報: ミノア文明・クノッソス宮殿周辺の先史遺跡 Prehistoric Sites around Knossos Palace

ギリシア本土ミケーネ文明の世界遺産ミケーネ宮殿遺跡~北西20km、アイドニア村 Aidonia の軟質岩盤の丘陵地帯で確認された共同墓地遺跡から、聖所と女神を刻んだ優美な金製リングが見つかっている。
発掘では過去の盗掘品も含め、後に《アイドニアの財宝 Aidonia Treasure》と呼ばれる合計6点の金製リングが見つかったが、そのうちの一つ、横穴墓・7号墓からもたらされた金製リングには、雄牛角U型オブジェを飾る聖所(or 神殿)へ向かって歩む二人の女神は、各々右手にパピルスとユリの花を持っている。女神の周辺にはパピルスとユリの花が咲き乱れ、神的な表現でありながら心癒される情景が刻まれている。

横20.3mmの楕円形(オーバル形状)、金製リングのわずかに凸状・フラット系印面の側面、いわゆるマウントの外周・サイドストーン部分とアーム(輪部分)の外周は、おそらく宝石かファイアンスなどを象嵌したであろう微細円形のフレーム部分で装飾されている。
かなり「豪華」であったと言える金製リングの製作は、ミケーネ文明=後期ヘラディック文明LHII期~LHIIIA期・紀元前1400年頃とされる。

ミケーネ文明・アイドニア遺跡・金製リング Mycenaean Gold Ring, Aidonia Treasure/©legend ej
ミケーネ文明・アイドニア遺跡出土・金製リング
《アイドニアの財宝》・マウント外周・アーム外周=宝石象嵌
印面=楕円形・雄牛角オブジェ・女神・パピルス・ユリの花
後期ヘラディック文明LHII期~LHIIIA期・紀元前1400年頃
ネメア考古学博物館・登録番号550/横20.3mm
ペロポネソス・コリンティア地方/描画:legend ej

ミケーネ文明・アイドニア遺跡・金製リング Mycenaean Gold Ring, Aidonia Treasure/©legend ej
ミケーネ文明・アイドニア遺跡出土・金製リング
側面視野=マウント外周&アーム(輪部分)象嵌フレーム
後期ヘラディック文明LHII期~LHIIIA期・紀元前1400年頃
ネメア考古学博物館・登録番号550
ペロポネソス・コリンティア地方/描画:legend ej

GPS アイドニア遺跡: 37°50′25″N 22°34′59″E/標高355m

エーゲ海先史 ミノア文明ミケーネ文明
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聖域の入口・石製ベンチの控え室

現在、聖域では見学のロープ規制が行われ、ツーリストの立入禁止区域となっているが、かつて私が初めてクノッソス宮殿遺跡を訪ねた1982年には立入規制はなく、三分割聖所の南側の正面入口から数段の下りステップで聖域の内部へ脚を踏み入れることができた。

先ず石膏石舗装された東西8m、南北6mほどの空間は石製ベンチの控え室と呼ばれる部屋で、北側の壁面には石膏石製ベンチが有り、この聖域で執り行なわれたであろう重要な儀式・祭祀の関係者の待機に使われた、とされている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・聖域・石製ベンチ Stone-bench, Sanctuary, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・石製ベンチの控え室
石製ベンチの背後=大型ピトスの部屋~神殿宝庫
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・聖域・石製ベンチ部屋 Waiting Room with Stone-bench, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・聖域区画
石製ベンチの控え室の周辺
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

三分割聖所を含め、この周辺は崩壊が激しく明確に判断できないが、聖域区画には少なくとも18~20室を数える部屋が連なり、この石製ベンチの控え室の正面入口はそれらのすべての部屋へ通じる構造であった。聖域の入口間の役目を果たしていた控え室の内部には、北~西~南側に配置されたそれぞれの聖なる部屋へのドアー口があった。

石製ベンチの控え室の南側は特に崩壊の激しい区画だが、控え室の南側に小部屋があり、さらに南側に正方形の小部屋が配置され、エヴァンズの発掘作業では、この小部屋~東隣の通路付近で、良く知られた二輪戦車や馬や鎧(よろい)やサフランの花などが刻まれた線文字B粘土板が発見されている。
線文字Aはミノア人の文字だが、聖域で発見された線文字B粘土板はギリシア本土ミケーネ文明の文字であり、「新宮殿時代」の末期、紀元前1450年~前1375年頃までおおよそ75年間、クレタ島へ侵攻したミケーネ人がクノッソス宮殿に居住・統治していた「証拠」でもある。

最も良く知られた線文字B粘土板・「二輪戦車」の表意訳では、「鎧をまとった湾岸労働者(人名)は、二頭立て二輪戦車を操縦する/Richard Vallane Janke(2016)」とされる。また、「サフラン」の線文字B粘土板では、単位(数量)が判読できる。

クレタ島・クノッソス宮殿遺跡・線文字B粘土板 Linear B from Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡出土・「二輪戦車」の線文字B粘土板
紀元前1450年以降・「占領ミケーネ人」の文字
イラクリオン考古学博物館・登録番号1609/長さ約100mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

クレタ島・クノッソス宮殿遺跡・線文字B粘土板 Linear B from Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡出土・「サフラン」の線文字B粘土板
左=「氏名」/中央=サフラン/右縦線=「6単位」
紀元前1450年以降・「占領ミケーネ人」の文字
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


線文字B粘土板の出土部屋の南側には、東西12m、南北8mクラスの大きなスペースがあり、破壊が激しいこの場所は聖域の南端部として何らかの聖なる機能を果たしていた、とエヴァンズは想定した。
また、幾らかの研究者は、東翼部の「王家のプライベート生活区画」にある両刃斧の間(王の居室)のように、この広い部屋は「三部屋続き」の構成であったか、あるいは祭壇が残されていたことから、一部は「中庭」として使われた可能性も否定できないとしている。ただ、近年のギリシア政府当局の復元では、床面舗装された「大広間」のようになっているが・・・

なお、一階のこの広いスペースは、エヴァンズの推定した宮殿配置のプラン図(二階)によれば、中央中庭と南大階段から上る西翼部・二階のプロピュライア(上の間)とに挟まれた南西ロッジア Southwest Loggia 付近の階下に相当する。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・西翼部二階・プラン図 West-Wing 2F Plan, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部二階・アウトラインプラン図
参考情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.II (1928年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)
作図:legend ej



神殿宝庫

石製ベンチの控え室の北側の位置、控え室の北西端の石製ベンチの左側から入ると石膏石舗装された二つの小さな部屋がある。
この場所こそが、クノッソス宮殿を、あるいは過激に言ってしまえば、ミノア文明を象徴するに値するファイアンス陶器(Faience 色彩装飾陶器)の《蛇の女神像》や「ライオン頭型リュトン杯」など、無数の宗教関連用品と宝飾品が眠っていたクノッソス宮殿の宝庫区画である。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・聖域・プラン図 Palace Sanctuary Plan, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・聖域
神殿宝庫~支柱礼拝室・アウトラインプラン図
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

神殿宝庫の構造

北側の奥の部屋が、研究者が使う考古学用語・神殿宝庫と呼ばれる宝飾品の保管庫であった。
かつて先史ミノア文明では「王=神」と崇められ、王の住む「宮殿」は「神の住む神殿 Temple」と同じ意味を成したことから、発掘者エヴァンズを初め考古学の研究者から、「宮殿の宝庫 Palace Repositories」は「神殿の宝庫 Temple Repositories 」と呼ばれている。

聖域・神殿宝庫には東西に少し離れて二か所、方形の深い大きな収納ピットがあり、その壁面は厚い石膏石の平板の四段積み、底部に石膏石の厚平板が敷かれた堅固な箱状に形容されている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・神殿宝庫 Temple Repositories, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・神殿宝庫
奥側=西側の収納ピット
中間=後世の収納ピット
手前=東側の収納ピット
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・発掘時の神殿宝庫/Sir Arthur John Evans(1921)
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・神殿宝庫
発掘後・地中収納ピット&出土した容器類
写真情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.I (1921年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・神殿宝庫・プラン図/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・聖域・神殿宝庫
地中収納ピット・アウトライン構造図
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

収納ピットの大きさの詳細は、中央中庭側の東ピットが東西幅190cm、南北幅143cm、深さ152cm、貯蔵庫側の西ピットでは東西幅176cm、南北幅137cm、深さ150cmである。
容積では、東ピットの方がわずかに大きく、発掘の結果として東ピットの方が西側より出土した宝飾品の点数も多く、内容も豪華であった。この事実から、エヴァンズを初め多くの研究者は、東ピットはその東隣の三分割聖所に深化の関わりがあった、と判断している。

かつて、聖域への立ち入りが自由であった1980年代の初め、私は(今では絶対に許されない行為だが)神殿宝庫の収納ピットの内部へ下りて、側面の計測などを行ったことがあるが、ピットはかなり大型で深い造りであった(後述コラム)。

また、二つの深い収納ピットとの間に、やや遅い時代に属する小型長方形の浅い収納ピットがあり、この中からも幾らかの宝飾品類が見つかっている。
なお、神殿宝庫を含め、クノッソス宮殿の重要な場所であるが故に、現在、西翼部一階・聖域区画の全体が見学ツーリストの立入禁止区域に指定されている。


神殿宝庫からの出土品《蛇の女神像》

ピットの石膏石壁面には同じ高さ位置に複数の小穴が施工され、おそらくは細棒が水平に差し込まれ、薄板がセットされ、その上に数々の宝飾品が置かれていたと推測できる。

この神殿宝庫からはファイアンス陶器《蛇の女神像 Snake Goddess》を初め、色塗装された貝殻と模造貝殻、トビウオやフルーツ類や花を模した複数のファイアンス陶器の装飾品、8点を数える儀式リュトン杯、陶器の祭祀用容器、「ほら貝」を形容した白大理石系の石灰岩製リュトン杯などが出土した。
そのほかの出土品では、細かなビーズ類、動物骨と象牙製の装飾品、金製の小品、150点の線文字B粘土板や木箱を封印した複数の粘土印影など、正におびただしい数のミノア文明の宝飾品が、神殿宝庫からもたらされた。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・神殿宝庫・蛇の女神像 Snake Goddess, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・ファイアンス陶器
《蛇の女神像》/イラクリオン考古学博物館
・左像=登録番号63・高さ342mm
・中像=登録番号65・高さ295mm
・右像=上半身欠損/周辺貝殻散在
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・「蛇の女神」 Minoan Snake Goddess, Knossos Palace/©legend ej
ミノアの人々が崇拝した《蛇の女神》
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・ファイアンス陶器
原画情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.I (1921年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)
クレタ島・中央北部/模写:legend ej

また、北東翼部で見つかった「王家のゲーム盤 Royal Game Board」と呼ばれる、大型長方形のゲーム盤に象嵌されている微小部材と同じ象牙・水晶・ファイアンス製小片も、この神殿宝庫から大量に出土した。
この神殿宝庫と出土品こそが、クノッソス宮殿遺跡とミノア文明を解明する意味で最も重要なスポットである、と言っても間違ってはいない。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「ロイヤル・ゲーム盤」 Minoan Royal Game Board, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・象嵌のゲーム盤
「王家のゲーム盤」/イラクリオン考古学博物館
盤サイズ=長辺965mm・短辺553mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


聖域・神殿宝庫から出土したファイアンス陶器《蛇の女神像》は、上半身の欠けた一体を含め、同じ製作様式の合計三体が、厳密に言えば、宝庫の東側の収納ピットの中から見つかった。一部の研究者は、出土したファイアンス像は「女神の母と娘」を表している、と判断している。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・《蛇の女神像》Minoan Snake Goddess, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡出土・ファイアンス陶器《蛇の女神像》
中期ミノア文明MMIIB期~MMIIIA期・紀元前1625年頃
NTS(Not to Scale)・イラクリオン考古学博物館
・左像(母女神?)=登録番号63・高さ342mm
・右像(娘女神?)=登録番号65・高さ295mm
クレタ島・中央北部/1994年

「娘女神」とされる両手を上方へ広げた高さ295mmの像、両手に蛇を持った細身の《蛇の女神》の豊かな胸は、コルセットのような引き締まった衣装から完全にはみ出している。この女神の頭上には、レパード(ヒョウ)か、メスライオンか、ネコ科の動物が佇んでいる。ミノア文明ではグリフィンと並んで、ネコ科のメスライオンも女神の守護の役目を果たしていた。
また、両手をやや広めに下げた高さ342mmの、「母女神」とされる大きい女神像は、両腕に蛇を巻きつけている。ミノアの時代から蛇は「神の使い」であり、特に女神との関わりが強調されて来た。

これらのファイアンス像は、その製作技術と表現のもつ意味からして、中期ミノア文明MMIIB期~MMIIIA期、「旧宮殿時代」が終わり大繁栄の「新宮殿時代」がスタートした時期、紀元前1625年頃の「ミノアの最高傑作の美術品 Minoan Masterpiece Art」と言える。



ミノア文明・女神と「蛇」との関わり

クノッソス宮殿遺跡~北方2.8km、カイラトス川左岸(川~西方500m付近)、周囲よりわずかに標高がある丘に造られたイソパタ遺跡 Isopata の「王家の墳墓 Royal Tomb」とされる遺構が確認された。
複雑な構造の王家の墳墓に隣接、「王家の墳墓グループ」と考えられる、非常に長い通路ドロモスを備えた横穴墓・1号墓から、女神と二匹の蛇が見守る中、四人のミノア女性達がダンスに興じる情景を描写した、素晴らしい金製リングが出土した。

この金製リングはミノア文明の宝飾品の金製リングや石製印章などを語る上で最優先でピックアップされるほど、ミノア工芸美術の最高傑作の宝飾品の一つとされ、その象徴的な意味を込めて研究者から「イソパタ・リング Isopata Ring」と固有名詞で呼ばれている。

ミノア文明・イソパタ遺跡・王家の墳墓出土・金製「イソパタ・リング」Minoan Gold Isopata-ring, near Knossos Palace/©legend ej
イソパタ遺跡・横穴墓・1号墓出土・金製リング
《イソパタ・リング》 印面=楕円形・横26mm
エピファニー表現=女神・蛇・踊る女性達・スミレ花
新宮殿時代・紀元前1550年~前1450年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号424
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

印面幅26mmのややオーバル形状、この金製リングにインタリオ(凹)で刻まれた情景は、研究者から「エピファニー表現 Epiphany scene」と呼ばれ、極めて祭祀的な意味を含み、それでいて日常的にもあり得る情景でもある。
遠近法で表現されていることから、金製リングの女神は中央左遠方に小さく刻まれ、足元に一匹の蛇が、さらに右遠方にもやや大きな蛇が刻まれ、場面は極めて神聖な雰囲気と判断できる。
ミノア風の厚ぼったいスカート姿の四人のミノアの女性達、左側の二人と中央の女性は髪飾りとロングヘアが揺れていることから「若い女性」、右側の女性の髪は結ってあることから三人より少し「年上女性」であろう。四人の周囲にはスミレの花が咲き乱れることから、時期は「春」の頃、場所は宮殿の南方のジプサデスの丘など「草原」である。

若い女性達がある年齢に達したことを祝う、何か喜びの踊りなのか、あるいは女神が見守る中で執り行う何かの儀式なのかは想像の域だが、中央の女性の左腰近くに「眼」のような刻みがある。これは、一部の研究者は「発芽」する新芽としているが、もしかしたら、三人の若い女性達が「子供を宿す時期」になったことを意味するのはないだろうか?

だとしたら、この「神出(かみいずる)エピファニー」の表現は、女性に関わる生理学的な成長と幸ある未来への期待を秘めた歓喜のシーンなのかもしれない。
この金製リングの所有者(被葬者)は、ほとんど間違いなく、ミノア文明の最も繁栄した平和で豊かな時代、クノッソス宮殿に住んだミノアの王妃、または可憐な王女高位貴族など尊貴な女性であったと推測でき、その製作は「花ほとばしる新宮殿時代」の最盛期、後期ミノア文明LMIA期~LMIB期、紀元前1550年~前1450年頃とされている。

王家の墳墓に隣接する位置、金製リングの出土したイソパタ遺跡・横穴墓・1号墓は、宮殿の南方ジプサデスの丘にある王家の墳墓 Temple Tomb と並び、クノッソス宮殿を統治した王族の埋葬に関係する「王家の墳墓グループ」であった、と私は確信する。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡&周辺 地図 Map of Prehistoric Sites around Knossos Palace/©legend ej
イラクリオン~クノッソス宮殿遺跡 先史文明遺跡 広域地図
クレタ島・中央北部/作図:legend ej


そのほか、女神と「蛇」との関わりではメッサラ平野のコウマサ遺跡の円形墳墓から出土した、蛇を肩に巻き付けたテラコッタ製のリュトン容器《コウマサの蛇の女神 Snake Goddess of Koumasa》がある。
テラコッタ製なので格式では「汎用リュトン容器」の範疇に入るだろう。この円形墳墓の埋葬は紀元前2500年期・初期ミノア文明EMII期に遡ることから、すでにクレタ島では女神と蛇との関わりの信仰が広く行われていたと判断できる。

コウマサ遺跡のリュトン杯《蛇の女神》は、装飾デザインがやや異なるが、女神が左腕で容器を抱える器形と機能面では、東部・南海岸のフォウルノウ・コルフィ遺跡 Fournou Korifi からのテラコッタ製のリュトン容器《ミルトスの女神 Goddess of Myrtos》に近似する。
フォウルノウ・コルフィ遺跡は初期ミノア文明EMIII期・紀元前2200年頃に崩壊しているので、年代的にはコウマサ遺跡の女神の方が二世紀以上古いと言える。

ミノア文明・コウマサ遺跡・リュトン杯《蛇の女神》Minoan Goddess with Snake, Koumasa/©legend ej
コウマサ遺跡・円形墳墓出土・《コウマサの蛇の女神》
初期ミノア文明EMII期・紀元前2400年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号4137・高さ28cm
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej


ミノア文明・フォウルノウ・コルフィ遺跡・《ミルトスの女神》Minoan Myrtos' Goddess/©legend ej
フォウルノウ・コルフィ遺跡出土・《ミルトスの女神》
初期ミノア文明EMIII期・紀元前2200年頃
アギオス・ニコラオス考古学博物館/高さ約21cm
クレタ島・東部南海岸/描画:legend ej


ファイアンス陶器
色彩装飾陶器」に分類できるミノア文明のファイアンス製品は、具象の製作センスのみならず、特殊な釉薬(うわぐすり)の開発や焼成温度1,000℃が必要とされるなど、単純な陶器類ではない。
現代で例えれば、フランス王朝御用達であったリモージュ色彩磁器、あるいはスペインの高級色彩人形・リヤドロマヨリカ焼きなどに相当する、非常に高度な陶器製作の技術に裏打ちされたミノア工芸美術の極致の作品であった。

蛇の信仰/ミケーネ文明
聖域・神殿宝庫から出土した《蛇の女神像》は両手に神の使いである「蛇」を持っている。蛇に対するミノア人の崇拝思想は、ギリシア本土ミケーネ文明でも共通した観があった。
ミケーネ宮殿遺跡・宮殿聖所から出土した《聖なる蛇像》にその典型を見ることができる。ただミケーネ宮殿の蛇像は女神との関わりではなく、出土した場所からしても、蛇像単体で何か神聖なる儀式や祈祷などに使われた、と考えるべきかもしれない。

ミケーネ文明・ミケーネ宮殿遺跡・聖所・聖なる蛇像 Mycenaean Snake, Mycenae Palace/©legend ej
ミケーネ宮殿遺跡・西翼部出土・陶器《聖なる蛇像》
ナフプリオン考古学博物館
ペロポネソス・アルゴス地方/1982年

ファイアンス陶器《蛇の女神像》は、ミノア文明を象徴するに相応しい「トレードマークの宝飾品」の一つと言える。
この女神像はクノッソス宮殿遺跡~北西350m付近に残る小宮殿 Small Palace の遺構から出土した、角部除く高さ206mm、「新宮殿時代」に遡る石製の雄牛頭型リュトン杯と並び、ギリシア関連の文明・歴史書や旅行のガイドブックなどの表紙を飾っている。

また、1903年、エヴァンズの発掘ミッションで神殿宝庫から《蛇の女神像》が発見されたことに注目した一部の研究者は、この聖域を「蛇の女神の聖域 Sanctuary of Snake Goddess」と呼称することもある。

ミノア文明・クノッソス小宮殿遺跡・雄牛頭型リュトン杯 Bull-head Rhyton, Knossos Little Palace/©legend ej
クノッソス地区・小宮殿遺跡出土・雄牛頭型リュトン杯
新宮殿時代・紀元前1500年~前1450年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号1368
クレタ島・中央北部/1982年

リュトン杯とは
「リュトン杯」はミノア文明やミケーネ文明の儀式・祭祀用、あるいは宮殿や高貴な人達の住居に置く装飾用の容器や彫刻された杯、現代で言えば、競技での勝利カップや記念盾に共通した装飾品である。
多くは陶器や石製、金や銀製、金と銀などの合金であるニエロ金属などで造られ、その形容とサイズは多種多様、文明を象徴する工芸美術の粋を行く美しい芸術作品であった。

ミノア文明・海洋性デザイン様式・リュトン杯 Minoan Marine Style Rhyton/©legend ej
ミノア文明・海洋性デザイン様式・陶器リュトン杯
頸部=小ハンドル・宮殿発祥の優美な涙滴型(卵型)
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
=パライカストロ遺跡出土・リュトン杯/高さ285mm
絵柄=ホラガイ・岩礁・海草・アオイガイ
イラクリオン考古学博物館・登録番号3396
=ザクロス宮殿遺跡出土・リュトン杯/高さ330mm
絵柄=ウニ・海草・ホラガイ
イラクリオン考古学博物館・登録番号2085
=プッシーラ遺跡出土・リュトン杯/高さ270mm
絵柄=海草&波間に泳ぐイルカの群れ
イラクリオン考古学博物館・登録番号4508
クレタ島・東部~最東部/描画:legend ej

リュトン杯に表現される絵柄や浮彫彫刻のモチーフは変化に富み、杯自体が宗教色の強い女神を初め、パワーの象徴の雄牛やライオンなど聖なる動物の形容の例も少なくない。
特に石材が豊富であったクレタ島ミノア文明の石製リュトン杯では、浮彫彫刻だけでなく、無装飾で石材自体の自然色の紋様を活かし形容を重要視するタイプ、精緻な刻み直線だけで装飾された杯も多い。

クノッソス小宮殿出土・石製の雄牛頭型リュトン杯
クノッソス宮殿遺跡・中央中庭~北西350m、小宮殿 Small Palace と呼ばれる遺構で見つかった雄牛頭型リュトン杯は、蛇紋岩、またはセラミック絶縁材ステアタイトに加工できる滑石(タルク)製である。
現物の光沢を観ると理解できるが、頭部の真ん中から左半分が出土したミノア時代の「本物」の部分で、ややピカピカと光沢している右半分は複製である。リュトン杯の製作時期は「新宮殿時代」の最盛期、紀元前1500年~前1450年とされる。
角部分は木製だったため腐食したのか、発掘では見つからなかった。雄牛の目の部分は水晶、まつ毛は宝石のジャスパー、鼻の部分は真珠貝が象嵌され、上部の小穴は儀式で「生贄の牛の血」を注ぐためと判断されている。

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神殿宝庫からの出土品・貝殻&ミロス様式陶器

120年前、神殿宝庫の発掘ではファイアンス像と共に多くの貝殻も出土している。かつて1980年代~90年代、イラクリオン考古学博物館の展示では、頭部の欠けた一体を含め合計三体の《蛇の女神像》の周りには、幾らかの貝殻が置かれていた。
崇める女神と神の使いである蛇、加えて永遠の生命が宿るとされる貝殻を融合させ、「陸と海」を結び付ける聖なる信仰が、既にミノア文明の、特に統治者達の間には継承されていたことを連想させる。

また、エヴァンズの発掘ミッションでは、当初、神殿宝庫の床面には祭祀などで使われたのか、キクラデス文化・ミロス様式 Milos/Melos Style(中心地:ミロス島フィラコピ居住地) のアンフォラ型容器や特徴的な注ぎ口の水差しなど、30器を数える容器類が並べてあり、その後の追加の発掘作業で床面下部の深い収納ピットの存在が明らかになったとされる。

キクラデス文化・クノッソス宮殿遺跡・ミロス様式陶器 Milos Style Jug, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・ミロス様式水差し
特徴的な尖り注ぎ口・鳥と円形紋様のデザイン
イラクリオン考古学博物館・登録番号2595
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

宝飾品の地中保管
現代的に単純に想像すると、たとえ先史文明の時代とは言え、宝飾品の地中保管はあまりの無謀な話に聞こえる。
しかし特に乾燥が激しい風土であるエーゲ海クレタ島の自然環境を考慮した時、考えもせずに部屋の棚上や壁面のニッチ(凹部)に乾燥でダメージを受け易い象牙や陶器、素焼き粘土のテラコッタ製の宝飾品を保管するより、年中湿度が安定した地中の方がより有効で安全である、とミノアの人々は発想したのであろう。
これは現代建築の住宅の床下や半地下室の有効的な活用と同様な考え方で、3,500年前のクノッソス宮殿の指導者や宝飾品の管理担当者の賢さが見えてくる。

宝飾品の地中保管に関しては、クレタ島最東端のザクロス宮殿遺跡の宝庫では、石膏表装の床面にセットされた焼レンガ枠の中に、水晶のリュトン杯など宝飾品が保管されていた事実からも、わずかだが地中の「湿度」の活用価値はミノア人の先見の共通認識であったと考えられる。

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・宝庫 Treasury, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・西翼部・宝庫
宝飾品が出土した焼レンガ枠
クレタ島・最東部/1982年

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・水晶リュトン杯 Minoan Cristal Rython, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・西翼部出土・水晶のリュトン杯
部分金箔の表装/高さ160mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号2721
クレタ島・最東部/描画:legend ej

ザクロス宮殿遺跡から出土した素地が暗色系のスパルタ玄武岩製のリュトン杯は、腹部の浮彫装飾もなく、細長い涙のしずくのようなシンプルな涙滴型、ミノア文明で製作されたリュトン杯の典型的な器形である。
しかし、石材の持つ何とも言えない複雑なランダムパターン、斜長石と輝岩の配色と斑晶構造こそが、このリュトン杯の「装飾」に相当する最大のビジュアル効果と言える。

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・石製リュトン杯 Minoan Stone Rython, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・西翼部出土・石製リュトン杯
スパルタ玄武岩製の装飾杯/高さ460mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号2712
クレタ島・最東部/描画:legend ej

さらにザクロス宮殿遺跡の宝庫からは、歴史上初めてピラミッド建設を行ったファラオ・ジェセル王を含む、古代エジプト・古王国・第三王朝時代(紀元前2686年~前2613年)に製作され、その後に輸入された斜長石の斑晶が美しい玄武岩製の容器が見つかっている。
容器は安定感のある単純な球形、後にザクロス宮殿の工房で容器の肩部に小穴が加工され、陶器のブリッジ型注ぎ口を肩部に取り付けた、と推測されている。

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・エジプト輸入の石製容器 Basalt Vase from Egypt, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・西翼部出土・エジプト輸入の石製容器
容器=斜長石の斑晶玄武岩/陶器製ブリッジ型注ぎ口付き
イラクリオン考古学博物館・登録番号2695/高さ165mm
クレタ島・最東部/描画:legend ej


過去の経験論の告白
現代では絶対に許されないが、「立入禁止」などのツーリスト規制もなく、警備も穏やかな1980年代の初め、私はミノア文明の宝飾品が収められていた聖域・神殿宝庫の深さ150cmほどの収納ピットへ降りて、持参のメジャー(巻尺)で石膏石の平板の原寸を測り、自分の身体と比較して「深さと大きさ」を実感したことがある。
規制と警備が厳しい今日なら、「マナー無き日本人ツーリストの遺跡荒し」として当局に拘束され、ギリシア公共放送テレビのトップニュースとなって放映された後、法的な処罰として在アテネ日本大使館の書記官の立ち合いの下、本国送還措置の身の上となったであろう。
希望的観測ではすでに時効となっていると思うが、1980年代の初めの事、ミノア文明へ過剰傾倒した情熱的な若者による真摯なる行為であったとして、ギリシア政府・文化省の関係者へ、心からの猛省と共に「どうか、お許しを! Σε παρακαλώ συγχώρεσέ με」をお伝えしたい。

出土品《牛の授乳像》&《ヤギの授乳像》・「ライオン頭型リュトン杯」

聖域・神殿宝庫の収納ピットからの宝飾品では、《蛇の女神像》と共に出土したほかの2個の見事なファイアンス陶器がある。一つは「親牛が子牛に授乳」する姿、もう一つは野生の「親ヤギが小ヤギに授乳」するシーンが表現されている。共に「新宮殿時代」の初め、中期ミノア文明MMIII期・紀元前1600年頃、非常に高度な技法で造られた美術品である。

これらのファイアンス像は、ミノア人が愛した動物の何処でも見られる穏やかなシーンを切り取り、そのまま自然な姿を美的に製作したミノア美術の粋を行く作品である。野生ヤギや牛など動物の授乳シーンでは、ミノア文明のファイアンス陶器のみならず、自然主義のミノア人のメンタル面を色濃く反映していることから、多くの石製や金製の印章にも刻まれている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・ファイアンス陶器「牛の授乳」 Faience-Cow-breastfeeding, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・ファイアンス陶器《牛の授乳》
中期ミノア文明MMIII期・紀元前1600年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号68/長さ190mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・ファイアンス陶器「ヤギの授乳」 Faience Goat-breastfeeding, Knossos Palace
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・ファイアンス陶器《野生ヤギの授乳》
中期ミノア文明MMIII期・紀元前1600年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号69/長さ190mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・印章の「牛の授乳シーン」
「牛の授乳シーン」はミノア文明の工芸モチーフで頻繁に登場して来る。
イラクリオンの東方、ニロウ・カーニ遺跡~東方2.5km、海岸グールネス地区 Gournes では、1915年、イラクリオン考古学博物館の創設に尽力した Joseph Hatzidakis が、初期EM期と後期ミノア文明LMIII期の複数の墳墓を発掘した。
紀元前1300年頃に属する後期ミノア文明の横穴墓・2号墓から、ほぼ円形のカーネリアン製の印章が出土した。横19.5mm・縦19mm、レンズ型の印面には、ミノア文明の代表的なモチーフである牛の授乳シーンが刻まれている。

ミノア文明・グールネス遺跡・カーネリアン製印章・牛の授乳 Minoan Seal, Gurnes,/©legend ej
グールネス遺跡・カーネリアン製の印章
印面=レンズ型・ほぼ円形・牛の授乳シーン
後期ミノア文明LMIII期・紀元前1300年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号1249
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

また、聖域の直ぐ北側に配置された西翼部・中央大階段の踊り場付近で見つかった粘土印影では、横17mm、ほぼ円形のレンズ型ステアタイト製?のビーズ形式の印章で押印されたと推測できる、牛の授乳シーンが残されている。
この印影は紀元前1375年頃、宮殿崩壊時に上階(二階~三階)から崩落したと断定できることから、ほとんど間違いなく、西翼部上階では宮殿の重要な物品を収納した木箱などの管理封印に粘土押印が行われていた、と連想できる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・中央大階段・牛の授乳の粘土印影 Minoan Clay Seal Impression, Breastfeeding, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・中央大階段「踊り場」出土・粘土印影
印章=軟質石材?円形・横17mm・牛の授乳シーン
後期ミノア文明LMIIIA1期・紀元前1375年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号221
参考情報:CMS, Heidelberg U. (DE)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


神殿宝庫からはやや黄色み大理石に近似する石灰岩製のライオン頭型リュトン杯 Lion-head Rhyton も出土している。
美しい表面光沢のこの石製リュトン杯は、クレタ島最東部のザクロス宮殿遺跡で見つかったファイアンス製の雄牛頭型リュトン杯 Bull-head Rhyton に感じが似ている。ただし、ザクロス宮殿遺跡のリュトン杯はやや小ぶりである。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・ライオン頭型リュトン杯 Lion-head Rhyton, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・ライオン頭型リュトン杯
新宮殿時代・後期ミノア文明LMI期・紀元前1500年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号44/長さ295mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・雄牛頭リュトン杯 Bull-head Rython, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・西翼部出土・雄牛頭型リュトン杯
新宮殿時代・後期ミノア文明LMI期・紀元前1500年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号479/高さ約100mm
クレタ島・最東部/描画:legend ej



神殿宝庫からの出土品・石製リュトン杯

そのほか、神殿宝庫からの出土品では合計8個を数える石製リュトン杯があった。その内の一つ、大理石系の石灰岩を加工した、大きなほら貝を形容した儀式用リュトン杯がある。聖なるワインなど何か液体を注ぐ儀式・祭祀で使われたのか、現物は本物のホラガイのようにベージュ系乳白色の美しい色彩を放す。

クレタ島最東部のザクロス宮殿遺跡の宝庫から出土したファイアンス製のオオムガイ型リュトン杯と同様に、海洋民族ミノア人らしい海の生物との共存を示す美しい装飾品でもある。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・ホラガイ型リュトン杯 Minoan Triton Shell Rhyton, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・儀式用リュトン杯
乳白色系の石灰岩製《ホラガイ》の形容
新宮殿時代・後期ミノア文明LMI期・紀元前1500年頃
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・オオムガイ・リュトン杯 Minoan Stone Nautilus Rython, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・西翼部出土・ファイアンス陶器リュトン杯
《オオムガイ》の形容/横幅約220mm
新宮殿時代・後期ミノア文明LMI期・紀元前1500年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号311
クレタ島・最東部/描画:legend ej

なお、石製のほら貝を形容した祭祀用リュトン杯では、正確な出土ピンポイントは不明だが、フランス考古学チームは北海岸のマーリア宮殿遺跡・西翼部の宝庫、または聖所付近から蛇紋岩製のホラガイ型リュトン杯を見つけている。
リュトン杯は色彩が濃緑青色の暗色系で一見目立たないが、表面には浅い刻みの二重の帯状線が螺旋を描き、帯スペースには同じく二重の半円形がほぼ定間隔で刻まれている。
最も広いスペースがある貝の最大膨らみ部には、台座に乗った二頭のライオン頭の「精霊」が向かい合い、右精霊がミノア容器から神酒を注ぎ、それを左精霊が手の平で受けて飲む、いわゆる「盃を交わす」シーンが表現されている。ややコミカルな描写だが、これは極めて神聖なシーンである。

研究者は、ほら貝を形取ったリュトン杯は東地中海域の伝統的な石製品であるが、ライオン頭の精霊や神酒を交わす行為などはエジプトの精神文化であり、リュトン杯が製作された「新宮殿時代」の前半、中期ミノア文明MMIII期~後期ミノア文明LMI期・紀元前1600年~前1500年頃、クレタ島ミノア文明とエジプト文明がかなり深化した関係にあった、と判断している。

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡・石製リュトン杯 Minoan Stone Rhyton Vase with Lion-head Demons, Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡出土・ホラガイ形容の石製のリュトン杯
黄色線枠内=二頭のライオン頭の精霊が「盃を交わす」
新宮殿時代の前半・紀元前1600年~前1500年/長さ27cm
アギオス・ニコラオス考古学博物館・登録番号AE11246
クレタ島・中央北部/1996年/描画(現物 無着色):legend ej


本物のライオンは、アフリカのサバンナ草原の「ゲームサファリ」で遭遇できる。

南アフリカ・クルーガー国立公園・雄ライオン Lion, Kruger National Park, South Africa/©legend ej
クルーガー国立公園・サビ川流域・ライオン
草原に横たわるアフリカ・ライオンの雄
南アフリカ・北東部/2017年


ライオン頭型リュトン杯やホラガイ型リュトン杯と同時に、神殿宝庫から出土したほかの石製リュトン杯も負けず劣らず、宮殿の宝物として相応しい見事な作品であり、いずれもミノア文明の石製工芸の技術の高さを証明している。
槍先を逆さにした感じ、涙のしずくが滴るような涙滴型の形容は、ミノア宮殿で数多く飾られた石製リュトン杯のスタンダートなフォルムの一つ、その典型的な淡いベージュ色がかったブルーグレー系石灰岩製のリュトン杯は、腹部に15を数える精巧な縦溝が付けられ、肩部付近で各々三枚の葉が重なるような表現となっている。
一見では装飾加工もややシンプルで地味な感じの作品だが、この石製リュトン杯が宮殿の宝庫区画から出土した事実からは、クノッソス宮殿で執り行われた格式の高い儀式などで使われたことを連想させる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・石製リュトン杯Minoan Stone Rython, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・石灰岩製のリュトン杯
新宮殿時代・後期ミノア文明LMI期・紀元前1500年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号42/高さ382mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

参考情報だが、神殿宝庫から出土したこの石製リュトン杯は、エヴァンズの依頼でクノッソス宮殿遺跡の主にフレスコ画などの「復元・複製」を担当した、オランダ系イギリス人の考古学・建築美術家 Piet Christiaan de Jong が描いた、東翼部・王の居室(両刃斧の間)の想像画の「右下」に描かれている。描画はイラクリオン考古学博物館で見ることができる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・両刃斧の間 想像画/by Piet de Jong
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・両刃斧の間 想像画
石製リュトン杯=印(淡青色強調)
描画情報:イラクリオン考古学博物館
描画の作者: Piet Christiaan de Jong

その他の石製リュトン杯では、美しい縞紋様を活かした淡いベージュ系大理石製のボウル型リュトン杯も出土している。ハンドル部の破損があるが、注ぎ口付き、全体は深さのある安定感を持つ容器、儀式・祭祀でワインなどの液体を入れたと思われる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・大理石容器 Minoan Marble Stone Vase, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・石製のリュトン杯
穏やかな色調・大理石の美しい縞紋様
イラクリオン考古学博物館・登録番号52
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

なお、ミノア宮殿の石製リュトン杯に関しては、1960年代、未盗掘で発見された最東端のザクロス宮殿遺跡からの出土品を超える作品は、文明センターであったクノッソス宮殿遺跡からも出土していない。
ザクロス宮殿遺跡からの石製品は、先史の時代、東地中海域で「最も美しい石製品」とも言えるほど、ミノア文明の特に石工職人の伝統的な技量レベルの高さを証明している。

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・山頂聖所リュトン杯 Peak Sanctuary Rhyton, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・西翼部出土・石製リュトン杯
緑泥石製・「山頂聖所リュトン杯」/腹部直径140mm
・荘厳な山頂聖所&雄牛角型オブジェに止まる鳥・飛ぶ鳥
・野生ヤギの群れ(聖所で休む・岩場を飛ぶ・岩場を登る)
イラクリオン考古学博物館・登録番号2764
クレタ島・最東部/描画:legend ej


神殿宝庫からの出土品・粘土印影

宮殿の、特に宗教関連の重要な宝飾品を保管していた神殿宝庫では、地中敷設の収納ピット以外、間違いなく木製の収納箱も利用されていたはずで、より重要な物品の保管では木箱の封印を行った証の粘土印影も複数出土している。
特に目立った印影モチーフでは、「女神&ライオン」、「雄牛跳び」と「ライオン&調教師」がある。

研究者から、その印影のモチーフをして「Mother Goddess」と呼ばれる粘土印影は、神殿宝庫周辺から少なくとも8点が見つかっている。印影は火炎で焼かれた粘土であり、ボロボロ状態でそれぞれ欠損があるが、印影が押されたオリジナル印章は横29mm・縦19mmの楕円形(オーバル形状)であった。
印面の中央の丘には二頭のライオンの守護を受けた厚ぼったいスカート姿の女神が立ち、権威の象徴である王笏(装飾杖 おうしゃく)を掲げている。左側には複数の雄牛角型オブジェで飾られた神殿 or 聖所があり、一方、右側には(欠損があり不明瞭だが)ロングヘアのミノアの青年が女神へ敬意を表している。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・神殿宝庫・粘土印影 Minoan Seal Impression, "Mother Goddess", Temple Repositories, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・粘土印影《Mother Goddess》
印影=雄牛角の神殿~権威の女神&ライオン~敬意の青年
印章=後期ミノア文明LMII期・紀元前1400年頃/横29mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号141・166・168など
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

同じ印章で押された粘土印影がほぼ同じスポットから複数出土した意味は、宮殿の宝庫である神殿宝庫内で宝物品を収納した木箱などの保管&管理を行う一人の責任者が、複数の木箱の封印を一つの印章で行っていたことを連想できる。
クノッソス宮殿の、特に宗教・神事関連の最も重要な宝物品の管理責任者として相応しいのは相当にハイレベルな人物、日本の皇位継承の「三種の神器」が安置されている吹上御所・宮中三殿の賢所(形代かたしろ鏡)と剣霊の間(実物まが玉・形代剣)を初め、伊勢神宮の内宮(実物鏡)、さらに熱田神宮(実物剣)などと同じ、宮殿の非常に高位の神官であったであろう。

クノッソス宮殿では、東貯蔵庫(東宝庫)や象牙製《雄牛跳びをする人》などが出土した王の居室コンプレックスに隣接する東翼部・業務用階段・「デーモン印章の区画」などからの粘土印影の出土例をみるように、重要な宝物品の管理・保管では木箱収納&粘土封印が行われていた。

神殿宝庫から粘土印影では、クノッソス宮殿が大火災により最終崩壊する紀元前1375年頃の早春の時期、その大火災の当日を含めた1週間前~1か月前とか、種蒔きで豊作を祈願する「春の大祭」など、何かの儀式・祭祀で「最後に使われた宝物品」が、管理責任者であった一人の高位神官により木箱に収納され粘土封印された、と断定して良いだろう。その粘土封印が大火災の激しい火炎で焼かれ、陶器のように硬化して残された。

象牙製《雄牛跳びをする人》など宝物品の出土した東翼部・「デーモン印章の区画」の詳細:
関連Blog情報: ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IX 雄牛跳び

一方、印章の「雄牛跳び」では、印面が狭い条件から、メッサラ平野のアギア・トリアダ遺跡やイラクリオン西方のスクラヴォカンボス遺跡などからの共通・同一印影など、多くの例では雄牛跳びは「一人」の人物が行っている。珍しい例だが、神殿宝庫からの印影では「二人」の男性が暴れる雄牛を相手に挑戦している。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・粘土印影「雄牛跳び」 Minoan Bull-leaping Seal Impression, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・粘土印影
印影=男性二人による雄牛跳び・横15mm
印章=後期ミノア文明LMI期・紀元前1500年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号396
参考情報:CMS, Heidelberg U. (DE)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・スクラヴォカンボス遺跡&アギア・トリアダ遺跡・「雄牛跳び」の印影 Minoan Bull-leaping, Clay Seal Impression, Sklavokambos and Agia Triada/©legend ej
複数のミノア文明遺跡出土・《雄牛跳び》の共通粘土印影
印影=雄牛の後方に雄牛跳びのミノア青年
・中央北部・スクラヴォカンボス遺跡
・メッサラ平野・アギア・トリアダ遺跡
・東部・大規模町遺構のグルーニア遺跡
・最東部・エーゲ海岸ザクロス宮殿遺跡
印章=後期ミノア文明LMIB期・紀元前1450年頃
イラクリオン考古学博物館/横約31mm
参考情報:CMS, Heidelberg U. (DE)
描画:legend ej

ミノア文明・スクラヴォカンボス遺跡&アギア・トリアダ遺跡・「雄牛跳び」の印影 Minoan Bull-leaping, Clay Seal Impression, Sklavokambos and Agia Triada/©legend ej
複数のミノア文明遺跡出土・《雄牛跳び》の共通粘土印影
印影=雄牛の後頭部付近に雄牛跳びのミノア青年
・中央北部・スクラヴォカンボス遺跡
・メッサラ平野・アギア・トリアダ遺跡
・東部・大規模町遺構のグルーニア遺跡
印章=後期ミノア文明LMIB期・紀元前1450年頃
イラクリオン考古学博物館/横約31mm
参考情報:CMS, Heidelberg U. (DE)
描画:legend ej


また、クノッソス宮殿・南の邸宅遺構からの金製リング・タイプなど、多くの遺跡からの印章&印影の出土例があるが、神殿宝庫からの縦21mmの「ライオン&調教師」の粘土印影では、従順そうなライオンの脇に立つ調教師は、羽根飾りの付いた三角帽子かヘルメットを被り、長い棒を持っている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・粘土印影「ライオン&調教師」 Minoan Lion and Tamer Clay Seal Impression, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・粘土印影
印影=飼い慣らされたライオンと威厳の調教師
印章=後期ミノア文明LMI期・紀元前1500年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号383/縦約21mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・南の邸宅・石製印章 Minoan Lapis-lazuli Seal,  Lion with Tamer, South House, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・南の邸宅出土・金製リングタイプの印章
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
・円形印面外周=「黄金の造粒技術」・金の微細粒
・素材=円盤型ラピスラズリ・横18mm~19mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号839
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


大型ピトス容器の部屋

聖域・石製ベンチの控え室と神殿宝庫に挟まれた部屋は、大型ピトス容器の部屋 Tall-Pithos Room と呼ばれている。120年前のエヴァンズの発掘ミッションでは、大型ピトス容器一器と中型ピトス容器四器が出土、この部屋も神殿宝庫と同じ宮殿の宝庫区画であった。

私が初めてクノッソス宮殿遺跡を訪ねた1982年には、出土した大型ピトス容器一器がそのまま置かれていた。隣の神殿宝庫の真ん中の小ピットと同じように、この部屋の床面にも長方形の浅い収納ピットがあり、幾らかの宝飾品類が出土している。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・大型ピトス容器の部屋 Tall-Pithos Room, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・大型ピトス容器の部屋
ピトス容器=後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1400年
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・大型ピトス容器の部屋 Tall-Pithos Room, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・大型ピトス容器の部屋
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1994年

残されていた大型ピトス容器は、宮殿・西翼部の貯蔵庫群の長い通廊や東翼部・東貯蔵庫に残されている容器と同じ様式である。
これらのピトス容器は最も繁栄した「新宮殿時代」の後半期、後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1400年に属するミノア文明の典型的な大型陶器、その顕著な特徴として胴部外周にメダリオン紋様 Madallion Pattern と呼ばれる円形の幾何学デザインが施されていた。
円形のパターン装飾・メダリオン紋様では、聖域の宝庫であった大型ピトスの部屋や宮殿の直轄管理の貯蔵庫群など、宮殿内部の重要なスポットだけに残されていることから、この紋様は庶民が使う普通のピトス容器では見ることのない、”宮殿専用”の特別な装飾であったと考えられる。

聖域区画への立ち入りが許されていた1982年、フィルム撮影の一眼レフ・「f=28mm広角レンズ」で撮影したピトス容器は、一見では中型タイプに見えるが、実測高さ=165cm、大人の肩ほどの高さの大型容器であった。

メダリオン紋様
本来はペルシア絨毯の絵柄紋様を意味する。絨毯の中心に大型の円形紋様を描き、その周囲には「万華鏡の対称画像」のように放散する小さな円形・菱側・星型・複雑な幾何学紋様などを配置させ、永遠に続く世界観を絵柄とした。

現在、ツーリストの立入禁止区域に指定されているが、「立入自由」であった1980年代~90年代の初めでは、120年前のエヴァンズの発掘直後の状態のまま、複数の大型ピトス容器が聖域区画の西側、西翼部・貯蔵庫群の長い通廊に残されていた。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫群の通廊 Corridor of West-Magazines/Stores, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・貯蔵庫群の長い通廊
貯蔵庫・第11号室入口~南方(第1号室方面)を見る
複数の大型ピトス容器が残る (現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

私が1982年に撮影した写真とほぼ同じ視野、エヴァンズの発掘直後の貯蔵庫群の長い通廊のモノクローム写真では、複数の大型ピトス容器があり、ジプサデス丘のさらに遠方にはアルカネス近郊、標高811mの聖なるユクタス山 Mt. Juktas が見える。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫群の通廊/Evans-Heidelberg U.
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・貯蔵庫群の長い通廊
第13号室入口~南方(第1号室方面)の視野(発掘直後)
遠方=ジプサデスの丘~聖なるユクタス山
写真情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.I (1921年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)



ミノア文明の巨大ピトス容器と装飾用ピトス容器

ミノア文明の大型陶器では、東&東北翼部の貯蔵庫群や倉庫などで展示公開されている幾らかのピトス容器がおおむね高さ=120cm~160cmほど、実用の超大型サイズでは高さ2m以上の巨大ピトス容器も製作された。
丁寧に成形された後、高温で確実な焼入れが行われた大型のピトス系容器は、ミノア人の陶器製作の高い技術レベルを証明している貴重な遺産と言える。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・巨大ピトス容器 Giant Pithos, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・北東翼部・巨大ピトス容器の倉庫
高さ2mを超す大型サイズの容器
クレタ島・中央北部/1994年


ピトス容器は通常、オリーブ油やエジプト豆など乾燥穀物を大量に収蔵するための大型容器であるが、宮殿の上質な広間や邸宅には美しいデザインの装飾用の大型ピトス容器が置かれていた。
例えば、「新宮殿時代」の後半、クノッソス宮殿の最終ステージの直前、東翼部・陶器工房では宮殿・西翼部二階に存在した聖なる北西儀式広間 Northwest Sanctuary Hall に置かれていたと推測できる、宮殿様式の大型ピトス容器なども製作していた。
”クノッソス宮殿の限定陶器”であった宮殿様式陶器は、先史時代の東地中海域で「最も美しい陶器」と言われ、クノッソス陶工職人の他に例を見ない圧倒的な美意識を秘めた作品である。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・宮殿様式ピトス容器・両刃斧&ロゼッタ Minoan Palace Style Pithos, Double Ax, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・宮殿様式ピトス容器
北西儀式広間・両刃斧&ロゼッタ&植物性デザイン
新宮殿時代の後半・紀元前1450年~前1400年
イラクリオン考古学博物館・登録番号7757/高さ1345mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


ミノア文明の大型ピトス容器
クレタ島ミノア文明は陶器生産では、東地中海域で右肩並ぶ者が居ないほど、その生産量と技術では抜きん出ていた。クノッソス宮殿を初め諸宮殿と市街の陶器工房では多くの大型容器が生産された。
さらにメッサラ平野のフェストス宮殿遺跡~東方11km、古代ゴルティス遺跡~南西2km、ミノア文明のミトロポリス邸宅 Mitropolis では中型~大型のピトス容器の専用生産が盛んに行われていた。訪ねた1994年、発掘された邸宅遺構と出土したピトス容器が、保護屋根カバーの下にそのままの状態で置かれていた。

ミノア文明・ミトロポリス遺跡 Minoan House of Mitoropolis/©legend ej
ミトロポリス遺跡・邸宅遺構
発掘で出土したピトス容器
クレタ島・メッサラ平野/1994年


GPS ミトロポリス遺跡: 35°02’55.50"N 24°56’00"E/標高135m


支柱礼拝室

窓のない支柱礼拝室の構造

クノッソス宮殿の支柱礼拝室 Pillar Crypt は、復元された中央大階段の南側、中央中庭の西側・西翼部の非常に重要な聖域の内部、詳細に言えば、無数の宝飾品が見つかった神殿宝庫と大型ピトス容器の部屋などの南西側の奥部に位置している。
支柱礼拝室は聖域の中心である石製ベンチの控え室~西方の貯蔵庫群の長い通廊へ連絡できる、「狭い通路」のような形容の「東西・二部屋の連なり」で構成されている。

同じ用途であったのか、東&西に接続して配置された双方の支柱礼拝室には、外部からの明り取り用の窓がなく内部は非常に暗く、ミノア時代、あくまでもランプの灯りだけが頼りの「特異な場所」であった。

マーリア遺跡・陶器製ランプ例/©legend ej
マーリア広域遺跡出土・陶器製ランプ使用例
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

二つの支柱礼拝室の角柱と壁面は、紀元前1375年頃、クノッソス宮殿の最終崩壊の時、広がった火災で真っ黒に激しく焼けただれている。その異様な雰囲気に中を覗くのを躊躇してしまいそうなこの部屋では、ミノア時代、極めて重要な聖なる儀式・祭祀が執り行われていた、と研究者は考えている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・支柱礼拝室 Pillar Crypt, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・東支柱礼拝室
角柱側面=聖なる両刃斧の刻み
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

東支柱礼拝室では、エヴァンズの発掘時には角柱は下から第四段目しか残っておらず、第五段目以上と天井部分は、後のコンクリートの復元である。
また一眼レフカメラ・「f=28mm広角レンズ」で撮影した写真では、一見、支柱は細い角柱を連想するが、実際には第四段目が人の背高と同じ位、かなり太い角柱である。階下の太い支柱の存在は、大広間などの上階区画が存在したことを連想させる構造である。
エヴァンズの想定では、支柱礼拝室の上階(二階)には、東西11m、南北12m広さ、合計6本の円柱&角柱の中央大広間 Central Great Hall が存在したとされる。


「両刃斧」の記号が刻まれた支柱側面

東支柱礼拝室で言えば、石積み角柱の下から第二段・三段・四段目、角柱の四側面には各々若干斜めに刻まれたミノア時代の聖なる両刃斧/ラブリュス lábrys/Double Ax の記号、丁度日本の竹トンボか、チョウ(蝶)のような感じの刻みがわずかに確認できる。
東西二つの支柱礼拝室の各々の角柱側面の両刃斧の記号を数えると、合計20か所に刻みが残されている。ミノア文明では両刃斧の記号は非常に重要な意味を成していた。

「両刃斧/ラブリュス lábrys」の記号
ミノア文明では政治と宗教は強く結び付き、多神教の思想からして、例えば聖なる動物とされた力のある雄牛やその角を初め、蛇やメスライオン、仮想上の動物《グリフィン》など複数の崇拝対象があった。
ミノア時代の人々にとり、あらゆる宗教的な崇拝シンボルの中で、殊更に両刃斧の記号が「最も神聖」とされた。部屋の壁面や支柱側面にやや斜めに刻まれ、その配置も決して規則正しいと言えないが、両刃斧の記号は極めて重要な神聖な標識であり、神と王からの最も高次な宗教的な警告でもあった。

通常、両刃斧の記号が表示された場所は、特別な身分の人、例えば王や王族、あるいは祭司・神官など、限定された人だけが近づくことを許された非常に特殊な場所、「聖なる場所」を意味していた。
また、石製の「型」を使ってある程度の数が量産された金製の小型両刃斧は、宮殿の宝飾品として大切にされ、時には信仰の山頂聖所や洞窟聖所へ奉納された。
あるいは超大型の青銅製の装飾用の両刃斧は、長さ2mを超す長い支持棒に取り付けられ、穴加工の石製角錐台(保持台)に差し込まれ、宮殿の統治者の居室を初め、地方の邸宅の宝庫や貯蔵庫など、大切な資産や宝飾品を保管する部屋や施設内に立てていた。

ミノア文明・両刃斧/©legend ej
ミノア文明・崇拝シンボルの「両刃斧」
左=黄金の両刃斧の宝飾品/イラクリオン考古学博物館
中=両刃斧の刻み記号  右=青銅製両刃斧&石製角錐台
描画:legend ej

クレタ島ミノア文明のみならず、両刃斧の崇拝思想はギリシア本土ペロポネソス半島にまで及び、メッセニア地方のミィロン・ペリステリア遺跡 Myron-Peristeria のトロス式墳墓でも両刃斧の刻みを確認できる。

ミケーネ文明・ミイロン・ペリステリア遺跡 Mycenaean Tholos Tomb, Myron-Peristeria/©legend ej
ミィロン・ペリステリア遺跡・トロス式墳墓・1号墓
半地下式・トロス天井=復元
ペロポネソス・メッセニア地方/1987年


東支柱礼拝室の浅いピット

東支柱礼拝室では角柱を挟んで床面に二か所、長方形の浅いピットがある。私が最初にクノッソス宮殿遺跡を訪ねた1982年では、ピットは火災の灰に各々半分ほど埋まっていた。
発掘者エヴァンズは、東支柱礼拝室のピットに関して、宝飾品が収蔵されていた神殿宝庫と大型ピトス容器の部屋の浅いピットとは異なる目的、発掘では灰に混じりわずかに小動物の骨が見つかっていることから、生贄(いけにえ)を含め、何かの儀式に使った物品を収納した穴と推測している。


西支柱礼拝室

西支柱礼拝室には、同様な両刃斧の記号が刻まれた太い角柱が部屋の中心に一本立っているが、床面に浅いピットは存在しない。
ただし、西支柱礼拝室の石膏石舗装の床面はミノア時代のまま、破壊が進んでいる東支柱礼拝室のそれより、保存状態は良好である。西支柱礼拝室の壁面は、ほかの区画と同様に火炎で焼け真っ黒である。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・支柱礼拝室 Pillar Room, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・東支柱礼拝室~西支柱礼拝室
角柱側面=聖なる両刃斧の刻み(赤色強調)
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

現在は不可能だが、かつて1980年代には西支柱礼拝室の南西角のドアー口から7mほど南方へ進むと、西方に配置された宮殿の「三点セット」の一つ・直轄の貯蔵庫群&長い通廊のセクション、西貯蔵庫・第4号室入口付近へアクセスできた。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫 火炎跡 Burn Trace West Storeroom, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・西貯蔵庫・第4号室
火炎跡の角柱・壁面/地中=収納ピット群
床面=ピトス容器&アンフォラ型容器
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫群の長い通廊 Long Corridor of West Storerooms, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・貯蔵庫群の長い通廊
貯蔵庫・第4号室入口~北方(第16号室方面)を見る
・床面中央=地中収納ピット(保護板カバー)
・貯蔵庫・第7号室入口=両刃斧の石製角錐台
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1994年



支柱礼拝室の祭祀関連の「準備室」&「石製容器の部屋」

現在 立入禁止区域だが、支柱礼拝室の北側には礼拝室に付属する単純な構造の、少なくとも五室、崩れた分岐壁があるので6室の可能性の小部屋が配置されている。窓がまったくないこれらの付属部屋の室内も激しい火災の跡が生々しく残り、壁面は真っ黒焦げである。

宝庫区画の西側、東支柱礼拝室の直ぐ北側の部屋から、底広タイプで床面にベタリと置く6基の大型の石製容器や儀式・祭祀的な用品が出土したことから、エヴァンズはこの部屋を「石製容器の部屋 Room of Stone Vats」と呼んだ。
多くの研究者は石製容器の部屋を含め、その西側に配置された複数の部屋は、支柱礼拝室で執り行われた何か特別な儀式のための「準備室」、またはそれらの用品の「保管室」であったと推測している。

エヴァンズの聖域区画での発掘では、石製容器の部屋のドアー口の内側の舗装床面を約1m掘り下げた、クノッソスの新石器時代の地層の調査が行われ、かつて「ピット状」に掘られた形跡が確認できた。この中期ミノア文明の堆積層から、まとまって無数の陶器や石製品が出土した。
主な出土品は「旧宮殿時代」がスタートする前、中期ミノア文明MMIA期・紀元前2000年~前1900年頃に遡る、薄い肉厚・「エッグシェル」の陶器片や比較的シンプルな器形の水差し、石膏石・アラバスター製品、黒曜石の素材、わずかだが金製とファイアンス製のビーズ、薄い大理石の断片などであった。

陶器の出土品では、腹部にチョウ(蝶)のモチーフ刻印がある比較的背丈のある両ハンドル・アンフォラ型の水入れ容器、同じくチョウの絵柄モチーフの水差し、そして光沢の素地に直線・ジグザグ線・点描が刻まれた円筒型の宝飾箱などが見つかった。
高さ150mm、無地の素地にチョウと帯線の絵柄の水差しは、器体の割に注ぎ口がやや大きいが、円ハンドル付きの結構しっかりとした造りである。腹部の紋様は両刃斧ではなく、「網目」の表現からしてもこの時代ではチョウ(蝶)の羽ばたきを形容したモチーフと考えられる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・中期ミノア文明・水差し Mid-Minoan Jag Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・水差し
聖域・「Room of Stone Vats」・旧宮殿時代前の堆積層
無地の素地・チョウ(蝶)・横帯線の絵柄モチーフ
中期ミノア文明MMIA期・紀元前2000年~前1900年
Ashmolean Museum, U. Oxford (UK)
登録番号AE1896-1908-AE1177/高さ150mm
※Sir Arthur John Evans 寄贈(1905年)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

一方、小さな突起状の脚部を持つ円筒型の宝飾箱は、非常に硬質焼成された作品、美しい表面光沢があり、二本線で水平三区分された側面外周には浅い切り込み線で描く三角形の連鎖、ふたの上面はジグザグ線の帯の中を点描で埋めるという、幾何学的な刻みモチーフ表現である。
器体に釉で絵柄を表現しないこの技法は、既に初期ミノア文明EMI期から特にクレタ島中央北部で流行して来た刻紋様式 Incised/Scored Style の継承なのかもしれない。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・中期ミノア文明・円筒型宝飾箱 Mid-Minoan Pyxis, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・陶器の円筒型宝飾箱
聖域・「Room of Stone Vats」・旧宮殿時代前の堆積層
無地の素地・刻紋様式・直線・ジグザグ線・点描
中期ミノア文明MMIA期・紀元前2000年~前1900年
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

聖域への立ち入りが許されていた1980年代の初め頃、すでにエヴァンズの発掘ミッションから80年以上が経過していたにも関わらず、3,400年前の焼けた灰のような乾いた土が、祭祀関連室群に結構な量でそのまま残され、窓もなく空気の流通が途絶えた奥まった部屋の特性からか、かすかに焦げ臭さが漂っていた。
真っ暗な部屋に立つ私はその臭いを嗅ぎ、正に3,400年の昔、最終崩壊の燃え盛る火炎の中、もがき苦しんだ「クノッソス大宮殿の悲鳴」が、地中深くから聞こえて来るような錯覚を覚えた。

聖域全体が見学ツーリストの立入禁止区域に指定されているため、「新宮殿時代」の最後、紀元前1375年頃、クノッソス宮殿の大崩壊の名残の真っ黒な灰以外に何もない単純仕様の真っ暗な部屋群だが、現在、見学のツーリストは誰も内部を覗くことはできない。


支柱礼拝室の南側の「狭い通路」

東&西の支柱礼拝室の南側には、石製ベンチの控え室から支柱礼拝室を通らずに、西方の貯蔵庫群の長い通廊へアクセスできる狭い通路が配置されていた。
120年前のエヴァンズの発掘作業では、この通路の西端付近とその西隣の貯蔵庫群の長い通廊(西貯蔵庫・第3号室の入口付近)から、いわゆる「穀物倉庫」の粘土板と呼ばれる、ミケーネ文明の文字・線文字B粘土板が大量に見つかっている。

「穀物倉庫」は三角屋根の家屋の形容の絵記号として粘土板に刻まれている。出土した粘土板の一点をイラスト描画したが、「穀物倉庫」の右側に縦線9本(1単位x9本=”9”)の「数量」の刻みが確認できる。線文字Bの数値では、「〇=100単位」・「横線=10単位」・「縦線=1単位」となる。

なお、粘土板KN416の表意訳は、「AGREUS(人名?)はフェストス宮殿の倉庫に篩った(ふるい分け)香辛料・9単位、エジプト豆・2単位を保有する/Richard Vallane Janke(2016)」とされる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・西翼部・線文字B粘土板「穀物倉庫」Linear B from Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・線文字B粘土板
ミケーネ文明の文字・「穀物倉庫」の粘土板
イラクリオン考古学博物館・登録番号KN416
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


ミノア文明・クノッソス宮殿 関連ポストは「12部構成」となっています。
1. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace I 概要
2. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace II 西中庭~南翼部
3. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace III 中央中庭・王座の間
4. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IV 聖域・宝庫(当ポスト)
5. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace V 貯蔵庫
6. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VI 女神パリジェンヌ
7. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VII 王の居室・聖所
8. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VIII 王妃の間
9. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IX 雄牛跳び
10. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace X 北~東翼部
11. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 周辺の先史遺跡
12. ミノア文明・クノッソス宮殿 崩壊の原因は?

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