2020/09/27

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace I 概要


ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 関連ポストは「12部構成」となっています。
1. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace I 概要(当ポスト)
2. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace II 西中庭~南翼部
3. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace III 中央中庭・王座の間
4. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IV 聖域・宝庫
5. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace V 貯蔵庫
6. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VI 女神パリジェンヌ
7. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VII 王の居室・聖所
8. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VIII 王妃の間
9. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IX 雄牛跳び
10. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace X 北~東翼部
11. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 周辺の先史遺跡
12. ミノア文明・クノッソス宮殿 崩壊の原因は?

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プロローグ/ミノア文明 衰退の序曲・クノッソス宮殿の「大火災」

位置 クレタ島・中央北部/イラクリオン Heraklion/Iraklion~南南東5km
GPS クノッソス宮殿遺跡・中央中庭: 35°17′53″N 25°09′47″E/標高95m

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Minoan Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東方の丘から展望
遺跡規模=東西180m 南北180m
右方(北)=イラクリオン方面
遠方(西)=アクロポリスの丘
クレタ島・中央北部/1982年


3,400年前 クノッソス宮殿 大火災の「当日」は?

時は後期ミノア文明LMIIIA1期、「新宮殿時代」の末期、紀元前1375年頃、出土した3,000点の線文字B粘土板によれば、冬小麦の収穫が終わり、羊の毛の刈り込み作業を行う「春」の季節、1,000室を数えるクノッソスの大宮殿で火災が発生した。

クレタ島・クノッソス宮殿遺跡・線文字B粘土板 Linear B from Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡出土・「二輪戦車」の線文字B粘土板
紀元前1450年以降・「占領ミケーネ人」の文字
イラクリオン考古学博物館・登録番号1609/長さ約100mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

出土した線文字B粘土板の内、最も良く知られた「二輪戦車」の粘土板の表意訳では、「鎧をまとった湾岸労働者(人名)は、二頭立て二輪戦車を操縦する/Richard Vallane Janke(2016)」とされる。


大火災を招いた出火の原因は分からない。最終的にクノッソス宮殿の放棄も含め予想もできない何らかの重大な理由からか、または宮殿付属のキッチン担当者の単純な火の不始末か、すでに75年前からクレタ島は「侵攻ミケーネ人」の支配下に置かれていたことから、奴隷クラスになってしまったかつての主体者ミノア人による「占領ミケーネ人」に対する最後の反乱か、あるいは祈祷中の神官が誤って倒した石製ランプが出火原因となったか・・・


発掘の結果では、宮殿区域から人の遺体が発見されていないことから、大火災は地震など突発的で瞬間的な事象が原因したのではない。しかも最初の出火は夜間ではなく、数千人規模の宮殿関係者が安全に避難することができた昼間であり、その後の延焼~宮殿の崩壊はある程度幅のある時間の経過の中で起こった、と想定できる。

夏の到来を予告するアフリカ・サハラ砂漠からの暖かい強風・シロッコ Sirocco に煽られ、宮殿管理の西翼部・西貯蔵庫群に保管された大量のオリーブ油に火が回り、火炎は勢いを増し宮殿全体に広がった。
特に22室(18室の説もあり)を数える宮殿直轄の西貯蔵庫群の内部を初め、その外壁を成す西中庭に面する西正面部、さらにはミノア王が座る王座の間に残る石製王座さえも、大火災の後3,400年の年月の経過があっても、今でもオリーブ油の激しい火炎で極端に焼け焦げた真っ黒な痕跡を確認できる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・貯蔵庫 火炎跡 Burn Trace West Storeroom, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・西貯蔵庫・第4号室
火炎跡の角柱・壁面/地中=収納ピット群
床面=ピトス容器&アンフォラ型容器
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・王座の間 Throne Room, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・王座の間
・火炎跡の石製王座&石膏石ベンチ&床面
・1980年代の王座の前=石製水盤はない
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年


伝統的に自然を尊び平和主義を堅持、戦いを好まず、王の住む宮殿でありながら城壁を設けず、花や動物や美しい女性達を描いた優美なフレスコ画で装飾され、栄華を誇ったミノアのクノッソス大宮殿は真っ赤な炎を上げ、1週間あるいは10日間以上も炎上し続けた。
その火炎は、宮殿・西翼部で見つかったフレスコ画《女神パリジェンヌ la Parisienne パリズィエヌ》のルージュよりも、遥かに赤く夜空を染め上げたに違いない。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画《女神パリジェンヌ Fresco Parisienne》 Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画《女神パリジェンヌ》
イラクリオン考古学博物館・登録番号11/高さ250mm
クレタ島・中央北部/1994年


ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・《蛇の女神像》Minoan Snake Goddess, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡出土・ファイアンス陶器《蛇の女神像》
中期ミノア文明MMIIB期~MMIIIA期・紀元前1625年頃
NTS(Not to Scale)・イラクリオン考古学博物館
・左像(母女神?)=登録番号63・高さ342mm
・右像(娘女神?)=登録番号65・高さ295mm
クレタ島・中央北部/1994年


ここに紀元前3000年頃から始まり、1,500年以上も繁栄を続けた、象徴である《蛇の女神》を崇めたエーゲ海ミノア文明は「衰退の序曲」を弾き、呆気なくも終焉へと向かう
大火災を煽った南からの風は、南方の谷から北方のイラクリオン方面へ吹き抜け、大宮殿のみならず住民4万人が暮らすクノッソスの街・「コノソ ko-no-so」も炎に包まれた。人々は東方の台地や南方のジプサデスの丘 Gypsades へ避難して、もはや手の施しようのないクノッソス宮殿の大火災を、涙を流しながら呆然と眺めたことであろう。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 周辺 Minoan Palace of Knossos/©legend ej
東方の丘~クノッソス宮殿遺跡&周辺の眺め
・撮影場所=標高140m/カイラトス川=標高70m付近
・宮殿区域=標高95m/アクロポリスの丘=標高170m
クレタ島・中央北部/1982年

そうして長い年月が経過した後、1900年、イギリスの考古学者サー・アーサー・エヴァンズ Sir Arthur John Evans により大規模な発掘ミッションが開始されるまで、崩壊し息絶えたクノッソス宮殿は、約3,400年の間、神話と歴史の中で眠り続けるのである。
クノッソス宮殿遺跡出土・線文字B粘土板
発掘ミッションでは、クノッソス宮殿遺跡から出土した線文字Bスクリプトの粘土板は、紀元前1450年頃、ギリシア本土から「クレタ島攻撃」を仕掛けた「占領ミケーネ人」の文字である。クノッソス宮殿遺跡で確認された粘土板は、微細片も含め合計3,000点とされる。

クレタ島・クノッソス宮殿遺跡・線文字B粘土板/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡出土・線文字B粘土板
紀元前1450年以降・「占領ミケーネ人」の文字
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/1994年

先端が鋭利な器具を使い、柔らかな粘土板に刻まれた絵文字や記号などのほとんどは、毎年集計されたのであろう宮殿管理の国家的な財政データ、あるいは納税に関係する農産物の収穫、牧畜や工芸品の物納状況、さらには国家公務員や貴族階級への備品や食料などの配給実績データなどである。
これらがクノッソス宮殿の記録保管室などに収められていた時、歴史に刻む大火災が発生したことにより、粘土板は高温で焼けて、陶器と同じように雨水や時効劣化に対抗できる硬質へと変化したことで、3,400年の年月の経過でも変質することなく残されて来た。
発掘された線文字B粘土板の製作時期は、間違いなく紀元前1375年頃、より厳密に言及するならば、クノッソス宮殿の大火災の「当日」を含め数日前、少々時間的な余裕を持ってしても大火災が発生する過去1年以内に製作された、と断定して良いだろう。

関連Blog情報: ミノア文明 線文字A・ミケーネ文明 線文字B・絵文字・フェストス円盤

クレタ島・ミノア文明・宮殿遺跡

クレタ島ではクノッソス宮殿を筆頭に、南西部のメッサラ平野からフェストス(ファイストス)宮殿、イラクリオンの東方35kmのエーゲ海の北海岸からはマーリア宮殿、そして最東部の海岸からザクロス宮殿、合計4か所でミノア文明の大規模な宮殿遺跡が確認されている。

ミノア文明の宮殿遺跡(4か所)

・中央北部・ミノア文明センター・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace
・南西部・メッサラ平野・フェストス宮殿遺跡 Phaestos/Phaistos Palace
・北海岸・マーリア宮殿遺跡 Malia Palace
・最東部・ザクロス宮殿遺跡 Zakros Palace

クレタ島ミノア文明・宮殿群 地図 Map of Minoan Palaces in Crete/©legend ej
クレタ島・ミノア文明・宮殿遺跡 地図
作図:legend ej

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Minoan Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・大階段周辺
クレタ島・メッサラ平野/1982年


「新メッサラ考古学博物館」開館
ゴルティス遺跡~西南西1km、フェストス宮殿遺跡~東北東11km、幹線道路N97号脇、2020年、「新メッサラ考古学博物館 New Archaeological Museum of Messara」が開館した。

GPS 新メッサラ考古学博物館: 35°03′36″N 24°56′16″E/標高160m

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡 Minoan Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡・西翼部・支柱礼拝室
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年


ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡 Minoan Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・北翼部~西翼部~中央中庭
クレタ島・最東部/1996年


ミノア文明の「宮殿時代」とは

旧宮殿時代」と「新宮殿時代

クノッソスでは、フェストス宮殿とマーリア宮殿と同じ時期、中期ミノア文明MMIB期、紀元前1900年頃、最初の旧宮殿が建てられ、「旧宮殿時代 Old Palace Era」が始まる。ほかの二つの宮殿と同様にクノッソスの旧宮殿は、造営後おおよそ3世紀/300年ほどの間に複数回の火災、又は地震で大きく破壊された。
その度に修復と再建を繰り返したが、最終的にはほかのミノア宮殿と同様に、紀元前1625年頃、クノッソスでは旧宮殿の建物敷地を利用して新宮殿が造営され、クレタ島ミノア文明は大繁栄の「新宮殿時代 New Palace Era」を迎える。この時期、最東部のザクロスでは海岸近くに初めて宮殿が造営され、ミノアの宮殿は合計四か所となる。

研究者は中期ミノア文明MMIB期・紀元前1900年頃から始まる「旧宮殿時代」、そして中期ミノア文明MMIIIA期・紀元前1625年頃~後期ミノア文明LMIIIA1期・ 紀元前1375年頃、クノッソス宮殿の崩壊までの「新宮殿時代」を合わせて「宮殿時代 Palace Era」と呼ぶ。ミノアの宮殿時代の平和と繁栄は約500年間続いた。



ミノアの平和と繁栄・「エーゲ海の奇跡」

今から3,650年ほど前、中期ミノア文明MMIIIA期・紀元前17世紀の後半以降、ミノア文明は大発展の「新宮殿時代」となり、その後おおよそ175年間、文明の停滞や後退など絶対的にあり得ないほどの平和と繁栄を享受する。
戦いを嫌い、発展する文化は洗練され上質な域へ、陶器石製品フレスコ画など工芸美術の発達と技術レベルの向上、水産と農業生産は飛躍的に増加、エジプトや中東地域との海外交易はさらに活況となる。クレタ島に住む海洋民族ミノアの人々は、「エーゲ海の奇跡」とも言える「楽園」の平和な生活と充実した時間を過ごす。


陶器の例では:

ミノア文明・海洋性デザイン様式・リュトン杯 Minoan Marine Style Rhyton/©legend ej
ミノア文明・海洋性デザイン様式・陶器リュトン杯
頸部=小ハンドル・宮殿発祥の優美な涙滴型(卵型)
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
=パライカストロ遺跡出土・リュトン杯/高さ285mm
絵柄=ホラガイ・岩礁・海草・アオイガイ
イラクリオン考古学博物館・登録番号3396
=ザクロス宮殿遺跡出土・リュトン杯/高さ330mm
絵柄=ウニ・海草・ホラガイ
イラクリオン考古学博物館・登録番号2085
=プッシーラ遺跡出土・リュトン杯/高さ270mm
絵柄=海草&波間に泳ぐイルカの群れ
イラクリオン考古学博物館・登録番号4508
クレタ島・東部~最東部/描画:legend ej

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・海洋性デザイン水入れ Minoan Marine Style Jar, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・西翼部出土・美しい器形の水入れ
海洋性デザイン様式・アオイガイの絵柄
新宮殿時代・紀元前1500年~前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号14098
クレタ島・最東部/描画:legend ej


ミノア文明・イソパタ遺跡・「王家の墳墓」・宮殿様式アンフォラ型容器・植物性デザイン Minoan Palace Style Amphora, Floral Design, Isopata/©legend ej
イソパタ遺跡・「王家の墳墓」出土・アンフォラ型容器
宮殿様式・美しい器形・パピルスの抽象化絵柄
新宮殿時代・紀元前1450年~前1400年/高さ635mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号3882
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・フェストス宮殿遺跡・植物性デザイン様式陶器・ヨシの絵柄水差し Reeds Painter Jug, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡出土・植物性デザイン様式水差し
「ヨシの絵柄」の精緻な表現/高さ290mm
新宮殿時代・紀元前1500年~前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号3962
クレタ島・メッサラ平野/描画:legend ej


石製品の例では:

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・山頂聖所リュトン杯 Peak Sanctuary Rhyton, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・西翼部出土・石製リュトン杯
緑泥石製・「山頂聖所リュトン杯」/腹部直径140mm
後期ミノア文明LMIA期・紀元前1550年~前1500年
・荘厳な山頂聖所&雄牛角型オブジェに止まる鳥・飛ぶ鳥
・野生ヤギの群れ(聖所で休む・岩場を飛ぶ・岩場を登る)
イラクリオン考古学博物館・登録番号2764
クレタ島・最東部/描画:legend ej

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・大理石製リュトン杯 Marble Rhyton Vase, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・西翼部出土・大理石製リュトン杯
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号2720/高さ405mm
クレタ島・最東部/描画:legend ej


フレスコ画の例では:

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・レリーフフレスコ画・渦巻き&ロゼッタ紋様 Minoan Relief-Fresco of Spiral and Rosette, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・北翼部出土・浮彫フレスコ画
連鎖の白色渦巻き線・ロゼッタ・花弁の紋様
参考情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.III(1930年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)
クレタ島・中央北部/描画&色彩:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画の邸宅・《青い鳥》 Fresco Blue Bird, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画の邸宅出土
フレスコ画《青い鳥》/高さ約60cm
イラクリオン考古学博物館/紀元前1550年~前1500年
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

宝飾品の例では:

ミノア文明・クノッソス地区・王家の墳墓・金製リング《Gold Ring of King Minos》Temple Tomb, Knossos Area/©legend ej
クノッソス地区・王家の墳墓 Temple Tomb 出土・金製リング
エヴァンズ=《Gold Ring of King Minos》と名称
新宮殿時代の初期~中期・紀元前1600年~前1450年
イラクリオン考古学博物館/重さ約30g
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・マーリア遺跡・金製「ミツバチ・ペンダント」Gold Bee-Pendant, Malia, Crete/©legend ej
マーリア遺跡・共同墓地出土・金製《ミツバチ・ペンダント》
「黄金の造粒技術 Gold Granulation」の最高作品
イラクリオン考古学博物館・登録番号559/高さ46mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


海外交易の例(エジプト)では:

ミノア文明・イソパタ遺跡・エジプト・アラバスター製容器 Egyptan Alabaster Vase, Knossos-Isopata-Royal Tomb/©legend ej
イソパタ遺跡・「王家の墳墓」出土・石膏石製の容器
古代エジプト・第15~第18王朝からの献上品 or 輸入品
・左=イラクリオン考古学博物館・登録番号600/高さ253mm
・右=イラクリオン考古学博物館・登録番号603/高さ 78mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

今日、オリーブ栽培はクレタ島の全域で、南岸地方では温暖な気候を活かした大規模な野菜のハウス栽培が行われている。
また、クノッソス宮殿遺跡の南方地域、アルカネス周辺ではオリーブと並びワイン用ブドウ栽培が盛んに行われているが、ミノア文明の時代ではクレタ島の東半分のほぼ全域でブドウ栽培&ワイン醸造が行われていた。

クレタ島・最東部・Azokeramos村~聖Ioanis礼拝室~オリーブ耕作地 Olive field, Agios Ioanis Church, Azokeramos, Eastern Crete/©legend ej
最東部の典型的な風景・オリーブ耕作地
・Azokeramos村・聖イオアニス教会堂(標高225m)
・遠方=Adravasti渓谷と岩山地(標高500m級)
クレタ島/1996年

GPS Azokeramos聖イオアニス教会堂: 35°07′54″N 26°14′52″E/標高225m

クレタ島・オリーブ栽培
クレタ島・オリーブ栽培

クレタ島・ワイン用ブドウ栽培
クレタ島・ワイン用ブドウ栽培

ミノア文明・ヴァシイペトロン遺跡・ワイン用ブドウ搾りプレス装置 Minoan Wine Press, Vathypetron/©legend ej
ヴァシイペトロン遺跡出土・ワイン用ブドウ搾りプレス装置
クレタ島・中央北部/1982年


ミノアのワインは人々の生活の質を向上させ、庶民の住む街にオープンした「ワイン居酒屋」は大繁盛、そして宮殿では連日連夜、美味な赤ワインと子羊のロースト料理がサーブされる「宮廷晩さん会」が開催されていた。
遠来の賓客を歓迎する宴では、7弦リラと二管フルートやシストルムを奏でる楽師の調べに合わせ、当然の事、美しいミノア女性達による優雅な舞が披露された。
なお、アルカネス遺跡・共同墓地から出土したテラコッタ製のシストルムは、手で振ることで三枚の円盤がカタカタ音を出し、共鳴胴の機能を果たす内部が中空のハンドルから響き音が出る仕組みであった。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・フレスコ画 Playing Music Fresco, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡出土・フレスコ画・「音楽を奏でる人達」
水鳥デザインの7弦リラ(たて琴)&二管フルートの演奏者
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・アルカネス遺跡出土・楽器シストルム Minoan Clay Sistrum, Archanes/©legend ej
アルカネス遺跡・フォウルニ共同墓地出土・シストルム
子供埋葬ピトスの副葬品・テラコッタ製の楽器
紀元前2000年~前1900年頃/高さ18cm
イラクリオン考古学博物館・登録番号27695
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

クノッソス宮殿・北東翼部の上階(二階)には、線文字Aスクリプトが刻まれた粘土板IDカードを持つ宮殿の高位の人が入室できたであろう「会員制ゲーム室」があり、発掘では階下レベルから象牙や水晶などで象嵌された、現在のチェスに似た「王家のゲーム盤 Royal Game Board」さえも出土している。戦いとは無縁、ミノアの王国では平和な時代が約500年間も続く。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・「ロイヤル・ゲーム盤」Minoan Royal Game Board, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・象嵌のゲーム盤
「王家のゲーム盤」/イラクリオン考古学博物館
盤サイズ=長辺965mm・短辺553mm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


しかし、「新宮殿時代」の後半期、紀元前1450年頃、後発のギリシア本土ミケーネ人の「クレタ島侵攻」を経て、ミノア文明は発展・繁栄から一気に衰退への道を歩むことになる。
クノッソス宮殿を除き、フェストス宮殿を初めマーリア宮殿と最東部のザクロス宮殿、さらにティリッソス Tylissos など無数の地方邸宅とグルーニア Gournia など繁栄のミノアの町が、連鎖的に完全に破壊されてしまう。

ミノア文明・グルーニア遺跡 Minoan Settlement, Gournia/©legend ej
グルーニア遺跡・丘の頂上・小宮殿&列柱
左遠方=紺藍のエーゲ海・ミラベロ湾
クレタ島・東部/1982年


ミノア文明・ティリッソス遺跡 Minoan House A, Tylissos/©legend ej
ティリッソス遺跡・「邸宅A」
円柱礎の主部屋~角柱の支柱礼拝室
クレタ島・中央北部/1982年

そうして、最後まで残されていた文明センター・クノッソス宮殿も、紀元前1375年頃、突然と発生した大火災により崩壊、床面に落とした陶器が壊れるよりも簡単に、ミノア文明は果敢なくも消滅への歩調を速めることになる。クノッソス宮殿の崩壊を以て、ミノア文明の大繁栄の「宮殿時代」は終焉となる。


ミノア文明&ミケーネ文明 編年表/©legend ej
クレタ島ミノア文明&ギリシア本土ミケーネ文明 編年表
・ミノア文明・「旧宮殿時代」: 紀元前1900年~前1625年
・ミノア文明・「新宮殿時代」: 紀元前1625年~前1375年
ミケーネ文明(時代):  後期ヘラディック文明 LH期
作図:legend ej

本・ゲーム&映画・ファッション・PC・カメラ・食品&飲料・アウトドアー・薬品・・・


ミノア文明/クレタ島・中央~東部地域に遺跡が集中する理由は?

現在までにクレタ島で発掘された宮殿や邸宅遺跡、町や居住地遺跡など、ミノア文明遺跡のデータからは、東西250kmのクレタ島のほぼ中央部~東部地域に遺跡が集中している、という特徴がある。
クレタ島の西部地域では、レセィムノン Rethymnon~南方5km、後期ミノア文明LMIIIA期~B期に属する200基の横穴墓が発見されたアルメーニ共同墳墓遺跡 Armeni などを含め、「新宮殿時代」より以降、ミノア文明の最終期には居住地の増加が複数確認できる。
しかし、全体的に見た場合、クレタ島のより西側の地域では、岩肌むき出しの乾いた山地と草木の乏しい険しい山岳地帯(最高峰=聖なるイダ山 Mt Ida 2,456m)が連続している地理的な条件から、ミノアの時代から人々の生活基盤が定まらなかった、と考えられる。

クレタ島・中央北部・ミノア文明・遺跡 地図 Map of Minoan Sites, North-Central Crete/©legend ej
クレタ島・中央北部・ミノア文明・遺跡 地図
作図:legend ej

クレタ島・東部・ミノア文明・遺跡 地図 Map of Minoan Sites, East Crete/©legend ej
クレタ島・東部・ミノア文明・遺跡 地図
作図:legend ej

ミノア文明・アルメーニ遺跡/Google Earth
アルメーニ共同墓地遺跡/紀元前1400年~前1200年
クレタ島・西部・レセィムノン Rethymnon~南方5km
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入

GPS アルメーニ共同墓地遺跡: 35°19′04″N 24°27′47″E/標高365m


ミノア文明/産業と海外交易の発達

クレタ島の東半分に点在しているクノッソス宮殿やマーリア宮殿など4か所のミノア宮殿遺跡、アギア・トリアダ遺跡 Agia Triada や1992年に発見されたガラータ遺跡 Galata など準宮殿遺跡、ミノア時代からの地名を継承するアムニッソス Amnisos など邸宅遺跡、あるいはグルーニア遺跡やパライカストロ遺跡 Plaikastro など大規模な町遺跡、そして無数の墳墓や居住地遺跡などは、ほぼ間違いなく平地か低い丘陵地の平原で見つかっている。

これらの遺跡群の周囲には比較的肥沃な耕作地が展開していることから、金属鉱山が皆無であったクレタ島ミノア文明では、陶器や装飾品、フレスコ画などの工芸生産のほかに、オリーブやブドウとワイン、果実や小麦や野菜などの農産生産が発達、そして早い時期から舟を使った海洋漁業、エジプトやキプロス島など東方との海外交易に経済的な活路を見出して来た。

海洋漁業関連では、クノッソス宮殿遺跡~北方1km、ザフェール・パポウラ遺跡・横穴墓から、腐食が進んでいたが副葬品の象牙製の小舟の模型が見つかっている。海洋民族ミノア人が乗り熟した標準タイプの小舟を模型として、発掘者エヴァンズの推測によれば、原形の全長250mmとされる。
この象牙製の小舟の模型は後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1400年に製作されたと考えられる。

ミノア文明・ザフェール・パポウラ遺跡・象牙製の舟模型 Minoan Ivory Boat Model, Zafer Papoura/©legend ej
ザフェール・パポウラ遺跡出土・象牙製の小舟の模型
エヴァンズ推測=原形全長250mm
後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1400年
イラクリオン考古学博物館・登録番号120
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

クレタ島・小舟の沿岸漁業/©legend ej
透明なエーゲ海・小舟の沿岸漁業
クレタ島・東部シティア近郊


大宮殿を囲むクノッソスの街・「コノソ ko-no-so」

ある研究者の説によれば、紀元前1500年前後、「宮殿時代」の最盛期のクノッソス宮殿周辺には、最大で4万人前後の住民が居住して宮殿と王の家族を支え、当時人々から「コノソ ko-no-so」と呼ばれたクノッソスの街が形成されていたとされる。
大宮殿を囲んだクノッソスの街は、内乱も外国との戦いもないクレタ島ミノア文明のセンター都市の役割を果たし、少なくとも500年以上の間、最大で1,500年近い期間にわたって安泰と繁栄を続けていたのである。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・周辺遺跡 広域地図 Map Prehistoric Site around Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡&周辺 地図
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡&周辺 地図 Map of Prehistoric Sites around Knossos Palace/©legend ej
イラクリオン~クノッソス宮殿遺跡 先史文明遺跡 広域地図
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

日本の歴史を見る時、比較的安定し繁栄が長く続いた京都を中心とした、「平安時代」でさえも390年間で終わっていることを考えると、戦いと覇権争いで激しく揺れ動く先史の東地中海域にあって、クレタ島クノッソスの大宮殿と街 ko-no-so を初め、ほかの三か所のミノア宮殿と多くのミノア人の町の戦いのない連綿と続いた平和と繁栄は、正に「エーゲ海の奇跡」と言っても良いかもしれない。

クノッソスの名称の変化
・ミノア文明の時代=ko-no-so コノソ
・ミノア文明崩壊後=ko-no-sos コノソス
・現代=Knossos クノッソス


「ギリシア神話」の伝承・「迷宮」と呼ばれたクノッソス宮殿

今から3,500年以上前、ミノア文明の最盛期の「新宮殿時代」、大小合計で推定1,000室を数えたとされるクノッソスの大宮殿の伝承は、その建物の迷路のように入り組んだ複雑な配置と構造から、《ギリシア神話》の中で「迷宮 Labyrinth」と呼ばれてきた。
クノッソス宮殿に関して、今日、日本を含む世界でも胸躍る神話 Mythology/Myth の世界に力点を置いている人が予想以上にたくさん居る。その神話に傾向するほとんどの人は、批判ではないが、現実にクノッソス宮殿遺跡を訪ねていないからこそ、先人達がまとめ上げた《ギリシア神話》を優先しているとも言える。

史実としての先史時代を紐解くならば、このクノッソス宮殿こそが、今から5,000年前に初期ミノア文化を生み出し、クレタ島のみならずギリシア本土の一部を含む、エーゲ海全域を支配した歴代ミノア王の居城であった。
権力を持った王の住む単純な宮殿ではなく、クノッソス宮殿は紀元前1900年頃に始まる旧宮殿の時代から、その後に再建された新宮殿が崩壊するまで約500年以上も続く「宮殿時代」に、広範囲をカバーする国家的な行政官制度も含め、現在未解読の線文字Aと呼ばれる文字を使った、精度の高い官僚機構を確立したミノア文明の政治・経済・文化の最大センターであった。

クノッソス宮殿は神話や想像力を自由に膨らませるファンタジーの対象や夢物語の世界ではなく、実在の、しかも3,500年以上も前に繁栄した、ヨーロッパで「最初の文明国家」の歴然とした中枢の現場であったのである。

ミノア文明・線文字A粘土板 Linear A from Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡出土・線文字A粘土板
紀元前1700年頃・ミノア文明の文字
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/描画:legend ej



発掘者サー・アーサー・エヴァンズ Sir Arthur John Evans

クノッソス宮殿遺跡の発掘ミッション

クノッソス宮殿遺跡の発掘ミッションは、今から120年以上前、1900年、サーの称号を持つイギリスの考古学者アーサー・エヴァンズにより開始された。
そして数年のうちに世界の考古学研究者の驚きとともに、すでに3,500年以上前に「世界最古のお風呂」とも言われる王妃のバスタブ(浴槽)や水洗トイレ、上下水道システムまでも完備していた部屋数1,000室を数えるミノア文明の大宮殿、色鮮やかなフレスコ画で装飾された大規模な遺構の全容が陽の目を見ることとなった。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・発掘者エヴァンズ
クノッソス宮殿遺跡・発掘者サー・アーサー・エヴァンズ


考古学者エヴァンズの生涯

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡の最初の発掘者となるアーサー・エヴァンズは、1851年、11世紀から製粉工場があったイギリス・ロンドンの北西35kmのナッシュ・ミルズ Nash Mills の高貴な家庭に生まれた。
アーサーの父ジョン・エヴァンズ John Evans もサーの称号を持つイギリスの著名な考古学者であり、世界最古のロンドン地質学会から、《地質学原理》の著者サー・チャールズ・ライエル Sir Charles Lyell の業績を称えた「ライエル賞 Lyell Medal」を受賞(1880年)した地質学者でもあった。
アーサー・エヴァンズは、イギリスの有力な国会議員であり、建築学・歴史学者でもあったエドワード・フリーマン教授 Edward Freeman が教鞭を執る、オックスフォード大学 Oxford U. で近世の歴史学を専攻、最優秀の成績を収め、さらにドイツ・ゲッティンゲン大学 U. Göttingen にも在籍した後、特に北欧とバルカン半島への広範囲な旅行に出たとされる。

その後、1878年、恩師フリーマン教授の娘マーガレットと結婚したエヴァンズは妻と共に、現在のアドリア海の美しい世界遺産・城塞都市ドゥブロヴニク Dubrovnik に落ち着き、ギリシアへの旅行を行った。
その旅行を通じて、今日、世界遺産となっているギリシア本土ミケーネ宮殿遺跡 Mycenae Palace やティリンス宮殿遺跡 Tiryns Palace の発掘で名を知られた、「宝探しの考古学者」とも言われたドイツ人実業家シュリーマン Johann Schliemann と会い、エーゲ海文明に関する多くの情報を交換した、と伝えられている。

1880年代にイギリスへ戻ったエヴァンズは、34歳の若さでオックスフォード大学付属アシュモレアン博物館 Ashmolean Museum の館長の職に就いた。
しかし、1893年、不幸にも愛する妻マーガレットの結核が悪化、エヴァンズに見守られながら、イタリア・ジェノバの西方のフランス国境に近い地中海の風光明媚な海岸・アラッシオ Alassio の町で息を引き取り、マーガレットは当地に埋葬された。エヴァンズとマーガレットの間には子供はなかった。

翌年、1894年、クレタ島を訪れた42歳のエヴァンズは表面調査を実施して、クレタ考古学協会に対してクノッソス地区の発掘ミッションを申請する。当時、既にクノッソス地区の考古学的な重要性は広く知られており、「宝探しの考古学者」のシュリーマンもクノッソス地区の発掘許可をオスマン帝国のクレタ島統治者から得ていたが、財政面の問題解決に手間取り、発掘作業をスタートできないでいた。
1829年、ギリシアはオスマン帝国から完全に独立したにも関わらず、クレタ島での領土問題の政治的な混乱は長く続き、1898年になりようやくオスマン帝国がクレタ島から撤退、ギリシア新政府の統治が始まり、幸運にもエヴァンズはクノッソス地区での発掘作業をスタートできるようになった。

時は1900年3月23日、エヴァンズのクノッソスでの発掘作業が開始された。そして1年も経過しない内にエヴァンズは、次々とクノッソス宮殿の遺構とおびただしい宝飾品やフレスコ画の断片、3,000点を数えた線文字B粘土版などを発掘して世界に名を残す偉大なる考古学者の一人となる。1904年、四年間のエヴァンズによるクノッソス宮殿区域の大規模な初期発掘ミッションは終了する。

その後、エヴァンズはクノッソス宮殿遺跡の周辺などで散発的な発掘ミッションを続け、得られた貴重な発掘データを集約、1921年以降、1928年、1930年、1935年、連続してクノッソス宮殿遺跡とミノア文明に関する詳細な発掘レポート・「The PALACE of MINOS at KNOSSOS」を発表した。

第二次大戦の最中、1941年、エヴァンズはオックスフォード~南西4km、今でも野生シカが生息する広大な雑木の森と池が点在する、ユールバリィの丘 Youlbury に建てた邸宅で、最期までエーゲ海考古学への拘りを捨てることなく90歳の生涯を終えた。

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クノッソス宮殿の建物構成

建物配置・無数の装飾部屋

クノッソス宮殿の中央中庭 Central Court の周囲には、想像上の動物の「グリフィン」を描いたフレスコ画で飾られた王座の間を初め、バスルーム&バスタブや水洗トイレを含む王や王妃とその家族のプライベート生活区画、祭司・神官や高位の役人を初め公務スタッフや女官達の部屋、あるいは遠来の客を迎える大広間や列柱の広間などが、言葉どおり整然と配置されていた。

発掘者エヴァンズは、クノッソス宮殿の西翼部二階をイタリア・ルネッサンス様式の大邸宅からヒントを得て「Piano Nobile/高貴な造りのフロアー」と呼び、この階に配置された無数の大広間の壁面や天井などは、《女神パリジェンヌ》など多くの女神を初め宮廷の崇美な女性達の姿、自然界の穏やかなモチーフや動物達を描いた色鮮やかなフレスコ画で豪華に、かつ美しく装飾されていた。

エヴァンズの大規模な発掘を通して、そのほかクノッソスの宮殿直轄の貯蔵庫群や工房職人の作業場、宝庫や聖なる両刃斧/ラブリュス Labrys の記号を刻んだ祭祀的な部屋、あるいは厳粛な宗教儀式を行う「聖なる浴場 Ritual Bath」などの宮殿の限られた人達が使う特殊構造の内輪の施設なども確認された。
そして、クノッソス宮殿の構造面では、半地下室風の秘密めいた部屋、採光用の吹抜け構造の空間、幅のある大階段と狭い無数の石段、複雑な通路で結ばれた数え切れない広間と建物の遺構が確認されている。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡/Google Earth
クノッソス宮殿遺跡
クレタ島・中央北部
地図情報:Google Earth⇒テキスト挿入

ミノア宮殿・中央中庭のサイズ比較
・文明センター・クノッソス宮殿: 50mx25m
・メッサラ平野・フェストス宮殿: 52mx22m
・北海岸・マーリア宮殿: 48mx22m
・最東部・ザクロス宮殿: 30mx12m

ミノア文明・宮殿&中央中庭サイズ/©legend ej
ミノア文明・宮殿区域&中央中庭 サイズ比較
作図:legend ej



二階~三階~四階建て構造/部屋数1,000室

ミノア文明の特徴ある建物の施工技術や壁面の厚さ、柱の太さなどを建築面から想定した場合、クノッソス宮殿の建物全体は少なくとも二階建ての構造、西翼部と王家のプライベート生活区画などがある東翼部では、露出した岩盤斜面と段差を利用しているので三階~四階、あるいは地下を含めると宮殿の一部区画では最大五階という高層構造であった可能性もある。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・推測模型/©legend ej
クノッソス宮殿・推測模型(木製)
部屋数1,000室/東翼部~中央中庭~西翼部
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/1996年

これら新宮殿の建物がすでに3,600年前に造られ、建造物というハード面だけでなく、文字を使った行政や官僚組織のシステムや財務管理などソフト面を含む、王国の中央政府として立派に機能していたのは驚きである。
しかも宮殿全体では部屋数1,000室とも推計され、正にクノッソス宮殿は先史時代の稀に見るダイナミックな王宮であった。


クノッソス宮殿遺跡がUNESCO「世界遺産」から外されている理由は?

同じ先史時代に繁栄したエーゲ海文明でありながら、ギリシア本土ミケーネ文明を代表するミケーネ宮殿 Mycenae Palace やティリンス宮殿 Tiryns Palace より、ミノア文明のクノッソス宮殿の方が、どう転んでも宮殿としての構造面や施工技術などハード面の規模のみならず装飾やインテリアなど、宮殿の風格も明らかに数ランク上と判断できる。
しかし、ミケーネ宮殿遺跡とティリンス宮殿遺跡は合同でUNESCO世界遺産の登録を受けているが、残念なことにクノッソス宮殿遺跡は未だに世界遺産から外されている。やはり、エヴァンズとその後のギリシア政府当局による、やり過ぎる「こうであろう復元・複製」が、その最もたる理由なのであろうか?


エヴァンズの遺構の復元・複製

120年前、クノッソス宮殿遺跡の発掘者となったアーサー・エヴァンズが、イギリスの高貴な階級に属する優秀な考古学者でありながら、発掘後にかなりの区画や部屋などを次々に復元・複製したことで、UNESCOはミノア文明の極めて重要なクノッソス宮殿遺跡を未だに「世界遺産の登録から外している」、という話は良く知られている。
遺構の、特に鮮やかな朱色と黒色塗装の太い石柱や高さのある建造物、例えばほとんどのツーリストが近寄って眺める北入口、木立の中に佇む南の邸宅、そのほか高さのある外壁や部屋の天井部分、階段、比較的キレイになっている広間の内部壁面などが、エヴァンズによりコンクリートで復元・複製された区画である。
また10人中10人のツーリストがカメラシャッターをONする人目をひく色鮮やかな大型のフレスコ画、それを飾る広間や建物なども、残念なことに一部を除きほとんどが復元・複製である。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・北入口 North Gate, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・北翼部・北支柱広間~北入口
・北入口の建物=エヴァンズのコンクリート復元
・手前・大型角柱群=発掘時の状態の北支柱広間
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・北入口付近/Sir Arthur Evans, Heidelberg U.
クノッソス宮殿遺跡・北翼部・北支柱広間~北入口
発掘時の北支柱広間(角柱群)~北入口(石組み)
写真情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
The PALACE of MINOS at KNOSSOS v.I(1921年)
Digital Library, Heidelberg U. (DE)


ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・プロピュライア South Propylaea, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・南西翼部・南プロピュライア
復元された建物&複製《行列フレスコ画》
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・南の邸宅 South House, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・南の邸宅
クレタ島・中央北部/1982年

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・南の邸宅・プラン図/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・南の邸宅・アウトラインプラン図
参考情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート(1921年)
Ashmolean Museum, U. Oxford (UK)
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

宮殿の南入口に連絡する南の邸宅を例に挙げれば、エヴァンズの発掘時に残っていたのは、床面や数段の階段、円柱の下1/4程度だけ、円柱の朱色部分から上部は復元・複製した箇所である。

従って、これらは多くの人に遺跡を魅力的に見せるためのエヴァンズの親切心とも思える意図なのか、温厚な人柄と高貴なプライドからの表現なのか、あるいは考古学的な確たる裏づけあっての復元・複製なのかの判断は難しい。
しかしサイエンスであるべき現代の考古学の立場では、コンクリートを初め自然界からの顔料などではなく、石油化学で製造された塗料を使った過剰な「こうであろう復元・複製」は相当に「やり過ぎ」と批評され、純粋な意味での考古学研究の精度を狂わせている、という手痛い意見もある。

ただし、同じくエーゲ海文明のトルコ西海岸のトロイ遺跡 Troy を初め、ギリシア本土ミケーネ宮殿遺跡とティリンス宮殿遺跡などで「財宝目当て」の発掘を行った、ドイツ人実業家シュリーマンの盗掘にも等しいやり方とは大きく異なり、伝統と誇り高きイギリスの考古学者としてクノッソス宮殿遺跡の発掘ミッションを実行したエヴァンズは、エーゲ海ミノア文明の解明に大きな功績を残した。

エーゲ海域・主要遺跡 地図 Map of Major Archaeological Sites, Aegean Sea/©legend ej
エーゲ海域・主要遺跡 地図
作図:legend ej

世界遺産/トロイ遺跡・西入口傾斜路 Troy, Turkey/©legend ej
世界遺産/トロイ遺跡・西入口傾斜路&スカイアイ門
シュリーマン発掘のイリオス王国の遺構
トロイの木馬は西入口~城内へ運び込まれた
トルコ・西沿岸地方/2004年

掘り出した多くの宝飾品を本国プロイセン・ドイツ帝国へ密輸までした「宝探しの考古学者」のシュリーマンとは反対に、エヴァンズは自らが発掘したほとんど全ての出土品をギリシアの考古学博物館に残している。
この点でエヴァンズのクノッソス宮殿遺跡の発掘にかけた熱意と人間的な誠実性、高い文化意識、そして考古学の学術的な成果は歴史の中で高く評価される、と私は確信する。

「南の邸宅」からの出土品
エヴァンズの発掘では、宮殿の南西翼部の南側、少し低い場所に残る南の邸宅からは、渦巻き線&太い横帯線デザイン、器形がヴァシリキ様式に近似する水差しを含め色々な出土品があった。
特に青銅製品の出土例が顕著であり、高さ60cmの三脚付き&三個ハンドル付き直径61cmの大鍋、高さ38cmの三脚付き・直径38cmの中鍋、底の浅い鍋やフライパン形容の容器、道具としての両刃斧、さらに青銅製の短剣(四本)、ナイフやノコギリが三丁(三本)見つかっている。
ノコギリに関してエヴァンズは、最長163cmの大型品は木材の伐採ではなく、内装建材として多用された石膏石の切断に使われたと推測している。

そのほかでは「新宮殿時代」の最盛期に属する石製の印章の出土品があった。一つは滑石・ステアタイト製の円形レンズ型の印章、印面の横幅15mm~16.5mm、振り向き姿勢のグリフィンが刻まれている。製作は後期ミノア文明LMI期・紀元前1500年頃と推定された。
もう一つの印章は金製リングタイプ、素材には濃紺色のラピスラズリが使われ、印面の横幅18mm~19mm、ほぼ円形の円盤型である。印面には大きなライオンと調教師が刻まれている。製作はグリフィン印章とほぼ同じ時期、後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年頃と推定された。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・南の邸宅・石製印章 Minoan Stone Seal, Griffin and Lion, South House, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・南の邸宅出土・石製印章 NTS(Not to Scale)
新宮殿時代・後期ミノア文明LMI期・紀元前1550年~前1450年
=素材・滑石・ステアタイト製・グリフィン
レンズ型印面=円形・横幅15mm~16.5mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号842
=外周・黄金の造粒技術&素材・ラピスラズリ
円盤型印面=円形・横幅18mm~19mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号839
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

復元・複製された区画を除き、クノッソス宮殿遺跡のほかの区画は、120年前に発掘された当時のままの状態を保ち、エーゲ海に繁栄したミノア文明の最大規模・第一級の遺構と言える。クノッソス宮殿遺跡は今や「文明の島クレタ」の最も重要な経済効果の源泉であり、観光が主要産業であるリゾート・クレタの最も人気のあるツーリスト・スポットの役目を果たしている。
従って人々の言う「クレタ島へ旅行に行く」とは「クノッソス宮殿遺跡を訪ねる」ということを意味している。かの地を訪れていないツーリストは、「クレタ島=クノッソス宮殿」という太古の昔からの普遍方程式を知っておくべきである。

クノッソス宮殿遺跡の「こうであろう復元・複製」
本来の意味では、「復元」とは「元の形容・位置・状態へ戻す」ことであり、「複製」とは「原品や元の建物と同じ物を新たに製作・制作する」ことである。
現状、クノッソス宮殿遺跡の多くの復元・複製箇所は、厳密に言えば、本来の意味の復元・複製ではなく、あくまでも発掘者エヴァンズとその後のギリシア政府当局が、何らかの条件と意図でイメージしたコンクリートと化学塗料を使った「こうであろう復元・複製」、と言っても決して偏見的な批判には当たらない、と私は思う。
考古学はサイエンスであるが故に真実を最重要視する学問であり、観光優先とも思えるイメージによるやり過ぎた「こうであろう復元・複製」には、真実を誠実に追究する多くの研究者から疑問や厳しい反論が浴びせられるのは当然であろう。

あまりに過剰な「こうであろう復元・複製」の区画が増加すると、クノッソス宮殿遺跡の一体どの箇所がミノア文明の本物の遺構なのか、フレスコ画が本当にミノア時代と同じであるのか、誰にも判断できなくなる。
これでは先史・古代の正確な情報が後世へ伝達できない上に、クノッソス宮殿遺跡は世界遺産に登録されることのないまま、誠に残念なことに先史遺跡を利用し託けた「文明アミューズメントパーク」に変貌してしまうだろう。

比較が正しいかどうかだが、紀元前7000年期のキプロス新石器文化のキロキティア居住地遺跡 Khirokitia/Choirokoitia では、遺構は発掘時のままでまったく手を加えずに管理している。その上でツーリストに参考見学してもらう「復元家屋」は、遺構から遠く離れた隠れた場所に設けている。こういうスマートなやり方のキロキティア遺跡は、1998年、UNESCO世界遺産に登録されている。

世界遺産/キプロス文明・キロキティア遺跡 Khirolitia, Cyprus/©legend ej
世界遺産/キロキティア遺跡・トロス式墳墓・1号墓
キプロス島・中部/1997年

UNESCO・世界遺産・登録基準
UNESCOの世界文化遺産の概要の中、「世界遺産の登録基準」の一部を確認すると、「完全性」と「真正性」が強調されている。

--- ある資産が顕著な普遍的価値を有するとみなされるには、当該資産が「完全性」、及び「真正性」の条件について満たしている必要がある。この「完全性」とは、世界遺産の顕著な普遍的価値を表すものの全体が残されていることを言い、「真正性」とは、文化遺産の形状、材料、材質などがオリジナルな状態を維持していることを言う ---

現状のクノッソス宮殿遺跡を観る時、先史遺跡という対象であり、「完全性」はほぼ基準に適合できると思う。しかし「真正性」においては、発掘後~今日に至るまで遺跡の多くの箇所で「こうであろう復元・復元」が行われ、その材料・材質面では現代のコンクリートや化学塗料を多用している事実からして、とても「世界遺産の登録基準」に適合できるとは言えない、と思える。
人々に見せるためか、度が過ぎるほどの「こうであろう復元・複製」の結果、「文明アミューズメントパーク」に変貌しつつあるクノッソス宮殿遺跡の、将来、世界遺産に登録される可能性は、残念ながら限りなくゼロに近似するだろう。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 関連ポストは「12部構成」となっています。
1. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace I 概要(当ポスト)
2. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace II 西中庭~南翼部
3. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace III 中央中庭・王座の間
4. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IV 聖域・宝庫
5. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace V 貯蔵庫
6. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VI 女神パリジェンヌ
7. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VII 王の居室・聖所
8. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace VIII 王妃の間
9. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace IX 雄牛跳び
10. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 Knossos Palace X 北~東翼部
11. ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡 周辺の先史遺跡
12. ミノア文明・クノッソス宮殿 崩壊の原因は?

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