2021/10/06

ミノア文明・パライカストロ遺跡 Palaikastro

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パライカストロ遺跡の概要

パライカストロ遺跡の位置

位置: シティア~東方16km/ザクロス宮殿遺跡~北方11km(道路27km)
GPS パライカストロ遺跡: 35°11′42″N 26°16′32″E/標高10m~15m
現在 パライカストロ村: 人口1,200人

クレタ島・東部の中心地は、人気の高いリゾート・アギオス・ニコラオス Agios Nikolaos、そして南岸のイエラペトラ Ierapetra であるが、最東部では白い港町シティア Sitea である。
ミノア文明最大級の町遺構・パライカストロ遺跡 Palaikastro は、シティア~東方16kmのクレタ島の最東部、現在のパライカストロ村~東方2km付近、標高85mのカストリ Kastori の岩丘の麓、エーゲ海岸で発見された。

クレタ島・東部・ミノア文明・遺跡 地図 Map of Minoan Sites, East Crete/©legend ej
クレタ島・東部・ミノア文明・遺跡 地図
作図:legend ej

クレタ島・東部・ミノア文明・遺跡 地図 Map of Minoan Sites, East Crete/©legend ej
クレタ島・最東部・ミノア文明・遺跡 地図
作図:legend ej

クレタ島/白い街とリゾート
クレタ島東部/白い街シティア&人気のリゾート・アギオス・ニコラオス
穏やかな紺藍色のエーゲ海・朱色の屋根&白壁の家並み・立ち並ぶレストラン&カフェ

パライカストロの呼び名
「パライカストロ Palaikastro」は、現地の標識や地図上の地名では「Παλαιχαστρο」であり、地元でも年配者や若者など年齢や立場の違いにより、「パライカストロ」や「パライオカストロ」や「パレカストロ Palekastro」など、あるいはギリシア以外のヨーロッパ域の人々の間でも色々な発音で呼称されている。
私の判断では、(偏見かもしれないが)現地名の「Παλαιχαστρο」を小学生のように真面目に発音すれば、「パライカストロ」が最も正確な呼び方で、「パライオカストロ」や「パレカストロ」は簡略的な呼称のような感じを受ける。

シティア考古学博物館
ザクロス宮殿遺跡 Zakros Palace、パライカストロ遺跡とその周辺のミノア文明遺跡からの重要な出土品は、イラクリオン考古学博物館 Heraklion Archaeological Museum で展示・公開されている。ただ、点数は多くはないが、クレタ島東部のシティア考古学博物館 Sitea Archaeological Museum でも出土品を展示公開している。
シティア考古学博物館の館内は明るく、小規模だが展示品が丁寧に整理された「小奇麗な博物館」という印象がある。展示対象はクレタ島の新石器文化~ミノア文明~ローマ時代に遡る。

参考情報だが、シティア考古学博物館のミノア文明関連の目立った展示品を挙げれば、クレタ島のワインの歴史を伝えるヴァシィペトロン邸宅遺跡 Vathypetron と同様なタイプ、アノ・ザクロス遺跡 Ano Zakros から出土した滴り口付きワイン搾りプレス容器、パライカストロからの金表装・カバの牙材を組み合わせた青年像 Kouros(後述)、線文字Aスクリプト粘土板、青銅製の道具類、ミノア文明の色々な時代の陶器などである。

パライカストロ遺跡の発掘

地元で「Rousolakkos」と呼ばれるオリーブ耕作地に広がるパライカストロ遺跡は、ザクロス宮殿と同じく、ミノア文明センターであったクノッソス宮殿 Knossos Palace から遠く離れたクレタ島の最東部に位置して、東地中海のキプロス文明や中東地域、そして先進のエジプト文明との交易と影響と恩恵を一早く受けた場所とも言える。

ミノア文明・パライカストロ遺跡周辺 地図 Map around Minoan Palaikastro, Crete/©legend ej
パライカストロ遺跡 周辺 地図
クレタ島・最東部/作図:legend ej

ミノア文明 最大級の町遺構・パライカストロの発掘は、1902年~1906年、イギリス考古学チーム(アテネ)R. Bosanquet と R.M. Dawkins により開始された。
その半世紀の後、1962年~1963年、Hugh Sackett と Mervyn Popham の考古学チームが、さらに1986年以降はカナダ・モントリオール生まれの考古学者 Joseph Alexander (別名=Sandy) MacGillivray が中心となり、今日まで発掘作業が継続されている。

現在までに発掘で確認されたパライカストロのミノア市街地は、一部が路面から少し盛り上がる石板舗装の施工、長さ150mの「大通り Main Street」と呼ばれる、ほぼ直線状に東西に延びる幅広の通りとそれに直交する南北に延びる複数の通りで分割された、大まかに「10のブロック」で名称区分されている。
発掘順で令名されたブロック区画は、ギリシア語のアルファベット(アルファ・ベータ、ガンマ、デルタ・・・)が、さらに各ブロックの大規模な建造物には「建物番号」&「部屋番号」が付けられている。
パライカストロ遺跡の市街地は、標高85mのカストリの岩丘 Kastori~南方700m付近、海岸のキオナ浜 Xiona Beach~250mほど内陸、平均して海面レベルより10m~15m高い平面地に広がっている。

パライカストロ遺跡周辺・キオナ浜~カストリ岩丘 Xiona Bearch and Kastri Hill, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡 周辺 Xiona浜~カストリの岩丘
クレタ島・最東部/1982年

パライカストロ遺跡 周辺 Landscape near Palaikastro, Crete/©legend ej
パライカストロ遺跡東方から周辺を眺める
・左=標高85m カストリの岩丘
・中=エーゲ海・Xiona浜
・右遠方=Palako半島
クレタ島・最東部/1982年

「市街地」の規模に限れば、パライカストロの町は東部地方のグルーニア Gournia の町遺構より一回り大きな専有面積を誇り、クノッソスやマーリア Malia などミノア宮殿と市街地を除き、ミノア文明の最大級の庶民の町であった。その規模は東西約180m、飛び地の市街を含めると南北約200mの範囲であった。
一方、穏やかな尾根に残るグルーニアの市街地はおおよそ東西140m・南北200mである。

ミノア文明・グルーニア遺跡 Minoan Town, Gournia/©legend ej
グルーニア遺跡・遠望
クレタ島・東部/1982年


パライカストロの市街地では、各ブロックには部屋数20室~40室が集合する複数の「大規模な建物 Building」があり、その周辺にさらに付属するように小規模な建物が密集している。今日までに確認された各ブロックの大規模な建物と付属建物群では、パライカストロ市街全域で合計約530を数える部屋や中庭などが確認されている。


ミノア文明の興隆~崩壊/パライカストロの居住~衰退

1900年代初めから今日までの発掘では、わずかだが初期ミノア文明EMIIA期・紀元前2600年~前2400年に遡る住居の痕跡と埋葬施設が見つかっていることから、パライカストロでの最初の居住はミノア文明の相当早い時期から、と考えられている。
その後、パライカストロは緩やかなペースで発展して、中期ミノア文明になるとカストリの岩丘の麓や市街地の一部では陶器が焼かれていたことが判明している。

さらに文明センターの宮殿地区では中期ミノア文明MMIB期~MMIIB期、紀元前1900年~前1600年、おおよそ300年間続く「旧宮殿時代」となる。その頃、パライカストロの町は大きく発展・拡大、建築施工技術の進歩も後押しとなり、特に市街の東半分のエリアに無数の住居・家屋が造られた。
この時期に市街地~南南東800m、標高250mの岩山ペツォファ Petsofa には山頂聖所が建てられ、人口の増加に連動して聖所の山麓~市街地周辺には埋葬施設が増設された。

ミノア文明&ミケーネ文明 編年表/©legend ej
クレタ島ミノア文明&ギリシア本土ミケーネ文明 編年表
・ミノア文明・「旧宮殿時代」: 紀元前1900年~前1625年
・ミノア文明・「新宮殿時代」: 紀元前1625年~前1375年
ミケーネ文明(時代):  後期ヘラディック文明 LH期
作図:legend ej


「旧宮殿時代」の末期、紀元前1650年頃、クレタ島では大きな地震が発生したことで、ミノアの諸宮殿のみならず、庶民の町も相当な被害を蒙り、パライカストロでは市街地の大部分の建物が崩壊した。
中期ミノア文明IIIA期・紀元前1625年頃、クノッソスやフェストス Phaestos、マーリアでは新宮殿の造営が始まり、さらにパライカストロ~南方11kmの最東部ザクロス海岸では初めての宮殿建設が行われ、ミノア文明は大繁栄の「花ほとばしる新宮殿時代」が始まる。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・中央大階段 Central Great Staircase, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・中央大階段
中央中庭~西翼部上階を結ぶ宮殿最大級の階段
クレタ島・中央北部/1994年


ミノア文明・フェストス宮殿遺跡 Great Staircase, Phaestos Palace/©legend ej
フェストス宮殿遺跡・大階段周辺
クレタ島・メッサラ平野
1982年/描画:legend ej


ミノア文明・マーリア宮殿遺跡 Minoan Pillar Room, Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡・西翼部・支柱礼拝室
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年


ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡 Minoan Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・北翼部~西翼部~中央中庭
クレタ島・最東部/1996年


大地震の後、文明センターでの新宮殿の造営と並行するように町の再建が行われたパライカストロでは、市街地全域に大規模な居住建物が再建され、宮殿地区と同様に後期ミノア文明LMI期、エーゲ海に面する最東部のミノア人の町は最盛期を迎える。

しかし、華やかな「新宮殿時代」が始まってから175年後、後期ミノア文明LMIB期・紀元前1450年頃、ギリシア本土の好戦的なミケーネ人 Mycenaean による「クレタ島侵攻」が始まり、クノッソス宮殿を除くフェストス宮殿とマーリア宮殿、ザクロス宮殿、地方の邸宅、さらに庶民の町や小さな居住地さえもが攻撃を受け、非常に短い間にすべてが崩壊してしまう。

東部のグルーニアと並び、最東部のパライカストロの町も火災に包まれ、そのほとんどの建物が破壊され、住民は町を放棄せざるを得なかった。その後、ある程度の住民は破壊された町へ戻り、再居住したことが判明しているが、大規模な建物などが再建されたことを示す痕跡は確認できていない。

ミケーネ文明・「ミケーネ兵士」の絵柄陶器 Mycenaean Ware, Soldiers Design, Mycenae Palace/©legend ej
ミケーネ宮殿遺跡出土・クラテール型容器(部分)
戦闘用衣装・武器携行の好戦的な「ミケーネ兵士」の絵柄
アテネ国立考古学博物館/登録番号1426/容器高さ430mm
ペロポネソス・アルゴス地方/1987年

予想も出来なかったミノア文明最大の惨劇を経て、唯一残されたクノッソス宮殿でのミケーネ人による統治は長く続かず、「クレタ島侵攻」から75年後、後期ミノア文明LMIIIA1期・紀元前1375年頃、理由は不明だがクノッソス宮殿大火災が発生した。火炎はクノッソス宮殿全体に広がり、部屋数1,000室を誇り、フレスコ画で装飾されたミノアの華麗な大宮殿は崩壊、250年間続いた「新宮殿時代」が終焉する。

クノッソス宮殿の崩壊を以て、統治者を失ったミノア文明の衰退のスピードは急加速されるが、紀元前1375年以降、文明センターから遠い最東部のパライカストロでは人口の増加もあり、町にはわずかに「復活」の傾向が見られた。
しかし、その後の度重なる地震が再興を阻み、住民の飛散と町の放棄、再居住が繰り返された後、紀元前1250年頃、パライカストロは完全に衰退、以降、繫栄のミノア人の町の復活が叶うことはなかった。その後のパライカストロは人々の記憶と歴史の中で忘れ去られて行く。



2021年10月12日 パライカストロ地震
現地時間・正午過ぎ12時30分頃、パライカストロ・Xiona浜~東方5km・深さ10kmを震源とする大きな地震(揺れ・VIII)が発生した。マグニチュード6.4、日本の震度レベルで言えば、パライカストロ村=震度6弱、シティア=震度5強の揺れを観測した。
震源が10kmと比較的浅い直下型地震であったため、ほとんど震源の真上となるパライカストロ周辺が極端な揺れとなり、沿岸ではわずかな津波を観測した。地震発生時、震源は遺跡~550m離れた Xiona 浜~沖300m付近となっていたが、その後、震源が東方沖5kmと修正された。

地質学的には、エーゲ海 Plate に乗っているエーゲ海域は、アフリカ Plate とアナトリア Plate、そしてユーラシア Plate から圧力を受ける地震の多発地帯でもある。この地震の前、過去2週間の間にクレタ島・中部~東部にかけてマグニチュード4以上の地震が20回ほど発生していたが、10月12日のパライカストロの地震がもっとも大きな地震となった。

2021年10月12日 パライカストロ地震 Palaikastro Earthquake on October-2021, Crete
2021年10月12日 パライカストロ地震
情報:アメリカ地質調査所 USGS⇒テキスト挿入
クレタ島・最東部

東地中海域・岩盤プレート・テクトニクス/©legend e
東地中海域・岩盤プレート・テクトニクス理論
エーゲ海プレート=周囲3岩盤プレートに挟まれ圧縮される状態
プレートの境界面=地震多発/クレタ島東部=わずかに沈下現象
作図:legend ej

パライカストロ市街地に残る遺構

今日、パライカストロ遺跡で見ることのできる発掘遺構のほとんどは、大繁栄の「花ほとばしる新宮殿時代」、紀元前1550年~前1450年に属し、ミケーネ人の「クレタ島侵攻」で破壊されたミノア人の居住した市街地の建物遺構である。
紀元前1450年頃の大破壊と火炎による燃焼崩壊は、各地の埋葬墳墓と文明センター・クノッソス宮殿遺跡を除き、ほかのフェストス・マーリア・ザクロスのミノア諸宮殿遺跡、地方に点在する邸宅遺跡、グルーニアなど町遺跡、そしてエーゲ海沿岸のプッシーラ島の居住地遺跡など、クレタ島ミノア文明のほとんど全ての建造物遺構に共通することである。

ミノア文明・ミルトス・ピルゴス遺跡・邸宅区画 Minoan Villa, Myrtos-Pirgos/©legend ej
ミルトス・ピルゴス遺跡・邸宅区画
舗装中庭~邸宅区画一階レベル~岩丘の頂上付近
丘上・左端=後世の「見張塔」の崩壊遺構
クレタ島・東部南海岸/1996年

ミノア文明・カメシオン遺跡・南西区画の遺構 Minoan Settlement, Chamesion/Chamezi/©legend ej
カメシオン遺跡・中心~南西区画
ランダム配置された変形の貯蔵庫&ピトス容器
クレタ島・東部/1982年


パライカストロ遺跡では、1900年代初めの発掘ミッションの後、多くの遺構が一旦埋め戻されたとされ、第二次世界大戦の後、建築材に活用するため地元住民による遺構石材の掘り出しもあり、ミノアの市街地は相当に「荒れ果てた状態」になったとされる。

最初に1982年、次が1996年、私はパライカストロ遺跡を二度訪ねている。1982年の時点で発掘が完了していたのは、市街地の最も西側で単独で発掘された「邸宅N」、そして舗装大通りとそれに面する「ブロックΔ」のわずかな遺構だけ、そのほかの埋め戻し区域と未発掘エリアは、夏枯れした草に覆われ、全体視では所々に遺構石材の露出がある荒れた状態であった。

2回目に訪ねた1996年の時点では、1986年~1990年代の発掘作業が終了した直後であったことから、現在見ることのできる市街地とほぼ同じ規模(10ブロック区画)、東西約180m、南北約180mの範囲が公開されていた。
なお、2000年代の最新の発掘では、市街地の南東端・「ブロックX」~南方50m付近に飛び地の「Palap区域」が確認されている。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・市街地 ブロック区画 Minoan Town, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡 市街地 アウトライン図
クレタ島・最東部/作図:legend ej


市街地遺構の特徴

概略的には、パライカストロ遺跡は北西~南東方向へ延びる1本の「大通り」と呼ばれる、ほぼ直線状の石板舗装の幅広い通りに沿って、ミノアの市街地遺構が広がっていると言える。
ただ、ミノアの宮殿地区やグルーニアの町とは異なり、パライカストロの町では「準宮殿・小宮殿」と呼ばれるようなハイレベルな統治者が居住した高貴な宮殿相当の建物は確認されていない。この事実は、パライカストロでは町全体を統括・主導する有力な統治者がおらず、1,000年以上の間、庶民だけの力でミノア文明最大級の町の繁栄と発展が続けられてきた、とも言えるだろう。

最西端の「邸宅N」を除き、市街地の建物は現代で言う単独の「一戸建て形式」ではなく、幅のある舗装通りで分割された各ブロックには、部屋数20室~最大40室を集合化した複数の「大規模な建物 Building」があり、それに連なる無数の家屋が何らかの形で連結し合っている、という市街構成に大きな特徴がある。
建物の一部は二階建て、丁度、日本の江戸時代の下町にあった「長屋形式」に似た、複合的な密集建築とも言える。研究者は、各ブロック内にある大規模な建物とその付属家屋には、家族・親族など血縁関係のある人達がグループ居住して互いに協力し合っていた、と考えている。

また、雨水の排水溝が敷設された石板舗装の大通りに面する「ブロックB」を初め、「Δ」と「Γ」、そして最南東部の「ブロックX」の中心付近には、研究者の言う「パライカストロ・ホール Palaikastro Hall」と呼ばれる、四本円柱が立つ舗装床面の高貴な広間が存在した。
そのほか、大規模な建物の中には豪華な床面舗装の部屋を初め、採光吹抜け構造の部屋や舗装の中庭、貴重品の収納箱の封印&保管の証しである粘土印影の出土から宝庫に相当する保管庫、工房や無数のピトス容器の貯蔵庫、井戸や陶器の焼き窯キルンなども確認されている。

規模は小さいながらも、特にパライカストロ市街地に残る床面が石板舗装の採光吹抜け構造の建築は、中央政府のクノッソス宮殿やメッサラ平野のフェストス宮殿などの王の居室 King’s Room や柱廊の間 Pillar Hall などでも採用された高度な建築施工であった。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・列柱の間 Pillar Hall, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・東翼部・列柱の間
・石膏石舗装の床面・円柱の林立・最下部
・階段手前の明るい箇所=採光吹抜け空間
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年


そのほか、1980年代の発掘で明らかになったパライカストロの「最北区域・建物5」の内部では、東方から輸入されたカバの牙材の集合体に金表装を施した青年像クーロス Kouros》が出土したことから、「花ほとばしる新宮殿時代」、紀元前1500年~前1450年に属する「神殿」が存在した、と考えられている(後述)。

なお、紀元前1500年頃、エーゲ海テラ島 Thera、現在のサントリーニ島 Santorini の大爆発による津波の襲来を示す軽石などわずかな痕跡が、パライカストロ市街地の一部や海岸沿いの地層から確認されている。
ただ、その津波がテラ島~南南東160km、クレタ島・最東部に位置するパライカストロのすべての建造物を破壊した証拠は見つかっていない。パライカストロの町は、テラ島の大噴火の50年後、紀元前1450年頃、ギリシア本土ミケーネ人の「クレタ島侵攻」の焼き討ちにより尽く破壊された事実が分かっている。

エーゲ海・サントリーニ島の断崖/©legend ej
サントリーニ島・3,500年前の大噴火跡
・噴火湾~200mの断崖・カルデラ内側
・5☆Hotel Volcano Viewなどホテル群
エーゲ海/1996年

サントリーニ島・アクロティーリ遺跡
火山爆発の現地テラ島、現在のサントリーニ島の中心地フィラ~南南西8kmの南海岸に残るアクロティーリ遺跡 Akrotiri では、最も新しい地層からの発掘では、フレスコ画を除き、紀元前1550年~前1500年に属する陶器類だけが発見されている。
要するに発見された陶器は火山噴火の直前の陶器であり、それはテラ島の「最後の文化」を意味していると同時に、大噴火の時期が紀元前1500年頃であったことを示している。

キクラデス文化・サントリーニ島・アクロティーリ遺跡/©legend ej
アクロティーリ遺跡・北方~市街地Δ地区
エーゲ海・サントリーニ島/1982年

アクロティーリ遺跡・フレスコ画「ミノア女性」Fresco Minoan Woman, Akrotiri, Santorini/©legend ej
アクロティーリ遺跡・フレスコ画《ミノアの女性》
・重ね縫いの斬新デザインのスカート姿の女性
・市街地・「ミノア女性の家」・北壁面の描画
紀元前1650年頃/テラ考古学博物館
エーゲ海・サントリーニ島/描画:legend ej

アクロティーリ遺跡・ボクシングの少年フレスコ画 Minoan Fresco, Boxing Young-boys, Akrotiri/©legend ej
アクロティーリ遺跡・住宅室内のフレスコ画
・片手グローブ《ボクシングをする少年達》
・市街地B地区・「家屋1」・南壁面の描画
アテネ国立考古学博物館・登録番号BE1974-26β
エーゲ海・サントリーニ島/描画:legend ej

GPS サントリーニ島・アクロティーリ遺跡: 36°21′06″N 25°24′12″E/標高30m
   ※中心地フィラ~南南西8km・南海岸


パライカストロの経済と繁栄

パライカストロの経済と繁栄の源泉は、平坦で広い農耕地での穀物やオリーブ栽培、ブドウ&ワイン醸造などの農産物の収穫と加工、動物の飼育、石製容器や陶器などの工芸品の生産、エーゲ海での沿岸漁業と国内交易、そしてキプロス島~中東地域やエジプトなど東方との海外交易などで成り立っていた。

クレタ島・最東部・Azokeramos村~聖Ioanis礼拝室~オリーブ耕作地 Olive field, Agios Ioanis Church, Azokeramos, Eastern Crete/©legend ej
最東部の典型的な風景・オリーブ耕作地
・Azokeramos村・聖イオアニス教会堂(標高225m)
・遠方=Adravasti渓谷と岩山地(標高500m級)
クレタ島/1996年

GPS Azokeramos聖イオアニス教会堂: 35°07′54″N 26°14′52″E/標高225m

クレタ島・オリーブ栽培
クレタ島・オリーブ栽培

クレタ島・ワイン用ブドウ栽培
クレタ島・ワイン用ブドウ栽培

発掘では陶器の焼き窯キルンと回転ろくろ(轆轤)、多数の縦糸重りが出土したことから、多くの人口を抱える繁栄のパライカストロでは、陶器生産と機織り仕事は生活分野で相当に重要産業と意識されていたはずで、働く工房職人の数も多数であった、と考えられる。

先史~古代文明 機織りの仕組み Minoan Weaving System/©legend ej
先史~古代文明・機織りの仕組み
描画:legend ej

発掘レポートでは、パライカストロで圧倒的に栽培された穀物は大麦、次に小麦の栽培、そしてエンドウ豆やレンズ豆など豆類も盛んに栽培され、主食用穀物の多様化が進んでいたとされる。
マメ科の植物の根には、根粒菌と呼ばれる共生細菌(バクテリアの一種)が生息する、こぶ(瘤)のような根粒があり、これが大気中の窒素をアンモニアに変換(窒素固定と呼ぶ)、植物の生育に欠かせない窒素を豆に供給する働きをしていることが知られている。
ミノア文明のオリーブ栽培では、少々の荒地でも育つが窒素を必要とするオリーブの樹々の間にマメ科の植物を栽培することで、人々は伝統と経験から「窒素固定」を学び、豆類とオリーブの収穫に相乗効果を得ていた、と研究者は推測している。

パライカストロ遺跡から発掘された動物の骨からは、肉用としてヒツジ(羊)が、毛(ウール)の刈り取りとしてメンヨウ(綿羊)が断トツで飼育され、そのほかでは決して大きな比重ではないが、ヤギや牛の飼育も行われていた事実を示している。
特にヒツジ系の飼育では、羊飼い&約160頭の飼育羊の群れを表現したテラコッタ製のボウル容器の出土例を見るように、パライカストロではヒツジとメンヨウは非常に重要な生活&経済資源となっていた。

クレタ島・オリーブ耕作地・ヒツジの群れ/©legend ej
オリーブ耕作地のヒツジの群れ
クレタ島・東部/1982年

ミノア文明・パライカストロ遺跡・ボウル容器・牧童と羊 Minoan Bowl with Sheep and Shepherd, Plaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・ボウル容器
羊飼い&約160頭の飼育羊の群れ
旧宮殿時代・紀元前1800年頃/直径20cm
イラクリオン考古学博物館・登録番号2908
クレタ島・最東部/1982年



ミノア市街地・最西端・「邸宅N」

単独で建つ「邸宅N」

パライカストロ市街地の最も西端に「邸宅 House N」と名称された、標高15m、東西14m・南北16mほどの面積を占める複雑構造の建物遺構が残されている。
集合化された市街地の建物群とは異なり、単独で建つこの邸宅はほとんど間違いなく、かつてパライカストロの市街地で目立つ「高級な建物」の一つであったであろう。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・邸宅N・プラン図 Plan of House N, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡・「邸宅N」・アウトラインプラン図
クレタ島・最東部/作図:legend ej

ミノア文明・パライカストロ遺跡 Minoan Town, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡・「邸宅N」の遺構
・遠方=標高85m カストリの岩丘
・右方=濃紺のエーゲ海 Xiona浜
クレタ島・最東部/1982年

ミノア文明・パライカストロ遺跡 Minoan Town, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡・「邸宅N」の遺構
角柱礎の残る支柱部屋&周辺
クレタ島・最東部/1982年

「邸宅N」の遺構

邸宅はその北側を東西に走る石板で部分舗装された通りに面している。この通りは市街地~現在のパライカストロ村方面へ連絡していた。
玄関入口は通りから三段の石段で上がる仕様、先ず真ん中に角柱礎を残す通路状の支柱部屋が配置されていた。その左側ドアー口を入った部屋からは、タコの絵柄の鐙型注ぎ口付き水入れや二基のテラコッタ製のサイカブトムシの模型などが見つかり、さらに東側はピトス容器やブリッジ型注ぎ口付き水入れなどが見つかった三部屋の貯蔵庫群である。

角柱礎の南側左手には二階への階段が残されている事実から、邸宅は「二階建て」の建築であった。上階からの崩落と推測できるサイカブトムシの模型では、同じようなタイプが複数出土した。大型のカブトムシ属はヒツジの糞に産卵することから、ヒツジはカブトムシの繁殖の母であり繁栄の源泉とする考えがあり、研究者は昆虫のカブトムシはミノア人にとって崇拝すべき小動物の意味があった、と想定している。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・カブトムシ模型 Minoan Clay Beetle, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・テラコッタ製のサイカブトムシの模型
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号9796
クレタ島・最東部/1982年

支柱部屋の角柱礎の南側付近から、両刃斧・支持棒を差し込んだ二基の石製の角錐台(保持台)が見つかった。さらに角柱礎の西側に配置された長方形の部屋からは、石製ランプと大理石の容器などが見つかっている。
石製角錐台と石製ランプと容器、これらの出土から、邸宅の北西端を占める長方形の部屋は何か宗教的、あるいは貴重品の保管部屋であったかもしれない。ただ、角錐台や石製ランプが元々長方形の部屋とは関係なく、邸宅が最終崩壊した紀元前1450年頃、二階に存在したであろう主部屋や内部聖所、あるいは宝庫などから崩落した可能性も否定できない。

さらに二階からの崩落と推定できるが、邸宅内からはテラコッタ製の雄牛頭型リュトン杯雄牛角U型オブジェ(装飾品)も見つかっている。
これらの出土品は、一般の住宅・家屋に存在するには相応しくない特別な物品であり、中央政府のクノッソス宮殿を初め、ほかのミノアの宮殿でも発見されているのと同じミノア文明の重要な意味を啓示する標識、あるいは神聖な儀式・祭祀のための極めて重要な品々であった。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・雄牛頭型リュトン杯 Minoan Bull-head Rhyton, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・テラコッタ製の雄牛頭型リュトン杯
イラクリオン考古学博物館・登録番号4582
クレタ島・最東部/描画:legend ej

支柱部屋の南ドアー口は、激しく崩壊が進んだ邸宅の南端を占める広い部屋へ通じている。この部屋の南東隅の空間から保存容器やピトス容器、カップ類など、400個を数えるおびただしい数の色々な種類と器形の陶器が発見されていることから、一部の研究者は広い部屋が邸宅の「食堂」、南西端は「食器保管室」であったと判断している。
また、食堂の南外壁付近からテラコッタ製の女性像が出土している。厚い壁のニッチ(凹み)に塑像を飾っていたのかもしれない。

「両刃斧/ラブリュス lábrys」の記号と石製角錐台
ミノア文明では聖なる動物とされた力のある雄牛やその角を初め、蛇やメスライオン、仮想上の動物グリフィンなど複数の崇拝対象があった。
ミノア時代の人々にとり、あらゆる宗教的な崇拝シンボルの中で、殊更に両刃斧とその記号が「最も神聖」とされた。部屋の壁面や支柱側面にやや斜めに刻まれ、その配置も決して規則正しいと言えないが、両刃斧の記号は極めて重要な神聖な標識であり、神と王からの最も高次な宗教的な警告でもあった。
通常、両刃斧の記号が表示された場所は、特別な身分の人、例えば王や王族、あるいは祭司・神官など、限定された人だけが近づくことを許された非常に特殊な場所、「聖なる場所」を意味していた。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・支柱礼拝室 Pillar Crypt, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部・東支柱礼拝室
角柱側面=聖なる両刃斧の刻み
(現在 立入禁止区域)
クレタ島・中央北部/1982年

また、石製の型を使ってある程度の数が量産された金製の小型両刃斧は、宮殿の宝飾品として大切にされ、時には信仰の山頂聖所や洞窟聖所へ奉納された。
あるいは超大型の青銅製の装飾用両刃斧は、長さ2mを超す長い支持棒に取り付けられ、穴加工の石製の角錐台(保持台)に差し込まれ、宮殿の統治者の居室を初め、地方の邸宅の宝庫や貯蔵庫など、大切な資産や宝飾品を保管する部屋や施設内に立ててあった。

ミノア文明・ニロウ・カーニ遺跡 ・青銅製の両刃斧 Bronze Ax, Nirou Khani/©legend ej
ニロウ・カーニ遺跡・聖所出土・青銅製の大型両刃斧
製作時 青銅製の両刃斧は白銀色~赤銅色を呈する
イラクリオン考古学博物館/最大横幅120cm
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・両刃斧保持用の石製角錐台 Minoan Stone Pyramid-base of Double Ax/©legend ej
ミノア文明・両刃斧保持用の石製の角錐台
・左=クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・石製角錐台
・右=ディクテオン洞窟出土・青銅製両刃斧&角錐台
イラクリオン考古学博物館/描画:legend ej

カストリの岩丘

「邸宅N」の北方700mには、パライカストロ遺跡のランドマーク的存在、日本の「富士山」のような形容の標高85mのカストリの岩丘が構えている。パライカストロ村の周辺~エーゲ海沿岸まではほぼ平坦、オリーブやブドウや野菜栽培の耕作地が広がっているので、エーゲ海へ突き出ているこの岩丘は数km離れた場所からも目視できる。

クレタ島・最東部・パライカストロ村~カストリ岩丘 Palaikastro Village and Kastori Hill, Crete/©legend ej
パライカストロ村~カストリの岩丘
・撮影ポイント~岩丘=2.5km/右遠方=Palako半島
・パライカストロ遺跡=岩丘~右海岸オリーブ耕作地
・村中心部=聖三位一体教会 Church of Holly Trinity
クレタ島・最東部/1996年

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ミノア市街地・「ブロックΔ」

市街地を貫く舗装大通り

「邸宅N」の北側の部分舗装された通りは、東方へ向かうとすぐにその痕跡が確認できなくなるが、かつてこの通りは邸宅から約20m東方付近で市街地の大通りと合流、さらに南北に走る通りとで「交差点」を形成していたと推定できる。
一部に雨水の排水溝が敷設された大通りは、市街地を貫通するように北西~南東方向へ約150mほぼ直線状に延び、その半分は路面から少し盛り上がる石板舗装で施工されていた。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・舗装通り Minoan Main Street, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡・市街地・舗装の大通り
・遠方立樹=邸宅N
・左=ブロックΔ
・右=ブロックM
クレタ島・最東部/1982年

ミノア文明・パライカストロ遺跡・舗装通り Minoan Main Street, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡・市街地・舗装の大通り
・左=ブロックM
・右=ブロックΔ
・遠方=未発掘区域
クレタ島・最東部/1982年


「ブロックΔ」の遺構

パライカストロの市街地で最大級のエリア、西部区域を占める「ブロックΔ」は、直線の大通り側で東西50m、南北40mほどの面積を占め、二棟の比較的大規模な建物 Building を中心に、その周囲に付属するように色々な広さの家屋や貯蔵庫などが建ち並び、区画は非常に複雑な構成を呈している。
最も大きな建物は大小40室を連結、その真ん中付近には石板舗装の正方形の「部屋23」があり、その東側には未舗装床面を囲む四本円柱が立つ正方形の「部屋19」、別称の「パライカストロ・ホール」が配置されていた。
初めて訪ねた1982年に目視できた区域は、大通りに面するわずかな基礎部と奥行き20mほどの遺構のみ、「パライカストロ・ホール」などは埋め戻し状態で確認することが出来なかったが、大通りと「ホール」に挟まれた「部屋18」付近の遺構は確認できた。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・ブロックΔ Minoan Town, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡・ブロックΔ・部屋18
クレタ島・最東部/1982年

大通りには排水溝が敷設されていることから、舗装の「部屋23」は天空に開放された吹抜け構造の「中庭」であった可能性があり、現在、存在を確認できないが、この舗装空間に降った雨は簡易的な排水路で大通りへ流されていたかも知れない。
また、この「部屋23 or 中庭?」~大通りまでは舗装された通路状の「空間21」が延び、その北西側の部屋から石製ランプが見つかっている。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・ブロックΔ Minoan Town, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡・ブロックΔ・舗装の部屋23
天空に開放された吹抜け構造の中庭?
クレタ島・最東部/1982年

ミノア文明・パライカストロ遺跡・石製ランプ Minoan Stone Lamp/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・石製ランプ
イラクリオン考古学博物館
・左=登録番号616・高さ460mm
・右=登録番号133・高さ110mm
クレタ島・最東部/描画:legend ej

「ブロックΔ」の南端を占める7室構成の貯蔵庫群の内部からは、一人のミノア女性がリラを演奏して、三人の女性がダンスを踊る姿を表現した、テラコッタ製の塑像が出土した。さらに貯蔵庫群からはテラコッタ製のハト像や40器以上の容器も見つかっている。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・《ダンスを踊るミノア女性達》Minoan Dancing Women with Lire. Plaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡・ブロックΔ出土・《ダンスを踊るミノア女性達》
中央女性=リラの演奏/周囲女性達=ダンスを踊る
後期ミノア文明LMIIIA2期・紀元前1350年頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号3903
クレタ島・最東部/描画:legend ej

参考情報だが、ミノア女性がダンスを踊る表現では、研究者に《イソパタ・リング Isopata Ring》と固有名詞で呼ばれる金製リングがある。
これはサー・アーサー・エヴァンズ Sir Arthur John Evans の1904年の発掘ミッションにより、クノッソス宮殿遺跡~北方2.8km、「王家の墳墓」とされるイソパタ遺跡の横穴墓・1号墓からもたらされた。
ミノア文明の最高傑作の宝飾品の一つであるこの金製リングは、約55mの非常に長い通路ドロモス(参道)からアクセスする前室を備えた、切石組みで完璧に施工された正方形の埋葬室、その床面の深さ約1.7mのキスト墓から見つかった。

ミノア文明・イソパタ遺跡・「王家の墳墓グループ」・1号墓 Minoan Royal tomb 1, Isopata/©legend ej
イソパタ遺跡・「王家の墳墓グループ」・1号墓&1a号墓
アウトライン・プラン&セクション図
参考情報:サー・アーサー・エヴァンズ発掘レポート
「古代に関連するその他の地域の考古学 v. LXV(1913年)」
Central Archaeological Library, Government of India (IN)
クレタ島・中央北部/作図:legend ej

金製リングの楕円形(オーバル形状)の印面には、天から女神と二匹の蛇が見守る中、スミレの花咲く草原で四人の若い女性達がダンスに興じる情景を描写している。この表現をして研究者から、日常的な情景でありながら神的要素を含むミノア文明の典型的な「エピファニー表現 Epiphany」と言われている。

ミノア文明・イソパタ遺跡・「王家の墳墓グループ」・1号墓・金製「イソパタ・リング」Minoan Gold Isopata-ring, near Knossos Palace/©legend ej
イソパタ遺跡・「王家の墳墓グループ」・1号墓出土・金製リング
《イソパタ・リング》 印面=楕円形・横26mm
エピファニー表現=女神・蛇・踊る女性達・スミレ花
新宮殿時代・紀元前1550年~前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号424
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


大通りに面する「ブロックΔ」の最も東側の小部屋からは、「新宮殿時代」に流行した植物性デザインで頻繁に登場する、連鎖するサフランの絵柄の円錐形リュトン杯も見つかっている。花輪のように花や紋様を連鎖的につなげるモチーフ表現は、「花づな装飾 Festoon(s)・フェスツーン」と呼ばれている。
そのほかの「ブロックΔ」からの顕著な出土品では、タコ絵柄の鐙型注ぎ口付き水入れや両刃斧・支持棒を差し込んだ石製の角錐台がある。「邸宅N」と同様に角錐台の出土は、このブロック区画が非常に重要なスポットであったことを連想させる。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・円錐形リュトン杯「サフラン」Minoan Saffran Design Colonical Rhyton, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡・ブロックΔ出土・円錐型リュトン杯
サフランの花の「花づな装飾」/高さ370mm
新宮殿時代・紀元前1500年~前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号3390
クレタ島・最東部/描画:legend ej


エーゲ海先史 ミノア文明ミケーネ文明
Amazon印刷書籍 ペーパーバック・B5版/大久保栄次 著
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ミノア市街地・「最北区域」
「最北区域」の建物群

パライカストロ市街地の北西部を占める「最北区域」は、ブロック名称ではなく、大規模な「建物番号 Building No.」で区分されている。「最北区域」は市街地のセンターとなる大通りに交差する「海への通り」が走り、建物はこの通りに沿って建てられている。
「海への通り」の西側で最も北方の区画が「建物1」と「建物4」、通りの東側が「建物3」と「建物5」、その東隣が「建物7」、さらに通りから幾分離れた場所に単独の「建物2」が配置されている。「建物2」を除き、何れの建物もほぼ正方形の広い敷地、内部は15室~20室で構成され、階段の存在は建物が「二階建て」であったことを連想させる。


「建物1」

エーゲ海の Xiona 浜まで250m、パライカストロ市街地で最も北方に位置する遺構が「建物1」である。
クレタ島では中期ミノアMMII期の末期・紀元前1650年頃、大きな地震に見舞われ、パライカストロの町のほとんどの住居・家屋は倒壊したが、中期ミノアMMIIIA期・紀元前1600年以降の「新宮殿時代」の宮殿造営に連動して、市街地は新しい建物の「建築ラッシュ」を迎える。
この時期、「最北区域」では崩壊した基礎部を活用するなどして、「海への通り」に沿って「建物2~3~4~5」が相次いで建築され、最北の「建物1」はやや遅れて紀元前1500年~前1450年に建てられた、と考えられている。

建物の東側に「海への通り」が走り、「最北区域」で最も遅い時期に建設されたことから、「建物1」はパライカストロのほかのブロック区画の大規模な建物では例がない、この時代では「近代的な建築」、比較的大型の切り石積みの外周壁面と最新設計に従い方形に整えられた堅固な内部構造に特徴がある。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・最北区域・建物1 Minoan Town, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡・最北区域・「建物1」
・大型切石を使った外壁と正面入口付近
・「海への通り」=エーゲ海まで250m
クレタ島・最東部/1996年

ミノア文明・パライカストロ遺跡・最北区域・建物1 Minoan Town, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡・最北区域・「建物1」
建物の最も北側の整然とした部屋群/標高10m
クレタ島・最東部/1996年

標高10mレベルの「建物1」の発掘では、テラコッタ製の雄牛角U型オブジェ(装飾品)が出土したことから、この建物は「神殿・聖所」など聖なる区画、パライカストロの住民が儀式・祭祀などで公共的に利用できる、宗教的な施設を含んでいた可能性を指摘する研究者も居る。


「神殿&小宮殿」に相当する「建物5」

パライカストロ遺跡で最も重要な区画、それは「最北区域」の「建物5」と断言できるであろう。現在、「建物5」の遺構全体が屋根設備で保護され、一部の研究者は「パライカストロ小宮殿」と呼称している。舗装大通りから Xiona 浜を結ぶ「海への通り」が建物の南~西側に直角に走り、敷地は東西16m・南北最大19mほどの台形を呈している。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・最北部・建物5・プラン図 Plan of Minoan Town Building, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡・最北区域・「建物5」
「神殿&小宮殿」の遺構・アウトラインプラン図
クレタ島・最東部/作図:legend ej

「建物5」の造りと配置の特殊性から、アウトラインプラン図の通り、建物全体の約1/3を占有する西側区画(プラン図 )と、残りの2/3を占める東側区画とに区分できる。当然、二つの区画のそれぞれの玄関入口は別々となる。
南北に長い西側区画の入口は建物の北側、北隣の「建物3」との境界側にあり、東側区画では「海への通り」に面する南正面部に南入口が、そして東隣の「建物7」との境界通路の奥まった箇所に東通用口と石段が残されている。


「建物5・神殿」と青年像《クーロス》

わずか6室で構成された南北に長い西側区画は、出土品と内部構造からして、研究者に「神殿 Shrine」と呼ばれている。
その理由は1987年~90年の発掘ミッションにより、西側区画の北側の入口~「海への通り」付近、さらに入口~舗装部屋を抜け南側の「部屋2」の内部から、四か所の分散状態であったが、ミノア文明の青年像クーロス Kouros》が発見されたことによる。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・建物5 Minoan Town Building, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡・「最北区域・建物5」
部屋5~部屋12~部屋4~部屋2(神殿)
クレタ島・最東部/1996年

ミノア文明・パライカストロ遺跡・青年像「クーロス」 Minoan Male Youth "Kouros", Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡・「建物5」出土・青年像《クーロス》
蛇紋岩・カバ牙材・金表装/高さ54cm
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
シティア考古学博物館・登録番号AΣ-AE8506
クレタ島・最東部/描画:legend ej

頭部~足先まで復元の推定高さ54cm、ややスレンダーな青年像の主な部位仕様は;
  ・頭部・頭髪=緑灰色の蛇紋岩
   ・眼球=水晶(クリスタル)
   ・胴体・腕・脚(足)=カバの牙材の集合体
  ・ブレスレット=金製
  ・腰巻・サンダル・すね当て(レッグガード)=金製
などであった。

当初、1987年の発掘で胴体が見つかり、1988年に頭部、さらに1990年に脚部が発見された。
また、腕と足部には静脈血管の精密浮き彫り表現が確認でき、像自体は緑味の青色(Egyptian Blue)で表装&金の点描装飾の木製の円形盤の上に安置されていた、と推測されている。
青年像は「花ほとばしる新宮殿時代」の最盛期、後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年以降に製作されたとされる。が、発掘では最大15mの範囲、微細片となった無数の部位が数か所分散で見つかっていることから、像は紀元前1450年頃、ミケーネ人の襲撃時に意図的に破壊された、と判断されている。

「神殿」の最も南側の「部屋13」からは、美しい器形の水差しや低脚付きのピトス容器、両刃斧の支持棒を差し込んだ石製の角錐台などが出土している。角錐台の出土からは、この「神殿」が如何に重要な場所であったかを連想させる。


「建物5・東側区画」

「建物5」の東側区画では、「海への通り」と東隣の「建物7」からアクセスできる狭い通路の北奥に三段の石段&東通用口があり、その北側の部屋には井戸が残されている。ただ、井戸自体は中期ミノア文明II期の地震で崩壊した旧建物の遺構で、建物が再建された「新宮殿時代」には使われていなかった、と判断されている。

「海への通り」の南入口と奥まった東通用口からアクセスできる建物中央付近の「部屋5」からは、ブリッジ型注ぎ口付き水入れが見つかった。「部屋5」は南側の舗装部屋への出入りができ、さらに北側に配置された「部屋4」を介して正方形の「部屋6」、そして貯蔵庫群の「部屋7~8~9」へアクセス可能な利便性の高い位置にあった。

1987年の発掘では、複数の大型ピトス容器が見つかった「部屋7」からは、「腕アーム」形容の未加工の象牙材が出土、さらに1988年には「部屋9」から、花か穀物を持つミノア男性と四つ足動物三頭(イヌ or ヒツジの親子?)を刻んだ粘土印影、長さ4cmほどの象牙素材、複数のハンドル付き容器や円錐形クラテールなど陶器が発見された。
これらの出土例からして、「部屋6」を含め東側区画の「部屋7~8~9」は象牙などの加工工房か、貴重品を保管する宝庫や貯蔵庫であったと判断されている。「建物5」全体は紀元前1450年頃のミケーネ人による襲撃の火災で激しく破壊、「神殿」の機能を含め居住の幕を閉じた。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・粘土印影 Minoan Clay Impression, Plaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡・「建物5」出土・粘土印影
ミノア男性&三頭の動物(イヌ or ヒツジ?)
シティア考古学博物館・登録番号MΣ-AE8018
クレタ島・最東部/描画:legend ej

ミノア文明の粘土印影
金製リングや宝石など高級材に色々なモチーフを刻んだシールタイプの印章(日本の印鑑に相当)を使い、粘土の塊に押印されたものが粘土印影と呼ばれている。
ミノア文明では、特に宮殿の宝物品の管理者を初め、地方の高貴な邸宅の領主、あるいは居住地の指導階級の人などが、宝飾品や貴重品を木箱保管する際、外周を綴じた細紐の結び目に付着させた粘土に押印する習慣があった。粘土印影は、現代で言えば、重要・貴重品を保管する管理責任者が持つ金庫の「鍵」と同じ意味を成していた。
粘土に押された印影が発掘で発見されるのは、建物火災や地中水分など偶然の条件で木箱や収納品は焼失・腐食してしまうが、特に火炎に触れた粘土塊が陶器のように硬化したことで、3,500年もの間、崩壊瓦礫の中に残されて来たことを示している。これは先史時代の文字である線文字Aや線文字B粘土板が発掘で発見されるのと同様と言える。
粘土印影が最も多く発見されているのは、宝飾品や貴重品の保管量に比例する文明センターであったクノッソス宮殿遺跡、メッサラ平野のフェストス宮殿遺跡、スクラヴォカンボス遺跡など地方の邸宅遺跡、そしてクノッソス宮殿に関係する王族や尊貴な身分の人達が埋葬されたイソパタ・「王家の墳墓」など墳墓遺跡などからである。

クノッソス宮殿遺跡・中央大階段付近・粘土印影「ヤギの群れ」 Minoan  Seal Impression of sitting Goats, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・中央大階段「踊り場」出土・粘土印影
印影=円形 横24mm・縦23mm・座るヤギ6頭&パピルス
印章=硬質石材・後期ミノア文明LMII期・紀元前1400頃
イラクリオン考古学博物館・登録番号231
参考情報:CMS, Heidelberg U. (DE)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・神殿宝庫・粘土印影 Minoan Seal Impression, "Mother Goddess", Temple Repositories, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・粘土印影《Mother Goddess》
印影=雄牛角の神殿~権威の女神&ライオン~敬意の青年
印章=後期ミノア文明LMII期・紀元前1400年頃/横29mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号141・166・168など
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・イソパタ遺跡・「王家の墳墓」・雄牛の粘土印影  Minoan Bull Clay Seal Impression, Isopata/©legend ej
イソパタ遺跡・「王家の墳墓」出土・粘土印影
印影=寝そべる雄牛・渦巻き線の神殿?
印章=硬質石製・レンズ型・直径18.5mm
Ashmolean Museum, U. Oxford (UK)
登録番号AN1938-1082
※Sir Arthur John Evans 寄贈(1938年)
クレタ島・中央北部/描画:legend ej


「建物7」

「海への通り」の北側、「建物5」の東側の南北に延びる狭い通路を境にして、部屋数の少ない「建物7」が密接するように残されている。崩壊が進んだこの建物からは、クノッソス宮殿遺跡やマーリア宮殿遺跡など、ミノア文明の多くの遺跡から出土しているのと同じタイプ、複数のホラガイ形容の石製のリュトン杯が出土した。

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・ホラガイ型リュトン杯 Minoan Triton Shell Rhyton, Knossos Palace/©legend ej
クノッソス宮殿遺跡・西翼部出土・儀式用リュトン杯
乳白色系の石灰岩製・ホラガイの形容
新宮殿時代・後期ミノア文明LMI期・紀元前1500年頃
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

ミノア文明・マーリア宮殿遺跡・石製リュトン杯 Minoan Stone Rhyton Vase with Lion-head Demons, Malia Palace/©legend ej
マーリア宮殿遺跡出土・ホラガイ形容の石製のリュトン杯
黄色線枠内=二頭のライオン頭の精霊が「盃を交わす」
新宮殿時代の前半・紀元前1600年~前1500年/長さ27cm
アギオス・ニコラオス考古学博物館・登録番号AE11246
クレタ島・中央北部/1996年/描画&色彩:legend ej


さらに、「建物7」ではミノア文明の文字・線文字Aスクリプトが刻まれた保存用ピトス容器のハンドルが見つかっている。陶工の作者名なのかは判断できないが、ピトス・ハンドルの線文字Aの刻みは「新宮殿時代」の前半、紀元前1550年頃に遡ると判断されている。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・ピトス容器・線文字A Minoan Linear A on Pithos handle, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡・「建物7」出土・ピトス容器
ハンドル表面に残る線文字Aスクリプト
クレタ島・最東部/描画:legend ej




ミノア市街地・「ブロックM」

中心となる「建物6」

やや幅が狭い「海への通り」を挟み、「最北区域」の「建物5」と「建物7」の南側のエリアが「ブロックM」である。
「ブロックM」はパライカストロ市街地の中で最も崩壊が激しい区画、その東半分、特に南東部が「建物6」と呼ばれる大規模な建物の遺構である。また「ブロックM」の南側には直線の舗装大通りが走る

「ブロックM」の発掘ミッションは、1994年~96年、カナダ・モントリオール生まれの考古学者 Joseph Alexander (別名=Sandy) MacGillivray の主導で実施された。
私が初めてパライカストロ遺跡を訪ねた1982年の時点では、「建物6」は未発掘に近似する荒れた状態であったが、1990年代の発掘により、南側の大通りに面する正面入口を含め、石板舗装された広い部屋(中庭?)を囲み、整然と設計された大規模な建物であることが解明された。この遺構から石製ランプも見つかっている。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・建物6 Minoan Town Building, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡・「ブロックM」・「建物6」
本格的な発掘前の露出した壁面遺構
クレタ島・最東部/1982年


二か所の井戸

「ブロックM」のほぼ中央付近、「建物6」~西方へわずかな2.5mの場所に一か所、そして「建物6」~北方7mの区画の北東部に一か所、合計二か所にミノア文明の井戸が残されていた。
西側の「井戸576」の開口部はやや楕円形、深さ約8.5mのジグザク縦ラインで掘られていたが、北側の「井戸605」は直径1.2mの円形、深さ約8.5mの垂直ラインで掘られ、やや細かい長方形の石板を使った堅固な石組み構造を呈していたとされる。

「井戸576」からは瓦礫に混じって後期ミノア文明LMIII期・紀元前1400年以降に遡る波紋装飾の円錐形リュトン杯、各種カップ類、水差し容器などが出土した。
一方、「井戸605」の内部は瓦礫と陶器片で埋もれていたが、最深部からは中期ミノア文明MMIIIB期・紀元前1600年~前1550年に遡る、少し歪んだ平行縦線を描く波紋装飾のブリッジ型注ぎ口付き水入れが見つかっている。
竪坑のより浅い堆積層からは、さらに後世の陶器片が確認され、最終的には「井戸605」は「ゴミ捨て場」の機能を果たしていたと断定された。陶器の絵柄と器形からは、後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年頃の円錐形のカップを初め渦巻き線紋様の水差しが、LMII期では各種形状のカップ類、さらにLMIIIA1期・紀元前1375年頃では円錐形や釣鐘型カップ、ボウル容器や水入れ、抽象化のパピルス絵柄の円筒型の容器などが含まれる。


井戸から出土した石製のリュトン杯

「井戸605」の発掘では、陶器の出土のほか、岩礁と海草が揺らぐ海中を泳ぐイルカを浮き彫りした、残存高さ96mmの蛇紋岩製のリュトン杯の断片が見つかった。
宮殿発祥の優美な涙滴型(卵型)のリュトン杯の最下部と推定できるが、そのオリジナルは間違いなく、山頂聖所とヤギの群れを彫刻したザクロス宮殿遺跡から出土した緑泥岩製の《山頂聖所のリュトン杯》に相当する、ミノア文明の最上級の装飾リュトン杯であったであろう。幾らかの研究者はイルカ・リュトン杯は金、または銀表装が施されていたと推測している。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・石製リュトン杯「イルカ」 Minoan Stone Rhyton, Dolphin, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡・「建物6」出土・石製リュトン杯
蛇紋岩製/イルカの浮き彫り表現(全体=推測器形)
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
シティア考古学博物館・登録番号AΣ-AE9113・残存高さ96mm
クレタ島・最東部/描画:legend ej

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・山頂聖所リュトン杯 Peak Sanctuary Rhyton, Zakros Palace/©legend ej
ザクロス宮殿遺跡・西翼部出土・石製リュトン杯
緑泥石製・「山頂聖所リュトン杯」/腹部直径140mm
・荘厳な山頂聖所&雄牛角型オブジェに止まる鳥・飛ぶ鳥
・野生ヤギの群れ(聖所で休む・岩場を飛ぶ・岩場を登る)
後期ミノア文明LMIA期・紀元前1550年~前1500年
イラクリオン考古学博物館・登録番号2764
クレタ島・最東部/描画:legend ej


アオイガイやホラガイと並び、海洋生物イルカはミノアの工芸モチーフとして頻繁に登場するが、最上級の石製の装飾品と考えられるこのイルカのリュトン杯の破断片が、何故?井戸の中から発見されたのか、その理由と経緯の真実は分からない。
「家宝」として「建物6」の高貴な応接間に飾っていたリュトン杯であったが、誰かが広間の掃除をする時、あるいは室内で遊んでいた子供達が触れ、誤って石板舗装の床面に落として割ってしまい、瞬間接着剤など無い時代、惜しみながらも地下水脈が枯れ「ゴミ捨て場」となっていた「井戸605」へ投げ入れたのかもしれない。


ミノア市街地・「ブロックB」

市街地のセンター(中心エリア)

「海への通り」を挟んで、「ブロックM・建物6」の東側が東西50m・南北20mの面積を占める「ブロックB」となる。このブロックは「建物7」に隣接する「北西側の建物」と、舗装大通りに面する大規模な「南側の建物B」とで構成されている。
なお、「ブロックB」の南側の舗装大通り付近が、平面視野的にはパライカストロのほぼ市街地のセンター(中心エリア)となる。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・大通り Minoan Main Street, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡・市街地・大通り
町のセンター(中心エリア)
・左=ブロックΓ/左遠方=ブロックΔ
・右=ブロックB/右遠方=建物6
クレタ島・最東部/1996年

北西側の建物」は16室から成る集合体、発掘では両刃斧用の石製の角錐台が出土した。
一方、大通りに面する「南側の建物B」は20室の大規模な集合建築、建物の東側には東西15m・南北12mほどの広い中庭があり、それを囲むように北側~東側は特徴的な長い外壁である。
また、外壁の南東部に7室構成のわずかな建物遺構が確認できる。この遺構の東側には240m先の Xiona 浜へ通じる狭い路地があった。

「南側の建物B」の敷地のほぼ中央付近には、四本円柱が立つ舗装床面の「パライカストロ・ホール」が配置され、その北側の「キッチン」とされる部屋には階段が残され、「ホール」の東側には「バスルーム」が存在したとされる。

「パライカストロ・ホール」の北西側には内部に仕切り壁がある「部屋22」が配置され、この部屋から余りに有名となった後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年に遡る、海洋性デザイン様式 Marine Design Style を代表するタコの絵柄の鐙型注ぎ口付き水入れが見つかっている。なお、「鐙型」とは馬具の鐙(あぶみ・足掛け)の形容からの連想名称である。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・海洋性デザイン・タコの絵柄水入れ Minoan Marine Style Octopus Jar, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡・「Block B」出土・鐙型注ぎ口付き水入れ
レンズ・フラスコ型/海洋性デザイン・タコの絵柄
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号3383/高さ280mm
クレタ島・最東部/描画:legend ej

「パライカストロ・ホール」の南側の細長い保管室からは多くのランプが出土、その東側の部分舗装の貯蔵庫では数百個の容器類が見つかっている。また、ランプ保管室の南側が大通りに面する建物の正面入口となり、3m以上の広い間口、内部は石板舗装が施されていた。
入口の東側の「部屋13」からホラガイ形容の石製のリュトン杯が、「ホール」の西側の細長い「部屋20」ではテラコッタ製の雄牛角U型オブジェ(装飾品)が出土、加えるに北西側の建物からの両刃斧用の角錐台の出土も含め、「ブロックB」では比較的上位な身分の人が居住したことを推測させ、「建物B」の重要性が連想できる。
また、「ブロックB」ではオリーブ油製造、またはワイン用ブドウ搾りに関連する痕跡が確認されている。

ミノア市街地・「ブロックΓ」

4棟の「大規模な建物」

南北に走る路地を挟んで「ブロックΔ」の東側、大通りを挟んで「ブロックB」の南側が「ブロックΓ」となる。このブロックはほぼ同じ面積を占める四つの大きな建物で構成され、区画全体では東西30m以上・南北40mほどの面積を占有している。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・大通り Minoan Main Street, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡・市街地・大通り
町のセンター(中心エリア)
・左=ブロックB/左遠方=Palako半島
・右=ブロックΓ/右遠方=岩山Petsofa
クレタ島・最東部/1996年

大通りに面する12室構成のより東寄りの建物には、四本円柱が立つ舗装床面の「パライカストロ・ホール」が残され、その西側にも石板舗装の上質な部屋が配置されていた。
「ブロックΓ」の最も南側、10室以上で構成された建物群からはホラガイ形容の石製のリュトン杯が出土、また中庭風の空間では雨水の排水路も確認されている。この南端を占めるやや狭い感じの部屋群の通りに面する複数の部屋は「商店」の役目を果たしていた、とする研究者も居る。

石材と形容はやや異なるがヴァシイペトロン遺跡と同じ目的の、「ブロックΓ」では石材上面の削り凹穴を使ったオリーブ油製造、またはワイン用ブドウ搾りの装置痕跡が確認されている。

ミノア文明・ヴァシイペトロン遺跡・オリーブ油搾りプレス装置 Minoan Olive Press, Vathypetron/©legend ej
ヴァシイペトロン遺跡・オリーブ油搾りプレス装置
クレタ島・中央北部/1982年


ミノア市街地・「ブロックE~O~Π」

出土品・石製の印章・ワイン用ブドウ搾り装置・ラルナックス陶棺

「ブロックΓ」の東側、「ブロックE」付近で大通りはわずかに南方へ向きが変わる。「ブロックE」は非常に複雑に連結し合う35室~40室ほどの部屋群で構成された集合建築である。
横倒しのU字形を呈する狭い路地に囲まれた「ブロックO」に近い、「ブロックE」の最も南側の「部屋36」からは、寝そべるメス牛?と枝葉を刻んだ軟質石材製(ステアタイト?)の印章が見つかった。ちょっと優しい雰囲気のモチーフ表現であるので、メス牛ではなく、家庭で大事に飼育していた馬の姿とオリーブの枝葉を刻んだ可能性もある。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・石製印章 Minoan Stone Seal, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡・「BlockE」出土・石製の印章
軟質石材・円形/寝そべるメス牛?と枝葉/横18mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号4796
クレタ島・最東部/描画:legend ej

そのほか、「ブロックE」のより南側の「部屋29」では、グルーニア町遺跡から出土したタイプと同様なブドウを搾る陶器のワイン用プレス装置が出土した。この区画では「ブロックB&Γ」と並び、パライカストロで飲用されるワインの醸造を担っていたのかも知れない。

ミノア文明・グルーニア遺跡・ワイン・ブドウ搾りプレス装置 Minoan Wine Press, Gournia/©legend ej
グルーニア遺跡出土・ワイン用ブドウ搾りプレス装置
イラクリオン考古学博物館/プレス容器高さ約360mm
クレタ島・東部/描画:legend ej

「ブロックO」を東~南側から取り囲むような敷地の「ブロックΠ」の発掘では、1904年、イギリス考古学チーム(アテネ)により、「部屋18」からラルナックス陶棺が見つかった。市街地からの埋葬用陶棺の出土は、この部屋 or 西側の「部屋16」が陶棺などの生産を行う焼き窯、あるいは完成品の倉庫であったことを連想させる。


ミノア市街地・「ブロックX」

市街地・最東区域

パライカストロ市街地の最も東側、ややカーブする大通りの北側を占めるのが、東西幅70m以上の細長いエリア・「ブロックX」である。この区域は新旧の住居・家屋が複雑に重なり合う70室前後の部屋から成る大集合建築である。
「ブロックX」の最も東寄り、パライカストロ市街地の最東端、最北部の「建物1」と同様に比較的遅い時代に整然と設計された大規模な建物では、多くの部屋が石板舗装されていた。
建物の中央付近に四本円柱が立つ舗装床面の「パライカストロ・ホール」が配置され、その北側の部屋からは、大工作業で使う青銅製の実用両刃斧が見つかり、そのほか、この区画からはかなりの点数の石製の小型容器、テラコッタ製のランプなども出土している。


「Palap区域」

2000年代の最新の発掘では、パライカストロ市街地の最東部の「ブロックX」~南方50m付近、飛び地の市街地となる東西40m・南北30m規模の「Palap区域」が確認されている。


パライカストロ遺跡からの出土品

パライカストロ市街地の建物遺構、市街地~北東100m付近で確認された Gravel Ridge 共同墓地施設、あるいはカストリの岩丘に近い Ta Hellenika 共同墓地施設、そのほか周辺の墳墓群などから、ミノア文明の解明に貢献する色々な出土品がもたらされた。

特にミノア美術工芸分野で重要な作品を挙げるなら;

陶器類:

「花ほとばしる新宮殿時代」の最盛期、後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年、大流行となった海洋性デザイン様式陶器の代表格、涙が垂れるような宮殿発祥の優美な涙滴型(卵型)のリュトン杯がある。
ホラガイをはじめ、岩礁と海草の揺らぐ海中をゆったりと泳ぐアオイガイを表現した、手の込んだ非常に精緻な絵柄である。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・海洋性デザイン様式・リュトン杯 Minoan Marine Style Rhyton/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・リュトン杯
海洋性デザイン様式・宮殿発祥の優美な涙滴型(卵型)
絵柄=ホラガイ・岩礁・海草・浮遊するアオイガイ
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号3396/高さ285mm
クレタ島・最東部/描画:legend ej

同じような海洋性デザイン様式陶器のリュトン杯では、南方11km(道路27km)のザクロス宮殿遺跡、あるいはエーゲ海北海岸のプッシーラ遺跡 Pseira からも美しい形容のリュトン杯が出土している。何れも海洋民族ミノア人の海への愛着とハイレベルで鋭敏な感性を表現している作品である。

ミノア文明・ザクロス宮殿遺跡・プッシーラ遺跡・海洋性デザイン・リュトン杯 Marine Style Rhyton, Zakros Palace and Pseira/©legend ej
ミノア文明・海洋性デザイン様式リュトン杯
頸部=小ハンドル・宮殿発祥の優美な涙滴型(卵型)
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
=ザクロス宮殿遺跡出土・リュトン杯/高さ330mm
絵柄=ウニ・海草・ホラガイ
イラクリオン考古学博物館・登録番号2085
=プッシーラ遺跡出土・リュトン杯/高さ270mm
絵柄=海草&波間に泳ぐイルカの群れ
イラクリオン考古学博物館・登録番号4508
クレタ島・東部~最東部/描画:legend ej

パライカストロ遺跡出土のほかの陶器では、海洋性デザイン様式とほぼ同時期、後期ミノア文明LMIB期に人気を得た植物性デザイン様式 Floral Design Style の抽象化された花咲くパピルスの絵柄、美しい器形の水入れも見つかっている。
また、家庭内の装飾品であったのか、テラコッタ製の四輪荷車の模型も出土している。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・パピルス絵柄水入れ Minoan Floral Style Jar, Papyrus Design, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・美しい器形の水入れ
植物性デザイン様式・パピルスの絵柄
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号3382/高さ245mm
描画:legend ej

ミノア文明・パライカストロ遺跡・テラコッタ製荷車模型 Minoan Clay Cart Model, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・テラコッタ製の荷車の模型
・荷台=直線・点描・鉤紋様
・車輪=四輪・円紋様の装飾
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・最東部/描画:legend ej

カストリの岩丘に近い Ta Hellenika 共同墓地施設の発掘では、テラコッタ製の小舟の模型が出土している。舳先が突き上がり、船尾に突起が付けられている。沿岸漁業に使われた舟を象徴している観があり、この模型の被葬者は漁師であったかもしれない。製作はパライカストロの最初の居住時期、初期ミノア文明EMIIA期・紀元前2600年~前2400年とされる。
 そのほか、共同墓地施設からは雄牛角U型を描いた屋根付きのラルナックス陶棺ホラガイ形容の石製のリュトン杯、石製の水盤なども見つかっている。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・小舟模型 Minoan Terracotta Model of Boat, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・テラコッタ製の小舟の模型
Ta Hellenika 共同墓地施設の副葬品/長さ190mm
初期ミノア文明EMII期・紀元前2400年
イラクリオン考古学博物館・登録番号3911
クレタ島・最東部/描画:legend ej

舟の模型では、クノッソス宮殿遺跡~北方1km、ザフェール・パポウラ遺跡 Zafer Papoura のピット墳墓から出土した象牙製の小舟の模型がある。腐食が進んでいたが、海洋民族ミノア人が乗り熟した標準タイプの小舟を形容、発掘者サー・アーサー・エヴァンズの推測では、原形は全長250mmである。

ミノア文明・ザフェール・パポウラ遺跡・象牙製の舟模型 Minoan Ivory Boat Model, Zafer Papoura/©legend ej
ザフェール・パポウラ遺跡出土・象牙製の小舟の模型
エヴァンズ推測=原形全長250mm
後期ミノア文明LMII期・紀元前1450年~前1400年
イラクリオン考古学博物館・登録番号120
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

クレタ島・小舟の沿岸漁業/©legend ej
透明なエーゲ海・小舟の沿岸漁業
クレタ島・東部シティア近郊



象牙品・石製品:
 
高貴な人以外に所有できなかった、中東地域やエジプトから輸入された象牙材を加工した、子供の立ち姿と座り姿勢、二つの彫刻像も見つかっている。
髪を剃った裸の子供の像は丁寧な仕上げ加工が施され、表面光沢を放している。立ち姿の子供の方が、座り姿勢の子供よりわずかに年上かもしれない。当初、これらの象牙像はエジプト文明からの輸入品と考えられていたが、現在の研究者は、何れもパライカストロの職人の作品と断定している。 製作の年代は、中期ミノア文明MMIIIB期~後期ミノア文明LMIA期・紀元前1600年~前1500年とされる。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・象牙製の子供像 Minoan Ivory Children Figurine, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・象牙製の子供像
・左=「立ち姿」・登録番号143・高さ105mm
・右=「座り姿」・登録番号142・高さ50mm
MMIIIB期~LMIA期・紀元前1600年~前1500年
イラクリオン考古学博物館
クレタ島・最東部/描画:legend ej

同じく上位身分の人が身に付けていたと推測できる滑石・ステアタイト製の印章では、フラット系の円筒型、表面はイルカが打出し加工された金表装である。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・金表装&滑石製印章・イルカ Minoan Dolphin Gold plated Steatite Flat-cylinder Seal, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・金表装&石製の印章
・金表装・イルカ打出し加工/滑石・ステアタイト
・フラット系の円筒型/紀元前1600年~前1450年
Ashmolean Museum (UK)・登録番号AN1938-963・縦17.5mm
クレタ島・最東部/描画:legend ej

そのほかの石製品では、イラクリオン生まれの考古学者 Stephanos Xanthoudides により、1899年、考古学新聞の発掘レポート欄で公表された、金製宝飾品を鋳造する石製の(モールド)」がある。
横幅225mm・縦100mm・厚さ20mmの片岩材、ほとんど同じサイズの二個の石製の型は、公表前年の1898年の秋、地元住民が現在のパライカストロ村の北西150m付近の耕作地で発見したとされる。

一つの型の表面には大小二個の聖なる両刃斧、その裏面には両手に両刃斧を持つ、ホールドアップ姿の女神がインタリオ(凹彫り)で刻まれていた。
もう一つの型の表面には車輪のような形容の外径80mmの輝く「太陽」が刻まれ、隣にはやはりホールドアップ姿の花か植物を両手に持った女神、そして台座のある円形の盤に「三日月」が、その裏面には高さ40mmの聖なる雄牛角U型がインタリオで刻まれていた。

二つの型のインタリオ部分には、高温1,064℃以上の溶解金材料を注ぎ入れる「V字形」の湯口が付けられている。
なお、製品となるキャビティ(インタリオ凹彫り空間)に無数の小穴が確認できるが、これは彫刻作業をより容易にするために事前に「予備穴」として加工した名残痕であり、最初から職人が意図した装飾デザインではない、と私は考える。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・金製宝飾品用の石製型(モールド)Minoan Stone Mold for processing Gold Jewelry Goods, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・金製宝飾品用の石製の「型」
片岩製/表面=大小サイズ両刃斧/裏面=両刃斧を持つ女神
後期ミノア文明LMIII期・紀元前1300年~前1250年
イラクリオン考古学博物館・登録番号116/横幅225mm
クレタ島・最東部/描画:legend ej

ミノア文明・パライカストロ遺跡・金製宝飾品の鋳造法 Minoan Stone Mold, Casting Gold Jewelry, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・金製宝飾品用の石製の「型」
金製宝飾品の鋳造法/モールド&溶融金材料の注湯
イラクリオン考古学博物館・登録番号116/横幅225mm
クレタ島・最東部/描画:legend ej

ミノア文明・パライカストロ遺跡・金製宝飾品・両刃斧 Minoan Gold Axes, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・金製の宝飾品
片岩製の「型」から鋳造された完成品(推測)
小両刃斧=幅60mm・大両刃斧=幅120mm
描画:legend ej

ミノア文明・パライカストロ遺跡・金製宝飾品用の石製型(モールド)Minoan Stone Mold for processing Gold Jewelry Goods, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・金製宝飾品用の石製の「型」
片岩製/表面=太陽・女神・月円盤台/裏面=雄牛角U型
後期ミノア文明LMIII期・紀元前1300年~前1250年
イラクリオン考古学博物館・登録番号116/横幅225mm
クレタ島・最東部/描画:legend ej

ミノア文明・パライカストロ遺跡・金製宝飾品・「太陽・女神・月」Minoan Gold Goods, Sun-Goddess-Moon,  Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・金製の宝飾品
片岩製の「型」から鋳造された完成品(推測)
太陽=外径80mm・女神=高さ95mm・月円盤台=高さ57mm
描画:legend ej

特に女神のホールドアップ姿に注目した研究者は、紀元前12世紀、家庭用や奉納用の崇拝像として盛んに作られた、ロングスカート姿の女神塑像に共通したモチーフ表現があると考え、二つの石製の型は後期ミノア文明LMIII期・紀元前1300年~前1250年、パライカストロの「最後の時期」に製作されたとした。

ガジ遺跡出土・《ケシの女神像》Poppy Goddess, Gazi, Crete/©legend ej
ガジ遺跡出土・テラコッタ像
《ケシの女神像》/高さ775mm
イラクリオン考古学博物館・登録番号9305
クレタ島・中央北部/描画:legend ej

幾らかの研究者は、二つ目の型は「太陽」と「月の円盤台」の組み合わせから「天文学」に関係していると提唱している。ただ、完成品の「太陽」の光線部分の外径は約80mmと決して大きくなく、「三日月」は非常に小さいことから、直感的には完成金製品を木板に固定する「装飾用」であったかもしれない。
一方、両刃斧は装飾用や洞窟聖所への奉納用、立ち姿の女神は神官などが所有するなど何か別な用途として同時に鋳造したと考えられる。ただ、すべては明らかに金製品の鋳造を前提としていることから、庶民が所有する単純な装飾品ではなかったはずである。


ミノア文明・金製宝飾品の製作・石製の「型」
金製ネックレース用ビーズなど宝飾品の製作に使われた石製の「型」では、エヴァンズはクノッソス宮殿遺跡・金属工房区画で発見した「型」を1910年、オクスフォード大学・アシュモレアン博物館 Ashmolean Museum, U. Oxford (UK) へ寄贈している。この型にもキャビティ(製品となるインタリオ凹彫り空間)は、1,064℃以上の溶解金材料を注ぎ込む湯口が加工されている。

ミノア文明・金製ネックレース・モチーフ例 Minoan Motif of Gold Necklace/©legend ej
ミノア文明・金製ネックレース・モチーフ例
上=パピルス花/中=ツタ葉/下=アオイガイ
石製型(モールド)を使い均一的に量産された
描画:legend ej

ミノア文明・クノッソス宮殿遺跡・金製宝飾品の石製「型」 Stone Mold for making Gold Jewelry, Knossos Palace/Ashmolean Museum
クノッソス宮殿遺跡・東翼部出土・石製の「型」
・表面=パピルス・ユリの花・貝の「8の字」など
・裏面=女神・ユリの花など/滑石製・横110mm
Ashmolean Museum, U. Oxford (UK)
登録番号AN1910-522
※Sir Arthur John Evans 寄贈(1910年)


パライカストロ市街地~北東100m付近で確認された Gravel Ridge 共同墓地施設からは、宝石の緑色系ジャスパー(緑碧玉)製の四面プリズム型の印章ホラガイ形容の石製のリュトン杯などが出土した。
プリズム型の印面には、ミノア文明の「線文字A」よりやや早い時期にクレタ島で使われ始めた「ヨーロッパで最初の文字」とされる《アルカネス・文字体系》の絵文字が刻まれていた。この小さな印章の製作は、中期ミノア文明MMII期・紀元前1800年~前1600年とされ、人の腕や眼、皮などを切るブレード(握り斧)、植物や渦巻き線などが表現されている。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・石製印章・絵文字 Minoan Hieroglyph Stone Seal, Plaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・《アルカネス・文字体系》の石製の印章
グリーンジャスパー製・プリズム型(四面)
中期ミノア文明MMII期・紀元前1800年~前1600年
人の腕・眼・握り斧など/横&縦幅4.5mm・長さ17mm
Ashumolean Museum (UK) 登録番号 AN1898-1908.AE1774
クレタ島・最東部/描画:legend ej



出土のピンポイントは不明だが、パライカストロ遺跡から黒緑色系の石材、滑石・ステアタイト or 蛇紋岩を使った石製のリュトン杯の断片が見つかっている。
1982年、私がイラクリオン考古学博物館で目視した測定データでは横幅6cmほど、決して大きな残留片ではないが、太く力強い前脚を延ばした野生のイノシシが、波打つような大地を疾走する半身が浮き彫り表現されている。頸部には点描の装飾が認められるが、残念ながらイノシシの頭部の殆どと胴体~後脚部分は欠損している。

上述した市街地・「ブロックM・建物6」の北側の「井戸605」の堆積物に混じって出土したイルカの浮き彫り表現の石製のリュトン杯と同様に、時代的にはこのオリジナルのリュトン杯は「花ほとばしる新宮殿時代」の最盛期、紀元前1500年~前1450年、相当上質な石製装飾品であったであろう。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・石製リュトン杯・イノシシ浮き彫り Minoan Stone Rhyton, Dashing Wild Boar, Palaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・石製のリュトン杯
浮彫表現=大地を疾走する野生のイノシシ(断片)
後期ミノア文明LMIB期・紀元前1500年~前1450年
イラクリオン考古学博物館・登録番号993/横幅約6cm
クレタ島・最東部/描画:legend ej


ラルナックス陶棺:

現在のパライカストロ村~東方1kmの Agkathias 地区との中間付近、Karogero川の南岸の墳墓からは、切妻型の屋根付きのラルナックス陶棺が出土した。
「宮殿時代」の後、後期ミノア文明LMIIIA2期・紀元前1375年~前1300年頃の埋葬に使われたこの陶棺では、被葬者を称え、死後の世界を象徴しているのか、幾何学紋様と多層波紋で縁取りされた屋根には、太陽または大きな星が輝いている。

渦巻き線や幾何学紋様で縁取りされた陶棺の正面・左半分では、多層波紋の岩山から花を咲かせた二本のユリと、先端に両刃斧を付けた雄牛角U型を形容したような二股槍が立っている。一方、右半分のスペースでは、二基の雄牛角U型の下に羽根を大きく広げた蛇の尾を持つ聖なるグリフィン、輝く太陽か大きな星が描かれ、パピルスも咲いている。

なお、上述の Ta Hellenika 共同墓地施設では、雄牛角U型が描画された屋根付きのラルナックス陶棺、また市街地・「ブロックΠ」でも焼成完了品だったのか、ラルナックス陶棺が出土した。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・ラルナックス陶棺 Griffin of Minoan Larnax, Plaikastro/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・ラルナックス陶棺
後期ミノア文明LMIIIA2期・紀元前1375年~前1300年
陶棺の正面(右半分)=グリフィンの絵柄
イラクリオン考古学博物館・登録番号1619
 クレタ島・最東部/1982年

ラルナックス陶棺に描かれた聖なるグリフィンは、メッサラ平野のアギア・トリアダ遺跡 Agia Triada の円形墳墓から出土した、後期ミノア文明LMIIIA2期に属する、石棺側面の女神の乗る二輪走行車を引くグリフィンと同じような「羽根を広げた姿」である。

ミノア文明・アギア・トリアダ遺跡・フレスコ画石棺 Minoan Guriffin & Goddess Fresco, Agia Triada/©legend ej
アギア・トリアダ遺跡・円形墳墓B出土・大型石棺
グリフィンが引く女神の二輪走行車のフレスコ画
イラクリオン考古学博物館・登録番号396
クレタ島・メッサラ平野/1994年



パライカストロ遺跡 周辺の遺跡

岩山ペツォファ・山頂聖所

中期ミノア文明MMIB期~MMIIB期・紀元前1900年~前1650年、クノッソスなど文明センターでは「旧宮殿時代」となり、同時に最東部のパライカストロの町も大きく発展・拡大した。この頃、市街地~南南東800m、標高250mの岩山ペツォファPetsofa には山頂聖所が建てられた。

山頂聖所遺跡からの出土品では、同じタイプが複数体見つかった奉納品のテラコッタ製の《ミノア兵士像》がある。兵士像は何れも日本の「フンドシ」に似たベルトを締め、腰に短剣を差している以外は裸である。また、それぞれ手の位置は異なるが、「ガッツ・ポーズ」の堂々とした青年勇者の全身を表現している像もあり、直立姿勢で崇拝か敬意のポーズを決めている像もある。
文明センターの「旧宮殿時代」が始まる紀元前1900年頃、あるいは「旧宮殿時代」の半ば、紀元前1800年頃に遡る山頂聖所への奉納品である。

アルカネスの西側、岩山ユクタスの山頂聖所と並び、ミノア文明の最重要なカルト・スポットであったペツォファ山頂聖所では、標高250mの岩丘の頂上付近、東西19m・南北14mほどの「L字形」のスペースに最大五室を数える部屋があり、《ミノア兵士像》などは「コの字形」の石膏プラスターのベンチのある部屋から見つかったとされる。塑像はイラクリオン考古学博物館のみならず、アギオス・ニコラオス考古学博物館でも展示公開されている。

ミノア文明・パライカストロ遺跡・山頂聖所・「兵士像」 Minoan Soldier Figurine, Palaikastro-Petsofa/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・テラコッタ製の 《ミノア兵士像》
ペツォファ山頂聖所 奉納品/高さ175mm
中期ミノア文明MMIB期・紀元前1900年~前1800年
イラクリオン考古学博物館・登録番号405
クレタ島・最東部/描画:legend ej

ミノア文明・パライカストロ遺跡・山頂聖所・「兵士像」 Minoan Soldier Figurine, Palaikastro-Petsofa/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・テラコッタ製の 《ミノア兵士像》
ペツォファ山頂聖所 奉納品
中期ミノア文明MMIB期・紀元前1900年~前1800年
アギオス・ニコラオス考古学博物館
クレタ島・最東部/1996年

同じく奉納品であるが、山頂聖所からは非常に珍しい雄牛角U型を二基つなげた装飾オブジェが出土した。前面のオブジェ装飾では小さな雄牛角を置いた三分割聖所と動物(ヤギ?)が表現されている。

ミノア文明・ペツォファ山頂聖所・雄牛角型オブジェ Minoan Bull Horn, Petsofa/©legend ej
パライカストロ遺跡出土・テラコッタ製の装飾像
ペツォファ山頂聖所 奉納品/雄牛角U型オブジェ
珍しい雄牛角のダブル形容&聖所&動物の装飾
アギオス・ニコラオス考古学博物館
クレタ島・最東部/1996年/描画:legend ej

パライカストロ遺跡・ペツォファ山頂聖所:35°11′13.50″N 26°16′43″E/標高250m


ヤシの木の群生ヴァイ海岸~イタノス遺跡

クレタ島最東部・ヤシの木が群生するヴァイ海岸 Vai~北方1km、古代ギリシア文明のイタノス遺跡 Itanos がある。イタノスはミノア時代から居住され、最も繁栄したのは紀元前7世紀頃と、その後アレキサンドロス大王の征服で始まるヘレニズム時代とされる。
今日、周囲に民家がないイタノス遺跡の海岸は、リゾートツーリストから「古代ビーチ」の別称が付けれ、ゴミがまったくない透明度の高いキレイな海の一つとして知られている。ずーと昔、1982年の夏、私は全裸でこの古代ビーチで泳いだことがある。

GPS ヴァイ海岸: 35°15′15″N 26°15′54″E/浜辺
GPS イタノス遺跡: 35°15′49″N 26°15′48″E/標高5m

クレタ島・最東部・ヴァイ海岸(ヤシの木の群生) Vai Beach, Crete/©legend ej
ヤシの木の群生するヴァイ海岸(ビーチ)
クレタ島・最東部/1982年

クレタ島・古代文明・イタノス遺跡&ビーチ Ancient Itanos, Crete/©legend ej
古代ギリシア文明・イタノス遺跡&エーゲ海
かつての舟着き場は「古代ビーチ」
クレタ島・最東部/1982年

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