2020/04/23

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VIII 王妃の間


ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 関連ポストは「12部構成」となっています。
1. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace I 概要
2. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace II 西中庭~南翼部
3. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace III 中央中庭・王座の間
4. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IV 聖域・宝庫
5. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace V 貯蔵庫
6. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VI 女神パリジェンヌ
7. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VII 王の居室・聖所
8. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VIII 王妃の間(当ポスト)
9. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IX 雄牛跳び
10. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace X 北~東翼部
11. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 周辺の先史遺跡
12. ミノア文明・クノッソス宮殿 崩壊の原因は?

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東翼部・王妃の間コンプレックス

位置 クレタ島・中央北部/イラクリオン Heraklion/Iraklion~南南東5km
GPS クノッソス宮殿遺跡・中央中庭: 35°17′53″N 25°09′47″E/標高95m

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡/Google Earth
クノッソス宮殿遺跡
クレタ島・中央北部
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入

中央中庭に面する宮殿・「西翼部」&「東翼部」

中期ミノア文明の末期~後期ミノア文明の半ば、最も繁栄した「新宮殿時代」のミノア宮殿では、中央中庭の周りに王家のプライベート生活区画は当然のこと、政治・行政・宗教・文化に関連する重要な建物区画が配置された。

すべての宮殿に共通するが、特に中央中庭 Central Court の西側となる西翼部 West Wing には、王国の政治・財務・宗教関連の区画が配置された。そして王家のプライベート生活区画はクノッソス宮殿とザクロス宮殿では東翼部 East Wing に、フェストス宮殿とマーリア宮殿では北翼部 North Wing に配置された。
また、幾分の異なりはあるが、ミノア宮殿では南翼部 South Wing と北翼部 North Wing に工房や貯蔵庫など宮殿関係者の実務面の区画が付属された。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・推測模型/©legend ej
クノッソス宮殿・推測模型(木製)
部屋数1,000室/東翼部~中央中庭~西翼部
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/1996年


東翼部の地表面レベル

中央中庭の東側は、東入口やカイラトス川 Kairatos の河畔へ向かって地盤がガクーンと一段と低くなることから、東翼部・王家のプライベート生活区画の一階床面レベルは、中央中庭レベルより二階分に相当する低い位置となる。
言い換えるならば、中央中庭の地表面は、王家のプライベート生活区画の北側の建物の三階にあった東大広間 East Great Hall の床面レベルにほぼ同等している。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・主要部セクション視野 Section View of Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・復元セクション視野・アウトライン
南方から「西中庭~西翼部~中央中庭~東翼部」を見る
東翼部・王家の生活区画=中央中庭レベル~二階分低い
クレタ島・中央北部/作図:legend ej


王妃の間コンプレックスの構成

クノッソス宮殿遺跡・東翼部・王家のプライベート生活区画の、ツーリストに人気の高い王妃の間 Queen's Room は、「くの字」の狭い通路と階段部分を挟んで両刃斧の間(王の居室)の南側に連結された配置である。王妃の間は中庭やバスルーム、化粧室と水洗トイレなどを付属、王妃の間コンプレックス Queen's Room Complex を形成している。

ただし、1980年~1990年代には「立入自由」となっていたが、現在、管理当局の「外観を見せて内部を見せない」の遺跡保護の方針から、王妃の間コンプレックスのすべての部屋の内部への立ち入りはできない。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「王家の生活区画」Plan of Minoan Royal Apartments, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部
「王家の生活区画」一階・アウトラインプラン図
・左上=列柱の間(or 柱廊の間)
・右上=王の居室コンプレックス
・左下=王妃の間コンプレックス
クレタ島・中央北部/作図:legend ej


愛らしいフレスコ画装飾の王妃の間

メッサラ平野のフェストス宮殿の王妃の間も決して広くはないが、クノッソス宮殿の石膏石で床面が舗装された王妃の間も、スペース的には少し狭い感じの部屋である。
しかし、東側には二本円柱のベランダ形式の部屋があり、さらに東と南側には天空に開口した採光用の小さな中庭が付属されていることから、王妃の間は常に部屋の奥までクレタの明るい光が入っていた、と想像できる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・1980年代の王妃の間 Queen's Room, 1980's, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・王妃の間
・中央ドアー口=両刃斧の間(王の居室)へ連絡
(※ドアー口付近=ピトス容器が置かれていない)
・右側ドアー口・金網=上階・王家の寝室へ連絡
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・王妃の間 Queen's Room, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・北翼部・王妃の間コンプレックス
「三部屋続き」の構成/西部屋=石製ベンチ
クレタ島・メッサラ平野/1982年


王妃の間の壁面と角柱は、ミノア文明の最大の特徴である海洋性デザインの愛らしいイルカ無数の魚の泳ぐ様、渦巻きや抽象的な紋様、あるいは《踊るミノア女性 Dancing Girl》などの美しいフレスコ画で装飾されていた。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王妃の間・《イルカのフレスコ画》 Dolphin Fresco, Queen's Room, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・王妃の間
無数の魚&《イルカのフレスコ画》
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/1994年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・複製「踊る女性」Minoan Dancing Woman, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・王妃の間
フレスコ画《踊るミノア女性》の複製描画
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画「踊るミノア女性」 Minoan Fresco of Dancing Woman, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・王妃の間
フレスコ画《踊るミノア女性》(部分)
イラクリオン考古学博物館/残存高さ370mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

イラクリオン考古学博物館で展示公開されているフレスコ画を観ると理解できるが、クノッソス宮殿遺跡からのフレスコ画の残留断片が非常に少ないことが分かる。
例えば、公開されている和風建築の「小壁」に相当する天井に近い壁面を飾っていた《イルカのフレスコ画 Dolphin Fresco》では、本物の破断片はわずかな量、残りのほとんどのスペースには複製のイルカ個体画が描き加えられ修復されている。
しかし、微細に残っていたフレスコ画の断片であろうとも、3,500年以上前の王妃の間の壁面には、間違いなく愛らしいイルカなどの美しい絵柄が描かれていた事実を、博物館のフレスコ画は私達へ語っている。

ミノア時代、何れのフレスコ画はグラデーション技法ではなく、古代エジプト壁画やチベット仏教の曼荼羅絵画に共通する、輪郭線を描き、幾らかの色を単色で塗り、それぞれ単色のもつ特徴を強調する繧繝彩色(うんげんさいしき)の技法で描かれている。
この時代、私は絵画の専門家ではないので正しい判断かどうか?だが、絵の具の原料はすべて自然界から採取した岩石や準宝石類などを粉末にした顔料を使っているため、原料の異種性から色の混合が難しく、近代絵画のようなグラデーション技法が生まれていなかった、と考えられる。


消石灰・漆喰&フレスコ画の技法
地中海の諸島や沿岸~内陸部まで何処にでも無尽蔵に存在する石灰岩を砕き、加塩で焼成した物質が白色の生石灰。生石灰を加水処理すると白色微粉末の消石灰となる。
水酸化カルシウムが主成分の消石灰を水で溶き、壁面や天井や床面に塗った状態を漆喰と呼ぶ。完全に水溶せず強いアルカリ性を呈する漆喰は調湿・消臭・防水・不燃性に富み殺菌作用もある。また、消石灰にやや多めの水を加えたのが石灰水である。

フレスコ画の語源はイタリア語、壁面や天井や床面を造成した後、基本的に白色漆喰で表面を施工、漆喰が乾燥しない間に石灰水と顔料で描画する技法をフレスコ画と呼ぶ。
顔料が遅乾性の漆喰の石灰層へ染み込み、ゆっくりと乾燥する時、石灰質が透明で強固なコーティング質を作り、最終的に描画の表面を保護する。

音楽を奏でるミノアの人々
ダンスをするミノア女性が居るなら、間違いなく「音楽」を奏でる楽師が居たはずである。事実、ミノア文明の多くのフレスコ画では7弦リラ(たて琴)や二管フルート、そしてエジプトからの影響を受けたマラカス&タンバリン風のシストルムを奏でる人達が描写されている。
特に大勢の人達が歩むシーンを描いたフレスコ画は、儀式的な「行列」では必ず楽器を演奏する楽師が一緒に歩む習慣があったことを連想させている。
メッサラ平野のアギア・トリアダ遺跡からの石棺のフレスコ画には、7弦リラを奏でる人が描かれ、また実際に使われていたと確信できる、水鳥の頭部を彫刻した石膏石製の7弦リラ(たて琴)の断片が、クレタ島内から出土している。
そのほか、アギア・トリアダ遺跡から出土した石製の「刈取人夫達のリュトン杯」では、一人の人夫がシストラムを振り、行進の歩行リズムを取っている。さらに最東部のパライカストロ遺跡 Palaikastro からは、リラ演奏に合わせてダンスを踊るミノア女性達の塑像が出土している。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画「音楽を奏でる人達」 Playing Music Fresco, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡出土・フレスコ画・「音楽を奏でる人達」
水鳥デザインの7弦リラ(たて琴)&二管フルートの演奏者
描画:legend ej

ミノア文明・クレタ島・7弦リラ Minoan Lire/©legend ej
ミノア文明・石膏石製・7弦リラ(たて琴)
イラクリオン考古学博物館・登録番号107&179
クレタ島/描画:legend ej

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・石製リュトン杯 Stone Rython, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡出土・石製の「刈取人夫達のリュトン杯」
楽器シストルムを振る人夫=歩行リズム
イラクリオン考古学博物館・登録番号184
クレタ島・メッサラ平野/1996年

ミノア文明・パライカストロ遺跡・《ダンスを踊るミノア女性達》Minoan Dancing Women with Lire/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・《ダンスを踊るミノア女性達》
中央女性=リラの演奏/周囲女性達=ダンスを踊る
後期ミノア文明LMIIIA2期・紀元前1350年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号3903
クレタ島・最東部/描画:legend ej

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ミノア時代 王妃の間はどんな雰囲気であったのか?

残念ながら鮮やかに描かれた王妃の間の壁面を飾るイルカや紋様などの絵柄は、ミノア時代の本物のフレスコ画ではない。実は発掘時に王妃の間コンプレックスで残っていたのは、床面から高さ0.5m~1.5mの支柱下部、床面とわずかな壁面だけであった。
要するに、クノッソス宮殿遺跡のほかの区画と同様に、王妃の間では人の背丈より上方にあるすべての建物構造、支柱や壁面~天井などは、エヴァンズとその後のギリシア当局によるコンクリートで復元されたものである。

故にイルカの個体数や向きと位置、壁面の高さやスペース、天井、小魚の群れなどは、120年前の発掘ミッションの後、発掘者エヴァンズとミッションの協力者であった、オランダ系イギリス人の考古学・建築美術家 Piet Christiaan de Jong(1887年~1967年)による復元・複製である。また、Jong は王妃の間の想像画をイラクリオン考古学博物館に残している。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王妃の間 想像図/by Piet de Jong
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・王妃の間 想像画
描画情報:イラクリオン考古学博物館
描画の作者: Piet Christiaan de Jong

また、王妃の間の天井を飾っていた渦巻き線紋様のフレスコ画では、ほとんど同じ絵柄パターンの浮き彫りフレスコ画が北翼部・神殿区画から見つかっている。
エヴァンズが1930年に発表した発掘レポートでは、渦巻き線紋様のフレスコ画の復元絵柄では、中心部に小さなロゼッタのある無数の浮き彫り(レリーフ)された白色の渦巻き線紋様が四方へ連鎖して広がり、その隙間には中サイズのロゼッタ紋様、さらに間隔約75cm毎に四花弁の縁取りの中に大きな浮き彫りロゼッタ紋様が配置された、精緻な立体フレスコ画であった。

描画は芸術感覚に疎い私の模写なので立体感は無いに等しいが、3,500年前の現物は今日のアートデザインにも堂々と使えるほどの要素と見事な構図、エヴァンズが言うギリシア語「キアノス色 Kyanos Blue 」、紫色系の青色を基調とする落ち着いた色調で表現されていた。
この非常に美しいフレスコ画は、間違いなく神殿の天井、あるいはクノッソス宮殿が大火災で最終崩壊する時、紀元前1375年頃、神殿の上階に存在した上質な広間の天井を装飾していたものが階下の神殿区画へ崩落したと断定できる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・レリーフフレスコ画・渦巻き&ロゼッタ紋様 Minoan Relief-Fresco of Spiral and Rosette, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・北翼部出土・浮彫フレスコ画
連鎖の白色渦巻き線・ロゼッタ・花弁の紋様
参考情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.III(1930年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)
クレタ島・中央北部/描画&色彩:legend ej


王妃の間コンプレックス/ベランダ形式部屋&中庭

かつて1980年代、クノッソス宮殿遺跡のほとんどの区画がツーリストの「立入自由」となっていた。当然のこと、王妃の間への立ち入りも許されていた。
王妃の間の北側にニつ在るドアー口の、上階へ上がる階段があった右ドアー口は金網で閉鎖されていたが、左側ドアー口から照明もない真っ暗な「くの字」の狭い通路を抜け、王の居室コンプレックスの最も西側・両刃斧の間(王の居室)へ移動することができた。

王妃の間の東側にはベランダ形式の部屋があり、二本円柱を隔ててその東側の小さな中庭へ出ることができる。
残念なことに現在では、王妃の間コンプレックスもツーリストの立入禁止区域に指定されてしまい、王妃の間の南側の窓外に設置された見学コースから、複製の《イルカのフレスコ画》で装飾された部屋を外から覗き見ることは可能だが、王妃の間の内部への立ち入りは許さていない。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王妃の間(中庭)Queen's room court, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・王妃の間コンプレックス
王妃の間~ベランダ形式部屋~中庭を見る
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

エヴァンズの想定では、王妃の間の東側に立つ角柱間には両刃斧(支持棒)を立てる小型スタンド・三基が置かれていた可能性がある、とされている。

まどろみのクレタ島の真夏の午後
かつてツーリストの「立入自由」の時代、乾燥した真夏のまどろみの午後、Jong の描画で二人のミノア女性(王妃と女官か?)が座っている、王妃の間の角柱の立つ高さの低い仕切り壁に座って、私を含め居眠りをする幾らかのツーリストが居た。
毎日が快晴、乾燥して湿度がまったくないクレタ島の夏季、外部は直射の陽光でヒリヒリと暑いが、建物の内部や木陰では日本の秋の季節のような清々しい時間を過ごせた。それは乾燥で汗をかかない、居眠りが同居する「幸福な時間」でもあった。

ミノア文明の海洋性デザイン/ミケーネ文明の工芸作品
海洋民族であったミノア文明の人々は、特にイルカやタコ、巻貝や海藻など海の生物をモチーフにして陶器絵柄やフレスコ画を描いた。その後、この海洋性デザインはギリシア本土ミケーネ文明へも大きな影響を与え、特に陶器や金属容器の装飾を初め装飾短剣の象嵌にも採用された。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・海洋性デザイン・タコの絵柄水入れ Minoan Marine Style Octopus Jar, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡・「Block B」出土・鐙型注ぎ口付き水入れ
海洋性デザイン・タコの絵柄/高さ280mm
後期ミノア文明LMIB・紀元前1500年~前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号3383
クレタ島・最東部/描画:legend ej


ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・小宮殿遺構・アラバストロン容器 Minoan Alabastron, Octopus, Knossos-Little Palace/©legend ej
クノッソス地区・小宮殿遺跡出土・アラバストロン型容器
海洋性デザイン=タコの絵柄/高さ180mm
後期ミノア文明LMIB・紀元前1500年~前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号2690
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・海洋性デザイン様式・リュトン杯 Minoan Marine Style Rhyton/©legend ej
ミノア文明・海洋性デザイン様式・陶器リュトン杯
頸部=小ハンドル・宮殿発祥の優美な涙滴型(卵型)
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
=パライカストロ遺跡出土・リュトン杯/高さ285mm
絵柄=ホラガイ・岩礁・海草・アオイガイ
イラクリオン考古学博物館・登録番号3396
=ザクロス宮殿遺跡出土・リュトン杯/高さ330mm
絵柄=ウニ・海草・ホラガイ
イラクリオン考古学博物館・登録番号2085
=プッシーラ遺跡出土・リュトン杯/高さ270mm
絵柄=海草&波間に泳ぐイルカの群れ
イラクリオン考古学博物館・登録番号4508
クレタ島・東部~最東部/描画:legend ej


ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・儀式用容器脚 Dolphin Object, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・北翼部出土・儀式用容器の脚
イルカ&海洋性デザイン/上部欠損・高さ390mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号18199
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej


ミノア文明・パライカストロ遺跡・金表装&滑石製印章・イルカ Minoan Dolphin Gold plated Steatite Flat-cylinder Seal, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・金表装&石製の印章
・金表装・イルカ打出し加工/滑石・ステアタイト
・フラット系の円筒型/紀元前1600年~前1450年
Ashmolean Museum (UK)・登録番号AN1938-963・縦17.5mm
クレタ島・最東部/描画:legend ej

ミノア文明・パライカストロ遺跡・石製リュトン杯「イルカ」 Minoan Stone Rhyton, Dolphin, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡・「建物6」出土・石製リュトン杯
蛇紋岩製/イルカの浮き彫り表現(全体=推測器形)
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
シティア考古学博物館・登録番号AΣ-AE9113・残存高さ96mm
クレタ島・最東部/描画:legend ej

ミケーネ文明・イライオン・ベルバチ遺跡・青銅製短剣 Mycenaean Bronze Dolphin Dagger/©legend ej
イライオン・ベルバチ遺跡出土・青銅製短剣
ミケーネ文明LHII期・紀元前1500年~前1400年
短剣長さ=186mm/象嵌イルカ=長さ40mm
アテネ国立考古学博物館・登録番号8446
ペロポネソス・アルゴス地方/描画:legend ej

ミノア文明の影響を受けたギリシア本土ミケーネ文明の工芸品の例では、アルゴス地方のデンドラ遺跡の「王家のトロス式墳墓」から出土した金製カップがある。
この金製カップは外側面~底部にかけてイルカやタコなど、海洋性デザインで精巧な打出し加工が施されている。そのほか、ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓Aから出土したイルカを打出し加工した金製カップもある。
これらのカップのハンドルは、円形にループする典型的なミケーネ様式リングハンドルだが、装飾は明らかにクレタ島ミノア文明の海洋性デザインの影響を受けている。

ミケーネ文明・デンドラ遺跡・金製カップ Mycenaean Gold Cup, Dolphin, Dendra/©legend ej
デンドラ遺跡・王家の墳墓出土・金製カップ
ミケーネ文明LHII期・紀元前1500年~前1400年
イルカの打出し加工/口縁径178mm
アテネ国立考古学博物館・登録番号7341
ペロポネソス・アルゴス地方/1987年

ミケーネ文明・ミケーネ宮殿遺跡・金製カップ Gold Cup, Mycenae Palace/©legend ej
ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A・第III竪穴墓出土・金製カップ
ミケーネ文明LHI期・紀元前1550年~前1500年
イルカの打出し加工/口縁径100mm
アテネ国立考古学博物館・登録番号73
ペロポネソス・アルゴス地方/1987年

そのほか、ミノア文明の影響を強く受けていたエーゲ海キクラデス文化・ミロス島フィラコピ遺跡 Milos-Phylakopi からは、イルカと同様に海洋生物を表現モチーフにした幾らかの作品が見つかっている。群れを成して泳ぐ《トビウオ》の浮彫フレスコ画の小断片は、紀元前1500年頃に遡る愛らしい描画である。

キクラデス文化・ミロス島フィラコピ遺跡・トビウオのフレスコ画 Flying Fish Fresco, Melos/©legend ej
キクラデス文化・フィラコピ遺跡出土
《トビウオのフレスコ画》/高さ23cm
アテネ国立考古学博物館・登録番号5844
エーゲ海ミロス島/描画:legend ej

GPS パライカストロ遺跡: 35°11′42″N 26°16′32″E/標高10m
GPS イライオン・ベルバチ遺跡・横穴墓群: 37°41′45″N 22°46′21″E/標高130m
GPS デンドラ遺跡: 37°39′24″N 22°49′32″E/標高60m
GPS 世界遺産/ミケーネ宮殿遺跡・円形墳墓A: 37°43′49.50″N 22°45′23″E/標高240m
GPS ミロス島・フィラコピ遺跡: 36°45′18″N 24°30′17″E/標高5m


エーゲ海先史 ミノア文明ミケーネ文明
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「世界最古のお風呂」・ミノア王妃のバスルーム

ミノア王妃のバスルームは豪華だったのか?

王妃の間の西側には直結されたミノア王妃のバスルーム Queen's Bathroom がある。残念ながら、現在、王妃のバスルームの立入見学は許されていない。
王妃のバスルームはそれほど広くなく、内部には小さな鉢植えなどが置かれたであろう、高さ1mの仕切り壁と細い円柱が一本あることから、バスタブが置かれた実用のお風呂スペースは、正確には南北2.4m、東西2.3m、和風サイズ換算=約3畳半の広さである。

発掘者エヴァンズは壁面の高い位置に直線と渦巻き線紋様を復元・複製しているが、ちまたで「ミノア王妃のお風呂」と話題になっている割には、バスルームは極端な豪華さは一切なく、実際にその場に立ってみると、単にバスタブを使って湯水で身体を洗うという「実用優先」であったように感じる。

王妃のバスルームの石膏石&石膏プラスター施工の壁や床面は、紀元前1375年頃、クノッソス宮殿が大火災で崩壊した「最後の状態」を今に伝えている。
ただ、120年前のエヴァンズによる発掘ミッションの後、時間経過とクレタ島の乾燥した外気に触れていることから、初めて訪ねた1982年の時点では、「世界最古のお風呂」・ミノア王妃のバスタブにクラック割れが確認でき、石膏石&石膏プラスターの塗壁表装の剥離も目立ち、変色と劣化もかなり進行していた。

ノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「世界最古のお風呂」・ミノア王妃のバスルーム Minoan Queen's Bathroom and Bathtub, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・ミノア王妃のバスルーム
「世界最古のお風呂」の実用バスタブ
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年


「世界最古のお風呂」のバスタブはシンプルな造り

多くの人が関心を持っている「世界最古のお風呂 The Oldest Bath in the World」であるミノア王妃のバスタブは、高温度で焼成された素焼き粘土のテラコッタ製、頭を置く場が少し縁高のデザインである。
バスタブの長さは約155cm、外周側面に円形とツタの葉か、パピルスの花か、あるいは揺らぐアシのような植物の葉を連鎖モチーフにしたクール・デザインで装飾されていた。
王妃のバスタブは装飾の絵柄も控えめでシンプルな形容だが、3,500年以上前のミノア時代、誇張ではなく「世界最古の王家の入浴文化」が、この部屋から現実に生まれた意味を考えると非常に立派な施設であった、と言えるだろう。

日本ではまだ最初の王国・「邪馬台国」の誕生もない、毛皮の腰巻姿で弓矢を放しイノシシを追っていた縄文時代に相当する時期、クレタ島ではすでにハーブ入りの湯水を使った「王家の入浴文化」が定着していたのである。


ミノア王妃のバスタイム

1982年には、発掘時のままの王妃のバスタブがバスルームの北西隅に置かれていた。王妃のバスタブは隣の王妃の間の壁面を飾る「こうであろう復元・複製」の《イルカのフレスコ画》と異なり、ミノア時代に実際に使われた正真正銘の浴槽・「実用のバスタブ」である。

ミノアの時代には、おそらくバスタブはお風呂スペースの真ん中に置かれ、王妃は湯水を満たしたタブで、あるいは女官により次々に運ばれるアンフォラ型容器から湯水を少しずつ身体に掛け流され入浴していたと想像できる。
幾らかの研究者は、バスタブの周りには王妃の入浴を世話する数人構成の女官達が居て、エーゲ海特産の天然海綿スポンジを使って王妃の「脚を洗う役」、「身体を洗う役」、「髪を流す役」などそれぞれ担当が専任されていた、と想像している。

風呂好きの日本人なら誰もがミノア王妃が入浴したバスタブなので、ゴテゴテ装飾のヨーロッパ・バロック様式風のさぞかし豪華で大型施設と想像し勝ちだが、現物は予想外にシンプルで小型である。3,500年以上前、当時の陶器製作の技術とクラック割れの弱点がある素焼き粘土製の材質からしても、これ以上の大型バスタブの製作は困難であった。

バスタブのサイズから判断するなら、ミノア王妃がタブの中で手足と身体を真っすぐ伸ばして「ああ良い湯ですこと・・・」、と入浴するには少々無理があったと推定できる。その上で想像できるミノア王妃の「バスタイム」の姿は、下記の3つとなるであろう:

想像1) バスタブに直接座る/胸部~半身を湯水につかる。
想像2) バスタブの底に置いたバスチェアを利用する/下半身のみ湯水につかる。
想像3) バスタブの上縁に置いた座り板を利用する/脚のみ湯水につかる。

ミノア文明・クノッソス宮殿・ミノア王妃のバスタイム/©legend ej
クノッソス宮殿・ミノア王妃の「バスタイム」(想像)
描画:legend ej

個人的な感覚で言えば、実際にミノア王妃が入浴したバスルームとバスタブの現物を見た判断では、バスタブのサイズと王妃のヒップ幅を想定した場合、「バスチェア使用」が最も適当な入浴方法であった、と断定できる。
何れの方法であっても、予め入浴準備でタブに満たされた湯水、事によると芳香のプルメリアを浮かべたフラワーバス仕様、または女官の支えるアンフォラ型容器から少しずつ注がれるハーブ入りの湯水を受け、クレタ島のまどろみの午後、ミノア王妃は目を閉じ至福の時間を過ごしたことであろう。

キプロス島・プルメリアの花 Plumeria, Cyprus/©legend ej
芳しい香り・プルメリアの花
東地中海・キプロス島/1997年

ミノア王妃のバスルームでの「男達の夢想」
1980年代の初め頃、クノッソス宮殿遺跡・東翼部、王家のプライベート生活区画では、王の居室コンプレックスの一部を除き、王妃の間や「世界最古のお風呂」とも騒がれている王妃が使っていたバスタブや水洗トイレも含め、美しい吹抜け空間の列柱の間など、ほとんどすべての部屋と遺構を勝手に見て回り手で触れることさえもできた。

魅力的なミノア王妃が入浴していたバスタブの現物を見てしまうと若い男性のみならず、年齢を問わず、健康な男性なら誰でもちょっとバスタブに手を触れて、勝手に膨らませた男の夢気分を瞬間的だが覚えてみたい、と発想するのが雄(オス)の本能である。
「男の人って本当に信じられない!王妃と同じくらい私だって魅力があるはずよ!」と、脇のガールフレンドや付き始めたウェストの脂肪層を忘れた同行の妻が、アヒル口でわずかなジェラシー言葉をつぶやき、頭を左右に振りながら両手を広げクスッと微笑する顔を見ながら、男性諸君は王妃のバスタブに手を触れていた。

そうして目を閉じ「ウフフ・・・」と嬉しそうにつぶやく瞬間、男性だけが独占的に感覚できるこの上ない「男達の夢想」を体感していたのである。
王妃のバスタブに直に手を触れた経験のある私を含めて、健康な普通の男性なら誰でも、衣服を身に付けない麗しき女性の姿をそれぞれ自分流に美しく夢想する特殊な能力があるからこそ、世界共通のこんな平和な光景が起こり得るのである。こういう瞬間は不思議なことに人種民族や国籍を問わず、全ての男性が肩組んで一致団結、国際協調でまったく同じ感覚世界に陶酔する。

高貴な身分のミノア王妃が使っていたバスルームを堂々と覗く行為は、3,500年以上前の古(いにしえ)のミノアの「宮殿時代」がそうであったように、今日残念ながらバスルームへの立ち入りは禁止、庶民たる宮殿見学の「ワイワイ・ガヤガヤ」のツーリストには許されていない。
あの「立入自由」が許されていた1980年代の「男達の夢想」の感触は、今でも私の右手の指先に消滅することのないiPS細胞として残されている。爽やかな青春の名残として・・・



参考: ミケーネ文明/宮殿のバスルーム&バスタブ

「王妃のバスタブ」に関しては、ギリシア本土メッセニア地方のネストル宮殿遺跡 Nestor's Palace では、石膏プラスター塗り施工、表面にきれいな幾何学紋様の装飾が確認できる粘土製バスタブが発見されている。
バスタブは移動が難しい重量もある備付タイプ、発掘後もそのままの状態を保っているので、現地までの交通アクセスに難があるが、ネストル宮殿遺跡を訪れた際に見ることができる。

ネストル宮殿の崩壊が今から3,200年前、ミケーネ文明・後期ヘラディックLHIIIB2期、紀元前12世紀の初め頃であり、少なくともバスタブは宮殿崩壊より50年、あるいはそれ以上前に設置されていたであろう。そうならば、このバスタブはクノッソス宮殿のミノア王妃のバスタブより数世紀ほど「新しい」と言える。ミケーネ文明の宮殿に居住した王家の生活文化を連想させる貴重な設備の一つである。

ミケーネ文明・ネストル宮殿遺跡・王妃のバスルーム Queen's Bathroom, Nestor's Palace/©legend ej
ネストル宮殿遺跡・王妃のバスルーム
ペロポネソス・メッセニア地方/1982年

ペロポネソス・アルゴス地方の世界遺産ティリンス宮殿遺跡 Tiryns Palace では、大きさ2.7mx3m、推定重量20トンとされる石灰岩の大きな一枚岩のバスルーム床面が残されている。
現代ではとても探すことが難しい大型サイズの平岩をセットしていることから、紀元前12世紀より遥かに以前のミケーネ時代、この石製床面のバスルームには、現代の私達が想像する以上に「豪華な雰囲気」が満ちていたであろう。

床面外周に残る小穴の存在から、バスルームは吸水・防湿性のある石膏石板を使った壁面・腰壁パネル施工であったと推測できる。
また、排水を考慮したのか、重量ある平岩はわずかだが傾斜してセットされている。ただ、この傾斜施工が宮殿建設時に意図的に行われたか、あるいは過去3,200年の時間経過で地盤自体が微妙に傾いたのかは分からない。

ただし、ティリンス宮殿では紀元前1200年頃に宮殿システムが崩壊した後、数世紀にわたって庶民が宮殿跡に居住を続けたことから、クノッソス宮殿遺跡やネストル宮殿遺跡のように、湯水を満たす「王妃のバスタブ」は発見されていない。撤去が難しい重い石灰岩のバスルーム床面だけが残されてきた。

ミケーネ文明・ティリンス宮殿遺跡・バスルーム Bathroom, Tiryns Palace/©legend ej
ティリンス宮殿遺跡・石灰岩製のバスルーム床面
ペロポネソス・アルゴス地方/1982年


王妃の間コンプレックス/化粧室&水洗トイレ

王妃の化粧室/石製ベンチ

東翼部・王妃の間の南西端からバスルーム脇の石膏石舗装の通路を西方へ進むと王妃の化粧室 Queen's Restroom、またはトイレと石膏石ベンチの部屋と呼ばれる正方形の部屋となる。この部屋はおそらく王妃がメイキャップや衣装の着替え、そしてトイレとして使ったと考えられる。

化粧室の南西隅には石膏石ベンチが備えてある。石膏石は比較的カット加工が容易、地中海域なら何処でも産出する利用価値の高い石材である。
部屋の中に石膏石のベンチを設けた例では、私が訪ねたクレタ島ミノア文明の遺跡に限れば、クノッソス宮殿遺跡を初めメッサラ平野のフェストス宮殿遺跡、さらに宮殿からほど近いアギア・トリアダ準宮殿遺跡、そして北海岸のニロウ・カーニ邸宅遺跡や東部の小さなゾウ邸宅遺跡などにも残されている。
硬質な石灰岩や黒灰色の玄武岩などと異なり、石膏石製ベンチは穏やかな乳白色系の色彩、手触り感も柔らかく、ミノア文明では概して上質の建築設備・造作であったと言える。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡 Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡・準宮殿の遺構
石製ベンチの部屋と周辺
クレタ島・メッサラ平野/1982年


ミノア文明・ニロウ・カーニ遺跡 Minoan House, Nirou Khani /©legend ej
ニロウ・カーニ遺跡・邸宅遺構
中央通路&石製ベンチの部屋
クレタ島・中央北部/1982年


ミノア文明・ゾウ遺跡・ベンチの部屋 Minoan House of Zou/©legend ej
ゾウ遺跡・邸宅遺構
石製ベンチ&敷居&階段の部屋
クレタ島・東部/1996年

ミノア文明の石灰岩と石膏石
エーゲ海クレタ島では石材は無尽蔵、建物の建築材には「モース硬度4」の石灰岩が、室内の壁面装飾や石製ベンチや床面舗装、儀式リュトン杯や装飾品、さらに庶民が使う日常の石製容器などには、島内産出の石膏石が大量に使われた。

硫酸カルシウム質の石膏石は「モース硬度2」のやや軟質岩石であり、比較的加工も容易、さらに表面研磨で乳白色の美しい光沢が得られ、水分を吸収する調湿性&結露防止の効果もある。この理由から、ミノア文明では宮殿や邸宅などは広間の壁面や床面、あるいは水を使う「聖なる浴場」などに挙って石膏石を多用した。また、加工性と光沢の美しさから儀式用リュトン杯などの石材としても適していた。

例えば、西翼部・王座の間の王座を囲むベンチは石膏石、石膏石で舗装された床面には石膏石を加工した「鏡餅」のような気品のアラバストロン型の儀式容器が並べてあった。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王座の間 Throne Room, Knossos Palace/Ashmolean Museum
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・王座の間(想像画)
床面=複数のアラバストロン型容器
原画情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.IV(1935年)
描画作者:Edwin J. Lambert(1917年)
Ashmolean Museum, U. Oxford (UK)


モース硬度 Mohs Hardness
「モース硬度」とは、ドイツの鉱物学者 Friedrich Mohs(1773年~1839年)が考案した、鉱物の「硬さ」を相対的に判断する基準・尺度である。硬度1~硬度10までの整数値に対応する標準鉱物が設定されている。
硬度1=滑石、硬度2=石膏石・・・硬度8=トパーズ(黄玉)・・・最高硬度10=ダイヤモンドが基準となる標準鉱物に設定されており、これらの標準鉱物10種と任意の試料鉱物を擦り合わせ、できる傷の有無で試料の硬さを測定する。
モース硬度は鉱物をハンマーで叩いて割れるかどうかの単独の硬さ判定ではなく、傷ができるかどうかの相対的な硬さ判定である。

王妃の化粧室/女性達の華やいだ会話は 宮廷の「恋の噂話」か?

おそらくは、青銅製の鏡とエジプト・アレキサンドリア直輸入の象牙製のくし(櫛)を使って、化粧室の石製ベンチに座った王妃の艶髪を梳かす担当の女官達の話題は、宮殿勤務の若いハンサムな男性スタッフの噂話などであったであろう。
王妃の化粧室は始終笑いと華やいだ雰囲気に満たされた「女性達の息抜きスペース」であったと想像する。先史の時代も、現代も、何時の世でも女性達は恋愛の噂話には事欠かない。

ミケーネ文明・ネストル宮殿遺跡・青銅製の鏡・象牙柄 Bronze Mirror, Nestor's Palace/©legend ej
ネストル宮殿遺跡出土・象牙柄付き青銅製の鏡
アテネ国立考古学博物館・登録番号8343
ペロポネソス・メッセニア地方/描画:legend ej

ミケーネ文明・スパタ遺跡・象牙製くし Mycenaean Ivory Comb/©legend ej
ギリシア本土・スパタ遺跡出土・象牙製くし
スフィンクスの浮彫彫刻/横幅約160mm
ミケーネ文明LHIIIB期・紀元前1300年~前1200年
アテネ国立考古学博物館・登録番号2044
アッテカ地方/描画:legend ej

時が今から3,500年ほど前、ミノア文明が最も繁栄した「花ほとばしる新宮殿時代」、紀元前1500年頃、ミノア王妃に美しい二人の「王女 Princess」が居たのであれば、という仮定の話が、私は「事実」であったと信じたい。
クレタ島・東部の北海岸・プッシーラ島 Pseira の居住地遺跡で見つかった浮彫フレスコ画《ミノアの女神 or 王女 Minoan Goddess or Princess》の「モデル」は、女神より実在した王女であった可能性が非常に高い。

ミノア文明・プッシーラ遺跡・フレスコ画《ミノアの女神 or 王女》Fresco Minoan Goddess/Princess, Pseira, Crete/©legend ej
プッシーラ遺跡・神殿遺構出土・浮彫フレスコ画
《ミノアの女神 or 王女》紀元前1500年~前1450年頃
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・東部/描画:legend ej

他に類を見ないミノア織りの複雑な紋様の衣装を身に付けた二人の女性を描いた、この非常に美しい浮彫フレスコ画は、研究者からクノッソス宮殿などを意識したミノアの女神、または宮殿の王女と推測されている。
複数の推測が提唱されているが、私は、神的要素が基本のミノアの「女神」とは異なり、このフレスコ画からは洗練された尊貴の女性だけが持つ純真で淑やかな気品と超越の美しさを感じることから、この女性は間違いなく宮殿の「王女」であったと確信して止まない。

かつて、(私の想定が正しければ)フレスコ画の「モデル」となった二人の美しい王女は、母である尊敬の王妃を交えて三人でこの化粧室の石製ベンチに座り、先進のエジプトで流行していたサンゴの微粒粉末を含有した「艶髪シャンプー」や眉毛を切り揃える「新しい化粧法」などを静かに語り合ったのかもしれない。

プッシーラ居住地遺跡からのフレスコ画では、残念ながら頭部や手などは何れも欠損しているが、女神 or 王女の形の良いバストの間を上品に飾る金製とおそらくガラスペースト(鉛ガラス)かラピスラズリの豪華なネックレース、不思議な紋様織りの上着、軟質素材のスカート姿は、あまりに魅力的である。
これが今から3,500年以上前の女性とは想像できない、誰もが認める眼を奪われるほどの美しさ、現代にも通じる奥ゆかしくもエレガンス、眩い描写のフレスコ画である。



王妃の化粧室付属の「採光吹抜け構造」の空間

王妃の化粧室の北側の壁には大きい窓の施工が残り、化粧室はその外側に配置された天空に開口した採光吹抜け構造の正方形の空間に面している。この窓から光が入ることから、王妃の化粧室はランプなどの照明に頼らない明るい部屋であったと思われる。

当然、化粧室は王妃専用のプライベートな部屋であったことから、トイレ区画を除き、部屋の壁面や天井などは色鮮やかな花や可愛い小動物、あるいは連鎖の幾何学紋様など、何らかの心癒されるフレスコ画で美しく装飾されていたと推測できる。
王妃の化粧室での居眠り
1980年代の初め、私はギリシア国内に連続3か月間の長期滞在をしたことがある。クレタ島に二か月間、ギリシア本土の首都アテネアルゴス地方に一か月間であった。
クノッソス宮殿の遺構のほとんどの区画がツーリストの「立入自由」であった時期、日本からの観光ツーリストはゼロに等しく、入場券売り場で働く地元のオバサン達や若い監視員から毎朝「Hello, Tokyo!」と呼ばれ、顔見知りの「お友達」になってしまうほど、クノッソス宮殿遺跡を連続的に訪ねた。

そうして、弁当持参で宮殿区域の遺構を隅から隅まで徹底的にチェック、夕方の閉門時間まで宮殿遺跡に終日留まった。
湿度0%、乾燥のエーゲ海の盛夏、特に地元では「昼寝の時間」となる午後の気象はツーリストにとっても非常に厳しく、私は外部の猛烈な熱射に耐えかねて、かつて3,500年前、美しいミノアの王妃や「二人の王女」が座った化粧室の石製ベンチで休憩したことが複数回ある。

東翼部の一階、見学ツーリストが誰も入って来ない建物の奥まった位置にある王妃の化粧室だが、北側の採光吹抜け構造の空間から自然の光が入り、内部は思いのほか明るく、ひんやりとした空気、静かな時間、冷たい石膏石のベンチでの休息が、時には居眠りとなってしまった事実を今でも鮮明に追懐する。
あの石膏石のベンチは、3,500年前、プッシーラ島の浮彫フレスコ画の「モデル」であった、クノッソス宮殿の美しい「二人の王女」も座った「特別な場所」であったのだ、と想いを飛躍させる度に今でも私の心はミノアン・ダンス Minoan Dancing のように緩やかに躍る。


ミノア王妃の「水洗トイレ」

水洗トイレ&排水路システム

ミノア王妃の化粧室には、今から3,600年前、中期ミノア文明MMIIIA期、紀元前16世紀以前に早くも水洗トイレ Flushing Toilet が設備されていた。
トイレ区画は王妃の化粧室内・東側に設けた狭い空間のような場所である。トイレ区画はその両脇を石膏石の厚板ボードで囲い、空間の奥部に方形の深溝(トイレ部分)を備えたシンプルな構造である。
そして、トイレ部分である方形の深溝は、地中に敷設された東翼部・排水路システムに合流する、非常にレベルの高い環境設計であった。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・ミノア王妃の水洗トイレ Minoan Queen's Flashing Toilet, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・王妃の化粧室
王妃の「水洗トイレ」(現在 立入禁止区域)
・右壁面・細縦溝=木製椅子の設置跡
・奥の方形深溝=トイレ~排水路合流
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・ミノア王妃の水洗トイレ Minoan Queen's Flashing Toilet, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・王妃の化粧室
ミノア王妃の「水洗トイレ」の仕組み
参考情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
「排水系統図 Architectural Plans D-11b」
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.I(1921年)
U. Oxford (UK) & Heidelberg U. (DE)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


水洗トイレの仕様

ミノア王妃の「水洗トイレ」の仕組みイメージ描画は、発掘者エヴァンズが母校オックスフォード大学に残した発掘レポート(排水系統図 Evans Architectural Plans D-11b)を参考にして、私が壁面や地中の深さなどを発掘情報とほぼ忠実な位置関係でイメージ化したものである。

王妃のトイレ区画は横幅約1.1m、奥行き約1.3mのスペースである。左右の石膏石ボードの下部に刻んだ縦溝の凹みがあり、これを利用して奥部の深溝(トイレ部分)を覆うように、横幅1.1m、奥行き約55cm、高さ約53cmのベンチ風の木製座り椅子が固定されていた、とエヴァンズは推測している。
当然、座り部分の横板には相応しいサイズの「穴」が加工され、厳密な設置の位置は不明だが、間違いなくそれ程高くない木製ドアーが取り付けられ、王妃のプライバシーを確保していた、と考えられる。


クノッソス新宮殿の設計と水洗トイレの設備

紀元前1900年頃から右肩上がりで繁栄して来たミノア文明の「旧宮殿時代」の末期、中期ミノア文明MMIIB期、紀元前1650年~前1640年頃、クレタ島では大きな地震が発生、その後の火災の被害を含め、クノッソス宮殿でもかなりの破壊と被害をこうむった。
しかし、文明センターであったクノッソス宮殿のみならず、北海岸のマーリア宮殿、メッサラ平野のフェストス宮殿ではそれまで存在した旧宮殿を取り壊して、紀元前1625年頃、申し合わせたように一斉に旧宮殿のあった場所に新宮殿を造営、さらに最東部のザクロスでは最初の宮殿の建設が始まった。

これはさらなる繁栄を上塗りするミノア文明の「新宮殿建設ラッシュ」であり、この各地の新宮殿の完成をもって地中海域で類を見ない、華やかな「新宮殿時代 New Palace Era」がスタートする。
しかも中央中庭や宮殿・西翼部に重要区画を配置する、類似・共通設計の例を見るように、新宮殿の設計を担当したのは同一、または限られた数人の設計者が強く主導していたことを暗示させている。

各地の宮殿の建設場所の地形的な制約は個々にあるが、建物の配置法や機能と構成などはほとんど同様か極めて類似している事実から、「水洗トイレ」に関しても新宮殿の造営時に同様な仕様と設計が、それぞれの宮殿で行われた確率は非常に高い、と私は考える。
さらには、新宮殿の設計と同時に、宮殿区域内に7か所とジプサデスの丘に掘った三か所の井戸、そして南方を流れる小川ヴリチアス Vlychias からの飲料水確保のための上水道系、屋根からの雨水を集めるなど色々な水利用を考えた導水路系、地中に埋め込むトンネル状の排水路系など、「水」に関連するシステムも配置や経路からして、一括して統合設計されたと考えて良いだろう。

宮殿のような大規模な建造物では、地中・地下や基礎となる一階区画などは、後からの増築や改造が難しいことから、将来を見据えた完璧な設計が求められたはずである。結果、先ず初めに西翼部の「三点セット」である王座の間や宗教的な施設、王家の家族のプライベート生活区画、そして最下部に敷設するトンネル状排水路や水洗トイレなどが、優先的に設計・施工されたのは間違いないだろう。

この私の想定が正しければ、クノッソスでは新宮殿の造営時、今から3,650年ほど前、紀元前1625年頃、地中に埋め込まれた三系統の排水路システムと一緒に、王妃の化粧室の水洗トイレも設備されたことになる。
その後、紀元前1375年頃、新宮殿が崩壊するまでの間、漆喰塗装やドアーの交換などの部分的なメインテナンスは間違いなく行われたにせよ、王妃の化粧室の水洗トイレは、約250年の間、代々のミノア王家(晩期75年間=占領ミケーネ人統治者)により使われ続けて来たのである。


手流し方式の「水洗トイレ」

クノッソス宮殿遺跡からは、マーリア宮殿タイプの石製の座り椅子は見つかっていない。が、王妃の水洗トイレ区画の側面の縦溝の凹みの存在から、発掘者エヴァンズだけでなく、この部分に木製椅子がセットされていた、と推測している研究者は少なくない。

だとしたら、木製椅子には、例え豆や芋類など食物繊維の多い食材がお嫌いで慢性便秘にお悩みの王妃であっても、リラックスな気分を誘うために花や小鳥など、さり気ない女性好みの優しい彫刻が施されていた可能性もあるだろう。
また、トイレ区画の正面壁には石膏プラスター表装が残っていることから、王妃の間を飾った泳ぐイルカや宮廷美人などを描いた豪華なフレスコ画装飾こそなかったと思うが、おそらくこのトイレ区画は絵柄のないベージュ色など落ち着いた淡色表装であったと考えられる。

通常では、トイレが済んだ後、ミノア王妃が「終わったわ、お水を流して頂ける、ナディア」と告げると、「はい、王妃様」とドアーの外で待機する女官ナディアがアンフォラ型容器から床面隙間へ適量の水を注ぎ込み、汚水は壁面の下を通過、地中に埋め込まれた石膏プラスターで漏水施工のトンネル状排水路から宮殿外部へ流された。
この方法では水を流すのはオートマティックでなく、女官ナディアのマニュアル操作・手流し方式だが、処理方法の区分から言えば、クノッソス宮殿の王妃のトイレは先史時代に高い衛生観念で設備された、列記とした水洗トイレであった、と私は確信する。

さらに王妃が去った後、毎回、または翌朝に備えて深夜、女官ナディアは定期的に木製座り椅子の穴や足元の数cmの隙間から、あるいは事によるとレバノン杉材や高級銘木の黒檀(こくたん)などを使った座り横板だけが簡易的に取り外しができ、深溝へ掃除用の水を流し込んでいたのかもしれない。
何れにしても、王妃のトイレ区画は常に清潔さが確保され、誰もが感心するほど徹底的に、かつ美しいほどに磨き込まれていたはずである。

また、王の居室の脇や王妃の化粧室の北側に付属した天空に開口した採光吹抜け部に降った雨水、そして水洗トイレの汚水処理も含め、王家のプライベート生活区画の床面下には平石を組み合せ、漏水を防ぐために石膏プラスターで表装した、少なくとも三系統のトンネル状の排水路システムが設備されていたことは、120年前のエヴァンズの発掘作業で解明されている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「王家の生活区画」南西セクション・プラン図 Plan of Southwest section, Royal Apartment, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部
「王家の生活区画」一階・南西セクション・アウトラインプラン図
・列柱の間~両刃斧の間~宝庫~王妃の間コンプレックス
・排水路システム&「デーモン印章の区画」&竪坑堆積層
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王家の生活区画・排水路断面 Section of Drain-system, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・排水路システム
参考情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.I (1921年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)
クレタ島・中央北部/作図:legend ej


先史文明の「水洗トイレ」

イラクリオン~東方35kmのマーリア宮殿遺跡、メッサラ平野のフェストス宮殿遺跡、クノッソス宮殿遺跡~西方13kmのティリッソス邸宅遺跡など、幾らかのミノア文明の遺跡でもクノッソス宮殿の王妃の化粧室と同じタイプの水洗トイレの遺構が確認されている。
クノッソス宮殿遺跡では、今日までにトイレ用の木製、あるいは石製の座り椅子などは見つかっていない。一方、マーリア宮殿遺跡では木製ではなく、横幅約67cm、奥行幅約46cm、高さ38cm、重量もある分厚い石膏石製のトイレ用の座り椅子が出土している。

なお、幾らかの情報によれば、現在、考古学的に認識されている「世界最古の水洗トイレ」は、クノッソス宮殿遺跡の王妃のトイレではなく、紀元前2200年頃のイラク東部シュメール文明の都市エシュヌンナの宮殿遺跡で発見された6か所の水洗トイレ施設とされる。


王家の寝室など 生活区画は上階にあった

王家のプライベート生活区画の一階レベルには部屋の余裕がないことから、おそらく王家の寝室や王子や王女などの部屋は、両刃斧の間(王の居室)と王妃の間に挟まれた階段を上がった、現在フロアーや長い階段などが次々に「こうであろう復元・複製」されている、東翼部・上階(二階)に配置されていた。

エヴァンズの発掘では、東翼部では一階レベルの両刃斧の間(王の居室)など一部区画を除き、多くの場所は破壊状態で発掘されたことから、東翼部の二階以上の上階に配置された広間や部屋、階段などは「推測の域」と言える。
そうであっても、エヴァンズの発掘レポート(1930年)では、得られたわずかな情報から、特に王妃の間コンプレックスの上階の「想定できるフロアープラン」が発表されている。これによれば、階下の王妃の間とベランダ形式の付属部屋の間取りと同じ形式の広間と部屋が二階にも配置されていた。

さらに現在見学ツーリストの歩行コースとなっているが、王妃の間の南側にあった天空に開口された空間は、上階まで同じ吹抜け構造であるので、二階の明るい吹抜け空間を挟み、東西に二部屋ずつ(両側合計=四部屋)の「ベッドルーム」が存在したとされる。
採光のための広い窓は当然のこと、最も西側のベッドルームには小部屋に相当する凹形クローゼットも設けられていた。

そのほかでは、王妃の化粧室とその北側の採光吹抜け構造の空間と同じ形式の部屋が、二階にも配置されていた。
北側の吹抜け空間から明るい光が入る上階の部屋の西壁面には、階下の化粧室と同様に石膏石製のベンチが存在したとされる。二階にあったこの石製ベンチの部屋 Room of Stone Bench も王妃や王女、女官などのくつろぎの場、男性入室禁止の「お話ベンチの部屋」であったかもしれない、私の想像の域だが。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 関連ポストは「12部構成」となっています。
1. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace I 概要
2. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace II 西中庭~南翼部
3. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace III 中央中庭・王座の間
4. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IV 聖域・宝庫
5. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace V 貯蔵庫
6. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VI 女神パリジェンヌ
7. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VII 王の居室・聖所
8. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VIII 王妃の間(当ポスト)
9. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IX 雄牛跳び
10. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace X 北~東翼部
11. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 周辺の先史遺跡
12. ミノア文明・クノッソス宮殿 崩壊の原因は?

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